第六話 うつけを選ぶ
清洲から戻って、数ヶ月が過ぎた。
林道家の暮らしは、表面上は何も変わらなかった。
田には人が出る。
鍛冶屋では槌の音が響く。
景久は相変わらず庭で木刀を振っている。
父・景政は領内を回り、母・志乃は屋敷の者たちに声をかける。
千代丸も。
以前と同じように、本を読み、人の話を聞き、弥兵衛に槍で転がされていた。
ただ一つ。
変わったことがある。
千代丸の頭から。
織田信長という男が離れなくなった。
◇◇◇
「若様」
「はい」
「また死んでおりますぞ」
千代丸は地面に倒れたまま、空を見上げた。
「今日は何度目です?」
「五度」
「まだ五度ですか」
「何が『まだ』でございます」
弥兵衛が木槍を肩に担ぐ。
千代丸は起き上がった。
「もう一度」
「嫌です」
「なぜ」
「若様は、負けるたびに嬉しそうな顔をされる」
「そうですか?」
「気味が悪うございます」
千代丸は少し考えた。
確かに。
負けるのは嫌いではない。
正確には。
負けた理由が分かるのが好きだった。
敗因が分かれば、次は潰せる。
潰せば。
同じ負け方はしない。
ただそれだけだ。
「弥兵衛」
「何でございましょう」
「織田三郎様について、どう思います?」
弥兵衛の目が細くなった。
「突然ですな」
「聞きたいだけです」
「うつけ」
「皆そう言います」
「では、うつけなのでしょう」
「弥兵衛は思っていない」
弥兵衛が千代丸を見る。
「なぜそう思われます」
「笑っていないから」
しばらく沈黙。
そして。
弥兵衛が笑った。
「殿と同じことを申されますな」
「父上も?」
「はい」
千代丸は少し嬉しかった。
「では」
「ただし」
弥兵衛の顔から笑みが消える。
「うつけでないことと、名君であることは別にございます」
千代丸は頷いた。
「分かっています」
「ならばよろしい」
その時。
屋敷の門の方が騒がしくなった。
馬の音。
誰かが駆け込んでくる。
千代丸と弥兵衛は顔を見合わせた。
◇◇◇
使者だった。
林道家と縁のある土豪から。
そして。
知らせは一つではなかった。
織田信長。
その弟。
信勝。
いや。
家中では信行と呼ぶ者もいる。
兄弟の対立が。
少しずつ。
表へ出始めていた。
「殿」
使者が言う。
「柴田様、林様らは、信勝様を推す動きを強めているとか」
景政は黙っている。
広間。
景久。
千代丸。
弥兵衛。
古参の家臣たち。
皆が集まっていた。
「信長様を嫌う者は多い」
家臣の一人が言った。
「信勝様の方が、礼も知っておられる」
「評判もよい」
別の男。
「織田家中が割れれば、我らも無関係ではおられませんぞ」
景政が小さく息を吐く。
その通りだった。
林道家は小さい。
だから。
大きな家の争いに巻き込まれれば。
簡単に消える。
「父上」
景久が言う。
「我らはどちらにつくのです?」
「まだ決めぬ」
「ですが」
「今決める必要はない」
景政の言葉に。
千代丸は少し眉を動かした。
正しい。
まだ。
今は。
だが。
永遠に決めずに済むわけではない。
「千代丸」
父が言う。
「お前はどう思う」
広間の視線が集まる。
千代丸は少し嫌だった。
まただ。
最近。
父は。
こういう時に千代丸へ聞く。
それは。
信用されているということでもある。
同時に。
目立つということでもあった。
「まだ決めなくてよいと思います」
家臣たちが少し安心した顔をする。
景政だけは続けた。
「ならば」
「はい」
「決める時が来たら、どちらだ」
千代丸は黙った。
◇◇◇
答えは。
ほとんど決まっていた。
信勝。
評判がいい。
礼を知る。
家臣に好かれる。
だから。
弱い。
そう単純に言うつもりはない。
好かれることは。
力だ。
兄・景久を見れば分かる。
人望は。
兵を動かす。
家臣を動かす。
民を動かす。
だが。
それだけでは足りない。
「信長様です」
広間が静まった。
「千代丸」
景久が言う。
「本気か?」
「はい」
「なぜ」
千代丸は父を見る。
「信勝様について、皆が何と言っています?」
景政は答えない。
