第十二話 預けよ
母・志乃が攫われた一件から、十日ほどが過ぎた。
林道家の屋敷には、ようやく以前の空気が戻りつつあった。志乃に大きな怪我はなく、今では庭へ出て普段通りに過ごしている。
それでも千代丸は、以前より母の姿を気にするようになっていた。
縁側で本を開いていても、庭を歩く志乃の姿を何度も目で追ってしまう。姿が見えなくなると、無意識に顔を上げて探している自分がいた。
「千代丸」
「はい」
「また見ていますね」
志乃が笑いながら振り返った。
「何をでしょう」
「私を」
「見ていません」
「見ています」
千代丸は返す言葉を失い、本へ視線を戻した。
庭に母がいる。
ただそれだけのことで安心している自分がいる。
以前の自分なら、こんなことを考えただろうか。
分からない。
二度目の生を得てから、自分の中には知らなかった感情が少しずつ増えていた。
父を失いたくない。
母を失いたくない。
兄にも死んでほしくない。
弥兵衛にも。
前の生でも家族と呼べる者はいたはずなのに、なぜか今とは違う気がする。
それが良い変化なのか、それとも乱世を生きるうえでは弱さになるのか。千代丸には、まだ判断できなかった。
「若様」
後ろから弥兵衛が声をかけてきた。
「殿がお呼びです」
「父上が?」
「はい。これから清洲へ向かわれるそうで」
千代丸の眉がわずかに動いた。
「私もですか?」
「いいえ。今回は殿だけです」
「……私なしで?」
弥兵衛が笑う。
「何か不満でも?」
「ありません」
そう答えたものの、引っかかるものがあった。
最近は清洲から呼び出しがあれば、千代丸も同行することが多い。それなのに今回は父だけだ。
「誰からの呼び出しです」
弥兵衛は一瞬だけ黙った。
それだけで十分だった。
「信長様ですね」
「はい」
千代丸は本を閉じた。
「嫌な予感がします」
「若様は信長様のこととなると、いつもそう申されますな」
「そして大抵、当たります」
否定できないのか、弥兵衛は何も言わなかった。
その日の昼過ぎ、景政は清洲へ到着した。
案内された部屋には、織田信長が一人で待っていた。
「林道」
「はっ」
景政は頭を下げる。
「此度は、我が妻をお救いいただき、誠に」
「よい」
信長が途中で遮った。
「礼を聞くために呼んだのではない。座れ」
「はっ」
景政が腰を下ろす。
いつもの信長なら、どこか楽しそうな笑みを浮かべていることが多い。しかし今日は違った。
しばらく沈黙が続いた後、信長が口を開いた。
「お前の次男だが」
景政の表情がわずかに変わる。
やはり千代丸の話だった。
「千代丸が、何か?」
「俺に預けろ」
景政はすぐには答えられなかった。
言葉の意味は分かる。
だが、その意味するところが分からない。
「……どのような意味にございましょう」
「そのままの意味だ」
「人質として、ということでしょうか」
「違う」
「では、小姓に?」
「それも違う」
「では……」
信長は真っ直ぐ景政を見た。
「俺のそばで育てる」
景政の表情が変わった。
人質でもない。
小姓でもない。
ならばなおさら、その意味は重い。
「殿。恐れながら、あの子はまだ十一にございます」
「知っておる」
「武も未熟にございます」
「それも知っておる」
「礼儀についても、まだ」
「それは特によく知っておる」
景政は言葉に詰まった。
信長の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「だから今なのだ。大人になってからでは遅い」
「何が、でしょう」
「物の見方だ」
景政が顔を上げる。
「あれは頭が切れる。人も見る。戦場でも、俺の家臣どもが見落とすものを見ることがある」
「……」
「だが、見ている世界が狭い」
景政は黙って聞いていた。
「あれが何かを考える時、最後に戻る場所はいつも林道家だ。どうすれば家を残せる。どうすれば家族を守れる。どうすれば誰も死なずに済むか」
信長の言葉に、景政はわずかに目を細めた。
よく見ている。
想像していた以上に、信長は千代丸という少年を見ていた。
「それでは駄目なのでしょうか」
「駄目ではない」
意外な答えだった。
「ならば」
「だが、それだけでは足りん」
信長は傍らに置かれていた尾張の地図へ目を落とした。
「林道家にいれば、あれは三百五十石をどう守るかを考える。清洲にいれば、尾張を見る」
指が地図の上を滑る。
