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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第七話 最後に残る者


数日後。


千代丸は、再び清洲へ向かっていた。


前回とは違う。


今回は父も兄もいない。


供は弥兵衛と家臣二人だけ。


その事実が、千代丸には妙に重く感じられた。


「若様」


隣を歩く弥兵衛が言う。


「顔が怖うございますぞ」


「いつも通りです」


「いつもより怖い」


「では、いつもより警戒しているのでしょう」


「信長様を?」


千代丸は答えなかった。


清洲の城が近づいてくる。


織田信長。


一度会っただけの男。


なのに、なぜこれほど気になるのか。


理由は分かっている。


いや。


分かりたくないだけかもしれない。


あの目。


あの笑い方。


人を値踏みするような視線。


すべてが、遠い過去の誰かを思わせる。


だが。


あり得ない。


自分が生まれ変わったからといって、同じことが他人にも起きるとは限らない。


ましてや。


あの男まで。


千代丸は小さく首を振った。


考えるだけ無駄だ。


今日は信長に呼ばれた。


それだけ。


「弥兵衛」


「はい」


「もし私が戻らなかったら」


「殿へ何と伝えれば?」


「信長様に食われたと」


弥兵衛が吹き出した。


「冗談です」


「若様が冗談を言われるとは」


「私も九歳です」


「九歳の童は普通、そのような冗談は申しません」


「そうですか」


◇◇◇


城へ着くと。


千代丸は、ほとんど待たされなかった。


前回とは違う。


案内役の武士が言う。


「三郎様がお待ちだ」


待っている。


その言葉が嫌だった。


なぜ。


自分などを。


千代丸は案内されるまま進んだ。


やがて。


庭へ出る。


そこに。


信長はいた。


正座などしていない。


庭石に腰を下ろしている。


手には柿。


「来たか」


第一声がそれだった。


千代丸は頭を下げる。


「林道千代丸にございます」


「知っておる」


信長が柿をかじる。


「座れ」


「どちらに」


「好きなところに」


困った。


仕方なく少し離れた場所へ腰を下ろす。


弥兵衛も後ろへ座ろうとした。


「お前は向こうへ行け」


信長が言う。


弥兵衛の顔が変わる。


「しかし」


「童を取って食ったりはせぬ」


千代丸が少し眉を動かした。


先ほど自分が同じようなことを言ったばかりだった。


「弥兵衛」


「若様」


「大丈夫です」


「しかし」


「何かあれば叫びます」


「……」


弥兵衛は納得していない顔で離れた。


千代丸と信長。


二人だけ。


しばらく。


何も話さなかった。


信長は柿を食べている。


千代丸は庭を見る。


鳥の声。


風。


妙に静かだった。


「おい」


信長が言う。


「はい」


「お前」


「はい」


「本当に九つか」


千代丸は信長を見る。


「そう聞いております」


信長が笑った。


「自分の年を聞いているのに、そう聞いていると答えるか」


「生まれた時の記憶はありませんから」


「ある奴などおらん」


「ならば皆、聞いた年を自分の年と思っているだけでしょう」


信長の目が細くなる。


そして。


笑った。


「やはり面白い」


千代丸は嫌な予感がした。


◇◇◇


「呼んだ理由を聞いても?」


千代丸が先に切り出した。


「急ぐな」


「父が心配しております」


「俺に殺されると?」


「私が失礼をするのではないかと」


「そちらか」


信長が笑う。


そして。


柿の種を庭へ飛ばした。


「前に聞いたな」


「何をでしょう」


「敵が千、味方が百ならどうする」


「はい」


「お前は敵を千のままにしないと言った」


「申しました」


「誰に教わった」


また。


その質問。


五歳の時にも。


父に聞かれた。


「誰にも」


「嘘だな」


信長は即答した。


千代丸の目が少し動く。


「なぜ?」


「九つの童が自分で考えたと言う方がよほど不自然だ」


「では」


千代丸は答える。


「本を読みました」


「何の」


「いろいろと」


「逃げるな」


「逃げてはいません」


「逃げている」


信長が身を乗り出す。


「お前」


目が合う。


また。


胸の奥がざわついた。


「昔から、あんな考え方をしていたのか」


千代丸は少し黙った。


昔。


どこまでを昔と呼ぶ。


