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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第十五話 弟君、動く


美濃から戻って七日が過ぎた。


景継の生活は、以前と変わらないように見えた。


朝は弥兵衛との稽古から始まり、その後は信長の近くで評定を聞く。暇があれば書を読み、時には城下へ出て商人たちの話を聞いた。


元服したからといって、突然何かが変わるわけではない。


ただ一つ。


周囲の見る目だけは明らかに変わっていた。


以前なら「信長様が気に入っている童」で済んだ。


だが、元服した今は違う。


林道景継という一人の男として見られる。


それが好意的なものとは限らなかった。


「若様」


弥兵衛が声をかけてきた。


景継は書物から顔を上げる。


「何でしょう」


「また妙な噂が流れております」


「私の?」


「はい」


「今度は何です」


「美濃の蝮を言い負かしたとか」


景継は本を閉じた。


「誰がそんな話を」


「知りませぬ。ただ城内では、かなり広がっております」


「言い負かしていません」


「分かっております」


「むしろ私が試されていただけです」


「それも分かっております」


弥兵衛は笑った。


「噂とは、そういうものでございます」


景継はため息をついた。


美濃へ行ったこと自体は隠されていない。信長の使者として斎藤道三に会ったことも、一部の家臣は知っている。


そこから話が膨らんだのだろう。


十三歳の少年が蝮と渡り合った。


そちらの方が面白い。


事実よりも、面白い話の方が広がる。


「放っておきましょう」


「よろしいので?」


「否定すれば、余計に広がります」


「若様も噂の扱いが上手くなりましたな」


「清洲に来て学びました」


そう答えた時だった。


廊下の向こうから、一人の家臣が急いで歩いてきた。


景継を見ると足を止める。


「景継殿」


「何でしょう」


「殿がお呼びです」


「今ですか?」


「すぐに、と」


景継と弥兵衛は顔を見合わせた。


信長が「すぐに」と言う時。


大抵、面倒なことが起きている。


◇◇◇


部屋へ入った瞬間、景継はいつもと空気が違うことに気づいた。


信長の前には数人の重臣がいる。


柴田勝家。


林秀貞。


佐久間信盛。


他にも何人か。


景継が入ると、一瞬だけ視線が集まった。


「来たか」


信長が言う。


「はい」


「座れ」


景継は末席へ座った。


誰も話さない。


景継は信長を見る。


信長は怒っているようには見えなかった。


むしろ。


静かすぎる。


こういう時の方が危険だと、景継は二年間で学んでいた。


「何があったのでしょう」


景継が聞く。


信長は一枚の紙を投げた。


景継の前へ滑ってくる。


拾い上げる。


書かれている内容を読む。


そして。


眉を寄せた。


「これは」


「信勝だ」


信長が答える。


信勝。


織田信勝。


信長の実弟。


かつては織田信行とも呼ばれることになる男。


そして今、尾張を二つに割りかねない存在だった。


「兵を集めているのですか」


景継が聞く。


「そうらしい」


柴田勝家が答えた。


「末森を中心に、信勝様方の動きが活発になっておる」


景継は紙を見る。


兵。


米。


武具。


急に動いている。


戦の準備。


そう考えるのが自然だった。


「いつからです」


「ここ十日ほどだ」


「十日」


景継は考える。


自分が美濃にいた頃から。


偶然か。


「誰と戦うつもりでしょう」


一人の家臣が苛立ったように言った。


「決まっておろう。殿だ」


景継はその男を見る。


「決まっているのでしょうか」


「他に誰がおる」


「分かりません」


「何?」


景継は紙を置いた。


「兵を集めている。それだけでは、信長様を攻めるとは限りません」


家臣が鼻で笑う。


「では何のためだ」


「それを調べる必要があります」


「悠長な」


「間違えて兵を動かす方が危険です」


家臣が何か言おうとした。


だが。


「景継」


信長が止めた。


「はい」


「お前はどう見る」


景継は紙をもう一度見る。


数字。


場所。


人。


時期。


兵を集める。


米を集める。


武具を集める。


確かに戦の準備。


だが。


何かがおかしい。


「信長様」


「何だ」


「この情報は、どこから?」


部屋の空気が少し変わった。


「なぜ聞く」


「綺麗すぎます」


「綺麗?」


「はい」


景継は紙を指した。


「兵が何人。米がどれだけ。どこから武具を運んだ。あまりにも詳しい」


柴田勝家が眉を寄せる。


「詳しい方がよいだろう」


