第十話 うつけの側
戦から七日が過ぎた。
林道家に、一人の使者がやってきた。
織田信長からだった。
「千代丸殿を、時折清洲へ寄越されたい」
使者が読み上げた言葉に、広間が静まり返った。
父・景政は目を閉じた。
兄・景久は嬉しそうに千代丸を見る。
弥兵衛は、なぜか諦めたような顔をしている。
母・志乃だけが、少し心配そうだった。
そして千代丸本人は。
「嫌です」
即答した。
「千代丸!」
父の声が飛ぶ。
「嫌なものは嫌です」
「お前は何を考えておる!」
「清洲は遠いです」
「そこではない!」
「本も読めません」
「そういう問題でもない!」
景久が笑いを堪えている。
千代丸は兄を睨んだ。
「兄上」
「なんだ?」
「代わりに行きますか」
「俺を呼んでないだろ」
「千代丸!」
また父に怒られた。
使者は困った顔をしていた。
◇◇◇
結局。
断れるはずもなかった。
正式な仕官ではない。
林道家から人質として差し出すわけでもない。
ただ、信長が千代丸を気に入った。
だから時々そばへ寄越せ。
言ってしまえば、それだけの話だった。
だが、小土豪の林道家にとって、織田家当主から直接声がかかるというのは軽い話ではない。
使者が帰った後。
景政は千代丸を自室へ呼んだ。
「千代丸」
「はい」
「なぜ嫌なのだ」
「以前にも申し上げました」
「信長様が怖いからか」
「はい」
景政が小さく笑う。
「お前がそこまで人を怖がるのは珍しいな」
千代丸は答えなかった。
自分でも分からない。
信長は怖い。
だが、殺されると思っているわけではない。
むしろ。
逆だった。
あの男は自分を気に入っている。
だからこそ、怖い。
「父上」
「なんだ」
「私は信長様の家臣になるのでしょうか」
景政は少し考えた。
「今は違う」
「今は?」
「お前は林道家の子だ」
父は静かに言った。
「だが、この先は分からん」
千代丸は父を見る。
「私は、お前に林道家を継がせるつもりはない」
初めて、はっきり言われた。
だが驚かなかった。
兄がいる。
景久が林道家を継ぐ。
それが当然だ。
「兄上がおりますから」
「ああ」
「なら私は?」
「好きに生きろ」
予想外の答えだった。
「……好きに?」
「景久は、ここに縛られる」
景政は庭へ目を向ける。
「林道家を継ぎ、土地を守り、民を守り、子を作り、次へ渡す。それがあの子の役目だ」
「はい」
「だが、お前にはそれがない」
父が千代丸を見る。
「だから、好きなところへ行け」
千代丸は黙った。
好きなところ。
そんなことを言われても。
行きたいところなど思いつかない。
「ただし」
景政が笑う。
「できれば、林道家を滅ぼさぬところへ行け」
「努力します」
「そこは約束しろ」
◇◇◇
数日後。
千代丸は弥兵衛とともに清洲へ向かった。
前回と同じ道。
だが、今回は少し景色が違って見えた。
織田家中は割れている。
表向きはまだ一つの家でも、その内側では信長と信勝を中心に人が分かれ始めている。
街道ですれ違う武士を見ても。
あれはどちらだ。
この商人は誰と繋がっている。
そんなことを考えてしまう。
「若様」
「はい」
「難しい顔をされておりますな」
「いつも通りです」
「清洲へ近づくほど怖い顔になっております」
「帰りましょうか」
「殿に殺されます」
「父上はその程度で人を殺しません」
「信長様に怒られます」
千代丸は黙った。
それは。
少しありそうだった。
◇◇◇
清洲へ到着すると、すぐ信長のもとへ通された。
信長は庭にいた。
相変わらず。
まともに座っていない。
地面に広げた紙を見ながら、何かを書いている。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「呼ばれた日には来ています」
「もっと早く来い」
「無理です」
信長が顔を上げる。
千代丸を見る。
そして笑った。
「相変わらずだな」
「何がでしょう」
「俺に媚びぬ」
「媚びれば喜ばれますか」
「いや」
「では必要ありません」
信長が声を上げて笑った。
「やはり面白い」
まただ。
千代丸は思った。
この男は自分を見るたびに面白いと言う。
玩具ではないのだが。
「座れ」
信長が言った。
千代丸は少し離れて座る。
「もっと近くへ来い」
「ここで聞こえます」
「近くへ来い」
仕方なく近づいた。
地面に広げられているのは、尾張の絵図だった。
千代丸の目が変わる。
信長はそれを見逃さなかった。
「好きか?」
「何がです」
「そういうものが」
千代丸は絵図を見る。
道。
川。
城。
村。
土地の境。
正確とは言えない。
だが、十分使える。
「好きというより」
千代丸は答える。
「分かりやすいです」
「何が」
「人が何を欲しがっているか」
信長の眉が動いた。
「絵図で分かるか」
