第十八話 夜明けまでの答え
末森城の門前で、景継は馬を降りた。
夜は深く、空には薄い雲がかかっている。月明かりも弱く、城の輪郭は闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
門の向こうには、普段より明らかに多くの兵の気配がある。槍を持つ者、弓を抱える者、まだ完全な戦装束ではない者まで、皆が落ち着かない様子で動いていた。
景継には、その空気に覚えがあった。
戦が始まる直前の空気だ。
「若様」
隣に立った弥兵衛が、小さな声で言った。
「これは、かなりまずうございますな」
「分かっています」
「なら、今からでも帰りませんか」
「帰ったら、もっとまずくなります」
弥兵衛は大きく息を吐いた。
「そう言われると思いました」
景継は門番へ向き直った。
「林道景継です。信勝様にお取り次ぎをお願いします」
門番はすぐには動かなかった。
景継の顔を見て、次に弥兵衛を見る。
そして、少し考えてから答えた。
「お待ちください」
そう言い残して、城内へ消えていった。
景継は黙って待った。
だが、本当は一刻も無駄にはできない。
信長から与えられた猶予は夜明けまで。それまでに信勝を清洲へ連れて戻ることができなければ、信長は兵を動かすと言った。
その瞬間、話し合いで済ませる道はほとんど閉ざされる。
しばらくして門番が戻ってきた。
「お入りください」
景継はわずかに肩の力を抜いた。
少なくとも、信勝は会うことを選んだ。
それだけでも、まだ完全に手遅れではない。
◇◇◇
広間へ通された景継は、すぐに昨日とは違う空気を感じ取った。
信勝の周囲には、多くの家臣が集まっている。その数は明らかに増えていた。
そして、その中心には津々木蔵人がいる。
信勝は上座に座り、景継を見ていた。
昨日より疲れて見える。
目の下には、わずかに影があった。
「また来たか」
「はい。夜分に申し訳ありません」
景継は頭を下げた。
すると津々木がすぐに口を挟んだ。
「今さら何の用だ」
景継は津々木へ視線を向けた。
「信勝様にお話があります」
「昨日、話しただろう」
「あなたではありません」
津々木の眉が大きく動いた。
「若造が」
「津々木」
信勝が止めた。
広間が静かになる。
信勝は景継を見る。
「何をしに来た」
「答えを聞きに来ました」
「三日はまだ終わっておらぬ」
「そうですね」
「ならば、明日でもよかろう」
景継は首を横に振った。
「もう待てません」
信勝の目が少し細くなる。
「なぜだ」
「兵が集まっているからです」
信勝は何も言わない。
景継は続けた。
「津々木殿の名で、各家へ兵を出すよう使いが走っています」
信勝がゆっくりと津々木を見る。
津々木の表情は変わらない。
「信勝様」
景継は信勝へ視線を戻した。
「これは、あなたのご命令ですか」
広間が静まり返った。
津々木が口を開こうとする。
景継は構わず続けた。
「信勝様ご自身が、兵を集めよと命じられたのですか」
信勝は答えなかった。
景継も急かさない。
やがて信勝が小さく言った。
「違う」
津々木の顔が変わった。
「信勝様!」
「儂は、まだ兵を挙げよとは命じておらぬ」
津々木が立ち上がった。
「しかし!」
「座れ」
信勝の声が低くなる。
津々木は一瞬ためらったが、ゆっくり腰を下ろした。
景継はそのやり取りを見ながら考えた。
まだ間に合う。
少なくとも信勝自身は、戦うと決めていない。
◇◇◇
「信勝様」
景継は静かに言った。
「今なら、まだ止められます」
「簡単に言うな」
信勝は苦笑した。
「これだけの者が集まっている。皆、儂のために来た者たちだ」
「本当に、信勝様のためでしょうか」
信勝の表情が変わった。
景継は周囲の家臣たちへ一度だけ目を向けた。
「信勝様のために来た者もいるでしょう。ですが、自分が信長様の下では生きにくいから、こちらへ来た者もいるのではありませんか」
何人かの家臣が顔をしかめた。
津々木が声を荒らげる。
「無礼であろう!」
「無礼なのは承知しています」
景継は信勝から目を離さなかった。
「ですが、今ここで確かめなければならないことがあります」
