第十一話 読めなかった一手
天文二十二年。
千代丸、十一歳。
二年という時間は、子供の身体を大きく変える。背は伸び、木槍を持っても以前ほど振り回されなくなった。
弥兵衛との稽古でも、十回に一回くらいなら喉元へ槍を突きつけられずに済む。
だが、この日は違った。
「死んでおります」
木槍の先が、千代丸の胸に触れていた。
「……今日は何度目です?」
「六度」
「昨日より悪いですね」
「考え事をしながら戦うからです」
弥兵衛が槍を引くと、千代丸は地面から起き上がった。
「戦いながら考えるのは必要でしょう」
「考えることと、目の前を見ないことは違います」
「難しいですね」
「若様は難しく考えすぎなのです」
二年前と、あまり変わっていない。
ただし、千代丸を取り巻く状況は大きく変わっていた。
◇◇◇
九歳の頃から、千代丸は定期的に清洲へ呼ばれていた。
最初は月に一度。やがて月に二度。時には数日、清洲に泊まることもある。
正式な家臣ではない。役目もない。俸禄も受け取っていない。
それでも、織田家中で千代丸を知らない者は少なくなっていた。
――三郎様のそばにいる童。
――林道の小倅。
――戦場で妙な策を使った子供。
好意的な者ばかりではない。
むしろ、嫌われることの方が多かった。
理由は簡単だった。
信長が、家臣たちの前で千代丸に尋ねるからだ。
「千代丸。どう思う」
十一歳の子供に意見を求める。
当然、面白くない者も出てくる。
「若様」
弥兵衛が木槍を肩に担いだ。
「最近、清洲で目立ちすぎております」
「私のせいではありません」
「信長様のせいだと?」
「はい」
即答した。
弥兵衛が笑う。
「それを本人の前でも言われるから、さらに目立つのです」
千代丸は黙った。
確かに、その通りかもしれない。
◇◇◇
その日の夕方。
清洲から使者が来た。
また呼び出しかと思ったが、違った。
「信勝様方の動きが、活発になっております」
使者の言葉に、父・景政の表情が変わる。
広間には景久、千代丸、弥兵衛もいた。
「どの程度だ」
景政が聞く。
「信長様に従う小身の家々へ、密かに使者を送っているとのこと」
千代丸の目が細くなる。
「内容は?」
「こちらへ来れば、所領を安堵する、と」
景久が鼻で笑った。
「今さら俺たちが向こうへ行くわけないだろ」
「兄上」
「なんだ」
「そう思う人ばかりではありません」
「一度信長様についたんだぞ」
「だからです」
景久が首を傾げる。
千代丸は説明した。
「信長様が負ければ、我らは敵になります。なら今のうちに信勝様へ頭を下げようと考える者もいるでしょう」
「裏切りじゃないか」
「はい」
「なら斬ればいい」
兄らしい。
千代丸は小さく息を吐く。
「全員斬れば、誰もいなくなります」
「裏切らなきゃいいんだよ」
「皆が兄上なら楽なのですが」
「何だそれ」
景政が二人を止める。
「千代丸」
「はい」
「信勝様方は、次に何をすると思う」
千代丸は考えた。
小さな家を引き抜く。信長の力を削る。
ならば、次は。
「信長様に近い者を狙うでしょう」
「殺すのか」
「いいえ」
千代丸は首を横に振る。
「殺せば敵になります」
「では?」
「味方にする。金か土地か、あるいは家族を使う」
弥兵衛が聞く。
「林道家にも来ると思われますか」
千代丸は少し考えた。
「来ないと思います」
父が見る。
「なぜだ」
「我らは小さすぎます」
林道家は三百五十石。
兵も少ない。大きな城もない。
「私一人のために林道家を動かすほど、向こうも暇ではないでしょう」
景政は何も言わなかった。
◇◇◇
三日後。
千代丸の読みは外れた。
◇◇◇
「千代丸!」
夜。
兄・景久が部屋へ飛び込んできた。
「起きろ!」
千代丸は身体を起こす。
兄の顔を見た瞬間、何かあったと分かった。
「どうしました」
「母上がいない」
千代丸の身体が止まった。
「……何を言っているのです」
「屋敷にいない!」
立ち上がる。
走る。
母・志乃の部屋。
いない。
侍女、家臣、門番。
全員に聞く。
夕刻、母は寺へ向かった。毎月行っている。
供は侍女一人と家臣二人。
だが、戻っていない。
「父上!」
広間へ入る。
景政がいた。
顔が、見たこともないほど険しい。
弥兵衛もいる。
「千代丸」
「母上は」
「分からん」
「寺は?」
「出たことは確認した」
「では帰り道」
「ああ」
景政が答える。
「消えた」
千代丸の頭が急速に動き始める。
道。
距離。
時間。
人数。
誰が知っていた。
誰なら。
「供の三人は?」
景政が黙る。
嫌な予感がした。
「父上」
「一人、見つかった」
「どこで」
「道端だ」
「生きていますか」
父は答えなかった。
それで分かった。
千代丸は目を閉じる。
考えろ。
今は、感情ではない。
「他の二人は?」
「分からん」
「馬は?」
「一頭見つかった」
「荷物は?」
「残っている」
「金は?」
「それも」
ならば、物盗りではない。
最初から母が目的だった。
