第二十話 駿河からの使者
「我が主が、あなたと一度話をしたいと申しております」
街道を塞ぐように立つ六人の男たちを前に、景継は馬上から相手の顔を見つめていた。
夜明けが近づき、東の空は少しずつ明るくなっている。男たちの姿も、先ほどよりはっきり見えるようになっていた。
中央に立つ男は四十前後だろうか。武士には見えるが、鎧は着ていない。腰に刀を差しているものの、今すぐ戦うつもりはなさそうだった。
景継の隣では、信勝が明らかに警戒していた。
男が口にした名前。
今川義元。
駿河、遠江を支配し、さらに三河へ勢力を伸ばしている大名だった。
尾張に生きる者なら、知らぬ者の方が少ない。
「今川義元様が、私に?」
景継が聞き返した。
「左様にございます」
「なぜです」
「それは我らから申し上げることではございませぬ」
「では、どこへ行けば会えるのでしょう」
男は少し笑った。
「今すぐ駿河へ来いという話ではございません」
「それなら安心しました」
景継は本当に少し安心した。
今から駿河へ行けと言われても困る。
何より、隣に信勝がいる。
まず清洲へ連れて行かなければならない。
「景継」
信勝が声をかける。
「はい」
「お前、今川と何か繋がりがあるのか」
「ありません」
「本当か」
「今川の方と話すのも初めてです」
景継が答えると、信勝は男たちへ疑いの目を向けた。
「ならば、なぜこやつに用がある」
中央の男が信勝へ頭を下げる。
「申し訳ございませぬ。それも我らの口からは」
「随分と秘密の多い話だな」
「お許しを」
景継は黙って二人のやり取りを聞いていた。
何かがおかしい。
自分の存在が今川義元の耳に入っている。
それ自体はあり得ない話ではない。
美濃へ行き、斎藤道三と会った。
信長の近くにいる十三歳の若者。
多少の噂にはなっている。
だが、それだけで今川義元本人が興味を持つだろうか。
景継は男を見た。
「いつから私を知っていたのです」
男の目がわずかに動いた。
「どういう意味でしょう」
「美濃へ行った後ですか。それとも、その前から?」
男は答えなかった。
その沈黙で、景継には十分だった。
「前からですね」
信勝が景継を見る。
男は苦笑した。
「噂に違わぬ御方ですな」
「何の噂でしょう」
「人の言葉より、言わなかったことを見ると」
景継は少し嫌そうな顔をした。
自分の知らないところで、どれほど噂が広がっているのだろう。
◇◇◇
男は懐から一通の書状を取り出した。
「こちらを」
景継は受け取らなかった。
「誰からです」
「義元様からではございませぬ」
「では?」
「太原雪斎様より」
その名を聞いた瞬間、景継より先に信勝が反応した。
「雪斎だと?」
「はい」
景継も名前は知っていた。
太原雪斎。
今川義元を支える僧であり、軍事にも外交にも関わる人物。
今川家の勢力拡大を支えてきた男だ。
その人物が、なぜ自分に書状を送る。
景継はようやく書状を受け取った。
「ここで読んでも?」
「もちろん」
封を開く。
書かれている文章は、それほど長くなかった。
景継は一度読み、もう一度最初から読み直した。
そこには仕官の誘いもなければ、今川へ来いとも書かれていない。
ただ、一つの問いがあった。
『二頭の虎が一つの山を争えば、麓に住む狼は何をするべきか』
景継はしばらく黙っていた。
「何と書いてある」
信勝が聞く。
景継は書状を渡した。
信勝も読む。
そして眉を寄せた。
「何だこれは」
「問いかけでしょう」
「何のために」
「私の答えを知りたいのだと思います」
信勝は書状と景継を交互に見る。
「答えるのか」
景継は少し考えた。
そして男に聞く。
「返事は今ですか」
「できれば」
景継は弥兵衛を見る。
「紙と筆を」
「持っております」
「なぜ持っているのです」
「若様とおりますと、何が必要になるか分かりませぬので」
「助かります」
弥兵衛が荷物から紙と筆を出した。
景継は街道脇の石に腰を下ろすと、少し考えてから返事を書いた。
長い文章ではない。
一行だけだった。
男へ渡す。
男は読まずに尋ねる。
「何とお答えに?」
「雪斎様への返事です」
「私が聞いては?」