「何だ」
信勝が聞く。
景継は一度、息を吐いた。
「あなたは本当に、兄君を殺したいのですか」
広間の空気が止まった。
誰も動かない。
津々木が何か言おうとしたが、今度は信勝が先に言った。
「黙れ」
津々木の口が止まる。
信勝は景継だけを見ていた。
「殺したいわけではない」
「なら、なぜ戦うのです」
「兄上では、織田家が危ういからだ」
「それは昨日聞きました」
「なら分かるだろう」
「分かりません」
景継ははっきり答えた。
信勝の眉が動く。
「織田家を守るために、織田家を二つに割る。昨日まで同じ家中にいた者同士を殺し合わせる。それで織田家を守ったと言えるのでしょうか」
信勝は答えなかった。
そこで津々木が声を上げる。
「三郎様を倒せば一つになる!」
景継は初めて、はっきりと津々木へ身体を向けた。
「本当にそうでしょうか」
「何?」
「信長様を倒せば、それで終わるのですか」
「当然だ」
「では、信長様を支持していた者たちは全員おとなしく信勝様へ従うのでしょうか。兄君の仇を討つと言い出す者は一人もいない?」
津々木が黙った。
景継はさらに続けた。
「信勝様側でも同じです。誰が一番功を立てたか、誰が一番多く領地を得るべきか、それで争わないと言い切れますか」
誰も答えない。
「信長様を倒した後、次は誰が敵になるのです」
広間は静まり返った。
景継は信勝を見る。
「戦は、始めることより終わらせることの方が難しい。私はそう思います」
信勝の表情がわずかに変わった。
◇◇◇
長い沈黙が続いた。
やがて津々木が再び立ち上がった。
「信勝様、この者の言葉に惑わされてはなりませぬ!」
景継は落ち着いたまま津々木を見る。
「惑わしているつもりはありません」
「黙れ!」
津々木は景継を指差した。
「この者を見よ! 三郎様のそばに二年もいる男だ!」
「まだ正式な家臣ではありません」
「それが何だ!」
津々木の声が広間に響く。
「三郎様は、この者を使って信勝様を弱気にさせようとしているのです!」
景継は少し考えた。
「その可能性はあります」
津々木が一瞬、言葉を失う。
信勝も景継を見る。
「お前は、自分が兄上の策かもしれないと認めるのか」
「はい」
「なら、なぜ来た」
「私自身が来たかったからです」
「兄上の命では?」
「信長様からは、夜明けまでに信勝様を連れて戻れと言われています」
広間がざわついた。
信勝の顔が変わる。
「連れて戻れ?」
「はい」
「断ればどうなる」
景継は隠さず答えた。
「夜明けに兵を出すそうです」
津々木が勢いよく言った。
「見ろ! やはり脅しではないか!」
景継はすぐに首を横に振った。
「だから、その前に来たのです」
信勝が黙る。
景継は続けた。
「信長様はもう、戦う覚悟をしています。ですが、信勝様はどうですか」
信勝はすぐには答えられなかった。
その沈黙を見て、景継は確信した。
やはりこの人は、まだ戦うと決めていない。
◇◇◇
「景継」
信勝が呼んだ。
「はい」
「昨日、お前は言ったな。自分が儂の立場なら、周囲から逃げると」
景継は頷いた。
「はい」
「もし今、儂が逃げたら、この者たちはどうなる」
信勝は家臣たちを見る。
ここに集まった者たちは、信勝を支持し、信長に反発し、すでに兵を集め始めている。
信勝だけが清洲へ行けば、見捨てられたと思う者もいるだろう。
景継も少し考えた。
「一緒に逃げればよいと思います」
信勝が目を瞬いた。
「何?」
「全員で、です」
広間がざわつく。
景継は続ける。
「信長様と戦いたくない者は武器を置けばいい。戦いたい者だけが残れば、少なくとも誰が本当に戦を望んでいるのか分かります」
「そんなことを兄上が許すと思うか」
「分かりません」
信勝が苦笑する。
「またそれか」
「ですから、私も一緒に行きます」
信勝の目が変わった。
「どういうことだ」
「信勝様だけを清洲へ連れていけば、捕らえるためだと思われます。なら私も信勝様側に立ちます」
津々木が眉を寄せた。
景継は信勝を見る。
「もし清洲へ行って、信長様があなたを殺そうとするなら、私も止めます」
広間が完全に静かになった。
「お前が?」
