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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第八話 選ばぬ者は、選ばれる


「断った?」


父・景政の声が広間に響いた。


清洲から戻った翌朝、千代丸は父の前に正座していた。


隣には兄の景久。少し離れたところには弥兵衛がおり、今日は母の志乃までいる。


「はい」


「織田三郎様が、お前に仕えよと仰った」


「はい」


「それを断ったのだな?」


「断りました」


景政は目を閉じた。


長い沈黙が流れる。


千代丸は何も言わず、父が口を開くのを待った。


「なぜだ」


「九つだからです」


「それだけか」


「家にいたいからです」


「それだけか」


千代丸は父の顔を見た。


どうやら、この程度では誤魔化せそうにない。


「信長様が怖いからです」


隣で景久が吹き出した。


「お前、本当にそればっかりだな!」


「兄上は黙っていてください」


「だってお前」


「景久」


父に名前を呼ばれ、景久はすぐに口を閉じた。


景政は改めて千代丸を見る。


「何が怖い」


千代丸は考えた。


信長の何を、自分はこれほど恐れているのだろう。


強いからか。


違う。


残酷だからか。


それも違う。


そもそも、信長がどれほど強く、どれほど残酷な男なのかさえ、今の自分は知らない。


「分かりません」


正直に答えた。


「ただ、あの方の近くにいれば、静かには生きられない気がします」


景政は何も言わない。


「私は林道家が残れば、それでよいのです。天下も城も、大きな領地もいりません。だから断りました」


広間に静けさが戻った。


やがて景政が口を開く。


「馬鹿者」


千代丸は少し驚いた。


「はい?」


「お前は頭が良い」


「そのようなことは」


「ある。私よりもな」


否定しようとした千代丸を、景政が遮った。


「だからこそ、時々大事なことを忘れる」


「何でしょう」


「世の中は、お前の望みなど聞いてくれぬ」


千代丸は黙った。


「静かに暮らしたいと言えば、静かに暮らせると思うか。天下が欲しくないと言えば、天下を争う者たちがお前を放っておいてくれるのか」


「……」


「小さな家でよいと望めば、大きな家がこの土地を奪わずにいてくれるのか?」


千代丸は答えられなかった。


景政の言葉が続く。


「お前は以前、人は中立を嫌うと言ったな」


千代丸の目がわずかに動いた。


自分自身が口にした言葉だった。


「ならば、我らだけが選ばずに済むと思うな」


何も言い返せなかった。


その日の午後、千代丸は一人で裏山へ登った。


そこからは林道家の領地がよく見える。


田があり、畑があり、民の家がある。


その間を細い道と小さな川が通っている。


三百五十石ほどの小さな領地。


天下という大きなものから見れば、存在しているのかすら分からないほど小さい。


だが、千代丸にとってはこれで十分だった。


父も母も兄もいる。


弥兵衛もいる。


見知った領民たちが暮らしている。


それ以上、何を望む必要があるのだろう。


「若様」


後ろから声がした。


振り返らなくても分かる。


「弥兵衛」


「はい」


「父上に言われて来たのですか?」


「いいえ」


「ではなぜ」


「若様が落ち込んでおられるかと思いまして」


「落ち込んでいません」


「では、怒っておられる」


「怒ってもいません」


「面倒な童ですな」


弥兵衛は千代丸の隣へ腰を下ろした。


しばらく二人で眼下の領地を眺める。


「弥兵衛」


「はい」


「父上は正しいと思いますか」


「何についてでしょう」


「信長様への仕官を断ったことです」


弥兵衛は少し考えてから答えた。


「私なら断りませぬ」


「なぜ」


「強い者に名を覚えてもらえることは、小さな家にとって悪いことではございませぬ」


「しかし」


「ただし、若様が断ったことを間違いとも思いませぬ」


千代丸が横を見る。


「どちらです?」


「分かりませぬ」


「弥兵衛でも?」


「若様」


弥兵衛が笑った。


「人は皆、後からなら賢くなれるのです」


「後から?」


「勝った方を見て、こちらにつけばよかったと言う。負けた方を見て、あちらにつかなくてよかったと言う。後からなら、何とでも申せます」


千代丸は黙って聞いた。


