第十六話 弟の正義
末森へ向かう道は、清洲へ向かう時とはまるで違って見えた。
景継は馬上から周囲を見ながら、昨日まで集めていた情報を頭の中で並べ直していた。
信勝方が兵を集めている。米は大きく動いていない。津々木蔵人が各家を回っている。さらに、清洲から末森へ通じている者もいる。
どれも戦の匂いはする。
ただし、まだ決定的ではない。
今なら止められるかもしれない。
景継はそう考えていた。
「若様」
隣を進む弥兵衛が声をかける。
「まだお考えですか」
「はい」
「何を」
「最初の一言を」
弥兵衛が少し笑った。
「珍しいですな」
「何がです?」
「若様にも、何を言えばよいか迷う相手がおられるのだなと」
「私はいつも迷っています」
「その割には、よく喋られます」
景継は少し嫌そうな顔をした。
末森へ向かっている理由は、ただ書状を届けるためではない。信長から託された言葉は短かった。
『一度、兄弟で話をしよう』
それだけ。
だが、その言葉をどう受け取るかで意味は大きく変わる。和解の申し出、降伏の勧告、時間稼ぎ、あるいは罠。
信勝がどの意味として受け取るかは、景継にも分からなかった。
「弥兵衛」
「はい」
「信勝様は、どのような方です」
「私も詳しくは存じませぬ」
「噂では?」
弥兵衛は少し考える。
「礼を知る。家臣思い。真面目。兄君とは違い、織田家の当主にふさわしい。そう言う者は多いですな」
「悪い評判は?」
「優しすぎる、と」
「それは悪評ですか?」
「乱世では、時に」
景継は何も言わなかった。
優しい。家臣思い。周囲の声を聞く。
それ自体は悪くない。むしろ主として必要なものだ。
問題は、どこまで聞くか。誰の声を聞くか。そして最後に、自分で決められるか。
景継が知りたいのは、そこだった。
◇◇◇
末森城へ到着すると、景継たちはしばらく待たされた。
当然だった。
信長の近くにいる若者が突然やってきたのだ。警戒されない方がおかしい。
案内役の武士が景継を見る。
「武器を」
「預けます」
景継は素直に刀を渡した。弥兵衛も同じように武器を預ける。
「若様」
弥兵衛が小声で言う。
「素直ですな」
「ここで揉めても意味がありません」
「成長されました」
「昔の私はどのようだったのです」
「五歳で他家と野伏せりをぶつけるような方でした」
景継は黙った。
否定できない。
やがて二人は広間へ通された。
先に待っていたのは数人の武士たちだった。その中に、一人の若い男がいる。
年は信長より少し下。整った顔立ち。落ち着いた装い。派手さはない。
だが、人前に立つことには慣れている。
織田信勝。
景継は頭を下げた。
「林道景継にございます」
信勝はすぐに答える。
「知っている」
景継は少し驚いた。
「私を?」
「兄上のそばに、妙に頭の回る若者がいると聞いている」
景継は少し困った。
噂というものは、本当に厄介だ。
「噂ほどの者ではありません」
「皆、そう言う」
信勝は笑った。
その笑顔は信長とは違う。
相手を緊張させない。自然に話をしやすくする笑い方だった。
景継は思った。
なるほど。
人に好かれる。
◇◇◇
景継は信長からの書状を差し出した。
信勝はその場で開き、黙って読む。
表情は変わらない。
やがて紙を畳んだ。
「兄上が、話をしたいと」
「はい」
「お前はどう思う」
景継は一瞬、言葉を選んだ。
「会われた方がよいと思います」
「なぜ」
「戦えば、人が死ぬからです」
信勝が少しだけ笑う。
「随分と当たり前のことを言う」
「当たり前のことは、忘れやすいので」
信勝の目が少し変わった。
「兄上から聞いていた通りだな」
「何をでしょう」
「子供らしくない」
景継は小さく息を吐く。
「元服しました」
「十三だろう」
「はい」
「十分子供だ」
また言われた。
最近、どこへ行っても同じことを言われる。
「信勝様」
「何だ」
「一つ、お聞きしても?」
「よい」
景継は少し間を置いた。
「本当に、信長様と戦いたいのですか」
部屋の空気が変わった。
周囲の家臣が景継を見る。
その中の一人が声を荒らげる。
「無礼であろう!」
「よい」
信勝が止めた。
そして景継を見る。
「戦いたいわけではない」
「では」
「だが、兄上に任せておけない」
景継は黙って続きを待った。
◇◇◇
「兄上は、織田家を壊す」
