第九十話 先生の答え
「お前の昔の話だ」
明智光秀のその言葉に、景継はしばらく何も答えなかった。
廊下を吹き抜ける風が、二人の間を通り過ぎる。
三木城から戻ったばかりだった。
信長への報告を終え、ようやく一息つけると思っていたところで、久しぶりに会った先生から告げられた言葉。
それがこれだった。
「随分と突然ですね」
景継が言うと、光秀はわずかに笑った。
「そうでもない。私にとっては、かなり長く考えていたことだ」
「私にとっては突然ですよ」
「ならば場所を変えよう。ここでする話でもない」
光秀が歩き出す。
景継はその背中を見た。
追いかけるか、一瞬だけ迷う。
先生が自分について調べていることは、以前から分かっていた。
景継に前の生の記憶がある。
そこまでは光秀も知っている。
しかし。
その前の生で自分が誰だったのか。
それについて景継は話していない。
光秀も、無理に聞き出そうとはしなかった。
少なくとも。
表向きは。
「景継?」
光秀が振り返った。
「来ないのか?」
「行きますよ」
景継は小さく息を吐き、光秀の後を追った。
◇◇◇
案内されたのは、小さな一室だった。
人払いがされている。
光秀が先に入り、景継も続く。
襖が閉められた。
部屋の中央には机が一つ。
その上に数冊の書物が置かれている。
景継はそれを見た。
「随分と用意がいいですね」
「今日話そうと思っていたからな」
「私が戻ってくる前から?」
「三木城が開いたという知らせは先に届いている」
光秀が座る。
景継も向かいに座った。
「それで?」
「何だ」
「私の昔について話があるのでしょう?」
「相変わらず急ぐな」
「先生にだけは言われたくありません」
光秀が少し笑った。
昔なら。
このような会話をするだけで緊張した。
何を考えているのか分からない。
何を見られているのか分からない。
先生と呼びながらも。
景継は光秀を警戒していた。
今でも警戒がなくなったわけではない。
だが。
以前とは違う。
何度も会い。
何度も話し。
互いに探り合ってきた。
それでも。
光秀が景継へ剣を向けることはなかった。
だから景継も。
完全ではないにせよ。
以前よりは光秀を信用している。
「では、始めようか」
光秀が一冊の書物へ手を置いた。
「以前、お前は私に話したな」
「何をです?」
「自分には、今とは別の生を生きた記憶があると」
景継の表情がわずかに変わった。
「覚えていたんですね」
「忘れると思うか?」
「普通なら信じないでしょう」
「最初は信じていなかった」
光秀はあっさり言った。
景継が苦笑する。
「でしょうね」
「だが、お前を見ているうちに考えが変わった」
光秀は景継を見る。
「幼い頃から、お前は妙だった」
「それは褒めています?」
「どちらでもない」
即答だった。
「子供とは思えぬ考え方をする。戦を知らぬはずなのに、人がどう動くかを考える。城を見れば、攻める場所より先に兵糧を見る。敵将を見れば、兵の数よりその者が何を恐れているのかを考える」
景継は黙って聞いていた。
「それだけなら、異常に頭の切れる子供というだけでも説明できた」
「十分ひどい言い方ですね」
「最後まで聞け」
「はい」
「だが、お前には時々、知識では説明できぬものがあった」
光秀の声から、少しずつ笑みが消えていく。
「経験だ」
景継の目が細くなった。
「人は書物から戦を学べる。兵法も学べる。政も学べる。しかし、実際にその中で生きた者にしか身につかぬものもある」
「例えば?」
「負けた時の振る舞いだ」
景継は何も言わなかった。
「お前は策が外れても、驚くほど早く次へ移る。悔しがらないという意味ではない。悔しがるより先に、何を残せるかを考える」
光秀は続ける。
「それは、一度や二度失敗した者の考え方ではない」
景継は少しだけ視線を落とした。
金ヶ崎。
毛利との探り合い。
自分の考えが外れたことは何度もある。
そのたびに。
次を考えた。
前世でもそうだった。
勝ち続けたわけではない。
失敗もした。
危うい時もあった。
耐えるしかない時も。
逃げるしかない時も。
何度もあった。
「そこで調べ始めた」
光秀が言った。
景継は顔を上げる。
「私の前の生を?」
「そうだ」
「無茶をしますね」
「お前に言われたくない」
「どうやって調べたんです?」
「最初は分からなかった」
光秀は机に置かれた書物を一冊開いた。
「お前は、この国の者だったのか。それすら分からない」
景継は書物を見る。
文字が並んでいる。
古い大陸の歴史について書かれたものだった。
「だから可能性を一つずつ消した」
光秀の指が頁をめくる。
「お前が話す昔のことには、この国の話がほとんど出てこない」
