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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第三話 知らぬ戦


天文十八年。


尾張国知多郡。


あの一件から、二年が過ぎた。


林道家の次男・千代丸は七歳になっていた。


「若様」


「はい」


「死んでおりますぞ」


「……そうですか」


千代丸は地面に転がったまま、空を見上げた。


雲一つない青空だった。


実に気持ちのよい天気だ。


死ぬには惜しい日だと思った。


「もう一度お願いします」


「嫌でございます」


即答だった。


千代丸は起き上がる。


目の前には柴崎弥兵衛が立っている。


林道家に長く仕える古参の家臣。


手には木槍。


その先端が、つい先ほどまで千代丸の喉元にあった。


「なぜです?」


「もう七度死んでおります」


「八度死ねば、何か分かるかもしれません」


「分かりませぬ」


「では九度」


「若様」


弥兵衛がため息をついた。


「戦とは、死んだ後にやり直せるものではございませぬ」


「知っています」


「ならば、もう少し命を大事になされませ」


「木槍では死にません」


「そういうところでございます」


何が気に入らないのだろう。


千代丸には分からなかった。


◇◇◇


二年前。


五歳だった千代丸は、一つの策を使った。


林道領へ入ろうとした野伏せりを、隣の野々村領へ誘導した。


林道家は戦わずして危機を免れた。


だが。


一人の子供が死んだ。


自分の策によって。


直接殺したわけではない。


それでも、千代丸の中には妙なものが残った。


母の言葉も。


――賢いことと、正しいことは、きっと同じではありません。


忘れることができなかった。


だからといって。


千代丸が策を嫌うようになったわけではない。


必要なら使う。


家族を守るためなら、なおさらだ。


ただ。


以前より一つだけ考えるようになった。


(策を使った後、誰が死ぬのか)


それだけだった。


◇◇◇


「もう一度」


千代丸は木槍を拾った。


弥兵衛が眉を寄せる。


「まだやりますか」


「今度は同じようには負けません」


「先ほども聞きました」


「先ほどとは私が違います」


「七歳の童が、ずいぶんな口を」


弥兵衛が木槍を構える。


千代丸も構えた。


二人の距離は三間ほど。


千代丸は弥兵衛を見る。


肩。


腰。


足。


視線。


呼吸。


前の七回。


弥兵衛は千代丸が右へ動こうとすると、わずかに左足へ力を入れた。


ならば。


(右へ行くと見せる)


