第七話 最後に残る者
数日後、千代丸は再び清洲へ向かっていた。
前回とは違い、今回は父も兄もいない。供をするのは弥兵衛と家臣二人だけだった。
たったそれだけの違いなのに、千代丸には妙に重く感じられる。
「若様」
隣を歩く弥兵衛が声をかけてきた。
「顔が怖うございますぞ」
「いつも通りです」
「いつもより怖い」
「では、いつもより警戒しているのでしょう」
「信長様を?」
千代丸は答えなかった。
道の先には清洲の町が見え始めている。
織田信長。
一度会っただけの男なのに、なぜこれほど気になるのか。
理由は分かっている。
いや、分かりたくないだけなのかもしれない。
あの目。
あの笑い方。
人の内側まで覗き込み、使えるかどうかを値踏みするような視線。
すべてが遠い過去の誰かを思わせる。
だが、あり得ない。
自分が生まれ変わったからといって、同じことが他の者にも起きているとは限らない。
ましてや、あの男まで。
千代丸は小さく首を振った。
考えても仕方がない。
今日は信長に呼ばれた。
ただ、それだけだ。
「弥兵衛」
「はい」
「もし私が戻らなかったら、父上には信長様に食われたと伝えてください」
弥兵衛が吹き出した。
「冗談です」
「若様が冗談を言われるとは」
「私も九歳です」
「九歳の童は普通、そのような冗談は申しませぬ」
「そうですか」
清洲へ着くと、千代丸はほとんど待たされなかった。
前回とは明らかに扱いが違う。
案内役の武士が言った。
「三郎様がお待ちだ」
待っている。
その言葉が、千代丸にはどうにも嫌だった。
なぜ織田家の当主が、自分のような小土豪の次男を待っているのか。
案内されるまま屋敷の奥へ進み、やがて庭へ出た。
そこに信長はいた。
正座をして待っているわけでもない。
庭石に腰を下ろし、手にした柿を食べている。
「来たか」
第一声がそれだった。
千代丸は頭を下げる。
「林道千代丸にございます」
「知っておる。座れ」
「どちらに」
「好きなところに」
そう言われても困る。
千代丸は仕方なく、少し離れた場所へ腰を下ろした。
弥兵衛も後ろへ控えようとしたが、信長がそちらを見る。
「お前は向こうへ行け」
弥兵衛の表情が変わった。
「しかし」
「童を取って食ったりはせぬ」
千代丸はわずかに眉を動かした。
つい先ほど、自分も似たような冗談を言ったばかりだ。
「弥兵衛」
「若様」
「大丈夫です」
「しかし」
「何かあれば叫びます」
「……承知しました」
まったく納得していない顔のまま、弥兵衛は少し離れた場所へ移った。
残されたのは千代丸と信長。
二人はしばらく何も話さなかった。
信長は柿を食べ、千代丸は庭を眺めている。
鳥の声と、木々を揺らす風の音だけが聞こえていた。
「おい」
「はい」
「お前、本当に九つか」
千代丸は信長を見る。
「そう聞いております」
信長が笑った。
「自分の年を聞かれて、そう聞いていると答えるか」
「生まれた時の記憶はありませんから」
「ある奴などおらん」
「ならば皆、親から聞いた年を自分の年だと思っているだけでしょう」
信長の目が細くなった。
やがて、楽しそうに笑う。
「やはり面白い」
千代丸は早くも嫌な予感がしていた。
「私を呼んだ理由を聞いても?」
千代丸から切り出した。
「急ぐな」
「父が心配しております」
「俺に殺されると?」
「私が失礼をするのではないかと」
「そちらか」
信長は笑い、食べ終えた柿の種を庭へ飛ばした。
「前に聞いたな」
「何をでしょう」
「敵が千、味方が百ならどうする、と」
「はい」
「お前は敵を千のままにしないと言った」
「申しました」
信長の目が千代丸を捉える。
「誰に教わった」
また、その質問だった。
五歳の頃、父にも似たことを聞かれた。
「誰にも」
「嘘だな」
信長は即答した。
千代丸の目がわずかに動く。
「なぜです?」
「九つの童が自分で考えたと言う方が、よほど不自然だ」
「では、本を読みました」
「何の」
「いろいろと」
「逃げるな」
「逃げてはいません」
「逃げている」
信長が少し身を乗り出した。
「お前、昔からあんな考え方をしていたのか」
目が合った瞬間、千代丸の胸の奥がざわついた。
昔。
どこまでを昔と呼ぶのだろう。
この生で過ごした九年か。
