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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第九十話 先生の答え


「お前の昔の話だ」


明智光秀のその言葉に、景継はしばらく何も答えなかった。


廊下を吹き抜ける風が、二人の間を通り過ぎる。


三木城から戻ったばかりだった。


信長への報告を終え、ようやく一息つけると思っていたところで、久しぶりに会った先生から告げられた言葉。


それがこれだった。


「随分と突然ですね」


景継が言うと、光秀はわずかに笑った。


「そうでもない。私にとっては、かなり長く考えていたことだ」


「私にとっては突然ですよ」


「ならば場所を変えよう。ここでする話でもない」


光秀が歩き出す。


景継はその背中を見た。


追いかけるか、一瞬だけ迷う。


先生が自分について調べていることは、以前から分かっていた。


景継に前の生の記憶がある。


そこまでは光秀も知っている。


しかし。


その前の生で自分が誰だったのか。


それについて景継は話していない。


光秀も、無理に聞き出そうとはしなかった。


少なくとも。


表向きは。


「景継?」


光秀が振り返った。


「来ないのか?」


「行きますよ」


景継は小さく息を吐き、光秀の後を追った。


◇◇◇


案内されたのは、小さな一室だった。


人払いがされている。


光秀が先に入り、景継も続く。


襖が閉められた。


部屋の中央には机が一つ。


その上に数冊の書物が置かれている。


景継はそれを見た。


「随分と用意がいいですね」


「今日話そうと思っていたからな」


「私が戻ってくる前から?」


「三木城が開いたという知らせは先に届いている」


光秀が座る。


景継も向かいに座った。


「それで?」


「何だ」


「私の昔について話があるのでしょう?」


「相変わらず急ぐな」


「先生にだけは言われたくありません」


光秀が少し笑った。


昔なら。


このような会話をするだけで緊張した。


何を考えているのか分からない。


何を見られているのか分からない。


先生と呼びながらも。


景継は光秀を警戒していた。


今でも警戒がなくなったわけではない。


だが。


以前とは違う。


何度も会い。


何度も話し。


互いに探り合ってきた。


それでも。


光秀が景継へ剣を向けることはなかった。


だから景継も。


完全ではないにせよ。


以前よりは光秀を信用している。


「では、始めようか」


光秀が一冊の書物へ手を置いた。


「以前、お前は私に話したな」


「何をです?」


「自分には、今とは別の生を生きた記憶があると」


景継の表情がわずかに変わった。


「覚えていたんですね」


「忘れると思うか?」


「普通なら信じないでしょう」


「最初は信じていなかった」


光秀はあっさり言った。


景継が苦笑する。


「でしょうね」


「だが、お前を見ているうちに考えが変わった」


光秀は景継を見る。


「幼い頃から、お前は妙だった」


「それは褒めています?」


「どちらでもない」


即答だった。


「子供とは思えぬ考え方をする。戦を知らぬはずなのに、人がどう動くかを考える。城を見れば、攻める場所より先に兵糧を見る。敵将を見れば、兵の数よりその者が何を恐れているのかを考える」


