第十三話 林道景継
天文二十四年。
千代丸が清洲で暮らし始めてから、二年が過ぎた。
十三歳になった彼は、以前よりずっと清洲に馴染んでいた。
最初の頃は廊下を歩くだけで珍しそうに見られ、信長のそばに座れば露骨に顔をしかめる者もいた。それが今では、すれ違う家臣の多くが軽く声をかける程度になっている。
信長のそばに林道家の少年がいる。
それはもう、清洲では珍しい光景ではなかった。
千代丸自身も変わった。
背が伸び、顔から幼さが少し抜けた。弥兵衛との槍の稽古でも、以前のように一方的に転がされることは少なくなっている。
もっとも、勝てるようになったわけではない。
「そこです」
鈍い音とともに、木槍が千代丸の脇腹を打った。
「痛いです」
「戦場で同じことを言えば、もう一度刺されますぞ」
千代丸は脇腹を押さえながら弥兵衛を見る。
「弥兵衛」
「はい」
「少しくらい手加減してもよいのでは?」
「しております」
千代丸は黙った。
その答えが一番嫌だった。
弥兵衛は楽しそうに木槍を構え直す。
「もう一度」
「今日はもう十分でしょう」
「まだ始めて半刻です」
「人には休息が必要です」
「若様は口を動かすより、身体を動かしてください」
仕方なく千代丸も木槍を構えた。
この二年間、清洲で学んだものは多い。
槍、弓、馬、礼法、算術。
土地の見方、米の集め方、銭の流れ、兵を動かすために必要な物。
だが、その中で最も多く学んだのは、おそらく人間だった。
清洲には林道家とは比べものにならないほど多くの人間が出入りする。武士だけではない。商人もいれば僧もいる。農民の訴えも届けば、他家の使者が頭を下げながら腹の内を探ってくることもある。
その中で千代丸は、改めて思い知らされた。
人は理屈だけでは動かない。
正しいことを言えば従うわけでもなければ、利益を与えれば必ず味方になるわけでもない。
銭で動く者がいる。
誇りで動く者もいる。
恐怖から従う者もいれば、損をすると分かっていても意地を通す者までいる。
そして何より厄介なのは、本人ですら自分がなぜそうしたのか、分かっていないことがあるということだった。
前の生でも知っていたはずのことだ。
それでも千代丸は、この二年間でもう一度、人というものを学び直していた。
「千代丸!」
稽古を終えたところで、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返れば信長がいる。
「信長様」
「来い」
「今ですか?」
「今だ」
千代丸は自分の姿を見る。
汗をかき、着物には土がつき、髪も少し乱れている。
「着替えてからでは?」
「そのままでよい」
信長は返事も待たずに歩き始めた。
千代丸はその背中を見送り、弥兵衛へ顔を向ける。
「弥兵衛」
「はい」
「行かなければ駄目でしょうか」
「二年も一緒におられて、まだ分かられませぬか」
「分かっているから聞いたのです」
弥兵衛は笑うだけだった。
助けてくれる気はないらしい。
千代丸は諦めて信長の後を追った。
信長が向かったのは、いつも評定に使う部屋だった。
中には数人の家臣がいる。
どれも千代丸が知っている顔だった。
二年前なら、千代丸が入っただけで嫌そうな顔をする者もいた。今でも完全に認められたとは思っていないが、少なくとも「信長に気に入られているだけの童」と露骨に扱われることは減っている。
千代丸がいつもの場所へ座ると、信長が短く言った。
「始めろ」
家臣の一人が話し始める。
内容は領内で起きている二つの村の争いだった。
原因は水。
上流の村が田へ多くの水を引けば、下流へ流れる量が減る。当然、下流の村は怒る。
珍しい話ではない。
千代丸も清洲へ来てから、似たような争いを何度か耳にしていた。
「上の村へ命じればよろしいでしょう」
一人の家臣が言った。
「水を取りすぎるなと」
別の者が首を横に振る。
「命じただけで守るなら苦労はせぬ。見張りを置かねば、また勝手に水を引くぞ」
「ならば置けばよい」
「誰を置くのだ。それに、いつまで置く」
話が続く。
信長は口を挟まず聞いていた。