「秘密の多い話がお好きなのでしょう」
男が笑った。
「これは一本取られましたな」
◇◇◇
男たちが去った後、信勝はすぐに景継へ尋ねた。
「何と書いた」
「秘密です」
「儂にもか」
「信勝様には関係のある内容ですので」
「なら余計に教えろ」
景継は少し迷ったが、隠し続ける意味もない。
「『虎が争うなら、狼は傷ついた方を喰らう』と」
信勝の顔から笑みが消えた。
景継は続ける。
「今川にとって、信長様と信勝様の争いは好都合です」
「……」
「どちらが勝っても構わない。尾張が弱ればいい」
信勝は黙った。
景継は馬へ乗る。
「急ぎましょう」
「清洲へか」
「はい」
「兄上との話を急ぐ理由が増えました」
信勝はしばらく動かなかった。
やがて自分も馬へ乗った。
先ほどまでとは、少し表情が違っていた。
兄との争い。
それしか見えていなかった信勝が、初めて尾張の外を見た顔だった。
◇◇◇
一行は再び清洲へ向かった。
景継は馬を進めながら考えていた。
太原雪斎は、どこまで知っているのか。
信長と信勝が対立していることは当然知っているだろう。
だが、自分の存在まで調べている。
それも美濃へ行く前から。
「弥兵衛」
「はい」
「今川は尾張にどれくらい人を入れていると思いますか」
「間者のことで?」
「はい」
「分かりませぬ。ただ、三河まで押さえている今川です。尾張に一人もおらぬとは考えにくいでしょうな」
「そうですよね」
景継は考える。
もし今川の間者が清洲と末森の双方にいるなら。
今回の騒動にも関わっている可能性がある。
津々木が今川と繋がっている。
そこまで考えるのは早い。
証拠がない。
だが、考える価値はある。
「景継」
信勝が横へ馬を寄せてきた。
「はい」
「お前は、兄上が尾張をまとめられると思うか」
昨日までとは違う質問だった。
「分かりません」
「そればかりだな」
「まだまとめていないので」
信勝は苦笑する。
「では、儂なら?」
景継は信勝を見る。
答えにくい。
だが、ここで嘘を言っても仕方がない。
「今のままでは難しいと思います」
信勝の表情が少し硬くなる。
「なぜだ」
「信勝様は、人の話を聞きすぎます」
「人の話を聞くことが悪いと?」
「いいえ。聞いた後に、自分で決めればよいと思います」
景継は前を見る。
「昨日までの信勝様は、周囲が望む信勝様になろうとしていました」
信勝は何も言わない。
「ですが先ほど、津々木殿に残れと命じた」
「それがどうした」
「昨日の信勝様なら、できなかったと思います」
しばらく沈黙が続いた。
信勝が小さく笑った。
「十三の子供に教えられるとはな」
「元服しました」
「そこは譲らぬのだな」
「はい」
二人の間に、初めて少しだけ穏やかな空気が流れた。
◇◇◇
清洲城へ到着した頃には、すっかり日が昇っていた。
城門の前には多くの兵がいる。
だが、戦へ出る準備をしている様子ではない。
信長は待っていた。
そのことに景継は安心した。
城内へ入り、信勝と共に広間へ向かう。
扉が開く。
信長が座っていた。
その周囲には柴田勝家、佐久間信盛、林秀貞らが控えている。
信勝が足を止めた。
兄と弟。
二人の目が合う。
景継は少し離れた場所から見ていた。
どちらも何も言わない。
長い沈黙だった。
先に口を開いたのは信長だった。
「遅い」
信勝の眉が動く。
「呼びつけておいて、それが最初の言葉か」
「夜明けまでと言った」
「儂が言われたわけではない」
「景継に言った」
「なら景継を叱れ」
景継は思わず二人を見る。
「なぜ私が叱られるのです」
信長と信勝が同時に景継を見た。
一瞬。
広間の空気が妙なものになった。
柴田勝家が顔を伏せている。
笑いを堪えているらしい。
信長が鼻で笑った。
「まあよい。座れ」
信勝は兄から少し離れた場所に座った。
景継も末席へ座る。
兄弟の話し合いが始まった。
◇◇◇
「兵を集めているそうだな」
信長が聞く。
信勝は答えた。
「儂の命ではない」
「止められぬのか」
「止めた」
「遅い」
信勝の顔が険しくなる。
「兄上の側でも兵が勝手に動いただろう」
今度は信長が黙った。
