第十五話 弟君、動く
美濃から戻って七日が過ぎた。
元服を終え、林道景継と名を改めても、清洲での暮らしが急に変わったわけではない。朝は弥兵衛との稽古から始まり、その後は信長の近くで評定を聞く。暇があれば書を読み、時には城下へ出て商人たちの話に耳を傾ける。
変わったのは、むしろ周囲の方だった。
以前なら「信長様が気に入っている童」で済んだものが、元服した今では一人の武士として見られる。好奇の目もあれば、警戒する者もいる。十三歳という年齢を鼻で笑う者がいる一方、美濃へ使者として赴いたことを知って態度を変える者まで現れた。
「若様」
弥兵衛に呼ばれ、景継は書物から顔を上げた。
「何でしょう」
「また妙な噂が流れております」
「私の?」
「はい」
その時点で、景継は聞きたくなくなった。
「今度は何です」
「美濃の蝮を言い負かしたとか」
景継は無言で本を閉じた。
「誰がそんな話を」
「さあ。ただ、城内ではかなり広まっております」
「言い負かしていません。むしろ私が試されていました」
「存じております」
「ならば訂正してください」
「私が一人ずつ捕まえて?」
景継は想像して、すぐに諦めた。
「……放っておきましょう」
弥兵衛が笑った。
美濃へ行ったこと自体は隠されていない。信長の使者として斎藤道三に会ったことも、一部の家臣は知っている。
十三歳の若武者が、美濃の蝮を相手に一歩も引かなかった。
事実が人の口を渡るうちに、そんな話へ変わったのだろう。
「噂とは面倒ですね」
「清洲へ来られて、随分と学ばれましたな」
「できれば学びたくありませんでした」
そんなことを話していた時、廊下の向こうから一人の家臣が早足で近づいてきた。
景継の前で足を止め、頭を下げる。
「景継殿。殿がお呼びです」
「今ですか?」
「すぐに、と」
景継と弥兵衛は顔を見合わせた。
信長が「すぐに」と言う時は、大抵ろくなことがない。
「行きましょう」
立ち上がった景継に、弥兵衛も続いた。
部屋へ入った瞬間、景継は空気の重さを感じた。
信長の前には佐久間信盛をはじめ、数人の家臣が座っている。普段の評定とは違い、誰一人として雑談をしていない。
そして、いるはずのない者がいるのではなく、普段なら名を聞くはずの者たちがいなかった。
景継は末席へ腰を下ろした。
「来たか」
「はい」
信長は怒っているようには見えない。
だからこそ、景継は嫌なものを感じた。
この二年間で知った。
信長は本当に腹を立てている時ほど、妙に静かになることがある。
「何があったのでしょう」
信長は答えず、一枚の紙を景継の前へ放った。
拾い上げて目を通す。
末森。
兵。
米。
武具。
いくつもの名。
そして、その中心にいる人物。
「……信勝様」
「ああ」
信長の実弟、織田信勝。
景継も以前から、その名は知っていた。
信秀亡き後、信長を快く思わぬ者たちが弟の信勝を支持していることも。
だが、紙に記された内容は、これまで耳にしてきた不満とは明らかに違った。
兵が集まり始めている。
景継の指先が紙の上で止まった。
もし、これが本当なら。
信長と信勝。
兄と弟が、言葉ではなく兵を向け合うことになる。
そうなれば死ぬのは二人だけではない。今まで城内で顔を合わせてきた者たちが、昨日まで同じ織田家に仕えていた者へ槍を向ける。
景継は無意識に唇を結んだ。
「いつからです」
「ここ十日ほどだ」
佐久間信盛が答えた。
「十日……」
自分が美濃へ向かった頃と重なる。
偶然なのか。
「誰が集めています」
「末森の者どもだ。信勝様の周りにいる連中が、方々へ声を掛けているらしい」
景継は顔を上げた。
「誰に?」
佐久間がいくつかの家名を挙げていく。
その中で、二つの名を聞いた瞬間、景継の表情が変わった。
「柴田勝家殿も?」
「ああ」
「林殿も……?」
今度は信長が答えた。
「秀貞もだ」
景継は黙った。
津々木蔵人をはじめ、信勝の近くにいる者たちだけなら、まだ理解できる。