やがて、その視線がこちらへ向く。
来る。
二年もいれば分かる。
千代丸は心の中でため息をついた。
「千代丸」
「はい」
「お前ならどうする」
やはり。
家臣たちの視線が集まる。
千代丸はすぐには答えなかった。
二つの村。
水量。
田。
人を置く費用。
毎年繰り返す争い。
それらを頭の中で並べてから口を開く。
「今の話だけでは決められません」
一人の家臣が眉を寄せた。
「分からぬと?」
「はい。まず、本当に水が足りないのかを確かめます」
信長がわずかに笑う。
「続けろ」
「水そのものが足りないのか。それとも上流が必要以上に取っているだけなのか。それによって話が変わります」
「水そのものが足りぬとしたら?」
「なら、奪い合う水を増やせないか考えます」
部屋の空気が少し変わった。
「増やす?」
「はい」
千代丸は近くにあった紙を借り、簡単な図を描いた。
「地形を見なければ何とも言えませんが、適した場所があるなら小さな溜池を造る方法があります。雨の多い時期に水を貯めておけば、必要な時期に回せる水を増やせます」
家臣の一人が図を覗き込む。
「誰が造るのだ」
「恩恵を受ける村に働いてもらいます」
「上流の村が嫌がるだろう。今のままでも水を取れるのだからな」
「ならば、上流にも利益が出るようにします」
千代丸は図の一角を指した。
「新しい水路を引ける場所があるなら、これまで水の届かなかった田にも回せるかもしれません。上流にも田を増やせる利があるなら、話は変わります」
「銭はどうする」
「すべて村に負担させれば、今度はそのことで揉めるでしょう。織田家も一部を出した方がよいと思います」
家臣が苦笑した。
「結局、こちらが損をするではないか」
「最初は」
千代丸は答えた。
「ですが田が増えれば、取れる米も増えます。それに、毎年同じ争いへ人を出す必要も減ります」
信長の口元が上がった。
「なるほどな」
「ただし、実際にできるかは土地を見てからです。池を造れる場所がなければ別の方法を考えます」
信長が笑った。
「二年前のお前なら、どうした」
突然聞かれ、千代丸は少し考える。
「見張りを置いたと思います」
「今はなぜ違う」
「面倒だからです」
家臣の何人かが笑った。
千代丸は構わず続ける。
「毎年同じ争いを止めるために人を置くより、争う理由そのものを減らした方が後が楽でしょう」
信長は満足そうに頷いた。
「そういうところだ」
「何がです?」
「後で話す」
嫌な予感がした。
評定が終わると、信長は千代丸だけを残した。
「十三になったな」
「はい」
「元服しろ」
あまりにも突然だったため、千代丸は少しだけ目を瞬かせた。
「今日ですか?」
「馬鹿。準備がある」
「では、なぜ今その言い方を」
「お前がいつまでも千代丸では面倒だからだ」
「私は困っていません」
「俺が困る」
千代丸はため息をついた。
「父上には?」
「もう話した」
「いつです」
「先月」
「私より先に?」
「当たり前だ」
どうやら自分だけ知らされていなかったらしい。
「父上は何と」
「喜んでおったぞ」
「本当ですか?」
「なぜ疑う」
「信長様だからです」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
信長が睨む。
千代丸は気づかないふりをした。
二年間。
二人の関係も少しずつ変わっていた。
主従ではない。
親子でもない。
師弟と呼ぶのも、どこか違う。
それでも千代丸にとって、信長はいつの間にか特別な存在になっていた。
恐ろしい男だと思う。
面倒な男だとも思う。
何をするか分からず、近くにいれば自分まで巻き込まれる。
それなのに、もっと見ていたい。
この男が次に何をするのか。
どこへ行くのか。
何を見ているのか。
気づけば、それを知りたいと思うようになっていた。
「それで、名は?」
信長が尋ねる。
「まだ決めておりません」
「なら俺が決める」
「嫌です」
即答した。
信長の眉が動く。
「なぜだ」
「信長様に任せると、妙な名をつけそうです」
「俺を何だと思っておる」
「答えてよいのですか?」
