第四話 初陣ではない戦場
天文二十年。
千代丸、九歳。
その朝、父・景政は食事の最中に突然言った。
「千代丸。支度をせよ」
「どちらへ?」
「戦だ」
千代丸の箸が止まった。
向かいに座っていた兄・景久は、それ以上に大きく反応した。
「父上! 俺も!」
勢いよく立ち上がった息子を、景政は一瞥する。
「お前は留守居だ」
「なぜです!」
「お前を連れていけば、誰が家を守る」
「弥兵衛がおります!」
「弥兵衛も来る」
景久が固まった。
「では俺も」
「ならん」
父の一言で話は終わった。
景久は納得できない様子で腰を下ろし、そのまま千代丸を睨みつける。
「……ずるいぞ」
「私に言われても困ります」
「なぜ九つのお前が戦へ行けて、十五の俺が行けんのだ!」
それについては千代丸も同じ疑問を抱いていた。
「父上。なぜ私なのです?」
「お前に見せておきたい」
「何を?」
景政は少し考えてから答えた。
「本物の戦をだ」
戦といっても、大層なものではなかった。
林道家から半日ほど離れた土地で、二つの土豪が土地を巡って争っている。その片方が林道家と縁のある家だったため、景政にも援軍の要請が来たのだ。
林道家が出す兵は十二人。
景政と弥兵衛に家臣が数名。それに農民兵が加わり、なぜか九歳の千代丸までいる。
もっとも、千代丸には刀すら持たされていなかった。
「父上」
「なんだ」
「私は何をすれば?」
「見る」
「見るだけ?」
「ああ」
「敵が来たら?」
「逃げろ」
「……分かりました」
不満はなかった。
むしろ正しい。
九歳の子供を戦場へ連れていくこと自体どうなのかと思うが、連れてきたうえで戦わせるよりは遥かにまともだ。
一行は街道を進んでいく。
千代丸は歩きながら、兵たちの姿を観察していた。
馬に乗っているのは父だけで、弥兵衛を含めた残りは徒歩。持っている武器も槍、弓、刀と統一されていない。
農民兵に至っては、まともな鎧を着ていない者までいた。
これが兵なのか。
前の生で千代丸が知っていた軍とは、あまりにも違う。
数万の兵が陣を組み、無数の旗が並ぶ。太鼓や鐘の合図で軍勢が動き、騎兵が大地を駆け、弩兵が一斉に矢を放つ。
そんな光景とは程遠かった。
ここにいるのは、たった十二人。
しかも半分近くは、普段なら田を耕している者たちだ。
「弥兵衛」
「なんでございましょう」
千代丸は前を歩く農民兵へ目を向けた。
「皆、怖くないのですか」
弥兵衛も彼らの背中を見る。
「怖いでしょうな」
「逃げませんか」
「逃げる者もおります」
「止めない?」
「止めます」
「それでも逃げたら?」
「仕方ありませぬ」
千代丸は眉を寄せた。
「それで戦になるのですか」
弥兵衛が笑う。
「なります」
理解し難い話だった。
「若様。前にも申しましたが、戦とは立派な兵だけでするものではございませぬ」
弥兵衛は前を歩く男たちを眺めながら続ける。
「怖い者も、弱い者も、家へ帰りたい者もおります。それらを全部連れて行くのが戦でございます」
千代丸は何も答えず、その言葉を胸に刻んだ。
昼前に目的地へ到着した。
小高い丘があり、その脇には林が広がっている。少し先には小さな川が流れていた。
林道家以外の兵もすでに集まっており、味方は全部合わせて五十人ほど。敵も同じ程度だという。
「若様」
弥兵衛が木々の向こうを指す。
「敵はあちらに」
人影が見えた。
その中に旗が数本立っている。
「五十?」
「おそらく」
千代丸は今度は味方を眺めた。
座り込んでいる者がいる。
水を飲んでいる者もいれば、隣の男と話している者もいた。
どう見ても、千代丸が知る軍陣とは違う。
「陣は組まないのですか」
「組んでおります」
「これで?」
「これで」
千代丸は返す言葉を失った。
弥兵衛が笑う。
「何か?」
「いえ」
さすがに口には出さなかった。
酷いな。
胸の内だけで呟いた。
しばらくすると、戦が始まった。
誰かが大声で合図を出し、それに応じて弓が放たれる。
木々の向こうから敵が走り出し、味方も声を上げて前へ出た。
千代丸は父に言われた通り、後方の木陰から戦場を眺めていた。
最初に感じたのは、近いということだった。
かつて数万の軍勢を遠くから見渡していたときとは違う。
ここでは人の顔が見える。
恐怖に歪んだ顔も、怒りに染まった顔も、必死に声を張り上げる顔も。
槍と槍がぶつかり、一人の男が体勢を崩した。
別の男がそこへ槍を突き込む。
「うあああっ!」
