第九十二話 天下の形
京の町が、人で埋まっていた。
道の両側には幾重にも人が並び、家々の軒先からも多くの者が顔を覗かせている。
少しでも高い場所を見つければ、そこにも人がいた。
これほど多くの人間が一つのものを見るために集まっている光景を、景継は久しく見ていなかった。
「すごい人ですね」
馬上から景継が呟く。
隣を進んでいた弥兵衛が周囲を見渡した。
「若様を見るために集まった者もいるのでは?」
「それはないでしょう」
「そうでしょうか」
「皆が見たいのは上様ですよ」
今日は戦ではない。
城を攻めるわけでもない。
敵と対峙するわけでもない。
織田信長が京で行う、大規模な馬揃え。
そのために織田家の諸将が集められていた。
明智光秀。
羽柴秀吉。
柴田勝家。
丹羽長秀。
そして林道景継。
他にも多くの武将が参加している。
景継は前方へ目を向けた。
軍勢が続いている。
旗が風になびく。
鎧を身につけた武者たち。
揃えられた馬。
磨き上げられた武具。
どれも戦場へ向かうためのものではない。
見せるためのものだった。
「見せる戦ですか」
景継が小さく呟いた。
「若様?」
「何でもありません」
弥兵衛にはそう答えたが、景継はこの催しの意味を考えていた。
信長がただ人を喜ばせるためだけに、これほど大規模な催しを開くとは思えない。
見せる相手は京の民だけではない。
公家。
寺社。
商人。
そして各地の大名。
今日ここにいる者が、今日ここで見たものを、それぞれの場所へ持ち帰る。
織田にはこれだけの武将がいる。
これだけの兵がいる。
これだけの力がある。
戦わなくても伝わる。
「なるほど」
景継が小さく笑った。
「どうした?」
声がした。
景継が横を見る。
少し離れたところに光秀がいた。
「先生」
「また何か考えていたな」
「そんなに分かります?」
「長い付き合いだからな」
「嫌ですね」
「何がだ」
「考えていることが顔に出るようになったのかと思いまして」
光秀が笑った。
「安心しろ。私だから分かるだけだ」
「それなら余計に嫌ですよ」
二人は少し笑った。
つい先日。
光秀は景継の最大の秘密へ辿り着いた。
司馬懿仲達。
景継が前の生で名乗っていた名。
それを知っても、光秀の態度は何も変わっていない。
先生は先生だった。
「それで?」
光秀が尋ねる。
「何を考えていた」
景継は前方を見た。
「これは軍勢を並べているのではなく、天下を見せているのかなと」
光秀の目が少し細くなる。
「天下を?」
「はい」
景継は沿道へ目を向けた。
人々が歓声を上げている。
信長の名を呼ぶ声も聞こえる。
「今日ここにいる人たちは、この光景を忘れないでしょう」
「そうだろうな」
「そして家に帰って誰かに話す。商人なら別の国へ行って話すかもしれない。公家なら他の公家へ話す。各地から来た者なら、自分の国へ帰って話す」
景継は続ける。
「織田信長は、これほどの軍勢を従えていると」
光秀が小さく頷いた。
「戦わずして力を見せる、か」
「実際に戦って見せるより安いでしょう?」
「お前はそういうところだけ妙に現実的だな」
「大事なことですよ」
光秀が笑った。
その時。
沿道から一際大きな歓声が上がった。
信長が現れた。
空気が変わる。
景継も自然とそちらを見る。
馬上の信長は、戦場にいる時とは違って見えた。
だが景継には分かる。
見せている。
服装も。
馬も。
振る舞いも。
今日の信長は、自分という存在そのものを京へ見せている。
天下が誰へ近づいているのか。
言葉ではなく。
姿で示していた。
◇◇◇
馬揃えが終わった後。
景継は信長に呼ばれた。
「どうだった」
信長が尋ねる。
「何がです?」
「今日の馬揃えだ」
