第九話 童の見る戦
林道家が出した兵は三十六。
それが今の林道家に無理なく出せる、ほとんど限界の数だった。
父・景政、兄・景久、柴崎弥兵衛。そして家臣や農民兵たち。
その列の中に、九歳の千代丸もいた。
一応は鎧を着せられているものの、身体に合っているとは言い難い。歩くたびに重さが肩へ食い込み、腰には短い刀を差しているだけで槍すら持たされていなかった。
「兄上」
「なんだ?」
「重いです」
「鎧が?」
「はい」
「慣れろ」
景久は楽しそうだった。
千代丸はそんな兄を横目で見る。
「兄上は嬉しそうですね」
「初めてだからな!」
「戦に行くのですよ」
「分かってる!」
本当に分かっているのだろうか。
千代丸には理解できなかった。
戦場など楽しい場所ではない。
九歳になってから一度、父に連れられて実際の戦を見た。
槍で腹を突かれた男。
泥の上に流れた血。
死ぬ間際まで動いていた口。
あれを思い出せば、戦場へ向かうことを楽しみにする気持ちなど到底理解できない。
「若様」
横を歩いていた弥兵衛が声をかけてきた。
「今日は勝手に動かれませぬよう」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「信じてよろしいので?」
千代丸は弥兵衛を見る。
「信用がありませんね」
「五歳の頃から若様ご自身が積み上げてこられた結果にございます」
何も言い返せなかった。
織田信長の軍勢と合流した時、千代丸が最初に見たのは兵の数ではなかった。
一人一人の人間だった。
林道家の三十六人とは比べものにならないほど多くの兵が集まっている。
それでも、千代丸が前の生で知っていた軍とはまるで違った。
装備は統一されていない。
槍の長さも違えば鎧の形も違う。武士らしい者もいれば、戦の時だけ駆り出されたと分かる農民兵もいる。
旗も一つではない。
大きな一つの軍というより、いくつもの小さな集団が同じ場所へ集まっているように見えた。
だが、一つだけ林道家とは決定的に違うものがある。
多くの者が、一人の男を意識していた。
織田信長。
馬上にいる信長は、相変わらず周囲から浮いている。
派手な装い。
人を射抜くような目。
そこにいるだけで、自然と視線が集まっていた。
千代丸は少しだけ納得した。
兄の景久にも人を惹きつけるものがある。
だが、種類が違う。
景久には近づきたくなる。
信長には、できれば近づきたくない。
それなのに目を離せない。
そういう男だった。
「林道」
信長の声が飛んだ。
景政が前へ出る。
「はっ」
「兵は?」
「三十六にございます」
「少ないな」
「小身にございますゆえ」
「知っておる」
信長の視線が景政から横へ動き、千代丸のところで止まった。
「童」
「はい」
「来たか」
「呼ばれましたので」
「嫌そうだな」
「少し」
信長が笑った。
「よい」
その笑顔を見た瞬間、千代丸は嫌な予感を覚えた。
なぜか分からないが、この男が楽しそうに笑っている時には、ろくなことが起きない気がする。
まだ本格的な戦は始まっていなかった。
信長方と信勝方。
双方とも兵を動かしながら、互いの出方を探っている。
柴田勝家。
林秀貞。
ほかにも信勝を支持する者は少なくない。
どこにどれだけの兵が集まっているのか。
誰が最初に動くのか。
そして、いざ戦となった時に誰が最後まで味方でいるのか。
分からないことばかりだった。
千代丸は陣の少し外れで地面を眺めていた。
「何を見ておる」
突然声をかけられ、顔を上げる。
信長だった。
「道です」
「道?」
「はい」
「道など見れば分かる」
「見ただけでは分からないものもあります」
信長の眉がわずかに動いた。
「言ってみろ」
千代丸は目の前を通る道へ視線を戻した。
「この道は狭いです」
「そうだな」
「雨が降れば、かなりぬかるむでしょう」
「それがどうした」
「大勢で進めば、前と後ろが伸びます」
信長が黙った。