千代丸が踏み出す。


弥兵衛の身体が動く。


予想通り。


千代丸は逆へ走った。


「そこです!」


木槍を突く。


――が。


次の瞬間。


景色が回った。


「ぐっ!」


背中から地面に落ちる。


また空が見えた。


そして。


喉元に木槍。


「八度目」


弥兵衛が言った。


「……なぜ」


千代丸は地面に倒れたまま聞いた。


「読んでいたはずです」


「読ませたのでございます」


千代丸の眉が動く。


「わざと?」


「はい」


弥兵衛が木槍を引く。


「若様は人をよく見ておられる」


「……」


「ゆえに、見せればよい」


千代丸は起き上がった。


面白い。


思わず口元が緩んだ。


「もう一度」


「嫌です」


「なぜです?」


「若様が楽しそうになってきたからです」


「よいことでは?」


「私は疲れました」


弥兵衛は木槍を置いた。


◇◇◇


「弥兵衛」


縁側に座った千代丸が聞いた。


「この国では、槍が主なのですか?」


弥兵衛が怪訝な顔をする。


「この国?」


「……尾張では、という意味です」


「場所にもよりますな」


危ない。


まだ時折、言葉を間違える。


千代丸は七年かけて、この国について学んできた。


日本。


自分がかつて生きた土地とは、まるで違う。


海に囲まれた島国。


帝がいる。


だが各地には武家がいる。


さらにその下で、数え切れないほどの者たちが領地を争っている。


奇妙な国だった。


そして何より。


戦い方が違う。


「若様」


弥兵衛が言う。


「以前から思っておりましたが」


「何です?」


「若様は戦を何だと思っておられる」


千代丸は少し考える。


「国と国が兵を集め、野で戦うもの」


「違いますな」


即答された。


千代丸が弥兵衛を見る。


「違う?」


「少なくとも我らの戦は、そんな立派なものばかりではございませぬ」


弥兵衛が庭を指した。


「田の水をどちらへ流すかで人が死ぬ」


次に山を見る。


「薪をどこで取るかで人が死ぬ」


屋敷の外へ目を向ける。


「昨日まで一緒に酒を飲んでいた男が、明日は敵になる」


「……」


「大軍がぶつかるだけが戦ではございませぬ」


千代丸は黙った。


知っているつもりだった。


人間が争う理由など、昔から変わらない。


だが。


この土地には、この土地の戦がある。


「それに」


弥兵衛が続ける。


「百人おれば百人が兵になるわけでもない」


「農民だから?」


「それもあります」


弥兵衛は千代丸を見る。


「腹が減れば逃げます」


「はい」


「雨が降れば帰ります」


「……帰る?」


「田がございますからな」


千代丸は目を瞬いた。


「戦の最中に?」


「当たり前でしょう」


当たり前なのか。


千代丸には衝撃だった。


以前なら考えられない。


軍令に背いて帰れば罰する。


場合によっては首を斬る。


「しかし、それでは戦えないでしょう」


「だから皆、苦労するのです」


弥兵衛が笑った。


千代丸は黙り込んだ。


七年間。


自分はこの国をかなり理解したと思っていた。


言葉を覚えた。


文字も学んだ。


土地についても調べた。


だが。


(私は何も知らぬ)


それを初めて自覚した。


◇◇◇


それから千代丸は変わった。


いや。


周囲から見れば、さらに奇妙な子供になった。


農民のところへ行った。


「今年の米はどうです?」


「へ?」


「去年より取れますか?」


七歳の若様に突然そんなことを聞かれ、農民は困った。


鍛冶屋にも行った。


「槍を一本作るのに何日かかります?」


「若様、槍など欲しいので?」


「いいえ。知りたいだけです」


商人にも聞いた。


「尾張から美濃まで荷を運ぶなら何日です?」


寺へ行けば僧に尋ねる。


「人が死んだら、どこへ行くのです?」


これだけは別の理由だったが。


千代丸は、とにかく聞いた。


見た。


覚えた。


前の生の知識を捨てるつもりはない。


だが、それだけに頼ればいつか死ぬ。


知らない土地。


知らない兵。


知らない武器。


知らない常識。


ならば。


(覚えればよい)


それだけの話だった。


◇◇◇


ある日。


千代丸は弥兵衛に連れられて、林道家の領内を歩いていた。


「若様」


「はい」


「もし敵が百人、この道から来たらどうします?」


千代丸は周囲を見る。


細い道。


左右に田。


少し先に川。


「橋を落とします」


「その後は?」


「川を渡っているところを弓で狙う」


「敵が来なかったら?」


「……」


千代丸は考える。


「別の道?」


「ございます」


「どこに?」


弥兵衛が笑った。


「教えませぬ」


千代丸は不満そうに見る。


「意地が悪い」


「戦場で敵が道を教えてくれると思いますか?」


正論だった。


「探します」


「どうやって」


「村の者に聞く」


「敵も同じことをしますぞ」


「なら敵より先に聞く」


弥兵衛が笑う。


「それでよろしい」


歩きながら千代丸は思った。


面白い。


最初は、この人生では戦から離れるつもりだった。


なのに。


知れば知るほど。


考えたくなる。


もし自分ならどうする。


この城を攻めるなら。


この道を守るなら。


この川を使うなら。


その思考を止められない。


(……性分というものは変わらぬか)