景継は黙って聞いていた。


「それだけなら、異常に頭の切れる子供というだけでも説明できた」


「十分ひどい言い方ですね」


「最後まで聞け」


「はい」


「だが、お前には時々、知識では説明できぬものがあった」


光秀の声から、少しずつ笑みが消えていく。


「経験だ」


景継の目が細くなった。


「人は書物から戦を学べる。兵法も学べる。政も学べる。しかし、実際にその中で生きた者にしか身につかぬものもある」


「例えば?」


「負けた時の振る舞いだ」


景継は何も言わなかった。


「お前は策が外れても、驚くほど早く次へ移る。悔しがらないという意味ではない。悔しがるより先に、何を残せるかを考える」


光秀は続ける。


「それは、一度や二度失敗した者の考え方ではない」


景継は少しだけ視線を落とした。


金ヶ崎。


毛利との探り合い。


自分の考えが外れたことは何度もある。


そのたびに。


次を考えた。


前世でもそうだった。


勝ち続けたわけではない。


失敗もした。


危うい時もあった。


耐えるしかない時も。


逃げるしかない時も。


何度もあった。


「そこで調べ始めた」


光秀が言った。


景継は顔を上げる。


「私の前の生を?」


「そうだ」


「無茶をしますね」


「お前に言われたくない」


「どうやって調べたんです?」


「最初は分からなかった」


光秀は机に置かれた書物を一冊開いた。


「お前は、この国の者だったのか。それすら分からない」


景継は書物を見る。


文字が並んでいる。


古い大陸の歴史について書かれたものだった。


「だから可能性を一つずつ消した」


光秀の指が頁をめくる。


「お前が話す昔のことには、この国の話がほとんど出てこない」


「先生に昔話なんてしました?」


「直接はしていない」


「では?」


「言葉だ」


景継の眉がわずかに動く。


「お前は時々、この国ではあまり使われぬ言い回しをする」


「そんなことまで覚えているんですか」


「お前を調べていると言っただろう」


「先生は本当に嫌な人ですね」


「今さらだな」


光秀は平然としていた。


「そしてもう一つ。お前は大陸の話をした時だけ、妙に理解が早い」


景継は黙る。


「書物で学んだと言われれば、それまでだ。だが、それだけでは説明できぬことがある」


光秀が別の書物を開く。


「だから、大陸の歴史を調べた」


景継は机の上を見る。


一冊ではない。


何冊もある。


どれだけの時間を使ったのか。


「先生」


「何だ」


「いつから調べていたんです?」


「かなり前だ」


「かなり前とは?」


「お前が思っているより前だ」


景継はため息をついた。


「怖いですね」


「お前ほどではない」


「私は先生をそこまで調べていませんよ」


光秀の手が一瞬止まった。


「……本当か?」


景継は答えなかった。


今度は光秀が景継を見る。


「景継」


「何でしょう?」


「本当に調べていないのだろうな?」


「今は私の話でしょう?」


光秀はしばらく景継を見た後、諦めたように息を吐いた。


「やはりお前も嫌な男だ」


「先生に育てられましたから」


「私のせいにするな」


少しだけ。


部屋の空気が緩んだ。


しかし。


光秀はすぐに表情を戻した。


「大陸の歴史を調べるうち、一つ分かった」


景継も笑みを消した。


「何がです?」


「お前が生きていたのは、平穏な時代ではない」


景継は答えない。


「乱世だ」


沈黙。


「それも、おそらく一つの国だけが争っていた程度ではない。多くの勢力が争い、国そのものが大きく揺れた時代」


景継は光秀を見ていた。


かなり近い。


想像していた以上に。


先生は近づいている。


「なぜそう思うんです?」


景継が尋ねた。


「お前の戦い方だ」


「またですか」


「お前は一度の勝利をあまり重く見ない」


景継の目がわずかに動いた。


「戦に勝っても、その後を見る。敵将を倒しても、その後に誰が動くのかを考える。城を取っても、周囲の国人を見る」


光秀は景継から目を逸らさない。


「一つの戦で全てが終わると思っていない」


「この時代でも普通でしょう」


「そうだな」


光秀は頷いた。


「それだけならな」


景継は少し笑った。


「先生は何でも理由にしますね」


「だから時間がかかった」


光秀も認めた。


「一つの特徴だけなら、似た者はいくらでもいる。だから別のものも調べた」


光秀が机の上に一枚の紙を置いた。


そこにはいくつもの項目が書かれていた。


景継は目を通す。


戦。


政治。


権力者との関係。


長期間にわたる争い。


そして。


忍耐。


景継の視線が最後の文字で止まった。


「随分と大雑把ですね」


「最初はな」


光秀が言った。


「そこから人物を減らしていった」


「何人くらいいたんです?」


「最初は数え切れなかった」


「でしょうね」


「それが数十人になった」


景継は黙って聞く。


「数十人が十人ほどになった」


光秀の声が。


少しずつ静かになっていく。


「そして最後に、数人残った」


景継は初めて。


少し緊張していた。


光秀がどこまで辿り着いているのか。


確認したい。


だが。


聞くのが怖い。


そんな奇妙な感覚だった。


「その数人を調べた」


光秀が一冊の書物を手に取る。


かなり古い。


何度も読んだのだろう。


頁の端には小さな印がいくつも付けられている。


「その中に、一人」


光秀が言った。


「妙にお前と重なる男がいた」


景継は何も言わない。


「若い頃から才を知られながら、すぐには表へ出ようとしない」


光秀が頁をめくる。


「強大な権力の中で生き、何人もの主に仕えた」


もう一枚。


「戦場だけではなく、政にも関わった」


さらに一枚。


「何度も危機を経験しながら、生き残った」


景継の顔から。


少しずつ表情が消えていく。


「そして何より」


光秀の指が止まった。


