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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第五話 うつけ


清洲へ向かう道中。


千代丸は、少し後悔していた。


「千代丸! 見ろ!」


兄・景久が指を差す。


「人が多いぞ!」


「見れば分かります」


「店もある!」


「町ですから」


「馬も多い!」


「兄上」


「なんだ?」


「少し静かにしてください」


「お前は九つのくせに冷めすぎなんだ!」


景久は不満そうだった。


千代丸は小さく息を吐く。


清洲。


林道家の領地とは比べものにならない。


道を行き交う人間。


商人。


荷車。


馬。


武士。


町人。


千代丸は景久とは違うところを見ていた。


道幅。


荷物の量。


人の流れ。


店の種類。


米の値。


そして武士の数。


(なるほど)


人が集まるということは、物が集まるということ。


物が集まれば金が動く。


金が動けば兵を養える。


当たり前のことだ。


だが。


林道家の小さな領地にいるだけでは分からない。


「どうだ」


父・景政が馬上から聞いた。


「何がです?」


「清洲だ」


千代丸は周囲を見る。


「強いですね」


景久が吹き出した。


「町を見て最初に言うことがそれか!」


景政は笑わなかった。


「なぜそう思う?」


「人が多い」


「それだけか?」


「荷も多い」


千代丸は一台の荷車を見る。


「米だけではありません。布、塩、油、鉄」


景政の目が少し細くなる。


「続けろ」


「これだけ物が集まるなら、戦になっても長く兵を養えます」


「……」


「土地だけ持っていても、兵は動かせません」


景久が首を傾げる。


「土地があれば米が取れるだろ」


「兄上」


「なんだ」


「一万人に毎日米を食べさせるなら、どうします?」


「……いっぱい炊く」


千代丸は兄を見る。


景政が笑った。


「景久」


「はい」


「お前は黙っておれ」


「父上まで!」


◇◇◇


清洲へ来た理由は、織田家への挨拶だった。


織田信秀が死んだ。


その跡を継いだ織田三郎信長。


林道家ほどの小土豪に、織田家の跡目へ直接口を出す力などない。


だからこそ。


誰が上に立とうと、


「林道家に敵意はありません」


と示しておく必要がある。


小さな家には小さな家なりの生き方がある。


千代丸は、その点では父を高く評価していた。


勝てない相手とは戦わない。


敵にする必要のない相手は敵にしない。


(父上は、やはり優秀だ)


天下を取る才能はない。


だが。


家を残す才能がある。


それは決して小さな能力ではない。


「千代丸」


父が言う。


「今日は余計なことを言うな」


「言いません」


「本当だな?」


「はい」


「五歳の時もそう言っておった」


「言っていません」


「そうだったか?」


「はい」


「ならば、なおさら信用できんな」


千代丸は不満だった。


◇◇◇


しばらく待たされた。


当然だ。


林道家は小さい。


織田家から見れば、数ある土豪の一つにすぎない。


千代丸は退屈していた。


景久はもっと退屈していた。


「なあ」


「何です?」


「外を見てきてもいいと思うか?」


「父上に怒られます」


「少しだけだ」


「私は知りません」


「一緒に来い」


「嫌です」


「行くぞ」


「嫌です」


結局。


兄に腕を掴まれて連れ出された。


◇◇◇


屋敷の裏手。


景久は楽しそうに歩いている。


千代丸は呆れていた。


「兄上」


「なんだ」


「戻りましょう」


「もう少し」


「怒られるのは兄上だけにしてください」


「弟なら一緒に怒られろ」


「理不尽です」


そのときだった。


声が聞こえた。


「おい!」


男の声。


二人が振り返る。


若者がいた。


年は十代後半ほど。


妙な格好だった。


髪は乱れている。


着物の着方も武家らしくない。


腰には刀。


だが。


立ち方が違う。


千代丸は足を止めた。


(……)


何だ。


この男は。


「お前ら」


若者が言う。


「どこの小倅だ?」


景久が一歩前へ出る。


「そちらこそ誰だ!」


千代丸は兄の袖を掴んだ。


「兄上」


「なんだ」


「やめた方がいい」


「なぜだ?」


千代丸は答えなかった。


分からない。


だが。


身体が警告している。


この男に逆らうな。


「ほう」


若者が千代丸を見る。


「弟の方が利口らしい」


景久の眉が動く。


「何だと!」


「兄上」


「止めるな!」


「止めています」


若者が笑った。


その笑い方。


千代丸の胸が。


大きく鳴った。


(……?)


