第六話 うつけを選ぶ
清洲から戻って、数ヶ月が過ぎた。
林道家の暮らしは、表面上何も変わっていない。
田には人が出て、鍛冶屋からは槌を打つ音が響く。景久は相変わらず庭で木刀を振り、父・景政は領内を回っていた。母・志乃も屋敷の者たちに声をかけながら、いつも通りの日々を送っている。
千代丸も同じだった。
本を読み、人の話を聞き、領内を歩き、時には弥兵衛の木槍で地面へ転がされる。
ただ一つだけ、以前とは違うことがあった。
織田信長。
清洲で出会ったあの男のことが、どうしても頭から離れなかった。
「若様」
「はい」
「また死んでおりますぞ」
千代丸は地面に倒れたまま空を見上げた。
「今日は何度目です?」
「五度」
「まだ五度ですか」
「何が『まだ』でございます」
弥兵衛が呆れたように木槍を肩へ担ぐ。
千代丸は身体を起こし、服についた土を払った。
「もう一度」
「嫌です」
「なぜ」
「若様は負けるたびに嬉しそうな顔をされる」
「そうですか?」
「気味が悪うございます」
千代丸は少し考えた。
確かに、負けることそのものは嫌いではない。
正確には、なぜ負けたのかを知ることが好きだった。
敗因が分かれば次は潰せる。同じ失敗を繰り返さなければ、その敗北にも意味はある。
「弥兵衛」
「何でございましょう」
「織田三郎様について、どう思います?」
弥兵衛の目が細くなった。
「突然ですな」
「聞きたいだけです」
「うつけ」
「皆そう言います」
「ならば、うつけなのでしょう」
「弥兵衛はそう思っていない」
弥兵衛が千代丸を見る。
「なぜそう思われます」
「笑っていないから」
しばらく沈黙した後、弥兵衛が笑った。
「殿と同じことを申されますな」
「父上も?」
「はい」
千代丸は少し嬉しくなった。
やはり父も同じように見ているらしい。
「では」
「ただし」
弥兵衛の顔から笑みが消えた。
「うつけでないことと、名君であることは別にございます」
「分かっています」
「ならばよろしい」
そのとき、屋敷の門の方が騒がしくなった。
馬の蹄が地面を叩く音が聞こえ、続いて誰かが屋敷へ駆け込んでくる。
千代丸と弥兵衛は顔を見合わせた。
やってきたのは、林道家と縁のある土豪からの使者だった。
知らせは織田家について。
信秀亡き後、その跡を継いだ織田信長と、弟の信勝。
家中では信行と呼ぶ者もいるその弟を巡り、兄弟の対立が少しずつ表へ出始めているという。
広間には景政をはじめ、景久、千代丸、弥兵衛、それに古参の家臣たちが集められていた。
「殿」
使者が声を落とす。
「柴田様、林様らは、信勝様を推す動きを強めているとか」
景政は黙って聞いていた。
「信長様を嫌う者は多い」
家臣の一人が口を開く。
「信勝様の方が礼も知っておられる」
「家中での評判もよいと聞きます」
別の家臣も続いた。
「織田家中が割れれば、我らも無関係ではおられませんぞ」
景政が小さく息を吐いた。
その通りだった。
林道家は小さい。
大きな家の内紛に巻き込まれれば、どちらにつくかという選択一つで家そのものが消えかねない。
「父上」
景久が尋ねた。
「我らはどちらにつくのです?」
「まだ決めぬ」
「ですが」
「今決める必要はない」
千代丸はその答えを聞き、わずかに眉を動かした。
正しい。
少なくとも今は。
情報が足りない段階で旗を決める必要はない。
ただし、いつまでも中立でいられるとは限らない。
「千代丸」
不意に景政から名前を呼ばれた。
「はい」
「お前はどう思う」
広間にいる者たちの視線が一斉に集まった。
千代丸は内心で困った。
最近、父はこういう場面になると自分へ意見を求めることが増えている。
信用されているのだろう。
嬉しくないわけではない。
しかし、同時に目立つ。
「まだ決めなくてよいと思います」
家臣たちの何人かが安心したような顔をした。
だが景政は、それで話を終わらせなかった。
「ならば、決める時が来たらどちらだ」
千代丸は黙った。
それについては、すでに心の中で答えが出かけていた。
「信長様です」
広間が静まり返った。
「千代丸」
景久が驚いた顔をする。
「本気か?」
「はい」
「なぜだ」
千代丸はすぐには答えず、広間にいる者たちを見回した。
「信勝様について、皆は何と言っています?」
景政は黙っている。
代わりに家臣たちが答えた。
「礼儀正しい」
「家臣思いだ」
「織田家当主にふさわしいとも聞く」
