第三話 知らぬ戦
天文十八年。
尾張国知多郡。
あの一件から二年が過ぎ、林道家の次男・千代丸は七歳になっていた。
「若様」
「はい」
「死んでおりますぞ」
「……そうですか」
千代丸は地面に転がったまま、青い空を見上げていた。
雲一つない、実に気持ちのよい天気だった。
死ぬには惜しい日だ。
「もう一度お願いします」
「嫌でございます」
即答だった。
千代丸が身体を起こすと、目の前には柴崎弥兵衛が立っている。
林道家に長く仕える古参の家臣。その手には木槍が握られており、つい先ほどまで先端が千代丸の喉元に突きつけられていた。
「なぜです?」
「もう七度死んでおります」
「八度死ねば、何か分かるかもしれません」
「分かりませぬ」
「では九度」
「若様」
弥兵衛が深いため息をついた。
「戦とは、死んだ後にやり直せるものではございませぬ」
「知っています」
「ならば、もう少し命を大事になされませ」
「木槍では死にません」
「そういうところでございます」
何が気に入らないのだろう。
千代丸にはよく分からなかった。
二年前、五歳だった千代丸は一つの策を使った。
林道領へ入ろうとしていた野伏せりを、隣接する野々村領へ誘導したのだ。
林道家は戦わずして危機を免れた。
兵を失わず、米も守った。
策としては成功だった。
しかし、その結果として一人の子供が死んだ。
千代丸が直接手を下したわけではない。それでも、自分の策が野伏せりを野々村領へ向かわせ、その先で子供が命を落としたという事実は消えない。
あの日から、母の言葉が胸に残っていた。
賢いことと、正しいことは、きっと同じではありません。
だからといって、策を使うことそのものを嫌うようになったわけではない。
必要なら使う。
家族を守るためなら、なおさらだ。
ただ以前とは違い、策を考えたとき、その先にあるものまで意識するようになった。
この策を使えば、誰が死ぬのか。
わずかな変化だったが、千代丸にとっては大きな違いだった。
「もう一度」
千代丸は地面に落ちていた木槍を拾った。
弥兵衛が露骨に嫌そうな顔をする。
「まだやりますか」
「今度は同じようには負けません」
「先ほども聞きましたぞ」
「先ほどとは私が違います」
「七歳の童が、ずいぶんな口を」
呆れながらも、弥兵衛は木槍を構えた。
千代丸も腰を落とす。
二人の距離は三間ほど。
千代丸はすぐには動かなかった。
弥兵衛の肩、腰、足元、視線、そして呼吸。
前の七回で気づいたことがある。
自分が右へ動こうとしたとき、弥兵衛はわずかに左足へ力を入れていた。
ならば、それを利用する。
右へ行くと見せかける。
千代丸が踏み出した。
弥兵衛の左足が動く。
予想通り。
千代丸は即座に進路を変え、逆方向へ駆けた。
「そこです!」
木槍を突き出す。
今度こそ届く。
そう確信した次の瞬間、身体が宙に浮いた。
「ぐっ!」
背中から地面へ叩きつけられる。
再び青空が視界いっぱいに広がり、その直後には喉元へ木槍が突きつけられていた。
「八度目」
弥兵衛が淡々と言った。
「……なぜ」
倒れたまま、千代丸は眉を寄せる。
「読んでいたはずです」
「読ませたのでございます」
「読ませた?」
「はい」
弥兵衛は木槍を引いた。
「若様は人をよく見ておられる。肩、腰、足、目の動き。何かしらから相手の考えを読もうとなさる」
「……」
「ならば、見せればよい」
千代丸はゆっくり起き上がった。
なるほど。
自分が弥兵衛を観察していたのではない。
弥兵衛もまた、自分が何を見ているのか観察していた。
「面白い」
気づけば口元が緩んでいた。
「もう一度」
「嫌です」
「なぜです?」
「若様が楽しそうになってきたからです」
「よいことでは?」
「私は疲れました」
弥兵衛は木槍を地面へ置いた。
稽古を終え、二人は縁側に腰を下ろした。
「弥兵衛」
「何でございましょう」
「この国では、槍が主なのですか?」
弥兵衛が怪訝な顔をした。
「この国?」
「……尾張では、という意味です」
「場所にもよりますな」
危ない。
七年経っても、時折こういう言葉が口から出る。
千代丸はこの七年間、自分が生まれ落ちた世界について可能な限り学んできた。
日本。
前の生で暮らした土地とは、まるで違う。
海に囲まれた島国で、帝と呼ばれる存在がいる。その一方で各地には武家があり、さらにその下では大小さまざまな領主が土地を巡って争っていた。
そして何より、戦い方が違う。
「若様」
弥兵衛がふと口を開いた。
「以前から思っておりましたが、一つよろしいですかな」