どこかで。


見た。


いや。


そんなはずはない。


「おい、小さい方」


若者が言う。


千代丸は答えない。


「名は?」


「人に名を聞くなら、まず自分から名乗るものでは?」


景久の顔が青くなった。


「千代丸!」


若者は一瞬。


ぽかんとした。


そして。


大声で笑った。


「ははははは!」


千代丸は眉を寄せる。


何がおかしい。


「気に入った!」


若者が近づいてくる。


千代丸は動かなかった。


いや。


動けなかった。


一歩。


また一歩。


近づく。


そして。


若者の顔が、はっきり見えた。


違う。


顔は違う。


声も違う。


背丈も違う。


何もかも違う。


なのに。


目。


その目だけが。


記憶の奥底にある誰かと重なった。


◇◇◇


――顔を上げろ。


遠い声。


巨大な屋敷。


自分は頭を下げている。


目の前に男がいる。


――余を見ろ。


顔を上げる。


男の目。


人を値踏みする目。


利用できるか。


危険か。


殺すべきか。


生かすべきか。


一瞬でそれを判断しようとする目。


――貴様。


男が笑う。


――狼顧の相があるそうだな。


◇◇◇


「……っ!」


千代丸は一歩下がった。


「ん?」


若者が止まる。


「どうした」


「……」


「俺の顔に何かついているか?」


千代丸は答えられない。


(馬鹿な)


あり得ない。


何年前だ。


何百年。


いや。


千年以上。


そもそもここは、あの国ですらない。


(そんなはずがない)


若者が千代丸を見ている。


先ほどまでの笑顔ではない。


目が細くなっている。


観察している。


「お前」


若者が言った。


「俺を知っているのか?」


心臓が跳ねる。


「……いいえ」


「本当か?」


「初めてお会いします」


「そうか」


若者は納得していない。


「なら」


一歩近づく。


「なぜ、そんな顔をした」


「どんな顔でしょう」


「死人を見たような顔だ」


千代丸は黙った。


鋭い。


やはり。


似ている。


「気のせいです」


「ふうん」


若者は千代丸の周りを歩く。


右。


後ろ。


左。


まるで品物を見るように。


不愉快だった。


そして。


懐かしかった。


(……懐かしい?)


なぜ。


そんな感情が出る。


「千代丸と言ったな」


「はい」


「姓は?」


一瞬迷った。


「林道」


「知らんな」


「でしょうね」


若者がまた笑う。


「お前、本当に面白いな」


「よく言われます」


「誰に」


「父に」


「父は見る目がある」


「迷惑していると思います」


「ははは!」


また笑った。


そのとき。


「殿!」


遠くから声がした。


数人の武士が走ってくる。


千代丸は振り返る。


先頭の男が若者の前で頭を下げた。


「このようなところに! お探し申しましたぞ!」


「うるさい」


「しかし――」


武士が景久と千代丸を見る。


「その者らは?」


若者が答える。


「知らん」


そして。


千代丸を見る。


「林道とかいう小さな家の小倅だ」


千代丸の眉がわずかに動く。


小さいのは事実なので反論できない。


景久は状況を理解していない。


「千代丸」


小声で聞く。


「殿って誰だ?」


千代丸は嫌な予感がした。


若者が笑う。


「そういえば、まだ名乗っていなかったな」


千代丸を見る。


その瞬間。


なぜか。


聞きたくない。


そう思った。


「織田三郎」


若者が言う。


「信長だ」


世界から音が消えた気がした。


織田。


信長。


何度か聞いた名前。


うつけ。


織田信秀の嫡男。


そして。


今。


織田家を継いだ男。


(この男が……)


