第十二話 預けよ
母・志乃が攫われた一件から、十日ほどが過ぎた。
林道家の屋敷には、ようやく以前の空気が戻りつつあった。志乃に大きな怪我はなく、今では庭へ出て普段通りに過ごしている。
それでも千代丸は、以前より母の姿を気にするようになっていた。
縁側で本を開いていても、庭を歩く志乃の姿を何度も目で追ってしまう。姿が見えなくなれば、無意識に顔を上げて探している。
「千代丸」
「はい」
「また見ていますね」
志乃が笑いながら振り返った。
「何をでしょう」
「私を」
「見ていません」
「見ています」
千代丸は何も言えなくなり、本へ視線を戻した。
庭に母がいる。ただそれだけのことで安心している自分がいる。
以前の自分なら、こんなことを考えただろうか。
分からない。
二度目の生を得てから、自分の中には知らなかった感情が少しずつ増えている。それが良いことなのか悪いことなのか、千代丸にはまだ判断できなかった。
「若様」
後ろから弥兵衛が声をかけてきた。
「殿がお呼びです」
「父上が?」
「はい。これから清洲へ向かわれるそうで」
千代丸の眉がわずかに動いた。
「私もですか?」
「いいえ。今回は殿だけです」
「……私なしで?」
弥兵衛が笑う。
「何か不満でも?」
「ありません」
そう答えたものの、千代丸には引っかかるものがあった。
最近は清洲から呼び出しがあれば、自分も同行することが多い。それなのに今回は父だけ。
「誰からの呼び出しです」
弥兵衛は一瞬だけ黙った。
それだけで十分だった。
「信長様ですね」
「はい」
千代丸は本を閉じた。
何となく、嫌な予感がした。
◇◇◇
その日の昼過ぎ、景政は清洲へ到着した。
案内された部屋には、織田信長が一人で座っていた。
「林道」
「はっ」
景政は頭を下げた。
「此度は、我が妻をお救いいただき、誠に――」
「よい」
信長が途中で遮った。
「礼を聞くために呼んだのではない。座れ」
「はっ」
景政が腰を下ろす。
信長はいつものように笑っていなかった。
しばらく沈黙が続いた後、先に口を開いたのは信長だった。
「お前の次男だが」
景政の表情がわずかに変わった。
やはり千代丸の話か。
「千代丸が、何か?」
「俺に寄越せ」
あまりにも簡単に言われたため、景政は数秒、その意味を理解できなかった。
「……何と?」
「聞こえなかったか」
「いえ。しかし、どのような意味にございましょう」
信長の眉が動いた。
「どのような、とは?」
「人質として、ということでしょうか」
「違う」
「では、小姓に?」
「それも違う」
「では……」
信長は真っ直ぐ景政を見る。
「俺のそばで育てる」
景政の表情が変わった。
それは人質や小姓よりも、ある意味では重い言葉だった。
「殿。恐れながら、あの子はまだ十一にございます」
「知っておる」
「武も未熟にございます」
「それも知っておる」
「礼儀についても、まだ――」
「それは特によく知っておる」
景政は言葉に詰まった。
信長はわずかに笑った。
「だから今なのだ。あれが大人になってからでは遅い」
「何が、でしょう」
「育ち方が決まる」
景政が顔を上げる。
信長は続けた。
「あれは今、林道家の次男だ。小さな家を守ることばかり考えている」
景政は何も答えなかった。
信長は見抜いている。
千代丸が何を望み、何を恐れているのか。
「それでは駄目なのですか」
景政が聞いた。
「駄目だ」
信長は即答した。
「なぜでございましょう」
「小さすぎるからだ」
「……」
「見るものも、考えることも、使えるものも。林道家だけに置いておけば、あれは林道家を守ることだけを考える男になる」
「それで十分にございます」
「俺には足りん」
景政が顔を上げた。
「殿には?」
信長は少し笑った。
「俺は、あれにもっと大きなものを見せたい」
景政はその言葉を聞きながら、目の前の男が何を考えているのか測ろうとした。
ただ千代丸の才を欲しがっているだけなのか。
それとも、もっと別の何かを感じているのか。
答えは出なかった。
◇◇◇
清洲からの帰り道、景政はほとんど喋らなかった。
同行していた弥兵衛は何度か主人の顔を見たが、しばらくは何も聞かなかった。
やがて景政の方から口を開いた。
「千代丸を寄越せと言われた」
弥兵衛の足が止まった。
「何と?」
「信長様のそばで育てるそうだ」
「それは……」
弥兵衛もすぐには言葉が出なかった。
