第十四話 蝮の問い
美濃へ向かう道中、景継は何度も懐の書状へ手を触れた。
中身は知らない。信長からは「届けろ」とだけ言われている。
それだけなら、もっと適した使者がいくらでもいるはずだった。礼儀を知る者、経験のある者、斎藤家と面識のある者。十三歳で元服したばかりの自分を使う理由など、本来ならない。
だからこそ、景継には信長の狙いが分からなかった。
「若様」
横を歩く弥兵衛が声をかけてきた。
「また考えておられますな」
「はい」
「書状の中身を?」
「それもあります」
「他には?」
景継は前方へ視線を向けた。
「なぜ私なのか、と考えています」
弥兵衛が笑う。
「信長様のお考えなど、私には分かりませぬ」
「私にも分かりません」
「珍しい」
「何がです?」
「若様は何でも分かったような顔をされますから」
「そのような顔をしていますか」
「しております」
景継は少し不満そうな顔をした。
だが今回ばかりは、本当に分からない。信長は何を見たいのか。自分が道三とどう話すか、それとも道三が自分をどう見るか。あるいは、その両方なのか。
「弥兵衛」
「はい」
「斎藤道三という男をどう思います」
「怖い御仁ですな」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう」
景継は首を傾げる。
「人は皆、信長様も怖いと言います」
「種類が違います」
「どう違うのです」
弥兵衛は少し考えてから答えた。
「信長様は、何をするか分からない怖さがあります」
「道三殿は?」
「何をするか分かっていても、止められない怖さがある」
景継は、その言葉を頭の中で繰り返した。
面白い。
少しだけ、会ってみたくなった。
◇◇◇
美濃。
稲葉山城。
景継が城を見上げた時、最初に思ったのは「攻めにくい」ということだった。
山の上にあり、道は狭い。兵をまとめて上げにくく、正面から力で攻めれば多くの兵を失うだろう。
「何を見ておられる」
弥兵衛が聞いた。
「城です」
「それは見れば分かります」
「攻めるなら、どこがよいかと」
弥兵衛が呆れた顔をする。
「使者として来て、最初に考えることがそれですか」
「癖です」
「直した方がよろしい」
「努力します」
景継はもう一度城を見る。
だが、本当に厄介なのは城ではない。
中にいる男だ。
◇◇◇
案内された部屋で、景継は静かに待っていた。弥兵衛は少し離れた場所に控えている。
やがて足音が聞こえ、一人の男が入ってきた。
年齢を重ねている。景継が想像していたよりも小柄に見えた。
だが、目だけは鋭い。
斎藤道三。
美濃の蝮。
道三は腰を下ろすと、書状ではなく、まず景継を見た。
長い。
かなり長い。
景継も目を逸らさなかった。
やがて道三が笑う。
「織田の婿殿は、面白い使いを寄越したものよ」
「林道景継にございます」
景継は頭を下げた。
「十三と聞いた」
「はい」
「元服したばかりとも」
「昨日のことにございます」
道三の眉が動く。
「昨日?」
「はい」
「それで今日は美濃か」
「信長様は、人使いが荒うございます」
弥兵衛の顔が一瞬だけ固まった。
道三は景継を見て、声を上げて笑った。
「ははは。本人にもそう申すか」
「申します」
「怒らぬか」
「笑われます」
「なるほど」
道三は楽しそうだった。
景継は懐から書状を取り出した。
「信長様より、お預かりしております」
「置け」
近くの者が受け取る。
道三は書状をすぐには開かなかった。それどころか、景継から目を離そうとしない。
「用は済んだな」
「はい」
「なら、少し話していけ」
やはり。
景継は心の中で小さく息を吐いた。
信長がこれを狙っていたのか。それとも道三が勝手にそうしているだけなのか。
まだ分からない。
「何をお聞きになりたいのでしょう」
「何でもよい」
「一番困る答えです」
道三の笑みが深くなった。
「では、信長について聞こう」
景継の表情がわずかに変わった。
◇◇◇
「婿殿は、うつけか」
最初の問いだった。
景継はすぐには答えなかった。
道三が続ける。
「尾張では、そう呼ばれておったそうだな」
「はい」
「お前もそう思うか」
「思いません」
「即答か」
「はい」
「では名君か」
景継は少し考えた。
「分かりません」
道三が笑う。
「分からぬ?」
「はい」
「二年もそばにいて?」
「二年しか、です」
道三の目が少し細くなる。
景継は続けた。
「名君かどうかは、その人が死んだ後に分かるものではないでしょうか」
「ほう」
「生きている間に大きな国を作っても、死んだ途端に崩れれば、その人だけが強かったということです」
