第二話 五歳児の策
天文十六年。
尾張国知多郡。
小土豪・林道家の次男として生を受けてから、五年が過ぎた。
千代丸は縁側に座り、庭で木刀を振る兄を眺めていた。
「せいっ!」
林道家嫡男、景久。
十一歳。
六年前と比べれば、ずいぶんと身体も大きくなった。
木刀を振る姿にも、それなりの力強さがある。
「どうだ、千代丸!」
景久が得意げにこちらを見る。
「強くなっただろう!」
千代丸は少し考えた。
「以前よりは」
「以前よりは?」
「はい」
「それだけか!」
景久が不満そうな顔をする。
千代丸は首を傾げた。
嘘を言っても仕方がない。
確かに以前よりは強くなっている。
だが、実戦で生き残れるかと問われれば別だった。
「兄上」
「なんだ」
「左足が前へ出すぎです」
「左足?」
「それでは右から強く打たれたとき、身体が流れます」
景久が自分の足を見る。
「……こうか?」
「もう少し後ろです」
景久が構え直す。
「こう?」
「はい」
再び木刀を振る。
先ほどより姿勢が安定した。
「おお!」
景久が目を輝かせる。
「本当だ!」
千代丸は小さく息を吐いた。
単純な兄だった。
だが――。
嫌いではない。
「しかし千代丸」
景久が木刀を肩に担ぐ。
「お前、剣はろくに振れんくせに、なぜそんなことが分かる?」
「見れば分かります」
「俺には分からん」
「兄上は考えるより先に身体を動かしますから」
「馬鹿にしているのか?」
「褒めています」
「絶対に嘘だ!」
庭に景久の声が響いた。
縁側の奥から母の笑い声が聞こえる。
こんな日々が、千代丸は好きになっていた。
五年前。
この世界で目覚めたとき。
もう二度と権力争いには関わらないと決めた。
天下などいらない。
名声もいらない。
この小さな家で生きられれば、それでいい。
幸い林道家は小さい。
領地はわずか数ヶ村。
戦になれば数十人を出すのが精一杯。
天下を争うような家ではない。
実に都合がよかった。
――ただし。
小さいからこそ、簡単に滅びる。
それもまた事実だった。
◇◇◇
その日の夕刻。
屋敷の空気が変わった。
「殿!」
一人の男が門から駆け込んできた。
泥だらけだった。
息を切らしている。
千代丸は廊下からその様子を見ていた。
父・景政が立ち上がる。
「どうした」
「野伏せりです!」
男が膝をつく。
「十五……いや、二十ほど!」
景政の顔が変わった。
「場所は?」
「南です。こちらへ向かっております!」
景政が立ち上がった。
林道家の兵の多くは今、屋敷にいない。
近隣で起きた揉め事の仲裁のため、景政が十数人を連れて出る予定になっていた。
その矢先だった。
「狙いは?」
「おそらく米かと」
景政が黙る。
今年は作柄がよくない。
蔵の米を奪われれば、林道家だけの問題ではない。
領民が冬を越せなくなる。
「弥兵衛」
景政が呼ぶ。
「はっ」
四十を過ぎた男が前へ出る。
柴崎弥兵衛。
祖父の代から林道家に仕える古参だった。
「屋敷に残っている者は」
「まともに戦える者となると八名ほど」
「少ないな」
「はい」
景政が考える。
千代丸は黙って聞いていた。
敵は二十前後。
こちらは八。
屋敷には老人、女、子供もいる。
戦えば――。
(勝てぬな)
正確には、勝つこと自体は不可能ではない。
地の利はこちらにある。
門を固め、弓を使い、狭い場所へ誘い込めば撃退できる可能性はある。
だが。
三人死ぬかもしれない。
五人かもしれない。
それでは勝利とは呼べない。
たかが米を守るために、林道家の戦力の半分を失う。
愚策だ。
「父上」
景久が言った。
「俺も戦います!」
景政が睨む。
「ならん」
「ですが!」
「お前は母と千代丸を連れて裏山へ逃げろ」
「嫌です!」
景久が木刀ではなく、本物の刀へ手を伸ばした。
「俺は林道家の嫡男です!」
千代丸は兄を見る。
十一歳。
気持ちは分かる。
だが。
「兄上では勝てませぬ」
部屋が静かになった。
景久が振り返る。
「……千代丸?」
「戦ってはいけません」
「何を言う!」
「敵は二十。こちらは八」
「屋敷なら守れる!」
「守れたとして、何人死にます?」
景久が言葉に詰まる。
弥兵衛が千代丸を見る。
「若様」
「はい」
「戦には犠牲がつきものにございます」
「知っています」
即答だった。
弥兵衛の眉がわずかに動いた。
五歳の子供が口にする言葉ではなかった。
千代丸自身、それに気づいた。
少し喋りすぎた。
だが、もう遅い。
「千代丸」
父が言った。
「何か考えがあるのか」
千代丸は父を見る。
黙っているべきだと思った。
これは大人の問題だ。
