第二十二話 今川の目
太原雪斎へ二通目の返書を送ってから、三日が過ぎた。
景継はその間も、清洲と末森の双方へ偽りの情報を流した人物を探り続けていた。
だが、目立った進展はない。
三河から流れてきた可能性のある銭。河尻新介へ接触した名も知れぬ男。津々木蔵人の不自然な動き。
手がかりはいくつかある。
しかし、どれも今川へ直接つながる証拠にはならなかった。
「若様」
弥兵衛が声をかける。
「はい」
「また同じ紙を見ておられますぞ」
「見れば何か増えるかもしれません」
「増えませぬ」
「分かっています」
景継は机に広げた紙を見る。
清洲。
末森。
三河。
美濃。
そして今川。
線を引けば、いくらでもつなげられる。
だが、つなげられることと、本当につながっていることは違う。
十一歳の時に作った帳面の言葉が頭に浮かぶ。
――答えを見つけた時ほど、その答えを疑え。
景継は筆を置いた。
「一度やめます」
「珍しいですな」
「考え続けても、情報が増えなければ同じ場所を回るだけです」
「では何を?」
「城下へ行きます」
「また商人ですか」
「今日は違います」
景継は立ち上がった。
「何も考えずに歩きます」
弥兵衛が明らかに疑った顔をする。
「若様にできますか?」
「努力します」
◇◇◇
清洲の城下は、昼を過ぎても人が多かった。
商人の呼び声が響き、荷車が道を行き交っている。米、布、塩、油、鉄器。林道家の領地では見られないほど、多くの物が毎日動いている。
景継は、こういう場所が嫌いではなかった。
人の動きが見える。
物の動きが見える。
そして、国の力も見える。
以前、初めて清洲へ来た時も同じことを考えた。
人が集まれば物が集まる。物が集まれば金が動き、その金で兵を養える。
十三歳になった今では、さらにその先まで考えるようになっていた。
兵を養うだけではない。
情報も集まる。
噂も流れる。
敵の間者が入り込むのにも、こういう場所は都合がいい。
「若様」
「はい」
「何も考えずに歩くのでは?」
景継は弥兵衛を見る。
「今、何か言いましたか」
「もう諦めます」
その時だった。
「林道景継殿」
後ろから名前を呼ばれた。
景継と弥兵衛が同時に振り返る。
そこには一人の僧が立っていた。
年は三十を少し過ぎた頃だろうか。質素な法衣を着ている。武器は見えない。
だが、普通の僧には見えなかった。
立ち方。
目線。
周囲への意識。
景継を見る一方で、弥兵衛の位置も、通りを歩く人間の数も、逃げ道も確認しているように見える。
「どなたでしょう」
景継が聞く。
僧は笑った。
「人違いではなかったようですな」
「私を知っている?」
「お名前は」
「では、そちらのお名前は?」
僧が少し笑う。
「なるほど。噂通りだ」
景継は嫌な顔をした。
また噂だ。
「最近、その言葉をよく聞きます」
「有名になられたということでしょう」
「嬉しくありません」
「そうでしょうな」
僧は頭を下げた。
「玄庵と申します」
「玄庵殿」
「ただの僧にございます」
景継は僧を見る。
「ただの僧は、私を探して声をかけません」
玄庵の笑みが少し深くなる。
「少し、お時間をいただけませんか」
弥兵衛が一歩前へ出た。
「どなたの使いです」
玄庵は弥兵衛を見る。
「それを含めて、お話ししたい」
景継は少し考えた。
怪しい。
かなり怪しい。
だからこそ。
「分かりました」
弥兵衛が景継を見る。
「若様」
「人の多いところなら大丈夫でしょう」
「そういう問題では」
「それに」
景継は玄庵を見る。
「私も、この方が誰なのか知りたい」
◇◇◇
三人は城下の茶屋へ入った。
景継と弥兵衛が並び、その向かいに玄庵が座る。
茶が運ばれても、誰もすぐには手をつけなかった。
最初に口を開いたのは景継だった。
「それで、どなたの使いですか」
「お急ぎですな」
「知らない方と長く話す趣味はありません」
「では」
玄庵は少し声を落とした。
「駿河から参りました」
景継の目がわずかに変わる。
弥兵衛の表情も険しくなった。
「今川ですか」
「そうお考えいただいて構いません」
「義元様?」
「いいえ」
景継はすぐに次の名前を出す。
「太原雪斎様」
玄庵は笑った。
「やはり早い」
「二度も書状をいただいています」
「では話が早い」
玄庵は茶を一口飲んだ。
「雪斎様が、景継殿と直接話をしてみたいと」
景継は眉を寄せた。
「直接?」
「はい」
「駿河へ来いと?」
「そこまで遠くへお呼びするつもりはございません」
「ではどこで」
「三河」
弥兵衛がすぐに口を挟んだ。
「なりませぬ」
玄庵は落ち着いたままだった。
「理由をお聞きしても?」
「三河は今川の勢力下。若様を連れて行けば、戻れる保証がない」
「もっともです」
玄庵は否定しなかった。
景継はその返答を見て、少しだけ玄庵への警戒を強めた。