千代丸は頷いた。
「では、信長様は?」
「うつけ」
誰かの答えに小さな笑いが起こる。
「粗暴」
「常識を知らぬ」
「家臣の言うことを聞かぬ」
千代丸はそれを聞いてから口を開いた。
「だからです」
「何がだ?」
景久には意味が分からないらしい。
「信勝様は、皆が理解できます。何をすれば喜ぶのか、何をすれば怒るのか。どう振る舞えば家臣に好かれるのかも分かる」
そこで景政が尋ねる。
「では、信長様は?」
「分かりません」
「それが良いと?」
「少なくとも、敵に回すなら嫌です」
景久が眉を寄せた。
「意味が分からん」
「兄上が戦うとして、考えていることが読める相手と、何をするか分からない相手なら、どちらが嫌です?」
景久は答えなかった。
代わりに弥兵衛が小さく笑う。
「なるほど」
千代丸は続けた。
「信長様が本当に愚かなだけなら、いずれ自滅します。ならば放っておけばよい」
広間に笑う者はいなくなっていた。
「ですが、皆があれほど信長様を嫌い、恐れ、噂している。本当に何の力もない愚か者なら、そこまで人の目を集めるでしょうか」
景政の目が細くなる。
「それだけか」
「いいえ」
千代丸の脳裏に、清洲で見た信長の顔が浮かんだ。
「信長様は、自分が嫌われていることを知っています」
あの目。
あの笑い。
周囲が自分をどう見ているのか、何も分かっていない男には見えなかった。
「知っていて、それでも変わろうとしない」
千代丸は少し言葉を選んだ。
「それが怖いのです」
景久が思わず笑った。
「お前、やっぱり信長様が怖いんだな」
「はい」
即答すると、景久はさらに笑う。
「そこは否定しないのか」
「怖いです」
千代丸は真顔のまま続けた。
「だから敵にしたくありません」
すると古参の家臣が口を開いた。
「しかし若様。信勝様には柴田様がおられる。林様もおり、家中の支持も厚いと聞きます」
「はい」
「ならば今は、信勝様の方が強いのでは?」
「そうでしょうね」
「なら、なおさら信勝様につくべきでは?」
千代丸は首を横に振った。
「今は、です」
家臣の顔を見る。
「五年後は?」
誰も答えない。
「十年後は?」
広間が静まる。
千代丸は父へ向き直った。
「父上」
「なんだ」
「林道家は、今日だけ残ればよい家ですか?」
景政の眉がわずかに動いた。
「来年も、五年後も、十年後も残らなければ意味がありません。ならば今強い方ではなく、最後に残る方を選ぶべきです」
空気が変わった。
景政は長い間、息子を見つめていた。
「お前は、信長様が最後に残ると思うのか」
千代丸はすぐには答えられなかった。
未来など知らない。
織田信長という男がこの先何をするのかも、どのような最期を迎えるのかも知らない。
一度会っただけだ。
言葉を交わした時間も短い。
それでも、あの男の目を思い出すと妙な確信があった。
「あの方は、簡単には死にません」
なぜそう思うのか。
千代丸自身にも、まだ分からなかった。
その夜、千代丸は父に呼ばれた。
部屋には二人しかいない。
「千代丸」
「はい」
「今日の話は誰にも言うな」
「分かっています」
景政は杯の酒を少し口にした。
「信勝様を推す者が聞けば、林道家が信長方だと思われる」
「はい」
「それだけではない。信長様の耳に入っても困る」
千代丸は少し驚いた。
「なぜです?」
「九歳の童が織田家の跡目を評し、最後に残るのは信長様だと言ったのだぞ」
景政は苦笑した。
「そんな話、あの御方なら面白がるに決まっておろう」
千代丸の表情が曇った。
「……それは困ります」
「だろうな」
景政が笑った。
しばらくして、杯を置く。
「千代丸」
「はい」
「お前は林道家をどうしたい」
突然の問いだった。
「どう、とは?」
「大きくしたいか。城を持ちたいか。もっと土地が欲しいか」
千代丸は考えた。
前の生ならば、領地も兵も力も、多ければ多いほどよかった。
だが今、頭に浮かんだのは別のものだった。
父。
母。
兄。
弥兵衛。
領民たち。
この小さな屋敷と、見慣れた庭。
千代丸は首を横に振った。
「いりません」
「本当に?」
「はい」
「では、何が欲しい」
少しだけ迷ってから答えた。
「今のまま残れば、それでよいです」
景政は何も言わなかった。
やがて、その顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「やはり、お前は林道の子だ」
