第二十話 駿河からの使者
「我が主が、あなたと一度話をしたいと申しております」
街道を塞ぐ六人の男たちを前に、景継は馬を止めていた。
夜明けが近づき、東の空は少しずつ白み始めている。
中央に立つ男は四十前後。腰に刀は差しているが、鎧は着けていない。少なくとも、ここで争うつもりはなさそうだった。
だが、その男が口にした名に、信勝たちは警戒を強めている。
今川義元。
駿河、遠江を治め、三河にも勢力を伸ばす大名だ。尾張に生きる者なら、その名を知らぬ者の方が少ない。
「今川義元様が、私に?」
「左様にございます」
「なぜです」
「それは我らの口から申し上げることではございませぬ」
景継は眉を寄せた。
「では、駿河へ来いと?」
男がわずかに笑う。
「今すぐ、という話ではございません」
「それなら助かります」
隣にいた信勝が景継を見る。
「お前、今川と何か繋がりがあるのか」
「ありません。今川の方と話すのも初めてです」
「ならば、なぜお前に用がある」
信勝が男へ尋ねたが、男は頭を下げるだけだった。
景継は黙ってその様子を見る。
自分の存在が今川の耳に入っている。
美濃へ赴き、斎藤道三と会った後なら、多少噂になっていてもおかしくはない。
だが。
「いつから私をご存じだったのです」
男の目がわずかに動いた。
「どういう意味でしょう」
「美濃へ行った後ですか。それとも、その前から?」
男は答えない。
景継は小さく息を吐いた。
「前からですか」
男が苦笑した。
「噂に違わぬ御方ですな」
「どのような噂か、あまり聞きたくありません」
今度は男が少し笑った。
男は懐から一通の書状を取り出した。
「こちらを」
「義元様からですか」
「いいえ。太原雪斎様より」
今度は信勝だけでなく、柴田勝家も反応した。
「雪斎だと?」
景継も名は知っている。
今川義元を長く支え、軍事や外交にも深く関わる僧。
なぜ、そのような人物が自分に。
景継は書状を受け取り、その場で封を開いた。
長い文章ではない。
書かれていたのは、一つの問いだった。
『二頭の虎が一つの山を争えば、麓に住む狼は何をするべきか』
景継はしばらく黙って文字を見つめた。
「何と書いてある」
信勝に渡す。
読み終えた信勝の眉間に皺が寄った。
「……何だ、これは」
「おそらく、私に答えろということでしょう」
景継は男へ尋ねる。
「返事は今でも?」
「できれば」
「弥兵衛」
「紙と筆でございますな」
すでに荷から取り出そうとしている。
景継は思わず見た。
「まだ何も言っていません」
「若様と長くおりますので」
景継はそれ以上言わず、紙と筆を受け取った。
少し考え、一文だけ記す。
男へ渡すと、相手は中を見ずに懐へ収めた。
「何とお答えになったので?」
「雪斎様への返事です」
「私が聞いては?」
景継は先ほどの男の言葉を思い出した。
「それは私の口から申し上げることではありません」
男は一瞬黙った後、声を上げて笑った。
「なるほど。確かにお預かりいたしました」
男たちは道を開け、そのまま去っていった。
再び馬を進め始めると、信勝がすぐ隣へ寄ってきた。
「それで、何と書いた」
「気になりますか」
「当たり前だ」
景継は少し迷ったが、隠すほどのことでもない。
「『虎が争うなら、狼は傷ついた方を喰らう』と」
信勝の表情が変わった。
「……儂と兄上が虎か」
「おそらく」
「狼は今川」
景継は頷いた。
「信長様と信勝様、どちらが勝つかは今川にとって大した問題ではないのかもしれません」
兄弟が争えば、尾張の兵も国力も削られる。
勝った側も無傷では済まない。
「弱った尾張を、後から喰えばいい」
信勝は何も言わなくなった。
景継は前を向く。
「急ぎましょう」
「清洲へか」
「はい。兄弟で争っている間に、外から尾張そのものを狙われては意味がありません」
信勝も馬を進めた。
先ほどまでとは表情が違う。
兄との争いしか見えていなかった男が、ようやく尾張の外へ目を向けたように景継には見えた。
道中、信勝が不意に尋ねた。
「景継。お前は、兄上が尾張をまとめられると思うか」
「今の私には何とも言えません」
「またそれか」
「まだ尾張をまとめておられませんから」
信勝が苦笑する。
「では、儂ならどうだ」
今度は景継も少し考えた。
「今までの信勝様では、難しかったと思います」
信勝の顔が硬くなる。
「なぜだ」
「人の話を聞きすぎます」
「それが悪いと?」
「聞くことではなく、最後の答えまで人に委ねてしまうことです」
信勝は黙った。
「ですが、先ほど津々木殿に残れと命じました」
「それがどうした」
「昨日の信勝様なら、できなかったかもしれません」
しばらく沈黙が続く。
やがて信勝が小さく笑った。
「十三の子供に言われるとはな」
「元服しました」
「そこは気にするのだな」
「気にします」
その時だけは、信勝の顔から緊張が消えていた。
清洲へ着いた頃には、すっかり日が昇っていた。
城門には兵がいる。
