第一話 二度目の生
死んだ。
そのはずだった。
長い生だった。
あまりにも長く、あまりにも多くのものを見た。
人が栄えるところを見た。
人が滅びるところを見た。
忠義を語る者が主君を裏切るところも、卑怯者と罵られた男が最後まで義理を通すところも見た。
戦も、謀略も、裏切りも。
嫌というほど見てきた。
そして最後には、自分も老いには勝てなかった。
だから――。
次に目を開けたとき、最初に思ったことは一つだった。
(……ここは、どこだ?)
見知らぬ天井があった。
いや。
天井というより、木の板だった。
粗末な造り。
見覚えがない。
身体を起こそうとする。
動かない。
(……?)
もう一度試す。
やはり動かない。
それどころか、手足にまるで力が入らない。
何が起きている。
病か。
毒か。
そう考えたところで、視界の端に何かが映った。
自分の手だった。
小さい。
異常なほど小さい。
(…………)
嫌な予感がした。
手を握ろうとする。
小さな指がゆっくり曲がった。
赤子の手だった。
「――あら」
声がした。
女。
反射的にそちらを見る。
若い女がこちらを覗き込んでいた。
二十代半ばほどだろうか。
見知らぬ顔。
見知らぬ衣服。
そして――。
「千代丸。起きたのですね」
聞いたことのない言葉だった。
(……何を言っている?)
女は微笑んでいる。
敵意はない。
少なくとも、自分を殺そうとしている人間の顔ではない。
女が身体を抱き上げた。
(待て)
抵抗しようとした。
だが。
「よしよし」
(やめろ)
「お腹が空いたのでしょう?」
(私は子供では――)
そこで気づいた。
身体が持ち上げられている。
簡単に。
何の抵抗もできずに。
そして自分の身体を改めて確認する。
小さな腕。
小さな足。
自由にならない首。
(……まさか)
死んだはずの自分が生きている。
しかも――。
(赤子になったというのか?)
あり得ない。
そう思った。
だが、目の前で起きていること以上に確かなものなどない。
夢かとも考えた。
しかし女の腕の温かさも、部屋に漂う木の匂いも、肌に触れる布の感触も、あまりに鮮明だった。
夢とは思えない。
ならば。
(……生まれ変わった?)
自分でも馬鹿げた考えだと思った。
だが、それ以外に説明できなかった。
女がまた何かを話している。
言葉は分からない。
自分の知るどの国の言葉とも違う。
ただ、一つだけ。
何度も繰り返される音があった。
「千代丸」
女はそう言うたび、自分を見る。
(千代丸……)
どうやら、それが今の自分の名らしい。
ずいぶんと妙な名だ。
前の名とは似ても似つかない。
だが――。
(悪くない)
名前など、生きる上では大した問題ではない。
問題なのは、ここがどこなのか。
いつなのか。
そして自分が、何者として生まれたのか。
情報が必要だ。
そう考えた。
生まれ変わって最初に考えたことがそれだった。
我ながら、可愛げのない赤子である。
◇◇◇
それから数ヶ月。
千代丸は、ひたすら人の話を聞いた。
最初は何一つ分からなかった。
だが赤子というものは都合がいい。
何時間、人の会話を聞いていても怪しまれない。
母らしき女は「志乃」というらしい。
そして、父らしき男が「景政」。
さらに自分には兄がいた。
「千代丸!」
六歳の少年が走ってくる。
「見ろ! 父上から木刀をいただいたぞ!」
当然、千代丸にはまだ言葉の意味が完全には分からない。
それでも少しずつ理解できるようになってきていた。
人間の言葉というものは、意外と単純だ。
同じ状況で同じ音が使われる。
食事。
水。
父。
母。
兄。
眠る。
来る。
行く。
それらを一つずつ頭の中で結びつけていく。
一度覚えたものは忘れなかった。
「ほら!」
兄が木刀を振る。
危なっかしい。
腰が浮いている。
足の運びも悪い。
もし本物の剣なら、二合も持たないだろう。
(下手だな)
そう思った。
もちろん言葉にはできない。
すると兄が胸を張った。
「俺は強い侍になるのだ!」
(その腕では難しいだろう)
「そして千代丸を守ってやる!」
(…………)
千代丸は兄を見る。
少年は本気だった。
何の裏もない。
何の計算もない。
ただ弟を守ると言っている。
理解できなかった。
かつて千代丸が生きていた世界では、兄弟であることと味方であることは同じではなかった。
親子ですらそうだ。
