第四話 初陣ではない戦場
天文二十年。
千代丸、九歳。
その朝。
父・景政は突然言った。
「千代丸。支度をせよ」
「どちらへ?」
「戦だ」
千代丸は箸を止めた。
向かいに座っていた兄・景久が勢いよく立ち上がる。
「父上! 俺も!」
「お前は留守居だ」
「なぜです!」
「お前を連れていけば、誰が家を守る」
「弥兵衛がおります!」
「弥兵衛も来る」
景久が固まった。
「では俺も――」
「ならん」
父の一言で終わった。
景久は不満そうに座る。
そして。
千代丸を見る。
ものすごい目だった。
「……ずるいぞ」
「私に言われても困ります」
「なぜ九つのお前が戦へ行けて、十五の俺が行けんのだ!」
千代丸も同じ疑問を持っていた。
父を見る。
「なぜ私なのです?」
「お前に見せておきたい」
「何を?」
景政は少し考えた。
「本物の戦をだ」
◇◇◇
戦といっても、大層なものではなかった。
林道家から半日ほど離れた場所。
二つの土豪が、土地を巡って争っていた。
片方は林道家と縁がある。
そのため景政にも援軍の要請が来た。
林道家から出す兵は十二。
それだけだった。
景政。
弥兵衛。
家臣数名。
農民兵。
そして千代丸。
千代丸には刀すら持たされていない。
「父上」
「なんだ」
「私は何をすれば?」
「見る」
「見るだけ?」
「ああ」
「敵が来たら?」
「逃げろ」
「……」
「不満か」
「いいえ」
むしろ正しい。
九歳の子供に戦わせる方がおかしい。
一行は街道を進んだ。
千代丸は周囲を観察する。
十二人。
馬に乗っているのは父だけ。
弥兵衛以下は徒歩。
槍。
弓。
刀。
農民兵の装備は統一されていない。
一人は槍。
一人は弓。
一人など、まともな鎧すら着ていない。
(これが兵……?)
前の生で知っていた軍とは、まるで違う。
数万の兵が陣を組む。
旗が並ぶ。
太鼓と鐘で軍を動かす。
騎兵が駆ける。
弩兵が一斉に矢を放つ。
そんな光景とは程遠い。
十二人。
しかも半分は普段、田を耕している。
「弥兵衛」
千代丸が声をかける。
「なんでございましょう」
「怖くないのですか」
農民兵を指した。
「皆です」
弥兵衛が彼らを見る。
「怖いでしょうな」
「逃げませんか」
「逃げる者もおります」
「止めない?」
「止めます」
「それでも逃げたら?」
「仕方ありませぬ」
千代丸は眉を寄せた。
「それで戦になるのですか」
弥兵衛が笑った。
「なります」
理解できない。
「若様」
「はい」
「前にも申しましたが、戦とは立派な兵だけでするものではございませぬ」
「……」
「怖い者も、弱い者も、帰りたい者も」
弥兵衛は前を歩く農民の背中を見る。
「全部連れて行くのが戦でございます」
千代丸は黙った。
その言葉を頭に入れた。
◇◇◇
昼前。
目的地に到着した。
小高い丘。
林。
その先に小さな川。
味方は全部合わせても五十人ほど。
敵も同じ程度だという。
「若様」
弥兵衛が指を差す。
「敵はあちら」
木々の向こう。
人影が見える。
旗が数本。
「五十?」
「おそらく」
千代丸は周囲を見る。
味方はまとまっていない。
座っている者。
水を飲んでいる者。
隣の者と話している者。
「陣は組まないのですか」
「組んでおります」
「これで?」
「これで」
千代丸は思わず黙った。
弥兵衛が笑う。
「何か?」
「いえ」
口に出すのはやめた。
だが。
(酷いな)
そう思った。
◇◇◇
しばらくして。
戦が始まった。
合図らしい声。
誰かが叫ぶ。
弓が放たれる。
敵が走ってくる。
味方も走る。
千代丸は父に言われた通り、後方の木陰から見ていた。
最初に感じたのは。
(近い)
だった。
人と人の距離が近い。
数万の軍勢を遠くから眺めるのとは違う。
男の顔が見える。
恐怖している顔。
