表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/85

第八話 選ばぬ者は、選ばれる


「断った?」


父・景政の声が、広間に響いた。


清洲から戻った翌朝。


千代丸は父の前に正座していた。


隣には兄・景久。


少し離れたところには弥兵衛。


そして母・志乃までいる。


「はい」


「織田三郎様が」


「はい」


「お前に仕えよと仰った」


「はい」


「それを」


「断りました」


景政は目を閉じた。


長い沈黙。


千代丸は待った。


やがて。


父が言った。


「なぜだ」


「九つだからです」


「それだけか」


「家にいたいからです」


「それだけか」


「……」


千代丸は父を見る。


どうやら。


誤魔化せそうにない。


「信長様が怖いからです」


景久が吹き出した。


「お前、本当にそればっかりだな!」


「兄上は黙っていてください」


「だってお前――」


「景久」


父の一言で兄が黙る。


景政は千代丸を見る。


「何が怖い」


千代丸は考えた。


何が。


あの男の何が怖い。


強いから?


違う。


残酷だから?


それも違う。


「分かりません」


正直に答えた。


「ただ」


「ただ?」


「あの方の近くにいれば」


千代丸は言葉を選んだ。


「静かには生きられない」


景政は何も言わなかった。


「私は」


「林道家が残れば、それでよいのです」


「天下も」


「城も」


「大きな領地もいりません」


「だから断りました」


しばらく。


広間は静かだった。


そして。


「馬鹿者」


父が言った。


千代丸は少し驚いた。


「はい?」


「お前は頭が良い」


「……」


「私よりもな」


「そのようなことは」


「ある」


景政は遮った。


「だから」


父は千代丸を見る。


「時々、大事なことを忘れる」


「何でしょう」


「世の中は」


景政が言った。


「お前の望みなど聞いてくれぬ」


千代丸は黙った。


「静かに暮らしたい」


「なら静かに暮らせると思うか?」


「天下が欲しくない」


「なら天下を争う者が放っておいてくれると思うか?」


「……」


「小さな家でよい」


「なら大きな家が土地を奪わぬと思うか?」


千代丸は。


答えられなかった。


景政は続ける。


「お前は前に言ったな」


「人は中立を嫌う、と」


千代丸の目が動く。


自分の言葉だった。


「ならば」


父は静かに言った。


「我らだけが」


「選ばずに済むと思うな」


◇◇◇


その日の午後。


千代丸は一人で裏山へ登った。


林道家の領地が見える。


田。


畑。


家。


細い道。


小さな川。


これだけ。


林道家のすべて。


三百五十石ほど。


天下から見れば。


存在しているのかすら分からない。


だが。


千代丸にとっては。


これで十分だった。


「若様」


後ろから声。


弥兵衛だった。


「父上に言われて?」


「いいえ」


「ではなぜ」


「若様が落ち込んでおられるかと思いまして」


「落ち込んでいません」


「では怒っておられる」


「怒ってもいません」


「面倒な童ですな」


弥兵衛が隣に座る。


二人で領地を見る。


「弥兵衛」


「はい」


「父上は正しいと思いますか」


「何についてでしょう」


「信長様への仕官を断ったこと」


弥兵衛は少し考えた。


「私なら断りませぬ」


「なぜ」


「強い者に覚えてもらえることは、小さな家にとって悪いことではございませぬ」


「しかし」


「ただ」


弥兵衛が続ける。


「若様が断ったことが間違いとも思いませぬ」


千代丸が見る。


「どちらです?」


「分かりませぬ」


「弥兵衛でも?」


「若様」


弥兵衛が笑った。


「人は皆、後からなら賢くなれるのです」


「後から?」


「勝った方を見て」


「こちらにつけばよかった」


「負けた方を見て」


「あちらにつかなくてよかった」


「そう言うのは簡単です」


千代丸は黙る。


「決める時には」


弥兵衛が領地を見る。


「何が正しいかなど」