「ならば、何を残せば名君だ」
景継は少し考えた。
領土。
兵。
金。
制度。
人。
どれも必要だ。
だが、それだけでは足りない。
「自分がいなくても、国が残ること」
道三の表情がほんの少し変わった。
「十三の童が、それを言うか」
「十三です」
「童だ」
「昨日元服しました」
「昨日までは童だろう」
「では、今日は違います」
道三が声を上げて笑った。
「気に入った」
景継は少し嫌そうな顔をした。
その言葉。
どこかでよく聞く。
「何だ、その顔は」
「信長様にも、よく言われます」
道三はさらに笑った。
◇◇◇
「では次だ」
道三の笑みが消えた。
「信長は、尾張を取れるか」
景継は答えなかった。
「どうした」
「その質問を、以前信長様本人にもされました」
「何と答えた」
「弟君と争えば、最後は信長様が残ると思う、と」
道三の目が鋭くなる。
「なぜ」
「信勝様は周囲に支えられている。信長様は、周囲を支えにしようとしていない」
「それが強いと?」
「危険だと」
道三は黙った。
景継は少しだけ笑う。
「信長様にも同じことを言いました」
「婿殿は怒ったか」
「笑っていました」
「やはり、あやつらしい」
道三は少し遠くを見るような顔をした。
そして、もう一度景継を見る。
「では、尾張の次は?」
景継の目が止まった。
「どういう意味でしょう」
「とぼけるな」
道三の声が低くなる。
「信長は、尾張だけで満足すると思うか」
清洲。
信長に聞かれたことがある。
――俺が尾張を取ると思うか。
その時、景継は聞き返した。
――尾張だけですか。
あの時の信長の顔。
今でも覚えている。
「思いません」
景継は答えた。
「では美濃か」
「可能性はあるでしょう」
「儂が生きていても?」
景継は道三を見る。
部屋の空気が変わった。
これは試している。
「答えにくい質問です」
「答えろ」
「では」
景継は静かに言う。
「道三様が生きておられる間は、簡単には攻めないと思います」
「簡単には?」
「勝てると思えば攻めるでしょう」
弥兵衛が後ろで息を呑んだ気配がした。
道三は笑わない。
「儂を前に、よく言えるな」
「嘘を言う方が失礼でしょう」
「殺されるとは思わぬか」
「少し」
「少しか」
「かなり」
道三の口元がわずかに上がった。
◇◇◇
「林道景継」
初めて道三が名をきちんと呼んだ。
「はい」
「お前は、信長に忠義があるのか」
景継は一瞬、答えに迷った。
忠義。
自分は信長の正式な家臣ですらない。
「分かりません」
「またそれか」
「まだ、仕えておりませんので」
「何?」
道三が眉を寄せた。
「清洲で暮らしておるのだろう」
「はい」
「信長のそばにいる」
「はい」
「それで家臣ではない?」
「私はまだ、家臣になるとは申しておりません」
道三は数秒、景継を見つめた。
そして腹を抱えて笑った。
「ははははは! 何だそれは!」
「何かおかしいでしょうか」
「おかしいわ!」
道三は目元を拭う。
「婿殿は何と?」
「私が自分から仕えたいと言うまで待つ、と」
道三の笑いが止まった。
「……信長が?」
「はい」
道三は何も言わず、少しだけ考えるような顔をした。
「なるほど」
小さく呟く。
「やはり、あやつも見ておるか」
景継が聞き返す。
「何をでしょう」
「何でもない」
今度は道三が誤魔化した。
景継は気になったが、聞いても答えないだろう。
◇◇◇
「では、もし信長が負けると分かれば、お前は裏切るか」
道三が突然そう聞いた。
部屋が静かになった。
弥兵衛の顔が険しくなる。
景継は道三を見る。
かなり嫌な問いだ。
だが、少し面白い。
「状況によります」
「忠義は?」
「先ほど、分からないと申し上げました」
「なら裏切るか」
「信長様が負けるだけなら、裏切らないと思います」
道三の眉が動く。
「なぜ」
「負けることと、滅びることは違うからです」
「では、滅びるなら?」
景継は少し黙った。
父。
母。
兄。
林道家。
信長。
もし、どちらかしか残せないなら。
自分は何を選ぶ。
「林道家を守ります」
景継は答えた。
弥兵衛が少し目を見開いた。
道三は表情を変えない。
「つまり信長を捨てる」
「必要なら」
「それを本人にも言えるか」
「言えます」
道三はしばらく黙った。
やがて、小さく笑う。
「お前は、忠臣には向かんな」
「そうでしょうか」
「主君より家を選ぶと言っておる」
景継は少し考えた。
「ですが、主君が自分の家臣の家族まで守れないなら、その主君に仕える意味はありますか」
今度こそ。
道三の顔から笑みが消えた。
長い沈黙。
景継も黙る。
道三は十三歳の少年を見ている。
いや。