怒っている顔。
叫んでいる顔。
槍がぶつかる。
男が倒れる。
血が出る。
「うあああっ!」
叫び声。
千代丸の目の前。
十間ほど先で、一人の男が腹を押さえて倒れた。
血。
土。
泥。
「……」
千代丸は黙って見ていた。
怖くはない。
こんなものは知っている。
もっと酷い光景も見た。
――はずだった。
なのに。
妙に近い。
人が死ぬということが。
「若様!」
弥兵衛の声。
千代丸が振り返る。
「下がって!」
敵の一人がこちらへ走ってきていた。
味方の横を抜けたらしい。
男の目が千代丸を捉える。
子供。
武器なし。
殺せる。
そう判断したのだろう。
男が走る。
千代丸は動かなかった。
距離。
十間。
八間。
六間。
(右足が悪い)
走り方を見て分かった。
少し引きずっている。
なら。
右へ方向を変えるのが遅い。
千代丸は左へ走った。
男が追う。
木がある。
千代丸は木の直前で右へ切り返す。
男が身体を捻る。
遅れた。
その瞬間。
「ふんっ!」
弥兵衛の槍が男の胸を貫いた。
男の身体が止まる。
槍が抜かれる。
血が飛んだ。
男が倒れる。
千代丸の足元まで血が流れてきた。
「若様!」
弥兵衛が駆け寄る。
「怪我は!」
「ありません」
「なぜ逃げなかった!」
「逃げました」
「もっと早く!」
弥兵衛が怒鳴る。
「申し訳ありません」
千代丸は男を見る。
まだ生きている。
口が動いている。
何かを言っている。
聞き取れない。
そして。
動かなくなった。
千代丸は、その顔を見つめた。
◇◇◇
戦は一刻もしないうちに終わった。
勝敗と呼べるほどのものでもなかった。
敵が引いた。
味方も追わなかった。
それで終わり。
味方の死者、三人。
敵は分からない。
「勝ったのですか」
帰り道。
千代丸が父に聞いた。
「一応な」
「何を得たのです?」
景政が少し笑った。
「何も」
「……何も?」
「今日のところはな」
「では、なぜ戦ったのです?」
「戦わなければ、こちらが弱いと思われる」
千代丸は黙る。
「弱いと思われれば?」
「次はもっと取られる」
「だから三人死んだ?」
父が千代丸を見る。
「そうだ」
理解できる。
理屈としては。
だが。
納得はできなかった。
「馬鹿らしい」
千代丸は呟いた。
父が笑った。
「そうだな」
否定しない。
「戦とは、大抵そんなものだ」
◇◇◇
帰ってから。
千代丸は一人で庭にいた。
木の枝で地面に線を描く。
川。
丘。
林。
今日の戦場。
敵五十。
味方五十。
もし自分ならどうした。
正面から戦う必要はない。
川を使う。
林に伏せる。
敵を誘う。
いや。
そもそも土地を争っているだけなら、相手側の有力者を買収した方が早い。
兵を出す必要すらない。
「また考えてるのか?」
兄の声。
景久だった。
「はい」
「どうだった、戦」
千代丸は枝を止める。
「つまらないものでした」
景久が目を丸くする。
「つまらない?」
「はい」
「怖くなかったのか」
「分かりません」
景久が隣に座る。
千代丸は地面を見る。
「兄上」
「なんだ」
「人は、なぜあれほど簡単に死ぬのです?」
景久が黙る。
「槍を一度刺されただけでした」
「……そうだな」
「たったそれだけで」
千代丸は自分の手を見る。
小さい。
九歳の手。
「人は死にます」
「当たり前だろ」
「はい」
当たり前。
知っている。
ずっと知っていた。
だが。
知っていることと、目の前で見ることは違う。
「兄上」
「なんだ」
「私は、戦が嫌いなのかもしれません」
景久が吹き出した。
「何がおかしいのです?」
「いや」
景久が笑う。
「お前でもそんなこと言うんだなと思って」
「私を何だと思っているのです」
「年寄り」
千代丸は兄を見る。
「私は九つです」
「知ってる」
景久が立ち上がる。