悲鳴が響いた。
千代丸から十間ほどしか離れていない場所で、男が腹を押さえながら倒れる。
指の隙間から血があふれ、土へ染み込んでいった。
千代丸は黙ってその光景を眺めた。
怖くはない。
こんなものは知っている。
もっと酷い戦場だって、いくつも知っているはずだった。
それなのに、何かが違う。
近すぎるのだ。
人が死ぬという出来事そのものが。
「若様!」
弥兵衛の声が飛んだ。
振り向くより先に、さらに怒声が響く。
「下がって!」
敵の一人がこちらへ走ってきていた。
味方の横を抜けてきたらしい。
男の視線が千代丸を捉える。
武器を持たない子供。
簡単に殺せる。
そう判断したことは、その目を見れば分かった。
男が迫ってくる。
十間。
八間。
六間。
千代丸は相手の走り方を見ていた。
右足をわずかに引きずっている。
ならば、右への切り返しが遅い。
千代丸は左へ走った。
男も追ってくる。
正面には一本の木。
千代丸はその直前まで走り、右へ鋭く切り返した。
予想通り、男の身体が遅れる。
「ふんっ!」
その一瞬を逃さず、横から飛び込んできた弥兵衛の槍が男の胸を貫いた。
男の身体が大きく震えた。
弥兵衛が槍を引き抜くと血が飛び散り、力を失った身体が地面へ崩れ落ちる。
流れ出した血が、千代丸の足元近くまで伸びてきた。
「若様!」
弥兵衛が駆け寄る。
「怪我は!」
「ありません」
「なぜ逃げなかった!」
「逃げました」
「もっと早く!」
珍しく本気で怒鳴られ、千代丸は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません」
それから、倒れた男へ目を向ける。
まだ生きていた。
口がわずかに動き、何かを言おうとしている。
だが、聞き取れない。
やがて口の動きが止まり、その目から光が消えた。
千代丸はしばらく、その顔から目を離せなかった。
戦は一刻もしないうちに終わった。
勝敗と呼べるほど明確な決着でもない。
敵が引き、味方も追わなかった。
それで終わりだった。
味方の死者は三人。
敵が何人死んだのかは分からない。
「勝ったのですか」
帰り道、千代丸は父に尋ねた。
「一応な」
「何を得たのです?」
景政が少し笑った。
「何も」
「……何も?」
「今日のところはな」
千代丸には理解できなかった。
「では、なぜ戦ったのです?」
「戦わなければ、こちらが弱いと思われる」
「弱いと思われれば?」
「次はもっと取られる」
千代丸はしばらく黙った。
「だから三人死んだ?」
景政は息子を見る。
「そうだ」
理屈は分かる。
ここで退けば、次はさらに大きな要求をされるかもしれない。
土地を奪われるかもしれない。
もっと多くの者が死ぬかもしれない。
だから今、戦う。
理解はできた。
それでも納得はできなかった。
「馬鹿らしい」
千代丸が呟くと、景政は怒るどころか笑った。
「そうだな」
否定しなかった。
「戦とは、大抵そんなものだ」
屋敷へ戻った後、千代丸は一人で庭に座っていた。
拾った枝を使い、地面に今日の戦場を描いていく。
川があり、丘があり、その脇に林がある。
敵五十。
味方五十。
もし自分ならどうしただろう。
正面から戦う必要はない。
川を使える。
林に兵を伏せてもいい。
敵を誘い込んでから挟むこともできる。
いや、そもそも土地を巡る争いなら、相手側の有力者を買収する方が早いかもしれない。
兵を出す必要すらなくなる。
「また考えてるのか?」
声に振り返ると、景久が立っていた。
「はい」
「どうだった、戦」
千代丸は手にしていた枝を止めた。
「つまらないものでした」
景久が目を丸くする。
「つまらない?」
「はい」
「怖くなかったのか」
「分かりません」
景久は弟の隣に腰を下ろした。
千代丸は地面に描いた戦場を眺める。
「兄上」
「なんだ」
「人は、なぜあれほど簡単に死ぬのです?」
景久は答えなかった。
「今日、一人の男が目の前で死にました。槍を一度刺されただけでした」
「……そうだな」
「たったそれだけで、人は死にます」
千代丸は自分の手を見た。
まだ小さい。
九歳の子供の手だった。
「当たり前だろ」
「はい」
当たり前。
そんなことは、ずっと昔から知っている。
けれど、知っていることと目の前で見ることは違った。
「兄上」
「なんだ」
「私は、戦が嫌いなのかもしれません」
景久が吹き出した。
「何がおかしいのです?」
