↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/258

第二十二話 今川の目



太原雪斎へ二通目の返書を送ってから、三日が過ぎた。


景継はその間も、清洲と末森の双方へ偽りの情報を流した者を探っていた。


だが、目立った進展はない。


三河方面から来た者が持っていた可能性のある銭。


清洲方の武士へ接触した、名も知れぬ男。


津々木蔵人の不自然な動き。


手掛かりはいくつかあるものの、どれも今川へ直接つながる証拠にはならなかった。


「若様」


弥兵衛に呼ばれ、景継は机から顔を上げた。


「また同じ紙を見ておられますぞ」


「見ていれば、何か気づくかもしれません」


「昨日もそう申されておりました」


景継は机に広げた紙へ視線を戻す。


清洲。


末森。


三河。


そして今川。


線なら、いくらでも引ける。


だが、つなげられることと、本当につながっていることは違う。


景継は筆を置いた。


「やめます」


「珍しいですな」


「情報が増えていないのに考え続けても、自分の考えを補強するだけです」


「では?」


「城下へ行きます」


「また聞き込みを?」


「今日は何も考えず歩きます」


弥兵衛が疑わしそうな目を向けてきた。


「若様にできますか」


「……できるだけ」


弥兵衛の顔を見る限り、まったく信用されていないらしい。


清洲の城下は、昼を過ぎても人で溢れていた。


米、布、塩、油、鉄器。


商人が声を張り上げ、荷車が行き交う。


林道家の領地とは比べものにならないほど、多くの人と物と銭が毎日動いている。


景継は、こういう場所が嫌いではない。


人が集まれば物が集まる。


物が集まれば銭が動く。


銭があれば兵を養える。


そして人が集まる場所には、情報も集まる。


噂も、秘密も。


敵の間者にとっても、入り込みやすい。


「若様」


「はい」


「何も考えず歩くのでは?」


景継は弥兵衛を見る。


「今、何か言いましたか」


「もう諦めました」


その時だった。


「林道景継殿」


背後から名を呼ばれた。


景継と弥兵衛が同時に振り返る。


一人の僧が立っていた。


三十を少し過ぎた頃だろうか。質素な法衣をまとい、武器は見えない。


だが、景継には普通の僧とは思えなかった。


こちらを見ながら、弥兵衛の位置も確認している。


通りを歩く人々にも、さりげなく目を配っていた。


「どなたでしょう」


「人違いではなかったようですな」


「私をご存じで?」


「お名前だけは」


「では、そちらのお名前は?」


僧が笑った。


「玄庵と申します」


「玄庵殿」


「ただの僧にございます」


「ただの僧が、私を探して声をかけますか」


玄庵の笑みが少し深くなった。


「少し、お時間をいただけませんか」


弥兵衛が一歩前へ出る。


「どなたの使いです」


「それも含めて、お話しいたします」


怪しい。


だからこそ、景継は興味を持った。


「人の多いところでなら」


弥兵衛が横から景継を見る。


「若様」


「二人きりにはなりません」


「そういう問題でもないのですが」


それでも弥兵衛は止めなかった。


三人は近くの茶屋へ入った。


茶が運ばれると、景継はすぐに尋ねた。


「どなたの使いですか」


「随分とお急ぎですな」


「知らない方と腹の探り合いを続けても、茶が冷めるだけです」


玄庵は小さく笑った。


「では。駿河から参りました」


景継の目が変わる。


「今川ですか」


「そうお考えいただいて構いません」


「義元様?」


「いいえ」


ならば。


「太原雪斎様」


玄庵は答えず、茶へ口をつけた。


それだけで十分だった。


「雪斎様が、景継殿と直接話をしたいと申しております」


「駿河へ?」


「三河にございます」


隣で弥兵衛の表情が険しくなる。


「それはなりませぬ」


「理由をお聞きしても?」


「三河は今川の勢力下。若様が入れば、戻れる保証がない」


「もっともです」


玄庵はあっさり認めた。


景継はむしろ警戒を強めた。


安全だと言い張らない。


こちらが何を恐れるのかを理解している。


「雪斎様は、私に何を聞きたいのでしょう」


「それは、ご本人から」


「なら、お断りします」


玄庵の目がわずかに開く。


「理由も知らず、今川の勢力下へ入るほど勇敢ではありません」


「臆病なのですな」


「生き残るには役立ちます」


玄庵は声を上げて笑った。


「なるほど。雪斎様が早くから目を留められたのも分かります」


景継は、その言葉を聞き逃さなかった。


「早くから?」


玄庵の笑いが止まる。


「いつからです」


「さて」


「美濃へ行く前から、私を知っていましたね」


玄庵は答えない。


景継はさらに考えた。


「信長様の近くへ来たのは二年前です。それより前?」


玄庵が茶碗を置いた。


「知らなくてもよいことまで知ろうとなさる」


「その言い方だと、余計に気になります」


しばらく玄庵は景継を見ていた。


やがて、諦めたように息を吐く。


「雪斎様のお耳に最初に入ったのは、野伏せりの一件の後だったと聞いております」


景継の表情が変わった。


五歳の頃。


林道領へ来た野伏せりを、隣の野々村領へ向かわせた時だ。


「あの頃から?」