自分が関わる必要はない。
目立たず生きる。
そう決めた。
――だが。
兄を見る。
戦う気だ。
止めなければ、本当に刀を持つだろう。
母を見る。
不安そうに父を見つめている。
千代丸は小さく息を吐いた。
仕方がない。
「米を渡せばよいのです」
景久が目を見開いた。
「何だと!」
「全部とは言っておりません」
「では?」
「三俵ほど」
景政が眉を寄せる。
「三俵?」
「はい」
千代丸は庭へ出た。
地面に小さな枝で線を引く。
五歳児が描いたとは思えないほど迷いがなかった。
「敵はこちらから来ます」
南を指す。
「こちらに古い道があります」
「あるな」
弥兵衛が答えた。
「その先は?」
「野々村領に出ます」
「はい」
野々村家。
林道家とは以前から水利を巡って揉めている隣の土豪だった。
千代丸は地面に丸を描く。
「ここへ米を置きます」
景久が首を傾げる。
「なぜだ?」
「野伏せりに見つけてもらうためです」
「……?」
誰も意味を理解していない。
千代丸は続ける。
「米俵に野々村家の印をつけます」
景政の表情が変わった。
弥兵衛も気づいた。
「まさか……」
千代丸は頷く。
「野々村から運び出した米に見せます」
「そしてどうする」
父が聞く。
「道に人を一人置きます」
「誰を?」
「誰でも構いません。野伏せりを見れば逃げればよいのです」
千代丸は続けた。
「ただし、聞こえるようにこう言わせます」
――ここには三俵しかない。
――残りは野々村の蔵にある。
部屋が静まり返った。
景久だけがまだ理解できていない。
「それで?」
千代丸が兄を見る。
「野伏せりは三俵で満足しますか?」
「……しないだろうな」
「では、もっと米がある場所へ行きます」
景久の顔が変わる。
ようやく理解した。
「野々村へ……」
「はい」
景政が千代丸を見つめている。
「しかし野々村が襲われるぞ」
「ですから、知らせます」
「知らせる?」
「今すぐ使いを出してください」
千代丸は平然と言った。
「野伏せり二十名ほどが、明朝そちらを襲う可能性がある、と」
弥兵衛が息を呑んだ。
野々村家は当然、兵を集める。
そこへ何も知らない野伏せりが向かう。
「……ぶつけるのか」
景政が呟いた。
千代丸は答えなかった。
景久が弟を見る。
先ほどまで庭で木刀の構えを教えていた五歳児。
その弟が今。
二つの勢力をぶつけようとしている。
「千代丸」
父の声が低くなる。
「誰に教わった」
一瞬。
千代丸は答えに詰まった。
誰に?
教わったわけではない。
こんなものは策とも呼べない。
兵力で劣るなら、別の兵力を利用する。
それだけの話だ。
かつてなら――。
その瞬間。
脳裏に何かが浮かんだ。
巨大な城壁。
無数の旗。
馬の嘶き。
そして。
自分を見下ろす、一人の男。
鋭い目。
人を人とも思わぬような目でありながら、誰よりも人というものを理解していた男。
――貴様。
声が聞こえた気がした。
――随分と面白い目をしているな。
「千代丸?」
父の声で我に返った。
幻は消えていた。
「……誰にも」
千代丸は答える。
「誰にも教わっておりませぬ」
景政はしばらく息子を見つめていた。
◇◇◇
策は実行された。
翌朝。
野伏せりは林道領へ入った。
そして街道脇に置かれた三俵の米を発見した。
近くにいた農民が彼らを見るなり逃げる。
「待て!」
当然、追われた。
農民は言われた通り叫んだ。
「殺さないでくれ!」
「米はそれだけか!」
「そ、それだけだ!」
「嘘をつけ!」
「残りは野々村様の蔵へ運んだ! 昨日全部運んだ!」
野伏せりたちは顔を見合わせた。
そして――。
林道領から去った。
◇◇◇
昼過ぎ。
遠くから鐘の音が聞こえた。
野々村領の方角だった。
屋敷の物見から景久が声を上げる。
「本当に行った……」
千代丸は縁側に座っていた。
茶を飲む。
まだ五歳なので薄い白湯に近いものだったが。
「だから申したでしょう」
「お前……」
景久が弟を見る。
「怖くないのか?」
「何がです?」
「人が戦っているんだぞ」
千代丸は少し考えた。
「我らは戦っておりませぬ」
「そうだけど……」
「米も守れました」
「……ああ」
「誰も死んでおりません」
少なくとも。
林道家では。
千代丸は空を見る。
これでいい。
戦わずして危機を退けた。
兵も失わない。
米もほとんど失わない。
さらに野々村家が野伏せりを討てば、周辺の治安まで良くなる。
悪い結果ではない。
むしろ最善に近い。
そう思っていた。
◇◇◇
三日後。
兄が帰ってきた。
野々村領の様子を父と見に行っていたのだ。
「兄上」