誰が。
なぜ。
考えるまでもなかった。
「……私だ」
千代丸が呟いた。
景久が見る。
「何が」
「私のせいです」
「何言ってる」
「信長様のそばにいる私を動かすためです」
千代丸は拳を握った。
◇◇◇
その夜。
林道家の者たちは総出で捜した。
千代丸も行こうとしたが、父に止められた。
「なぜです!」
珍しく、千代丸が声を荒らげた。
「私も行きます!」
「ならん」
「母上が!」
「だからだ!」
景政が怒鳴る。
千代丸が黙る。
「お前まで消えれば、私はどうすればいい」
父の声が震えていた。
初めて千代丸は、父が怯えていることに気づいた。
当主としてではない。
父親として、怖がっている。
「……申し訳ありません」
「屋敷にいろ」
「はい」
だが、部屋に戻っても何もできない。
待つ。
それしかない。
千代丸が最も得意なこと。
待つこと。
なのに、今夜だけは耐えられなかった。
◇◇◇
夜半。
門を叩く音がした。
千代丸は走った。
家臣が止めるより早く、門へ向かう。
そこには一人の男が立っていた。
見覚えがない。
「林道千代丸殿へ」
男が言い、手紙を差し出す。
「誰からです」
「読めば分かる」
千代丸は受け取らない。
「母は」
男の目がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
「生きていますか」
男は答えない。
「答えろ!」
十一歳の子供とは思えない声が出た。
周囲の家臣たちが驚く。
男も少し顔を引きつらせた。
「生きておられる」
千代丸の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「渡してください」
手紙を受け取る。
開く。
短い。
そこに書かれていたのは、場所、時刻、そして条件。
『一人で来い』
それだけだった。
◇◇◇
「駄目だ」
父は即答した。
「しかし」
「罠に決まっておる!」
「分かっています」
「ならなぜ行く!」
「母上がいるからです!」
また、声を荒らげた。
景久が弟を見る。
普段の千代丸ではない。
「千代丸」
父が低い声で言う。
「落ち着け」
「落ち着いています」
「落ち着いておらん!」
千代丸は黙る。
父が正しい。
頭が、いつものように動かない。
「若様」
弥兵衛が言う。
「相手の狙いを考えましょう」
千代丸は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
一度。
二度。
そして考える。
相手はなぜ母を殺さなかった。
自分を呼ぶため。
ならば目的は自分を殺すことか。
違う。
殺すだけなら、もっと簡単な方法がある。
清洲への道。
林道領。
機会はいくらでもあった。
ならば。
「……話がしたい」
千代丸が言った。
「何?」
父が聞く。
「相手は、私と話がしたい」
「なぜ分かる」
「殺すだけなら、母上を攫う必要がありません」
弥兵衛が頷く。
「では?」
「寝返らせたい」
千代丸は答えた。
「私を」
◇◇◇
翌朝。
千代丸は清洲へ向かった。
指定された場所ではない。
織田信長のもとへ。
◇◇◇
「母親を攫われた?」
信長の表情から笑みが消えた。
「はい」
「誰だ」
「分かりません」
「信勝か」
「分かりません」
「柴田か」
「分かりません」
「何が分かる!」
信長が怒鳴る。
千代丸は黙って頭を下げた。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る」
「私が、読み違えました」
信長の眉が動く。
「何を」
「林道家は狙われないと思いました」
「……」
「小さすぎるから」
千代丸は唇を噛む。
「私一人に、そこまでする価値はないと」
信長はしばらく何も言わなかった。
そして。
「馬鹿か」
千代丸が顔を上げる。
「はい?」
「お前は馬鹿かと言った」
「……」
「価値を決めるのは、お前ではない」
千代丸の目が動く。
「敵だ」
沈黙。
その言葉が胸に刺さった。
「自分に価値がないと思っておれば、敵もそう思うと?」
信長が鼻で笑う。
「随分と都合がよいな」
反論できない。
完全に、自分の失敗だった。
「それで」
信長が聞く。
「どうする」
「指定された場所へ行きます」
「一人で?」
「はい」
「殺されるぞ」
「母を置いてはいけません」
信長は千代丸を見る。
しばらくして口を開く。
「なら、一人で行け」
部屋にいた家臣が驚く。
千代丸も少しだけ驚いた。
「よろしいのですか」
「ああ」
信長は笑った。
ただし、いつもの笑いではない。
「相手が、お前が一人で来ると思っているのなら、そう思わせておけ」
千代丸の目が変わる。
信長が続ける。
「一人で行け。そして――一人で帰ってこい」
◇◇◇
指定された場所は、林道領から少し離れた山中にある廃寺だった。
夕刻。
千代丸は本当に一人で歩いていた。
少なくとも、見える範囲では。
武器は短刀だけ。
門をくぐる。