「だから考えすぎるな」
そして弟の頭を乱暴に撫でた。
「また髪が」
「いいんだよ」
景久は笑う。
「戦が嫌なら、しなきゃいい」
「そんな簡単な」
「簡単だ」
兄は言った。
「俺が戦う」
千代丸が顔を上げる。
「お前は後ろで考えてろ」
景久は胸を張った。
「俺が前で戦う」
千代丸は何も言わなかった。
「兄上」
「なんだ」
「今日、父上は三人失いました」
「うん」
「兄上なら?」
「一人も死なせない」
即答。
「無理です」
「うるさい」
「できないことを言ってはいけません」
「じゃあ、お前が考えろ」
「何を?」
景久が笑う。
「誰も死なない方法」
千代丸は黙った。
誰も死なない戦。
そんなものはない。
知っている。
だが。
なぜか。
その言葉が胸に残った。
◇◇◇
数ヶ月後。
尾張に大きな知らせが走った。
「織田信秀殿が亡くなった」
父・景政が言った。
林道家の広間。
家臣たちが集まっている。
千代丸も端に座っていた。
織田信秀。
尾張でも有力な武将。
その死が意味するものを、千代丸も理解していた。
「跡を継ぐのは?」
家臣の一人が聞く。
景政が答える。
「三郎殿だ」
千代丸の目が動く。
三郎。
以前聞いた名前。
「織田信長……」
誰かが呟く。
「うつけが織田家を継ぐのか」
小さな笑い。
だが。
父・景政だけは笑っていなかった。
千代丸も。
「父上」
「なんだ」
「織田信長という方は、本当に愚かなのですか」
広間が静かになる。
景政が息子を見る。
「なぜ聞く」
「皆がそう言うからです」
「なら、そうなのだろう」
「父上は思っていない」
景政の眉が動く。
「なぜそう思う」
「笑っていませんでした」
数人の家臣が顔を見合わせた。
景政はしばらく千代丸を見る。
そして。
小さく笑った。
「分からん」
「……」
「会ったことがないからな」
それだけ言った。
だが。
その夜。
景政は弥兵衛を呼んだ。
千代丸は知らない。
「弥兵衛」
「はっ」
「近いうち、清洲へ人を出す」
「三郎殿の様子を?」
「ああ」
「誰を?」
景政は少し考えた。
「私が行く」
弥兵衛が驚く。
「殿自ら?」
「一度、この目で見ておきたい」
「では供を」
「ああ」
景政は庭を見る。
月明かり。
その向こう。
息子たちの部屋がある。
「景久を連れていく」
「若殿を」
「それと」
景政は少し迷った。
「千代丸もだ」
弥兵衛が目を細める。
「よろしいので?」
「あの子は、人を見る」
景政が言う。
「私には見えぬものまでな」
◇◇◇
数日後。
「清洲?」
千代丸は父を見た。
「ああ」
「私も?」
「そうだ」
「なぜです?」
「見せたいものがある」
まただ。
戦場へ連れていったときと同じ。
千代丸は嫌な予感がした。
「何を?」
父は答えなかった。
代わりに兄の景久が嬉しそうに言う。
「清洲だぞ、千代丸!」
「知っています」
「城もでかいらしい!」
「そうですか」
「町もすごいぞ!」
「そうですか」
「お前、もっと喜べ!」
景久を無視しながら。
千代丸は考えていた。
清洲。
織田。
そして。
信長。
なぜだろう。
その名を考えると。
あの夢を思い出す。
――顔を上げろ。
あの声。
あの目。
(馬鹿な)
関係あるはずがない。
千年以上。
いや。
ここが本当に同じ世界なのかすら分からない。
ただの夢だ。
そう思った。
それでも。
胸の奥に。
説明できない何かがあった。
恐怖。
懐かしさ。
それとも。
警戒か。
千代丸は自分に言い聞かせた。
会うだけだ。
相手は尾張の有力者。
自分は小土豪の次男。
言葉を交わすことすらないだろう。
ただ遠くから見る。
それだけだ。
――だが。
千代丸の予想は外れる。
清洲の地で。
二度目の人生を大きく変える男と。
彼は初めて――
目を合わせることになる。