千代丸は頭の中で兵の動きを思い描く。
以前、弥兵衛に道を見せられた時、自分は一つの道だけを見て策を考えた。
その時に言われた。
敵は、お前が知っている道だけを通るのか。
だから今回は、目の前の道だけではなく、その周囲まで見る。
「敵が大勢で来るなら、こちらが退くふりをしてこの道へ誘い込めば、前と後ろを離せるかもしれません」
信長の口元がわずかに上がる。
「なるほど」
「ただし」
「まだあるのか」
「敵も同じことを考えるでしょう」
信長の笑みが消えた。
「なぜそう思う」
「分かりやすすぎるからです」
千代丸は周囲を見回した。
「こちらが使いたい場所は、敵にとっても使いたい場所です。それに我らの方が兵が少ないのなら、こちらが分断された時の方が困ります」
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて別の場所を指差す。
「ならば、どこを見る」
千代丸もそちらへ目を向けた。
林。
田。
細い道。
その間を流れる小川に、小さな橋が一本架かっている。
「あそこです」
「橋か」
「はい」
「理由は」
「敵が渡らなければならないからです」
「見れば分かる」
「いいえ」
千代丸は首を横に振った。
「渡りたいのではなく、まとまって進むなら渡らざるを得ないのです」
信長の目が変わった。
「続けろ」
「周囲は田です。今の状態なら足を取られます。林も大勢の兵がまとまって進むには向かない。なら、ある程度の人数を崩さず進ませるには橋を使うのが一番早い」
「なら橋を守ればよい」
「私なら、守っているようには見せません」
信長が笑った。
「ほう?」
千代丸は橋を見た。
「渡れると思わせます」
信長の目が橋へ向いた。
信長は千代丸の話を聞いた後、自分でもしばらく地形を見ていた。
やがて近くの武将を呼ぶ。
「橋の守りを薄く見せろ」
武将が驚いた。
「よろしいので?」
「ああ」
「突破されれば危険にございます」
「全部は通さん」
信長は笑った。
「食いついたところで叩く」
千代丸は横で黙っていた。
自分が言ったのは考え方だけだ。
どれほど兵を置き、いつ退き、どこから叩くのか。
実際に軍を動かすのは信長と、その配下の武将たちだった。
それでいい。
むしろ九歳の自分が兵のすべてを動かせる方がおかしい。
やがて敵の一部が動いた。
橋へ向かってくる。
千代丸の読み通りだった。
先頭の兵が橋を渡り始める。
信長方は軽くぶつかった後、少しずつ後ろへ下がった。
敵から見れば、押しているように見えただろう。
さらに兵が橋を渡ってくる。
一人、二人ではない。
後ろから次々と続いてくる。
橋を渡り終えた兵がこちら側へ溜まり始めた。
千代丸は黙ってその様子を見ていた。
まだだ。
もう少し。
そう考えた直後、信長が手を上げた。
合図が飛ぶ。
林に潜んでいた兵から矢が放たれた。
同時に側面から味方の兵が出る。
橋を渡り終えた敵と、まだ向こう岸に残っている敵。
そのつながりが一気に細くなった。
前へ出た敵兵が孤立する。
「いける!」
景久が槍を握り、前へ出ようとした。
千代丸は咄嗟に兄の袖を掴んだ。
「まだです」
「何でだ!」
「逃げ道がありません」
「だから勝てるだろ!」
「違います」
千代丸は追い詰められた敵を見る。
前には信長方。
左右からも攻められている。
後ろへ戻ろうにも橋は狭く、味方が詰まっている。
以前、実際の戦場で見た兵たちの顔を思い出した。
兵は盤上の駒ではない。
怖がる。
逃げる。
そして、逃げられないと分かれば死に物狂いで戦う。
「逃げ道がなければ、死ぬまで戦います」
景久が弟を見る。
「なら、どうする」
「逃げられる場所を作ります」
「逃がすのか?」
「全員ではありません」
千代丸は静かに答えた。
「一人が逃げれば、二人目も逃げたくなります」
景久は数秒、弟を見ていた。
そして前方へ走る。
「右を詰めすぎるな! 少し空けろ!」
