第十三話 林道景継
天文二十四年。
清洲で暮らし始めてから、二年が過ぎた。
十三歳になった千代丸は、以前よりずっと清洲城に馴染んでいた。
最初の頃は廊下を歩くだけで珍しそうに見られたものだが、今では誰も振り返らない。信長のそばに林道家の少年がいる。それはもう、清洲では珍しい光景ではなくなっていた。
千代丸自身も変わった。
背が伸び、顔から幼さが少し抜けた。弥兵衛との槍の稽古でも、以前のように一方的に転がされることはなくなった。
もっとも、勝てるようになったわけではない。
「そこです」
木槍が千代丸の脇腹を打った。
「痛いです」
「戦場で同じことを言えば、もう一度刺されますぞ」
「弥兵衛」
「はい」
「少しくらい手加減してもよいのでは?」
「しております」
千代丸は黙った。
その答えが一番嫌だった。
弥兵衛は笑いながら木槍を構え直す。
「もう一度」
「今日はもう十分でしょう」
「まだ始めて半刻です」
「人には休息が必要です」
「若様は口を動かすより、身体を動かしてください」
仕方なく千代丸も木槍を構える。
二年間。
清洲で千代丸が学んだものは、兵法だけではなかった。
槍。
弓。
馬。
礼法。
算術。
土地。
米。
銭。
そして、人。
むしろ最後の一つが最も大きかった。
人は理屈だけでは動かない。
正しいことを言えば従うわけでもない。
利益で動く者がいる。
誇りで動く者もいる。
恐怖で動く者もいる。
何より厄介なのは、本人ですら自分がなぜ動いているのか分かっていないことがあるということだった。
それは前の生でも知っていたはずのこと。
それなのに。
千代丸はこの二年間で、もう一度それを学び直していた。
◇◇◇
「千代丸!」
稽古を終えたところで、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返る。
信長だった。
「信長様」
「来い」
「今ですか?」
「今だ」
「着替えてからでは?」
「そのままでよい」
信長は返事も待たずに歩いていく。
千代丸は自分の姿を見た。
汗。
土。
髪も乱れている。
「弥兵衛」
「はい」
「行かなければ駄目でしょうか」
「二年も一緒におられて、まだ分かられませぬか」
「分かっているから聞いたのです」
弥兵衛は笑った。
千代丸は諦めて信長を追った。
◇◇◇
信長が向かったのは、いつも評定に使う部屋だった。
中には数人の家臣がいる。
千代丸も知っている者ばかりだった。
二年前なら、自分が入った瞬間に嫌そうな顔をする者もいた。
今は違う。
完全に認められたわけではない。
だが少なくとも、ただの童として扱われることは減っていた。
千代丸が信長の後ろへ座る。
「始めろ」
家臣の一人が話し始めた。
内容は領内の争いだった。
二つの村が、水を巡って揉めている。
田へ引く水。
上流の村が多く取れば、下流へ流れない。
下流の村が怒る。
毎年のように起こる話だった。
「上の村へ命じればよろしいでしょう」
一人の家臣が言った。
「水を取りすぎるなと」
別の者が首を横に振る。
「見張りを置かねば守りませぬ」
「なら置けばよい」
「誰が見張る」
話が続く。
信長は黙って聞いていた。
やがて千代丸を見る。
来る。
千代丸は心の中でため息をついた。
「千代丸」
「はい」
「お前ならどうする」
やはり。
家臣たちの視線が集まる。
千代丸は少し考えてから答えた。
「何もしません」
一人の家臣が眉を寄せた。
「何もしない?」
「正確には、殿からは何も命じません」
信長が面白そうに見る。
「では放っておくのか」
「いいえ。二つの村に決めさせます」
「決まらぬから揉めておる」
「今のままでは、です」
千代丸は説明する。
「水が足りないから奪い合う。ならば、どちらがどれだけ使うかを決めても、いずれまた揉めます」
「ではどうする」
「水を増やします」
部屋が静かになった。
「増やす?」
「はい」
千代丸は近くにあった紙を借り、簡単な図を描いた。
「ここに小さな溜池を作る。雨の多い時期に水を貯めておけば、下流へ回せる水が増えます」
