表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/94

第十一話 読めなかった一手


天文二十二年。


千代丸、十一歳。


二年という時間は、子供の身体を大きく変える。背は伸び、木槍を持っても以前ほど振り回されなくなった。


弥兵衛との稽古でも、十回に一回くらいなら喉元へ槍を突きつけられずに済む。


だが、この日は違った。


「死んでおります」


木槍の先が、千代丸の胸に触れていた。


「……今日は何度目です?」


「六度」


「昨日より悪いですね」


「考え事をしながら戦うからです」


弥兵衛が槍を引くと、千代丸は地面から起き上がった。


「戦いながら考えるのは必要でしょう」


「考えることと、目の前を見ないことは違います」


「難しいですね」


「若様は難しく考えすぎなのです」


二年前と、あまり変わっていない。


ただし、千代丸を取り巻く状況は大きく変わっていた。


◇◇◇


九歳の頃から、千代丸は定期的に清洲へ呼ばれていた。


最初は月に一度。やがて月に二度。時には数日、清洲に泊まることもある。


正式な家臣ではない。役目もない。俸禄も受け取っていない。


それでも、織田家中で千代丸を知らない者は少なくなっていた。


――三郎様のそばにいる童。


――林道の小倅。


――戦場で妙な策を使った子供。


好意的な者ばかりではない。


むしろ、嫌われることの方が多かった。


理由は簡単だった。


信長が、家臣たちの前で千代丸に尋ねるからだ。


「千代丸。どう思う」


十一歳の子供に意見を求める。


当然、面白くない者も出てくる。


「若様」


弥兵衛が木槍を肩に担いだ。


「最近、清洲で目立ちすぎております」


「私のせいではありません」


「信長様のせいだと?」


「はい」


即答した。


弥兵衛が笑う。


「それを本人の前でも言われるから、さらに目立つのです」


千代丸は黙った。


確かに、その通りかもしれない。


◇◇◇


その日の夕方。


清洲から使者が来た。


また呼び出しかと思ったが、違った。


「信勝様方の動きが、活発になっております」


使者の言葉に、父・景政の表情が変わる。


広間には景久、千代丸、弥兵衛もいた。


「どの程度だ」


景政が聞く。


「信長様に従う小身の家々へ、密かに使者を送っているとのこと」


千代丸の目が細くなる。


「内容は?」


「こちらへ来れば、所領を安堵する、と」


景久が鼻で笑った。


「今さら俺たちが向こうへ行くわけないだろ」


「兄上」


「なんだ」


「そう思う人ばかりではありません」


「一度信長様についたんだぞ」


「だからです」


景久が首を傾げる。


千代丸は説明した。


「信長様が負ければ、我らは敵になります。なら今のうちに信勝様へ頭を下げようと考える者もいるでしょう」


「裏切りじゃないか」


「はい」


「なら斬ればいい」


兄らしい。


千代丸は小さく息を吐く。


「全員斬れば、誰もいなくなります」


「裏切らなきゃいいんだよ」


「皆が兄上なら楽なのですが」


「何だそれ」


景政が二人を止める。


「千代丸」


「はい」


「信勝様方は、次に何をすると思う」


千代丸は考えた。


小さな家を引き抜く。信長の力を削る。


ならば、次は。


「信長様に近い者を狙うでしょう」


「殺すのか」


「いいえ」


千代丸は首を横に振る。


「殺せば敵になります」


「では?」


「味方にする。金か土地か、あるいは家族を使う」


弥兵衛が聞く。


「林道家にも来ると思われますか」


千代丸は少し考えた。


「来ないと思います」


父が見る。


「なぜだ」


「我らは小さすぎます」


林道家は三百五十石。


兵も少ない。大きな城もない。


「私一人のために林道家を動かすほど、向こうも暇ではないでしょう」


景政は何も言わなかった。


◇◇◇


三日後。


千代丸の読みは外れた。


◇◇◇


「千代丸!」


夜。


兄・景久が部屋へ飛び込んできた。


「起きろ!」


千代丸は身体を起こす。


兄の顔を見た瞬間、何かあったと分かった。


「どうしました」


「母上がいない」


千代丸の身体が止まった。


「……何を言っているのです」


「屋敷にいない!」


立ち上がる。


走る。


母・志乃の部屋。


いない。


侍女、家臣、門番。


全員に聞く。


夕刻、母は寺へ向かった。毎月行っている。


供は侍女一人と家臣二人。


だが、戻っていない。


「父上!」


広間へ入る。


景政がいた。


顔が、見たこともないほど険しい。


弥兵衛もいる。


「千代丸」


「母上は」


「分からん」


「寺は?」


「出たことは確認した」


「では帰り道」


「ああ」


景政が答える。


「消えた」


千代丸の頭が急速に動き始める。


道。


距離。


時間。


人数。


誰が知っていた。


誰なら。


「供の三人は?」


景政が黙る。


嫌な予感がした。


「父上」


「一人、見つかった」


「どこで」


「道端だ」


「生きていますか」


父は答えなかった。


それで分かった。


千代丸は目を閉じる。


考えろ。


今は、感情ではない。


「他の二人は?」


「分からん」


「馬は?」


「一頭見つかった」


「荷物は?」


「残っている」


「金は?」


「それも」


