第十九話 戦を望む者
「清洲方の兵が、すでにこちらへ向かっております!」
その報告を聞いた瞬間、末森城の広間が騒然となった。
つい先ほどまで信勝は清洲へ向かうつもりだった。それが一転して、信長側の兵が末森へ近づいているという。
家臣たちの間から、次々と声が上がった。
「やはり罠だったのだ!」
「三郎様は最初から信勝様を討つおつもりだった!」
「今すぐ兵を出すべきです!」
景継は何も言わず、その光景を見ていた。
予想していた以上に反応が早い。
清洲の兵が動いたという報告一つで、昨日まで迷っていた者たちまで戦う方向へ傾き始めている。
その中で、津々木蔵人だけが妙に落ち着いていた。
景継はその顔を見た後、報告に来た兵へ向き直った。
「一つ確認させてください」
「何だ」
「その兵を、あなた自身が見たのですか」
兵が一瞬黙った。
「……いえ」
「では、誰から聞いたのです」
「物見からの知らせにございます」
「その物見はどこにいます?」
「城外に」
「連れてきてください」
津々木が口を挟んだ。
「その必要はない」
景継はゆっくり津々木を見る。
「なぜです?」
「敵が迫っているのだぞ。今は一刻を争う」
「だから確認するのです」
「何を確認する」
「本当に敵がいるのかを」
津々木の眉が動いた。
周囲の家臣たちも静かになる。
景継は信勝を見る。
「信勝様。兵を動かすのは、それからでも遅くありません」
「しかし、本当に兄上の兵が迫っているなら」
「その時は私も逃げません」
景継ははっきり答えた。
「信長様が約束を破ったのであれば、私にも責任があります」
信勝はしばらく景継を見た後、報告に来た兵へ命じた。
「物見を連れてこい」
「はっ!」
兵が広間を出ていく。
津々木は何も言わなかった。
だが景継は、その手がわずかに握られたのを見ていた。
◇◇◇
物見が連れてこられるまでの間、景継は広間の端に座って考えていた。
信長は夜明けまで待つと言った。
もちろん、信長が景継に嘘をついた可能性はある。
だが、それなら自分を末森へ送り出す必要がない。最初から兵を動かすなら、信勝を説得させる意味そのものが薄くなる。
では、誰かが独断で兵を動かしたのか。
それもあり得る。
清洲のすべての家臣が、信長と同じ考えではない。信勝との戦を避けたい者もいれば、今のうちに叩くべきだと考える者もいる。
もう一つの可能性もある。
そもそも、兵など動いていない。
景継はその可能性を最も疑っていた。
「若様」
後ろに控えていた弥兵衛が、小さな声で呼びかけた。
「何です」
「本当に清洲の兵が来ていたら、どうなさいます」
「数を見ます」
「数?」
「何人いるのか。誰が率いているのか。どこへ向かっているのか。それが分からなければ、敵かどうかも分かりません」
「末森へ向かっていれば敵でしょう」
「そうとも限りません」
弥兵衛が怪訝そうな顔をする。
景継は声を落とした。
「兵を見せるだけかもしれない。こちらの動きを探るためかもしれない。それに、信長様の命令で動いているとも限りません」
「難しいですな」
「だから、戦は嫌なんです」
弥兵衛が少し笑った。
「若様なら、戦がお好きなのかと思っておりました」
「なぜです」
「普段から城を見るたび、どう攻めるか考えておられるので」
景継は答えに困った。
確かにそうだった。
城を見れば攻め方を考える。道を見れば兵の通し方を考え、川を見ればどこで渡れるかを考えてしまう。
誰かに教わったわけではない。
昔から自然にそう考えていた。
それがなぜなのか、景継自身にも分からなかった。
◇◇◇
しばらくして、一人の男が広間へ連れてこられた。
四十前後の痩せた男だった。
信勝が尋ねる。
「お前が清洲方の兵を見たのか」
男は頭を下げた。
「はい」
景継は男を見る。
「どこで見ました」
男が場所を答える。
