第十七話 三日を待てず
清洲へ戻った頃には、すでに日は落ちていた。
景継は馬を降りると、着替えることも休むこともせず、そのまま信長のもとへ向かった。
部屋へ入ると、信長は一人で酒を飲んでいた。こんな時間まで起きていたところを見ると、景継が戻るのを待っていたのだろう。
「遅かったな」
「信勝様と話していましたので」
「どうだった」
景継は信長の前へ座り、末森で見聞きしたことを順に報告した。
信勝自身は、今すぐ兄と戦いたいわけではない。
だが、信長に織田家を任せることには強い不安を抱いている。
柴田勝家や林秀貞をはじめ、信勝を支持する者はすでに多く、津々木蔵人はさらに味方を増やそうとしている。
そして信勝は、三日間考えると言った。
その間に信長が兵を動かさなければ、兄弟で話し合う余地は残っている。
信長は一度も口を挟まず、すべてを聞き終えてから杯を置いた。
「それだけか」
「もう一つあります」
「何だ」
「津々木蔵人です」
信長の表情が、ほんのわずかに変わった。
「奴がどうした」
「信勝様を戦わせたがっています」
「ああ」
景継は眉を寄せた。
「ご存じだったのですか」
「知らぬと思ったか」
「それなら先に教えてください」
信長は答えず、杯へ酒を注いだ。
まただ。
この二年間で何度も経験している。
信長は知っていることをすべて話さない。必要なものだけを与え、その先で相手が何を見て、何を考えるのかを観察する。
「信長様」
「何だ」
「私は駒ですか」
信長が笑った。
「駒なら、もう少し素直に動け」
「では違うのですね」
「好きに考えろ」
結局、答える気はないらしい。
景継は小さく息を吐き、話を戻した。
「三日です。その間、兵を動かさないでください」
「向こうが動かなければな」
「信勝様も同じことを言っていました」
「なら問題あるまい」
本当にそうだろうか。
末森を出てからずっと、景継の胸には小さな違和感が残っている。
信勝は三日待つと言った。
だが、末森にいるすべての人間が同じように考えているわけではない。
「津々木が勝手に動いた場合は?」
信長の手が一瞬だけ止まった。
景継はそれを見逃さなかった。
「その時は、信勝がどうするかを見る」
「止めないのですか」
「なぜ俺が止める」
「戦になるかもしれません」
「信勝が止めればよい」
「止められなければ?」
信長は杯から目を上げ、景継をまっすぐ見た。
「それまでの男だ」
冷たい。
景継はそう思った。
だが、すぐに否定することもできなかった。
信勝が本当に織田家を率いるつもりなら、自分を支持する家臣すら制御できないようでは、この先も同じことが起こる。
理屈は分かる。
それでも、その理屈を確かめるために人が死ぬことには納得できなかった。
「避けられる戦なら、避けるべきです」
「景継」
信長が杯を置いた。
「お前は、人を死なせたくないのか」
「当然でしょう」
「違う」
信長の声が低くなる。
「俺が聞いているのは、戦になっても一人も死なせたくないのかということだ」
景継は答えられなかった。
一人も死なせない。
そんなことができればいい。
だが、戦になれば人は死ぬ。
では何人なら許せるのか。
十人か。
百人なら仕方がないのか。
千人を犠牲にして一万を救えば、それは正しいのか。
その問いへ触れた瞬間、景継の視界が揺れた。
広大な平原。
地を埋め尽くす兵。
風にはためく無数の旗。
そして、戦が終わった後の地面に横たわる人、人、人。
景継は思わず額へ手を当てた。
「どうした」
「……何でもありません」
「顔色が悪いぞ」
「少し疲れただけです」
嘘だった。
最近、こうしたことが増えている。
見たことがないはずなのに、知っている景色。
聞いたことがないはずなのに、覚えている声。
それが何なのか考えようとすると、いつも霧の向こうへ消えていく。
景継はゆっくり息を吐いた。
今は、それを追う時ではない。
「三日だけ待ってください」
信長はしばらく景継を見ていたが、やがて短く答えた。
「分かった」
それで、その夜の話は終わった。
一日目。
何も起きなかった。
景継は朝から清洲へ入ってくる情報を集め続けたが、末森から兵が出たという知らせはない。信長も約束通り、兵を動かさなかった。