この生か。


それとも。


「覚えておりません」


「ふうん」


信長はそれ以上追及しなかった。


意外だった。


もっと聞かれると思っていた。


「では別のことを聞く」


「はい」


「俺と弟」


千代丸の表情が変わる。


来た。


そう思った。


信長は笑っている。


だが。


目は笑っていない。


「どちらが勝つ」


◇◇◇


千代丸は黙った。


答えてはいけない質問だ。


織田家の内輪の争い。


ましてや、信長本人を前に。


「分かりません」


千代丸は答えた。


「嘘だ」


「未来は誰にも分かりません」


「なら予想しろ」


「外れたら?」


「笑う」


「当たったら?」


「もっと笑う」


千代丸は少し嫌そうな顔をした。


信長がそれを見て、また笑う。


「さあ」


逃げられない。


なら。


答えるしかない。


「今なら」


千代丸は言った。


「弟君です」


空気が変わった。


普通なら。


主君本人を前に言う言葉ではない。


だが。


信長は怒らなかった。


むしろ。


嬉しそうだった。


「ほう」


「家中の支持が厚い」


「柴田様もおられる」


「林様も」


「あなた様を嫌う者も多い」


「うむ」


信長は頷く。


「だから俺は負けるか」


「今なら」


「なら五年後は?」


千代丸は信長を見る。


「あなた様です」


信長の笑みが止まった。


「なぜ」


千代丸は少し考える。


「弟君は」


「周囲にとって都合がよすぎます」


「……」


「家臣から好かれる」


「礼を知る」


「話も聞く」


「悪いことではありません」


「では何が悪い」


「皆が」


千代丸は続ける。


「自分の言うことを聞いてもらえると思い始めます」


信長の目が細くなる。


「家臣が主君を選ぶようになれば」


「やがて」


「主君より家臣の方が強くなります」


「……」


「弟君は」


「家臣を従えているのではなく」


「家臣に支えられている」


「その支えがなくなった時」


千代丸は一拍置いた。


「立っていられるでしょうか」


信長は黙った。


千代丸も黙る。


風が吹く。


庭の葉が揺れた。


◇◇◇


「では俺は?」


信長が聞いた。


「何でしょう」


「俺は誰に支えられている」


千代丸は少し困った。


「分かりません」


「正直だな」


「会ったのは二度目です」


「では見た限りで言え」


千代丸は信長を見る。


考える。


そして。


「誰にも」


「……」


「支えられようとしていない」


信長が少し笑う。


「それが強いと?」


「強いとは言っておりません」


「では?」


千代丸は。


静かに答えた。


「危険です」


信長が声を上げて笑った。


「ははははは!」


まただ。


この笑い。


千代丸の胸の奥に。


遠い何かが引っかかる。


「俺を危険と言うか」


「はい」


「怖いか」


「はい」


即答。


「そこは迷わんな」


「怖いものを怖くないと言う必要はありません」


信長は笑いながら。


しばらく千代丸を見ていた。


そして。


突然言う。


「千代丸」


「はい」


「俺に仕えろ」


◇◇◇


千代丸は。


しばらく。


何も言わなかった。


「聞こえなかったか?」


「聞こえました」


「なら返事は」


「嫌です」


信長の動きが止まる。


庭の向こう。


遠くにいる弥兵衛が。


こちらを見た気がした。


「……何?」


「嫌です」


千代丸は繰り返した。


信長の眉が。


ほんの少し上がる。


「理由は」


「私は九つです」


「関係ない」


「林道家の次男です」


「知っておる」


「なら」


千代丸は答える。


「家で暮らしたい」


信長が。


ぽかんとする。


まるで。


思いもしなかった答えを聞いたような顔。


「それだけか」


「はい」


「城が欲しくないか」


「いりません」


「土地は?」


「今ので十分です」


「金は?」


「困っていません」


「名は?」


「残らなくて結構です」


信長は。


千代丸をじっと見る。


「天下は」


一瞬。


千代丸の目が変わった。


天下。


その言葉。


遠い昔。


何度も聞いた。


何度も。


人がその二文字のために死ぬのを見た。


「いりません」


静かに答えた。


「天下など」


「欲しい者に取らせればよい」


信長の表情が。


変わった。


ほんの一瞬。


何かを思い出したような顔。


だが。


