第九話 童の見る戦
林道家が出した兵は、三十六。
それが今の林道家に出せる限界だった。
父・景政、兄・景久、柴崎弥兵衛。そして家臣や農民兵たち。その列の中に、九歳の千代丸もいた。
一応は鎧を着せられているが、身体に合っているとは言い難い。刀も短いものを腰に差しているだけで、槍は持たされていなかった。
「兄上」
「なんだ?」
「重いです」
「鎧が?」
「はい」
「慣れろ」
景久は楽しそうだった。
千代丸は、そんな兄を横目で見る。
「兄上は嬉しそうですね」
「初めてだからな!」
「戦に行くのですよ」
「分かってる!」
本当に分かっているのだろうか。
千代丸には理解できない。
戦場など、楽しい場所ではない。
「若様」
横を歩いていた弥兵衛が声をかけてきた。
「今日は勝手に動かれませぬよう」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「信じてよろしいので?」
千代丸は弥兵衛を見る。
「信用がありませんね」
「五歳の頃から若様ご自身が積み上げてこられた結果にございます」
何も言い返せなかった。
◇◇◇
織田信長の軍勢と合流した時、千代丸が最初に見たのは兵の数ではなかった。
人だった。
林道家の三十六人とは比べものにならないほど多くの兵が集まっている。
だが、それでも千代丸が前の生で知っていた軍とは違った。
装備は統一されていない。槍の長さも違えば、鎧の形も違う。足軽もいれば、農民兵らしい者もいる。
旗もばらばらだ。
軍勢というより、いくつもの小さな集団が一つの場所へ集まっているように見える。
それでも、一つだけ林道家とは決定的に違うものがあった。
皆が、一人の男を見ている。
織田信長。
馬上にいる信長は、相変わらず周囲から浮いていた。
派手な装い。
人を威圧するような目。
そこにいるだけで、自然と視線を集める。
(なるほど)
千代丸は思った。
兄・景久にも、人を惹きつける力がある。
だが、兄とは違う。
景久の場合は近づきたくなる。
信長の場合は、近づくのが怖い。
それでも見てしまう。
そういう男だった。
「林道」
信長の声が飛ぶ。
父・景政が前へ出た。
「はっ」
「兵は?」
「三十六にございます」
「少ないな」
「小身にございますゆえ」
「知っておる」
信長の視線が、景政から千代丸へ移った。
「童」
「はい」
「来たか」
「呼ばれましたので」
「嫌そうだな」
「少し」
信長が笑った。
「よい」
その笑顔を見た瞬間、千代丸はまた嫌な予感を覚えた。
この男が楽しそうにしている時は、大抵ろくなことにならない。
そんな確信だけが、なぜかあった。
◇◇◇
戦はまだ始まっていなかった。
信長方と信勝方。
両陣営とも、互いの動きを探っている段階だった。
柴田勝家。
林秀貞。
他にも信勝を支持する者は少なくない。
どこにどれだけの兵が集まっているのか。
誰が最初に動くのか。
誰が最後まで味方なのか。
まだ何も決まってはいない。
千代丸は少し離れた場所で地面を眺めていた。
「何を見ておる」
突然、声がした。
信長だった。
「道です」
「道?」
「はい」
「道など、見れば分かる」
「見ただけでは分からないものもあります」
信長の眉がわずかに動いた。
「言ってみろ」
千代丸は足元から続く道を見る。
「この道は狭いです」
「そうだな」
「雨が降ればぬかるむでしょう」
「それがどうした」
「大勢で進めば、前と後ろが詰まります」
信長が黙った。
千代丸は続ける。
「敵が大勢で来るのなら、こちらが退くふりをしてこの道へ入れる。そうすれば前と後ろを離すことができます」
信長の口元がわずかに上がる。
「なるほど」
「ただし」
「まだあるのか」
「敵も同じことを考えるでしょう」
信長の笑みが消えた。
「なぜそう思う」
「この道は、分かりやすすぎます」
千代丸は周囲を見る。
「こちらが使いたい場所は、敵も使いたい。むしろ我らの方が兵が少ないのであれば、こちらが分断された時の方が危険です」
しばらく信長は黙っていた。
やがて、別の場所を指差す。
「では、どこを守る」
千代丸は周囲を見渡した。
林。
田。
細い道。
そして一本の小さな橋。
「あそこです」
「橋か」
「はい」
「理由は」
「敵が渡りたいからです」
「見れば分かる」