「やめろ」
千代丸は少し笑った。
元服の日。
林道家から家族が清洲へやってきた。
父の景政。
母の志乃。
兄の景久。
そして弥兵衛。
弥兵衛とは清洲でも顔を合わせていたが、家族全員が揃うのは久しぶりだった。
「大きくなったわね」
志乃が千代丸の顔を眺める。
「二月前にも会いました」
「母親には分かるのです」
「二月では、それほど変わりません」
「そういうところは変わりませんね」
志乃が笑う。
景久は弟の肩を強く叩いた。
「ついに元服か!」
「痛いです」
「めでたい日なんだから細かいこと言うな」
「めでたい日なら殴ってよいのですか」
「殴ってない。叩いただけだ」
「兄上は昔からそうですね」
「お前も昔から面倒くさいな」
二人のやり取りを、少し離れたところから景政が見ていた。
やがて息子を呼ぶ。
「千代丸」
「はい」
「こちらへ来い」
千代丸が父の前へ座ると、景政はしばらくその顔を見つめた。
「名のことだ」
「はい」
「林道家では、私の代から『景』の字を使っておる」
父は景政。
兄は景久。
ならば、自分も。
「お前にも『景』を与える」
千代丸は静かに頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
その時だった。
「なら、もう一字は俺がやる」
聞き慣れた声に、千代丸が顔を上げる。
信長だった。
「やはり来ましたか」
「俺の城だぞ」
「そうでした」
「何だ、その言い方は」
信長が景政の隣へ座る。
景政も困ったように笑っている。
どうやら最初から話はついていたらしい。
「信長様」
千代丸が尋ねる。
「何の字を?」
信長は少しだけ間を置いた。
「継」
千代丸の表情が変わる。
「継ぐ、ですか」
「ああ」
「なぜ、その字を?」
信長は千代丸を見る。
「お前は昔から、残すことばかり考えておる」
「……」
「家を残す。人を残す。命を残す。勝つことよりも、最後に何が残るかを考える」
千代丸は黙って聞いていた。
確かにそうだ。
天下が欲しいと思ったことはない。
大きな領地が欲しいとも思わない。
ただ、生き残りたい。
家族を残したい。
自分の大切なものを失いたくない。
「だがな」
信長が続ける。
「残すだけでは足りぬ」
千代丸が顔を上げた。
「残したものを、次へ渡す者がいる」
信長の目が真っ直ぐ千代丸を捉える。
「だから継げ」
「何をです」
「知らん」
千代丸は眉を寄せた。
「そこは考えておいてください」
「お前が決めろ」
信長は笑った。
「何を残し、何を継ぐのか。それくらい自分で決めろ」
千代丸は何も言わなかった。
継。
胸の内で、その字を何度か繰り返す。
不思議と嫌ではなかった。
父からもらう「景」。
信長からもらう「継」。
二つを合わせる。
景継。
「林道景継」
信長が先にその名を呼んだ。
千代丸が顔を上げる。
「どうだ」
少し考えてから答えた。
「悪くありません」
「素直に喜べ」
「気に入っています」
「なら最初からそう言え」
景政が笑った。
志乃も、景久も、弥兵衛も笑っている。
千代丸も少しだけ笑った。
いや。
もう千代丸ではない。
林道景継。
十三年間使ってきた幼名が、その日、一つの役目を終えた。
元服の儀を終え、髪も装いも改めた。
鏡に映る自分を見る。
十三歳。
大人と呼ぶには、まだ幼い。
名が変わったからといって、急に何かができるようになるわけでもない。
それでも、千代丸という童の時間は終わった。
これからは林道景継。
その名で生きていく。
「若様」
後ろから弥兵衛に呼ばれ、景継が振り返った。
「その呼び方は変わらないのですね」
「私にとっては、いつまでも若様です」
「元服したのですが」
「存じております」
「では、景継様でもよいのでは?」
「嫌でございます」
今度は景継が黙った。
「私の真似ですか?」
「何のことでしょう」
弥兵衛が笑う。
景継も諦めた。
「まあ、いいでしょう」
「嫌ですか?」
少し考える。
「いいえ」
弥兵衛は満足そうに頷いた。
その日の夜。
景継は一人で帳面を開いた。