「尾張を見れば、その向こうも見えるようになる」
美濃。
三河。
伊勢。
さらにその先。
景政にも、信長の指が何を意味しているのか分かった。
「殿は、千代丸に何をさせるおつもりですか」
「知らん」
あまりにもあっさりとした答えだった。
景政が目を瞬かせる。
「決めておられないのですか」
「決める必要があるか?」
信長は笑った。
「あれが何になるかなど、今から俺が決めてどうする」
景政は少し意外に思った。
もっと強引に、自分のために使うと言うと思っていた。
「俺が見たいのは、あれに大きなものを見せた時、何を見るようになるかだ」
信長の目が細くなる。
「小さな家だけを見ている童が、もっと多くの人間を知り、もっと大きな戦を知り、もっと広い土地を知った時、それでも同じことを言うのか」
天下などいらない。
静かに暮らしたい。
以前、千代丸が信長へ言った言葉だった。
「それを見たい」
景政はしばらく黙っていた。
やがて一つだけ尋ねた。
「千代丸が、それでも林道家へ戻りたいと申しましたら?」
「戻せばよい」
景政が信長を見る。
「よろしいので?」
「俺のそばを見たうえで、あの小さな家の方がよいと言うならな」
信長は笑った。
「その時は、俺が見る目を誤ったということだ」
景政は何も答えなかった。
だが、信長がただ千代丸を奪おうとしているわけではないことだけは分かった。
清洲からの帰り道、景政はほとんど喋らなかった。
同行していた弥兵衛も何度か主人の顔を見たが、すぐには尋ねなかった。
しばらく歩いたところで、景政の方から口を開く。
「千代丸を預けろと言われた」
弥兵衛の足が止まった。
「何と?」
「信長様のそばで育てるそうだ」
「それは……」
弥兵衛もすぐには言葉が出なかった。
信長が千代丸を欲しがっていることは知っていた。
だが、時折清洲へ呼ぶのと、そこで暮らさせるのとでは意味がまるで違う。
「殿は、何と?」
「考えると答えた」
二人は再び歩き始めた。
しばらくして、弥兵衛が尋ねる。
「若様は、どう思われるでしょうな」
景政は苦笑した。
「嫌だと言うだろう」
「でしょうな」
「おそらく、話を最後まで聞く前に言う」
「そこまででございますか」
「賭けてもよい」
弥兵衛が少し笑った。
その夜、千代丸は父の前に座っていた。
隣には母の志乃、兄の景久、そして弥兵衛もいる。
景政は清洲で信長から言われたことを、できるだけそのまま話した。
そして案の定。
「嫌です」
最後まで聞いた直後、千代丸は即答した。
景久が吹き出す。
弥兵衛も口元を緩めた。
景政だけは笑わなかった。
「やはりな」
「何がです?」
「いや、何でもない」
「私は行きません」
「今回は簡単に断れる話ではない」
「前にも断りました」
「今回は違う」
「何がです」
景政は息子を真っ直ぐ見る。
「信長様は、お前を清洲で育てたいと仰っている」
「今までも何度も呼ばれています」
「通うのではない。暮らすのだ」
千代丸の表情が変わった。
「……清洲で?」
「ああ」
「どれくらいです」
「決まっておらん」
「一月?」
「分からん」
「半年?」
「分からん」
「一年?」
「だから分からんと言っておる」
千代丸は黙った。
林道家。
父。
母。
兄。
弥兵衛。
今まで当たり前だった生活から離れる。
それがようやく現実味を持って胸に落ちてきた。
「断ればどうなります」
「信長様は、無理に連れて行くとは仰っておらん」
「なら」
「だが、私は行った方がよいと思っている」
千代丸が父を見る。
その答えだけは予想していなかった。
「なぜです」
声が少しだけ硬くなる。
景政は息子の目を見ながら答えた。
「お前が、ここにいるからだ」
「意味が分かりません」
「お前は林道家を守ろうとしすぎる」
千代丸は黙った。
「五つの頃からずっとそうだ。家を残す。土地を守る。誰も死なせない。そのためなら、自分が何をするかばかり考えている」
「悪いことですか」
「悪くはない。むしろ当主になる者なら、それでよい」
景政はそこで言葉を切り、景久を見た。
「だが、林道家を継ぐのは景久だ」
「はい」
「お前まで林道家だけを見て一生を終える必要はない。以前にも言っただろう。好きに生きろと」
「覚えています」
「なら一度、外へ出てみろ」
景政の声は穏やかだった。
「林道家より大きなものを見ろ。いろいろな人間を見ろ。それでもここがよいと思うなら、その時は戻ってくればよい」
