第九十一話 かつての名
「お前は――司馬懿仲達なのか?」
光秀の問いに、景継はすぐには答えなかった。
机の上には、開かれた書物がある。
そこに記されているのは、遥か昔に大陸で生きた一人の男。
司馬懿。
字は仲達。
景継にとって、それは歴史上の人物の名前ではない。
かつて。
自分自身が名乗っていた名前だった。
光秀は急かさなかった。
ただ、景継を見ている。
景継は書物へ視線を落とした。
ここまで辿り着かれた以上、否定する意味はない。
何より、目の前にいる男は、ただ興味本位で自分を調べたわけではない。
先ほどの話を聞いて、それは分かっていた。
景継は小さく息を吐いた。
「……先生には敵いませんね」
光秀の目がわずかに動く。
「それは、どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」
景継は顔を上げた。
そして、もう隠さなかった。
「はい。前の生で、私は司馬懿。字を仲達と名乗っていました」
部屋が静まり返った。
光秀は何も言わない。
驚いているのか。
納得しているのか。
その表情からは分からなかった。
やがて。
「そうか」
それだけだった。
今度は景継の方が意外に思った。
「それだけですか?」
「何がだ?」
「もう少し驚くかと思っていました」
「十分驚いている」
「そうは見えませんけど」
「お前に言われたくない」
光秀は書物へ視線を落とした。
「それに、ここまで調べて全く違っていた方が驚いた」
景継は苦笑する。
「確かにそうですね」
光秀はもう一度、書物に記された司馬懿の名を見る。
「不思議なものだな」
「何がです?」
「この男について調べている間、私は遥か昔に死んだ人物について調べているつもりだった」
光秀が景継を見る。
「まさか本人が目の前に座っているとはな」
「本人と言っていいのかは、私にも分かりません」
「違うのか?」
景継は少し考えた。
「記憶はあります」
戦場の記憶。
仕えた者たち。
家族。
敵。
味方。
恐怖。
怒り。
喜び。
そして。
長い年月を生き抜いた記憶。
そのすべてが残っている。
「でも今の私は、林道景継です」
光秀は何も言わず聞いている。
「司馬懿だった頃の記憶がある。考え方にも影響している。戦で使っているものの多くも、前の生で得た経験から来ています」
景継は自分の手を見る。
司馬懿だった頃とは違う手。
生まれた国も。
家族も。
名前も違う。
「それでも、今を生きているのは林道景継です」
「なるほど」
光秀は小さく頷いた。
「ならば私も、そのつもりでいよう」
景継が顔を上げる。
「そのつもり?」
「私の弟子は司馬懿ではない」
光秀は当たり前のように言った。
「林道景継だ」
景継はしばらく光秀を見ていた。
「先生」
「何だ」
「そういうことを普通に言えるから、たまに困るんですよ」
「なぜだ?」
「返事に困るからです」
光秀が笑った。
「ならば黙っていればいい」
「そうします」
二人の間に、少しだけ笑いが生まれた。
長い間、互いの間に残っていた壁が、一つ消えたような気がした。
◇◇◇
しかし。
光秀には、もう一つだけ聞きたいことがあった。
「景継」
「はい」
「前の生で、お前は何を望んでいた?」
突然の問いだった。
景継は少し考える。
「生き残ることですかね」
「それだけか?」
「最初は」
景継は遠い記憶を辿った。
前の生。
最初から何もかもを求めていたわけではない。
生きる。
家族を守る。
自分を守る。
権力争いの中で潰されない。
そのために考え。
耐え。
戦った。
その結果。
気がつけば大きな力を持つようになっていた。
「人間は、生きている間に望むものが変わります」
景継が言った。
「若い頃に欲しかったものと、年を取ってから欲しかったものは違いました」
「では最後は?」
景継はすぐには答えなかった。
最後。
何を望んでいたのか。
それを一言で説明するのは難しい。
「自分が築いたものを、残したかったのかもしれません」
「天下ではなく?」
景継は首を横に振る。
「私自身が帝になったわけではありません」
「だが、お前の一族はその後、大きな力を持ったのだろう?」
「ええ」
「ならば、十分天下へ近づいた人生ではないのか?」
景継は少し笑った。
「近づいたことと、取ったことは別ですよ」
光秀もそれ以上は追及しなかった。
代わりに。
今度は別の質問をした。
「では、今は?」
「今?」
「二度目の生だ」
光秀は景継をまっすぐ見る。
「林道景継として、お前は何を望んでいる?」
景継は答えようとして。
言葉が出なかった。
光秀は待っている。
景継は自分でも考えてみた。
何を望んでいる。
織田家で出世することか。
領地を増やすことか。
名を残すことか。
天下を取ることか。
違う。
少なくとも、今は違う。
「……分かりません」
景継は正直に答えた。
「分からない?」
「はい」
景継は少し考えてから続けた。