「何です?」
「若様は、戦を何だと思っておられる」
千代丸は少し考えた。
「国と国が兵を集め、野で戦うもの」
「違いますな」
即答だった。
千代丸が眉を上げる。
「違う?」
「少なくとも我らの戦は、そんな立派なものばかりではございませぬ」
弥兵衛は庭の向こうに広がる田へ目を向けた。
「田の水をどちらへ流すか。それだけで人が死ぬことがあります」
続いて、遠くの山を指す。
「薪をどこで取るかでも揉めます。昨日まで一緒に酒を飲んでいた男が、明日には槍を持ってこちらへ来ることもある」
千代丸は黙って聞いていた。
「大軍同士が野でぶつかるだけが戦ではございませぬ」
分かっているつもりだった。
人間が争う理由など、いつの時代も大して変わらない。
食べ物。
土地。
金。
権力。
だが、同じ争いであっても、その形は違う。
この土地には、この土地の戦がある。
「それに、百人おれば百人が兵になるわけでもございませぬ」
「農民だから?」
「それもあります」
弥兵衛は指を一本立てた。
「腹が減れば逃げます」
「はい」
もう一本。
「雨が降れば帰ります」
「……帰る?」
千代丸は思わず聞き返した。
「田がございますからな」
「戦の最中に?」
「当たり前でしょう」
当たり前なのか。
その言葉には、さすがの千代丸も驚いた。
以前ならば考えられない。
軍令に背き、勝手に戦場から帰れば罰する。場合によっては首を斬られてもおかしくない。
「しかし、それでは戦えないでしょう」
「だから皆、苦労するのです」
弥兵衛は愉快そうに笑った。
千代丸は返事をせず、庭の向こうに広がる田を眺めた。
七年間、この国について学んできた。
言葉を覚え、文字を学び、土地についても調べた。
それなりに理解したつもりでいた。
しかし、違った。
自分はまだ、この国のことを何も知らない。
それからというもの、千代丸は周囲から見ればさらに奇妙な子供になった。
ある日は田へ出て農民を捕まえる。
「今年の米はどうです?」
「へ?」
「去年より取れそうですか?」
七歳の若様に突然そんなことを聞かれ、農民は困惑しながらも答えた。
別の日には鍛冶屋を訪ねる。
「槍を一本作るのに何日かかります?」
「若様、槍など欲しいので?」
「いいえ。知りたいだけです」
商人を見つければ、尾張から美濃まで荷を運ぶのに何日かかるのかを尋ねた。
寺へ行けば僧にまで質問した。
「人が死んだら、どこへ行くのです?」
もっとも、これだけは別の理由だった。
千代丸は、とにかく人に聞いた。
自分の目で確かめ、知らなかったことを一つずつ覚えていく。
前の生で得た知識を捨てるつもりはない。
だが、それだけに頼ればいつか必ず判断を誤る。
知らない土地で、知らない兵を動かし、知らない武器を使いながら、前の生の常識だけで戦う。
それがどれほど危険なことか、ようやく理解した。
知らないのなら、覚えればいい。
千代丸にとっては、それだけの話だった。
ある日、千代丸は弥兵衛に連れられ、林道家の領内を歩いていた。
「若様」
「はい」
「もし敵が百人、この道から来たらどうします?」
千代丸は足を止めて周囲を確認する。
道は細い。
左右には田が広がり、少し先には川が流れている。
「橋を落とします」
「その後は?」
「敵が川を渡っているところを弓で狙う」
「敵が来なかったら?」
千代丸は少し考えた。
「別の道を使ったということですか?」
「ございますな」
「どこに?」
弥兵衛が笑った。
「教えませぬ」
千代丸は不満そうに眉を寄せる。
「意地が悪い」
「戦場で敵が道を教えてくれると思いますか?」
正論だった。
「ならば探します」
「どうやって」
「村の者に聞く」
「敵も同じことをしますぞ」
「なら敵より先に聞く」
弥兵衛は満足そうに笑った。
「それでよろしい」
二人は再び歩き始めた。
千代丸は道を歩きながら、川や田、遠くの山へ何度も視線を向ける。
不思議だった。
この人生では、戦から離れるつもりだった。
それなのに知れば知るほど、考えたくなってしまう。
もし自分なら、どうする。
この道を守るなら。
あの川を使うなら。
向こうの山に敵が陣を敷いたなら。
考え始めると止まらない。
「……性分というものは変わらぬか」
誰にも聞こえないように呟き、千代丸は苦笑した。
屋敷へ戻ると、父・景政が客人と話していた。
見覚えのない男だった。
「千代丸」
父が気づいて手招きする。
「こちらへ来い」
「はい」
千代丸は近くまで進み、客人へ頭を下げた。
四十ほどの武士だった。