景継は頭の中で地形を思い浮かべた。
末森からそれほど遠くない。
「何人いました?」
「およそ三百」
広間がざわついた。
三百。
無視できる数ではない。
「旗は?」
景継が聞く。
「暗く、よく見えませなんだ」
「誰が率いていました」
「分かりませぬ」
「三百と分かったのに、旗は見えなかった?」
男の表情がわずかに変わった。
「足音と松明の数で」
「松明はいくつ?」
男が黙った。
景継は続ける。
「三百人すべてが松明を持っていたわけではありませんよね」
「それは……」
「なら、どうやって三百と判断したのです」
津々木が声を上げた。
「細かいことはどうでもよい!」
景継は振り返った。
「よくありません」
「敵が来ていることに変わりはない!」
「まだ敵だと決まっていません」
「この者が見たと言っておる!」
景継は再び物見を見る。
男は明らかに動揺していた。
「もう一度聞きます。あなたは本当に見たのですか」
男は答えない。
信勝の表情が険しくなる。
「答えよ」
「……見ました」
「何を?」
景継が聞く。
男の額に汗が浮かぶ。
「兵を」
「何人です」
「三百ほど」
「誰から三百と聞きました?」
男の顔が固まった。
広間が静かになった。
景継は、その反応だけで十分だった。
「あなた自身は、数えていないのですね」
男は下を向いた。
「誰に三百だと言われたのです」
答えない。
「答えよ」
今度は信勝が言った。
男の肩が震えた。
やがて小さな声が漏れた。
「……津々木様の配下の方に」
広間の空気が一変した。
全員の視線が津々木へ向いた。
◇◇◇
「どういうことだ」
信勝の声は低かった。
津々木は動じない。
「何がでございましょう」
「この者に三百と教えたのは、お前の配下だそうだ」
「だから何だと申されるのです」
「なぜ、お前の配下が清洲の兵数を知っている」
津々木は少し間を置いて答えた。
「別の物見から聞いたのでございましょう」
「その者はどこにいる」
「存じませぬ」
信勝の表情がさらに険しくなる。
景継は黙って津々木を見ていた。
まだ決めつけてはいけない。
証拠は足りない。
だが、かなり近づいた。
「津々木殿」
景継が言う。
「あなたは先ほど、清洲の兵が迫っていると聞いても驚きませんでしたね」
「何が言いたい」
「知っていたのではありませんか」
「馬鹿を申すな」
「では、なぜ確認することを止めたのです」
津々木が景継を睨む。
「敵が迫っているからだ」
「敵が本当に迫っているなら、確認した方がよいでしょう。数も、指揮官も、進路も分からず戦うつもりですか」
「戦場では、そのようなことを確認する暇がない時もある」
「今はあります」
景継は即座に返した。
津々木の顔から、わずかに余裕が消えた。
信勝もその変化を見ていた。
「もう一度、物見を出す」
信勝が言った。
津々木が振り返る。
「信勝様!」
「今度は儂が選んだ者を出す。清洲の兵が本当に迫っているなら、それを確認してからでも遅くはない」
「その間に攻め込まれれば!」
「城に籠もればよい」
信勝の声には、先ほどまでの迷いがなかった。
「儂はまだ、兄上と戦うとは決めておらぬ」
津々木は黙った。
景継はその横顔を見ながら、少しだけ安堵した。
昨日までの信勝なら、周囲の声に押されていたかもしれない。
だが今は違う。
自分で確かめようとしている。
◇◇◇
新たな物見が出てから、およそ半刻。
待つ時間は長かった。
夜明けは少しずつ近づいている。
景継は広間の外へ出ると、東の空を見た。まだ暗いが、あと数刻もすれば空の色が変わり始める。
信長との約束が頭をよぎる。
夜明けまでに信勝を連れて戻る。
すでに間に合わない可能性が高い。
「若様」
弥兵衛が隣へ来た。
「清洲へ人を走らせますか」
景継は少し考えた。
「走らせましょう」
「何と伝えます」
