第十話 うつけの側
戦から七日が過ぎた頃、林道家に一人の使者がやってきた。
織田信長からだった。
「千代丸殿を、時折清洲へ寄越されたい」
使者が読み上げた言葉に、広間が静まり返った。
父の景政は目を閉じ、兄の景久は嬉しそうに千代丸を見る。弥兵衛はなぜか諦めたような顔をしており、母の志乃だけが少し心配そうだった。
そして当の千代丸は、ほとんど迷わず答えた。
「嫌です」
「千代丸!」
父の声が飛ぶ。
「嫌なものは嫌です」
「お前は何を考えておる!」
「清洲は遠いです」
「そこではない!」
「行けば本を読む時間も減ります」
「そういう問題でもない!」
隣で景久が笑いを堪えている。
千代丸は兄を睨んだ。
「兄上」
「なんだ?」
「代わりに行きますか」
「俺は呼ばれてないだろ」
「千代丸!」
また父に怒られた。
使者だけが、どうしたものかと困った顔をしていた。
結局、断れるはずもなかった。
正式な仕官ではない。
林道家から人質として差し出されるわけでもない。
ただ信長が千代丸を気に入り、時折そばへ寄越せと言っている。
言葉にしてしまえば、それだけの話だ。
だが、小土豪にすぎない林道家にとって、織田家当主から直々に声をかけられることは決して軽い話ではなかった。
使者が帰った後、景政は千代丸を自室へ呼んだ。
「千代丸」
「はい」
「なぜ、それほど嫌なのだ」
「以前にも申し上げました」
「信長様が怖いからか」
「はい」
景政が小さく笑った。
「お前がそこまで人を怖がるのは珍しいな」
千代丸は答えなかった。
自分でも不思議だった。
信長は怖い。
だが、殺されると思っているわけではない。
むしろ逆だった。
あの男は自分を気に入っている。
才を見つければ近くへ置き、使えると思えば手放そうとしない。
なぜか、そんな人間だと分かってしまう。
だからこそ怖かった。
「父上」
「なんだ」
「私は、いずれ信長様の家臣になるのでしょうか」
景政は少し考えた。
「今は違う」
「今は?」
「お前は林道家の子だ。だが、この先は分からん」
千代丸は父を見る。
すると景政は、少し間を置いてから続けた。
「私は、お前に林道家を継がせるつもりはない」
初めてはっきり言われた。
だが、驚きはなかった。
兄がいる。
景久が林道家を継ぐ。
それが当然だ。
「兄上がおりますから」
「ああ」
「なら私は?」
「好きに生きろ」
予想外の答えだった。
「……好きに?」
「景久はここに縛られる」
景政は庭へ目を向けた。
「林道家を継ぎ、この土地を守り、民を守る。そしていずれ子を成し、次へ渡す。それがあの子の役目だ」
「はい」
「だが、お前にはそれがない」
父が千代丸を見る。
「だから好きなところへ行け」
千代丸は黙った。
好きなところ。
そう言われても、行きたい場所など思いつかない。
今の自分には、この家以上に居たい場所などなかった。
「ただし」
景政が笑う。
「できれば、林道家を滅ぼさぬところへ行け」
「努力します」
「そこは約束しろ」
「……約束します」
数日後、千代丸は弥兵衛とともに清洲へ向かった。
以前にも通った道だ。
だが今回は、景色が少し違って見える。
織田家中は割れ始めている。
表向きはまだ一つの家でも、その内側では信長と信勝を中心に人が分かれつつあった。
街道ですれ違う武士を見ても、つい考えてしまう。
あの者はどちらにつく。
あの商人は誰とつながっている。
あの荷は、どこの家へ向かう。
以前ならただの人や荷物として見ていたものが、今は一つ一つ意味を持っているように感じられた。
「若様」
「はい」
「難しい顔をされておりますな」
「いつも通りです」
「清洲へ近づくほど怖い顔になっております」
「帰りましょうか」
「殿に殺されます」
「父上はその程度で人を殺しません」
「では信長様に怒られます」
千代丸は黙った。
それは少しありそうだった。
清洲へ到着すると、ほとんど待たされることなく信長のもとへ通された。
信長は庭にいた。
相変わらず、まともな姿勢で座ってはいない。