千代丸が声をかける。
景久は返事をしなかった。
いつもの兄ではない。
「どうしました」
「……死んだ」
「誰がです?」
「子供だ」
千代丸の動きが止まる。
「野々村の村にいた子だ」
景久が拳を握る。
「野伏せりが蔵へ向かう途中、家に火をつけた」
「……」
「逃げ遅れたらしい」
千代丸は黙った。
「俺、お前の策はすごいと思った」
景久が言う。
「父上も弥兵衛も、みんなそう言ってた」
「……はい」
「でも」
景久は弟を見る。
「これでよかったのか?」
答えは簡単だった。
よかった。
林道家の領民は死んでいない。
米も守った。
敵対する野々村家にも被害を与えた。
野伏せりも何人か討たれた。
戦略的に考えれば成功。
そう答えればいい。
なのに。
言葉が出なかった。
その日の夜。
千代丸は眠れなかった。
名前すら知らない子供。
顔も知らない。
自分とは何の関係もない。
(なぜ気になる)
分からなかった。
人が死ぬ。
そんなものは見慣れている。
一人どころではない。
百。
千。
万。
もっと多くの人間が死ぬのを見た。
自分の判断で死んだ者だって――。
そこまで考えて、千代丸は目を開けた。
まただ。
時折。
前の生の記憶が、妙に鮮明になることがある。
旗。
城。
軍勢。
老人になった自分。
そして――。
戦場。
誰かと戦っていた。
とても長い間。
恐ろしいほど頭の切れる男と。
だが、その名を思い出そうとはしなかった。
思い出す必要などない。
ここは違う世界だ。
自分はもう、あの頃の人間ではない。
「千代丸」
母の声。
志乃が部屋へ入ってきた。
「眠れないのですか?」
「……はい」
母が隣へ座る。
「兄上から聞きました」
千代丸が言った。
志乃は何も言わない。
「私が何もしなければ」
言葉が止まる。
「林道の者が死んでいたかもしれませぬ」
「そうですね」
「米を奪われていたかもしれない」
「そうですね」
「ならば」
千代丸は母を見る。
「私は間違っておりませぬ」
志乃はしばらく息子を見つめた。
「そうかもしれません」
「……」
「でもね、千代丸」
母の手が頭に触れる。
「人が死んで、よかったことなど一つもありませんよ」
千代丸は母を見る。
理解できなかった。
戦えば人は死ぬ。
国を守るためなら兵を犠牲にする。
百を捨てて千を救う。
千を捨てて万を救う。
それが上に立つ者の役目だ。
そうでなければ国など動かせない。
――そう思っていた。
だが。
目の前の女は。
そんな理屈など知らない。
ただ、一人の子供が死んだことを悲しんでいる。
「千代丸」
母が言う。
「賢いことと、正しいことは、きっと同じではありません」
その言葉が。
なぜか胸に残った。
◇◇◇
数日後。
父・景政は弥兵衛と庭に立っていた。
少し離れたところで、千代丸と景久が遊んでいる。
いや。
正確には景久が千代丸を追い回していた。
「待て千代丸!」
「嫌です」
「今日は剣を教えてやる!」
「兄上に教わることはありません」
「何だと!」
景政がそれを眺めている。
「弥兵衛」
「はっ」
「あれをどう思う」
弥兵衛は答えなかった。
「正直に申せ」
「……気味が悪うございます」
景政が苦笑した。
「やはりそうか」
「五つの童が考える策ではありませぬ」
「ああ」
「殿」
弥兵衛が声を落とす。
「若様は、いずれ林道家には収まらぬ器になるやもしれませぬ」
景政の表情から笑みが消えた。
「それが怖いのだ」
「怖い?」
「大きすぎる器は、大きな場所へ行きたがる」
景政は息子を見る。
「大きな場所には、大きな戦がある」
その夜。
景政は眠っている千代丸の顔を見た。
隣には志乃がいる。
「なあ、志乃」
「はい」
「あれは本当に五つか?」
志乃が笑った。
「あなたの息子ですよ」
「だから心配なのだ」
二人は知らなかった。
千代丸が起きていることを。
布団の中。
千代丸は目を閉じたまま考えていた。
(失敗した)
目立ってしまった。
二度目の生では、静かに暮らす。
そう決めたはずなのに。
たった五年でこれだ。
だが――。
家族が危険になれば。
おそらく自分はまた同じことをする。
千代丸は小さく息を吐いた。
(仕方あるまい)
少なくとも。
天下を争うつもりなどない。
この小さな林道家を守れれば、それでいい。
そう。
それだけでいいのだ。
――このとき。
五歳の千代丸はまだ知らない。
数年後。
尾張に一人の若者が現れる。
常識を嫌い。
古い秩序を壊し。
味方すら恐れる男。
そして。
その男の目を見た瞬間。
千代丸は二度目の生で初めて――。
心の底から恐怖することになる。




