第十九話 戦を望む者
「清洲方の兵が、すでにこちらへ向かっております!」
その報告を聞いた瞬間、末森城の広間が騒然となった。
つい先ほどまで、信勝は清洲へ向かうつもりだった。それが一転して、信長側の兵が末森へ近づいているという。
「やはり罠だったのだ!」
「三郎様は最初から信勝様を討つおつもりだった!」
「こちらも兵を出すべきです!」
声が重なっていく。
景継はその中で、一人だけ妙に落ち着いている男を見ていた。
津々木蔵人。
だが、まだ決めつけてはいけない。
景継は報告に来た兵へ向き直った。
「一つ確認させてください。その兵を、あなた自身が見たのですか」
兵が一瞬黙った。
「……いえ。物見からの知らせにございます」
「その物見は?」
「城外に」
「連れてきてください」
「その必要はない」
津々木が口を挟んだ。
景継はゆっくり振り返る。
「なぜです?」
「敵が迫っているのだぞ。一刻を争う」
「だから確認するのです。本当に敵が迫っているのかを」
「何を悠長な」
「兵の数も、誰が率いているかも、どこへ向かっているかも分かっていません」
景継は信勝を見る。
「信勝様。兵を出すのは、それを確かめてからでも遅くありません」
信勝はしばらく考えた後、報告に来た兵へ命じた。
「物見を連れてこい」
「はっ」
男が広間を出ていく。
津々木は何も言わなかった。
だが、その手が強く握られたことを景継は見ていた。
物見を待つ間、景継は頭の中で状況を整理した。
信長は夜明けまで待つと言った。
もちろん、嘘だった可能性はある。
だが最初から兵を動かすつもりなら、自分を末森へ送って信勝を説得させる意味が薄い。
ならば、信長の家臣が独断で動いたのか。
それも十分にあり得る。
清洲のすべての人間が、信長と同じ考えを持っているわけではない。
そして、もう一つ。
そもそも兵が迫っているという話そのものが、正しくない可能性もある。
「若様」
後ろに控えていた弥兵衛が小声で呼んだ。
「本当に清洲の兵が来ていたら、どうなさいます」
「まず数と指揮官を確かめます」
「末森へ向かっていれば敵でしょう」
「それだけでは分かりません。信長様の命令で動いているとも限りませんから」
弥兵衛は難しい顔をした。
「戦とは面倒なものですな」
「だから嫌なのです」
「若様はお好きなのかと思っておりました」
「なぜです?」
「城を見るたび、どこから攻めるか考えておられるので」
景継は返事に困った。
確かにそうだった。
城を見れば攻め方を考え、川を見れば渡れる場所を探し、道を見れば何人の兵を通せるか考える。
誰かに教わった覚えはない。
それなのに、昔から自然にそうしていた。
やがて、一人の男が広間へ連れてこられた。
「お前が清洲方の兵を見たのか」
信勝が尋ねる。
「はい」
景継も男を見る。
「どこで見ました?」
男が場所を答える。
末森から、それほど離れていない。
「何人ほどいました」
「およそ三百」
広間がざわついた。
三百なら無視できる数ではない。
「旗は?」
「暗く、よく見えませなんだ」
「誰が率いていました?」
「分かりませぬ」
景継は少し考えた。
「旗も指揮官も見えなかったのに、三百という数は分かったのですか」
男の顔が強張る。
「足音と松明の数で」
「松明はいくつありました」
男は答えなかった。
景継は確信に近いものを感じた。
「三百という数字は、誰かから聞いたのですね」
男の額に汗が浮かぶ。
「答えよ」
信勝の声が低くなった。
男は俯いた。
「……津々木様の配下の方から」
広間の空気が変わった。
全員の視線が津々木へ向く。
「どういうことだ」
信勝が尋ねた。
津々木は表情を崩さない。
「別の物見から聞いたのでございましょう」
「その物見はどこだ」
「存じませぬ」
景継は黙って津々木を見る。
証拠はない。
だが、疑う理由は増えた。
「津々木殿」
「何だ」
「先ほど、確認する必要はないとおっしゃいましたね」
「敵が迫っているからだ」
「ならばなおさら、数と進路を確かめるべきでは?」
津々木が景継を睨む。
「戦場では、そのような暇がないこともある」
「今はあります」
短く返すと、津々木の表情から少しだけ余裕が消えた。
信勝もそれを見ていた。
「もう一度、物見を出す」
「信勝様!」
「今度は儂が選んだ者を出す」
信勝の声に、昨日までの迷いはなかった。
「儂はまだ、兄上と戦うとは決めておらぬ」
津々木は何も言えなかった。
新たな物見が出ている間、景継は弥兵衛に命じ、清洲へ使者を走らせた。
信勝には清洲へ向かう意思があること。
だが清洲方の兵が動いたという情報が入り、現在確認していること。
そして、もう少しだけ兵を動かさず待ってほしいこと。
それだけを信長へ伝えさせた。
夜明けは近い。
信長との約束には、もう間に合わないかもしれない。
それでも、今は双方に兵を動かさせないことが最優先だった。
やがて新しい物見が戻ってきた。
「清洲方と思われる一団は、確かにおります」
広間がざわめく。
津々木が景継を見る。
だが報告は続いた。
「数は?」
信勝が尋ねる。
「五十ほど。多くとも六十には届かぬかと」
「五十?」
先ほどの三百とはまるで違う。
「誰が率いている」
「暗く、はっきりとは。ただ、清洲方の者であることは間違いないかと」
景継が続けて聞いた。
