第五話 うつけ
清洲へ向かう道中、千代丸は早くも少し後悔していた。
「千代丸! 見ろ! 人が多いぞ!」
兄・景久が興奮した様子で道の先を指差す。
「見れば分かります」
「店もある!」
「町ですから」
「馬も多い!」
「兄上」
「なんだ?」
「少し静かにしてください」
「お前は九つのくせに冷めすぎなんだ!」
不満そうな兄を横目に、千代丸は小さく息を吐いた。
清洲は林道家の領地とは比べものにならないほど栄えていた。
街道を行き交う商人や町人。荷を積んだ車や馬。その間を武士たちが歩き、道の両側には多くの店が並んでいる。
景久が賑わいそのものに目を奪われている一方で、千代丸が見ているものは違った。
道の広さや行き交う荷の量、人の流れ。店に並ぶ品物や米の値段、それに町中で見かける武士の数。
人が集まれば物も集まる。
物が集まれば金が動き、その金があれば兵を養うことができる。
考えてみれば当たり前のことだ。
だが、林道家の小さな領地にいるだけでは、その規模までは実感できなかった。
「どうだ」
馬上の景政が尋ねてきた。
「何がです?」
「清洲だ」
千代丸は改めて町を見渡した。
「強いですね」
景久が吹き出す。
「町を見て最初に言うことがそれか!」
しかし、景政は笑わなかった。
「なぜそう思う?」
「人が多い」
「それだけか?」
「荷も多いです」
ちょうど近くを通り過ぎた荷車へ目を向ける。
「米だけではありません。布、塩、油、鉄。これだけ物が集まるなら、戦になっても長く兵を養えます」
景政の目がわずかに細くなった。
「続けろ」
「土地だけ持っていても、兵は動かせません」
すると景久が首を傾げる。
「土地があれば米が取れるだろ」
「兄上」
「なんだ」
「一万人に毎日米を食べさせるなら、どうします?」
景久は少し考えた。
「……いっぱい炊く」
千代丸は無言で兄を見る。
景政がとうとう笑った。
「景久」
「はい」
「お前は黙っておれ」
「父上まで!」
今回、清洲へ来た目的は織田家への挨拶だった。
織田信秀が死に、その跡を三郎信長が継いだ。
林道家のような小土豪に織田家の跡目へ口を出す力などない。だからこそ、誰が上に立とうとも林道家に敵意はないと示しておく必要がある。
小さな家には、小さな家なりの生き残り方がある。
その点について、千代丸は父を高く評価していた。
勝てない相手とは戦わない。
敵にする必要のない者とは争わない。
父に天下を取るような才があるとは思わない。
しかし、家を残す才はある。
それは決して小さな能力ではなかった。
「千代丸」
景政が念を押すように言った。
「今日は余計なことを言うな」
「言いません」
「本当だな?」
「はい」
「五歳の時もそう言っておった」
「言っていません」
「そうだったか?」
「はい」
「ならば、なおさら信用できんな」
千代丸には納得できなかった。
織田家の屋敷に着いてから、かなり待たされた。
当然ではある。
林道家は小さい。織田家から見れば、領内にいくつも存在する土豪の一つにすぎない。
千代丸も退屈していたが、景久はそれ以上だった。
「なあ」
「何です?」
「外を見てきてもいいと思うか?」
「父上に怒られます」
「少しだけだ」
「私は知りません」
「一緒に来い」
「嫌です」
「行くぞ」
「嫌です」
抵抗したものの、結局は兄に腕を掴まれて連れ出された。
屋敷の裏手まで来ると、景久は楽しそうに辺りを見回しながら歩いていた。
千代丸は呆れるしかない。
「兄上」
「なんだ」
「戻りましょう」
「もう少し」
「怒られるのは兄上だけにしてください」
「弟なら一緒に怒られろ」
「理不尽です」
そのときだった。
「おい!」
男の声が飛んできた。
二人が振り返ると、十代後半ほどの若者が立っていた。
一目見ただけで、普通の武家の子弟とは違うと分かる。
髪は乱れ、着物の着方も武士らしいとは言い難い。腰には刀を差しているものの、その姿だけを見れば行儀の悪い若者にしか見えなかった。
それでも千代丸は足を止めた。
妙だった。
格好ではない。
立ち方だ。
