↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/237

第三話 知らぬ戦



天文十八年。


尾張国知多郡。


あの一件から二年が過ぎ、林道家の次男・千代丸は七歳になっていた。


「若様」


「はい」


「死んでおりますぞ」


「……そうですか」


千代丸は地面に転がったまま、青い空を見上げていた。


雲一つない、実に気持ちのよい天気だった。


死ぬには惜しい日だ。


「もう一度お願いします」


「嫌でございます」


即答だった。


千代丸が身体を起こすと、目の前には柴崎弥兵衛が立っている。


林道家に長く仕える古参の家臣。その手には木槍が握られており、つい先ほどまで先端が千代丸の喉元に突きつけられていた。


「なぜです?」


「もう七度死んでおります」


「八度死ねば、何か分かるかもしれません」


「分かりませぬ」


「では九度」


「若様」


弥兵衛が深いため息をついた。


「戦とは、死んだ後にやり直せるものではございませぬ」


「知っています」


「ならば、もう少し命を大事になされませ」


「木槍では死にません」


「そういうところでございます」


何が気に入らないのだろう。


千代丸にはよく分からなかった。


二年前、五歳だった千代丸は一つの策を使った。


林道領へ入ろうとしていた野伏せりを、隣接する野々村領へ誘導したのだ。


林道家は戦わずして危機を免れた。


兵を失わず、米も守った。


策としては成功だった。


しかし、その結果として一人の子供が死んだ。


千代丸が直接手を下したわけではない。それでも、自分の策が野伏せりを野々村領へ向かわせ、その先で子供が命を落としたという事実は消えない。


あの日から、母の言葉が胸に残っていた。


賢いことと、正しいことは、きっと同じではありません。


だからといって、策を使うことそのものを嫌うようになったわけではない。


必要なら使う。


家族を守るためなら、なおさらだ。


ただ以前とは違い、策を考えたとき、その先にあるものまで意識するようになった。


この策を使えば、誰が死ぬのか。


わずかな変化だったが、千代丸にとっては大きな違いだった。


「もう一度」


千代丸は地面に落ちていた木槍を拾った。


弥兵衛が露骨に嫌そうな顔をする。


「まだやりますか」


「今度は同じようには負けません」


「先ほども聞きましたぞ」


「先ほどとは私が違います」


「七歳の童が、ずいぶんな口を」


呆れながらも、弥兵衛は木槍を構えた。


千代丸も腰を落とす。


二人の距離は三間ほど。


千代丸はすぐには動かなかった。


弥兵衛の肩、腰、足元、視線、そして呼吸。


前の七回で気づいたことがある。


自分が右へ動こうとしたとき、弥兵衛はわずかに左足へ力を入れていた。


ならば、それを利用する。


右へ行くと見せかける。


千代丸が踏み出した。


弥兵衛の左足が動く。


予想通り。


千代丸は即座に進路を変え、逆方向へ駆けた。


「そこです!」


木槍を突き出す。


今度こそ届く。


そう確信した次の瞬間、身体が宙に浮いた。


「ぐっ!」


背中から地面へ叩きつけられる。


再び青空が視界いっぱいに広がり、その直後には喉元へ木槍が突きつけられていた。


「八度目」


弥兵衛が淡々と言った。


「……なぜ」


倒れたまま、千代丸は眉を寄せる。


「読んでいたはずです」


「読ませたのでございます」


「読ませた?」


「はい」


弥兵衛は木槍を引いた。


「若様は人をよく見ておられる。肩、腰、足、目の動き。何かしらから相手の考えを読もうとなさる」


「……」


「ならば、見せればよい」


千代丸はゆっくり起き上がった。


なるほど。


自分が弥兵衛を観察していたのではない。


弥兵衛もまた、自分が何を見ているのか観察していた。


「面白い」


気づけば口元が緩んでいた。


「もう一度」


「嫌です」


「なぜです?」


「若様が楽しそうになってきたからです」


「よいことでは?」


「私は疲れました」


弥兵衛は木槍を地面へ置いた。


稽古を終え、二人は縁側に腰を下ろした。


「弥兵衛」


「何でございましょう」


「この国では、槍が主なのですか?」


弥兵衛が怪訝な顔をした。


「この国?」


「……尾張では、という意味です」


「場所にもよりますな」


危ない。


七年経っても、時折こういう言葉が口から出る。


千代丸はこの七年間、自分が生まれ落ちた世界について可能な限り学んできた。


日本。


前の生で暮らした土地とは、まるで違う。


海に囲まれた島国で、帝と呼ばれる存在がいる。その一方で各地には武家があり、さらにその下では大小さまざまな領主が土地を巡って争っていた。


そして何より、戦い方が違う。


「若様」


弥兵衛がふと口を開いた。