苦笑した。


◇◇◇


屋敷へ戻ると。


父・景政が客人と話していた。


知らない男だった。


「千代丸」


父が気づく。


「こちらへ来い」


「はい」


千代丸は頭を下げる。


客人は四十ほどの武士だった。


「次男坊か」


「はい」


「噂は聞いておるぞ」


千代丸の目が細くなる。


「何の噂でしょう」


「五つの時、野伏せりを追い払ったそうではないか」


「父と弥兵衛の策です」


即座に答えた。


景政が横目で千代丸を見る。


嘘だと知っている。


だが何も言わない。


客人が笑う。


「利口な童だ」


その言葉が嫌だった。


利口。


賢い。


神童。


そんなものになりたいわけではない。


目立ちたくない。


客人と父の話が続く。


どうやら尾張の情勢について話しているらしい。


千代丸は興味がないふりをしながら聞いていた。


「しかし、あの家も大変ですな」


客人が言う。


「嫡男があれでは」


景政が苦笑する。


「滅多なことを言うな」


「皆が言っておりますぞ」


「うつけ、ですか」


「そう。そのうつけです」


千代丸は何気なく聞いていた。


どこかの家の馬鹿息子。


珍しい話ではない。


「父親は大した男なのにな」


客人が酒を飲む。


「織田信秀殿は尾張でも指折りの御仁。それなのに、跡取りがあの有様とは」


千代丸の耳がわずかに動いた。


織田。


その名は知っている。


この辺りで大きな力を持つ一族。


林道家など比べものにならない。


「吉法師殿でしたか」


景政が言う。


「今は三郎信長と」


客人が答える。


「織田三郎信長」


千代丸は、その名を頭の中で繰り返した。


織田。


信長。


もちろん。


その名前を聞いたことなど一度もない。


前の生にも。


この生でも。


「派手な格好で町を歩き回る」


客人が笑う。


「人前で平気で妙な振る舞いをする。家臣も頭を抱えておるそうです」


「しかし」


景政が言った。


「本当にただのうつけなのでしょうか」


「どういう意味で?」


「いや……」


父が酒を口にする。


「人は、本当に愚かな者を何年も噂したりはせぬものです」


千代丸が父を見る。


少し驚いた。


やはり、この父は時折面白いことを言う。


客人が帰った後。


千代丸は庭へ出た。


空は赤く染まっていた。


「織田信長」


小さく呟く。


ただの名前だ。


会ったこともない。


顔すら知らない。


なのに。


なぜだろう。


妙に気になった。


「千代丸」


兄の景久が後ろからやってくる。


「何してる?」


「何も」


「また考え事か?」


「はい」


「七つのくせに考えすぎなんだ、お前は」


景久が弟の頭を乱暴に撫でる。


「兄上」


「なんだ」


「髪が乱れます」


「男がそんなこと気にするな!」


千代丸は兄の手を払いのけた。


景久が笑う。


その笑顔を見て。


千代丸も少しだけ笑った。


織田信長。


いずれ会うことがあるかもしれない。


だが。


林道家と織田家では、あまりにも立場が違う。


自分とは関係のない人間だ。


そう思った。


その夜。


千代丸は夢を見た。


◇◇◇


広大な陣。


数え切れない兵。


風にはためく旗。


自分は誰かの前に跪いていた。


顔は見えない。


ただ。


声だけが聞こえる。


――顔を上げろ。


身体が動かない。


夢だと分かっているのに。


恐ろしい。


――余を見ろ。


ゆっくりと顔を上げる。


男の目が見えた。


鋭い。


恐ろしく冷たい。


だが、その奥には炎のようなものがある。


千代丸は、その目を知っていた。


知っている。


絶対に。


この男を知っている。


――貴様。


男が笑う。


――余が怖いか?


そこで。


千代丸は目を覚ました。


「……っ!」


息が荒い。


額に汗が浮かんでいる。


しばらく天井を見つめた。


夢。


ただの夢だ。


そう思おうとした。


だが。


胸の奥に残る恐怖だけは、本物だった。


「……誰だ」


呟く。


答えは出ない。


いや。


出そうとしなかった。


思い出してはいけない。


そんな気がした。


同じころ。


林道家から遠く離れた尾張の地で。


一人の若者が夜空を見上げていた。


派手な着物。


乱れた髪。


腰には刀。


周囲から「うつけ」と呼ばれる男。


織田三郎信長。


信長は月を見ながら、なぜか笑った。


理由などない。


ただ。


ひどく懐かしい夢を見た。


そんな気がしたのだ。


「……面白い」


信長は呟いた。


「この世も、なかなか退屈せぬらしい」


二人はまだ知らない。


互いの存在を。


互いの過去を。


そして。


かつて一度交わった二人の道が――


この尾張で再び近づき始めていることを。

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