信長は林道家から千代丸を奪おうとしているわけではないだろう。しかし、織田家の当主から明確に「欲しい」と言われたものを拒む。
小さな林道家にとって、それが良い選択とは思えない。
「殿」
「なんだ」
「若様は、どう思われるでしょうな」
景政は苦笑した。
「嫌だと言うだろう」
「でしょうな」
二人とも簡単に想像できた。
◇◇◇
その夜、千代丸は父の前に座っていた。
隣には母・志乃、兄・景久、そして弥兵衛。家族だけで話をすることになった。
景政は清洲で信長から言われたことを、そのまま話した。
千代丸は最後まで黙って聞いていたが、話が終わるとすぐに答えた。
「嫌です」
景久が思わず笑った。
弥兵衛も少しだけ笑っている。
景政だけは笑わなかった。
「今回は簡単に断れる話ではない」
「前回も断りました」
「今回は違う」
「何がです」
「信長様は、お前を欲しいと言っている」
千代丸は眉を寄せた。
「以前から言われています」
「そういう意味ではない。いずれ正式に家臣として取り立てたいのだろう」
さすがに千代丸の表情が変わった。
「……正式に?」
「ああ。ただし、今すぐではない。まず清洲で暮らし、信長様のそばで学べとのことだ」
千代丸は目を閉じて考えた。
林道家。
父。
母。
兄。
今まで当たり前だった生活が、終わるかもしれない。
「断ればどうなります」
「信長様は無理に連れて行かぬかもしれん」
「なら――」
「だが、私は行った方がよいと思っている」
千代丸が父を見る。
その答えだけは予想していなかった。
「なぜです」
声が少しだけ硬くなった。
景政は息子の目を見ながら答える。
「お前が、ここにいるからだ」
「意味が分かりません」
「お前は林道家を守ろうとしすぎる」
千代丸は黙った。
「五つの頃からずっとそうだ。誰も死なせない。家を残す。土地を守る。そればかり考えている」
「悪いことですか」
「悪くはない。むしろ当主になる者なら、それでよい」
景政はそこで一度言葉を切った。
「だが、お前は当主にはならん。景久がいるからだ」
千代丸は兄を見る。
景久も黙って父の話を聞いていた。
「お前が林道家だけを守って一生を終える必要はない。以前にも言っただろう。好きに生きろと」
「覚えています」
「なら、一度外へ出ろ。林道家より大きなものを見て、それでも戻りたいと思えば戻ればいい」
千代丸は答えられなかった。
自分が何をしたいのか。
考えたことがなかった。
天下はいらない。
名声も城も領地も欲しくない。
静かに暮らせればいい。
そう思っていた。
だが、本当にそれだけなのか。
答えは出なかった。
「千代丸」
今度は母・志乃が声をかけた。
「私は行ってほしいと思っています」
千代丸は驚いた。
「母上まで?」
「はい」
志乃は穏やかに笑っていた。
「先日のことを、まだ気にしているでしょう」
千代丸の表情が曇る。
「それは……」
「あなたのせいではありません」
「しかし」
「最後まで聞いて」
志乃は息子の目を見る。
「あの時、あなたは自分のせいで私が攫われたと思ったでしょう」
「……はい」
「これからも私たちのそばにいれば、きっと同じように考えます。私たちに何か起きるたびに、自分がもっと上手くできていればと」
千代丸は何も言わなかった。
図星だった。
「そんな生き方をしてほしくありません」
「でも、家族です」
「はい」
「家族を守るのは当たり前でしょう」
志乃は微笑んだ。
「なら、私たちにもあなたを守らせてください」
その言葉に、千代丸は何も返せなかった。
自分が家族を守る。
そればかり考えていた。
家族が自分を守ろうとしていることなど、考えたこともなかった。
「兄上は?」
千代丸は景久を見る。
「俺か?」
「私が清洲へ行くことです」
景久は腕を組み、少し考えてから答えた。
「嫌だ」
千代丸は少しだけ安心した。
「ですよね」
「でも行け」
「どちらです?」
「両方だ」
景久は笑った。
「弟が家からいなくなるのは嫌だ。でも、お前がずっとここにいるのも何か違う気がする」
「兄上まで……」
「俺は林道家を継ぐ。だから、お前は別のところで好きにやれ」
景久は弟の肩を軽く叩いた。
「困ったら帰ってこい。ここは俺が残しておく」
千代丸は兄の顔を見た。
その言葉が、妙に嬉しかった。
◇◇◇
その夜、千代丸はなかなか眠れなかった。
庭へ出て月を見上げながら、清洲で暮らす自分を想像する。
信長のそばへ行く。
今までは時々訪れるだけだった場所が、自分の居場所になるかもしれない。