地面に広げた紙を覗き込みながら、何かを書き込んでいる。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「呼ばれた日には来ています」
「もっと早く来い」
「無理です」
信長が顔を上げ、千代丸を見る。
そして笑った。
「相変わらずだな」
「何がでしょう」
「俺に媚びぬ」
「媚びれば喜ばれますか」
「いや」
「では必要ありません」
信長が声を上げて笑った。
「やはり面白い」
まただ、と千代丸は思った。
この男は自分を見るたびに面白いと言う。
自分は玩具ではないのだが。
「座れ」
信長に言われ、千代丸は少し離れた場所へ腰を下ろした。
「もっと近くへ来い」
「ここでも聞こえます」
「近くへ来い」
仕方なく近づく。
そこで初めて、地面に広げられているものが尾張の絵図だと分かった。
千代丸の目が自然と細くなる。
道。
川。
城。
村。
土地の境。
前の生で見慣れた地図ほど正確ではない。
それでも、使い道はいくらでもある。
信長は千代丸の表情が変わったことを見逃さなかった。
「好きか?」
「何がです」
「そういうものが」
千代丸は絵図へ視線を戻す。
「好きというより、分かりやすいです」
「何が」
「人が何を欲しがっているか」
信長の眉が動いた。
「絵図で分かるか」
「少しは」
千代丸は一か所を指した。
「ここに城があります」
「ああ」
「こちらには川。その間に道が通っている」
「そうだ」
「なら、この城の主が本当に守りたいのは、城そのものだけではありません」
信長が千代丸を見る。
「何だ」
「道です」
千代丸は指を滑らせた。
「道を押さえれば人と物が通ります。物が通れば金が動き、兵糧も集められる。だから、この場所に城が必要になる」
「城があるから道を取るのではない、と?」
「はい。道を押さえたいから、そのための城が必要になる」
信長はしばらく絵図を見つめていた。
やがて、また千代丸へ目を向ける。
「お前」
「はい」
「本当に誰に教わった」
まただ。
「父上です」
「嘘をつけ」
「では弥兵衛です」
「それも嘘だ」
「本です」
「何の本だ」
千代丸は困った。
信長がじっとこちらを見ている。
「……忘れました」
「それが一番下手な嘘だな」
千代丸は黙って目を逸らした。
その日から、信長は妙なことを始めた。
家臣との話し合いに千代丸を同席させるようになったのだ。
もちろん上座ではない。
意見を求められない限り、発言する立場でもない。
部屋の隅に座り、黙って聞いていろ。
それだけだった。
最初は何の意味があるのか分からなかった。
だが、何人かの家臣が出入りするうちに理解した。
信長は自分に織田家を見せている。
家臣が入り、頭を下げ、報告する。
米。
兵。
土地。
領内の争い。
他家の動き。
信長はそれを聞き、時に問い返し、怒り、笑い、命じる。
千代丸も黙って聞いていた。
ただし、信長とは別のものを見ていた。
話している家臣の顔。
手。
目。
声。
そして、周囲の者たちの反応。
誰が信長を恐れているのか。
誰が嫌っているのか。
誰が機嫌を取ろうとしているのか。
誰が何かを言いかけてやめたのか。
誰と誰が一瞬だけ目を合わせたのか。
言葉そのものより、そちらの方が気になった。
三人目の家臣が退出した後、信長が尋ねた。
「どう思った」
「何がです」
「今の男だ」
千代丸は少し考えた。
「何か隠していると思います」
信長の顔から笑みが消えた。
「何を」
「分かりません」
「なら、なぜそう思う」
「米が足りないという話をしていた時だけ、少し様子が違いました」
「どこが」
「手です」
信長が眉を寄せる。
「手?」
「左手の指で、ずっと膝を叩いていました。それまではしていません」
「それだけか」
「それだけです」
「癖かもしれんぞ」
「はい」
千代丸は頷いた。
「だから、嘘だと決めつけることはできません」
信長が少し目を細める。
「では、どうする」
「調べます」
「本人を問い詰めずに?」
「はい。証拠がないのに罰すれば、間違っていた時に戻せません」
「何を調べる」
「本人ではなく、その周りを」
千代丸は先ほどまで男が座っていた場所を見る。