家臣の一人が言う。
「誰が造るのだ」
「二つの村です」
「上の村が嫌がるだろう」
「ならば上の村にも利益を与えます」
千代丸は図を指す。
「池から新しく水路を引き、今まで水の届かなかった田へ水を流す。上の村にも新しい田を作れるようにすればいい」
「銭は?」
「織田家が一部を出します」
家臣が苦笑する。
「結局、こちらが損をするではないか」
「最初は」
千代丸は答える。
「ですが田が増えれば、取れる米も増えます」
信長の口元が上がった。
「なるほどな」
千代丸は続ける。
「命令で争いを止めても、命令する者がいなくなればまた争います。争う理由そのものを減らした方が、後が楽です」
信長が笑った。
「二年前なら、どう答えた?」
突然聞かれた。
千代丸は少し考える。
「見張りを置いたと思います」
「今は?」
「面倒です」
家臣の何人かが笑った。
「毎年同じ争いを止めるために人を置くより、一度で終わらせた方がよいでしょう」
信長は満足そうに頷いた。
「そういうところだ」
「何がです?」
「後で話す」
嫌な予感がした。
◇◇◇
評定が終わった後。
信長は千代丸だけを残した。
「十三になったな」
「はい」
「元服しろ」
あまりにも突然だった。
千代丸は少しだけ目を瞬かせる。
「今日ですか?」
「馬鹿。準備がある」
「では、なぜ今その言い方を」
「お前がいつまでも千代丸では面倒だからだ」
「私は困っていません」
「俺が困る」
千代丸はため息をついた。
「父上には?」
「もう話した」
「いつです」
「先月」
「私より先に?」
「当たり前だ」
どうやら自分だけ知らなかったらしい。
「父上は何と」
「喜んでおったぞ」
「本当ですか?」
「疑うな」
かなり怪しい。
千代丸は信長を見る。
「それで、名は?」
信長が聞く。
「まだ決めておりません」
「なら俺が決める」
「嫌です」
即答した。
信長の眉が動く。
「なぜだ」
「信長様に任せると、変な名前をつけそうです」
「俺を何だと思っておる」
「答えてよいのですか?」
「やめろ」
二年間。
二人の関係も少し変わっていた。
主従ではない。
親子でもない。
師弟と呼ぶのも違う。
それでも千代丸にとって、信長はいつの間にか特別な存在になっていた。
恐ろしい。
面倒。
何をするか分からない。
だが。
もっと見ていたい。
そんな男だった。
◇◇◇
元服の日。
林道家から家族が清洲へやってきた。
父・景政。
母・志乃。
兄・景久。
弥兵衛。
久しぶりに家族全員が揃った。
「大きくなったわね」
志乃が千代丸の顔を見る。
「二ヶ月前にも会いました」
「母親には分かるのです」
「二ヶ月ではそれほど変わりません」
「そういうところは変わりませんね」
母が笑う。
景久は弟の肩を叩いた。
「ついに元服か!」
「兄上より遅かったですね」
「お前が嫌がったんだろ」
「まだ子供でいたかったので」
「嘘つけ」
景久が笑う。
その姿を少し離れた場所から、景政が見ていた。
「千代丸」
父に呼ばれる。
「はい」
「こちらへ来い」
千代丸が父の前へ座った。
景政は息子の顔をしばらく見つめた。
「名のことだ」
「はい」
「林道家では、私の代から『景』を使うことにした」
父は景政。
兄は景久。
そして。
「お前にも『景』を与える」
千代丸は頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
そこへ。
「なら、もう一字は俺がやる」
聞き慣れた声がした。
千代丸が顔を上げる。
信長だった。
「やはり来ましたか」
「俺の城だぞ」
「そうでした」
信長が景政の横へ座る。
景政も困ったように笑った。
どうやら。
最初から決まっていたらしい。
「信長様」
千代丸が聞く。
「何の字を?」
信長は答えた。
「継」
千代丸の表情が変わった。
「継ぐ、ですか」
「ああ」
「なぜ」
信長は少し考えた。
「お前は残すことばかり考えておる」
千代丸は黙って聞く。
「家を残す。人を残す。命を残す。そして、次へ渡す」
信長は千代丸を見る。
「ならば継げ」