力んでいるわけでもなく、こちらを警戒している様子もない。それなのに、不用意に近づいてはいけないと身体が訴えてくる。
「お前ら、どこの小倅だ?」
若者が声をかける。
景久が一歩前へ出た。
「そちらこそ誰だ!」
千代丸はすぐに兄の袖を掴んだ。
「兄上」
「なんだ」
「やめた方がいい」
「なぜだ?」
答えられなかった。
理由は分からない。
ただ、この男には逆らわない方がいい。
「ほう」
若者の視線が千代丸へ移った。
「弟の方が利口らしい」
景久の眉が跳ねる。
「何だと!」
「兄上」
「止めるな!」
「止めています」
若者が笑った。
その笑い方を見た瞬間、千代丸の胸が大きく鳴った。
どこかで見た。
そんなはずはないのに、そう感じた。
「おい、小さい方」
若者が千代丸へ声をかける。
「名は?」
「人に名を聞くなら、まず自分から名乗るものでは?」
「千代丸!」
景久の顔が青ざめた。
若者は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐに声を上げて笑い始める。
「ははははは! 気に入った!」
何がおかしいのか、千代丸には分からない。
若者がこちらへ歩いてくる。
一歩、また一歩と距離が縮まるにつれて、千代丸の身体が強張っていった。
逃げる必要などない。
そう頭では分かっている。
それなのに、足が動かない。
やがて若者の顔がはっきり見える距離まで近づいた。
違う。
顔も声も背丈も、記憶にある男とは何もかも違う。
ただ一つ。
目だけが違わなかった。
その目を見た瞬間、記憶の奥底から忘れていた光景が浮かび上がった。
巨大な屋敷。
千代丸ではない自分が、一人の男の前で頭を下げている。
「顔を上げろ」
聞き覚えのある声。
身体が勝手に従い、ゆっくりと顔を上げる。
「余を見ろ」
男の目がこちらを射抜いていた。
人を値踏みする目だった。
利用できるか。
危険なのか。
殺すべきか、生かすべきか。
目の前の人間の価値を、一瞬で見定めようとする目。
やがて男の口元に笑みが浮かぶ。
「貴様、狼顧の相があるそうだな」
「……っ!」
千代丸は思わず一歩下がった。
「ん?」
若者が足を止める。
「どうした。俺の顔に何かついているか?」
答えられなかった。
あり得ない。
何年前の話だ。
何百年どころではない。千年以上の時が流れているはずだ。
そもそも、ここはあの国ですらない。
それなのに。
若者は先ほどまでとは違う顔で千代丸を観察していた。
「お前」
「……何でしょう」
「俺を知っているのか?」
心臓が大きく跳ねた。
「いいえ」
「本当か?」
「初めてお会いします」
「そうか」
口ではそう言いながら、若者は納得していないようだった。
一歩、こちらへ近づく。
「なら、なぜそんな顔をした」
「どんな顔でしょう」
「死人を見たような顔だ」
千代丸は答えなかった。
鋭い。
やはり似ている。
「気のせいです」
「ふうん」
若者は千代丸の周りを歩き始めた。
右から後ろへ回り、今度は左から顔を覗き込む。
まるで品物でも確かめているようだった。
不愉快なはずなのに、なぜか懐かしい。
その感情に気づいた瞬間、千代丸自身が戸惑った。
「千代丸と言ったな」
「はい」
「姓は?」
一瞬迷ってから答える。
「林道」
「知らんな」
「でしょうね」
若者がまた笑った。
「お前、本当に面白いな」
「よく言われます」
「誰に」
「父に」
「父は見る目がある」
「迷惑していると思います」
「ははは!」
若者がまた楽しそうに笑う。
そこへ遠くから声が飛んできた。
「殿!」
数人の武士が慌てた様子で駆けてくる。
先頭の男は若者の前まで来ると、深く頭を下げた。
「このようなところに! お探し申しましたぞ!」
「うるさい」
「しかし」
武士は景久と千代丸に気づき、不審そうな顔をした。
「その者らは?」
「知らん」
若者はあっさり答えてから千代丸を見る。
「林道とかいう小さな家の小倅だ」
小さいのは事実なので、千代丸も反論できなかった。
一方の景久は、ようやく何かがおかしいことに気づいたらしい。
「千代丸」
小声で尋ねてくる。