「今は、上様が目指している天下の先を見てみたい。それくらいです」
信長が何を作るのか。
この乱世を終わらせた後。
何をするのか。
景継はそれを見てみたいと思っていた。
「上様が天下を取れば、戦は本当に終わるのか。それとも別の争いが始まるのか」
「それを見るために信長様へ仕える?」
「今のところは」
光秀が少し笑った。
「今のところ、か」
「未来のことまで約束できませんから」
「お前らしいな」
景継は肩をすくめた。
すると光秀が言った。
「ならば、これから見つければいい」
景継が光秀を見る。
「何をです?」
「お前自身が望むものだ」
景継は何も答えなかった。
その言葉だけが、妙に心に残った。
◇◇◇
話が終わり。
景継が立ち上がろうとした時だった。
「景継」
光秀が呼び止めた。
「まだ何か?」
「一つだけ言っておく」
光秀は机の上の書物を閉じた。
「お前が司馬懿だったことを、私から誰かに話すつもりはない」
景継の動きが止まる。
「先生」
「何だ」
「上様は、もう知っています」
今度は光秀の表情が変わった。
「……信長様が?」
「はい。以前、私自身の口からお話ししました」
光秀はしばらく景継を見ていた。
「随分と思い切ったことをしたな」
「先生に言われたくありませんよ。私の前の生をここまで調べた人に」
「それとこれとは別だ」
「そうですか?」
景継が少し笑う。
光秀は呆れたように息を吐いた後、改めて尋ねた。
「信長様は信じられたのか?」
「最初からすべてを信じてくださったかは分かりません。ただ、最後まで話は聞いてくださいました」
「司馬懿という名も?」
「はい。仲達という字も、前の生でどのような人生を送ったのかも、ある程度は」
光秀はそこで黙った。
やがて小さく頷く。
「そうか。ならば信長様に関しては、私が気にする必要はないな」
「そういうことです」
「だが、それ以外の者には話さぬ」
「なぜです?」
光秀は少し呆れたように景継を見る。
「先ほど言っただろう」
「何を?」
「私が知っているのは、司馬懿仲達ではない」
光秀は静かに言った。
「林道景継だ」
景継はしばらく何も言えなかった。
「……ありがとうございます」
「珍しく素直だな」
「取り消しましょうか?」
「やめておけ」
二人は小さく笑った。
長い間、光秀が追い続けていた景継の過去。
その答えは、ようやく出た。
だが、それによって二人の関係が変わることはなかった。
先生と弟子。
今はまだ。
それだけだった。
◇◇◇
それからしばらくして。
織田家を取り巻く状況が大きく動いた。
長い戦いに、終わりが近づいていた。
石山本願寺。
信長と本願寺との争いは、長年にわたって続いている。
何度戦っても終わらない。
織田軍が優勢になっても、本願寺には多くの門徒がいる。
各地に協力者がいる。
そして西には毛利がいる。
海から兵糧を運び込むこともできた。
織田家にとって、石山本願寺はただの寺ではなかった。
巨大な勢力だった。
だが。
状況は変わった。
各地で織田方が勢力を広げ、本願寺側の動ける範囲は少しずつ狭くなっている。
西国でも戦況が変化した。
そして朝廷からの働きかけもあり、ついに講和の話が本格的に動き始めた。
◇◇◇
「終わらせるぞ」
信長は地図上の石山を指した。
景継。
秀吉。
光秀。
丹羽長秀。
そして佐久間信盛。
主だった者たちが集められていた。
景継は信長を見る。
「石山を攻めるのですか?」
「違う」
信長は即答した。
「退かせる」
景継の目が地図へ戻る。
戦って落とすのではない。
相手に退去させる。
「話は進んでおる」
信長が続ける。
「顕如が石山を退けば、これ以上追わぬ」
秀吉が尋ねる。
「向こうは信用いたしますかな」
「向こうも同じことを思っておろう」
信長が笑った。
「だから話が長くなる」
景継は黙って聞いていた。
これまで石山本願寺を巡って、多くの人間が死んだ。
海では兵糧を巡って争い。
陸でも何度も戦った。
毛利まで関わった。
それほどの戦いが、最後は話し合いで終わろうとしている。
景継には、それが少し不思議に感じられた。
◇◇◇
交渉はすぐにまとまったわけではなかった。
本当に退去後の安全は保証されるのか。
本願寺側の者たちはどうなる。
残る者は。
去る者は。
双方に疑いがある。
それでも話は少しずつ進んだ。
景継自身が交渉の中心に立ったわけではない。
今回は見る側だった。
信長がどう戦を終わらせるのか。
それを見ていた。
そして、ついに。
顕如が石山を退去することが決まった。
知らせを聞いた時。
景継はしばらく何も言わなかった。
「どうした?」
近くにいた光秀が尋ねる。
「いえ」
景継は石山の方向を見る。
「長かった戦が終わるんだなと思って」
「そうだな」
「最後は刀ではないんですね」
光秀が景継を見る。
「不満か?」
「まさか」
景継は首を横に振った。
「むしろ、その方がいい」
城を焼く必要もない。