信長。


景久の顔が真っ青になる。


「え……」


数秒。


「えええええっ!?」


景久が叫んだ。


「兄上、うるさい」


「お、お、お、お前!」


「兄上」


「さっき何て言った!?」


「兄上が言いました」


「俺!?」


信長が腹を抱えて笑っている。


「面白い兄弟だ!」


千代丸だけは笑えなかった。


信長。


この男が。


なぜ。


あの男に見える。


◇◇◇


父・景政は。


当然、激怒した。


「申し訳ございませぬ!」


頭を床につける。


隣で景久も頭を下げている。


「申し訳ございません!」


千代丸も頭を下げた。


「申し訳ございません」


「お前はもう少し反省している声を出せ!」


父に怒られた。


理不尽だと思った。


信長は上座で笑っている。


「よい」


「しかし!」


「俺がよいと言っている」


景政が黙る。


信長は景久を見る。


「兄」


「は、はい!」


「名は」


「はっ! 林道景久にございます!」


「そうか」


次に。


千代丸。


「弟」


「はい」


「千代丸」


「はい」


信長はしばらく千代丸を見る。


まただ。


あの目。


値踏みしている。


千代丸も信長を見る。


互いに黙る。


周囲の人間が困惑するほど長く。


やがて。


信長が言った。


「九つだったな」


「はい」


「戦を見たことは?」


景政が顔を上げる。


「殿、その子は――」


「黙っておれ」


信長は千代丸だけを見る。


「あるのか」


「一度だけ」


「どうだった?」


千代丸は考えた。


父を見る。


余計なことを言うな。


そう言われている。


「恐ろしゅうございました」


無難に答えた。


信長の目が細くなる。


「嘘をつけ」


千代丸の眉が動く。


「なぜそう思われます」


「お前は俺を見た時の方が怖そうだった」


「……」


信長が笑う。


「戦より俺の方が怖いか?」


答えられない。


ある意味。


その通りだった。


「では」


信長が身を乗り出す。


「一つ聞こう」


広間が静かになる。


「敵が千」


信長が言う。


「味方が百」


千代丸を見る。


「お前ならどうする?」


景政の顔色が変わる。


「殿!」


「子供との遊びだ」


信長は笑っている。


だが。


目は笑っていない。


千代丸は思った。


試されている。


なぜ自分を試す。


ただの九歳。


小土豪の次男。


答える必要はない。


「逃げます」


千代丸は言った。


信長が少し笑う。


「逃げられぬ」


「降伏します」


「許されぬ」


「交渉します」


「相手は聞かぬ」


「では戦いません」


信長の眉が動いた。


「聞こえなかったか?」


「聞いております」


「敵が千。味方が百だ」


「はい」


「戦わなければ殺される」


千代丸は信長を見る。


「ならば」


少し間を置く。


「敵を千のままにしなければよろしい」


広間の空気が変わった。


信長の笑みが消える。


「……どういう意味だ」


「千人全員が、同じ理由で戦っているとは思えません」


千代丸は続ける。


「金が欲しい者」


「土地が欲しい者」


「主君が怖いだけの者」


「仕方なく来た者」


「敵の中にも、敵がおります」


誰も喋らない。


「百で千と戦えば負けます」


千代丸は言う。


「ならば三百を裏切らせる」


「二百を帰らせる」


「残った五百が戦う前に」


一拍。


「その大将を殺します」


静寂。


景政は顔を伏せている。


おそらく。


頭を抱えたいのだろう。


弥兵衛だけが。


ほんの少し笑っていた。


信長は。


千代丸を見ていた。


長い。


長い沈黙。


そして。


「は」


声が漏れた。


「はは」


信長が笑う。


「ははははははは!」


立ち上がった。


「面白い!」


千代丸は少し後悔した。


まただ。


また目立った。


「林道千代丸」


信長が名前を呼ぶ。


「はい」


「覚えておくぞ」


それは。


千代丸にとって。


まったく嬉しくない言葉だった。


◇◇◇


林道家へ帰る道。


父は一言も喋らなかった。


兄も。


千代丸も。


しばらくして。


景政が言った。


「千代丸」


「はい」


「私は何と言った」


「余計なことを言うな、と」


「ではなぜ言った」


「聞かれたからです」


「……」


「答えない方が失礼かと」


父は空を見上げた。


「お前という奴は……」


「申し訳ありません」


景久が笑いを堪えている。


「兄上」


「なんだ」


「笑っていますね」


「笑ってない」


「笑っています」


「お前、信長様に気に入られたな!」


「やめてください」


「よかったじゃないか!」


「まったくよくありません」


千代丸は振り返った。


清洲は遠くなっている。


もう信長の姿は見えない。


なのに。


あの目だけが。


頭から離れなかった。


(似ている)


認めたくない。


だが。


あまりにも似ている。


人を見る目。


笑い方。


そして。


人の才を見つけた時。


玩具でも見つけたように喜ぶところまで。


千代丸は目を閉じる。


遠い記憶。


一人の男。


英雄。


奸雄。


自分が長い間。


決して逆らおうとしなかった男。


名前が。


喉元まで出かかった。


だが。


飲み込んだ。


(あり得ぬ)


あの男は死んだ。


自分も死んだ。


ここは日本。


あの国ではない。


ただ似ているだけだ。


そう。


それだけだ。


◇◇◇


同じころ。


清洲。


信長は一人、縁側に座っていた。


「林道千代丸」


名前を口にする。


九歳。


小土豪の次男。


普通なら。


明日には忘れている。


だが。


忘れられない。


あの目。


自分を恐れていた。


それだけではない。


警戒していた。


まるで。


自分が何をする人間なのか。


昔から知っているような目だった。


「……気に食わんな」


信長は呟く。


だが。


口元は笑っている。


「敵を千のままにしない、か」


面白い。


そして。


なぜだろう。


あの童を見ていると。


妙な感覚がある。


懐かしい。


いや。


それだけではない。


もっと。


嫌な感覚。


放っておいてはいけない。


そんな気がする。


信長は目を閉じた。


すると。


一瞬。


知らない景色が浮かんだ。


巨大な宮殿。


見たこともない衣。


そして。


自分の前で頭を下げている一人の男。


顔は見えない。


ただ。


奇妙なことに。


信長は、その男へ言葉をかけた。


夢なのか。


記憶なのか。


分からない。


――顔を上げろ。


男がゆっくり顔を上げる。


その瞬間。


信長は目を開けた。


「……何だ、今のは」


誰も答えない。


夜風が吹く。


信長は再び笑った。


「まあよい」


立ち上がる。


林道千代丸。


覚えておこう。


いずれ。


また会う気がする。


その時は。


もう少し。


あの童の中身を見てみたい。


信長はまだ知らない。


千代丸も知らない。


二人が感じた既視感の正体を。


そして――。


かつて。


一人は天下を狙い。


一人はその男に仕え。


決して互いを信じ切ることのなかった二人が。


千年以上の時を越え。


再び。


主君と家臣になる運命にあることを。

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