「ですが、決める時には何が正しいのかなど誰にも分かりませぬ」


その言葉が胸に残った。


未来を知っていれば、選ぶのは簡単なのだろう。


だが、千代丸はこの時代の未来を知らない。


織田信長がどうなるのか。


信勝がどうなるのか。


そして林道家がどうなるのか。


何も知らない。


ならば、自分で考えるしかなかった。


数日後、織田家中で信長と信勝の対立がさらに深まったとの知らせが入った。


信長を支持する者。


信勝を支持する者。


まだ態度を決めない者。


織田家に従う小さな家々も、少しずつどちらにつくのかを迫られ始めていた。


林道家も例外ではない。


そして最初にやってきたのは、信長からの使者ではなかった。


「末森より使者!」


門番の声に、景政の表情が変わった。


千代丸も読んでいた本を閉じる。


末森。


そこにいるのは織田信勝だ。


「父上」


「来たな」


景政が小さく呟いた。


広間へ通された使者は二人だった。


態度は丁寧で、言葉遣いも穏やかだった。


だが、その内容まで穏やかというわけではない。


「林道殿。信勝様は尾張の安寧を願っておられる」


景政が頭を下げる。


「それは何よりにございます」


「しかし、三郎様の振る舞いに不安を抱く者が多いのも事実」


千代丸は広間の端で黙って話を聞いていた。


「ゆえに林道家にも、正しき方へお力添えいただきたい」


正しき方。


便利な言葉だと千代丸は思った。


自分たちを正しい側と呼んでしまえば、相手を間違っている側にできる。


「具体的には?」


景政が尋ねる。


使者は穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。


「いずれ兵をお借りすることになるやもしれませぬ」


来た。


その言葉を聞いた瞬間、千代丸は父の言葉を思い出した。


選ばずにはいられない。


その時が、少しずつ近づいていた。


使者が帰ると、すぐに家臣たちが集められた。


「どうする」


景政が尋ねると、広間ではいくつもの意見が飛び交った。


「信勝様につくべきです」


「いや、まだ早い」


「柴田様がおられる」


「だが信長様は先代の嫡男だ」


「しかし評判が悪すぎる」


「家中の支持なら信勝様が上でしょう」


景久も千代丸も、そのやり取りを黙って聞いていた。


やがて景政がこちらを見る。


「千代丸」


またか。


千代丸は小さく息を吐いた。


「はい」


「どうする」


「断ります」


即答すると、家臣たちがざわついた。


「若様!」


「それでは信勝様を敵に回しますぞ!」


「敵になる必要はありません」


千代丸は首を横に振る。


「兵を出せない理由を作ればよいのです。領内の守りが薄い、病人が多い、農作業が遅れている。理由はいくらでも作れます」


家臣の一人が尋ねる。


「そんなものが通りますか?」


「一度なら」


「二度目は?」


「別の理由を」


「では三度目は?」


千代丸は答えなかった。


いずれ通らなくなる。


分かっている。


いつかは態度を決めなければならない。


「千代丸」


景政が低い声で尋ねる。


「いつまで逃げる」


その言葉に、千代丸は清洲での信長を思い出した。


逃げるな。


同じことを言われた。


少し苛立ちながら答える。


「逃げているのではありません」


「では?」


「待っています」


広間が静かになった。


「何を」


「どちらが先に間違えるかを」


それから林道家は、信勝からの要請を曖昧にかわし続けた。


兵は出さない。


しかし信長支持も表明しない。


ただ待ちながら、情報だけは集めた。


信長が誰と会ったのか。


信勝が誰を味方につけたのか。


柴田勝家がどう動き、林秀貞が何を言ったのか。


千代丸は小さな噂まで耳に入れ、一つずつ頭の中で整理していった。


そして、やがて気になる違いに気づいた。


信勝を支持する者たちは、信長について口を揃える。


うつけだから負ける。


あの男に家中はまとめられない。


いずれ自滅する。


それに対し、信長側から聞こえてくる話は違った。


信勝を侮っていない。


柴田勝家を警戒し、林秀貞を警戒し、相手がどれだけの兵を集めるのかまで探っている。


千代丸は庭の地面に石を並べた。


白い石が信勝。


黒い石が信長。


数だけなら白が多い。


「数ではない」


千代丸は小さく呟いた。


相手を侮っている者と、相手を警戒している者。