だが柴田勝家、林秀貞となれば話は違う。
織田家の中でも無視できない者たちだ。
弟が兄に不満を持っている。
そんな小さな話ではない。
本当に織田家そのものが二つに割れようとしている。
胸の奥に冷たいものが落ちた。
戦は嫌いだ。
そう言い続けてきた。
だが今までの自分は、どこかで戦を盤上のものとして見ていたのかもしれない。
兵が何人。
どこへ動く。
どちらが有利。
そう考えている間は、まだ数字だった。
だが今は違う。
柴田勝家という名がある。
林秀貞という名がある。
佐久間信盛が目の前にいる。
信長がいる。
皆、同じ織田家の中にいた人間だ。
それが敵と味方に分かれる。
「景継」
信長の声で我に返った。
「はい」
「何を考えている」
景継はもう一度紙へ目を落とした。
「まだ、戦になると決まったわけではありません」
一人の家臣が眉を寄せた。
「兵を集めておるのだぞ」
「分かっています」
「ならば何のためだ」
「それを調べる必要があります」
「悠長なことを」
男の声に苛立ちが混じった。
景継は反論しかけ、やめた。
苛立つのも当然だった。
自分の主君の弟が兵を集めている。その周囲には柴田や林までいる。
今すぐこちらも兵を集めるべきだと思う者がいても不思議ではない。
だからこそ、景継は慎重になった。
「信長様」
「何だ」
「この情報は、どこから入ったものですか」
信長の目がわずかに細くなる。
「なぜ聞く」
「詳しすぎます」
景継は紙を指した。
「兵が何人、米がどれだけ、どこから武具を運んだか。こちらにとって都合よく情報が揃いすぎています」
佐久間が紙へ目を落とした。
「詳しい方がよいではないか」
「正しい情報ならば」
景継は頷いた。
「ですが、本当に信勝様方が戦を始めるつもりなら、普通は隠そうとするでしょう。これほど簡単に清洲へ伝わるのは妙です」
「隠しきれなかっただけかもしれん」
「もちろん、その可能性もあります」
景継は否定しなかった。
以前なら、ここで一つの答えに飛びついていたかもしれない。
だが、母を攫われた一件で思い知った。
自分の読みが正しいと思い込むことほど危険なものはない。
「ただ、もう一つ考えられます」
「言え」
「見せているのかもしれません」
部屋が静まった。
「誰にだ」
信長が尋ねる。
「私たちに」
景継は答えた。
「信勝様のもとにこれだけの兵がいる。柴田殿も林殿もいる。そう清洲へ知らせること自体に意味があるのかもしれません」
「威しということか」
「それもあります。あるいは、こちらから先に兵を動かさせたいのかもしれない」
景継は紙を置いた。
「もし信長様が先に兵を出せば、向こうは言えます。兄が自分を討とうとしたから、身を守るために立ったのだ、と」
家臣の一人が低く唸った。
「ならば、何もするなと?」
「表では」
信長の口元がわずかに動く。
「裏では?」
「調べます」
「何をだ」
「まず米を」
「米?」
「兵を集めたように見せることはできます。しかし、本当に長く戦うなら食わせなければならない」
景継は紙に記された数字を指でなぞった。
「これだけの兵を動かすつもりなら、どこかで相応の兵糧が動くはずです。市場から買ったのか、蔵から出したのか、それとも周辺の家から集めているのか」
「兵より米を見ろということか」
「兵は立たせておくだけでも数に見えます。米は食べればなくなりますから」
信長が笑った。
「なるほど」
「それから人です」
「誰を見る」
「末森へ出入りする者を。誰が信勝様を支持し、誰が迷っているのか。特に柴田殿と林殿が、どこまで本気なのかを知りたい」
景継は少し迷ってから続けた。
「それと、信勝様ご本人も」
「弟を?」
「周囲が戦いたがっていることと、信勝様ご本人が戦いたがっていることは同じではありません」
信長の目が景継へ向く。
「三日で分かるか」
「分かりません」
何人かの家臣が顔を見合わせた。
信長だけが笑った。