景継は少し考えた。
「天下というものが、初めて形になって見えた気がしました」
信長の眉がわずかに上がる。
「天下が?」
「はい」
景継は答えた。
「領地は地図で見られます。兵の数も書状で分かる。でも、それだけでは実感しにくい」
今日。
京を埋めた人。
並んだ諸将。
軍勢。
そして、それを見ていた民衆。
「あれを見れば、誰でも分かります」
景継は信長を見る。
「織田がどれほど大きくなったのか」
信長は少し笑った。
「ならば成功だな」
「やはり、それが目的でしたか」
「それだけではないがな」
信長は立ち上がると、部屋に置かれていた地図へ向かった。
景継も後を追う。
信長の指が地図上を動く。
畿内。
北陸。
中国。
東国。
かつて織田家の周囲には敵ばかりだった。
尾張の中ですら、信長の命令がすべて通るわけではなかった。
それが今。
地図の大部分に織田の力が及び始めている。
景継はその変化を近くで見てきた。
「景継」
「はい」
「天下が見えたと言ったな」
「言いました」
信長の指が止まった。
東。
甲斐。
「まだだ」
景継は地図を見る。
そこにいるのは武田。
かつて信玄が率いた強大な勢力。
そして今は、武田勝頼が率いている。
「まだ敵は残っておる」
信長が言った。
景継は頷く。
「そうですね」
信長が景継を見る。
「次は東だ」
◇◇◇
それから。
時代は急速に動いた。
武田家。
かつて、その名を聞くだけで多くの者が警戒した。
武田信玄。
甲斐の虎。
信長でさえ無視できなかった男。
だが信玄はもういない。
後を継いだ勝頼も、決して無能な男ではなかった。
景継自身、長篠で武田軍と戦っている。
あの時の武田は確かに強かった。
だからこそ景継には分かった。
今の武田は、あの時とは違う。
◇◇◇
「また一つ、城が織田方へ」
報告を聞いた景継は地図を見る。
弥兵衛が続けた。
「こちらもです。武田方より離れ、織田へ従う意向を示しております」
景継の眉が寄る。
「早いですね」
「我らの進軍が、ですか?」
「違います」
景継は首を横に振った。
「崩れるのがです」
織田と徳川が武田領へ侵攻している。
もちろん兵力は大きい。
だが、それだけではなかった。
戦う前に降る者。
武田を見限る者。
城を捨てる者。
次々と出ている。
景継は地図上の駒を動かした。
「長篠の時とは全然違う」
「確かに」
弥兵衛も頷く。
あの時は武田の騎馬隊が来る。
それだけで織田方には緊張が走った。
武田の名そのものに力があった。
今は、その武田の名から人が離れている。
「若様」
「何です?」
「武田勝頼は戦うのでしょうか」
景継は少し考えた。
「戦いたいでしょうね」
「ならば」
「でも、戦いたいことと戦えることは別です」
兵が必要だ。
兵糧が必要だ。
城が必要だ。
家臣が必要だ。
何より。
自分についてくる人間が必要になる。
一人の将がどれほど強くても、軍は一人では作れない。
「大きな家は強いですね」
景継が言った。
「ですが」
地図から武田方だった駒を一つ外す。
「大きいからこそ、一度崩れ始めると止めるのも難しい」
◇◇◇
武田勝頼は、次第に追い詰められていった。
頼ろうとした者に背かれ。
逃げる場所を失い。
かつて甲斐から周辺諸国へ威を振るった武田家は、信じられないほどの速さで領国を失っていった。
大規模な決戦は起きなかった。
少なくとも長篠のような、織田と武田の命運を賭けた大決戦にはならなかった。
その必要すら、なくなりつつあった。
「勝頼が退いたそうです」
秀吉から話を聞いた景継は、しばらく何も言わなかった。
「驚かぬのですな」
秀吉が尋ねる。
「驚いていますよ」
「そうは見えませんが」