信勝は静かに言った。
「父上の頃から仕えてきた家臣を軽んじる。昔からのやり方を馬鹿にする。家臣の言葉を聞かない」
景継はすぐには答えなかった。
間違ってはいない。
少なくとも、そう見える行動を信長は何度もしている。
「だから、信勝様が織田家を守る?」
「そうだ」
「誰から」
信勝の眉がわずかに動いた。
「何?」
「織田家を、誰から守るのです」
「兄上からだ」
「信長様は、織田家を滅ぼそうとしているのでしょうか」
「結果としてそうなる」
「まだ滅びていません」
一人の家臣が景継を睨んだ。
「言葉遊びをするために来たのか」
景継は首を横に振る。
「違います」
そして信勝を見る。
「私は、信勝様が何を恐れているのか知りたいのです」
「儂が?」
「はい」
信勝は笑った。
「兄上が怖いとでも?」
景継は答えなかった。
その沈黙が、かえって答えになった。
信勝の笑みが少し消える。
「本当に無礼な男だな」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら言うな」
「それは難しいです」
少しだけ、信勝が笑った。
◇◇◇
「怖いのかもしれん」
しばらくして信勝が言った。
景継が顔を上げる。
信勝は少し遠くを見るような目をしていた。
「兄上は、何をするか分からない」
「はい」
「皆が当たり前だと思っているものを、平気で壊す」
「はい」
「父上の葬儀ですら、あの振る舞いだった」
景継は何も言わない。
信勝は続けた。
「家臣が不安になるのは当然だろう」
「そう思います」
信勝が景継を見る。
「兄上の側にいるお前が認めるか」
「不安になる理由があることと、信長様が間違っていることは同じではありません」
「では兄上が正しいと?」
「それも分かりません」
信勝が苦笑した。
「お前は、よく分からないと言うな」
「分からないものを分かったと言うと、後で困ります」
「兄上は、お前のそういうところが気に入ったのか」
景継は少し嫌そうな顔をした。
「分かりません」
今度こそ信勝が声を上げて笑った。
その笑いを見ながら、景継は少しだけ困った。
悪い人間には見えない。
むしろ話しやすい。礼もあり、こちらの言葉も聞く。
周囲がこの人を支持したくなる理由が、よく分かる。
だからこそ、厄介だった。
◇◇◇
「信勝様」
景継はもう一度切り出した。
「信長様と会ってください」
信勝の笑みが薄れる。
「話をすれば、何か変わると?」
「分かりません」
「またそれか」
「ですが、話さなければ何も変わりません」
「兄上は儂を信用していない」
「信勝様も信長様を信用していない」
景継は少し前へ身を乗り出した。
「なら、せめて互いに何を考えているか確認するべきです」
「それで兄上が儂に従えと言ったら?」
「断ればよい」
周囲の家臣がざわつく。
信勝も少し驚いたようだった。
「お前は兄上の使者ではないのか」
「はい」
「なら、なぜ儂に従えと言わぬ」
「言って従いますか?」
信勝は答えなかった。
景継は続ける。
「従わないと分かっている相手に、従えと言っても意味がありません」
信勝はしばらく景継を見る。
「お前」
「はい」
「兄上に似てきたな」
その言葉に、景継の表情が止まった。
「……それは」
「嫌そうだな」
「少し」
信勝が笑った。
だが、その隣にいた男だけは笑っていなかった。
津々木蔵人。
信勝に近い人物。
ここ最近、各家を回り、味方を増やしている男だ。
今も景継を見る目には、はっきりと敵意があった。
◇◇◇
「信勝様」
津々木が口を開いた。
「この者の言葉を信じてはなりませぬ」
景継は津々木を見る。
「なぜです」
「お前に聞いておらぬ」
「私の話ですので」
津々木が眉を寄せる。
「兄君は、信勝様を油断させたいだけだ」
「その可能性はあります」
津々木が一瞬黙った。
予想外の返答だったのだろう。
「お前は自分の主を疑うのか」
「私はまだ正式な家臣ではありません」
「そんな話をしているのではない!」
「それに、信長様が何を考えているのか、私にも全部は分かりません」
信勝が興味深そうに二人を見る。
津々木は声を強める。
「ならば、なおさら会う必要はありませぬ。罠かもしれない」
景継は静かに問い返す。
「では、戦えば安全ですか」
「何?」
「信長様と会うのは危険。なら、兵を挙げる方が安全なのでしょうか」