「自分の口から出した嘘は隠せても、自分と関わった全員の口までは塞げません。米なら運んだ者、数えた者、受け取った者がいるはずです」
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて家臣を呼ぶ。
「おい」
「はっ」
「今の男について調べろ」
「何をでしょう」
「米の出入りだ。誰が運び、どこへ入り、帳面と合っているかを確かめろ」
信長はそこで千代丸を見る。
「本人には聞くな」
千代丸は少し嫌な予感がした。
二日後、結果が出た。
男は報告していた米の量をごまかし、一部を横流ししていた。
千代丸は再び信長の前へ呼ばれた。
「当たったぞ」
「そうですか」
「嬉しくないのか」
「別に」
「なぜ分かった」
「分かっていません」
「またそれか」
信長が少し苛立った顔をする。
「疑っただけです」
「だから、なぜ疑った」
「先ほど申し上げた通り、手です」
千代丸は自分の膝に左手を置く。
「米が足りないという話をしている時だけ、指で膝を叩いていました」
「それだけで疑ったのか」
「はい」
「たまたまかもしれん」
「だから調べたのでしょう」
信長は黙った。
そして突然、大声で笑い始めた。
「ははははは!」
千代丸は少し身を引く。
「何です?」
「やはり欲しい!」
「何がです」
「お前だ」
「嫌です」
「まだ言うか!」
信長の笑い声が庭に響いた。
それから千代丸は、時折清洲へ呼ばれるようになった。
何かを決めるわけではない。
命令する権限もない。
ただ信長の近くで、見る。
聞く。
そして時々、意見を求められる。
「お前ならどうする」
そう聞かれれば、分からないことには分からないと答えた。
知っていることと、推測していることもなるべく分けた。
それでも少しずつ、城の中では奇妙な噂が広がっていった。
三郎様のそばに妙な童がいるらしい。
林道とかいう小土豪の子だ。
まだ九つだという。
戦場で策を出したらしい。
三郎様がずいぶん気に入っている。
当然、その噂は信長を快く思わない者たちの耳にも入った。
ある日、千代丸が廊下を歩いていると、前から数人の武士がやってきた。
そのうちの一人が千代丸を見るなり、鼻で笑う。
「お前か」
千代丸は足を止めた。
「何でしょう」
「三郎様が飼っておる童というのは」
嫌な言い方だった。
だが、千代丸は表情を変えず頭を下げる。
「林道千代丸にございます」
「林道?」
男が笑う。
「聞いたこともない家だ」
「小さい家ですから」
「それで、三郎様に何を吹き込んでおる」
「何も」
「嘘をつけ」
「聞かれたことに答えているだけです」
男の顔から笑みが消えた。
「童」
「はい」
「余計なことをするな」
千代丸は男を見る。
「余計なこととは?」
「分からぬか」
「分かりません」
男が一歩近づく。
「大人の話に、子供が口を出すな」
千代丸は何も答えなかった。
男はそれだけ言うと、仲間を連れて去っていった。
千代丸は遠ざかる背中を見送る。
名前は知らない。
だが、顔は覚えた。
「それで?」
その日の夕方、信長が尋ねた。
「何がです」
「何と言われた」
「大人の話に子供が口を出すなと」
信長が笑った。
「正しいな」
「私もそう思います」
「なら口を出すな」
「信長様が聞くからでしょう」
「俺のせいか」
「はい」
信長はまた笑った。
千代丸はその顔を見ながら、ふと思った。
ずっと聞きたかったことがある。
「信長様」
「なんだ」
「なぜ私を呼ぶのです」
信長の笑みが少し薄れた。
「前にも聞いたか?」
「いいえ」
「そうか」
信長は少し考える。
「面白いからだ」
「それだけですか」
「ああ」
「嘘ですね」
今度は信長が黙った。
「ほう」
「私を試している。それもあるのでしょう」
「では、それ以外は何だ」
「分かりません」
「何だそれは」
「分からないから聞いています」
信長はしばらく千代丸を見ていた。
やがて意外な答えを返す。
「俺にも分からん」
「信長様にも?」
「ああ」
信長は腕を組んだ。
「お前を見ていると腹が立つ」
