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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第二十一話 味方の中の敵



信勝との話し合いから一夜が明けても、清洲城の空気は落ち着かなかった。


兄弟の衝突は避けられた。


末森で集まり始めていた兵は解散し、清洲側で独断で動いた五十ほどの兵も呼び戻された。


だが、問題が消えたわけではない。


信勝側では、津々木蔵人が主君の命を待たず兵を集めた。


清洲側でも、信長の命令を受けていない者が兵を動かした。


双方が偶然なら厄介だ。


偶然でなければ、さらに厄介だった。


「若様」


景継は机に並べた紙から顔を上げた。


弥兵衛が、呆れた顔で膳を指している。


「朝餉が手つかずですが」


「後で食べます」


「昨日もそう申されました」


「昨日は食べました」


「冷めきってから」


景継は返す言葉を失った。


目の前には、昨日から集めた情報を書き出した紙が並んでいる。


末森。


津々木。


独断で動いた清洲方の兵。


今川。


太原雪斎。


一つずつなら説明できる。


だが、すべてが無関係だとも思えない。


「弥兵衛」


「はい」


「もし私に食事を忘れさせたいなら、どうします?」


「膳を下げます」


「そうではなく、私自身が忘れるようにです」


弥兵衛は少し考えた。


「面倒な謎でも置いておけばよろしいのでは?」


景継は黙った。


弥兵衛も机の紙を見る。


「……今の若様ですな」


「そうですね」


「では、その謎を片づける前に朝餉を片づけてください」


景継は諦めて箸を取った。


朝餉を終えた頃、信長から呼び出しが来た。


評定の間へ入ると、信長と佐久間信盛ら数人の家臣がいる。


その前には、一人の若い武士が座っていた。


昨日、五十ほどの兵を動かした男だ。


信長が景継を見る。


「聞け」


「私がですか」


「知りたがっていただろう」


景継は男へ向き直った。


「昨日、なぜ兵を動かしたのです」


「末森方が動くとの知らせを受けた」


「誰から?」


「知らぬ男だ」


景継の目が細くなる。


「知らない男の話だけで、五十人も?」


「知らせが具体的だった。信勝様方が夜明け前に清洲へ向かうと」


「数は?」


「三百ほどだと」


景継の動きが止まった。


三百。


末森へ伝わった清洲方の兵も、三百だった。


「その男はどのような者でした」


「三十ほど。商人のような格好だった。尾張の言葉を使っていた」


「なぜ信長様へ確認しなかったのです」


男の表情が曇る。


「時間がないと思った」


「三百が来るのに、五十で迎え撃つつもりだったのですか」


「違う」


男は少し迷ってから答えた。


「本当に兵が来るのか確かめたかった。もし来ていたなら、清洲へ知らせるまで少しでも時間を稼ぐつもりだった」


景継は黙った。


話が本当なら、この男は戦を始めたかったわけではない。


清洲を守ろうとした。


だが、その五十人を末森側が見ればどうなる。


清洲から兵が来た。


そう受け取る。


そして末森が兵を出せば、今度はこちらが「やはり攻めてきた」と思う。


一方は守ろうとして兵を動かす。


それを見たもう一方も、自分を守ろうとして兵を動かす。


誰も最初に戦を始めるつもりがなくても、それで戦は始まる。


「知らせを持ってきた男は?」


「支度を始めた時には、もういなかった」


景継は小さく息を吐いた。


やはり、その男にとっては情報を渡すことだけが目的だったらしい。


男が下がった後、景継は紙に二つの丸を描いた。


清洲。


末森。


「同じです」


「何がだ」


信長が聞く。


「清洲には『末森から三百来る』。末森には『清洲から三百来る』」


佐久間信盛が眉を寄せた。


「同じ者が流したと?」


「同じ者かどうかまでは分かりません。ただ、偶然同じ三百という数字になったとは考えにくいです」


「津々木か」


「津々木殿が関わっている可能性は高いと思います」


景継はそこで言葉を切った。


「ですが、あの方が一番上とは限りません」


信長が景継を見る。


「なぜだ」


「津々木殿の目的が、信勝様を当主にすることだけなら、信勝様自身が戦わないと決めた後まであれほど焦る必要がありません」


景継は二つの丸の間に線を引いた。


「信勝様を勝たせたいのではなく、信長様と信勝様を戦わせたいのだとしたら」


部屋が静かになる。


佐久間が低く言った。


「尾張そのものを弱らせたい者か」


景継は頷いた。


誰も名前を口にしなかった。


だが、今川を思い浮かべた者は一人ではないだろう。


「今川だと思うか」


信長が尋ねる。


「疑います」


「だろうな」


「でも、決めません」


信長が少し笑う。


「雪斎から書状まで来たのにか」


「だからです」


景継は昨日受け取った書状を思い出した。


「裏で兄弟を戦わせようとしている最中に、わざわざ表から私へ接触するのは少し目立ちすぎます」


「目を逸らすためかもしれん」


「その可能性もあります」


「結局、何も分からんではないか」


「今は、それでいいと思います」


以前の自分なら、一番筋の通る答えを見つければ、それを正解だと思ったかもしれない。


だが、それで母を危険に晒した。


自分に価値などない。


敵もそう考える。


そう勝手に決めて、間違えた。


「間違った答えを正しいと思い込むよりは、分からないまま調べます」


信長は少しの間、景継を見ていた。


「お前、慎重になったな」


「失敗しましたから」


景継はそれだけ答えた。