「いいえ」
千代丸は首を横に振った。
「渡りたいのではなく、渡らざるを得ないのです」
信長の目が変わった。
「続けろ」
「他は田です。今は足を取られる。林も細く、大勢の兵を一度に通すには向きません。なら、まとまった人数で進むなら橋を使うしかない」
「なら橋を守ればよい」
「守りません」
信長が笑った。
「ほう?」
千代丸は橋を見る。
「橋を餌にします」
◇◇◇
信長は千代丸の話を最後まで聞いた。
そして近くにいた武将へ命じる。
「橋の守りを薄く見せろ」
武将が驚いた。
「よろしいので?」
「ああ」
「突破されれば危険にございます」
「突破させる」
「は?」
信長は笑った。
「少しだけな」
千代丸は横で黙っていた。
やはり。
この男はこういう時、楽しそうに笑う。
◇◇◇
敵が動いた。
橋へ向かって。
千代丸の読み通りだった。
いや。
思っていた以上に素直だった。
まず先頭の兵が橋を渡った。
信長方はわずかに後退する。
敵は押せると思ったのだろう。
さらに兵が橋を渡ってくる。
まだ来る。
前へ。
前へ。
橋の向こう側には、次々と敵兵が溜まっていった。
(今だ)
千代丸は思った。
だが、声には出さない。
言う必要などない。
信長も分かっている。
合図が飛んだ。
林の中から矢が放たれる。
側面から兵が出る。
橋を渡り終えた敵と、まだ橋の向こうにいる敵。
二つが切り離された。
敵の前方が孤立する。
「いける!」
景久が槍を握り、前へ出ようとした。
千代丸は兄の袖を掴んだ。
「まだです」
「何でだ!」
「逃げ道がありません」
「だから勝てるだろ!」
「違います」
千代丸は敵を見る。
前には信長方。
左右からも攻撃を受けている。
後ろには細い橋。
完全に追い詰められていた。
「逃げ道のない敵は、最後まで戦います」
景久が黙った。
「兄上。右を少しだけ空けてください」
「なぜだ」
「逃げられると思わせます」
景久の顔が変わる。
「逃がすのか?」
「全員ではありません」
千代丸は静かに答えた。
「一人が逃げれば、二人目も逃げたくなります」
景久は数秒、弟を見ていた。
そして走る。
「右を空けろ!」
◇◇◇
最初、敵は気づかなかった。
だが、一人が右へ走った。
止められない。
逃げられる。
そう分かると、もう一人が続いた。
さらに一人。
「退け!」
誰かが叫んだ。
その瞬間。
空気が変わった。
先ほどまで必死に槍を振るっていた者たちが、次々と逃げ始める。
戦線が崩れた。
「追え!」
味方から声が上がる。
だが千代丸はすぐに父を見る。
「父上。追わせすぎないでください」
景政が息子を見る。
「なぜだ」
「敵の本隊がまだ後ろにいます。逃げる兵に夢中になれば、こちらが前へ出すぎます」
景政はすぐに判断した。
「弥兵衛!」
「はっ!」
「深追いを止めろ!」
弥兵衛が駆ける。
「戻れ! 追いすぎるな!」
前へ出かけた味方の一部が止まる。
その直後だった。
遠くで、まとまった敵兵が動いた。
もし追撃していれば。
こちらから、その新手へぶつかっていた。
千代丸は黙ってそれを見る。
信長も、同じものを見ていた。
◇◇◇
戦が一段落した。
大勝と呼べるものではない。
だが、味方の被害は少ない。
何より。
林道家から死者は出なかった。
怪我人が数人。
それだけだった。
景久が戻ってくる。
顔は泥だらけ。
息も荒い。
それでも満面の笑みだった。
「千代丸!」
「兄上」
「見たか!」
「見ていました」
「俺、三人倒したぞ!」
千代丸は一瞬、返す言葉に迷った。
以前の自分なら。
功を立てた。
そう考えただろう。
だが。
母の言葉。
父の言葉。
頭に浮かぶ。
「無事でよかったです」
景久がきょとんとした。
そして笑う。
「ああ!」
弟の頭を乱暴に撫でる。
「兄上」
「なんだ」
「戦場でもやるのですか」
「生きて帰れた祝いだ!」
「髪が乱れます」
「そんなもの気にするな!」
千代丸も少しだけ笑った。
◇◇◇
その様子を、遠くから見ている男がいた。
大柄な身体。
鋭い目。
戦場慣れした立ち姿。
柴田勝家。
信勝方につく武将の一人。
勝家は遠くにいる少年へ視線を向けた。
「あの童は何だ」
近くの者が答える。
「林道家の次男にございます」
「林道?」
「小土豪です」
勝家は眉を寄せる。