「いや、お前でもそんなこと言うんだなと思って」
「私を何だと思っているのです」
「年寄り」
千代丸は兄を睨む。
「私は九つです」
「知ってる」
景久は立ち上がり、弟の頭を乱暴に撫でた。
「だから考えすぎるな」
「また髪が」
「いいんだよ」
景久は気にせず笑っている。
「戦が嫌なら、しなきゃいい」
「そんな簡単な」
「簡単だ」
兄は迷いなく言った。
「俺が戦う」
千代丸が顔を上げる。
「お前は後ろで考えてろ。俺が前で戦う」
千代丸はしばらく兄を見つめた。
「兄上」
「なんだ」
「今日、父上は三人失いました」
「うん」
「兄上なら?」
「一人も死なせない」
即答だった。
「無理です」
「うるさい」
「できないことを言ってはいけません」
「じゃあ、お前が考えろ」
「何を?」
景久が笑った。
「誰も死なない方法」
千代丸は答えられなかった。
誰も死なない戦などない。
そんなことは誰よりも知っている。
それでも、兄の言葉は妙に胸に残った。
それから数ヶ月後、尾張に大きな知らせが走った。
「織田信秀殿が亡くなった」
父・景政の言葉に、林道家の広間がざわついた。
家臣たちが集まる中、千代丸も端に座って話を聞いている。
織田信秀。
尾張でも有力な武将だった。
その男の死が何を意味するのか、九歳の千代丸にも理解できる。
大きな力を持つ者が死ねば、その周囲が揺れる。
「跡を継ぐのは?」
家臣の一人が尋ねた。
「三郎殿だ」
景政が答える。
千代丸の意識がその名に向いた。
以前にも聞いたことがある。
「織田信長……」
誰かが呟いた。
「うつけが織田家を継ぐのか」
家臣たちの間から小さな笑いが漏れる。
しかし、父だけは笑っていなかった。
千代丸も同じだった。
「父上」
「なんだ」
「織田信長という方は、本当に愚かなのですか」
広間が静かになった。
景政が息子を見る。
「なぜ聞く」
「皆がそう言うからです」
「なら、そうなのだろう」
「父上は思っていない」
景政の眉がわずかに動いた。
「なぜそう思う」
「笑っていませんでした」
数人の家臣が顔を見合わせる。
景政はしばらく千代丸を見つめた後、小さく笑った。
「分からん」
「……」
「会ったことがないからな」
それ以上は何も言わなかった。
その夜、景政は弥兵衛を呼んだ。
「弥兵衛」
「はっ」
「近いうち、清洲へ人を出す」
「三郎殿の様子を?」
「ああ」
「誰を向かわせます?」
景政は少し考えた。
「私が行く」
弥兵衛が驚いた。
「殿自ら?」
「一度、この目で見ておきたい」
「では供を」
「ああ」
景政は月明かりに照らされた庭へ目を向けた。
その向こうには息子たちの部屋がある。
「景久を連れていく」
「若殿を」
「それと……千代丸もだ」
弥兵衛が目を細めた。
「よろしいので?」
「あの子は、人を見る」
景政の視線は息子たちの部屋へ向けられたままだった。
「私には見えぬものまでな」
数日後。
「清洲?」
千代丸は父の言葉を聞き返した。
「ああ」
「私も?」
「そうだ」
「なぜです?」
「見せたいものがある」
まただ。
戦場へ連れていかれたときと同じ言葉だった。
嫌な予感がする。
「何を?」
父は答えなかった。
代わりに景久が嬉しそうに口を挟む。
「清洲だぞ、千代丸!」
「知っています」
「城もでかいらしい!」
「そうですか」
「町もすごいぞ!」
「そうですか」
「お前、もっと喜べ!」
騒ぐ兄を無視しながら、千代丸は別のことを考えていた。
清洲。
織田家。
そして、信長。
その名を意識するたびに、あの夢が蘇る。
顔を上げろ。
あの声。
あの目。
「馬鹿な……」
小さく呟いた。
関係があるはずがない。
あれから千年以上が経っている。
そもそも、ここが本当に同じ世界なのかさえ分からない。
ただの夢だ。
そう考えるのが自然だった。
それでも胸の奥には、説明のできない感覚が残っている。
恐怖なのか。
懐かしさなのか。
それとも警戒なのか。
千代丸自身にも分からない。
会うだけだ。
相手は尾張でも有数の織田家を継いだ男で、自分は小土豪の次男にすぎない。
言葉を交わすことさえないだろう。
遠くから顔を見る。
それだけで終わる。
千代丸はそう考えていた。
しかし、その予想は外れることになる。
清洲の地で待っているのは、ただの「うつけ」ではなかった。
二度目の人生を大きく変えることになる男。
千代丸はそこで初めて、織田三郎信長と目を合わせることになる。