津々木の顔が険しくなる。
「若造が」
「はい」
「戦を知らぬくせに」
景継は少し黙った。
戦を知らない。
この生では、確かにまだ多くは知らない。
だが、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に妙な感覚が生まれた。
見たことがある。
もっと大きな戦。
もっと多くの兵。
何万、何十万という人間。
旗が地平まで続く光景。
一瞬だけ、頭の中に浮かぶ。
だが、すぐに消えた。
「そうかもしれません」
景継は答える。
「だからこそ、戦わずに済むならそうしたいのです」
◇◇◇
信勝はしばらく黙っていた。
景継も急かさなかった。
待つ。
答えを。
やがて信勝が口を開く。
「三日」
「はい?」
「三日、考える」
景継の表情が少し緩んだ。
「分かりました」
「兄上にもそう伝えろ」
「はい」
「ただし、その間に兄上が兵を動かせば、儂も動く」
景継は頷いた。
「お伝えします」
完全な成功ではない。
だが、失敗でもない。
三日という時間を得た。
その間に信長と信勝、両方が動かなければ話し合いができる。
まだ止められる。
景継はそう思った。
◇◇◇
退出する時、信勝が景継を呼び止めた。
「景継」
初めて名前だけで呼ばれた。
景継が振り返る。
「はい」
「もし、お前が兄上の弟だったなら、どうする」
景継は少し考えた。
難しい問いだ。
信勝の立場なら、自分はどうする。
「逃げます」
信勝が目を瞬いた。
「逃げる?」
「はい」
「兄上から?」
「いいえ」
景継は首を横に振る。
「周囲からです」
信勝の表情が変わった。
「どういう意味だ」
「兄を倒せと言う者からも、あなたこそ当主だと言う者からも、一度離れます」
景継は信勝を見る。
「その上で、自分が本当に何をしたいのか考えます」
信勝は何も言わなかった。
「信勝様が戦いたいなら、戦えばよいと思います。ですが、周囲が戦えと言うから戦うのであれば」
景継は一度だけ津々木を見る。
「やめた方がよい」
部屋の空気が冷えた。
景継は頭を下げる。
「失礼いたしました」
そして今度こそ部屋を出た。
◇◇◇
末森城を出てしばらくしてから、弥兵衛が大きく息を吐いた。
「若様」
「はい」
「なぜ最後にあのようなことを」
「言ってはいけませんでしたか」
「津々木殿の顔をご覧になられましたか」
「見ました」
「殺されるかと思いましたぞ」
「私も少し」
「少しではございませぬ」
景継は馬を進めながら末森城を振り返った。
信勝。
思っていたより、ずっと普通の男だった。
いや、普通という言い方は失礼かもしれない。
優しい。
礼を知る。
人の話を聞く。
だからこそ、周囲の声に引っ張られる。
「あの方は、弱くはありません」
景継が言った。
弥兵衛が聞く。
「では?」
「強くなろうとしすぎています」
「どういう意味です」
「自分が兄より上だと証明しようとしている」
弥兵衛は何も言わなかった。
景継は前を見る。
三日。
それまで何も起きなければいい。
ただ、胸の奥には小さな違和感が残っていた。
津々木蔵人。
あの男は、信勝が三日待つことを本当に受け入れるだろうか。
◇◇◇
その夜。
末森城では、信勝が一人で座っていた。
景継の言葉が頭から離れない。
――周囲から逃げます。
誰も、そんなことを言ったことはなかった。
皆、自分こそ正しいと言う。
信長ではなく、あなたが織田家を守るべきだと。
それを自分も信じていた。
いや。
信じようとしていた。
「信勝様」
声がした。
津々木蔵人だった。
「何だ」
「三日も待つ必要はございませぬ」
信勝は眉を寄せる。
「景継には考えると言った」
「若造との約束など」
「約束は約束だ」
津々木は黙った。
そして静かに言う。
「その三日の間に、三郎様が先に動かれたら」
信勝は答えない。
「今なら、まだ勝てます」
その言葉が、信勝の胸に小さな不安を落とした。
今なら。
まだ。
ならば三日後は、どうなる。
景継の言葉と津々木の言葉。
二つが信勝の中でぶつかる。
同じ頃、清洲へ戻る途中の景継はまだ知らなかった。
自分が得たと思った三日という時間が、信勝を落ち着かせるための時間ではなく、別の誰かにとって最後に背中を押すための時間になるかもしれないことを。




