第十八話 夜明けまでの答え
末森城の門前で、景継は馬を降りた。
夜は深く、薄雲に遮られた月明かりでは城の輪郭さえぼんやりとしている。だが門の向こうでは、槍を持つ者や弓を抱えた者が慌ただしく行き交っていた。
まだ軍勢として整ってはいない。
それでも景継には分かる。
戦が始まる前の城だ。
「若様」
隣で馬を降りた弥兵衛が、門の向こうを見た。
「これは、かなりまずうございますな」
「分かっています」
「ならば帰りませんか」
「帰った方が、もっとまずくなります」
弥兵衛はため息をついた。
「そう申されると思いました」
景継は門番へ向き直った。
「林道景継です。信勝様にお取り次ぎをお願いします」
門番は景継たちが少人数であることを確かめてから、城内へ消えた。
信長が待つと言ったのは夜明けまで。それまでに信勝を清洲へ連れて戻れなければ、兵を出す。
清洲が動けば末森も動く。
そうなれば、昨日まで同じ織田家にいた者たちが殺し合う。
しばらくして門番が戻った。
「お入りください」
景継は小さく息を吐いた。
少なくとも、信勝は会うことを選んだ。
広間へ入ると、昨日とは明らかに空気が違った。
信勝の周囲には多くの武士が集まっている。
その中に、柴田勝家と林秀貞の姿もあった。
柴田は腕を組んで険しい顔をし、林も黙ったまま景継を見ている。そして信勝のすぐ近くには津々木蔵人が座っていた。
信勝自身も昨日より疲れて見えた。
「また来たか」
「はい。夜分に申し訳ありません」
景継が頭を下げると、津々木がすぐに口を挟んだ。
「昨日話したばかりであろう。今さら何の用だ」
「信勝様にお話があります」
「若造が」
「津々木」
信勝が制した。
「何をしに来た」
「答えを聞きに参りました」
「三日はまだ終わっておらぬ」
「ですが、もう待てなくなりました」
信勝の目が細くなる。
「なぜだ」
「兵が集まり始めています」
広間の空気が変わった。
「津々木殿の名で、各家へ兵を出すよう使者が走っていると聞きました」
信勝が津々木を見る。
景継は続けた。
「信勝様。これは、あなたのご命令ですか」
沈黙の後、信勝が答えた。
「……違う。儂はまだ、兵を挙げよとは命じておらぬ」
「信勝様!」
「座れ、津々木」
「しかし」
「座れと言った」
津々木は唇を結び、腰を下ろした。
景継はその様子を見て、わずかに胸を撫で下ろした。
まだ間に合う。
信勝自身は、戦うと決めていない。
「今なら止められます」
景継が言うと、信勝は苦い顔をした。
「簡単に言うな。これだけの者が、儂を支持して集まっているのだ」
「それは分かっています」
景継は柴田や林を含め、広間を見渡した。
「信勝様を案じている方も、信長様では織田家が危ういと本気で考えている方もいるでしょう。ですが、ここにいる全員が同じ理由で集まったとは限りません」
何人かの表情が強張った。
「織田家を守りたい者もいれば、信長様を嫌う者もいる。今のままでは自分の立場が危うい者もいるかもしれません」
「無礼であろう!」
津々木が声を荒らげる。
「承知しています」
景継は信勝だけを見た。
「それでも、一つだけ確かめたいのです」
「何だ」
「信勝様は、本当に兄君を殺したいのですか」
広間が静まり返った。
信勝はしばらく答えなかった。
「……殺したいわけではない」
「なら、なぜ戦うのです」
「兄上では、織田家が危ういからだ」
「その織田家を守るために、織田家を二つに割るのですか」
信勝の表情が固まった。
「昨日まで同じ家中にいた者同士が殺し合う。たとえ信勝様が勝っても、信長様を支持していた者たちが全員素直に従うとは限りません」
「三郎様を倒せば終わる!」
津々木が言った。
景継は首を横に振る。
「本当に終わるでしょうか。兄君の仇を討とうとする者は? 戦の後、功や領地を巡って争う者は?」
誰も答えなかった。
景継は柴田へ目を向けた。
「柴田殿。戦になれば、勝った後すぐに尾張は一つになりますか」
柴田は険しい顔のまま考え、やがて答えた。
「……そう簡単にはいくまい。遺恨は残る」
「柴田殿!」
「聞かれたことに答えただけだ」
景継は小さく頷いた。
「だから私は、始まる前に止めたいのです」
勝者が決まれば終わるわけではない。
死んだ者は戻らず、残された者の恨みも消えない。
「戦は、始めることより終わらせることの方が難しい。私はそう思います」
しばらく沈黙が続いた。
やがて津々木が立ち上がった。
「信勝様、この者の言葉に惑わされてはなりませぬ! 二年も三郎様のそばにいる男ですぞ!」
景継は津々木を見た。
「信長様が私を使っている可能性はあります」
津々木が言葉を失う。
信勝も眉を寄せた。
「それを認めるのか」
「信長様の考えを、私はすべて知っているわけではありません」
「なら、なぜ来た」
「私自身が来ると決めたからです」
景継は続けた。
「信長様からは、夜明けまでに信勝様を連れて戻れと言われています」
広間がざわめいた。
「断れば?」
「夜明けになれば兵を出すそうです」
「見ろ!」
津々木が声を上げる。
「やはり脅しではないか!」
「だから、その前に来たのです」
景継は信勝を見た。
「信長様は戦う覚悟をしています。ですが、信勝様はどうですか」
信勝は答えない。
それで十分だった。
まだ決めていない。
「景継」
信勝が静かに言った。