「殿って誰だ?」
千代丸の胸に嫌な予感が広がった。
若者が笑う。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな」
その視線が千代丸へ向けられる。
なぜか聞きたくなかった。
「織田三郎。信長だ」
一瞬、周囲の音が遠のいた。
織田信長。
何度か耳にした名だった。
織田信秀の嫡男であり、今やその跡を継いだ男。
そして、周囲からはうつけと呼ばれている。
この男が。
千代丸が言葉を失っている隣で、景久の顔が見る見る青くなっていく。
「え……」
数秒後。
「えええええっ!?」
「兄上、うるさい」
「お、お、お、お前!」
「兄上」
「さっき何て言った!?」
「兄上が言いました」
「俺!?」
信長が腹を抱えて笑い出した。
「面白い兄弟だ!」
千代丸だけは笑えなかった。
目の前にいる男を見れば見るほど、胸の奥にある違和感が強くなっていく。
なぜ、この男が。
あの男に見える。
父・景政は当然ながら激怒した。
「申し訳ございませぬ!」
景政が床へ額がつくほど深く頭を下げ、その隣では景久も必死に頭を下げている。
「申し訳ございません!」
千代丸も二人に合わせた。
「申し訳ございません」
「お前はもう少し反省している声を出せ!」
父に怒鳴られた。
千代丸としては、きちんと謝ったつもりなのだが。
上座では信長が楽しそうに笑っている。
「よい」
「しかし!」
「俺がよいと言っている」
それ以上、景政も何も言えなくなった。
信長はまず景久を見る。
「兄」
「は、はい!」
「名は」
「はっ! 林道景久にございます!」
「そうか」
続いて視線が千代丸へ移った。
「弟」
「はい」
「千代丸」
「はい」
信長は何も言わず、しばらく千代丸を見つめた。
また、あの目だ。
千代丸も目を逸らさなかった。
互いに相手を観察するような沈黙が続き、周囲の者たちが困惑し始めた頃、信長がようやく口を開いた。
「九つだったな」
「はい」
「戦を見たことは?」
景政が顔を上げる。
「殿、その子は」
「黙っておれ」
信長は千代丸から目を離さない。
「あるのか」
「一度だけ」
「どうだった?」
千代丸は答える前に父を見た。
余計なことを言うな。
出発前にそう釘を刺されている。
「恐ろしゅうございました」
無難な答えを選んだつもりだった。
しかし、信長の目が細くなる。
「嘘をつけ」
「なぜそう思われます」
「お前は戦の話をしている今より、俺を初めて見た時の方がよほど怖そうだった」
「……」
信長が楽しそうに笑った。
「戦より俺の方が怖いか?」
千代丸は答えなかった。
ある意味では、その通りだった。
「では、一つ聞こう」
信長が身を乗り出した。
広間が静かになる。
「敵が千。味方が百」
千代丸をまっすぐ見据える。
「お前ならどうする?」
景政の顔色が変わった。
「殿!」
「子供との遊びだ」
口元には笑みがある。
だが、その目は笑っていない。
試されている。
千代丸にはすぐ分かった。
しかし、なぜ自分を試すのかは分からない。
自分は九歳の子供で、小土豪の次男にすぎない。
まともに答える必要などない。
「逃げます」
信長の口元がわずかに上がる。
「逃げられぬ」
「降伏します」
「許されぬ」
「交渉します」
「相手は聞かぬ」
「では戦いません」
信長の眉が動いた。
「聞こえなかったか?」
「聞いております」
「敵が千、味方が百だ」
「はい」
「戦わなければ殺される」
千代丸は信長の目を見返した。
「ならば、敵を千のままにしなければよろしい」
広間の空気が変わった。
信長の笑みが消える。
「……どういう意味だ」
「千人全員が、同じ理由で戦っているとは思えません」
千代丸は頭の中で敵軍を思い描きながら続けた。
「金が欲しい者もいれば、土地が欲しい者もいるでしょう。主君が怖いだけの者や、仕方なく戦へ来た者もいる」
誰も口を挟まない。
「敵の中にも、敵はおります」
信長の目が鋭くなる。
「百で千と正面から戦えば負けます。ならば三百を裏切らせ、二百を帰らせる」
そこで千代丸は一度言葉を切った。