「来たか」
男の声。
三人。
いや。
見えるのが三人。
他にもいる。
「母は」
千代丸が聞く。
「無事だ」
「会わせてください」
「その前に話だ」
「何でしょう」
男が笑う。
「三郎を捨てろ」
予想通りだった。
「信勝様へ?」
男の目が少しだけ動く。
名前を出した時に反応した。
だが、肯定はしない。
「誰につくかなどどうでもよい」
「では?」
「三郎から離れろ」
千代丸は男を見る。
「断れば」
「母親が死ぬ」
「そうですか」
千代丸の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「怖くないのか」
「怖いです」
「なら」
「ただ」
千代丸は周囲を見る。
「あなた方は、母を殺せません」
男の顔が変わった。
「何?」
「殺せば、私を動かすものがなくなる」
「……」
「だから母はまだ生きている。そして、近くにいる」
男の目が一瞬だけ右へ動いた。
ほんの一瞬。
千代丸は見逃さなかった。
右。
寺の奥。
「なるほど」
千代丸が呟く。
男が気づく。
「何がだ」
「いいえ」
千代丸は少しだけ笑った。
「もう十分です」
◇◇◇
その瞬間。
山の中から鳥が一斉に飛び立った。
男たちが振り返る。
「何だ!」
次の瞬間。
裏手から声が響いた。
「かかれ!」
弥兵衛。
織田兵。
そして。
「千代丸!」
兄・景久の声まで聞こえた。
「兄上?」
千代丸が思わずそちらを見る。
「なぜいるのです!」
「母上が攫われてんのに家で待ってられるか!」
「一人で来いと言われたでしょう!」
「お前は一人で来ただろ!」
「そういう意味ではありません!」
こんな時なのに。
千代丸は、少しだけいつもの自分に戻れた。
◇◇◇
戦いは長く続かなかった。
相手は千代丸を脅すことが目的で、大軍ではない。
逃げる者。
捕らえられる者。
そして寺の奥で、母・志乃が見つかった。
「母上!」
千代丸は走った。
自分でも驚くほど速く。
志乃は縛られていた。
だが、生きている。
大きな怪我もない。
縄を切る。
「千代丸」
母が息子を見る。
「……はい」
「ごめんなさいね」
その一言で。
何かが切れた。
千代丸は母に抱きついた。
十一歳。
普段なら絶対にしない。
「千代丸?」
「……」
「大丈夫よ」
「……はい」
声が少し震えた。
「母上」
「何?」
「よかった」
それしか言えなかった。
◇◇◇
捕らえた男たちは、信勝側と繋がっていた。
ただし、信勝本人の命令かどうかまでは分からなかった。
家臣が勝手にやった可能性もある。
それでも、一つだけ明らかになった。
林道家は、もう小さすぎて見えない家ではない。
少なくとも敵からは、そう見られていない。
◇◇◇
夜。
屋敷へ戻った後、千代丸は一人で庭に座っていた。
「ここにいたか」
父だった。
「母上は?」
「休んでおる」
「そうですか」
景政が隣に座る。
しばらく二人とも喋らなかった。
やがて千代丸が言う。
「父上」
「なんだ」
「私のせいです」
「違う」
「違いません」
千代丸は珍しく父の言葉を遮った。
「私は林道家は狙われないと思った。自分がそれほど重要だと思わなかった。それで母上が……」
言葉が止まる。
景政は息子を見る。
「千代丸」
「はい」
「お前は神ではない」
「……」
「すべて読めると思うな」
「はい」
「だが」
父は続ける。
「読めなかったことを忘れるな」
千代丸は顔を上げる。
「当たった策より、外れた読みの方が人を賢くする」
千代丸はしばらく黙っていた。
そして。
「はい」
小さく答えた。
◇◇◇
翌日。
千代丸は一冊の小さな帳面を作った。
最初の頁に、一つだけ書く。
――己を小さく見積もるな。
その下に、もう一つ。
――敵が自分をどう見るかを考えよ。
千代丸は筆を置いた。
これから間違えたことを、ここへ書く。
忘れないために。
同じ失敗を二度としないために。
その帳面が後に、林道景継という男の誰にも見せない習慣になることを。
この時は、まだ誰も知らなかった。
◇◇◇
数日後。
清洲。
信長は事件の報告を聞いていた。
「母親は無事か」
「はっ」
「そうか」
信長は少しだけ安心したように見えた。
家臣が続ける。
「捕らえた者については」
「調べろ」
「はっ」
「誰の命令か。どこまで繋がっているか。全部だ」
家臣が下がる。
一人になった信長は、しばらく黙っていた。
そして小さく呟く。
「十一か」
林道千代丸。
十一歳。
まだ子供。
だが、もう敵が動き始めた。
「早すぎるな」
信長が笑う。
だが、その目は笑っていない。
「なら、もっと早く強くしてやらねばならんな」
その頃。
林道家では、千代丸が何も知らず帳面の二頁目を開いていた。
次に間違えるのは何か。
そんなことを考えながら。
彼はまだ知らなかった。
今回の一件によって、信長が一つの決断をしたことを。
林道千代丸を、ただの「面白い童」としてそばへ置く時期は。
もう終わりにしようと。