「以前から思っておりましたが、一つよろしいですかな」


「何です?」


「若様は、戦を何だと思っておられる」


千代丸は少し考えた。


「国と国が兵を集め、野で戦うもの」


「違いますな」


即答だった。


千代丸が眉を上げる。


「違う?」


「少なくとも我らの戦は、そんな立派なものばかりではございませぬ」


弥兵衛は庭の向こうに広がる田へ目を向けた。


「田の水をどちらへ流すか。それだけで人が死ぬことがあります」


続いて、遠くの山を指す。


「薪をどこで取るかでも揉めます。昨日まで一緒に酒を飲んでいた男が、明日には槍を持ってこちらへ来ることもある」


千代丸は黙って聞いていた。


「大軍同士が野でぶつかるだけが戦ではございませぬ」


分かっているつもりだった。


人間が争う理由など、いつの時代も大して変わらない。


食べ物。


土地。


金。


権力。


だが、同じ争いであっても、その形は違う。


この土地には、この土地の戦がある。


「それに、百人おれば百人が兵になるわけでもございませぬ」


「農民だから?」


「それもあります」


弥兵衛は指を一本立てた。


「腹が減れば逃げます」


「はい」


もう一本。


「雨が降れば帰ります」


「……帰る?」


千代丸は思わず聞き返した。


「田がございますからな」


「戦の最中に?」


「当たり前でしょう」


当たり前なのか。


その言葉には、さすがの千代丸も驚いた。


以前ならば考えられない。


軍令に背き、勝手に戦場から帰れば罰する。場合によっては首を斬られてもおかしくない。


「しかし、それでは戦えないでしょう」


「だから皆、苦労するのです」


弥兵衛は愉快そうに笑った。


千代丸は返事をせず、庭の向こうに広がる田を眺めた。


七年間、この国について学んできた。


言葉を覚え、文字を学び、土地についても調べた。


それなりに理解したつもりでいた。


しかし、違った。


自分はまだ、この国のことを何も知らない。


それからというもの、千代丸は周囲から見ればさらに奇妙な子供になった。


ある日は田へ出て農民を捕まえる。


「今年の米はどうです?」


「へ?」


「去年より取れそうですか?」


七歳の若様に突然そんなことを聞かれ、農民は困惑しながらも答えた。


別の日には鍛冶屋を訪ねる。


「槍を一本作るのに何日かかります?」


「若様、槍など欲しいので?」


「いいえ。知りたいだけです」


商人を見つければ、尾張から美濃まで荷を運ぶのに何日かかるのかを尋ねた。


寺へ行けば僧にまで質問した。


「人が死んだら、どこへ行くのです?」


もっとも、これだけは別の理由だった。


千代丸は、とにかく人に聞いた。


自分の目で確かめ、知らなかったことを一つずつ覚えていく。


前の生で得た知識を捨てるつもりはない。


だが、それだけに頼ればいつか必ず判断を誤る。


知らない土地で、知らない兵を動かし、知らない武器を使いながら、前の生の常識だけで戦う。


それがどれほど危険なことか、ようやく理解した。


知らないのなら、覚えればいい。


千代丸にとっては、それだけの話だった。


ある日、千代丸は弥兵衛に連れられ、林道家の領内を歩いていた。


「若様」


「はい」


「もし敵が百人、この道から来たらどうします?」


千代丸は足を止めて周囲を確認する。


道は細い。


左右には田が広がり、少し先には川が流れている。


「橋を落とします」


「その後は?」


「敵が川を渡っているところを弓で狙う」


「敵が来なかったら?」


千代丸は少し考えた。


「別の道を使ったということですか?」


「ございますな」


「どこに?」


弥兵衛が笑った。


「教えませぬ」


千代丸は不満そうに眉を寄せる。


「意地が悪い」


「戦場で敵が道を教えてくれると思いますか?」


正論だった。


「ならば探します」


「どうやって」


「村の者に聞く」


「敵も同じことをしますぞ」


「なら敵より先に聞く」


弥兵衛は満足そうに笑った。


「それでよろしい」


二人は再び歩き始めた。


千代丸は道を歩きながら、川や田、遠くの山へ何度も視線を向ける。


不思議だった。


この人生では、戦から離れるつもりだった。


それなのに知れば知るほど、考えたくなってしまう。


もし自分なら、どうする。


この道を守るなら。


あの川を使うなら。


向こうの山に敵が陣を敷いたなら。


考え始めると止まらない。


「……性分というものは変わらぬか」


誰にも聞こえないように呟き、千代丸は苦笑した。


屋敷へ戻ると、父・景政が客人と話していた。


見覚えのない男だった。


「千代丸」


父が気づいて手招きする。


「こちらへ来い」


「はい」


千代丸は近くまで進み、客人へ頭を下げた。


四十ほどの武士だった。


「次男坊か」


「はい」


「噂は聞いておるぞ」