「誰にも分かりませぬ」


その言葉は。


千代丸の胸に残った。


未来を知っていれば。


簡単なのだろう。


だが。


自分は知らない。


この時代の未来を。


織田信長がどうなるのか。


信勝がどうなるのか。


林道家がどうなるのか。


何も知らない。


だから。


考えるしかない。


◇◇◇


数日後。


知らせが入った。


織田家中で。


信長と信勝の対立が。


さらに深まった。


信長を支持する者。


信勝を支持する者。


まだ態度を決めない者。


小さな家々も。


少しずつ。


どちらにつくかを迫られていた。


林道家も。


例外ではなかった。


そして。


最初に来たのは。


信長ではなかった。


◇◇◇


「末森より使者!」


門番の声。


景政の顔が変わった。


千代丸も。


本を閉じる。


末森。


そこにいるのは。


織田信勝。


「父上」


「来たな」


景政が小さく言った。


広間。


使者は二人。


丁寧な態度だった。


言葉も穏やか。


だが。


内容は。


穏やかではなかった。


「林道殿」


使者が言う。


「信勝様は」


「尾張の安寧を願っておられる」


景政が頭を下げる。


「それは何よりにございます」


「しかし」


使者が続ける。


「三郎様の振る舞いに」


「不安を抱く者が多いのも事実」


千代丸は。


広間の端で黙って聞いている。


「ゆえに」


「林道家にも」


使者は景政を見る。


「正しき方へ」


「お力添えいただきたい」


正しき方。


便利な言葉だ。


千代丸は思った。


正しいと言えば。


自分たちが正義になる。


「具体的には」


景政が聞く。


使者は笑う。


「いずれ」


「兵をお借りすることになるやもしれませぬ」


来た。


千代丸は思った。


父の言った通り。


選ばずには。


いられなくなった。


◇◇◇


使者が帰った後。


家臣たちが集められた。


「どうする」


景政が聞く。


意見は割れた。


「信勝様につくべきです」


「いや、まだ早い」


「柴田様がおられる」


「信長様は先代の嫡男だ」


「しかし評判が悪すぎる」


「家中の支持は信勝様が上」


声が飛び交う。


景久もいる。


千代丸も。


しばらく聞いていた。


そして。


父が言う。


「千代丸」


またか。


千代丸は。


小さく息を吐いた。


「はい」


「どうする」


「断ります」


即答だった。


家臣たちがざわつく。


「若様!」


「それでは信勝様を敵に!」


千代丸は首を横に振る。


「断ると言っても」


「敵になる必要はありません」


「では?」


「兵が出せない理由を作ります」


景政が聞く。


「どんな」


「領内の守りが薄い」


「病人が多い」


「農作業が遅れている」


「理由など何でも」


「そんなものが通るか?」


家臣が聞く。


千代丸は答える。


「一度は」


「一度?」


「はい」


「二度目は?」


「別の理由」


「三度目は?」


「……」


千代丸は黙る。


通らない。


いずれ。


態度を決める必要がある。


「千代丸」


父が言う。


「いつまで逃げる」


その言葉。


清洲で。


信長にも言われた。


――逃げるな。


千代丸は。


少し苛立った。


「逃げているのではありません」


「では?」


「待っています」


広間が静かになる。


「何を」


景政が聞く。


千代丸は答える。


「どちらが」


「先に間違えるかを」


◇◇◇


それから。


林道家は。


信勝からの要請を。


曖昧にかわした。


兵は出さない。


しかし。


信長支持も表明しない。


待つ。


千代丸は。


情報を集め続けた。


信長が誰と会った。


信勝が誰を味方につけた。


柴田勝家がどう動いた。


林秀貞が何を言った。


小さな噂まで。


すべて。


聞いた。


そして。


一つのことに気づいた。


信勝側は。


信長を。


「うつけだから負ける」


と思っている。


だが。


信長側は。


信勝を。


決して軽く見ていない。


(……違う)