ならば、物盗りではない。


最初から母が目的だった。


誰が。


なぜ。


考えるまでもなかった。


「……私だ」


千代丸が呟いた。


景久が見る。


「何が」


「私のせいです」


「何言ってる」


「信長様のそばにいる私を動かすためです」


千代丸は拳を握った。


◇◇◇


その夜。


林道家の者たちは総出で捜した。


千代丸も行こうとしたが、父に止められた。


「なぜです!」


珍しく、千代丸が声を荒らげた。


「私も行きます!」


「ならん」


「母上が!」


「だからだ!」


景政が怒鳴る。


千代丸が黙る。


「お前まで消えれば、私はどうすればいい」


父の声が震えていた。


初めて千代丸は、父が怯えていることに気づいた。


当主としてではない。


父親として、怖がっている。


「……申し訳ありません」


「屋敷にいろ」


「はい」


だが、部屋に戻っても何もできない。


待つ。


それしかない。


千代丸が最も得意なこと。


待つこと。


なのに、今夜だけは耐えられなかった。


◇◇◇


夜半。


門を叩く音がした。


千代丸は走った。


家臣が止めるより早く、門へ向かう。


そこには一人の男が立っていた。


見覚えがない。


「林道千代丸殿へ」


男が言い、手紙を差し出す。


「誰からです」


「読めば分かる」


千代丸は受け取らない。


「母は」


男の目がわずかに動いた。


それだけで十分だった。


「生きていますか」


男は答えない。


「答えろ!」


十一歳の子供とは思えない声が出た。


周囲の家臣たちが驚く。


男も少し顔を引きつらせた。


「生きておられる」


千代丸の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「渡してください」


手紙を受け取る。


開く。


短い。


そこに書かれていたのは、場所、時刻、そして条件。


『一人で来い』


それだけだった。


◇◇◇


「駄目だ」


父は即答した。


「しかし」


「罠に決まっておる!」


「分かっています」


「ならなぜ行く!」


「母上がいるからです!」


また、声を荒らげた。


景久が弟を見る。


普段の千代丸ではない。


「千代丸」


父が低い声で言う。


「落ち着け」


「落ち着いています」


「落ち着いておらん!」


千代丸は黙る。


父が正しい。


頭が、いつものように動かない。


「若様」


弥兵衛が言う。


「相手の狙いを考えましょう」


千代丸は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


一度。


二度。


そして考える。


相手はなぜ母を殺さなかった。


自分を呼ぶため。


ならば目的は自分を殺すことか。


違う。


殺すだけなら、もっと簡単な方法がある。


清洲への道。


林道領。


機会はいくらでもあった。


ならば。


「……話がしたい」


千代丸が言った。


「何?」


父が聞く。


「相手は、私と話がしたい」


「なぜ分かる」


「殺すだけなら、母上を攫う必要がありません」


弥兵衛が頷く。


「では?」


「寝返らせたい」


千代丸は答えた。


「私を」


◇◇◇


翌朝。


千代丸は清洲へ向かった。


指定された場所ではない。


織田信長のもとへ。


◇◇◇


「母親を攫われた?」


信長の表情から笑みが消えた。


「はい」


「誰だ」


「分かりません」


「信勝か」


「分かりません」


「柴田か」


「分かりません」


「何が分かる!」


信長が怒鳴る。


千代丸は黙って頭を下げた。


「申し訳ありません」


「なぜ謝る」


「私が、読み違えました」


信長の眉が動く。


「何を」


「林道家は狙われないと思いました」


「……」


「小さすぎるから」


千代丸は唇を噛む。


「私一人に、そこまでする価値はないと」


信長はしばらく何も言わなかった。


そして。


「馬鹿か」


千代丸が顔を上げる。


「はい?」


「お前は馬鹿かと言った」


「……」


「価値を決めるのは、お前ではない」


千代丸の目が動く。


「敵だ」


沈黙。


その言葉が胸に刺さった。


「自分に価値がないと思っておれば、敵もそう思うと?」


信長が鼻で笑う。


「随分と都合がよいな」


反論できない。


完全に、自分の失敗だった。


「それで」


信長が聞く。


「どうする」


「指定された場所へ行きます」


「一人で?」


「はい」


「殺されるぞ」


「母を置いてはいけません」


信長は千代丸を見る。


しばらくして口を開く。


「なら、一人で行け」


部屋にいた家臣が驚く。


千代丸も少しだけ驚いた。


「よろしいのですか」


「ああ」


信長は笑った。


ただし、いつもの笑いではない。


「相手が、お前が一人で来ると思っているのなら、そう思わせておけ」


千代丸の目が変わる。


信長が続ける。


「一人で行け。そして――一人で帰ってこい」


◇◇◇


指定された場所は、林道領から少し離れた山中にある廃寺だった。


夕刻。


千代丸は本当に一人で歩いていた。


少なくとも、見える範囲では。


武器は短刀だけ。


門をくぐる。


「来たか」


男の声。


三人。


いや。


見えるのが三人。


他にもいる。


「母は」


