第二十一話 味方の中の敵
信勝との話し合いから一夜が明けても、清洲城の空気は落ち着かなかった。
兄弟の衝突そのものは避けられた。末森で集まり始めていた兵は解散させることになり、信長側も独断で動いていた兵を呼び戻すことになった。
だが、問題が消えたわけではない。
むしろ景継には、昨日までより状況が悪くなったように思えた。
信勝側では、津々木蔵人が主君の命を待たずに兵を集めていた。そして清洲側でも、信長の命令を受けていない兵が五十ほど動いていた。
両方が偶然だったとしても厄介だ。
もし偶然でなければ、もっと厄介だった。
「若様」
弥兵衛が声をかける。
景継は机の上に置いていた紙から顔を上げた。
「何でしょう」
「朝餉が手つかずですが」
「後で食べます」
「昨日も同じことを言われました」
「昨日は食べました」
「冷めきってから」
景継は少し困った顔をした。
目の前には、昨日から集めた情報を書き出した紙が何枚も置かれている。
末森。
津々木。
佐久間家の兵。
河尻新介。
今川。
太原雪斎。
そして、街道で接触してきた使者。
一つずつ見れば、それぞれ説明はつく。
だが景継には、すべてが別々に起きたことだとは思えなかった。
「弥兵衛」
「はい」
「もし、私を食事から遠ざけたいならどうします?」
弥兵衛は呆れたような顔をした。
「何の話でございます」
「例えばです」
「普通に膳を下げます」
「そうではなく、私自身が食べるのを忘れるようにしたい」
弥兵衛は少し考えた。
「若様の前に、面倒な謎でも置いておけばよろしいのでは?」
景継は黙った。
弥兵衛も黙る。
「……今の状況ですね」
「若様ご自身が証明されましたな」
景継は仕方なく箸を取った。
◇◇◇
朝餉を終える頃、信長から呼び出しが来た。
景継が評定の間へ入ると、そこにはすでに佐久間信盛と数人の家臣がいた。信長の前には、一人の若い武士が座らされている。
景継はその男の顔を見た。
「河尻新介?」
男が驚いたように景継を見る。
「なぜ私の名を」
「聞いていました」
景継は末席へ座った。
この男が、昨日五十人ほどの兵を動かした張本人らしい。
信長が景継を見る。
「始めろ」
「私がですか?」
「お前が知りたがっていただろう」
「信長様が聞かれるのでは」
「俺が聞けば、こやつは俺が聞きたいことに答える」
景継は少しだけ考えた。
意味は分かる。
信長本人に問い詰められれば、男は怒られない答えを探そうとする。
自分なら、少し違う話が聞けるかもしれない。
景継は河尻を見る。
「昨日、なぜ兵を動かしたのです」
河尻はすぐに答えた。
「末森方が動くとの知らせを受けたからです」
「誰から?」
河尻が少し黙った。
「名も知らぬ者です」
「名も知らない者の話で、五十人も?」
「知らせの内容が具体的だった」
「どのように」
「信勝様方が夜明け前に動き、清洲へ向かうと」
景継は眉を寄せた。
実際には逆だ。
信勝は清洲へ話し合いに来ようとしていた。
「その者は、信勝様が何人で来ると言いました?」
「三百ほど」
景継の目が止まった。
また。
三百。
末森へ伝わった清洲方の兵数も、三百だった。
偶然として片づけるには、少し出来すぎている。
「その者の顔は覚えていますか」
「はい」
「どんな男でした」
河尻が説明する。
三十代ほど。
商人にも見える格好。
尾張の言葉。
目立つ特徴はない。
景継は聞きながら、前話で津々木と会っていた「旅の商人のような男」を知る由もない。
それでも、一つの疑いははっきりと強くなった。
誰かが両方に違う情報を流した。
末森には、清洲から三百が来る。
清洲には、末森から三百が来る。
互いに自分が先に攻められると思わせる。
そうすれば、どちらかが兵を動かす。
一方が動けば、もう一方も動く。
後は勝手に戦が始まる。
「河尻殿」
景継が聞く。
「なぜ信長様へ確認しなかったのです」
男の顔が曇った。
「時間がなかった」
「本当に?」
「何?」
「末森から三百来るなら、五十でどうするつもりだったのです」
河尻は答えない。
景継は続けた。
「迎え撃つには少なすぎる。清洲へ知らせに来るだけなら多すぎる。あなたは何をしようとしたのです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて河尻が言う。
「確かめようとした」
「何を」
「本当に兵が来るのかを」
景継は少し意外だった。
「物見として五十人を?」
「もし本当に来れば、少しでも時間を稼ぐ必要があると思った」
景継は信長を見る。
信長は何も言わない。