「信勝様は清洲へ向かう意思がある。ただし、清洲方の兵が動いたとの情報が入り、確認中。夜明けまで兵を動かさないでほしい、と」
「信長様が待ちますかな」
「分かりません」
「またですか」
「分からないので」
弥兵衛は苦笑した。
景継は一人を清洲へ走らせた。
これで、できることはした。
あとは物見の報告を待つしかない。
しかし、景継には別のことが気になっていた。
津々木は、なぜそこまで信勝と信長を戦わせたいのか。
単純に信勝へ忠義を尽くしているだけなら、信勝本人が戦いたくないと言った時点で止まるはずだ。
それでも止まらない。
つまり津々木にとっては、信勝の意思より戦そのものの方が重要なのだ。
そこには必ず理由がある。
◇◇◇
新しい物見が戻ったのは、それからしばらく後だった。
男は広間へ駆け込むと、信勝の前に膝をついた。
「申し上げます」
「どうだった」
信勝が聞く。
「清洲方と思われる一団は確かにおります」
広間がざわつく。
津々木が景継を見る。
勝ち誇ったような目だった。
だが、報告はまだ続いていた。
「数は?」
「五十ほどにございます」
津々木の表情が止まった。
「五十?」
信勝が聞き返す。
「はい。多く見積もっても六十には届かぬかと」
景継は目を細めた。
三百ではない。
五十。
これでは末森城を攻めるには少なすぎる。
「誰が率いている」
「旗から見て、佐久間家の者かと」
景継は考える。
佐久間。
信長側の家臣ではある。
だが五十人程度なら、攻城のためとは考えにくい。
「進んでいるのですか」
景継が聞く。
「いえ」
物見が答える。
「街道の途中で止まっております」
景継の中で、一つの形が見え始めた。
「末森へ向かっているのではない?」
「少なくとも今は」
「いつから止まっている」
「我らが着いた時には、すでに」
広間が静かになった。
景継は津々木を見る。
「三百の兵が、末森へ向かっているのではなかったのですか」
津々木は答えない。
「実際には五十ほど。しかも進軍していない」
「それでも清洲方の兵には違いない!」
「はい」
景継は認めた。
「そこは私も気になります」
津々木が一瞬、勢いを取り戻す。
「ならば!」
「ですが」
景継は続ける。
「あなたはなぜ、三百だと伝えさせたのです」
津々木の表情が固まった。
「儂が伝えさせた証拠がどこにある」
「まだありません」
景継は正直に答えた。
「ですから調べます」
「何?」
「五十人がなぜそこにいるのか。そして、誰がそれを三百人に変えたのか」
津々木が景継を睨む。
景継も目を逸らさなかった。
◇◇◇
その時だった。
城外から、馬が激しく駆けてくる音が聞こえた。
しばらくして、一人の男が広間へ通された。
清洲から来た使者だった。
景継はすぐに立ち上がる。
「信長様からですか」
「はい」
男は息を整えながら、一通の書状を差し出した。
景継が受け取ろうとすると、使者は首を横に振る。
「信勝様へ直接お渡しせよとのことです」
信勝が書状を受け取り、その場で開いた。
短い文章だったらしい。
信勝はしばらく黙って読んでいた。
「何と?」
景継が聞く。
信勝は書状から目を上げる。
「兄上は兵を出していない」
広間がざわついた。
「では、あの五十人は?」
景継が聞く。
使者が答える。
「殿もお調べになっております。佐久間家の一部が独断で動いた可能性があるとのこと」
やはり。
清洲側にも、勝手に動く者がいる。
だが景継は、そこで新たな疑問を抱いた。
あまりにも都合がよすぎる。
信勝側では津々木が兵を集める。
清洲側では誰かが五十人を動かす。
そして、その五十人が三百人に膨らんで末森へ伝わる。
偶然なのか。
もし偶然でないなら、両方に手を伸ばしている者がいる。
景継は使者へ尋ねた。
「その五十人を率いている者の名前は分かりますか」
使者が答えた。