最後まで殺し合う必要もない。
終われるのなら。
終わらせればいい。
後日。
景継が同じことを信長へ言うと、信長は短く答えた。
「終われば同じだ」
景継は思わず笑った。
「上様らしいですね」
「何がだ」
「いえ、何でもありません」
信長が怪訝そうな顔をした。
それでも。
長年続いた戦は、確かに終わりへ向かった。
石山本願寺との戦い。
織田家を長く苦しめてきた敵の一つが、歴史の表舞台から退こうとしていた。
天下が。
また一歩。
信長へ近づいた。
◇◇◇
しかし。
その直後だった。
織田家の中で、誰もが予想していなかったことが起きた。
「佐久間殿が?」
景継は聞き返した。
弥兵衛が頷く。
「はい」
「本当ですか?」
「間違いございません、若様」
景継は手にしていた書状を見る。
そこに書かれている名前。
佐久間信盛。
織田家に長く仕えてきた重臣だった。
景継も何度も顔を合わせている。
軍議にもいた。
戦場にもいた。
その男が、信長から厳しく責められている。
そして。
追放されるという。
「何をしたんです?」
景継が尋ねる。
「謀反ではございません」
「では、敵へ通じた?」
「それも違います」
景継の眉が寄る。
「ならば、なぜ」
弥兵衛も答えにくそうにしていた。
「長年の働きについて、上様が不満を持たれたようです」
「働き……」
景継は書状へ視線を落とす。
裏切ったわけではない。
敵へ情報を流したわけでもない。
戦場から逃げたわけでもない。
それでも。
追放される。
◇◇◇
後に景継は、信長が佐久間信盛へ突きつけた内容の一部を知った。
長年仕えてきた。
大きな兵力も預けられた。
重要な役目も任された。
それに対して、どれほどの働きをした。
もっとできたのではないか。
なぜ自ら動かなかった。
なぜ結果を残さなかった。
信長の不満は一つではなかった。
長い年月をかけて積み重なったものだった。
景継は何も言えなかった。
佐久間信盛ほどの男でも切られる。
昨日まで織田家の重臣だった。
それが今日には、すべてを失う。
戦に負けたわけではない。
謀反を起こしたわけでもない。
ただ。
信長が求めたものに届かなかった。
その結果だった。
「怖い顔をしているな」
後ろから声がした。
景継は振り返る。
光秀だった。
「先生」
「佐久間殿のことか?」
「はい」
光秀が景継の横へ立つ。
遠く。
佐久間信盛が去っていく。
景継はその姿を見ていた。
「長く仕えれば安泰というわけではないんですね」
「上様の下ではな」
「先生は怖くないんですか?」
光秀はすぐには答えなかった。
景継が横を見る。
光秀は佐久間信盛の背中を見ている。
やがて。
「怖くないと言えば、嘘になるな」
景継は少し意外に思った。
「先生でも?」
「私を何だと思っている」
「何を考えているか分からない人」
「お前に言われたくない」
二人は少し笑った。
景継はもう一度、去っていく佐久間信盛を見る。
「自分も例外ではないんでしょうね」
「当然だろう」
光秀が答える。
「私も、お前も」
「随分はっきり言いますね」
「事実だからな」
景継は小さく息を吐いた。
織田信長。
天下へ近づけば近づくほど、求めるものも大きくなっている。
それについていけなければ、どれほど長く仕えた者でも置いていかれる。
景継は、そのことを覚えておこうと思った。
◇◇◇
それから、また時が流れた。
石山本願寺との長い戦いが終わり、織田家の勢力はかつてないほど大きくなっていた。
畿内。
北陸。
中国。
そして東。
各地で、織田の名を無視できる者は少なくなっている。
戦場で勝つだけではない。
天下人とは何か。
それを信長自身が、世に見せようとしていた。
ある日。
景継のもとへ新たな知らせが届いた。
「若様」
弥兵衛が書状を持ってくる。
「上様よりございます」
「また戦ですか?」
景継が受け取りながら尋ねる。
「いえ」
「では?」
弥兵衛が答えた。
「京にて、大規模な馬揃えを行うとのことでございます」
景継の手が止まる。
「馬揃え?」
「織田家の諸将を集めるとのことです」
景継は書状を開いた。
そこには参加する者たちについても記されている。
信長。
光秀。
秀吉。
勝家。
長秀。
そして。
景継。
今の織田家を支える者たちが、京へ集まる。
「戦ではないのですね」
「そのようでございます」
景継は少し考えた。
信長が、ただ見せるためだけに大勢を集めるとは思えない。
何か意味がある。
「若様?」
弥兵衛が尋ねる。
景継は書状を閉じた。
「行きましょう」
「はっ」
「上様が今度は何を見せたいのか、少し興味があります」
景継は立ち上がった。
石山本願寺との戦いは終わった。
長年の重臣が去った。
そして。
織田信長の天下は、誰の目にも見えるところまで近づこうとしている。
京で行われる、大規模な馬揃え。
そこで景継は。
織田家がどれほど巨大なものになったのかを、改めて目にすることになる。