それとも、その前か。
「覚えておりません」
「ふうん」
意外にも、信長はそれ以上追及しなかった。
もっと問い詰められると思っていただけに、千代丸はかえって警戒した。
「では、別のことを聞く」
「はい」
「俺と弟」
その言葉だけで、何を聞かれるのか分かった。
信長は笑っている。
だが、目は笑っていない。
「どちらが勝つ」
千代丸は黙った。
答えてはいけない質問だった。
織田家の内輪の争いについて、当主本人を前に勝敗を語るなど、普通なら許されることではない。
「分かりません」
「嘘だ」
「未来は誰にも分かりません」
「なら予想しろ」
「外れたら?」
「笑う」
「当たったら?」
「もっと笑う」
千代丸が露骨に嫌そうな顔をすると、信長は楽しそうに笑った。
「さあ」
どうやら逃がしてくれるつもりはないらしい。
千代丸は諦めた。
「今なら、弟君です」
空気が変わった。
普通なら主君本人を前にして言えることではない。
しかし、信長は怒らなかった。
むしろ興味を持ったように身を乗り出す。
「ほう」
「家中の支持が厚く、柴田様も林様もおられる。あなた様を嫌う者も多い」
「うむ」
「ですから、今戦えば弟君が有利でしょう」
「なら俺は負けるか」
「今なら」
「では五年後は?」
千代丸は信長を見た。
「あなた様です」
信長の笑みが止まった。
「なぜ」
千代丸は少し考えてから答える。
「弟君は、周囲にとって都合がよすぎます」
「……どういう意味だ」
「家臣から好かれ、礼を知り、人の話も聞く。それ自体は悪いことではありません」
「では何が悪い」
「皆が、自分の言うことを聞いてもらえると思い始めます」
信長の目がわずかに細くなった。
「家臣が主君を選び、自分たちに都合のよい主君を求めるようになれば、やがて主君より家臣の方が強くなる」
千代丸は言葉を続けた。
「弟君は家臣を従えているのではなく、家臣に支えられているように見えます。その支えがなくなった時、一人で立っていられるでしょうか」
信長は何も言わなかった。
千代丸も口を閉じる。
風が庭を抜け、木々の葉が静かに揺れた。
「では俺は?」
信長が尋ねる。
「何でしょう」
「俺は誰に支えられている」
千代丸は少し困った。
「分かりません」
「正直だな」
「お会いするのは二度目ですから」
「では、見た限りで言え」
千代丸は目の前の男を改めて観察した。
そして答える。
「誰にも支えられようとしていない」
信長が少し笑った。
「それが強いと?」
「強いとは言っておりません」
「では?」
「危険です」
一瞬の沈黙の後、信長が声を上げて笑った。
「ははははは! 俺を危険と言うか」
「はい」
「怖いか」
「はい」
迷わず答えると、信長はさらに笑った。
「そこは迷わんな」
「怖いものを怖くないと言う必要はありません」
信長は笑いながらも、しばらく千代丸から目を離さなかった。
やがて、何でもないことのように言った。
「千代丸」
「はい」
「俺に仕えろ」
千代丸はしばらく黙っていた。
「聞こえなかったか?」
「聞こえました」
「なら返事は」
「嫌です」
信長の動きが止まった。
遠くに控えている弥兵衛が、こちらを見たような気がした。
「……何?」
「嫌です」
もう一度はっきり答える。
信長の眉がわずかに上がった。
「理由は」
「私は九つです」
「関係ない」
「林道家の次男です」
「知っておる」
「なら、家で暮らしたい」
今度は信長が言葉を失った。
まるで思いもしなかった答えを聞いたような顔だった。
「それだけか」
「はい」
「城が欲しくないか」
「いりません」
「土地は?」
「今ので十分です」
「金は?」
「困っていません」
「名は?」
「残らなくて結構です」
信長はじっと千代丸を見つめた。
そして最後に尋ねる。
「天下は」
その言葉を聞いた瞬間、千代丸の目がわずかに変わった。
天下。
遠い昔、何度も聞いた言葉だった。
その二文字を欲しがり、争い、裏切り、死んでいった者を数え切れないほど見てきた。
だからこそ、答えに迷いはなかった。
「いりません」
「本当に?」
「天下など、欲しい者に取らせればよい」
その言葉を聞いた瞬間、信長の表情が変わった。
ほんの一瞬だけ、何か遠いものを思い出しかけたような顔をする。