「はい」
「兄上に逆らうのか」
「必要なら」
景継自身、その答えが自然に出たことに少し驚いていた。
だが嘘ではない。
自分はまだ、信長の家臣になるとは言っていない。
そしてこの戦を止めるために信勝を連れて行くなら、最後まで責任を持つべきだと思った。
「なぜそこまで」
信勝が聞く。
景継は少し考えて答えた。
「人が死ぬからです」
「それだけか」
「それだけでは足りませんか」
信勝は何も言えなかった。
◇◇◇
その時、津々木が立ち上がった。
「もうよい!」
腰の刀へ手を伸ばす。
弥兵衛が即座に景継の前へ出た。
周囲の兵も一斉に動く。
「津々木!」
信勝が怒鳴った。
だが津々木は止まらない。
「信勝様! この若造をここで帰せば、すべて三郎様へ筒抜けになります!」
「刀から手を離せ!」
「今しかございませぬ!」
景継は津々木の顔を見た。
その目には怒りだけではなく、恐怖がある。
自分を恐れているのではない。
戦が止まることを恐れている。
そのことに気づいた瞬間、景継の中で一つの疑問が形になった。
「津々木殿」
「何だ」
「なぜ、それほど戦いたいのです」
「黙れ」
「信勝様が戦わなくても、あなた自身が困らないのであれば、ここまで焦る必要はありません」
津々木の顔が、ほんの一瞬だけ変わった。
景継は見逃さない。
「信長様が当主のままだと、あなたに何か不都合があるのではありませんか」
「黙れ!」
津々木が刀を抜いた。
弥兵衛も動く。
だが、その前に信勝の声が響いた。
「やめよ!」
津々木の動きが止まった。
信勝は立ち上がっている。
先ほどまで迷っていた男とは思えない表情だった。
「刀を納めよ」
「信勝様!」
「二度言わせるな」
津々木は信勝を見る。
そして、ゆっくりと刀を納めた。
◇◇◇
信勝は立ったまま、広間にいる家臣たちを一人ずつ見た。
誰も声を出さない。
しばらくして、信勝が口を開いた。
「儂は、兄上を殺したくはない」
津々木が顔を上げる。
「信勝様!」
「だが、兄上に従うと決めたわけでもない」
景継は何も言わず続きを待った。
「だから、会う」
景継の表情が少しだけ緩んだ。
「清洲へ?」
「ああ」
津々木が立ち上がりかける。
「なりませぬ!」
信勝が睨んだ。
「今度こそ黙れ」
津々木は動けなくなった。
信勝は続ける。
「兄上と話す。それでも駄目なら、その時は儂自身が戦うかどうかを決める」
景継は小さく頷いた。
それでいい。
周囲に決めさせるのではなく、自分で決める。
その一点だけでも、昨日までとは違っていた。
◇◇◇
「出立はいつにしますか」
景継が聞く。
「今だ」
「今ですか?」
「夜明けまでなのだろう」
「はい」
「なら急ぐ」
信勝は供を少数にすると決め、すぐに準備を命じ始めた。
景継もようやく肩の力を抜きかけた。
間に合った。
そう思った、その時だった。
一人の兵が広間へ駆け込んできた。
「申し上げます!」
信勝が振り返る。
「何だ」
兵は息を切らしていた。
「清洲方の兵が、すでにこちらへ向かっております!」
景継の表情が変わった。
「誰の兵です」
兵が名前を答えた。
景継はすぐに違和感を覚えた。
信長ではない。
信長は夜明けまで待つと言った。
まだ夜は明けていない。
清洲側にも、待てない者がいたということになる。
信勝が景継を見る。
「話が違うぞ」
「はい。私もそう思います」
広間がざわつく。
その中で、津々木の口元がほんの少しだけ上がった。
景継はそれを見逃さなかった。
そして、嫌な予感が一気に膨らんだ。
もしかすると津々木は、最初からこれを待っていたのではないか。
信勝が清洲へ向かおうとする直前に、清洲側の兵が動く。そうすれば「信長は最初から騙すつもりだった」と思わせることができる。
景継は頭の中で急速に情報を組み立て始めた。
誰が、何のために、夜明けを待たず兵を動かしたのか。
そして、その情報がなぜこれほど早く末森へ届いたのか。
景継は津々木を見る。
津々木も景継を見ていた。
二人の視線が重なった瞬間、景継は一つだけ確信した。
この戦は、兄弟二人だけの問題ではない。
誰かが二人を戦わせようとしている。