「少しは」
千代丸は一ヶ所を指した。
「ここに城があります」
「ああ」
「こちらには川」
「うむ」
「その間に道」
「そうだ」
「なら、この城の主が欲しいのは城ではありません」
信長が千代丸を見る。
「何だ」
「道です」
千代丸は指を滑らせる。
「道を押さえれば、人と物が通る。物が通れば金が入る。だからこの城が必要になる」
「逆だと?」
「はい。城が欲しいから道を取るのではなく、道が欲しいから城を取る」
信長はしばらく絵図を見た。
「お前」
「はい」
「本当に誰に教わった」
まただ。
「父上です」
「嘘をつけ」
「弥兵衛」
「嘘だ」
「本です」
「何の本だ」
千代丸は困った。
信長がじっと見ている。
「忘れました」
「それが一番下手な嘘だな」
千代丸は目を逸らした。
◇◇◇
それから信長は、妙なことを始めた。
家臣との話し合いに。
千代丸を同席させた。
もちろん上座ではない。
発言する立場でもない。
部屋の隅。
ただ座っていろ。
それだけだった。
最初は何の意味があるのか分からなかった。
だが。
すぐに理解した。
信長は、自分に織田家を見せている。
家臣が入ってくる。
頭を下げる。
報告する。
米。
兵。
土地。
争い。
他家の動き。
信長は聞く。
時々怒る。
笑う。
命じる。
千代丸は黙って見ていた。
そして。
信長よりも。
家臣を見ていた。
誰が信長を恐れている。
誰が嫌っている。
誰が媚びている。
誰が何かを隠している。
誰と誰が目を合わせた。
言葉より。
そちらの方が面白かった。
◇◇◇
三人目の家臣が退出した後。
信長が言った。
「どう思った」
「何がです」
「今の男だ」
千代丸は少し考えた。
「嘘をついています」
信長の顔から笑みが消えた。
「何について」
「分かりません」
「なら、なぜ嘘だと分かる」
「分かるとは言っていません」
「今言っただろう」
「嘘をついていると思っただけです」
信長が睨む。
「同じだ」
「違います」
「どこが」
「証拠がありません」
千代丸は答える。
「証拠がないのに人を罰すれば、間違えた時に戻せません」
信長が黙る。
「では、どうする」
「調べます」
「何を」
「本人ではなく、周りを」
千代丸は先ほど男が座っていた場所を見る。
「人は自分の嘘は隠せます」
「ほう」
「でも」
千代丸は言った。
「自分と関わった全員の口までは塞げません」
信長は。
しばらく何も言わなかった。
やがて家臣を呼ぶ。
「おい」
「はっ」
「今の男について調べろ」
「何をでしょう」
「全部だ」
「は?」
「誰と会った。どこへ行った。何を買った。誰に金を渡した」
信長は笑う。
「本人には聞くな」
千代丸は少し嫌な予感がした。
◇◇◇
二日後。
結果が出た。
男は、報告していた米の量をごまかしていた。
一部を横流ししていたのだ。
千代丸は信長の前へ呼ばれた。
「当たったぞ」
「そうですか」
「嬉しくないのか」
「別に」
「なぜ分かった」
「分かっていません」
「またそれか」
「疑っただけです」
信長が少し苛立つ。
「だから、なぜ疑った」
千代丸は答えた。
「手です」
「手?」
「米が足りないという話をしている時だけ」
千代丸は自分の膝へ手を置く。
「左手の指で、膝を叩いていました」
「それだけか」
「はい」
「癖かもしれん」
「だから調べたのです」
信長は黙った。
そして。
突然。
大声で笑い始めた。
「ははははは!」
千代丸は少し身を引く。
「何です?」
「やはり欲しい!」
「何がです」
「お前だ」
「嫌です」
「まだ言うか!」
◇◇◇
その日から。
千代丸は時折、清洲へ呼ばれるようになった。
何かを決めるわけではない。
命令する権限もない。
ただ。
信長の横で。
見る。
聞く。
そして時々。
「お前ならどうする」
と聞かれる。
千代丸は。
分からなければ分からないと答えた。
分かることだけ答えた。
それでも。
少しずつ。
城の中で。
奇妙な噂が広がった。
――三郎様のそばに、妙な童がいる。
――林道とかいう小土豪の子らしい。
――まだ九つだとか。
――戦場で策を出したらしい。
――三郎様が気に入っている。
そして。
当然。
その噂は。
信長を嫌う者たちの耳にも入った。
◇◇◇
ある日。
千代丸が廊下を歩いていると。
前から数人の武士が来た。
そのうちの一人が。
千代丸を見て笑った。
「お前か」
千代丸は止まる。
「何でしょう」
「三郎様が飼っておる童というのは」
嫌な言い方だ。
だが。
千代丸は頭を下げた。
「林道千代丸にございます」
「林道?」
男が笑う。
「聞いたこともない家だ」
「小さい家ですから」
「それで」
男が千代丸へ近づく。
「三郎様に何を吹き込んでおる」
「何も」
「嘘をつけ」
「聞かれたことに答えているだけです」