「先生に昔話なんてしました?」
「直接はしていない」
「では?」
「言葉だ」
景継の眉がわずかに動く。
「お前は時々、この国ではあまり使われぬ言い回しをする」
「そんなことまで覚えているんですか」
「お前を調べていると言っただろう」
「先生は本当に嫌な人ですね」
「今さらだな」
光秀は平然としていた。
「そしてもう一つ。お前は大陸の話をした時だけ、妙に理解が早い」
景継は黙る。
「書物で学んだと言われれば、それまでだ。だが、それだけでは説明できぬことがある」
光秀が別の書物を開く。
「だから、大陸の歴史を調べた」
景継は机の上を見る。
一冊ではない。
何冊もある。
どれだけの時間を使ったのか。
「先生」
「何だ」
「いつから調べていたんです?」
「かなり前だ」
「かなり前とは?」
「お前が思っているより前だ」
景継はため息をついた。
「怖いですね」
「お前ほどではない」
「私は先生をそこまで調べていませんよ」
光秀の手が一瞬止まった。
「……本当か?」
景継は答えなかった。
今度は光秀が景継を見る。
「景継」
「何でしょう?」
「本当に調べていないのだろうな?」
「今は私の話でしょう?」
光秀はしばらく景継を見た後、諦めたように息を吐いた。
「やはりお前も嫌な男だ」
「先生に育てられましたから」
「私のせいにするな」
少しだけ。
部屋の空気が緩んだ。
しかし。
光秀はすぐに表情を戻した。
「大陸の歴史を調べるうち、一つ分かった」
景継も笑みを消した。
「何がです?」
「お前が生きていたのは、平穏な時代ではない」
景継は答えない。
「乱世だ」
沈黙。
「それも、おそらく一つの国だけが争っていた程度ではない。多くの勢力が争い、国そのものが大きく揺れた時代」
景継は光秀を見ていた。
かなり近い。
想像していた以上に。
先生は近づいている。
「なぜそう思うんです?」
景継が尋ねた。
「お前の戦い方だ」
「またですか」
「お前は一度の勝利をあまり重く見ない」
景継の目がわずかに動いた。
「戦に勝っても、その後を見る。敵将を倒しても、その後に誰が動くのかを考える。城を取っても、周囲の国人を見る」
光秀は景継から目を逸らさない。
「一つの戦で全てが終わると思っていない」
「この時代でも普通でしょう」
「そうだな」
光秀は頷いた。
「それだけならな」
景継は少し笑った。
「先生は何でも理由にしますね」
「だから時間がかかった」
光秀も認めた。
「一つの特徴だけなら、似た者はいくらでもいる。だから別のものも調べた」
光秀が机の上に一枚の紙を置いた。
そこにはいくつもの項目が書かれていた。
景継は目を通す。
戦。
政治。
権力者との関係。
長期間にわたる争い。
そして。
忍耐。
景継の視線が最後の文字で止まった。
「随分と大雑把ですね」
「最初はな」
光秀が言った。
「そこから人物を減らしていった」
「何人くらいいたんです?」
「最初は数え切れなかった」
「でしょうね」
「それが数十人になった」
景継は黙って聞く。
「数十人が十人ほどになった」
光秀の声が。
少しずつ静かになっていく。
「そして最後に、数人残った」
景継は初めて。
少し緊張していた。
光秀がどこまで辿り着いているのか。
確認したい。
だが。
聞くのが怖い。
そんな奇妙な感覚だった。
「その数人を調べた」
光秀が一冊の書物を手に取る。
かなり古い。
何度も読んだのだろう。
頁の端には小さな印がいくつも付けられている。
「その中に、一人」
光秀が言った。
「妙にお前と重なる男がいた」
景継は何も言わない。
「若い頃から才を知られながら、すぐには表へ出ようとしない」
光秀が頁をめくる。
「強大な権力の中で生き、何人もの主に仕えた」
もう一枚。
「戦場だけではなく、政にも関わった」
さらに一枚。
「何度も危機を経験しながら、生き残った」
景継の顔から。
少しずつ表情が消えていく。
「そして何より」
光秀の指が止まった。
「待った」
景継は。
動かなかった。
「急いで勝とうとしない。勝てぬ時には耐える。敵が強ければ待つ。相手が崩れるまで待つ。そして勝てる時が来れば――」
光秀が景継を見る。
「一気に奪う」
部屋が静かになった。
外から鳥の声が聞こえる。
景継は。
光秀を見たまま何も言わなかった。
「先生」
やがて景継が口を開く。
「一つ、いいですか?」
「何だ」
「それだけで決めたんです?」
光秀は首を横に振った。
「まさか」
景継の目が細くなる。
「まだあるんですか」
「ある」
光秀が別の紙を取り出した。
「お前がこれまで戦場で取った行動を、可能な限り書き出してみた」
景継は思わず光秀を見る。