「待った」


景継は。


動かなかった。


「急いで勝とうとしない。勝てぬ時には耐える。敵が強ければ待つ。相手が崩れるまで待つ。そして勝てる時が来れば――」


光秀が景継を見る。


「一気に奪う」


部屋が静かになった。


外から鳥の声が聞こえる。


景継は。


光秀を見たまま何も言わなかった。


「先生」


やがて景継が口を開く。


「一つ、いいですか?」


「何だ」


「それだけで決めたんです?」


光秀は首を横に振った。


「まさか」


景継の目が細くなる。


「まだあるんですか」


「ある」


光秀が別の紙を取り出した。


「お前がこれまで戦場で取った行動を、可能な限り書き出してみた」


景継は思わず光秀を見る。


「そこまでしました?」


「した」


「暇なんですか?」


「忙しい」


「では、なぜ」


「気になったからだ」


光秀は平然と答える。


景継は何も言えなくなった。


「お前がどう勝ったかではない」


光秀が紙を指す。


「何を嫌ったかを見た」


「私が嫌ったもの?」


「そうだ」


景継は紙を見る。


無駄な損害。


不確かな情報。


退路のない戦い。


短期的な勝利のために大きな危険を負うこと。


そして。


自分が完全に勝てない状況での決戦。


「人間は、好むものより嫌うものに過去が出る」


光秀が言った。


景継はその言葉を聞き。


少しだけ驚いた。


「それは先生の考えですか?」


「そうだ」


「覚えておきます」


「今はお前の話だ」


「分かっています」


景継はもう一度紙を見る。


確かに。


並べられてみれば。


前世から続いているものがある。


自分では意識していなかったものまで。


光秀は拾っていた。


「その男も似ていた」


光秀が言う。


「華々しい勝利だけを求めたわけではない。必要なら退き、必要なら耐え、そして最後まで残った」


景継の指が。


わずかに動いた。


最後まで残った。


その言葉だけは。


妙に胸に残った。


「先生」


「何だ」


「その人の名前は?」


景継が尋ねた。


光秀は答えなかった。


代わりに。


書物を景継の方へ向けた。


開かれた頁。


そこに。


一人の男について記されている。


景継は視線を落とした。


一瞬。


呼吸が止まった。


そこに書かれていた名を。


景継は知っている。


知っているどころではない。


かつて。


自分自身が名乗っていた。


名前。


光秀が静かに言った。


「景継」


景継は顔を上げない。


「私は、お前が前の生で誰だったのかを知りたかった」


沈黙。


「最初は、ただの興味だった」


光秀の声だけが続く。


「お前の異常なまでの落ち着きが、どこから来るのか。なぜ幼い頃から、あれほど人を見ていたのか」


景継の目は。


まだ書物の一点を見ている。


「だが調べているうちに、興味だけではなくなった」


景継がゆっくり顔を上げる。


「どういう意味です?」


「お前を理解したくなった」


景継は少し驚いた。


光秀は笑わない。


「今の林道景継だけを見ても、お前という人間の半分しか見えていないのではないかと思った」


「半分ですか」


「前の生を含めて今のお前なのだろう?」


景継はすぐには答えられなかった。


その考え方を。


自分自身でもしたことがなかった。


司馬懿は前世。


林道景継は今。


そう分けて考えてきた。


だが。


本当に分けられるのか。


司馬懿として得た経験を使い。


司馬懿として覚えたことを考え。


その上で林道景継として生きている。


ならば。


どちらも自分なのかもしれない。


「先生は」


景継が尋ねた。


「私が誰だったとしても、気にならないんですか?」


「気になるから調べた」


「そういう意味ではなく」


光秀は分かっていた。


「恐ろしいか、という意味か?」


景継は答えない。


それが答えだった。


光秀は少し考える。


「そうだな」


そして。


「最初にお前から前の生の話を聞いた時の方が、よほど恐ろしかった」


景継が光秀を見る。


「今は?」


「今さらだ」


光秀が笑った。


「お前がどれだけ変わった人間か、もう十分知っている」


「それは褒めています?」


「褒めていない」


「やっぱり」


二人の間に。


少しだけ笑いが生まれた。


しかし。


光秀は再び書物へ視線を落とした。


「まだ確信はない」


景継の笑みが消える。


「これだけ調べても?」


「似ているだけかもしれない」


「そうですね」


「だから最後は、お前に聞く」


景継は光秀を見る。


光秀も景継を見る。


先生と弟子。


その関係になってから。


長い時間が経った。


最初は。


互いに何者なのかも分からなかった。


光秀は景継の秘密を探り。


景継も光秀の正体を探った。


そして今。


先生は。


とうとうここまで来た。


「景継」


光秀が静かに呼ぶ。


「はい」


「違っているなら、そう言ってくれ」


景継は答えない。


光秀の指が。


書物に記された一つの名へ触れた。


そして。


その名を口にする。


「司馬懿」


景継の目が。


わずかに動いた。


光秀は。


その変化を見逃さなかった。


さらに続ける。


「字は――仲達」


その瞬間。


景継から。


完全に表情が消えた。


先生が。


辿り着いた。


遥か昔。


大陸の乱世。


魏に仕え。


幾度も戦い。


幾度も耐え。


最後まで生き残った男。


かつて。


自分が名乗っていた名へ。


光秀は景継から目を逸らさなかった。


「景継」


短い沈黙の後。


光秀は尋ねた。


「お前は――司馬懿仲達なのか?」


景継は。


答えなかった。


ただ。


目の前に座る先生を。


静かに見つめていた。

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