すぐ消えた。


「……妙なことを言う」


「父の言葉です」


「父親が?」


「はい」


「天下など偉い者に取らせておけばよい、と」


信長は。


しばらく黙り。


やがて笑った。


「面白い父だ」


「私もそう思います」


◇◇◇


「なら」


信長が立ち上がる。


「今はよい」


千代丸が顔を上げる。


「今は?」


「九つの童を無理に取り上げれば」


信長が笑う。


「父親に恨まれる」


千代丸は少し安心した。


「ありがとうございます」


「だが」


嫌な言葉が続いた。


「覚えておけ」


信長は千代丸を見下ろす。


「俺は」


「欲しいものを諦めるのが嫌いだ」


その瞬間。


千代丸の背中に。


寒気が走った。


まただ。


この感じ。


ずっと昔。


どこかで。


同じようなことを言われた気がする。


誰に。


思い出せない。


いや。


思い出したくない。


「千代丸」


「はい」


「最後にもう一つだ」


「まだあるのですか」


「ある」


信長が笑う。


「俺が」


「尾張を取ると思うか?」


千代丸は。


少し考えた。


「尾張だけですか」


信長の笑みが消える。


沈黙。


数秒。


そして。


信長は。


ゆっくり笑った。


「……なるほど」


千代丸は。


そこで初めて。


言いすぎたことに気づいた。


「今のは」


「遅い」


「忘れてください」


「忘れん」


「忘れてください」


「絶対に忘れん」


最悪だった。


◇◇◇


帰り道。


弥兵衛が聞いた。


「何を話されたので?」


「いろいろと」


「それで」


「はい」


「なぜ信長様はあれほど笑っておられたので?」


千代丸は。


しばらく黙った。


「仕えろと言われました」


弥兵衛が止まった。


「……何と?」


「断りました」


弥兵衛の顔が引きつった。


「若様」


「はい」


「私は今」


「殿へ何と報告すればよいのか分からなくなりました」


「そのまま言えばよいでしょう」


「九歳の息子が織田家当主から仕官を誘われ」


「それを断ったと?」


「はい」


弥兵衛が天を仰いだ。


「殿が倒れますぞ」


「父上は丈夫です」


「そういう問題ではございませぬ」


千代丸は。


少し笑った。


だが。


すぐに。


表情が消える。


信長。


やはり。


危険な男だ。


あれは。


尾張だけで終わる男ではない。


なぜ。


そう思った。


分からない。


ただ。


昔。


同じような男を知っていた。


誰よりも野心的で。


誰よりも現実的で。


人を使うことに躊躇がなく。


敵も。


味方も。


才があれば手元へ置こうとした男。


千代丸は。


目を閉じた。


また。


あの声が聞こえた気がした。


――余に仕えよ。


誰だ。


誰の声だ。


思い出すな。


そう。


自分に言い聞かせる。


二度目の人生だ。


もう。


過去とは関係ない。


◇◇◇


清洲。


千代丸が帰った後。


信長は一人で庭にいた。


「尾張だけですか、か」


小さく呟く。


誰にも。


そんな話はしていない。


尾張を統一する。


それより先。


もっと先。


まだ。


自分の中ですら。


形になっていないもの。


それを。


あの童は。


見た。


「林道千代丸」


信長が笑う。


「欲しいな」


その時。


風が吹いた。


目を閉じる。


一瞬。


知らない光景。


巨大な軍勢。


遥か遠くまで続く旗。


そして。


自分の前に立つ一人の男。


若くはない。


鋭い目。


何を考えているのか分からない顔。


その男を見て。


なぜか。


信長は。


ひどく警戒している。


なのに。


同時に。


手元へ置いておきたいと思っている。


矛盾した感情。


「……またか」


目を開ける。


何なのだ。


この夢は。


誰なのだ。


あの男は。


信長は。


自分でも分からないまま。


笑った。


「まあよい」


いずれ。


また会う。


そんな確信だけがあった。


千代丸も。


信長も。


まだ。


互いの正体を知らない。


だが。


千年以上前。


一度目の乱世でも。


一人は。


もう一人の才を欲し。


一人は。


もう一人を恐れながら仕えた。


そして今。


同じことが。


少しずつ。


繰り返されようとしていた。

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