千代丸は答えられなかった。
自分が何をしたいのか。
考えたことがなかった。
天下はいらない。
名声も、城も、大きな領地も欲しくない。
静かに暮らせればいい。
そう思っていた。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
「千代丸」
今度は志乃が声をかけた。
「私は、行ってほしいと思っています」
千代丸は驚いて母を見る。
「母上まで?」
「はい」
志乃は穏やかに笑っていた。
「先日のことを、まだ気にしているでしょう」
千代丸の表情が曇る。
「それは……」
「あなたのせいではありません」
「しかし」
「最後まで聞いて」
志乃は息子の目を見る。
「あの時、あなたは自分のせいで私が攫われたと思ったでしょう」
「……はい」
「これからも私たちのそばにいれば、きっと同じように考えます。私たちに何か起こるたび、自分がもっと上手くできていれば、自分がもっと考えていればと」
千代丸は何も言わなかった。
図星だった。
「そんなふうに、何もかも自分で背負おうとする生き方をしてほしくありません」
「でも、家族です」
「はい」
「家族を守るのは当たり前でしょう」
志乃は微笑んだ。
「なら、私たちにもあなたを守らせてください」
千代丸は何も返せなかった。
自分が家族を守る。
そればかり考えていた。
家族もまた、自分を守ろうとしている。
そんな当たり前のことを、考えたことがなかった。
「兄上は?」
千代丸は景久を見る。
「俺か?」
「私が清洲へ行くことです」
景久は腕を組んだ。
しばらく考えてから答える。
「嫌だ」
千代丸は少しだけ安心した。
「ですよね」
「でも行け」
「どちらです?」
「両方だ」
景久は笑った。
「弟が家からいなくなるのは嫌だ。でも、お前がずっとここにいるのも何か違う気がする」
「兄上まで……」
「俺は林道家を継ぐ。父上から受け取って、俺が守る」
景久は弟の肩を軽く叩いた。
「だから、お前は好きなところへ行け」
「……」
「それで嫌になったら帰ってこい。ここは俺が残しておく」
千代丸は兄の顔を見た。
景久は自分ほど物事を深く考えない。
策を巡らせることも得意ではない。
それでも時々、千代丸がどれほど考えても出てこない答えを、あっさりと言ってしまう。
「兄上」
「なんだ」
「絶対に残してくださいね」
「任せろ」
「少し不安です」
「お前な!」
志乃が笑った。
弥兵衛も笑い、景政まで口元を緩めた。
千代丸も少しだけ笑った。
その夜は、なかなか眠れなかった。
千代丸は庭へ出て月を見上げながら、清洲で暮らす自分を想像した。
信長のそばへ行く。
今までは時々訪れるだけだった場所が、自分の居場所になるかもしれない。
嫌だった。
怖くもある。
何より、あの男の近くにいれば、自分が望んでいた静かな人生からますます遠ざかる気がした。
それなのに。
ほんの少しだけ楽しみにしている自分もいる。
清洲には知らないことが多かった。
知らない人間がいる。
知らない土地の話が集まる。
商人が来る。
武将が来る。
敵の情報も集まる。
そして信長は、自分では思いつかないことをする。
もっと見たい。
もっと知りたい。
そう思っている自分が確かにいた。
そのことが一番気に入らなかった。
自分は何をしたいのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
林道家に残れば安全というわけではない。
清洲へ行っても安全ではない。
ならば、どちらにいればより多くのものを見て、より多くのことを学べるのか。
その答えだけは明らかだった。
翌朝。
千代丸は父の前に座った。
「決めました」
景政が息子を見る。
「どうする」
千代丸はゆっくりと頭を下げた。
「清洲へ行きます」
志乃が微笑み、景久も嬉しそうに弟を見る。弥兵衛は何も言わなかったが、その顔はどこか安心しているようだった。
景政だけは、いつもの落ち着いた表情のままだ。
「そうか」
「ただし、一つだけ」
「何だ」
「正式に信長様の家臣になるかどうかは、まだ決めません」
景政はしばらく息子を見た。
そして声を上げて笑った。
「それは信長様に直接言え」
「そうします」
「怒るぞ」
「知っています」
数日後。
千代丸が清洲へ移る日が来た。