「末森へ向かっているのですか」
「いえ。街道の途中で止まっております」
広間が静かになった。
三百の軍勢が攻めてくる。
その話が、わずか五十ほどの一団が街道に留まっているという話へ変わった。
景継は津々木を見る。
「三百ではありませんでしたね」
「五十でも兵は兵だ!」
「はい。ですから、その五十人がなぜそこにいるのかは確かめます」
津々木が一瞬、勢いを取り戻す。
「ならば迎え撃つべきだ!」
「その前に」
景継は遮った。
「誰が五十を三百にしたのかも、確かめなければなりません」
津々木の顔が固まった。
その時、城外から激しい馬蹄の音が聞こえた。
ほどなく、一人の男が広間へ通される。
清洲からの使者だった。
「信長様からですか」
景継が尋ねる。
「はい」
使者は一通の書状を取り出した。
「信勝様へ直接お渡しせよとのことです」
信勝が受け取り、その場で開く。
短い書状だったらしい。
読み終えた信勝が顔を上げた。
「兄上は兵を出しておらぬ」
広間が再びざわめいた。
景継が使者へ聞く。
「では、街道にいる兵は?」
「殿も把握されておりませんでした。清洲方の一部が独断で動いた可能性があるため、現在確認しております」
景継は息を吐いた。
やはり信長の命ではなかった。
だが、安心はできない。
末森では、信勝が命じる前に津々木が兵を集めた。
清洲でも、信長が命じる前に誰かが兵を動かした。
そして、その五十人は途中で三百人へ膨らみ、末森へ伝わった。
偶然なのか。
それとも。
景継の視線が津々木へ向く。
まだ証拠はない。
だからこそ、今は追及しなかった。
「書状には何と?」
信勝は景継へ差し出した。
そこには、わずかな言葉しか書かれていなかった。
『俺はまだ待っている。来るなら来い』
景継は思わず口元を緩めた。
「信長様らしいですね」
信勝も苦笑する。
「もう少し書きようがあるだろう」
「そこは同感です」
張り詰めていた広間の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ただ一人。
津々木だけは笑っていなかった。
信勝が立ち上がる。
「清洲へ行く」
今度は、すぐに反対する者はいなかった。
「柴田、林。供を頼む。兵は必要ない。少人数で行く」
「はっ」
柴田が頭を下げ、林も続いた。
「残る者は、儂が戻るまで兵を動かすな」
津々木が立ち上がった。
「信勝様」
「何だ」
「お考え直しください。三郎様を信用してはなりませぬ」
信勝は津々木を見た。
「ならば、お前はここに残れ」
「何を」
「儂は兄上と話す。今のお前を連れていけば、話がまとまるものもまとまらぬ」
「しかし!」
「命だ」
津々木はそれ以上、言葉を返せなかった。
景継はその姿を見ながら考える。
なぜ、この男はそこまで戦を望む。
信勝への忠義だけなら、本人が戦わないと決めた時点で従うはずだ。
なのに、まだ止めようとしている。
必ず何か理由がある。
ほどなく、景継たちは末森城を出た。
信勝。
柴田勝家。
林秀貞。
少数の供。
そして景継と弥兵衛。
東の空が、わずかに白み始めていた。
馬を進めながら、信勝が隣の景継を見る。
「間に合ったな」
「何がです?」
「夜明けまでに儂を連れ出した」
景継も空を見る。
「清洲へ着く頃には、すっかり朝でしょう」
「ならば間に合っておらぬではないか」
「城からは出しました」
信勝が一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「随分と都合のよい解釈だな」
「信長様にもそう説明します」
「兄上が納得すると思うか」
「そこは少し不安です」
信勝の笑みが少しだけ深くなった。
張り詰めていた顔が、初めて年相応に見えた。
しばらく馬を進めた後、信勝が再び口を開く。
「景継」
「はい」
「もし儂と兄上が、どうしても分かり合えなかったら」
景継は信勝を見る。
「その時、お前はどちらにつく」
すぐには答えなかった。
信長。
信勝。
どちらが好きかではない。
どちらが正しいかだけでもない。
誰を残すべきか。
誰についていけば、最後により多くのものを残せるのか。
気づけば景継は、そんなことを考えていた。
なぜ自分は、人を見る時にいつもそう考えるのだろう。
好きか嫌いかではなく。
正しいか間違っているかでもなく。
誰を残せば、最後に勝てるのか。
その考え方が、あまりにも自然だった。
「今は、答えられません」
景継はそう言った。
信勝は少し意外そうに見たが、それ以上は聞かなかった。
その直後。
前を進んでいた兵が馬を止めた。
「信勝様」
街道の先に、人影がある。
六人ほど。
道を塞ぐように並んでいた。
景継たちも馬を止める。
中央の男が一歩前へ出た。
「林道景継殿とお見受けする」
「そうですが」
「我が主が、一度あなたと話をしたいと申しております」
景継が眉を寄せる。
「どなたです?」
男が主の名を告げた。
その名を聞いた瞬間、信勝と柴田の表情が変わった。
景継だけが、その意味をすぐには理解できなかった。
なぜ、その人物が自分に接触してくるのか。
ただ、一つだけ分かった。
この争いを見ているのは、信長と信勝だけではない。
そして自分もまた、いつの間にか誰かを観察する側から、観察される側へ回り始めていた。