「前なら、分かると言ったのではないか?」
景継も少しだけ笑った。
「最近、分からないことが増えました」
「馬鹿になったか」
「自分がそれほど賢くないと分かっただけです」
信長は一瞬黙り、それから愉快そうに笑った。
「三日やる。調べろ」
「承知しました」
翌日。
景継は弥兵衛だけを連れて城下へ出た。
武家の格好ではない。質素な着物に替え、刀も目立たぬようにしている。
隣を歩いていた弥兵衛が、しばらく景継を眺めてから言った。
「若様」
「何です」
「似合いませぬな」
「何が?」
「商人の倅には見えません」
景継は自分の姿を見下ろした。
「では何に見えます」
弥兵衛は真剣な顔で少し考えた。
「悪いことを企んでいる寺の小僧」
「帰りますよ」
「冗談でございます」
景継は呆れながら歩き出した。
だが、その軽いやり取りのおかげで、先ほどまで胸の奥にあった重さが少しだけ和らいだ。
二人は米を扱う商人の店を回った。
信勝が米を買ったか。
そんなことを直接聞けば警戒される。
だから、今年の米の値や、どこに余りがあるのか、最近大口で買った者がいるか、荷がどちらへ流れているかといった話を少しずつ集めていった。
一軒では分からない。
二軒でも足りない。
三軒、四軒と回るうち、ようやく輪郭が見え始めた。
夕方。
清洲へ戻る道で、弥兵衛が尋ねた。
「どうです」
「思ったほど米が動いていません」
「では、戦はない?」
「そこまでは言えません」
景継は首を横に振った。
「すでに蓄えているのかもしれない。短い戦で終わらせるつもりかもしれない。それに、準備が足りなくても戦を始める人はいます」
「難しいものですな」
「人が関わりますから」
景継は末森の方角へ目を向けた。
「明日は、人を見ます」
二日目。
調べる対象を人へ変えると、米とは違う動きが見えてきた。
誰が末森へ向かったのか。
誰の屋敷へ使者が入ったのか。
誰が返事を保留し、誰がすぐに応じたのか。
その中で、何度も名前が出てくる男がいた。
津々木蔵人。
信勝の近くにいる人物だった。
「この方が、かなり動いていますね」
景継が呟く。
弥兵衛が隣から紙を覗き込んだ。
「信勝様の命でしょうか」
「分かりません」
景継は津々木の名を指で押さえた。
「そこが気になります」
信勝自身が命じているなら、話は単純だ。
だが周囲が信勝を担ぎ、戦う方向へ押しているのなら意味が変わる。
さらに調べると、柴田勝家と林秀貞が信勝を支持していることも、ほぼ間違いないと分かった。
景継はその報告を聞いた時、しばらく黙っていた。
「若様?」
「……思っていたより大きい」
「何がです」
「この争いです」
景継は手元の紙を見る。
津々木だけではない。
柴田勝家。
林秀貞。
その二人まで信勝側にいる。
信長に不満を持つ者たちが、弟を旗にしようとしている。
「本当に割れるかもしれません」
自分で口にした瞬間、その言葉の重さが増した。
織田家が割れる。
それは紙の上で二つの勢力ができるという意味ではない。
清洲で見知った者たちが殺し合うということだ。
景継は拳を握った。
できるなら、そうなる前に止めたい。
だが、止めたいという気持ちだけで止まるほど、乱世は優しくないことも知っている。
「もう一つだけ調べましょう」
「何をです」
「信勝様が、どこまでご自分で決めているのか」
景継は末森の方角を見た。
「そこを間違えれば、打つ手も間違えます」
三日目。
景継は集めた情報を持って清洲へ戻った。
信長の前には佐久間信盛をはじめ、信長側に残る家臣たちが集まっている。
「どうだった」
「戦の準備は進んでいます。ただし、分からないことがあります」
「何だ」
「信勝様ご本人が、どこまで戦うと決めているのかです」
景継は調べた内容を順に説明した。
兵は集まっている。
柴田勝家、林秀貞をはじめ、信勝を支持する有力者もいる。
津々木蔵人は各所へ働きかけている。
だが、兵糧の動きは思ったほど大きくない。