「佐久間の兵、五十ほどだ。儂を攻めるには少なすぎるが、動いたことに変わりはない」
「調べている」
「なら、儂だけ責めるな」
信長の口元が少し上がった。
「言うようになったな」
「兄上に言われたくない」
また空気が悪くなりかける。
景継は黙って二人を見ていた。
ここで口を挟むべきか。
いや。
まだ早い。
兄弟で話させる。
自分が何でも間に入れば、結局二人は互いではなく景継と話すことになる。
「信勝」
信長が言った。
「お前は何がしたい」
「織田家を守りたい」
「誰から」
信勝は少しだけ景継を見た。
昨日、同じ質問をされたことを思い出したのだろう。
「以前なら、兄上からと答えていた」
「今は?」
「分からぬ」
信長の表情が変わった。
信勝は続ける。
「今川が見ている」
広間にいた何人かが顔を上げた。
信長の目が鋭くなる。
「何の話だ」
信勝が景継を見る。
「お前から話せ」
景継は太原雪斎からの書状について説明した。
信長は黙って聞いていた。
「書状は?」
「ここに」
景継が差し出す。
信長は読む。
そして笑った。
「坊主め」
景継は少し驚く。
「ご存じなのですか」
「名くらいはな」
信長は書状を投げ返した。
「それで、お前は何と返した」
「虎が争うなら、狼は傷ついた方を喰らう、と」
信長の口元が上がった。
「いい答えだ」
信勝は呆れた顔をした。
「そこを褒めるのか」
「何が悪い」
「儂らが虎で、今川が狼なのだぞ」
「なら狼を殺せばよい」
信勝が言葉を失った。
景継も少しだけ頭が痛くなった。
この兄は、やはり話が早すぎる。
◇◇◇
話し合いは、それから一刻以上続いた。
完全な和解にはならなかった。
信勝は信長へ従うとは言わない。
信長も信勝へ頭を下げることはない。
それでも、一つだけ決まった。
互いに兵を退かせる。
末森で集められた兵は解散させ、清洲側も独断で動いた五十人を戻す。
そして、津々木を含め今回の騒動に関わった者たちを双方で調べる。
少なくとも、今すぐ兄弟が戦うことは避けられた。
景継はようやく息を吐いた。
「景継」
信長が呼ぶ。
「はい」
「何を安心している」
「戦にならなかったので」
「まだだ」
景継の表情が変わる。
「何がです」
信長は太原雪斎の書状を指で叩いた。
「今川は、お前が何と答えるか知りたかった」
「はい」
「なら次に何をする」
景継は少し考えた。
自分なら。
相手の答えを聞いた後。
次は。
「試します」
「どうやって」
「私の答えが、本当に考えて出したものなのか。それとも偶然なのかを」
信長が笑った。
「来るぞ」
「誰が?」
「今川が」
景継は黙った。
信長は楽しそうだった。
だが景継は、少しも楽しくなかった。
◇◇◇
その日の夕方。
末森城へ戻った津々木蔵人は、自室で一人の男と会っていた。
男は昼間まで城内にはいなかった。
旅の商人のような格好をしている。
「失敗した」
津々木が言った。
男は表情を変えなかった。
「信勝様は清洲へ行かれた」
「聞いております」
「景継だ」
津々木の声に怒りが混じる。
「あの小僧さえいなければ、兵は動いていた」
男は静かに聞いていた。
「十三だぞ」
津々木は吐き捨てるように言った。
「なぜ、あれほど先が読める」
男は少しだけ笑った。
「だから見ているのでございます」
津々木が男を見る。
「誰が」
男は答えなかった。
「今川か」
それでも答えない。
津々木は苛立った。
「儂は約束を果たした。次はそちらの番だ」
「もちろん」
男は立ち上がった。
「ただし、一つだけ予定が変わりました」
「何だ」
「林道景継」
男はその名を静かに口にした。
「殺してはなりませぬ」
津々木の顔が変わった。
「何?」
「生かしておいてください」
「なぜだ」
男は戸口へ向かう。
そして振り返った。
「我が主が、欲しいと申しております」
津々木は何も言えなかった。
男が去った後も、部屋には長い沈黙が残った。
その頃、清洲にいる景継はまだ知らなかった。
自分へ書状を送った太原雪斎とは別に、尾張の内側ですでに自分を見ている者がいることを。
そして、その者が仕える「主」が誰なのか。
それを知る日は、そう遠くなかった。