権力が絡めば、血など簡単に意味を失う。
兄弟だからこそ殺し合うことさえある。
だから千代丸は、この兄もいずれ自分を警戒するだろうと思っていた。
だが。
「千代丸!」
兄が顔を近づけてくる。
「早く大きくなれ!」
(近い)
「一緒に遊ぶぞ!」
(やめろ)
頬をつつかれる。
「ははは! 変な顔!」
(この小僧……)
腹が立った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
◇◇◇
一年ほど経つころには、この国の言葉をかなり理解できるようになっていた。
自分が生まれた場所についても分かってきた。
尾張。
どうやら、この土地はそう呼ばれているらしい。
知らない国だった。
聞いたこともない。
自分が知っている地図のどこにも存在しない。
そして、この国では各地の領主たちが争っていた。
戦。
領地。
裏切り。
同盟。
その話を聞いたとき、千代丸は妙な気分になった。
(どこへ行っても、人間とは変わらぬものだな)
時代が違おうが、国が違おうが。
結局、人は土地を奪い合う。
富を奪い合う。
権力を奪い合う。
少しだけ安心した。
人間が変わらないのであれば、生き方も変える必要はない。
――そう考えていた。
ある日の夜だった。
千代丸は目を覚ました。
隣の部屋から父と母の声が聞こえる。
「また戦になるのでしょうか」
志乃の声。
「分からん」
景政が答える。
「だが、このままでは済まんだろう」
「あなたも行くのですか?」
少しの沈黙。
「ああ」
その一言で、母の声が止まった。
千代丸は天井を見つめた。
戦。
この国に来て初めて、その言葉が自分の近くまでやってきた。
不思議と恐怖はなかった。
戦など珍しくもない。
大軍同士がぶつかり、何千、何万という人間が死ぬ光景すら知っている。
今さら数十人、数百人の争いに驚くことなど――。
「あなた」
母の声がした。
「必ず帰ってきてくださいね」
「分かっている」
「千代丸も、景久も待っています」
また沈黙。
やがて父が小さく笑った。
「天下など、偉い者に取らせておけばよい」
千代丸は耳を傾けた。
「我らは明日の飯が食えて、家族が笑っておれば、それでよい」
千代丸は目を閉じた。
妙な男だと思った。
天下を取れる力があるなら、取ればいい。
人の上に立てるなら、立てばいい。
力を持たぬ者は、力を持つ者に従う。
それが世というものだ。
少なくとも――。
かつての自分は、そう考えていた。
そのとき。
ふすまが静かに開いた。
「……千代丸?」
母だった。
起きていることに気づいたらしい。
志乃が近づいてくる。
「起こしてしまいましたか?」
千代丸は答えない。
まだ、まともには話せない。
母が隣に座った。
そして千代丸を抱き上げる。
「大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのか。
分からなかった。
「父上は、ちゃんと帰ってきますからね」
母の胸に抱かれる。
温かかった。
千代丸は目を閉じた。
ずいぶん昔。
自分にも父がいた。
母がいた。
兄弟がいた。
妻がいた。
子もいた。
多くの人間に囲まれて生きてきた。
それなのに。
なぜだろう。
こうして誰かに抱かれた記憶が、ひどく遠い。
戦う必要もない。
疑う必要もない。
策を巡らせる必要もない。
ただ目を閉じていればいい。
(……悪くない)
そう思った。
二度目の生がなぜ与えられたのかは分からない。
天の気まぐれか。
何かの罰か。
あるいは夢なのか。
だが。
もし本当にもう一度、生きることを許されたのなら。
今度は――。
天下など望むまい。
権力もいらない。
戦から離れ、この小さな家で静かに生きる。
父がいて。
母がいて。
妙に馴れ馴れしい兄がいて。
それで十分ではないか。
前の生は、少しばかり長く生きすぎた。
今度こそ。
静かに生きて。
静かに老いて。
静かに死のう。
千代丸はそう決めた。
――その決意が、わずか数年で破られることになるとは。
このときの彼は、まだ知らなかった。
尾張という小さな国で。
やがて、この国そのものを変えてしまう一人の男と出会うことを。
そして。
千年以上の時を越えてなお逃れることのできない因縁が、この地で再び動き始めていることを。
天文十一年。
尾張国。
後に「景継」と名乗ることになる少年は――
まだ、一歳だった。