「先生にもよく言われます」
景継は地図を見る。
「ただ、こうなる可能性は途中から感じていました」
「武田が滅びると?」
「そこまでではありません」
景継は首を横に振る。
「でも、もう一度軍をまとめて大きく戦うのは難しいだろうとは」
秀吉も地図を見る。
「恐ろしいものですな」
「何がです?」
「武田ですよ」
秀吉が言った。
「少し前まで、あれほど恐ろしかった」
「ええ」
「それが今は……」
秀吉は最後まで言わなかった。
景継にも、その意味は分かった。
◇◇◇
やがて知らせが届いた。
武田勝頼。
死。
武田家。
滅亡。
景継は書状を読み終え、静かに机へ置いた。
弥兵衛が近くにいる。
「終わりましたね」
「はい」
「武田が……」
景継は窓の外を見る。
あまりにも早かった。
もちろん、武田が弱り始めたのは今日ではない。
長篠。
その前。
その後。
いくつもの出来事が積み重なっている。
それでも最後だけを見れば、驚くほど早い。
景継は前の生でも似たものを見てきた。
巨大な勢力。
強大な家。
多くの兵を持つ者。
それらが永遠に続くことはない。
「若様?」
弥兵衛が呼ぶ。
景継は我に返った。
「何でもありません」
そう答えてから、もう一度武田のことを考える。
武田は最後の戦に負けたから滅びたのではない。
最後の城が落ちたからでもない。
もっと前から。
少しずつ崩れていた。
人が離れ。
土地を失い。
信用を失い。
そして最後に形までなくなった。
大きな家ほど。
崩れる時には、内側から音がする。
景継は、そのことを改めて覚えておこうと思った。
◇◇◇
武田滅亡の知らせは、すぐに織田家中へ広がった。
喜ぶ者。
驚く者。
次の恩賞を期待する者。
反応は様々だった。
だが誰もが、一つのことを感じ始めていた。
信長の天下が近い。
それまで織田家の前に立ちはだかってきた大きな勢力が、次々と消えている。
浅井。
朝倉。
本願寺。
そして武田。
もちろん、まだすべてが終わったわけではない。
だが以前とは明らかに違う。
残された大敵は、確実に少なくなっていた。
◇◇◇
ある日。
景継は再び信長に呼ばれた。
部屋へ入ると、すでに何人かいる。
秀吉。
官兵衛。
そして信長。
景継は一礼した。
「お呼びでしょうか」
「来たか」
信長は地図の前にいた。
景継が近づく。
以前にも見た天下の地図。
だが、一つ大きく変わっている。
武田を示していたものが消えていた。
信長が一つの駒を手に取る。
「また一つ消えた」
その駒を地図の外へ置く。
景継は何も言わなかった。
「景継」
「はい」
「どう見る」
「何をでしょう?」
「天下だ」
景継は地図全体を見る。
信長の勢力。
味方する者。
従う者。
そして。
まだ従っていない者。
確かに天下は近い。
「京で見た時より、さらに近づいたと思います」
「そうか」
「ですが」
景継の視線が西へ動いた。
信長は、それを見ていた。
「まだいるな」
「はい」
秀吉も官兵衛も、景継の視線の先を見る。
中国地方。
そこには巨大な勢力が残っている。
毛利。
景継にとって知らない相手ではない。
すでに一度、深く関わっている。
国人を揺らそうとし。
情報を流し。
相手の動きを探り。
逆にこちらの目まで探られた。
簡単な相手ではない。
景継は、それをよく理解していた。
信長が尋ねる。
「次はどこだ」
景継は答えた。
「西でしょうね」
「誰だ」
「毛利です」
信長の口元が上がった。
「同じだ」
秀吉が地図へ身を乗り出す。
官兵衛は何も言わず、毛利の勢力圏を見ている。
信長が秀吉へ視線を向けた。
「秀吉」
「はっ」
「中国を進め」
秀吉が頭を下げる。
「承知いたしました」
「毛利を崩せ」