「そこまでしました?」
「した」
「暇なんですか?」
「忙しい」
「では、なぜ」
「気になったからだ」
光秀は平然と答える。
景継は何も言えなくなった。
「お前がどう勝ったかではない」
光秀が紙を指す。
「何を嫌ったかを見た」
「私が嫌ったもの?」
「そうだ」
景継は紙を見る。
無駄な損害。
不確かな情報。
退路のない戦い。
短期的な勝利のために大きな危険を負うこと。
そして。
自分が完全に勝てない状況での決戦。
「人間は、好むものより嫌うものに過去が出る」
光秀が言った。
景継はその言葉を聞き。
少しだけ驚いた。
「それは先生の考えですか?」
「そうだ」
「覚えておきます」
「今はお前の話だ」
「分かっています」
景継はもう一度紙を見る。
確かに。
並べられてみれば。
前世から続いているものがある。
自分では意識していなかったものまで。
光秀は拾っていた。
「その男も似ていた」
光秀が言う。
「華々しい勝利だけを求めたわけではない。必要なら退き、必要なら耐え、そして最後まで残った」
景継の指が。
わずかに動いた。
最後まで残った。
その言葉だけは。
妙に胸に残った。
「先生」
「何だ」
「その人の名前は?」
景継が尋ねた。
光秀は答えなかった。
代わりに。
書物を景継の方へ向けた。
開かれた頁。
そこに。
一人の男について記されている。
景継は視線を落とした。
一瞬。
呼吸が止まった。
そこに書かれていた名を。
景継は知っている。
知っているどころではない。
かつて。
自分自身が名乗っていた。
名前。
光秀が静かに言った。
「景継」
景継は顔を上げない。
「私は、お前が前の生で誰だったのかを知りたかった」
沈黙。
「最初は、ただの興味だった」
光秀の声だけが続く。
「お前の異常なまでの落ち着きが、どこから来るのか。なぜ幼い頃から、あれほど人を見ていたのか」
景継の目は。
まだ書物の一点を見ている。
「だが調べているうちに、興味だけではなくなった」
景継がゆっくり顔を上げる。
「どういう意味です?」
「お前を理解したくなった」
景継は少し驚いた。
光秀は笑わない。
「今の林道景継だけを見ても、お前という人間の半分しか見えていないのではないかと思った」
「半分ですか」
「前の生を含めて今のお前なのだろう?」
景継はすぐには答えられなかった。
その考え方を。
自分自身でもしたことがなかった。
司馬懿は前世。
林道景継は今。
そう分けて考えてきた。
だが。
本当に分けられるのか。
司馬懿として得た経験を使い。
司馬懿として覚えたことを考え。
その上で林道景継として生きている。
ならば。
どちらも自分なのかもしれない。
「先生は」
景継が尋ねた。
「私が誰だったとしても、気にならないんですか?」
「気になるから調べた」
「そういう意味ではなく」
光秀は分かっていた。
「恐ろしいか、という意味か?」
景継は答えない。
それが答えだった。
光秀は少し考える。
「そうだな」
そして。
「最初にお前から前の生の話を聞いた時の方が、よほど恐ろしかった」
景継が光秀を見る。
「今は?」
「今さらだ」
光秀が笑った。
「お前がどれだけ変わった人間か、もう十分知っている」
「それは褒めています?」
「褒めていない」
「やっぱり」
二人の間に。
少しだけ笑いが生まれた。
しかし。
光秀は再び書物へ視線を落とした。
「まだ確信はない」
景継の笑みが消える。
「これだけ調べても?」
「似ているだけかもしれない」
「そうですね」
「だから最後は、お前に聞く」
景継は光秀を見る。
光秀も景継を見る。
先生と弟子。
その関係になってから。
長い時間が経った。
最初は。
互いに何者なのかも分からなかった。
光秀は景継の秘密を探り。
景継も光秀の正体を探った。
そして今。
先生は。
とうとうここまで来た。
「景継」
光秀が静かに呼ぶ。
「はい」
「違っているなら、そう言ってくれ」
景継は答えない。
光秀の指が。
書物に記された一つの名へ触れた。
そして。
その名を口にする。
「司馬懿」
景継の目が。
わずかに動いた。
光秀は。
その変化を見逃さなかった。
さらに続ける。
「字は――仲達」
その瞬間。
景継から。
完全に表情が消えた。
先生が。
辿り着いた。
遥か昔。
大陸の乱世。
魏に仕え。
幾度も戦い。
幾度も耐え。
最後まで生き残った男。
かつて。
自分が名乗っていた名へ。
光秀は景継から目を逸らさなかった。
「景継」
短い沈黙の後。
光秀は尋ねた。
「お前は――司馬懿仲達なのか?」
景継は。
答えなかった。
ただ。
目の前に座る先生を。
静かに見つめていた。