だが、出陣しようとしている様子はない。
信長は本当に待っていた。
景継はそれを確認してから、信勝たちと城内へ入った。
広間では信長と佐久間信盛ら清洲方の家臣が待っている。
信勝が入る。
その後ろには柴田勝家と林秀貞。
兄と弟の視線がぶつかった。
誰も口を開かない。
長い沈黙の後、先に信長が言った。
「遅い」
信勝の眉が動く。
「呼びつけておいて、最初の言葉がそれか」
「夜明けまでと言った」
「儂が聞いたわけではない」
「景継に言った」
「なら景継を叱れ」
景継は思わず顔を上げた。
「なぜ私が叱られるのです」
信長と信勝が同時にこちらを見る。
隣で柴田が顔を伏せた。
どうやら笑いを堪えているらしい。
信長が鼻で笑う。
「まあよい。座れ」
信勝は兄から少し離れた場所へ座った。
景継も末席につく。
ここからは、兄弟自身が話さなければならない。
「兵を集めていたそうだな」
信長が切り出す。
「儂の命ではない」
「止められぬのか」
「止めた。それに、兄上の側でも兵が勝手に動いただろう」
信長が黙る。
「五十ほどだと聞いた。攻めるには少なすぎるが、動いたことには変わりない」
「今調べている」
「ならば儂だけを責めるな」
信長の口元がわずかに上がった。
「言うようになったな」
「兄上にだけは言われたくない」
また空気が張り詰める。
だが景継は口を挟まなかった。
自分が間に入り続ければ、結局二人は互いではなく景継と話すことになる。
「信勝」
信長が言った。
「お前は何がしたい」
「織田家を守りたい」
「誰からだ」
信勝は一瞬だけ景継を見た。
昨日、同じような問いをされたことを思い出したのだろう。
「以前なら、兄上からと答えていた」
「今は?」
信勝は少し間を置いた。
「兄上だけを見ていてよいのか、分からなくなった」
信長の目が細くなる。
「今川が見ている」
広間の空気が変わった。
信勝に促され、景継は街道で今川の使者と会ったこと、太原雪斎から書状を受け取ったことを説明した。
信長は黙って書状を読む。
「坊主め」
「ご存じなのですか」
「名くらいは知っておる」
信長が書状を景継へ返す。
「それで、お前は何と返した」
「虎が争うなら、狼は傷ついた方を喰らう、と」
信長が笑った。
「悪くない」
信勝が呆れた顔をする。
「儂らが喰われる話だぞ」
「喰われる前に狼をどうにかすればよい」
信勝が言葉を失う。
景継は額を押さえたくなった。
やはりこの兄は、物事を飛ばして考える。
話し合いは、その後も続いた。
完全な和解にはならなかった。
信勝は信長に従うとは言わない。
信長も信勝へ頭を下げることはない。
それでも、互いに兵を退かせることだけは決まった。
末森で集められた兵は解散。
清洲側も、独断で動いた者を戻す。
さらに、なぜ双方で主君の命令を待たず兵が動いたのかを調べる。
柴田も林も、その決定に異を唱えなかった。
少なくとも。
今日、織田家の者同士が槍を向け合うことはない。
景継はようやく肩の力を抜いた。
信長がそれを見逃さなかった。
「何を安心しておる」
「戦にならなかったので」
「まだ終わっておらん」
景継が顔を上げる。
信長は雪斎の書状を指した。
「今川は、お前が何と答えるかを知りたかった」
「はい」
「なら、その次はどうする」
景継は考える。
自分なら。
一度相手の考えを聞いた後は。
「確かめます」
「何を」
「その答えが本当に本人のものなのか。どこまで先を考えているのかを」
信長が楽しそうに笑った。
「ならば、また来るぞ」
「今川が?」
「ああ」
景継は雪斎の書状を見る。
信長は楽しそうだ。
景継には、まったく楽しくなかった。
その日の夕刻。
末森城へ戻った津々木蔵人は、自室で一人の男と向かい合っていた。
旅商人のような格好をした男だった。
「失敗した」
津々木が吐き捨てる。
「信勝様は清洲へ行かれた」
「聞いております」
「景継だ。あの小僧さえいなければ、兵は動いていた」
男は黙って聞いている。
「十三だぞ。なぜ、あれほど先が読める」
すると男は、ほんの少し笑った。
「だからこそ、見る価値があるのでしょう」
津々木が目を細める。
「誰が見ている」
男は答えない。
「儂は言われた通り動いた。次はそちらの番だ」
「もちろん」
男は立ち上がった。
「ただ、一つだけ予定が変わりました」
「何だ」
「林道景継」
男は静かにその名を口にした。
「殺してはなりませぬ」
津々木の表情が変わった。
「なぜだ」
「我が主が、興味を持たれました」
「誰なのだ、その主とは」
男は答えなかった。
そのまま戸口へ向かい、最後に一度だけ振り返る。
「いずれ、お分かりになります」
男が去った後も、津々木はしばらく動かなかった。
清洲にいる景継も、まだ知らない。
太原雪斎から届いた問いとは別に、尾張の内側から自分を見ている者がいることを。
そして、その視線の先にいる人物が、この先の景継の運命へ大きく関わってくることを。