実際に戦った時、どちらが有利なのか。


兵の数だけでは決まらない。


そして一つだけ、千代丸の中ではっきりし始めたことがあった。


「信勝様は、兄を知らない」


「千代丸」


景久の声が聞こえた。


「何してる?」


「考え事です」


「またか」


景久は隣に腰を下ろし、地面に並べられた石を見る。


「白が信勝様?」


「はい」


「黒が信長様か」


「はい」


「白の方が多いな。なら白が勝つんじゃないか?」


千代丸は兄を見る。


「兄上」


「なんだ」


「十人で弥兵衛と戦ったら勝てます?」


景久が考える。


「……十人いれば」


「弥兵衛ですよ」


「……もう少しいるな」


「でしょう」


「でも信長様一人で戦うわけじゃないぞ」


「分かっています」


千代丸は黒い石を一つ、指先で動かした。


「重要なのは、どれだけいるかだけではありません。どこに、誰がいるかです」


景久はしばらく石を眺めていたが、やがて首を傾げた。


「難しいな」


「兄上はそれでいいです」


「馬鹿にしてるだろ」


「していません」


「してる!」


千代丸は少し笑った。


いつもの兄だった。


こんな時間を守りたい。


そのためには、いつか選ばなければならない。


数ヶ月が過ぎた。


林道家は待ち続けた。


そしてついに、信長と信勝の対立が武力衝突へ向かっているとの知らせが飛び込んできた。


「殿!」


馬で戻った家臣が、そのままの勢いで広間へ駆け込む。


「信勝様方が兵を動かすとの噂にございます!」


景政が立ち上がった。


「確かか」


「柴田様も動くと!」


家臣たちが一斉にざわついた。


千代丸は静かに目を閉じる。


来た。


ずっと待っていた瞬間だ。


景政が息子を見る。


「どうする」


今までなら、もう少し待つと答えただろう。


しかし今回は違う。


千代丸は目を開き、立ち上がった。


「父上。決めましょう」


広間が静まる。


「どちらだ」


景政の問いに、千代丸ははっきり答えた。


「織田三郎信長様です」


すぐに家臣の一人が声を上げた。


「しかし、信勝様の方が兵は多い! 柴田様も向こうですぞ!」


「はい。分かっています」


「ならば、なぜ!」


千代丸は広間を見回した。


「戦う前から兄を侮っている弟と、弟と戦うことになるかもしれぬと覚悟し、その力を警戒している兄」


そこで言葉を切る。


「どちらが最後まで残ると思います?」


誰も答えなかった。


景政だけが、じっと息子を見ている。


「千代丸」


「はい」


「間違えれば、林道家は滅ぶぞ」


千代丸は父の目を見返した。


分かっている。


これまで自分は策を出すだけだった。


最終的に決めるのは父であり、その責任を負うのも父だった。


だが今回は違う。


自分が信長を選べと言っている。


ならば、その責任から逃げるわけにはいかない。


「父上」


千代丸は頭を下げた。


「もし私の読みが外れれば、私を差し出してください」


「千代丸!」


景久が立ち上がった。


母・志乃の表情も変わる。


「何を言っているの!」


千代丸は頭を下げたまま続けた。


「信勝様へ詫び、すべて私が父上を惑わせたことにしてください」


「馬鹿を言うな!」


景久が弟の肩を掴んだ。


「兄上」


「お前一人を差し出して終わるわけないだろ!」


「ですが」


「ですがじゃない!」


景久は本気で怒っていた。


「家のことは家族で決めるんだ。お前だけで背負うな」


千代丸は顔を上げた。


何も言い返せなかった。


なぜかその言葉が、ひどく胸に残った。


遠い昔、自分は何でも一人で考えていた気がする。


誰を信じるのか。


誰を切るのか。


いつ動き、いつ待つのか。


生き残るためには、自分で考え、自分で備え、自分以外を信じすぎないことが必要だった。


だが今は違う。


父がいる。


母がいる。


兄がいる。


弥兵衛がいる。


自分一人で生きているわけではない。


「千代丸」


父に呼ばれ、千代丸はそちらを見た。


「お前を差し出すことはない」


「父上」


「ただし、決める以上は林道家全員で背負う」


景政は広間にいる家臣たちを見回した。


誰も口を挟まない。


やがて景政は静かに告げた。


「我らは、三郎信長様につく」


その瞬間、林道家が進む道は決まった。


その夜、千代丸はなかなか眠れなかった。


庭へ出ると、月明かりが静かに地面を照らしている。