昼を過ぎた頃、景継はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「このまま三日過ぎればよいのですが」
隣にいた弥兵衛が苦笑する。
「若様がそう申されると、何か起きそうで嫌ですな」
「私を何だと思っているのです」
「騒動を呼ぶ御方」
「呼んでいません」
「では、騒動の方から若様を好いておるのでしょう」
反論しようとして、景継は口を閉じた。
思い当たることが多すぎた。
「……嬉しくありませんね」
「私もでございます」
結局、その日が終わっても大きな動きはなかった。
二日目の朝も同じだった。
このままなら。
そんな期待が景継の中に生まれ始めた昼過ぎ、一人の男が清洲城へ駆け込んできた。
末森周辺を探らせていた者だった。
「今朝から、末森方の使いが各地へ走っております」
報告を聞いた景継の表情から、わずかに残っていた安堵が消えた。
「どこへ?」
男がいくつかの地名を挙げる。
景継は頭の中に尾張の地図を広げた。
どれも、信勝を支持する家がある場所だった。
「兵を出せという命ですか」
「そこまでは分かりませぬ。ただ、昨日までとは使いの数が違います」
景継は立ち上がりかけた。
だが、そこで動きを止める。
まだ分からない。
使者が増えた。
それだけだ。
ここで「信勝が約束を破った」と決めつければ、自分も同じ過ちを犯す。
「引き続き調べてください。誰の名で出された使いなのか、それを優先して」
「はっ」
男が去る。
景継はその背中を見送ってから、信長のもとへ向かった。
「動きがありました」
景継が報告すると、信長は驚かなかった。
「そうか」
「末森から各地へ使者が出ています。昨日までとは数が違うそうです」
「信勝の命か」
「分かりません」
「なら、まだ動くな」
景継は唇を結んだ。
「ですが」
「昨日、お前が言ったのではないか。分からぬことを、分かったことにするなと」
返す言葉がなかった。
その通りだ。
自分は焦っている。
信勝を説得できたかもしれないと思った分、それが崩れることを恐れている。
その恐れが、結論を急がせている。
「……調べます」
「そうしろ」
景継が立ち上がる。
その背中へ、信長が声をかけた。
「景継」
「はい」
「焦るな」
意外な言葉に振り返った。
信長は景継を見ていた。
「お前は頭が回る。だから厄介だ」
「褒めていますか?」
「褒めておらん」
即答された。
「頭が回る奴ほど、一度答えを作ると、その答えに合わせて物を見る。自分が間違っているかもしれぬと思いながら考えろ」
景継はしばらく信長を見た。
この男から、そんなことを言われるとは思っていなかった。
「……覚えておきます」
部屋を出た後も、その言葉は残った。
自分が間違っているかもしれないと思いながら考える。
言葉にすれば簡単だ。
だが、自分の策で人を動かす人間にとって、それは何より難しいことなのかもしれない。
夕方。
二つ目の報告が入った。
今度は具体的だった。
末森から、とある家へ兵を出すよう求める使者が来たという。
「誰の名で?」
景継が尋ねる。
「津々木蔵人」
景継はゆっくり目を閉じた。
やはり。
だが、すぐにその考えを打ち消す。
やはり、ではない。
まだ信勝の命かどうか分からない。
「信勝様の名は?」
「出ておりませぬ」
「なら、信勝様が命じたとは決めつけないでください」
そう口にしながらも、胸の奥の嫌な感覚は強くなっていた。
津々木が独断で動いているのか。
信勝の許可を得たうえで動いているのか。
あるいは信勝の周囲で、すでに本人の意思とは関係なく流れが生まれているのか。
一番まずいのは、最後だった。
主が決める前に、家臣たちが戦を始める。
そうなれば、信勝自身が望まなくても引き返せなくなる。
その時だった。
城門の方が騒がしくなった。
何人もの兵が走っている。
景継は近くの一人を呼び止めた。
「何がありました」
「末森から人が!」
「信勝様の使者ですか」
「分かりませぬ。ですが、急ぎ殿へお目通りを願っていると!」
景継はすぐに広間へ向かった。
信長の前には、佐久間信盛をはじめ、清洲に残る家臣たちが集まっていた。
そこへ通された男を見て、景継は眉を寄せる。
末森方の人間だ。