最初、敵は気づかなかった。
だが一人が右へ走った。
止められない。
逃げられる。
そう分かると、もう一人が続く。
さらに一人。
「退け!」
誰かが叫んだ。
その声を境に空気が変わった。
先ほどまで必死に槍を振るっていた者たちが、我先にと逃げ始める。
崩れる時は早かった。
一人が背を向ければ、その隣も不安になる。
二人が逃げれば、まだ戦っている者まで自分だけ取り残されると思い始める。
「追え!」
味方から声が上がった。
林道家の兵も前へ出ようとする。
だが千代丸は、敵の後方から目を離さなかった。
「父上」
「なんだ」
「追わせすぎないでください」
景政が息子を見る。
「なぜだ」
「まだ敵の本隊が残っています。逃げる兵に引かれて前へ出すぎれば、今度はこちらが孤立します」
景政はすぐに判断した。
「弥兵衛!」
「はっ!」
「林道の者を止めろ!」
弥兵衛が前へ駆ける。
「戻れ! 深追いするな!」
前へ出かけていた林道家の兵たちが足を止める。
その直後、遠くでまとまった敵兵が動くのが見えた。
追撃を続けていれば、逃げる敵を追ったまま新手へぶつかっていたかもしれない。
千代丸は黙ってそれを見る。
少し離れたところでは、信長も同じ方向を見ていた。
戦は一度収まった。
大勝と呼べるほどのものではない。
戦そのものが終わったわけでもない。
それでも、この小さなぶつかり合いでは信長方が敵を押し返し、味方の被害も少なく済んだ。
何より林道家から死者は出なかった。
怪我人が数人。
それだけだった。
景久が戻ってくる。
顔は泥だらけで、肩を大きく上下させている。
それでも満面の笑みだった。
「千代丸!」
「兄上」
「見たか!」
「見ていました」
「俺、三人倒したぞ!」
千代丸は一瞬、何と返せばいいのか分からなかった。
三人倒した。
それは戦場では功になる。
以前の自分なら、まずそう考えただろう。
だが今は違う言葉が浮かんだ。
「無事でよかったです」
景久がきょとんとする。
やがて大きく笑った。
「ああ!」
そのまま弟の頭を乱暴に撫でる。
「兄上」
「なんだ」
「戦場でもやるのですか」
「生きて帰れた祝いだ!」
「髪が乱れます」
「そんなもの気にするな!」
千代丸も少しだけ笑った。
一方、信勝方でも信長方の動きを見ていた者たちがいた。
その中に柴田勝家もいる。
大柄な身体に、戦場慣れした鋭い目。
勝家が気にしたのは、敵陣の後方にいる一人の小さな影だった。
先ほどから、妙に周囲の武士があの童の言葉を聞いている。
「向こうにいる童は何だ」
近くの者が目を凝らす。
「林道家の者かと」
「林道?」
「知多の小土豪にございます」
勝家は眉を寄せた。
遠目では何を話しているのかまでは分からない。
だが、あの童が何かを告げた直後に林道勢の動きが変わったことには気づいていた。
「名は」
「千代丸と聞いております」
「千代丸……」
勝家は一度その名を口にし、再び遠くの少年へ目を向けた。
「妙な童だ」
一段落した後、千代丸は信長に呼ばれた。
「童」
「はい」
「今日、何人殺した」
千代丸は少し黙った。
「私は誰も直接は殺しておりません」
信長が笑う。
「直接は?」
「はい」
「なら、間接には殺したと思っておるのか」
千代丸の目が少し細くなる。
「策を出せば、その結果として人が死ぬことがあります」
信長の笑みがわずかに薄れた。
「なら、私には関係ないとは言えません」
「九つの童がそんなことを言うか」
「母に言われました」
「何を」
千代丸は答えた。
「賢いことと、正しいことは同じではないと」
信長は何も言わなかった。
少しして空を見上げる。
「俺は、正しいかどうかなどどうでもよい」
千代丸が信長を見る。
「勝つか、負けるか。最後に残るか。それでよい」
その言葉を聞いた瞬間、千代丸の胸の奥がざわついた。
似ている。
やはり、あまりにも似ている。
「それでは」
千代丸は尋ねた。
「残るためなら、何でもしますか」