「儂一人が清洲へ行けば、ここに集まった者たちはどうなる。儂を信じて来た柴田や林を置いて、自分だけ兄上のもとへ行けというのか」
景継は少し考えた。
確かに信勝だけを連れていけば、残された者は見捨てられたと思うかもしれない。
「ならば、柴田殿と林殿も一緒に来てください」
二人の表情が変わった。
林が口を開く。
「清洲へ入ったところを捕らえるつもりではあるまいな」
「その心配があるのは分かります。ですから私も一緒に行きます」
「それが何になる」
「もし信長様が話し合いではなく、信勝様方を捕らえるつもりだったなら、私も止めます」
信勝が景継を見つめた。
「兄上に逆らってでもか」
景継は一瞬だけ迷った。
「必要なら」
自分でも驚くほど、言葉は素直に出た。
「私が信勝様を連れていくのなら、その後まで責任を持つべきです」
「なぜそこまでする」
「ここにいる方々が、明日には殺し合っているかもしれないからです」
景継は柴田と林を見る。
清洲では何度も顔を合わせている。
佐久間信盛もそうだ。
昨日まで同じ場所にいた者たちが、明日には互いの首を狙う。
そう考えると、胸の奥に重いものが沈んだ。
「避けられるのなら、私は避けたい。それだけです」
「もうよい!」
津々木が立ち上がり、刀へ手を伸ばした。
弥兵衛がすぐ景継の前へ出る。
「津々木!」
信勝が声を上げた。
「この者を帰せば、末森の内情はすべて三郎様へ伝わります!」
景継は津々木の顔を見た。
怒っている。
だが、それ以上に焦っている。
「津々木殿」
「何だ」
「なぜ、それほど戦を急ぐのです」
「黙れ」
「信勝様はまだ戦うと決めていない。それなのに、あなたは兵を集めている」
「信勝様のためだ!」
「信勝様が戦わなければ、あなたに何か不都合でもあるのですか」
津々木の表情が一瞬だけ変わった。
「黙れ!」
刀が抜かれる。
弥兵衛も動いた。
その前に、信勝が立ち上がった。
「やめよ!」
広間に声が響く。
「刀を納めよ、津々木」
「信勝様!」
「二度言わせるな」
津々木は信勝を睨むように見つめた後、ゆっくり刀を納めた。
信勝は広間にいる者たちを見渡した。
「儂は、兄上を殺したくはない」
誰も口を挟まない。
「だが、兄上に従うと決めたわけでもない。だから会う。兄上と話した上で、それでも任せられぬと思うなら、その時は儂自身が決める」
景継は小さく頷いた。
それでいい。
周囲に押されるのではなく、自分で決める。
「柴田、林。共に来い」
二人は顔を見合わせた後、頭を下げた。
「承知いたしました」
ようやく道が開いた。
信長と信勝。
そして両者を支える者たちが、同じ場所で話せる。
景継の胸から、少しだけ重みが消えた。
「出立は?」
「今だ」
信勝はすぐに供を選び、準備を命じた。
間に合った。
景継がそう思った、その時だった。
一人の兵が広間へ駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「清洲方の兵が、すでにこちらへ向かっております!」
景継の表情が変わった。
「誰の兵です」
兵が名を告げる。
信長ではない。
まだ夜明け前だ。
信長は待つと言った。
信勝が景継を見る。
「話が違うぞ」
「……はい。私もそう思います」
広間が一気にざわめく。
「やはり三郎様は我らを討つつもりだったのだ!」
「清洲へなど行けぬ!」
景継は必死に考えた。
信長が約束を破ったとは思えない。
ならば、誰が勝手に兵を動かした。
その時、津々木の口元がわずかに上がった。
景継は見逃さなかった。
だが、すぐに自分を戒める。
決めつけるな。
信長に言われたばかりだ。
それでも疑問は残る。
なぜ津々木は驚かない。
なぜ清洲の兵が動いたという知らせが、これほど早く末森へ届いた。
「信勝様」
「何だ」
「まだ清洲へ向かうのをやめないでください」
「兵が来ているのだぞ」
「だから確かめます。本当に信長様の命なのか」
柴田が眉を寄せた。
「まさか、向かってくる兵のところへ行くつもりか」
「はい」
「お主、死ぬぞ」
景継も怖くないわけではない。
だが、ここで末森まで兵を出せば、もう止められない。
「清洲から来る兵を止めます。信長様の命でなければ、まだ間に合います」
「もし兄上の命なら?」
信勝の問いに、景継は少し黙った。
「その時は、私も清洲へは戻りません」
信勝が目を見開く。
弥兵衛が横から景継を見た。
「若様、それは初耳ですが」
「今、決めました」
「でしょうな」
景継は信勝へ頭を下げる。
「ここで待っていてください」
「どれほどだ」
東の空はまだ暗い。
だが、残された時間はもう長くない。
「夜が明ける前に戻ります」
景継は広間を出た。
弥兵衛も何も言わず後を追う。
城外へ出ると、二人はすぐ馬へ飛び乗った。
目指すのは清洲ではない。
こちらへ向かっている兵だ。
夜道を駆けていると、やがて暗闇の向こうにいくつもの松明が浮かんだ。
一つ、二つではない。
兵の列だった。
「若様」
「見えています」
景継は手綱を強く握った。
あの兵と末森から出た兵がぶつかれば、もう言葉では止められない。
「急ぎます!」
馬の腹を蹴る。
弥兵衛たちも続いた。
昨日まで同じ家中にいた者たちが、互いに槍を向けようとしている。
まだ誰も戦っていない。
まだ誰も死んでいない。
ならば、止めるなら今しかない。
景継は二つの織田がぶつかろうとしている、その間へ馬を走らせた。
夜明けまで、あとわずかだった。