下手に安全だと言い切らない。
こちらが何を恐れるかを理解している。
「雪斎様は、私に何を聞きたいのでしょう」
景継が尋ねる。
「それはご本人から」
「なら行きません」
即答だった。
玄庵が少し驚いたように見えた。
「理由を知らず、敵方の勢力下へ入るほど勇敢ではありません」
「臆病なのですな」
「はい」
景継は平然と答えた。
「生きて帰るには便利です」
玄庵が声を上げて笑った。
「なるほど。雪斎様が興味を持たれるわけだ」
その言葉に、景継は少しだけ引っかかった。
「興味を持ったのは、いつです?」
玄庵の笑いが止まる。
「何のことでしょう」
「私は以前にも、今川の方へ同じことを聞きました」
景継は玄庵を見る。
「美濃へ行く前から、私を知っていたのでしょう」
玄庵は答えなかった。
景継はさらに続ける。
「十三歳の小土豪の次男を、なぜ今川がそれほど早く知ったのです」
「信長殿のそばにいるからでは?」
「二年前から?」
「……」
「九歳の頃から調べていた?」
玄庵は茶碗を置いた。
「景継殿」
「はい」
「知らない方がよいこともございます」
「その言い方をされると、余計に知りたくなります」
「困った御方だ」
「よく言われます」
◇◇◇
玄庵はしばらく景継を見ていた。
そして、少しだけ声の調子を変えた。
「では、一つだけお話ししましょう」
景継は黙って待った。
「雪斎様が最初にあなたのお名前を聞かれたのは、野伏せりの一件より後です」
景継の表情が変わった。
五歳の時。
林道領へ来た野伏せりを、隣の野々村領へ向かわせた一件。
あまりにも昔だ。
「なぜ、その話が今川まで?」
「情報は流れるものです」
「五歳の子供の話まで?」
「普通なら流れません」
玄庵は景継を見た。
「だから目についた」
景継は何も言わない。
「その後も、妙な話がいくつか入ったそうです。戦場で逃げ道を作り、味方の追撃を止めた童。信長殿から仕官を求められて断った童。そして清洲へ入り、家臣でもないのに評定を聞いている少年」
弥兵衛が険しい顔をする。
「そこまで調べているのか」
玄庵は答えなかった。
景継は逆に冷静になっていた。
今川は、自分が思っていたよりずっと前から尾張を見ている。
そして。
林道家のような小さな家の中まで。
「私だけではありませんね」
玄庵の目が少し動く。
「何がです」
「今川は、尾張の小さな家々まで調べている」
玄庵は笑った。
「それ以上は、私から申し上げられません」
だが、否定しない。
景継にはそれで十分だった。
◇◇◇
「雪斎様は、何を考えているのです」
景継が聞いた。
「今川が尾張を欲しいことくらい、私でも分かります」
「随分とはっきり仰る」
「違いますか」
玄庵は答えない。
「三河だけでは終わらない。尾張が信長様と信勝様に割れれば、その方が都合がいい」
弥兵衛が景継を見る。
今川の使者を前に、かなり危険な話をしている。
だが玄庵は怒らなかった。
「それで?」
「それで今川が兄弟の争いを煽っているのかを知りたい」
今度こそ。
玄庵の表情が少し変わった。
景継はその反応を見逃さなかった。
「津々木蔵人を知っていますか」
玄庵は答えない。
「清洲と末森の両方へ、三百の兵が来るという偽りの情報が流された」
「……」
「その片方へ接触した男は、三河の方から来た可能性がある」
「それだけで今川を疑われるのですか」
初めて玄庵が明確に反論した。
景継は頷く。
「疑います」
「証拠は?」
「ありません」
「ならば」
「だから、決めてはいません」
玄庵が黙る。
景継は続ける。
「ただ、今川が関わっていないなら」
「なら?」
「今川を犯人に見せたい誰かがいることになる」
玄庵の目が鋭くなった。
それまでの柔らかい僧の目ではなかった。
景継は確信した。
この男も。
何かを疑っている。
◇◇◇
「玄庵殿」
景継は少し声を落とす。
「もしかして」
玄庵は黙っている。
「今川も、誰かを探していますか」
しばらく沈黙が続いた。
茶屋の外から、人の声が聞こえる。
玄庵はゆっくり茶碗を持ち上げた。
「景継殿」
「はい」
「あなたは」
一度言葉を選ぶ。
「知らなくてもよいものまで、見ようとなさる」
「悪い癖ですか」
「命を縮めます」
「弥兵衛にもよく言われます」
「本当によくできた御家臣だ」
玄庵は茶を飲んだ後、ようやく答えた。
「今川も」
景継の目が変わる。
「今回の一件を、すべて自分たちの者が行ったとは考えておりませぬ」
弥兵衛が息を呑んだ。
景継はすぐに聞く。
「つまり、今川の人間も一部は動いた?」
玄庵の表情が止まる。
景継は気づいた。
「やはり」
「私は何も申しておりません」
「全部ではないと言いました」
「言葉尻を」
「なら訂正してください」
玄庵はしばらく景継を見た。