今回は数日泊まるためではない。
そこで暮らすためだ。
荷物は多くなかった。着替えと本、それに先日から書き始めた小さな帳面。必要なものだけをまとめた。
屋敷を出る前、志乃が握り飯を包んで持たせてくれた。
「清洲にも食べ物はありますよ」
「知っています」
「なら持っていきなさい」
「……はい」
素直に受け取った。
景久は朝から何度も同じことを言っている。
「困ったら帰ってこい」
「五度目です」
「何度でも言う」
「分かりました」
「本当に分かってるか?」
「六度目になりますよ」
「ならもう一度言っておく。困ったら帰ってこい」
千代丸は呆れたように兄を見た。
だが、嫌ではなかった。
弥兵衛は清洲まで同行するため、少し離れたところで馬の準備をしている。
最後まで余計なことを言わなかったのは景政だった。
千代丸が門を出ようとした時だけ、後ろから呼び止める。
「千代丸」
振り返った。
「はい」
「忘れるな。勝たずともよい」
千代丸は父の顔を見る。
何度も聞いた言葉だった。
「残れ、ですね」
「ああ」
勝つ必要はない。
天下を取る必要もない。
ただ最後まで残る。
それは林道家の生き方であり、千代丸自身が前の生から持ち続けているものでもあった。
「分かっています」
小さく頭を下げる。
「行ってまいります」
「ああ。行ってこい」
千代丸は前を向いた。
十一年間暮らしてきた屋敷を、初めて自分の意思で離れた。
清洲へ到着すると、信長はすぐに千代丸を呼び出した。
「来たか」
「はい」
「遅い」
「予定通りです」
「相変わらず口の減らぬ童だ」
信長は楽しそうに笑った。
「それで、覚悟はできたか」
「何の覚悟でしょう」
「俺に仕える覚悟だ」
千代丸は少し黙った。
そして信長の目を見ながら答える。
「まだです」
信長の笑みが止まった。
「……何?」
「清洲で暮らすことは承知しました。信長様のそばで学ぶことも承知しました」
「なら同じことだろう」
「違います」
部屋にいた家臣たちが一斉に千代丸を見る。
十一歳の子供が、織田家の当主を前に何を言っているのか。
千代丸は構わず続けた。
「私はまだ、信長様の家臣になるとは申しておりません」
部屋が静まり返った。
誰も口を開かない。
信長も数秒、黙って千代丸を見ていた。
やがて口元が上がる。
「ははははは!」
突然の大笑いに、千代丸は少し身を引いた。
「何です?」
「いや、それでよい」
「怒らないのですか」
「なぜ怒る」
「以前、欲しいものを諦めるのが嫌いだと仰っていました」
「言ったな」
信長は立ち上がり、千代丸の前まで歩いてくる。
「だから、お前が自分から俺に仕えたいと言うまで待ってやる」
千代丸は少しだけ目を細めた。
待つ。
あの信長が、自分を待つと言った。
「信長様」
「何だ」
「意外と気が長いのですね」
「お前相手だけだ」
「なぜです?」
信長は答えようとして、口を閉じた。
少し考える。
それから笑った。
「知らん」
また、その答えだった。
千代丸も小さく笑った。
その日から、林道千代丸は清洲で暮らし始めた。
まだ信長の家臣ではない。
小姓でもなく、決められた役目もない。
信長のそばで話を聞き、家臣たちを見て、戦や政について学ぶ。時には意見を求められ、分からないことには分からないと答え、何も言わずに一日を終えることもあった。
林道家の小さな屋敷だけが世界だった少年にとって、清洲には知らないものがあまりにも多かった。
武将もいれば、商人もいる。僧も来れば、他国からの使者も来る。
味方の顔をしながら嘘をつく者。
金で動く者。
義理を重んじる者。
主家より自分の家を優先する者。
何を考えているのか、千代丸にも分からない者。
そして、そのすべてを見て、使えるものなら使おうとする織田信長。
面白い。
ある日、千代丸はそう思ってしまった。
すぐに、その考えを打ち消そうとした。
自分は静かに暮らしたかったはずだ。
戦も、権力争いも、天下も、もう十分だったはずなのに。
それでも翌日になると、また信長のそばへ行き、人の話を聞いた。
知らないことを一つ覚えるたび、もっと知りたくなった。
林道家を出たことで、千代丸の世界は急速に広がり始めていた。
そして、この清洲で過ごす二年間が、少年を大きく変えていく。
十三歳。
元服の日。
千代丸という幼名を捨て、林道景継を名乗るその時まで。
まだ、あと二年あった。