千代丸は。


地面に石を並べる。


白い石。


信勝。


黒い石。


信長。


白の方が多い。


だが。


「数ではない」


呟く。


相手を侮る者。


相手を警戒する者。


戦えば。


どちらが有利か。


答えは。


単純ではない。


だが。


一つだけ。


千代丸には。


はっきりしていた。


「信勝様は」


「兄を知らない」


◇◇◇


「千代丸」


兄の声。


景久がやってきた。


「何してる?」


「考え事です」


「またか」


景久が隣に座る。


地面の石を見る。


「白が信勝様?」


「はい」


「黒が信長様」


「はい」


「白の方が多いな」


「そうですね」


「なら白が勝つんじゃないか?」


千代丸は兄を見る。


「兄上」


「なんだ」


「十人で弥兵衛と戦ったら勝てます?」


景久は考える。


「……十人いれば」


「弥兵衛です」


「……もう少しいるな」


「でしょう」


「でも信長様一人で戦うわけじゃないぞ」


「分かっています」


千代丸は。


黒い石を一つ。


指で動かした。


「重要なのは」


「どれだけいるかではありません」


「どこに」


「誰がいるかです」


景久は。


よく分かっていない顔。


「難しいな」


「兄上はそれでいいです」


「馬鹿にしてるだろ」


「していません」


「してる!」


いつもの兄。


千代丸は。


少し笑った。


この時間を。


守りたい。


そのために。


選ばなければならない。


◇◇◇


数ヶ月。


林道家は待った。


そして。


ついに。


知らせが来た。


信長と信勝。


両者の対立が。


武力衝突へ向かっている。


「殿!」


馬で戻った家臣が。


広間へ飛び込む。


「信勝様方が兵を動かすとの噂!」


景政が立ち上がる。


「確かか」


「柴田様も動くと!」


家臣たちがざわつく。


千代丸は。


静かに目を閉じた。


来た。


待っていた瞬間。


父が。


千代丸を見る。


「どうする」


今までなら。


もう少し待つ。


そう言っただろう。


だが。


今回は。


違った。


「父上」


千代丸は立ち上がる。


「決めましょう」


広間が静まる。


景政が聞く。


「どちらだ」


千代丸は。


答えた。


「織田三郎信長様」


一人の家臣が声を上げる。


「しかし!」


「信勝様の方が兵は多い!」


「柴田様も向こうですぞ!」


「はい」


千代丸は頷く。


「分かっています」


「ならばなぜ!」


千代丸は。


少しだけ。


目を細めた。


「戦う前から」


「兄を侮っている弟と」


「弟を殺すかもしれぬと」


「すでに覚悟している兄」


「どちらが」


「最後まで残ると思います?」


誰も答えない。


景政だけが。


息子を見ていた。


「千代丸」


「はい」


「間違えれば」


「林道家は滅ぶぞ」


千代丸は。


父を見る。


分かっている。


今まで。


策を出すだけだった。


決めるのは父。


責任を負うのも父。


だが。


今回は違う。


自分が。


信長を選べと言っている。


なら。


「父上」


千代丸は頭を下げた。


「もし」


「私の読みが外れれば」


「私を差し出してください」


景久が立ち上がった。


「千代丸!」


母・志乃の顔も変わる。


「何を言っているの!」


千代丸は。


頭を上げない。


「林道家は」


「信勝様に詫びる」


「すべて」


「私が父上を惑わせたことにしてください」


「馬鹿を言うな!」


景久が弟の肩を掴む。


「兄上」


「お前一人出して終わるわけないだろ!」


「ですが」


「ですがじゃない!」


景久が怒鳴る。


「家のことは家族で決めるんだ!」


千代丸が顔を上げる。


景久は。


本気で怒っていた。


「お前だけで背負うな」


その言葉。


千代丸は。


何も返せなかった。


なぜだろう。


遠い昔。


自分は。


何でも一人で考えていた気がする。


誰を信じる。


誰を切る。


いつ動く。


いつ待つ。


生き残るため。


自分で。


すべて。


だが。


今は。


違う。


父がいる。


母がいる。


兄がいる。


家臣がいる。


「千代丸」


父が言う。


千代丸は顔を上げた。


「お前を差し出すことはない」


「父上」


「ただし」


景政は。


広間を見回す。


そして。


静かに言った。


「決める以上」


「林道家全員で背負う」


誰も喋らない。


「我らは」


一拍。


「三郎信長様につく」