だが、正式な使者には見えない。
息を切らし、衣服も乱れている。誰かに命じられて悠々とやって来たのではなく、自ら急いで清洲まで駆けてきたようだった。
「申し上げます」
男が頭を下げる。
「末森にて、兵が集まり始めております」
信長の表情は変わらない。
「信勝の命か」
男は答えなかった。
「聞こえなかったか」
信長の声が低くなる。
男は覚悟を決めたように顔を上げた。
「信勝様は……まだ、お命じになっておりませぬ」
景継が身を乗り出した。
「では、誰が」
「津々木様が」
やはり。
今度は、その言葉を打ち消さなかった。
「信勝様は止めておられないのですか」
「止めようとなさいました」
「それなのに、なぜ兵が集まるのです」
男の顔が歪んだ。
「皆が申すのです。今を逃せば、三郎様に先に討たれると」
「津々木だけですか」
「いいえ。すでに何人もの方が、信勝様へご決断を迫っております」
景継は言葉を失った。
恐れていた形だった。
信勝自身が戦うと決めたのではない。
だが、周囲が先に走り始めている。
柴田や林がどこまでこの動きに加わっているのかは分からない。
そこも決めつけてはいけない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
一度集まった兵に武器を持たせれば、「やはりやめる」と言うことは急速に難しくなる。
「信勝様は?」
「迷っておられます」
その答えを聞いた瞬間、景継の中で迷いが消えた。
まだ決めていない。
なら。
まだ間に合う。
「もう一度、末森へ行きます」
景継の言葉に、佐久間信盛が顔を上げた。
「正気か」
「はい」
「今度は先ほどとは違うぞ。すでに兵が集まり始めている」
「分かっています」
「捕らえられるかもしれぬ」
「それも分かっています」
佐久間の声が強くなった。
「ならば、なぜ行く!」
景継もすぐには答えなかった。
怖い。
今度は昼間に話をしに行くのとは違う。
末森ではすでに、戦を望む者たちが動き始めている。
自分はその流れを止めようとしている人間だ。
歓迎されるはずがない。
それでも。
「今、清洲から兵を出せば、本当に戦になります」
景継は信長を見る。
「津々木は『信長が攻めてくる。今しかない』と信勝様を急かしている。こちらが兵を出した瞬間、その言葉を清洲自身が証明してしまいます」
「だからお前が行くのか」
信長が尋ねる。
「はい」
「何をしに」
景継は少しだけ考えた。
説得する。
それでは違う気がした。
「確かめに行きます」
「何をだ」
「信勝様ご自身の意思を」
景継は静かに答えた。
「周囲が何を言っているかではなく、信勝様自身が本当に兄と戦いたいのか。それを本人に聞きます」
広間が静まった。
「戦いたくないと言えば?」
「ここへ連れてきます」
「清洲へ?」
「はい」
佐久間が驚いたように景継を見る。
信長だけは表情を変えない。
「来ると思うか」
「分かりません」
信長の口元が少し上がった。
「またそれか」
「分からないものは分かりません」
「では、信勝が戦うと言ったら?」
景継は答えるまで少し時間がかかった。
その時は。
信勝自身が選んだことになる。
もはや、自分が言葉だけで止められる段階ではないのかもしれない。
「戻ります」
「それだけか」
「はい」
景継は拳を握った。
「その時は、私が止められる相手ではありません」
信長はしばらく景継を見ていた。
やがて言った。
「行け」
「殿」
佐久間が声を上げる。
だが信長は止めなかった。
「ただし、夜明けまでだ」
景継が眉を寄せる。
「夜明けまで?」
「それまでに信勝を連れてこい」
「戻らなければ?」
「兵を出す」
淡々とした声だった。
脅しではない。
本当に出す。
景継には分かった。
信長にも、待てる限界がある。
末森で兵が増え続けている以上、いつまでも清洲だけが無防備でいるわけにはいかない。
「……承知しました」
景継は深く頭を下げた。
夜明けまで。
それが最後の猶予だった。
清洲を出る頃には、夜も深くなっていた。
景継と弥兵衛、それに護衛を数人だけ連れていく。
大勢を連れていけば、その姿を見ただけで末森側が「清洲が攻めてきた」と騒ぎかねない。
暗い道を馬で駆ける。
冷たい夜風が頬を打った。