河尻の話が真実なら、この男は戦を起こそうとしたわけではない。
むしろ清洲を守るつもりだった。
それでも、結果として末森側からは「清洲兵が進軍してきた」と見えた。
利用されたのだ。
「その知らせを持ってきた男は、今どこにいます」
河尻は首を横に振った。
「知らぬ。話を聞いて支度を始めた時には、もういなかった」
景継は小さく息を吐いた。
やはり。
最初から、それだけが目的だった。
◇◇◇
河尻が下がった後、部屋には信長と景継、佐久間信盛ら数人だけが残った。
景継は紙を借りて二つの丸を描いた。
一つに清洲。
もう一つに末森と書く。
「同じです」
信長が聞く。
「何がだ」
「両方に、ほとんど同じ話が流されています」
景継は清洲の丸を指した。
「こちらには『末森から三百来る』」
次に末森。
「向こうには『清洲から三百来る』」
佐久間信盛が眉を寄せる。
「誰かが意図して流したと?」
「その可能性が高いと思います」
「津々木ではないのか」
「津々木殿が清洲側の河尻殿まで動かしたのであれば、かなり深くこちらの中へ人を入れていることになります」
景継は少し考えた。
「それに、津々木殿自身も誰かに使われている可能性があります」
信長が面白そうに見る。
「なぜそう思う」
「自分で全部を考えた人間なら、もう少し上手く隠すと思います」
佐久間が苦笑した。
「随分な言いようだな」
「津々木殿は、私が確認しようとするたびに止めようとしました。隠し事があるのは分かります」
「なら奴が黒だろう」
「黒だと思います」
景継は認めた。
「ですが、一番上とは限りません」
信長の目が少し細くなった。
景継はそのまま続ける。
「津々木殿の目的が信勝様を当主にすることだけなら、信勝様が兄上と話すと言った時点であそこまで焦る必要はありません。それでも戦を止めたくなかった」
「つまり?」
「信勝様が勝つことより、兄弟が戦うこと自体に意味がある」
部屋が静かになった。
信長が紙を見る。
「尾張を弱らせたい奴か」
「そう考えるのが自然です」
全員が同じ名前を思い浮かべた。
今川。
だが景継は、すぐには口にしなかった。
「今川だと思うか」
信長が聞く。
景継は少し考えて答えた。
「疑います。ただし、決めません」
「雪斎から書状が来たばかりだからか」
「だからこそです」
信長の眉が動く。
「今川が裏で兄弟を戦わせている最中に、表から私へ書状を送るでしょうか」
「別々に動いているかもしれん」
「はい。だから何も決められません」
信長は少し笑った。
「お前、本当に慎重になったな」
「失敗しましたから」
母が攫われた時のこと。
景継は今でも覚えている。
自分が狙われるほどの価値はない。
そう決めつけた。
そして間違えた。
以来、疑う時は自分の考えまで疑うようになった。
それでも足りないと、景継は思っている。
◇◇◇
その日の午後。
景継は城下へ出た。
目的は、河尻へ情報を持ってきた男を探すことだった。
顔の特徴は曖昧。
名前もない。
そんな人間を尾張の町で探すなど、普通なら不可能に近い。
だから本人を探すのではない。
その男が何をしたのかを探す。
「若様」
弥兵衛が聞く。
「どちらへ」
「茶屋です」
「茶を?」
「飲むかもしれません」
「目的は違うのですね」
「はい」
景継は河尻から聞いた話を思い出していた。
男が河尻へ接触した時刻。
場所。
その前後に何をしていたか。
人は突然現れて、突然消えるわけではない。
どこかを歩く。
誰かに道を聞く。
腹が減れば食べる。
馬を使えば預ける。
一つずつ拾えばいい。
最初の茶屋では何も出なかった。
二軒目も同じ。
三軒目で、店の女が少し考えた。
「そのくらいの男なら、昨日来たかもしれません」
景継の目が変わる。
「何をしていました?」
「酒を少し。あとは人を待っていたような」
「誰を?」
「分かりません」
「どれくらいいました?」
「一刻ほどだったかねえ」
景継は代金を払いながら、何気ない調子で聞く。
「尾張の人でした?」
女は首を傾げた。
「言葉はそうだったけど」
「けど?」
「銭の出し方が妙だったね」
「銭?」
女は店の奥から一枚の銭を持ってきた。
「これを混ぜて出したんだよ。使えないわけじゃないけど、この辺じゃあまり見ないね」
景継は受け取って眺めた。
自分には違いがよく分からない。
弥兵衛に渡す。
「分かりますか」
弥兵衛も首を傾げた。
「商人なら分かるやもしれませぬ」
「買います」
女が笑った。
「そんなもの欲しいのかい」
「珍しいので」
少し高めに金を払い、その銭を受け取った。
小さな手がかり。
だが、ないよりいい。
◇◇◇