その瞬間。


林道家の道が。


決まった。


◇◇◇


その夜。


千代丸は眠れなかった。


庭へ出る。


月。


静かな夜。


「最後に残る方につく」


自分で言った言葉。


本当に。


信長が残るのか。


分からない。


未来など知らない。


だが。


選んだ。


もう。


戻れない。


「怖いか?」


後ろから声。


父だった。


「……はい」


「珍しいな」


「私も怖いものくらいあります」


景政が隣へ立つ。


「私はもっと怖い」


千代丸が父を見る。


「当主だからですか」


「ああ」


景政は笑った。


「私が間違えば」


「皆死ぬ」


千代丸は黙る。


「千代丸」


「はい」


「覚えておけ」


父が言う。


「策を考える者は」


「十人を捨てれば百人が助かると言える」


「……」


「だが」


「捨てられる十人にも」


「親がいる」


「子がいる」


「名がある」


千代丸の脳裏に。


五歳の時。


死んだ子供が浮かんだ。


「それを忘れた時」


父は言う。


「人を数でしか見られぬ者になる」


千代丸は。


父を見る。


「それでは」


「いけませんか」


景政は。


すぐには答えなかった。


「強いかもしれん」


「……」


「だが」


父が笑う。


「私は」


「そんな息子は嫌だ」


千代丸は。


ほんの少し。


笑った。


「では」


「気をつけます」


「そうしろ」


◇◇◇


翌朝。


林道家から。


一騎の使者が出た。


向かう先は。


清洲。


書状には。


長い言葉など必要なかった。


林道家は。


織田三郎信長に従う。


ただ。


それだけ。


◇◇◇


清洲。


信長は。


届いた書状を読んだ。


「ほう」


口元が上がる。


「林道が来たか」


家臣が言う。


「小さな家にございます」


「知っておる」


信長は書状を置く。


「三百石ほどだったか」


「三百五十ほどかと」


「どうでもよい」


家臣が困惑する。


信長が欲しいのは。


三百五十石ではない。


兵数十人でもない。


「あの童も」


信長が呟く。


「俺を選んだということか」


誰にも聞こえないほどの声。


そして。


笑う。


「面白い」


だが。


次の瞬間。


その笑みが消えた。


「ならば」


信長は立ち上がる。


「試してやろう」


家臣が顔を上げる。


「は?」


信長は。


命じた。


「林道家へ使いを出せ」


「はっ」


「兵を出せとな」


「何名ほど」


信長は。


少し考える。


そして。


「出せるだけ」


家臣が驚く。


三百五十石ほどの小さな家。


出せる兵など。


知れている。


それでも。


信長は笑った。


「それと」


「はっ」


「あの童も連れて来い」


家臣が。


思わず聞き返した。


「千代丸殿を?」


「ああ」


「まだ九つにございますが」


「知っておる」


「戦場へ?」


信長は。


当然のように答えた。


「だから呼ぶ」


◇◇◇


数日後。


その命は。


林道家へ届いた。


広間。


景政が書状を読む。


景久。


弥兵衛。


千代丸。


皆がいる。


父が。


ゆっくり顔を上げる。


「兵を出せとある」


誰も驚かなかった。


分かっていた。


信長につくとは。


そういうことだ。


「何人です?」


景久が聞く。


「出せるだけ」


景政が答える。


そして。


少し間を置いた。


「千代丸」


嫌な予感。


「はい」


「お前も来いとある」


沈黙。


千代丸は。


目を閉じた。


やはり。


あの男は。


自分を。


静かに暮らさせる気など。


まるでないらしい。


「兄上」


千代丸が言った。


「なんだ」


「以前」


「戦が嫌なら俺が戦う、と言いましたね」


景久が笑う。


「ああ」


「お願いします」


「嫌だ」


「なぜです」


「今度は」


景久が立ち上がる。


「お前も来い」


千代丸は。


兄を見る。


景久は。


嬉しそうだった。


「俺が前で戦う」


そして。


弟の胸を指で突く。


「お前は後ろで考えろ」


千代丸は。


小さく息を吐いた。


どうやら。


逃げられない。


なら。


仕方がない。


勝つ方法を。


考えるしかない。


この時。


林道千代丸、九歳。


後に彼の名を。


尾張の武士たちが初めて知ることになる戦が。


静かに。


始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