しかし、それもすぐに消えた。
「……妙なことを言う」
「父の言葉です」
「父親が?」
「はい。天下など偉い者に取らせておけばよい、と」
信長はしばらく黙った後、笑った。
「面白い父だ」
「私もそう思います」
「なら、今はよい」
信長が立ち上がった。
千代丸も顔を上げる。
「今は?」
「九つの童を無理に取り上げれば、父親に恨まれる」
「ありがとうございます」
少し安心しかけた千代丸だったが、信長はそこで終わらなかった。
「だが、覚えておけ」
信長が千代丸を見下ろす。
「俺は欲しいものを諦めるのが嫌いだ」
その瞬間、千代丸の背中を寒気が走った。
まただ。
ずっと昔にも、似たようなことを言われた気がする。
誰に。
記憶の奥を探ろうとすると、なぜか身体がそれを拒む。
思い出せないのではない。
思い出したくないのだ。
「千代丸」
「はい」
「最後にもう一つだ」
「まだあるのですか」
「ある」
信長が笑った。
「俺が尾張を取ると思うか?」
千代丸は少し考えた。
そして、何気なく口にした。
「尾張だけですか」
信長の笑みが消えた。
しまった。
そう思った時には遅かった。
数秒の沈黙の後、信長の口元がゆっくりと持ち上がる。
「……なるほど」
「今のは」
「遅い」
「忘れてください」
「忘れん」
「忘れてください」
「絶対に忘れん」
最悪だった。
帰り道、弥兵衛が尋ねてきた。
「何を話されたので?」
「いろいろと」
「それで、なぜ信長様はあれほど笑っておられたので?」
千代丸はしばらく迷ったが、隠しても仕方がない。
「仕えろと言われました」
弥兵衛が足を止めた。
「……何と?」
「断りました」
弥兵衛の顔が引きつる。
「若様」
「はい」
「私は今、殿へ何と報告すればよいのか分からなくなりました」
「そのまま言えばよいでしょう」
「九歳の息子が織田家当主から仕官を誘われ、それを断ったと?」
「はい」
弥兵衛は天を仰いだ。
「殿が倒れますぞ」
「父上は丈夫です」
「そういう問題ではございませぬ」
千代丸は少し笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
信長。
やはり危険な男だ。
あの男は、尾張だけで終わるようには思えない。
なぜそう思うのかは分からない。
ただ、昔にも似たような男を知っていた。
誰よりも野心的で、同時に誰よりも現実的だった男。
敵か味方かに関係なく、才ある者を見つければ自分の手元へ置こうとした。
人を使うことに躊躇がなく、それでいて使える人間を誰よりも大切にした。
千代丸は目を閉じる。
すると、また遠い声が聞こえた気がした。
「余に仕えよ」
誰だ。
誰の声だ。
記憶を辿れば、今度こそ届いてしまいそうだった。
千代丸は考えるのをやめた。
思い出す必要などない。
これは二度目の人生だ。
もう過去とは関係ない。
千代丸が帰った後、信長は一人で庭に残っていた。
「尾張だけですか、か」
小さく呟き、口元を緩める。
誰にも話したことはない。
まず尾張をまとめる。
その先に何があるのか。
もっと遠くへ行けるのか。
まだ信長自身の中ですら、はっきりと形になっていない。
それなのに、あの童はまるで当然のようにその先を見た。
「林道千代丸」
信長が笑う。
「欲しいな」
風が吹いた。
信長が目を閉じると、また見覚えのない景色が浮かんだ。
遥か遠くまで続く巨大な軍勢。
無数の旗が風にはためいている。
その中で、一人の男が自分の前に立っていた。
若くはない。
鋭い目をしているのに、その顔からは何を考えているのか読み取れない。
なぜか、その男をひどく警戒している。
決して油断してはならない。
目を離してはならない。
そう感じている。
それなのに同時に、自分の手元から離したくないとも思っていた。
「……またか」
信長は目を開けた。
何なのだ、この景色は。
あの男は誰なのか。
答えは出ない。
それでも信長は笑った。
「まあよい」
いずれ、また会う。
なぜかそんな確信があった。
千代丸も信長も、まだ互いが何者なのかを知らない。
ただ一度目の乱世でも、一人はもう一人の才を欲し、一人はその男を恐れながらも傍らに仕え続けた。
千年以上の時を越え、二人の間には再び同じような縁が生まれ始めていた。