千代丸が聞く。


「無事だ」


「会わせてください」


「その前に話だ」


「何でしょう」


男が笑う。


「三郎を捨てろ」


予想通りだった。


「信勝様へ?」


男の目が少しだけ動く。


名前を出した時に反応した。


だが、肯定はしない。


「誰につくかなどどうでもよい」


「では?」


「三郎から離れろ」


千代丸は男を見る。


「断れば」


「母親が死ぬ」


「そうですか」


千代丸の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「怖くないのか」


「怖いです」


「なら」


「ただ」


千代丸は周囲を見る。


「あなた方は、母を殺せません」


男の顔が変わった。


「何?」


「殺せば、私を動かすものがなくなる」


「……」


「だから母はまだ生きている。そして、近くにいる」


男の目が一瞬だけ右へ動いた。


ほんの一瞬。


千代丸は見逃さなかった。


右。


寺の奥。


「なるほど」


千代丸が呟く。


男が気づく。


「何がだ」


「いいえ」


千代丸は少しだけ笑った。


「もう十分です」


◇◇◇


その瞬間。


山の中から鳥が一斉に飛び立った。


男たちが振り返る。


「何だ!」


次の瞬間。


裏手から声が響いた。


「かかれ!」


弥兵衛。


織田兵。


そして。


「千代丸!」


兄・景久の声まで聞こえた。


「兄上?」


千代丸が思わずそちらを見る。


「なぜいるのです!」


「母上が攫われてんのに家で待ってられるか!」


「一人で来いと言われたでしょう!」


「お前は一人で来ただろ!」


「そういう意味ではありません!」


こんな時なのに。


千代丸は、少しだけいつもの自分に戻れた。


◇◇◇


戦いは長く続かなかった。


相手は千代丸を脅すことが目的で、大軍ではない。


逃げる者。


捕らえられる者。


そして寺の奥で、母・志乃が見つかった。


「母上!」


千代丸は走った。


自分でも驚くほど速く。


志乃は縛られていた。


だが、生きている。


大きな怪我もない。


縄を切る。


「千代丸」


母が息子を見る。


「……はい」


「ごめんなさいね」


その一言で。


何かが切れた。


千代丸は母に抱きついた。


十一歳。


普段なら絶対にしない。


「千代丸?」


「……」


「大丈夫よ」


「……はい」


声が少し震えた。


「母上」


「何?」


「よかった」


それしか言えなかった。


◇◇◇


捕らえた男たちは、信勝側と繋がっていた。


ただし、信勝本人の命令かどうかまでは分からなかった。


家臣が勝手にやった可能性もある。


それでも、一つだけ明らかになった。


林道家は、もう小さすぎて見えない家ではない。


少なくとも敵からは、そう見られていない。


◇◇◇


夜。


屋敷へ戻った後、千代丸は一人で庭に座っていた。


「ここにいたか」


父だった。


「母上は?」


「休んでおる」


「そうですか」


景政が隣に座る。


しばらく二人とも喋らなかった。


やがて千代丸が言う。


「父上」


「なんだ」


「私のせいです」


「違う」


「違いません」


千代丸は珍しく父の言葉を遮った。


「私は林道家は狙われないと思った。自分がそれほど重要だと思わなかった。それで母上が……」


言葉が止まる。


景政は息子を見る。


「千代丸」


「はい」


「お前は神ではない」


「……」


「すべて読めると思うな」


「はい」


「だが」


父は続ける。


「読めなかったことを忘れるな」


千代丸は顔を上げる。


「当たった策より、外れた読みの方が人を賢くする」


千代丸はしばらく黙っていた。


そして。


「はい」


小さく答えた。


◇◇◇


翌日。


千代丸は一冊の小さな帳面を作った。


最初の頁に、一つだけ書く。


――己を小さく見積もるな。


その下に、もう一つ。


――敵が自分をどう見るかを考えよ。


千代丸は筆を置いた。


これから間違えたことを、ここへ書く。


忘れないために。


同じ失敗を二度としないために。


その帳面が後に、林道景継という男の誰にも見せない習慣になることを。


この時は、まだ誰も知らなかった。


◇◇◇


数日後。


清洲。


信長は事件の報告を聞いていた。


「母親は無事か」


「はっ」


「そうか」


信長は少しだけ安心したように見えた。


家臣が続ける。


「捕らえた者については」


「調べろ」


「はっ」


「誰の命令か。どこまで繋がっているか。全部だ」


家臣が下がる。


一人になった信長は、しばらく黙っていた。


そして小さく呟く。


「十一か」


林道千代丸。


十一歳。


まだ子供。


だが、もう敵が動き始めた。


「早すぎるな」


信長が笑う。


だが、その目は笑っていない。


「なら、もっと早く強くしてやらねばならんな」


その頃。


林道家では、千代丸が何も知らず帳面の二頁目を開いていた。


次に間違えるのは何か。


そんなことを考えながら。


彼はまだ知らなかった。


今回の一件によって、信長が一つの決断をしたことを。


林道千代丸を、ただの「面白い童」としてそばへ置く時期は。


もう終わりにしようと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