「はっ」
次に信長は官兵衛を見る。
「官兵衛」
「はっ」
「秀吉を支えよ」
「もちろんでございます」
官兵衛も深く頭を下げた。
景継は二人を見る。
当然。
自分にも同じ命令が来ると思った。
以前から毛利と関わってきた。
相手のやり方も、多少は知っている。
ならば自分も西へ。
そう考えていた。
しかし。
信長は何も言わない。
景継は少し待った。
それでも命令はない。
やがて秀吉が尋ねた。
「上様。林道殿は?」
信長は景継を見る。
「景継は行かせぬ」
景継の眉がわずかに上がった。
秀吉も官兵衛も信長を見る。
「私だけ残るのですか?」
景継が尋ねる。
「そうだ」
「毛利とは以前にも関わっています。多少は役に立てると思いますが」
「知っておる」
信長は短く答えた。
「ならば、なぜ?」
信長は景継の問いにはすぐ答えず、地図上の中国地方へ駒を置いた。
「毛利は秀吉に任せる」
秀吉が少し姿勢を正す。
信長はさらに続ける。
「何もかも同じところへ送る必要はない」
景継は黙った。
確かにその通りだ。
毛利が強大な敵であることに違いはない。
しかし、織田家が抱えている問題が毛利だけというわけでもない。
それでも。
自分を残す理由が分からない。
官兵衛が景継を見る。
「林道殿」
「何でしょう?」
「残念ですな」
景継は少し笑った。
「黒田殿は嬉しそうに見えますけど」
「気のせいでしょう」
「本当ですか?」
「ええ。林道殿がおられぬ分、羽柴様に働いていただかなければならなくなりましたので」
秀吉がすぐに振り返った。
「なぜそこで拙者の仕事が増えるのです?」
「総大将ですから」
景継が答える。
「林道殿まで」
秀吉が呆れたように言う。
信長が三人を見た。
「遊びに行かせるのではないぞ」
秀吉と官兵衛がすぐに表情を戻した。
「分かっております」
秀吉が頭を下げる。
官兵衛も続いた。
「必ずや毛利を崩してみせます」
信長は頷いた。
「行け」
「はっ」
二人が部屋を出ていく。
景継も続こうとした。
「景継」
信長に呼び止められた。
景継が足を止める。
秀吉と官兵衛も一瞬振り返ったが、信長は何も言わなかった。
二人はそのまま部屋を出ていった。
襖が閉まる。
部屋には。
信長と景継だけが残った。
景継は信長を見る。
「上様」
「何だ」
「なぜ私を残したんです?」
信長は答えず、地図を見ていた。
景継もその視線を追う。
中国地方。
秀吉と官兵衛は、これからそこへ向かう。
毛利との戦いは。
さらに激しくなるだろう。
だが。
自分は行かない。
信長の指が、ゆっくりと中国地方から離れた。
そして。
地図の中央へ戻ってくる。
景継はその動きを見ていた。
「毛利ではないのですね」
信長が景継を見る。
「何がだ」
「私にやらせたいことです」
信長の口元がわずかに上がった。
「そうだ」
「では、どこです?」
「急くな」
「気になりますよ」
「珍しいな。待つのは得意なのではなかったか」
景継は一瞬黙った。
「先生から何か聞きました?」
「何の話だ」
「いえ」
景継は小さく息を吐いた。
「それで、私は何をすれば?」
信長は景継を見た。
先ほどまでの軍議とは違う。
秀吉にも。
官兵衛にも。
聞かせなかった話。
景継には、それだけは分かった。
「景継」
「はい」
信長は地図から手を離した。
そして。
短く言った。
「お前には、別にやってもらうことがある」
景継の目が細くなる。
秀吉と官兵衛は西へ向かう。
毛利との戦いへ。
その一方で。
景継は信長のもとに残された。
この時。
景継はまだ知らなかった。
自分が中国へ向かわなかったことで。
これまでとは違う場所から。
織田信長の天下を見ることになることを。