先ほど。
逃げ道を作った動き。
追撃を止めた判断。
偶然にしては出来すぎている。
「名は」
「千代丸と」
「千代丸……」
勝家は一度、その名を口にした。
そして少し嫌そうな顔をする。
「童のくせに、戦場を見すぎる目をしておる」
◇◇◇
戦の後。
千代丸は信長に呼ばれた。
「童」
「はい」
「今日、何人殺した」
千代丸は少し黙った。
「私は誰も直接は殺しておりません」
信長が笑う。
「直接は?」
千代丸の目が少し細くなる。
「策を出せば、人は死にます」
信長の笑みが少し薄れた。
「なら、殺していないとは言えません」
「九つの童が、そんなことを言うか」
「母に言われました」
「何を」
千代丸は答える。
「賢いことと、正しいことは同じではないと」
信長は何も言わなかった。
少ししてから、空を見る。
「俺は正しいかどうかなど、どうでもよい」
千代丸が信長を見る。
「勝つか、負けるか。最後に残るか。それでよい」
その言葉に。
千代丸の胸の奥がざわついた。
似ている。
やはり。
あまりにも。
「それでは」
千代丸は聞いた。
「残るためなら、何でもしますか」
「する」
即答だった。
その瞬間。
遠い記憶が浮かぶ。
暗い部屋。
酒の匂い。
低い笑い声。
そして。
誰かの声。
――乱世に、綺麗事などいらぬ。
千代丸の顔から、わずかに血の気が引いた。
「どうした」
「……何でもありません」
信長の目が細くなる。
「また俺を、死人を見るように見たな」
千代丸は答えなかった。
◇◇◇
帰陣した林道家の者たちは、少し浮かれていた。
誰も死ななかった。
それが何より大きかった。
父・景政は千代丸を呼んだ。
「今日、お前の判断で助かった者がいる」
「はい」
「だが、それを誇るな」
千代丸は少し驚いた。
「なぜです?」
「一度うまくいくと、人は自分が正しいと思い始める」
景政は静かに続ける。
「それが一番怖い」
千代丸は黙った。
「次も同じようにいくとは限らん」
「……はい」
「覚えておけ。策は人を救う」
父は息子を見る。
「だが、同じくらい人を殺す」
千代丸は小さく頭を下げた。
「はい」
◇◇◇
夜。
千代丸は一人で、昼間の戦を地面に再現していた。
石を置く。
味方。
敵。
橋。
林。
田。
誰がどこでどう動いた。
頭の中でもう一度、戦をやり直す。
すると兄の声がした。
「まだやってるのか」
「はい」
「今日、勝ったんだろ」
「だからです」
「何で?」
「勝った時の方が、見落としに気づきにくいからです」
景久はよく分からないという顔をしながら、隣へ座った。
「お前、本当に九つか?」
千代丸は少し笑う。
「そう聞いています」
「信長様と同じこと聞いたな」
「そうですね」
少しの沈黙。
景久が、地面に並ぶ石を見る。
「千代丸」
「はい」
「今日、お前のおかげで俺は生きて帰れたかもしれん」
千代丸は兄を見る。
「かもしれないだけです」
「それでも」
景久は笑った。
「ありがとう」
千代丸は何も言えなかった。
策を立てる。
人を動かす。
結果を出す。
そんなことは、遠い昔にも何度もしてきた。
だが。
こうやって。
大切な人から。
ただ「ありがとう」と言われた記憶は。
なぜか、すぐには浮かばなかった。
「兄上」
「なんだ」
「次も生きて帰ってください」
景久が笑う。
「お前が考えろ」
「努力します」
千代丸も少しだけ笑った。
◇◇◇
同じ頃。
清洲。
信長は一人、考えていた。
林道千代丸。
九歳。
今日の戦。
橋。
逃げ道。
深追いを止めた判断。
偶然ではない。
信長の口元が上がる。
「やはり、欲しいな」
林道家は三百五十石ほどの小さな家。
ならば。
家ごと引き上げればいい。
「おい」
「はっ」
家臣がやってくる。
「林道景政へ伝えろ」
「何と」
信長は少し考えた。
「あの童を、時々俺のそばへ寄越せとな」
家臣が一瞬だけ。
またか。
という顔をした。
だが何も言わない。
信長は夜空を見る。
不思議な童だ。
あの目。
何度見ても気に食わない。
なのに。
懐かしい。
そして信長は、自分でも理由が分からないまま確信していた。
あの童は。
いずれ自分のそばにいる。
敵ではなく。
味方として。
その確信がどこから来るのか。
信長自身にも。
まだ分かってはいなかった。