「何をです」
「知らん」
千代丸は眉を寄せた。
「そこは考えておいてください」
「お前が決めろ」
信長は笑った。
「何を残し、何を継ぐのか。それくらい自分で決めろ」
千代丸は何も言わなかった。
継。
不思議と。
嫌ではなかった。
父からもらう「景」。
信長からもらう「継」。
二つを合わせる。
景継。
千代丸は心の中で何度か繰り返した。
「林道景継」
信長が先に呼んだ。
千代丸が顔を上げる。
「どうだ」
少し考える。
「悪くありません」
「素直に喜べ」
「気に入っています」
「なら最初からそう言え」
父が笑う。
母も。
兄も。
弥兵衛も。
皆が笑っていた。
千代丸――いや。
景継も。
少しだけ笑った。
◇◇◇
元服の儀が終わった。
髪を改め、装いも変わった。
鏡に映る自分を見る。
十三歳。
まだ大人と呼ぶには幼い。
それでも。
千代丸という童の時間は終わった。
これからは林道景継。
その名で生きる。
「若様」
弥兵衛が後ろから呼ぶ。
景継が振り返る。
「その呼び方は変わらないのですね」
「私にとっては、いつまでも若様です」
「そうですか」
「嫌ですか?」
景継は少し考えた。
「いいえ」
弥兵衛が笑った。
◇◇◇
その日の夜。
景継は一人で帳面を開いた。
十一歳の時から続けているものだった。
失敗したこと。
読み違えたこと。
見落としたこと。
すでに何頁も埋まっている。
最初の頁には、今でもあの日の言葉が残っていた。
――己を小さく見積もるな。
――敵が自分をどう見るかを考えよ。
景継は新しい頁を開いた。
筆を取る。
しばらく考えた後、一つ書き加えた。
――残すだけでは足りない。何を次へ継ぐのかを考えよ。
筆を置いた。
景継。
悪くない名前だ。
◇◇◇
翌朝。
元服した景継は信長に呼ばれた。
部屋へ入ると、信長の前に一枚の書状が置かれている。
「座れ」
景継が座る。
「何でしょう」
「元服した」
「昨日しました」
「なら童ではない」
「形式上は」
「なら働け」
やはり。
景継は嫌な予感がしていた。
「何をさせるつもりです」
信長は書状を景継の前へ置いた。
「使者だ」
「どこへ?」
「美濃」
景継の目が変わった。
美濃。
尾張の北。
そこにいるのは。
斎藤道三。
信長の舅。
そして。
蝮と呼ばれる男。
「誰のところへ行けば?」
分かっていながら聞いた。
信長は笑う。
「斎藤山城守」
やはり。
「嫌です」
「駄目だ」
「元服した翌日ですよ」
「だからちょうどよい」
「何がちょうどよいのです」
信長は答えず、書状を景継の前へ押し出した。
「届けろ」
景継は書状を見る。
「中を読んでも?」
「駄目だ」
「では何を話せば」
「何も」
「本当に届けるだけですか?」
「ああ」
信長が笑う。
景継は、その顔を見た。
二年間。
何度も見てきた顔。
何かを企んでいる時の顔だった。
「嘘ですね」
「何が」
「届けるだけではない」
信長の笑みが少し大きくなる。
「好きに考えろ」
景継は書状を手に取った。
斎藤道三。
名前は何度も聞いている。
油売りから身を起こし、美濃の国主にまで上り詰めたとも語られる男。
本当のところは分からない。
だが。
一つだけ確かなことがある。
信長が自分を、ただ書状を運ぶためだけに道三のもとへ送るはずがない。
「信長様」
「何だ」
「私を試していますか」
信長は答えなかった。
ただ笑っている。
景継は小さく息を吐いた。
「分かりました。行きます」
「そうか」
「ただし」
「何だ」
「帰ってきたら理由を聞きます」
信長は楽しそうに答えた。
「生きて帰れたらな」
景継の顔から笑みが消えた。
「……危険なのですか?」
「さあな」
「先に言ってください」
信長の笑い声が部屋に響く。
景継は書状を懐へ入れながら思った。
やはり。
この男のそばにいると。
静かには暮らせそうにない。
こうして林道景継は、元服後初めての役目を与えられた。
向かう先は美濃。
待っているのは、斎藤道三。
そしてこの出会いが、景継に初めて「織田信長という男は何者なのか」を本気で考えさせることになる。