「普通なら」


景継は答えた。


「ですが、これだけ詳しい情報が簡単に清洲へ入ってくるのは妙です」


信長の目が少し変わった。


「続けろ」


「信勝様方が本当に戦を始めるつもりなら、隠すはずです」


「隠しきれなかっただけでは?」


「もちろん、その可能性もあります」


景継は頷いた。


「ただ、私はもう一つ考えます」


「何だ」


「見せている」


部屋が静かになった。


「誰に」


信長が聞く。


「我々に」


景継は答えた。


「信勝様が兵を集めていると、清洲に知らせたい者がいる」


佐久間信盛が口を開く。


「何のためだ」


「こちらから動かすためです」


「つまり罠か」


「まだ分かりません」


景継は即答した。


「罠と決めつけるのも危険です」


柴田勝家が景継を見る。


「では何をする」


景継は少し考えた。


「待ちます」


何人かの家臣が顔をしかめた。


「また待つのか」


「はい」


「向こうが兵を集めているのだぞ」


「だからです」


景継は信長を見る。


「今こちらが動けば、信勝様方に戦う理由を与えます」


信長は黙っている。


景継は続けた。


「兄が兵を向けてきた。だから自分たちは身を守るために立った。そう言える」


「なら何もしないのか」


「いいえ」


景継は首を横に振った。


「表では何もしない。裏では調べます」


「何を」


「米です」


柴田勝家が眉を寄せる。


「米?」


「兵は嘘をつけます。数を多く見せることもできる。しかし、長く戦うなら食わせなければならない」


景継は紙に書かれた数字を指でなぞった。


「本当に戦をするつもりなら、兵より先に米が動く。ここに書かれている量だけでは足りません」


佐久間信盛が紙を見る。


「では、兵を集めているだけだと?」


「今のところは」


「何のために」


景継は少し考えた。


「威圧。あるいは、誰かに見せるため」


「誰に」


今度は答えなかった。


まだ材料が足りない。


「三日ください」


景継が言った。


信長の口元がわずかに上がる。


「三日で何が分かる」


「米がどこへ行っているか」


「どうやって調べる」


「商人に聞きます」


「答えるか?」


景継は少し笑った。


「武士には答えなくても、客には答えます」


信長も笑った。


「好きにしろ」


◇◇◇


翌日。


景継は城下へ出た。


連れているのは弥兵衛だけ。


武家の格好ではない。


質素な着物。


刀も目立たないようにしている。


「若様」


「何です」


「似合いませぬな」


「何が?」


「商人の息子には見えません」


「では何に見えます」


弥兵衛は少し考えた。


「悪いことを企んでいる寺の小僧」


「帰りますよ」


「冗談です」


二人は米を扱う商人の店へ入った。


景継は何かを直接聞くつもりはなかった。


信勝が米を買ったか。


そんなことを聞けば警戒される。


だから別の話をする。


今年の米の値。


どこの米が安いか。


どこの蔵に余っているか。


最近、大口で買った者がいるか。


一軒。


二軒。


三軒。


話を集める。


夕方までには、少しずつ形が見えてきた。


「若様」


帰り道。


弥兵衛が言う。


「どうです」


「妙です」


「何が」


「米が動いていない」


景継は歩きながら考える。


信勝方が本気で兵を集めているなら、もっと米が必要になる。


だが。


市場に変化がない。


周辺から買い集めた形跡もない。


「では戦はない?」


「いいえ」


景継は首を横に振る。


「それも早い」


「難しいですな」


「人は、準備を全部してから戦うとは限りません」


「では何を」


「もう一つ調べます」


「何をです」


景継は答えた。


「人です」


◇◇◇


二日目。


景継が調べたのは、信勝方に出入りする者だった。


誰が末森へ行っている。


誰が戻ってきた。


どの家が急に静かになった。


どの家が妙に騒がしい。


そして。


一つの名前が浮かんだ。


津々木蔵人。


信勝に近い人物。


最近、頻繁に家々を回っている。


兵を集めているのではない。


人を集めている。


味方を。


「なるほど」


景継は呟いた。


弥兵衛が聞く。


「分かりましたか」


「少し」


「何をしているので」


「戦の準備です」


「やはり?」


「ただし」


景継は少し考える。


「まだ戦うためではありません」


「どういう意味です」


「戦えるかを確かめている」


弥兵衛は黙った。


景継の頭の中で、点が繋がっていく。


兵を見せる。


味方を募る。


清洲にも情報を流す。


信長がどう動くかを見る。


まだ。


決断していない。


信勝本人が迷っている。