その言葉に、千代丸の目がわずかに細くなる。


「何の噂でしょう」


「五つの時、野伏せりを追い払ったそうではないか」


「父と弥兵衛の策です」


間髪入れずに答えた。


景政が横目で息子を見る。


嘘だと知っている。


しかし、何も言わなかった。


「ほう」


客人は楽しそうに笑う。


「利口な童だ」


千代丸は、その言葉が好きではなかった。


利口。


賢い。


神童。


そんなものになりたいわけではない。


目立ちたくないのだ。


その後も客人と景政の話は続き、やがて話題は尾張の情勢へ移っていった。


千代丸は興味がないふりをしながら、黙って耳を傾ける。


「しかし、あの家も大変ですな」


客人が酒を口にした。


「嫡男があれでは」


景政が苦笑する。


「滅多なことを言うな」


「皆が言っておりますぞ」


「うつけ、ですか」


「そう。そのうつけです」


どこかの家の馬鹿息子。


珍しい話ではない。


千代丸も特に気に留めなかった。


「父親は大した男なのにな」


客人が杯を置く。


「織田信秀殿は尾張でも指折りの御仁。それなのに跡取りがあの有様とは」


織田。


その名なら知っている。


この辺りで大きな力を持つ一族であり、林道家などとは比べものにならない。


「吉法師殿でしたか」


景政が尋ねる。


「今は三郎信長と」


客人が答えた。


「織田三郎信長」


千代丸はその名を胸の内で繰り返した。


織田信長。


聞いたことのない名だった。


前の生でも、この生でも。


「派手な格好で町を歩き回る。人前で平気で妙な振る舞いをする。家臣どもも頭を抱えておるそうです」


客人が笑う。


景政はすぐには同調しなかった。


「しかし、本当にただのうつけなのでしょうか」


「どういう意味で?」


「いや……」


景政は酒を一口飲んでから続けた。


「人は、本当に愚かなだけの者を何年も噂したりはせぬものです」


千代丸は思わず父へ目を向けた。


この父は時折、面白いことを言う。


客人が帰る頃には、空が赤く染まり始めていた。


千代丸は一人で庭へ出た。


「織田信長」


小さく口にしてみる。


ただの名前だ。


会ったこともなければ、顔すら知らない。


それなのに妙に耳に残った。


「千代丸」


後ろから景久がやってきた。


「何してる?」


「何も」


「また考え事か?」


「はい」


「七つのくせに考えすぎなんだ、お前は」


景久が弟の頭を乱暴に撫で回す。


「兄上」


「なんだ」


「髪が乱れます」


「男がそんなこと気にするな!」


千代丸は鬱陶しそうに兄の手を払いのけた。


景久が楽しそうに笑う。


その顔につられて、千代丸もわずかに笑った。


織田信長。


いつか会うことがあるかもしれない。


だが、林道家と織田家では立場が違いすぎる。


自分とは関係のない人間だ。


このときは、本気でそう思っていた。


その夜。


千代丸は夢を見た。


広大な陣だった。


見渡す限りに兵が並び、無数の旗が風を受けてはためいている。


その中心で、千代丸は誰かの前に跪いていた。


顔は見えない。


ただ、声だけが聞こえる。


「顔を上げろ」


身体が動かなかった。


夢だと分かっている。


それなのに、怖い。


「余を見ろ」


抗うことができず、ゆっくりと顔を上げる。


最初に見えたのは男の目だった。


鋭く、恐ろしいほど冷たい。


しかし、その奥では炎のようなものが燃えている。


知っている。


この目を、自分は知っている。


間違いなく、この男を知っている。


「貴様」


男が笑った。


「余が怖いか?」


千代丸は勢いよく目を覚ました。


「……っ!」


呼吸が乱れ、額には汗が浮かんでいる。


しばらく天井を見つめながら息を整えた。


夢だ。


ただの夢。


そう考えようとしても、胸の奥に残った恐怖だけは消えてくれなかった。


「……誰だ」


答えは出ない。


いや。


自分から答えを遠ざけていた。


思い出してはいけない。


なぜか、そんな気がした。


同じ頃。


林道家から離れた尾張の地で、一人の若者が夜空を見上げていた。


派手な着物をまとい、髪は乱れ、腰には刀を差している。


周囲から「うつけ」と呼ばれる男。


織田三郎信長。


月を眺めていた信長の口元に、ふと笑みが浮かんだ。


理由は分からない。


ただ今夜、ひどく懐かしい夢を見たような気がしていた。


「……面白い」


信長は月を見上げたまま呟く。


「この世も、なかなか退屈せぬらしい」


千代丸と信長。


二人はまだ、互いの存在を知らない。


互いが何者であったのかも知らない。


かつて一度交わった二人の道が、この尾張の地で再び近づき始めていることにも、まだ気づいてはいなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。