最後に残る方につく。


自分で言った言葉を思い返す。


本当に信長が残るのだろうか。


分からない。


未来など知らない。


それでも選んだ。


もう戻れない。


「怖いか?」


後ろから声がした。


父だった。


「……はい」


「珍しいな」


「私も怖いものくらいあります」


景政が隣へ立った。


「私はもっと怖い」


千代丸が父を見る。


「当主だからですか」


「ああ」


景政は少し笑った。


「私が間違えば、皆が死ぬ」


千代丸は黙った。


「千代丸」


「はい」


「覚えておけ」


景政の声から笑みが消えた。


「策を考える者は、十人を捨てれば百人が助かると言える」


千代丸の表情がわずかに変わる。


「だが、捨てられる十人にも親がいる。子がいる。家族がいる。そして、一人一人に名がある」


五歳の時の出来事が脳裏に浮かんだ。


自分の策で野伏せりを別の村へ向かわせ、その結果として死んだ一人の子供。


「それを忘れた時、お前は人を数でしか見られぬ者になる」


千代丸は父を見た。


「それでは、いけませんか」


景政はすぐには答えなかった。


「強いかもしれん」


「……」


「勝ち続けられるかもしれん。だが」


父は穏やかに笑った。


「私は、そんな息子は嫌だ」


千代丸は少しだけ笑った。


「では、気をつけます」


「そうしろ」


翌朝、林道家から一騎の使者が出た。


向かう先は清洲。


書状に長い言葉は必要なかった。


林道家は、織田三郎信長に従う。


ただ、それだけだった。


清洲で書状を受け取った信長は、その文面へ目を通すと口元を上げた。


「ほう。林道が来たか」


傍らの家臣が答える。


「小さな家にございます」


「知っておる」


信長は書状を置いた。


「三百石ほどだったか」


「三百五十ほどかと」


「どうでもよい」


家臣は少し困惑した。


信長にとって、本当にどうでもよかった。


欲しいのは三百五十石の土地ではない。


林道家が出せる数十人の兵でもない。


「あの童も、俺を選んだということか」


誰にも聞こえないほどの声で呟き、信長は笑った。


「面白い」


しかし次の瞬間、その笑みが少し変わった。


「ならば、試してやろう」


「は?」


信長が立ち上がる。


「林道家へ使いを出せ」


「はっ」


「兵を出せとな」


「何名ほどでしょう」


信長は少し考えた。


「出せるだけ」


家臣が驚く。


三百五十石ほどの小さな家だ。


出せる兵など知れている。


だが、信長は気にしていなかった。


「それと」


「はっ」


「あの童も連れて来い」


家臣は思わず聞き返した。


「千代丸殿を?」


「ああ」


「まだ九つにございますが」


「知っておる」


「戦場へ連れて行かれるので?」


信長は当然のように答えた。


「だから呼ぶ」


数日後、その命は林道家へ届いた。


広間には景政、景久、弥兵衛、そして千代丸が集まっていた。


景政が書状を読み終え、ゆっくりと顔を上げる。


「兵を出せとある」


誰も驚かなかった。


分かっていたことだ。


信長につくと決めた以上、兵を求められる日は来る。


「何人です?」


景久が尋ねる。


「出せるだけ、とある」


景政は答え、少し間を置いた。


そして千代丸を見る。


「千代丸」


嫌な予感がした。


「はい」


「お前も来いとある」


広間に沈黙が落ちた。


千代丸は目を閉じる。


やはり、あの男は自分を静かに暮らさせる気などないらしい。


「兄上」


「なんだ」


「以前、私が戦を嫌うなら兄上が前で戦うと言いましたね」


景久が笑う。


「ああ」


「お願いします」


「嫌だ」


千代丸は目を開いた。


「なぜです?」


「今度はお前も来い」


景久が立ち上がる。


その顔は、なぜか楽しそうだった。


「俺が前で戦う」


そう言って、弟の胸を指で軽く突く。


「お前は後ろで考えろ」


千代丸は小さく息を吐いた。


どうやら、もう逃げられない。


ならば仕方がない。


生きて帰る方法を考える。


兄を死なせない方法を考える。


そして、林道家の者たちを一人でも多く家へ帰す方法を考える。


林道千代丸、九歳。


後に尾張の武士たちがその名を知ることになる最初の戦が、静かに始まろうとしていた。



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