「残った五百が戦う前に、その大将を殺します」
広間が静まり返った。
景政は顔を伏せている。
おそらく頭を抱えたいのだろう。
弥兵衛だけが、ほんの少し口元を緩めていた。
信長は何も言わない。
ただ千代丸を見ている。
長い沈黙の後、信長の口から小さく声が漏れた。
「は……」
次の瞬間、大声で笑い始める。
「はははははは! 面白い!」
信長が立ち上がった。
千代丸はすぐに後悔した。
まただ。
また目立ってしまった。
「林道千代丸」
「はい」
「覚えておくぞ」
千代丸にとって、それはまったく嬉しくない言葉だった。
林道家へ帰る道中、しばらく誰も口を開かなかった。
父も、兄も、千代丸も黙って歩いている。
やがて景政が重い口を開いた。
「千代丸」
「はい」
「私は何と言った」
「余計なことを言うな、と」
「では、なぜ言った」
「聞かれたからです」
「……」
「答えない方が失礼かと」
景政は何も言わず空を見上げた。
「お前という奴は……」
「申し訳ありません」
隣を見ると、景久が必死に笑いを堪えている。
「兄上」
「なんだ」
「笑っていますね」
「笑ってない」
「笑っています」
とうとう景久が我慢できなくなった。
「お前、信長様に気に入られたな!」
「やめてください」
「よかったじゃないか!」
「まったくよくありません」
千代丸は一度だけ振り返った。
清洲はすでに遠く、信長の姿など見えるはずもない。
それなのに、あの目だけが頭から離れなかった。
似ている。
認めたくはない。
だが、あまりにも似ている。
人を見定める目も、笑い方も、人の才を見つけた瞬間に玩具でも見つけたように喜ぶところまで。
目を閉じると、遠い記憶の中に一人の男が浮かんだ。
英雄と呼ぶ者がいた。
奸雄と呼ぶ者もいた。
かつての自分が長い間仕え、決して逆らおうとはしなかった男。
その名が喉元まで出かかった。
しかし、千代丸は飲み込んだ。
あり得ない。
あの男は死んだ。
自分も死んだ。
ここは日本であり、あの国ではない。
ただ似ているだけだ。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
同じ頃、清洲では信長が一人で縁側に座っていた。
「林道千代丸」
口にしてみる。
九歳の童。
名も知らぬような小土豪の次男。
普通なら明日には忘れている。
それなのに、どうしてもあの童の目が頭から離れなかった。
自分を恐れていた。
だが、それだけではない。
警戒していた。
まるで自分がどのような人間なのかを、昔から知っているような目だった。
「……気に食わんな」
そう呟きながらも、信長の口元には笑みが浮かんでいた。
「敵を千のままにしない、か」
面白い。
九歳の童が口にする答えではない。
それ以上に気になることがあった。
あの童を見ていると、妙な感覚が湧いてくる。
懐かしい。
いや、それだけではない。
放っておいてはいけないような、もっと嫌な感覚だった。
信長が目を閉じる。
その瞬間、見たことのない景色が頭に浮かんだ。
巨大な宮殿。
見覚えのない衣をまとった者たち。
その中で、一人の男が自分の前に頭を下げている。
顔は見えない。
夢なのか、記憶なのかも分からない。
それでも信長の口は、まるで以前にもそうしたことがあるかのように自然と言葉を紡いだ。
「顔を上げろ」
男がゆっくり顔を上げようとする。
その顔が見える直前、信長は目を開いた。
「……何だ、今のは」
当然、答える者はいない。
夜風が庭を抜けていく。
信長はしばらく黙っていたが、やがて再び笑った。
「まあよい」
立ち上がりながら、もう一度その名を思い出す。
林道千代丸。
覚えておこう。
なぜか、また会うような気がしていた。
そのときはもう少し、あの童の中身を見てみたい。
この時点では、千代丸も信長も、自分たちが感じた既視感の正体を知らない。
かつて天下を狙った男と、その男に仕えながら最後まで互いを信じ切ることのなかった男。
千年以上の時を越えて再び出会った二人の関係は、ここから少しずつ動き始めることになる。