そして。
諦めたように笑った。
「本当に面倒な御方だ」
◇◇◇
玄庵が語ったのは、ごく一部だった。
今川は確かに尾張の情勢を探っている。
信長と信勝の対立についても情報を集めていた。
だが、清洲と末森へ同時に偽情報を流し、即座に戦を起こさせるような命は出していないという。
「信じろと言われても難しいですが」
景継が言う。
「でしょうな」
「それでも、なぜ私に話すのです」
「あなたが今川だけを追い始めれば、こちらにも都合が悪い」
「真犯人を逃がすから?」
「そうお考えください」
景継は考えた。
嘘かもしれない。
今川が自分たちへの疑いを逸らそうとしている可能性もある。
だが。
もし本当なら。
今回の騒動には、少なくとも三つの意志がある。
信長方。
信勝方。
そして。
その両方を動かそうとしている何者か。
さらに今川自身も、その何者かを探している。
「雪斎様に会えば」
景継が聞く。
「もう少し教えていただけますか」
「おそらく」
「おそらく?」
「雪斎様が、あなたをどこまで信用されるかによります」
「今川の人間ではない私を?」
「だからです」
景継は少し考えた。
敵だからこそ。
使える。
自分なら、どうする。
相手の家の中にいる。
今川とは直接つながっていない。
だが、頭は回る。
もし自分が雪斎なら。
利用する。
「私に探させたいのですね」
玄庵は笑った。
否定しなかった。
「嫌です」
「まだ何も申しておりません」
「顔に書いてあります」
「景継殿に言われるとは」
◇◇◇
景継はその場で答えを出さなかった。
信長へ話す必要がある。
当然だ。
勝手に今川の人間と接触し、さらに三河へ出向くなど、いくら正式な家臣ではないとはいえ危険すぎる。
「一度、信長様へ話します」
「構いません」
景継は少し驚いた。
「よいのですか」
「隠れて来られる方が、我らも困ります」
「なぜ」
玄庵は笑った。
「信長殿に、景継殿を奪うつもりだと思われたくありませんので」
景継は眉を寄せる。
「雪斎様も、私を欲しいのですか」
玄庵は少し考えた。
「興味は持っておられます」
「仕官は」
「それは、ご本人から聞かれては」
景継は小さく息を吐いた。
信長。
道三。
そして今川。
なぜ。
皆。
自分を欲しがる。
自分では、そこまでの価値があるとは思えない。
その考えが浮かんだ瞬間。
母が攫われた日のことを思い出した。
――己を小さく見積もるな。
帳面に書いた言葉。
景継は少しだけ苦笑した。
また同じことを考えている。
「分かりました」
「では?」
「信長様が許せば、雪斎様に会います」
玄庵は頭を下げた。
「お待ちしております」
◇◇◇
清洲へ戻った景継は、その日のうちに信長へすべて話した。
玄庵。
今川。
雪斎からの誘い。
そして、今川も今回の騒動のすべてを自分たちの仕業とは考えていないという話。
信長は珍しく、途中で笑わなかった。
最後まで聞いた後、景継を見た。
「それで」
「はい」
「行きたいのか」
「少し」
「少しか」
「かなり」
信長の口元が上がった。
「正直だな」
「気になります」
「罠かもしれんぞ」
「はい」
「捕らえられるかもしれん」
「はい」
「今川に寝返れと言われるかもしれん」
「それは断ります」
「即答か」
「今のところ」
信長の眉が動いた。
「今のところ?」
景継は少し笑った。
「信長様があまりにも酷ければ考えます」
信長が声を上げて笑った。
「言うようになったな!」
「十三ですから」
「関係あるか」
しばらく笑った後、信長の表情が戻った。
「行け」
景継が少し驚く。
「よいのですか」
「ああ」
「理由を聞いても?」
信長は景継を見る。
「雪斎が何を見ているのか、俺も知りたい」
「私を使って?」
「嫌なら行くな」
景継は少し考えた。
「行きます」
「なら決まりだ」
信長は立ち上がる。
「ただし一つ条件がある」
「何でしょう」
「戻ってこい」
景継は少しだけ目を細めた。
林道家の家訓。
勝たずともよい。
残れ。
その言葉が頭をよぎった。
「分かっています」
◇◇◇
数日後。
景継は弥兵衛と共に清洲を出た。
向かう先は三河。
そこで待っているのは太原雪斎。
今川義元を支え、三河から尾張までを見渡す男。
景継にとって、これまで会ってきた者とはまた違う種類の相手になる。
道三は、景継を値踏みした。
信長は、景継を欲しがった。
では雪斎は。
何のために自分を呼ぶ。
その答えを知るため、景継は馬を進めた。
そして同じ頃。
末森城の外れでは、津々木蔵人と繋がる男が、一通の書状を受け取っていた。
そこには短く、こう書かれていた。
『林道景継、三河へ向かう』
男はそれを読み終えると、静かに火へ投げ入れた。
景継が雪斎と会う。
それも。
最初から予定の内だった。