それからしばらく、林道家は旗色を明確にしなかった。
信長にも、信勝にも深く寄らない。
その代わり、情報だけは集め続けた。
清洲。
那古野。
末森。
誰が誰と会い、誰が誰を嫌っているのか。どの家が信長へ近づき、どの家が信勝へ傾いたのか。
千代丸は集まってくる話を黙って聞き、頭の中へ入れていった。
やがて一つ、気になることが出てきた。
「父上」
「なんだ」
「信勝様側、人が増えすぎています」
景政が手を止める。
「悪いことか?」
「普通なら良いことです」
「普通なら?」
「人が増えれば、それだけ力は大きくなります。ただ、同時に意見も欲も増える」
景政は黙って聞いている。
「誰が一番偉いのか。誰が最も功を立てたのか。誰の意見を優先するのか。皆が同じことを考えるわけではありません」
千代丸には、よく分かっていた。
勢力は大きければ大きいほど強いとは限らない。
人が集まれば派閥が生まれる。
家臣が力を持ちすぎれば、やがて主君を支えるのではなく、自分たちの都合のよいように主君を動かそうとする者も出てくる。
「信勝様は、それをまとめられるでしょうか」
景政は答えなかった。
千代丸も、それ以上は言わない。
まだ信勝本人を見たわけではないのだ。
決めつけるには早い。
「父上」
「なんだ」
「まだ待ちましょう」
「いつまでだ」
「向こうから、こちらに選ばせようとしてくるまで」
景政が息子を見る。
「来ると思うのか」
「はい」
「なぜ」
千代丸は静かに答えた。
「争っている者にとって、中立ほど信用できないものはありませんから」
その日は、千代丸が思っていたよりも早く訪れた。
数週間後の夕刻。
林道家の門前へ、五騎の騎馬が現れた。
掲げられているのは織田木瓜の旗。
たちまち屋敷が騒がしくなった。
「殿!」
家臣が駆け込んでくる。
「織田家より使者にございます!」
景政が立ち上がり、千代丸も顔を上げた。
「どちらの織田だ」
家臣は一度息を整えてから答えた。
「三郎信長様にございます」
千代丸の胸の奥で、嫌な予感がした。
広間へ通された使者は、一通の書状を景政へ差し出した。
景政は黙って目を通していたが、途中でその表情がわずかに変わる。
「何と?」
弥兵衛が尋ねた。
景政はすぐには答えなかった。
書状から顔を上げ、その視線をゆっくり千代丸へ向ける。
嫌な予感が、さらに強くなった。
「父上」
「……千代丸」
「はい」
景政は深く息を吐いた。
「お前を清洲へ寄越せとある」
広間が静まり返った。
「……私を?」
「そうだ」
「なぜです」
景政はもう一度書状へ目を落とした。
「理由は短く書かれている」
そして息子を見る。
「『あの童と、もう一度話がしたい』」
千代丸は目を閉じた。
最悪だ。
清洲で信長から「覚えておく」と言われた。
まさか本当に覚えているとは思わなかった。
「千代丸」
隣から景久の明るい声が聞こえる。
「よかったな!」
千代丸は目を開け、兄を見る。
「どこがです」
「信長様に気に入られてるぞ!」
「だから困っているのです」
「何でだよ」
千代丸は小さく息を吐いた。
「兄上」
「なんだ」
「狼に巣穴へ来いと言われて、喜ぶ兎がいますか」
景久が吹き出した。
景政も弥兵衛も、わずかに笑っている。
だが千代丸だけは笑えなかった。
信長を狼に例えた瞬間、頭の奥に遠い記憶が浮かんだからだ。
巨大な宮殿。
低く響く笑い声。
こちらの腹の内まで見抜こうとする鋭い目。
そして、聞き覚えのある声。
「貴様は、やはり面白い男だ」
千代丸の身体がわずかに固まった。
その声の主が誰なのか。
答えはもう、記憶のすぐ近くまで来ている。
それでも千代丸は、その名を思い出そうとはしなかった。
思い出せば何かが変わってしまう。
そんな予感があった。
同じ頃、清洲では織田信長が千代丸への使者を出したという報告を聞いていた。
「そうか」
それだけ答え、信長は楽しそうに笑う。
林道千代丸。
たった一度会っただけの九歳の童。
それなのに、もう一度会ってみたいと思った。
理由を問われても、信長自身うまく答えられない。
あの奇妙な知恵だけが理由ではなかった。
自分を見るあの目が、どうにも気になる。
初めて会ったはずなのに、初めてではないような感覚が残っている。
まるで昔どこかで出会い、一度失った何かを見つけたような。
信長はその正体をまだ知らない。
ただ、千代丸が再び清洲へやって来るのを楽しみに待っていた。