十一歳の時から続けているものだった。
失敗したこと。
読み違えたこと。
見落としたこと。
どうして間違えたのか。
次に同じことが起きた時、何を見るべきなのか。
二年間で、すでに何頁も埋まっている。
最初の頁には、今でもあの日の言葉が残っていた。
己を小さく見積もるな。
敵が自分をどう見るかを考えよ。
景継はそれをしばらく眺めてから、新しい頁を開いた。
筆を取り、今日与えられた名を思い出す。
継。
何を継ぐのか。
信長は自分で決めろと言った。
まだ答えは分からない。
だからこそ、今の自分が忘れてはならないことだけを書いた。
残すだけでは足りない。何を次へ継ぐのかを考えよ。
筆を置く。
「林道景継、か」
小さく口にしてみる。
悪くない名前だった。
翌朝。
元服したばかりの景継は、さっそく信長に呼び出された。
部屋へ入ると、信長の前に一通の書状が置かれている。
「座れ」
景継が腰を下ろした。
「何でしょう」
「元服したな」
「昨日しました」
「なら童ではない」
「形式上は」
「なら働け」
やはり。
昨日のうちから嫌な予感はしていた。
「何をさせるつもりです」
信長は書状を景継の前へ置いた。
「使者だ」
「どこへ?」
「美濃」
景継の目が変わった。
尾張の北に位置する国。
そして、そこには一人の男がいる。
「誰のところへ行けば?」
分かっていながら尋ねた。
信長は笑う。
「斎藤山城守」
やはり。
斎藤道三。
信長の舅にあたり、美濃を巡る争いの中で国主にまで上り詰めた男。世間ではその出自や成り上がりについて、さまざまな話が語られている。
蝮。
そう呼ぶ者もいた。
景継も名前は何度も耳にしている。
「嫌です」
「駄目だ」
「元服した翌日ですよ」
「だからちょうどよい」
「何がちょうどよいのです」
信長は答えず、書状を景継の前へ押し出した。
「届けろ」
景継は書状を見る。
「中を読んでも?」
「駄目だ」
「では、道三殿に何を話せば」
「何も」
「本当に届けるだけですか?」
「ああ」
信長が笑った。
景継はその顔をじっと見る。
二年間。
何度も見てきた。
信長が何かを企んでいる時の顔だった。
「嘘ですね」
「何が」
「私に書状を届けさせるだけではないでしょう」
信長の笑みが少し大きくなる。
「なぜそう思う」
「本当に書状を届けるだけなら、私である必要がありません」
「ほう」
「元服した翌日に、わざわざ私を道三殿のところへ送る。何か理由があるはずです」
信長は答えない。
ただ楽しそうに景継を見ている。
景継は小さく息を吐いた。
「私を試していますか」
「さあな」
「道三殿に私を見せたい?」
信長の眉がほんのわずかに動いた。
景継はそれを見逃さなかった。
「なるほど」
「何がだ」
「少し分かりました」
「何も分かっておらん」
「なら教えてください」
「嫌だ」
「子供ですか」
「昨日まで童だった奴に言われたくないわ」
景継は再び書状を見る。
信長は自分を道三に会わせたい。
だが、なぜなのかまでは分からない。
道三が自分をどう見るか知りたいのか。
自分が道三をどう見るか確かめたいのか。
あるいは、その両方か。
今の段階で決めつけるのは早い。
「分かりました。行きます」
「そうか」
「ただし」
「何だ」
「帰ってきたら理由を聞きます」
信長は楽しそうに笑った。
「生きて帰れたらな」
景継の顔から表情が消えた。
「……危険なのですか?」
「さあな」
「そういうことは先に言ってください」
信長の笑い声が部屋に響いた。
景継は書状を懐へ入れながら思う。
やはり、この男のそばにいる限り、静かな人生など望めそうにない。
だが以前とは、一つだけ違っていた。
二年前なら、ただ嫌だと思っていただろう。
今は違う。
斎藤道三。
蝮と呼ばれる男。
実際には、どのような人間なのか。
少し見てみたい。
そう思っている自分がいた。
林道景継。
元服して最初に与えられた役目は、美濃への使者。
そして景継はまだ知らない。
この旅で出会う斎藤道三という男が、景継自身ではなく、景継の中にある別の何かへ目を向けることになるのを。