「あなた一人を特別に調べていた、とまでは申しません」


その言葉に、景継は気づいた。


「私だけではない」


玄庵が黙る。


「今川は以前から、尾張の小さな家々まで見ているのですね」


玄庵は答えなかった。


だが、否定もしなかった。


五歳の子供の策まで情報として拾われるほど、今川は尾張へ目を伸ばしている。


景継が思っていたより、ずっと深く。


「なら、一つ聞かせてください」


景継は声を落とした。


「今回、清洲と末森の両方へ偽りの情報を流したのは今川ですか」


玄庵の表情から笑みが消えた。


「なぜそう思われる」


「三河方面から来た可能性のある男が関わっています。それに今川にとって、信長様と信勝様が争えば都合がいい」


「それだけで?」


「疑うには十分です。決めつけるには足りません」


玄庵は黙って景継を見ている。


「津々木蔵人をご存じですか」


反応はない。


「清洲には『末森から三百』。末森には『清洲から三百』。同じような偽情報が流れました」


「興味深い話ですな」


「初めて聞いた顔には見えません」


玄庵の目が鋭くなった。


一瞬だった。


だが景継は見逃さない。


「今川も調べているのですね」


「何をでしょう」


「誰が、この騒ぎを起こそうとしたのかを」


沈黙。


茶屋の外から商人の声が聞こえてくる。


やがて玄庵が低い声で言った。


「一つだけ申し上げます」


景継は待った。


「尾張で起きることのすべてを、今川が動かしていると思われぬ方がよい」


否定とも肯定とも取れる。


景継はさらに踏み込んだ。


「では今回、今川はまったく関わっていない?」


玄庵は答えない。


その沈黙に、景継は引っかかった。


まったく、とは言わない。


「今川の者も動いていた。ただし、清洲と末森を戦わせようとした者が今川とは限らない」


玄庵の目がわずかに細くなった。


「私は何も申しておりません」


「違うなら否定してください」


「景継殿」


玄庵は困ったように笑った。


「あなたと話していると、余計なことまで話してしまいそうだ」


そこから先は言わなかった。


だが景継には、一つだけ分かった。


今川は尾張を見ている。


今回の騒動についても、何かを知っている。


そして、すべてを自分たちの思惑通りに動かせているわけではない。


「それで、雪斎様は私を呼んで何をさせたいのです」


「させたい?」


「今川と関係のない私なら、尾張の中を動ける」


玄庵は静かに景継を見る。


「私に、誰が動いているのか探させたいのでは?」


「随分と自信がおありだ」


「逆です。面倒事を押しつけられそうなので警戒しています」


玄庵が笑った。


否定しない。


景継は小さく息を吐いた。


「嫌ですね」


「まだ何も頼んでおりません」


「だから余計に嫌なのです」


玄庵は茶を飲み干した。


「詳しい話は、雪斎様から直接お聞きください」


「会えば教えてくださる?」


「景継殿次第でしょうな」


結局、そこへ戻るらしい。


「一度、信長様へ話します」


「もちろん」


景継は少し意外に思った。


「隠す必要はないのですか」


「隠れて連れ出したと思われる方が困ります」


玄庵は立ち上がった。


「我らは、今のところ信長殿と争うために景継殿を呼ぶわけではございません」


今のところ。


景継はその言葉を覚えておくことにした。


その日のうちに、景継は信長へすべて話した。


玄庵。


雪斎からの誘い。


今川が今回の一件について、何かを調べているらしいこと。


信長は最後まで口を挟まずに聞いた。


「それで」


「はい」


「行きたいのか」


景継は少し考えた。


「行きたいです」


「即答ではないのだな」


「危険ですから」


「罠かもしれん」


「はい」


「捕らえられるかもしれんぞ」


「それも考えています」


信長はしばらく景継を見た。


「それでも行くか」


「雪斎様が何を知っているのか、確かめたいです」


信長の口元がわずかに上がる。


「なら行け」


今度は景継が驚いた。


「よいのですか」


「雪斎が何を見ているのか、俺も知りたい」


「私を使って?」


「嫌ならやめろ」


景継は少し考えた後、首を横に振った。


「行きます」


信長が頷く。


「一つだけ条件がある」


「何でしょう」


「戻ってこい」


景継は一瞬、黙った。


父の言葉が頭に浮かぶ。


勝たずともよい。


残れ。


景継は静かに頷いた。


「そのつもりです」


数日後。


景継は弥兵衛と共に清洲を出た。


向かう先は三河。


そこで待っているのは、太原雪斎。


今川義元を支え、長く外交と戦を見てきた男だ。


斎藤道三は景継を値踏みした。


信長は景継をそばへ置こうとした。


では、雪斎は何を見るのか。


その答えを求め、景継は馬を進めた。


同じ頃。


末森城から離れた場所で、旅商人姿の男が一通の書状を受け取っていた。


『林道景継、三河へ向かう』


男は一度だけ目を通し、紙を火へ落とした。


炎が文字を飲み込んでいく。


「ようやく動いたか」


誰に聞かせるでもなく呟く。


景継が雪斎と会う。


それすらも、男たちにとっては想定の内だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。