午後、景継は弥兵衛と城下へ出た。


清洲方の武士へ情報を持ち込んだ男を探すためだ。


「顔も名もほとんど分からぬのでしょう?」


「本人を探すのは難しいでしょうね」


「では何を」


「その人が通った跡を探します」


人は突然現れない。


歩けば誰かに見られる。


腹が減れば何かを食べる。


馬を使えば、どこかで休ませる。


そういう小さな跡を拾うしかない。


数軒の茶屋を回ったところで、一人の女が話に反応した。


「そのくらいの男なら、昨日来たかもしれないねえ」


「一人でした?」


「最初はね。途中で誰かと話していたよ」


「どんな人でした」


「そこまでは覚えてないね」


景継は少し落胆したが、女がふと思い出したように言った。


「そういや、銭が妙だったね」


「銭?」


女が一枚の銭を持ってくる。


景継には違いが分からなかった。


「使えないものですか」


「いや、使えるよ。ただ、この辺じゃあまりまとめて見ない種類だったから覚えてたのさ」


景継は代金を払って、その銭を譲ってもらった。


弥兵衛が横から覗き込む。


「分かりますか」


「まったく」


「私もです」


二人で見つめても、ただの銭にしか見えなかった。


帰り道、顔見知りの商人へ見せると、男はしばらく眺めた。


「これ一枚なら何とも言えませんな。ただ、こういうものを多く持っているなら、三河方面から来た者ということもあります」


「三河」


今川の勢力が及ぶ土地。


また一つ、今川へ近づいた。


だが景継はすぐに自分を戒めた。


一枚の銭だ。


人から人へ渡る。


これだけで持ち主の出自など決められない。


「若様」


「はい」


「難しい顔をしておられます」


「今川だと思えば、何でも今川に見えてきそうで」


弥兵衛が少し笑う。


「では、今川ではないと思えば?」


「今度は大事なものを見落としそうです」


「面倒ですな」


「本当に」


清洲へ戻ると、信長が待っていた。


景継は銭を机へ置く。


「三河方面から来た者が持っていた可能性はあるそうです。ただ、これだけでは何の証拠にもなりません」


信長は銭を手に取った。


「今川か」


「まだです」


「お前はそればかりだな」


「間違った敵を作るよりはいいでしょう」


信長は銭を指先で弄びながら、少し笑った。


「敵など、放っておいても増える。わざわざ間違った奴まで敵にする必要はない」


景継は信長を見た。


その言葉が、妙に胸へ引っかかった。


才があるなら使う。


敵でも降れば用いる。


必要なら、昨日まで争っていた者とも手を組む。


遠い記憶の中に、そんな男がいた気がする。


まただ。


顔ではない。


声でもない。


それなのに、信長の言葉や考え方が、時折その誰かと重なる。


「またその顔か」


信長の声で我に返った。


「何がです?」


「俺を見ながら、別の誰かを見ている顔だ」


景継は答えられなかった。


信長もしばらく景継を見ていたが、それ以上は追及しなかった。


代わりに一通の書状を差し出す。


「届いたぞ」


差出人を見て、景継は眉を寄せた。


太原雪斎。


二通目だった。


封を開く。


『狼が虎を喰らうと知る者ならば、虎は何をすべきと考える』


昨日の返答を受けての問いだ。


「何と返す」


信長が尋ねる。


景継は少し考え、筆を取った。


『もう一頭の虎を喰う前に、狼を狩る』


横から読んでいた信長の口元が上がる。


「それでいい」


景継は筆を止めた。


そして、一文を加える。


『ただし、狼が一頭とは限らない』


信長の笑みが少し薄れた。


「どういう意味だ」


「今川だけを見ている間に、別の誰かを見落とすかもしれません」


「心当たりは?」


「ありません」


「なら探せ」


景継は顔を上げた。


「私が?」


「気づいたのはお前だ」


景継は小さくため息をついた。


余計な一文を書いたかもしれない。


同じ頃。


末森城では、津々木蔵人が一人の男と向かい合っていた。


旅商人のような格好をした男が、静かに杯を傾けている。


「兵は解散する」


津々木が言った。


「このままでは終わりだ」


「一度で戦になるとは、こちらも考えておりません」


津々木が男を見る。


「次はどうする」


「林道景継は、今川を疑い始めたようです」


「当然だろう」


男は笑った。


「それでよいのです」


「どういう意味だ」


男は杯を置いた。


「人は一つ答えを見つけると、それ以外が見えにくくなる」


津々木は眉を寄せた。


「景継は今川を疑っている。その間は、別の方向へ目を向けさせやすい」


「だが、あの小僧は今川と決めつけてはおらぬぞ」


男の目が、わずかに細くなった。


「だから厄介なのです」


初めて、その声から余裕が消えた。


「次は?」


「景継殿自身に動いていただきます」


「奴を使うのか」


「本人が気づかぬ形で」


男は立ち上がった。


「何をさせる」


津々木の問いに、男は戸口で足を止めた。


「信長と今川を、今より少しだけ近づけます」


「近づける?」


「近づけば、互いがよく見える」


男は振り返らなかった。


「よく見えれば、恐れる理由も増えるものです」


男が去った後、津々木はその言葉の意味を考え続けていた。


その夜。


清洲の一室で、景継は帳面を開いていた。


十一歳の頃から、自分の失敗を書き残してきた帳面だ。


少し考え、新しい一文を書き加える。


『答えを見つけた時ほど、その答えを疑え。』


景継はしばらくその文字を見つめた後、静かに帳面を閉じた。

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