あるいは。


周囲が決断させようとしている。


「まずいですね」


景継が言った。


「何が?」


「迷っている人間は」


景継は末森の方角を見る。


「背中を押されれば、動きます」


◇◇◇


三日目。


景継は清洲へ戻った。


信長の前には、前回と同じ家臣たちが集まっている。


「どうだった」


信長が聞く。


景継は座ると、集めた情報を話した。


米は大きく動いていない。


兵は集まっている。


津々木蔵人が各家へ働きかけている。


だが。


まだ全面的な戦を始めるだけの準備ではない。


「つまり?」


信長が聞く。


景継は答えた。


「信勝様は、まだ決めていません」


部屋がざわついた。


「何をだ」


「信長様と戦うかどうかを」


柴田勝家の表情が険しくなる。


「兵を集めておいてか」


「だからこそです」


景継は言う。


「本当に決めているなら、もっと早く動く。今は味方がどれだけいるかを見ている段階です」


信長が腕を組む。


「では、どうする」


景継は少し考えた。


ここから先は。


ただ情報を読むだけではない。


自分が何を勧めるか。


その結果。


人が死ぬ。


「何もしない」


以前なら。


そう答えたかもしれない。


だが。


今は違う。


「一度、逃げ道を作ります」


景継が答えた。


「逃げ道?」


「はい」


「誰の」


「信勝様の」


家臣たちの顔が変わる。


「敵に逃げ道を?」


「まだ敵ではありません」


「兵を集めておる!」


「だから今です」


景継の声が少し強くなった。


「戦が始まってからでは遅い」


信長が景継を見る。


「何をする」


「信勝様へ使者を」


「何と伝える」


景継は一度息を吐いた。


「兄弟で話をしたい、と」


信長の目が細くなる。


「俺が?」


「はい」


「嫌だ」


即答だった。


景継はため息をついた。


「子供ですか」


「十三の奴に言われたくない」


「元服しました」


「昨日だろう」


「もう何日も経っています」


家臣の何人かが笑いを堪えている。


景継は続けた。


「信長様が先に手を差し出せば、信勝様は戦わずに済む理由を得ます」


「俺が折れたと思われる」


「思わせればよいでしょう」


部屋が静かになる。


信長の目が鋭くなった。


「俺に頭を下げろと?」


「いいえ」


景継は首を横に振る。


「勝つために、負けたふりをしてください」


信長の口元が上がった。


その顔を見て。


景継は少しだけ安心した。


この男は。


こういう話なら聞く。


「面白い」


信長が言った。


「やってみろ」


景継が目を瞬かせる。


「私が?」


「お前が言い出した」


「使者は別の方が」


「嫌だ」


「なぜです」


「お前が行け」


景継は信長を見た。


「信勝様のところへ?」


「ああ」


「私は信長様の近くにいる人間として知られています」


「だからよい」


景継は嫌な予感がした。


「また試しています?」


信長は答えない。


ただ笑った。


景継は小さく息を吐いた。


美濃から帰ってきたばかりなのに。


今度は末森。


静かに暮らすという望みは。


どうやら。


日に日に遠ざかっている。


◇◇◇


翌朝。


景継は末森へ向かう準備をしていた。


そこへ弥兵衛が来る。


「若様」


「準備できましたか」


「その前に」


弥兵衛の表情がいつもと違う。


景継が気づく。


「何かありました?」


「昨夜、末森から一人出た者がおります」


「誰です」


弥兵衛は名前を告げた。


景継の表情が変わった。


その男は。


信勝方の者ではなかった。


信長方の家臣。


しかも。


清洲の内情を知る立場にいる。


「間違いありませんか」


「二人が見ています」


景継は黙った。


信勝が味方を集めている。


それは分かっていた。


だが。


すでに。


清洲の中にも。


手を伸ばしている。


「若様」


弥兵衛が聞く。


「どうします」


景継は少し考えた。


そして。


「予定通り末森へ行きます」


「危険です」


「分かっています」


「なら」


「だから行くんです」


景継は立ち上がった。


ここで止められるなら。


まだ。


戦にならない可能性がある。


父の言葉を思い出す。


勝たずともよい。


残れ。


なら。


戦わずに残せるものがあるうちは。


その道を探す。


景継は書状を懐へ入れた。


まだ誰も知らなかった。


この末森への使いが。


信長と信勝。


兄と弟の争いを止めるものではなく。


むしろ。


決定的に動かすことになるとは。

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