代わりに家臣が言った。
「礼儀正しい」
「家臣思い」
「織田家当主にふさわしい」
千代丸は頷く。
「では信長様は?」
「うつけ」
少し笑いが起きる。
「粗暴」
「常識知らず」
「家臣の言うことを聞かぬ」
千代丸は。
そこで。
小さく笑った。
「だからです」
「何がだ」
景久が聞く。
「信勝様は」
千代丸は言う。
「皆が理解できます」
誰も喋らない。
「こうすれば喜ぶ」
「こうすれば怒る」
「こうすれば家臣がついてくる」
「それが分かる」
「では信長様は?」
父。
景政が聞いた。
千代丸は答える。
「分かりません」
「それが良いと?」
「はい」
景久が眉を寄せる。
「意味が分からん」
「兄上」
「何だ」
「戦う時」
千代丸は兄を見る。
「考えていることが全部分かる相手と」
「何をするか分からない相手」
「どちらが嫌です?」
景久は黙った。
弥兵衛が。
少し笑った。
「なるほど」
千代丸は続ける。
「信長様が本当に愚かなのなら」
「いずれ自滅します」
「ならば放っておけばよい」
「しかし」
「皆があれほど恐れ」
「嫌い」
「噂する」
千代丸は広間を見回す。
「本当にただの愚か者に」
「そこまで人が目を向けますか」
沈黙。
景政の目が細くなる。
「それだけか」
「いいえ」
千代丸は答えた。
「信長様は」
「自分が嫌われていることを知っています」
清洲。
あの目。
あの笑い。
忘れていない。
「知っていて」
「変わらない」
「それが」
千代丸は少し言葉を選んだ。
「怖い」
景久が。
思わず笑った。
「お前、やっぱり信長様が怖いんだな」
「はい」
即答。
「そこは否定しないのか」
「怖いです」
千代丸は続ける。
「だから」
「敵にしたくありません」
◇◇◇
広間。
しばらく。
誰も喋らなかった。
やがて。
古参の家臣が言う。
「しかし若様」
「信勝様には柴田様がおられる」
「林様も」
「家中の支持も厚い」
「はい」
千代丸は頷く。
「だから」
「今は信勝様の方が強いでしょう」
「なら」
「なおさら信勝様では?」
千代丸は。
首を横に振った。
「今は」
家臣を見る。
「今はです」
「五年後は?」
誰も答えない。
「十年後は?」
「……」
千代丸は父を見る。
「父上」
「なんだ」
「林道家は」
「今日だけ残ればよい家ですか?」
景政の眉が。
わずかに動く。
千代丸は続けた。
「来年も」
「五年後も」
「十年後も」
「残らなければ意味がありません」
「……」
「ならば」
一拍。
「今強い方ではなく」
「最後に残る方につくべきです」
空気が変わった。
父。
景政は。
千代丸を見ていた。
長く。
「お前は」
低い声。
「信長様が残ると思うのか」
千代丸は。
すぐには答えなかった。
分からない。
未来など。
知らない。
織田信長という名が。
この先どうなるか。
知るはずがない。
ただ。
一度。
目を見た。
それだけ。
それだけなのに。
妙な確信がある。
「あの方は」
千代丸は言った。
「簡単には死にません」
なぜそう思うのか。
自分でも。
分からなかった。
◇◇◇
その夜。
景政は。
千代丸を呼んだ。
二人だけだった。
「千代丸」
「はい」
「今日の話」
「はい」
「誰にも言うな」
「分かっています」
父が。
酒を少し飲む。
「信勝様を推す者が聞けば」
「林道家が信長方だと思われます」
「はい」
「それだけではない」
景政は。
息子を見る。
「信長様の耳に入っても困る」
千代丸は少し驚いた。
「なぜです?」
「九歳の童が」
「織田家の跡目を評した」
景政は苦笑する。
「そんな話」
「面白がるに決まっておろう」
千代丸の顔が。
少し曇る。
「……それは困ります」
「だろうな」
父が笑う。
そして。
少し間。
「千代丸」
「はい」
「お前は」
「林道家をどうしたい」
突然だった。
千代丸は。
答えに詰まる。
「どう、とは」
「大きくしたいか」
「……」
「城を持ちたいか」
「……」
「もっと土地が欲しいか」
千代丸は。
考える。
そして。
首を横に振った。