本格的な戦を始めるには、どこかちぐはぐだった。
「つまり?」
信長が尋ねる。
「信勝様の周囲には、戦う準備をしている者がいます」
景継は言葉を選んだ。
「ですが、信勝様自身がすでに兄上と戦う覚悟を決めているのかは、まだ分かりません」
佐久間が眉を寄せる。
「周囲がこれだけ動いておるのにか」
「だからこそ、本人を見なければ分かりません」
「どうやって見る」
景継は一度、息を吐いた。
「私が末森へ行きます」
部屋の空気が変わった。
信長の眉が上がる。
「お前が?」
「はい」
「何をしに」
「話をしに」
佐久間が思わず口を挟んだ。
「危険だ。柴田も林も向こうにおるのだぞ」
「分かっています」
「ならば」
「だからこそです」
景継は信長を見た。
「兵を送れば戦になります。ですが、私一人なら話ができるかもしれない」
もちろん、本当に一人で行くつもりはない。
弥兵衛は連れていく。
それでも軍勢を率いて向かうのとは意味が違う。
信長はしばらく景継を見つめていた。
「何を話す」
「まだ決めていません」
「策もなく行くのか」
「相手が何を考えているのか分からないのに、話すことを全部決めて行けば、聞くべきことを聞けなくなります」
信長の口元が少し上がった。
「怖くないか」
景継は答えるまで少し時間がかかった。
「怖いです」
柴田勝家もいる。
林秀貞もいる。
信勝を担ぎ上げようとする者たちの中へ、自分から入っていく。
怖くないはずがない。
「ですが」
景継は続けた。
「戦が始まってから止めるよりは、今の方がましです」
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて短く告げる。
「行け」
景継は頭を下げた。
「承知しました」
翌朝。
末森へ向かう支度をしていた景継のもとへ、弥兵衛がやってきた。
その顔を見ただけで、何かあったと分かった。
「若様」
「どうしました」
「昨夜、清洲から末森へ向かった者がおります」
景継の手が止まる。
「誰です」
弥兵衛が名を告げた。
景継の表情が変わった。
信勝方の人間ではない。
少なくとも表向きは、信長に従っている家の者だった。
「間違いありませんか」
「二人が見ております」
景継は黙り込んだ。
柴田や林だけではない。
信勝側は、すでに清洲の内側にも手を伸ばしている。
それとも。
最初から信勝側に通じていたのか。
まだ決めつけるな。
景継は自分に言い聞かせた。
分からないことを、分かったことにしてはいけない。
「若様」
弥兵衛が低い声で尋ねる。
「どうなされます」
景継は少し考えた。
そして、用意していた書状を懐へ入れる。
「予定通り、末森へ行きます」
「危険は増しましたぞ」
「分かっています」
「ならば」
「だから行くんです」
景継は立ち上がった。
ここで双方が兵を出せば、もう止められないかもしれない。
兄と弟。
柴田と佐久間。
林と、清洲に残った者たち。
昨日まで同じ織田家にいた者たちが、本当に殺し合うことになる。
そんな戦に勝者などいるのだろうか。
たとえ信長が勝ったとしても、織田家の人間が死ぬ。
信勝が勝っても同じだ。
父の言葉が蘇った。
勝たずともよい。
残れ。
ならば。
まだ誰も槍を突き出していない今なら、残せるものがあるかもしれない。
「行きましょう、弥兵衛」
「……承知しました」
弥兵衛が景継の後ろにつく。
二人は末森へ向かって歩き出した。
この時、信長と信勝の間には、すでに多くの火種が積み上がっていた。
柴田勝家。
林秀貞。
津々木蔵人。
そして、兄を認められぬ者たちと、弟を担ごうとする者たち。
あとは誰かが火をつければ、織田家を二つに割る戦になる。
景継はまだ知らない。
自分がこれから止めようとしている争いが、本来なら多くの血を流すはずだったことを。
ただ一つ分かっているのは、今ならまだ間に合うかもしれないということだけだった。