「では呼ばなければよいでしょう」
「最後まで聞け」
「はい」
「腹が立つ。気に食わん。何を考えているのか分からん」
散々な言われようだった。
「だが」
信長が少しだけ目を細める。
「そばに置いておかねばならん気がする」
千代丸の胸が、わずかに鳴った。
「なぜです?」
「だから分からんと言っておる」
信長は立ち上がり、千代丸の横を通り過ぎる。
その時だった。
「昔から、そうだったような気がする」
千代丸が振り返る。
「……今、何と?」
信長も足を止めた。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からないようだった。
「知らん」
「昔から、と言いました」
「忘れろ」
「嫌です」
「俺が忘れろと言っている」
「では信長様も、私が以前ここで言ったことを忘れてください」
「尾張だけですか、か?」
「はい」
「それは嫌だ」
「同じです」
信長が振り返った。
二人の目が合う。
しばらく互いに何も言わなかった。
そして、なぜか信長が笑った。
千代丸もほんの少しだけ笑った。
その夜、千代丸は清洲の一室で眠った。
夢を見た。
知らないはずなのに、どこか懐かしい場所だった。
巨大な広間。
高い天井。
今の自分とは比べものにならないほど大きな身体。
手を見る。
子供の手ではない。
節が目立ち、年を重ねた男の手だった。
自分は老いている。
そして目の前には、一人の男が座っていた。
顔だけが、どうしても見えない。
ただ声が聞こえる。
「お前は、余が死んだ後も生き残るのだろうな」
千代丸は夢の中で答えようとした。
だが、声が出ない。
男が低く笑う。
聞き覚えがある。
あまりにも聞き覚えのある笑い声だった。
「それでよい」
男の声が響く。
「生き残れ」
その瞬間、千代丸は目を覚ました。
「……っ!」
勢いよく身体を起こす。
全身に汗をかいていた。
暗い部屋。
清洲。
当然、誰もいない。
千代丸は胸へ手を当てた。
夢だ。
ただの夢。
そう思おうとした。
だが、一つだけ説明できないことがある。
男の顔は見えなかった。
名前も分からない。
それなのに千代丸は、あの男が自分より先に死んだことを知っていた。
そして、その死を自分が知っているということまで分かっていた。
「……誰だ」
小さく呟いても答えはない。
記憶の奥へ手を伸ばせば、何かに触れられそうな気がした。
だが千代丸は、そこで思考を止めた。
再び横になる。
それでも、その夜はもう眠れなかった。
翌朝、千代丸は信長と会った。
顔を見るなり、信長が眉をひそめる。
「ひどい顔だな」
「眠れませんでした」
「童はよく寝ろ」
「努力します」
信長が笑った。
その笑い方を見た瞬間、昨夜の夢が蘇った。
顔の見えなかった男。
低い笑い声。
それでよい。
生き残れ。
なぜだ。
似ている。
千代丸は無意識に信長を見つめていた。
信長もその視線に気づく。
「何だ」
「……いいえ」
「また死人を見る目か」
「違います」
「では何だ」
千代丸は少し迷った。
「夢を見ました」
信長の表情が止まった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが、人の顔を観察し続けてきた千代丸は見逃さなかった。
「信長様?」
「何でもない」
信長が歩き出す。
「どんな夢だ」
「覚えていません」
「嘘だな」
「信長様に言われたくありません」
千代丸も後を追った。
その背中を見ながら、一つの疑問が頭から離れなくなる。
まさか。
この男も夢を見ているのか。
千代丸はまだ知らない。
同じ夜、信長もまた夢を見ていた。
見知らぬ国。
見知らぬ宮殿。
その中で、一人の男が自分の前に静かに頭を下げている。
顔は見えない。
名前も思い出せない。
それなのに信長は、夢の中でその男から目を離すことができなかった。
使える。
誰よりも使える。
だからこそ、決して油断してはならない。
そんな矛盾した感情だけが、妙にはっきりと残っている。
そして信長は、夢の中で思っていた。
こやつだけは、最後まで油断してはならぬと。