「する」
迷いのない即答だった。
その瞬間、遠い記憶が蘇る。
薄暗い部屋。
酒の匂い。
低く響く男の笑い声。
乱世に、綺麗事などいらぬ。
千代丸の顔からわずかに血の気が引いた。
「どうした」
「……何でもありません」
信長の目が細くなる。
「また俺を、死人を見るような目で見たな」
千代丸は答えなかった。
陣へ戻った林道家の者たちは、どこか浮き足立っていた。
誰も死ななかった。
それが何より大きかった。
そんな中、景政が千代丸を呼ぶ。
「今日、お前の判断で助かった者はいるだろう」
「はい」
「だが、それを誇るな」
千代丸は少し驚いた。
「なぜです?」
「一度うまくいくと、人は自分が正しいと思い始める」
景政は静かに続けた。
「それが一番怖い」
千代丸は黙って父を見る。
「同じ策が次も通じるとは限らん。今日逃げた敵が、明日も逃げるとも限らん」
「……はい」
「覚えておけ。策は人を救う」
景政はそこで一度言葉を切った。
「だが、同じくらい人を殺す」
千代丸は小さく頭を下げた。
「はい」
夜。
千代丸は昼間の戦を地面の上に再現していた。
石を置く。
味方。
敵。
橋。
林。
田。
誰がどこにいて、どの時点で動いたのか。
頭の中でもう一度、最初から戦をやり直していく。
橋へ誘ったことは間違っていなかった。
逃げ道を作ったことも。
深追いを止めたことも。
では、敵が橋を使わなかったら。
橋の向こうで止まったら。
こちらが退いた瞬間に別働隊を田へ回していたら。
考え始めれば、いくらでも失敗する形が見つかった。
「まだやってるのか」
兄の声がした。
「はい」
「今日、勝ったんだろ」
「だからです」
「何で?」
「勝った時の方が、間違いを見つけにくいからです」
景久はよく分からないという顔をしながら隣へ座った。
「お前、本当に九つか?」
千代丸は少し笑った。
「そう聞いています」
「信長様と同じこと聞いたな」
「そうですね」
しばらく二人で地面の石を見る。
やがて景久が口を開いた。
「千代丸」
「はい」
「今日、お前のおかげで俺は生きて帰れたかもしれん」
千代丸は兄を見る。
「かもしれないだけです」
「それでもだ」
景久は笑った。
「ありがとう」
千代丸は、すぐに言葉を返せなかった。
策を立てる。
人を動かす。
敵の動きを読み、勝つための手を打つ。
そんなことは遠い昔にも何度となくやってきた。
功を褒められたこともある。
才を認められたこともある。
だが、大切な人からただ無事を喜ばれ、ありがとうと言われた記憶は、なぜかすぐには浮かばなかった。
「兄上」
「なんだ」
「次も生きて帰ってください」
景久が笑う。
「お前が考えろ」
「努力します」
千代丸も少しだけ笑った。
同じ頃、信長もまた昼間の戦を思い返していた。
林道千代丸。
九歳。
橋を見て、敵が通る場所を考えた。
敵を追い詰めるのではなく、あえて逃げ道を残した。
そして勝っている最中に、追いすぎる危険を見た。
一つ一つなら、戦慣れした武将にもできる判断だろう。
だが、それを九歳の童が次々に口にした。
偶然とは思えない。
信長の口元が上がった。
「やはり欲しいな」
林道家は三百五十石ほどの小さな家だ。
ならば、いずれ家ごと引き上げてしまえばよい。
「おい」
「はっ」
家臣がやってくる。
「林道景政へ伝えろ」
「何と」
信長は少し考えた。
「あの童を、時々俺のところへ寄越せとな」
家臣がほんの一瞬だけ、またかという顔をした。
だが何も言わず、頭を下げる。
信長は夜空を見上げた。
不思議な童だ。
あの目は何度見ても気に食わない。
こちらを見ながら、別の誰かを見ているような目。
それなのに、なぜか懐かしい。
信長は自分でも理由が分からないまま、妙な確信を抱いていた。
あの童はいずれ、自分のそばにいる。
敵としてではなく、味方として。
なぜそう思うのか。
その理由を、信長はまだ知らなかった。