「佐久間盛重様の配下、河尻新介という者にございます」
景継はその名を覚えた。
「その者は、誰かと連絡を取っていましたか」
「そこまでは」
景継は考え込む。
すると信勝が書状を景継へ差し出した。
「読め」
景継は受け取った。
そこには、信長らしい短い言葉しか書かれていなかった。
『俺はまだ待っている。来るなら来い』
景継は思わず少し笑った。
「信長様らしいですね」
信勝も苦笑した。
「もう少し書きようがあるだろう」
「私もそう思います」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが津々木は笑っていなかった。
◇◇◇
信勝は立ち上がった。
「清洲へ行く」
今度は誰もすぐには反対できなかった。
「供は二十でよい。残りは城に残れ。儂が戻るまで兵を動かすな」
家臣たちが頭を下げる。
津々木だけが動かなかった。
「信勝様」
「何だ」
「お考え直しください」
「もう決めた」
「三郎様は信用できませぬ」
信勝は津々木を見る。
「ならば、お前はここに残れ」
津々木の顔が変わった。
「何を」
「儂は兄上と話す。お前が来れば、話がややこしくなる」
「しかし!」
「命だ」
津々木は黙った。
信勝はそれ以上何も言わず、出立の準備を命じた。
景継はその様子を見ながら、胸の奥に残る違和感を消せずにいた。
津々木。
河尻新介。
三百という偽りの数字。
どこかで繋がっているのか。
◇◇◇
しばらくして、景継たちは末森城を出た。
信勝と供二十名。
景継、弥兵衛。
そして信勝が自ら選んだ家臣数名。
東の空が、わずかに白み始めている。
夜明けが近い。
馬を進めながら、信勝が景継へ声をかけた。
「間に合ったな」
「何がです?」
「お前の夜明けまでという約束だ」
景継は空を見る。
「清洲に着く頃には、とっくに夜が明けています」
「なら間に合っておらぬではないか」
「信長様には、途中まで来ていただきましょう」
「兄上を呼びつける気か」
「半分ずつ歩けば公平です」
信勝が笑った。
「お前は時々、妙なことを言うな」
「よく言われます」
二人はしばらく黙って馬を進めた。
やがて信勝が静かに聞いた。
「景継」
「はい」
「もし兄上と儂が、どうしても分かり合えなかったら」
景継は信勝を見る。
「その時、お前はどちらにつく」
難しい問いだった。
だが、景継は以前とは違い、すぐに答えなかった。
信長。
信勝。
どちらが好きかという問題ではない。
どちらが正しいかという問題でもない。
織田家が生き残るために、どちらを選ぶべきか。
そう考えた瞬間、景継の胸の奥がざわついた。
なぜ自分は、人を見る時にいつもそう考えるのだろう。
好きか嫌いかではない。
正しいか間違っているかでもない。
誰を残せば、最後に勝てるのか。
その考え方が、あまりにも自然だった。
「まだ分かりません」
景継は答えた。
信勝は少し笑った。
「お前らしいな」
その直後だった。
前方を進んでいた兵が、突然馬を止めた。
「何だ」
信勝が聞く。
兵は前を指差した。
街道の先。
まだ薄暗い中に、数人の男が立っている。
景継も馬を止めた。
一人。
二人。
全部で六人ほど。
道を塞ぐように並んでいる。
中央の男が一歩前へ出た。
「林道景継殿とお見受けする」
景継は答えなかった。
男は続ける。
「我が主が、あなたと一度話をしたいと申しております」
「誰です」
景継が聞く。
男は主の名前を口にした。
その名を聞いた瞬間、信勝の表情が変わった。
景継にはまだ分からなかった。
なぜ、その人物が自分に接触してくるのか。
ただ一つだけ確かなことがある。
尾張の中で起きているこの争いを、見ているのは信長と信勝だけではない。
そして景継自身も、いつの間にか誰かから「見る側」ではなく、「見られる側」になっていた。