もっと別の何かを見るように。
「……お前、本当に十三か」
低い声だった。
景継は少し笑った。
「そう聞いております」
道三の目がわずかに動く。
「そう聞いている?」
しまった。
信長との会話で使った癖が出た。
「生まれた時の記憶がありませんので」
「普通は、自分の年をそう言わぬ」
「そうでしょうか」
道三は景継をじっと見ている。
今までとは違う。
疑い。
興味。
そして、わずかな警戒。
「面白い」
道三が呟いた。
だが、信長の「面白い」とは少し違う。
何かを見つけた人間の声だった。
◇◇◇
道三はようやく信長からの書状を開いた。
景継には内容を見せない。
しばらく読む。
そして笑った。
「婿殿め」
景継は聞く。
「何が書いてあるのでしょう」
「知りたいか」
「はい」
「教えん」
「では聞かなければよかったです」
道三が笑う。
書状を置く。
「返事を書く」
「お預かりします」
「それと、信長へ伝えろ」
「何と」
「よいものを拾ったな、と」
景継は眉を寄せた。
「私は拾われておりません」
「そこまで含めて伝えろ」
「嫌です」
「伝えろ」
「信長様と似たことを言いますね」
道三の笑みが一瞬だけ止まった。
「儂と信長が似ておる?」
「少し」
「どこが」
景継は考える。
「欲しいものを、欲しいと言うところでしょうか」
道三が笑った。
「なるほど」
そして少し間を置く。
「ならば景継。儂も言ってみるか」
嫌な予感がした。
「信長を捨てて、美濃へ来ぬか」
景継は道三を見る。
冗談ではない。
少なくとも、半分は。
「お断りします」
即答した。
「なぜだ」
「道三様も怖いので」
道三が笑う。
「信長とどちらが怖い」
景継は少し考えた。
「信長様です」
「ほう?」
「道三様は、何を欲しがっているのかまだ分かります」
道三の目が細くなる。
「信長様は?」
「分かりません」
「それほどか」
「はい」
景継は少し遠くを見るように言った。
「本人もまだ、自分がどこまで行きたいのか分かっていないのかもしれません」
道三は何も言わなかった。
◇◇◇
帰り道。
稲葉山城を出た景継は、山道を歩きながら考えていた。
「若様」
弥兵衛が言う。
「寿命が縮まりました」
「何がです?」
「道三様を前に、あれだけ好き勝手言われて」
「聞かれたので答えただけです」
「それを好き勝手と言うのです」
景継は少し笑った。
そして振り返る。
稲葉山城。
蝮。
確かに恐ろしい男だった。
だが、それ以上に気になることがあった。
――やはり、あやつも見ておるか。
道三の言葉。
何を。
信長は、自分の何を見ている。
景継はまだ答えを出せなかった。
◇◇◇
数日後。
清洲へ戻ると、信長はすぐに景継を呼び出した。
「どうだった」
「疲れました」
「道三は?」
「怖い方でした」
「そうか」
信長が笑う。
「それだけか」
「信長様へ伝言があります」
「何だ」
景継は少し嫌そうな顔をした。
「『よいものを拾ったな』と」
信長の口元が上がる。
「ほう」
「それと、私が『拾われていない』と言ったことまで伝えろ、と」
信長は少し黙った。
そして、大声で笑い始めた。
景継はため息をつく。
「笑うと思いました」
「道三め」
「楽しそうですね」
「ああ」
信長は景継を見る。
「それで、向こうへ来いと言われたか」
景継の表情が止まった。
なぜ分かった。
「……言われました」
「何と答えた」
「断りました」
信長は一瞬だけ満足そうな顔をした。
それを景継は見逃さなかった。
「信長様」
「何だ」
「まさか、それを確かめるために私を美濃へ?」
信長は答えない。
「道三様が私を誘うと思っていた?」
沈黙。
そして信長が笑った。
「さあな」
景継は信長を睨む。
「答えてください」
「嫌だ」
「子供ですか」
「昨日まで童だった奴に言われたくない」
景継は小さく息を吐いた。
だが、一つだけ分かった。
信長は道三に自分を見せたかった。
道三がどう評価するのか。
それを知りたかった。
そして、もしかすると。
もっと別の目的もあった。
「信長様」
「まだ何かあるか」
景継は少し考え、聞いた。
「私は、そんなに使えそうに見えますか」
信長はしばらく景継を見た。
そして笑みを消した。
「違う」
「では?」
「使えるから、そばに置きたいのではない」
景継の胸が少しだけ鳴った。
「なら、なぜです」
信長はすぐには答えない。
やがて目を細めた。
「お前を、敵に回したくない」
景継は何も言えなかった。
その言葉。
なぜだろう。
遠い昔にも、誰かから同じような目で見られた気がした。
だが、その記憶はまだ霧の向こうにあった。