「若様!」
馬蹄の音に負けないよう、弥兵衛が声を張る。
「何です!」
「本当に信勝様を連れてこられると思っておられますか!」
景継は前を向いたまま答えた。
「分かりません!」
「では、なぜ行くのです!」
景継は手綱を握る手に力を込めた。
なぜ。
自分でも考える。
成功する確信などない。
むしろ失敗する可能性の方が高いかもしれない。
だが、ここで何もしなければ、夜明けには信長が兵を出す。
そうなれば末森も動く。
ならば、まだ言葉が届く可能性が残っているうちに動くしかない。
「これが一番、人が死なずに済む可能性があるからです!」
弥兵衛はそれ以上何も言わなかった。
景継も前だけを見る。
その時、不意に頭の奥で声がした。
十に一つの勝ちしかない策を、勝ち筋とは呼ばぬ。
景継の眉が寄った。
誰の言葉だ。
いや。
誰かに言われたのではない。
自分が。
遠い昔。
誰かにそう言ったような気がする。
ならば、今の自分は何をしている。
十に一つかもしれない道へ、自分から馬を走らせている。
以前の自分なら、そんな策を選んだだろうか。
分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
今の景継には、数字ではなく顔が浮かぶ。
信長。
信勝。
柴田。
林。
佐久間。
そして、その下で槍を持つ名も知らぬ兵たち。
勝てるかどうかだけでは決められなかった。
「急ぎましょう!」
景継が馬を速める。
夜明けまでに信勝を連れ出す。
今は、それだけを考えた。
同じ頃。
末森城の広間には、多くの家臣が集まっていた。
上座の信勝を囲むように、いくつもの声が飛び交っている。
「今しかございませぬ!」
津々木蔵人が声を張った。
「三郎様が兵を整えてからでは遅いのです!」
別の場所からも声が上がる。
「信勝様こそ、織田家を守るにふさわしい!」
「我らがお支えいたします!」
「ご決断を!」
その中には、信勝を心から案じる者もいる。
信長では織田家が危ういと、本気で信じている者もいる。
ただ功を立てたい者もいるかもしれない。
同じ「信勝を支持する」という声でも、その胸の内まで同じではない。
信勝は膝の上で拳を握っていた。
昼間の景継の言葉が、何度も蘇る。
周囲から離れて、自分が本当に何をしたいのか考える。
あの時は奇妙なことを言うと思った。
だが今なら、少し分かる。
皆が自分のために声を上げている。
皆が自分こそ正しいと言ってくれる。
だからこそ。
自分の声が聞こえない。
「信勝様」
津々木が前へ出た。
「ご決断を」
信勝は顔を上げた。
これだけの者が集まっている。
自分を信じて。
自分を主と仰いで。
ここで「やめる」と言えば、この者たちを裏切ることになるのではないか。
ならば。
戦うべきなのか。
兄を討つべきなのか。
信勝が口を開きかけた。
その時だった。
廊下の向こうが騒がしくなる。
「何事だ!」
津々木が振り返る。
一人の兵が広間へ駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ!」
「清洲より使者が参っております!」
信勝の表情が変わった。
津々木がすぐに尋ねる。
「誰だ」
兵は一度息を整えた。
「林道景継にございます」
広間が静まり返った。
信勝は何も言わない。
その中で、津々木だけが明らかに表情を変えた。
「通すな」
信勝が津々木を見る。
「何?」
「信勝様。今、あの者を入れてはなりませぬ」
「なぜだ」
「三郎様の間者にございます」
「昨日も同じ男だった」
「昨日とは状況が違います!」
津々木の声が広間に響いた。
信勝は黙って、その顔を見つめた。
昨日、景継が言った言葉が蘇る。
周囲から離れろ。
自分が本当に何をしたいのか考えろ。
そして今。
自分が景継と話すことを、津々木は必死になって止めようとしている。
その瞬間。
信勝の中に、初めて別の疑問が生まれた。
なぜだ。
なぜ、この男は。
自分が景継の話を聞くことを、これほど恐れている。
門の外には景継がいる。
広間では、戦を求める声が渦巻いている。
そして東の空が白み始めれば、清洲からも兵が出る。
兄と弟が言葉で決着をつけられる時間は、もうほとんど残されていなかった。