「次男坊か」
「はい」
「噂は聞いておるぞ」
その言葉に、千代丸の目がわずかに細くなる。
「何の噂でしょう」
「五つの時、野伏せりを追い払ったそうではないか」
「父と弥兵衛の策です」
間髪入れずに答えた。
景政が横目で息子を見る。
嘘だと知っている。
しかし、何も言わなかった。
「ほう」
客人は楽しそうに笑う。
「利口な童だ」
千代丸は、その言葉が好きではなかった。
利口。
賢い。
神童。
そんなものになりたいわけではない。
目立ちたくないのだ。
その後も客人と景政の話は続き、やがて話題は尾張の情勢へ移っていった。
千代丸は興味がないふりをしながら、黙って耳を傾ける。
「しかし、あの家も大変ですな」
客人が酒を口にした。
「嫡男があれでは」
景政が苦笑する。
「滅多なことを言うな」
「皆が言っておりますぞ」
「うつけ、ですか」
「そう。そのうつけです」
どこかの家の馬鹿息子。
珍しい話ではない。
千代丸も特に気に留めなかった。
「父親は大した男なのにな」
客人が杯を置く。
「織田信秀殿は尾張でも指折りの御仁。それなのに跡取りがあの有様とは」
織田。
その名なら知っている。
この辺りで大きな力を持つ一族であり、林道家などとは比べものにならない。
「吉法師殿でしたか」
景政が尋ねる。
「今は三郎信長と」
客人が答えた。
「織田三郎信長」
千代丸はその名を胸の内で繰り返した。
織田信長。
聞いたことのない名だった。
前の生でも、この生でも。
「派手な格好で町を歩き回る。人前で平気で妙な振る舞いをする。家臣どもも頭を抱えておるそうです」
客人が笑う。
景政はすぐには同調しなかった。
「しかし、本当にただのうつけなのでしょうか」
「どういう意味で?」
「いや……」
景政は酒を一口飲んでから続けた。
「人は、本当に愚かなだけの者を何年も噂したりはせぬものです」
千代丸は思わず父へ目を向けた。
この父は時折、面白いことを言う。
客人が帰る頃には、空が赤く染まり始めていた。
千代丸は一人で庭へ出た。
「織田信長」
小さく口にしてみる。
ただの名前だ。
会ったこともなければ、顔すら知らない。
それなのに妙に耳に残った。
「千代丸」
後ろから景久がやってきた。
「何してる?」
「何も」
「また考え事か?」
「はい」
「七つのくせに考えすぎなんだ、お前は」
景久が弟の頭を乱暴に撫で回す。
「兄上」
「なんだ」
「髪が乱れます」
「男がそんなこと気にするな!」
千代丸は鬱陶しそうに兄の手を払いのけた。
景久が楽しそうに笑う。
その顔につられて、千代丸もわずかに笑った。
織田信長。
いつか会うことがあるかもしれない。
だが、林道家と織田家では立場が違いすぎる。
自分とは関係のない人間だ。
このときは、本気でそう思っていた。
その夜。
千代丸は夢を見た。
広大な陣だった。
見渡す限りに兵が並び、無数の旗が風を受けてはためいている。
その中心で、千代丸は誰かの前に跪いていた。
顔は見えない。
ただ、声だけが聞こえる。
「顔を上げろ」
身体が動かなかった。
夢だと分かっている。
それなのに、怖い。
「余を見ろ」
抗うことができず、ゆっくりと顔を上げる。
最初に見えたのは男の目だった。
鋭く、恐ろしいほど冷たい。
しかし、その奥では炎のようなものが燃えている。
知っている。
この目を、自分は知っている。
間違いなく、この男を知っている。
「貴様」
男が笑った。
「余が怖いか?」
千代丸は勢いよく目を覚ました。
「……っ!」
呼吸が乱れ、額には汗が浮かんでいる。
しばらく天井を見つめながら息を整えた。
夢だ。
ただの夢。
そう考えようとしても、胸の奥に残った恐怖だけは消えてくれなかった。
「……誰だ」
答えは出ない。
いや。
自分から答えを遠ざけていた。
思い出してはいけない。
なぜか、そんな気がした。
同じ頃。
林道家から離れた尾張の地で、一人の若者が夜空を見上げていた。
派手な着物をまとい、髪は乱れ、腰には刀を差している。
周囲から「うつけ」と呼ばれる男。
織田三郎信長。
月を眺めていた信長の口元に、ふと笑みが浮かんだ。
理由は分からない。
ただ今夜、ひどく懐かしい夢を見たような気がしていた。
「……面白い」
信長は月を見上げたまま呟く。
「この世も、なかなか退屈せぬらしい」
千代丸と信長。
二人はまだ、互いの存在を知らない。
互いが何者であったのかも知らない。
かつて一度交わった二人の道が、この尾張の地で再び近づき始めていることにも、まだ気づいてはいなかった。