「いりません」
「本当に?」
「はい」
「では何が欲しい」
少し迷った。
父。
母。
兄。
領民。
小さな屋敷。
庭。
弥兵衛。
「今のまま」
千代丸は言った。
「残れば」
「それでよいです」
景政は。
何も言わなかった。
やがて。
小さく笑った。
「やはり」
「お前は林道の子だ」
◇◇◇
それから。
しばらく。
林道家は。
旗を明確にしなかった。
信長にも。
信勝にも。
深く寄らない。
ただ。
情報だけは集めた。
清洲。
那古野。
末森。
誰が誰と会った。
誰が誰を嫌っている。
誰がどちらへ動いた。
千代丸は。
黙って聞いた。
覚えた。
そして。
あることに気づく。
「父上」
「なんだ」
「信勝様側」
「人が増えすぎています」
景政が。
手を止める。
「悪いことか?」
「普通なら良いことです」
「普通なら?」
「はい」
千代丸は。
考えながら言う。
「人が増えると」
「意見も増えます」
「欲も増えます」
「誰が一番偉いか」
「誰が一番功を立てたか」
「誰の言うことを聞くか」
「……」
「信勝様は」
「それをまとめられるでしょうか」
父は。
何も言わない。
千代丸は。
自分の中に。
昔からある感覚を。
思い出していた。
勢力とは。
大きければ強いわけではない。
人が増えれば。
割れる。
家臣が増えれば。
派閥ができる。
そして。
主が弱ければ。
家臣が主を使い始める。
「父上」
「なんだ」
「まだ待ちましょう」
「いつまでだ」
千代丸は答えた。
「向こうから」
「こちらを選ばせに来るまで」
景政が。
息子を見る。
「来ると思うのか」
「はい」
「なぜ」
千代丸は。
静かに言った。
「人は」
「中立を嫌います」
◇◇◇
そして。
その日は。
思ったより早く来た。
数週間後。
夕刻。
林道家の門前に。
騎馬の一団が現れた。
五騎。
旗。
織田の木瓜。
屋敷が。
騒がしくなる。
「殿!」
家臣が走る。
「織田家より使者にございます!」
景政が立ち上がった。
千代丸も。
顔を上げる。
「どちらの織田だ」
景政が聞く。
使者役の家臣は。
一瞬。
息を整え。
答えた。
「三郎信長様にございます」
千代丸の胸が。
少しだけ。
嫌な音を立てた。
◇◇◇
広間。
使者は。
一通の書状を差し出した。
景政が読む。
そして。
顔を上げた。
「何と」
弥兵衛が聞く。
父は。
しばらく答えなかった。
その視線が。
ゆっくり。
千代丸へ向く。
嫌な予感。
「父上」
「……千代丸」
「はい」
景政は。
深く息を吐いた。
「お前を」
「清洲へ寄越せとある」
広間が。
静まり返った。
「……私を?」
「そうだ」
「なぜ」
父は。
書状を見る。
「理由は」
短く書かれている。
それだけ言い。
景政は。
千代丸を見る。
「『あの童と、もう一度話がしたい』」
千代丸は。
目を閉じた。
最悪だ。
清洲で。
信長に。
覚えておくと言われた。
まさか。
本当に。
覚えているとは。
「千代丸」
兄・景久が。
嬉しそうに言った。
「よかったな!」
千代丸は。
兄を見る。
「どこがです」
「信長様に気に入られてるぞ!」
「だから困っているのです」
「何でだよ」
「兄上」
「なんだ」
千代丸は。
小さく息を吐いた。
「狼に」
「巣穴へ来いと言われて」
「喜ぶ兎がいますか」
景久が笑った。
父も。
弥兵衛も。
少しだけ笑った。
だが。
千代丸だけは。
笑えなかった。
なぜなら。
あの男を。
狼に例えた瞬間。
頭の奥に。
また。
遠い記憶が浮かんだからだ。
巨大な宮殿。
低い笑い声。
鋭い目。
そして。
聞き覚えのある声。
――貴様は、やはり面白い男だ。
千代丸の身体が。
わずかに固まる。
だが。
その名が。
誰のものなのか。
彼は。
まだ。
思い出そうとはしなかった。
いや。
思い出してはならないと。
どこかで。
分かっていた。
そして。
清洲では。
織田信長が。
千代丸の返事を待っていた。
楽しそうに。
まるで。
昔失くした何かを。
もう一度。
見つけたかのように。