清洲へ戻る途中、景継は偶然一人の商人を見つけた。
以前から何度か話を聞いたことがある男だった。
銭を見せる。
「これ、どこでよく使われています?」
商人は手に取り、表裏を見る。
「これ自体はどこでも使えますが……」
「何かあります?」
「この種類をまとめて持っているなら、三河の方から来た商人かもしれませんな」
景継の目が細くなる。
「三河?」
「はい。もちろん、それだけで決められませんよ」
「分かっています」
三河。
今川の勢力下。
また今川へ近づいた。
だが、まだ証拠ではない。
偶然持っていただけかもしれない。
景継は銭をしまった。
「弥兵衛」
「はい」
「面白くなくなってきました」
「今までは面白かったので?」
「謎だけなら」
弥兵衛が呆れたように笑う。
景継も少し笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
◇◇◇
その日の夜。
景継が清洲へ戻ると、信長が待っていた。
「どうだった」
景継は銭を見せた。
「三河の方でよく見かけるものらしいです」
信長が受け取る。
「今川か」
「まだ分かりません」
「お前はそればかりだな」
「決めつけろと言うのですか」
「いや」
信長は銭を投げ返した。
「その方がよい」
景継は受け取る。
「珍しいですね」
「何が」
「もっと早く敵を決めろと言われるかと」
信長は少し笑った。
「敵など後からいくらでも増える。わざわざ間違った敵を作る必要はない」
その言葉。
景継は少し意外に感じた。
そして同時に、遠い何かを思い出しかけた。
才があるなら使う。
敵でも降れば用いる。
必要があれば昨日の敵とも手を組む。
そんな男を。
自分は知っていた。
景継は信長を見る。
まただ。
顔ではない。
声でもない。
だが、考え方の端々が、遠い昔の誰かと重なっていく。
「またか」
信長が言った。
景継は我に返る。
「何がです」
「その顔だ」
「どんな顔でしょう」
「俺の向こうに、別の誰かを見ている顔だ」
景継は答えられなかった。
信長はしばらく景継を見たが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、一通の書状を差し出す。
「何です?」
「読め」
景継は受け取った。
差出人を見る。
太原雪斎。
二通目。
景継はすぐに開いた。
今度の文章は、前よりさらに短かった。
『狼が虎を喰らうと知る者ならば、虎は何をすべきと考える』
景継は黙った。
先日の自分の返答を受けた問いだ。
信長が聞く。
「何と返す」
景継はしばらく考えた。
そして紙と筆を借りた。
今度も短く書く。
『もう一頭の虎を喰う前に、狼を狩る』
信長が横から読む。
口元が上がった。
「それでこそだ」
景継は筆を置く。
だが、雪斎へ渡す前に一つ書き加えた。
『ただし、狼が一頭とは限らない』
信長の笑みが少し消えた。
「どういう意味だ」
景継は答える。
「今川だけを見ていると、別の誰かを見落とすかもしれません」
「他に誰がいる」
「分かりません」
信長はまた笑った。
「なら探せ」
「私が?」
「お前が気づいた」
景継はため息をついた。
やはり言わなければよかったかもしれない。
◇◇◇
同じ頃。
末森城。
津々木蔵人の部屋には、再びあの男がいた。
旅の商人にしか見えない男は、座ったまま静かに酒を飲んでいる。
「信勝様は兵を解散させる」
津々木が言った。
「このままではすべて終わりだ」
「終わりではございません」
「何?」
「一度で戦にならぬことも、最初から考えております」
津々木は男を見る。
「次はどうする」
男は少し笑った。
「林道景継は、今川を疑い始めました」
「当然だろう」
「ええ。それでよいのです」
津々木の眉が動く。
「どういう意味だ」
男は答えず、杯へ酒を注いだ。
「人は、答えを一つ見つけると安心するものです」
「何が言いたい」
「今川を疑っている間は、こちらを見ません」
津々木は黙った。
男は酒を飲み終えると、ゆっくり立ち上がる。
「次は少し、景継殿に働いていただきましょう」
「奴を使う?」
「本人が気づかぬ形で」
「何をさせる」
男は戸口で足を止めた。
「信長と今川を」
そして静かに続けた。
「互いに、もっと警戒させるのです」
男が去った後、津々木はしばらく動かなかった。
その頃、清洲では。
景継が帳面の新しい頁に、一つの言葉を書き込んでいた。
――答えを見つけた時ほど、その答えを疑え。
それは十一歳の失敗から続けてきた、自分への戒めだった。
そしてその一文が、近い将来。
景継自身を救うことになる。