嫌だった。
怖くもあった。
それなのに、ほんの少し楽しみにしている自分もいる。
そのことが一番気に入らなかった。
自分は何をしたいのか。
答えはまだ出ない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
林道家に残ることが安全とは限らない。
清洲へ行くことも安全ではない。
ならば、どちらにいればより多くのものを見て、より多くのことを学べるのか。
その答えだけは明らかだった。
◇◇◇
翌朝。
千代丸は父の前に座った。
「決めました」
景政が息子を見る。
「どうする」
千代丸はゆっくり頭を下げた。
「清洲へ行きます」
母が微笑み、景久も嬉しそうに弟を見る。弥兵衛も何も言わなかったが、その顔はどこか安心しているようだった。
景政だけは、いつもの落ち着いた表情のままだった。
「そうか」
「ただし、一つだけ」
「何だ」
「正式に家臣になるかは、まだ決めません」
景政はしばらく息子を見た後、声を上げて笑った。
「それは信長様に直接言え」
「そうします」
「怒るぞ」
「知っています」
◇◇◇
数日後。
千代丸は清洲へ向かうことになった。
今回は数日泊まるためではない。
そこで暮らすためだ。
屋敷を出る時、母は握り飯を持たせてくれた。景久は何度も「困ったら帰ってこい」と言い、弥兵衛は清洲まで同行する準備をしている。
父・景政は、最後まで余計なことを言わなかった。
千代丸が門を出ようとした時だけ、後ろから呼び止める。
「千代丸」
振り返った。
「はい」
「忘れるな。勝たずともよい」
千代丸は父の顔を見る。
林道家で何度も聞いた言葉だった。
「残れ、ですね」
「ああ」
千代丸は小さく笑った。
「分かっています」
そして今度こそ、生まれ育った屋敷を後にした。
◇◇◇
清洲へ到着すると、信長はすぐに千代丸を呼び出した。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「予定通りです」
「相変わらず口の減らぬ童だ」
信長は楽しそうに笑った。
「それで、覚悟はできたか」
「何の覚悟でしょう」
「俺に仕える覚悟だ」
千代丸は少し黙った。
そして信長の目を見ながら答える。
「まだです」
信長の笑みが止まった。
「……何?」
「清洲で暮らすことは承知しました。信長様のそばで学ぶことも承知しました」
「なら同じことだろう」
「違います」
部屋にいた家臣たちが一斉に千代丸を見る。
千代丸は構わず続けた。
「私はまだ、信長様の家臣になるとは申しておりません」
部屋が静まり返った。
家臣たちは誰も口を開かない。
十一歳の子供が、織田家当主を前に何を言っているのか。
信長も数秒、何も言わなかった。
やがて口元が上がった。
「ははははは!」
突然の大笑いに、千代丸は少し身を引いた。
「何です?」
「いや、それでよい」
「怒らないのですか」
「なぜ怒る」
「以前、欲しいものを諦めるのが嫌いだと仰っていました」
「言ったな」
信長は立ち上がり、千代丸の前まで歩いてきた。
「だから、お前が自分から仕えたいと言うまで待ってやる」
千代丸は少しだけ目を細めた。
待つ。
あの信長が、自分を待つと言った。
「信長様」
「何だ」
「意外と気が長いのですね」
「お前相手だけだ」
「なぜです?」
信長は答えようとして、一度口を閉じた。
そして少し考えた後、笑った。
「知らん」
また、その答えだった。
千代丸も小さく笑った。
◇◇◇
その日から、林道千代丸は清洲で暮らし始めた。
まだ信長の家臣ではない。小姓でもなく、決められた役目もない。
信長のそばで話を聞き、家臣たちを見て、戦や政について学ぶ。
時には意見を求められ、時には何も言わずに一日を終える。
林道家の小さな屋敷だけが世界だった少年にとって、清洲には知らないものが多すぎた。
武将。
商人。
僧。
農民。
敵から送られてくる使者。
味方の顔をして嘘をつく者。
金で動く者。
義理で動く者。
そして、そのすべてを使おうとする織田信長。
千代丸は知らず知らずのうちに、この場所を面白いと思い始めていた。
二度目の人生が、初めて林道家の外へ大きく動き始めたのである。
そして二年後。
十三歳になった千代丸は元服し、一つの名を与えられることになる。
林道景継。
後に尾張の武将たちが、その名を無視できなくなる男の物語は、ここから本当の意味で始まっていく。