男の顔から笑みが消える。
「童」
「はい」
「余計なことをするな」
千代丸は男を見る。
「余計なこととは?」
「分からぬか」
「分かりません」
男は一歩近づく。
「大人の話に」
「子供が口を出すな」
千代丸は黙った。
男はそれだけ言い。
仲間と去っていった。
千代丸は、その背中を見る。
名前は知らない。
だが。
顔は覚えた。
◇◇◇
「それで?」
その日の夕方。
信長が聞いた。
「何がです」
「何と言われた」
「大人の話に子供が口を出すなと」
信長が笑う。
「正しいな」
「私もそう思います」
「なら口を出すな」
「信長様が聞くからでしょう」
「俺のせいか」
「はい」
信長はまた笑った。
千代丸は。
その笑顔を見ながら。
ふと聞いた。
「信長様」
「なんだ」
「なぜ私を呼ぶのです」
信長の笑みが少し消える。
「前にも聞いたか?」
「いいえ」
「そうか」
信長は少し考えた。
「面白いからだ」
「それだけですか」
「ああ」
「嘘ですね」
今度は。
信長が黙った。
「ほう」
「私を試している」
千代丸は続ける。
「それだけではありません」
「では何だ」
「分かりません」
「何だそれは」
「だから聞いています」
信長はしばらく千代丸を見ていた。
そして。
「俺にも分からん」
意外な答えだった。
「お前を見ていると」
信長が言う。
「腹が立つ」
「では呼ばなければよいでしょう」
「最後まで聞け」
「はい」
「腹が立つ。気に食わん。何を考えているのか分からん」
散々な言われようだ。
「だが」
信長は。
少しだけ目を細めた。
「そばに置いておかねばならん気がする」
千代丸の胸が。
わずかに鳴った。
「なぜです?」
「だから分からんと言っておる」
信長は立ち上がった。
そして。
千代丸の横を通り過ぎる。
その瞬間。
小さく。
「昔から」
信長が呟いた。
千代丸が振り返る。
「……今、何と?」
信長も足を止めた。
「何がだ」
「昔から、と」
信長は。
少し考える。
自分でも。
なぜそんな言葉が出たのか分からない。
「知らん」
「言いました」
「忘れろ」
「嫌です」
「俺が忘れろと言っている」
「では信長様も、私が清洲で言ったことを忘れてください」
「それは嫌だ」
「同じです」
信長が振り返る。
二人の目が合う。
そして。
なぜか。
信長が笑った。
千代丸も。
ほんの少しだけ笑った。
◇◇◇
その夜。
千代丸は清洲の一室で眠った。
夢を見た。
知らないはずの場所。
巨大な広間。
自分は。
今の小さな身体ではない。
もっと大きい。
老いている。
目の前には。
一人の男が座っていた。
顔は。
見えない。
ただ。
声だけが聞こえる。
――お前は。
――余が死んだ後も。
――生き残るのだろうな。
千代丸は。
夢の中で答えようとした。
だが。
声が出ない。
男が笑う。
低い。
聞き覚えのある笑い声。
――それでよい。
――生き残れ。
その瞬間。
千代丸は目を覚ました。
「……っ!」
身体を起こす。
汗をかいていた。
夜。
清洲。
誰もいない部屋。
千代丸は胸を押さえる。
夢。
ただの夢。
そう思おうとした。
だが。
一つだけ。
おかしい。
男の顔は見えなかった。
名前も分からない。
なのに。
千代丸は。
その男が。
自分より先に死んだことを知っていた。
「……誰だ」
小さく呟く。
答えはない。
千代丸は再び横になる。
だが。
その夜。
もう眠ることはできなかった。
◇◇◇
翌朝。
千代丸は信長と会った。
「ひどい顔だな」
「眠れませんでした」
「童はよく寝ろ」
「努力します」
信長が笑う。
その顔を見た瞬間。
千代丸は。
昨夜の夢を思い出した。
顔の見えなかった男。
低い笑い声。
なぜだ。
似ている。
千代丸は信長を見る。
信長も。
千代丸を見る。
「何だ」
「……いいえ」
「また死人を見る目か」
「違います」
「では何だ」
千代丸は。
少し迷って。
答えた。
「夢を見ました」
信長の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが。
千代丸は見逃さなかった。
「信長様?」
「何でもない」
信長が歩き出す。
「どんな夢だ」
「覚えていません」
「嘘だな」
「信長様に言われたくありません」
千代丸も後を追う。
その背中を見ながら。
一つ。
新しい疑問が生まれていた。
まさか。
この男も。
夢を見ているのか。
千代丸はまだ知らない。
同じ夜。
信長もまた。
夢を見ていたことを。
見知らぬ国。
見知らぬ宮殿。
そして。
自分の前で静かに頭を下げる。
一人の男を。
顔は。
見えなかった。
ただ。
信長は夢の中で。
その男を見ながら。
こう思っていた。
――こやつだけは。
最後まで。
油断してはならぬ。




