表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/111

第二十三話 雪斎の試し


三河へ向かう道中、景継はほとんど口を開かなかった。


隣を進む弥兵衛も最初のうちは黙っていたが、半刻ほど経ったところでとうとう我慢できなくなったらしい。


「若様」


「はい」


「先ほどから難しい顔をされておりますな」


「いつも通りです」


「いつもより難しい顔です」


景継は前を向いたまま答えた。


「考えているだけです」


「雪斎様のことで?」


「はい」


太原雪斎。今川義元を支える僧であり、軍事、外交、政にも深く関わる人物だと聞いている。今川家が駿河だけでなく遠江、そして三河へ勢力を伸ばしていく中でも、重要な役割を果たしてきた男だ。


そんな人物が、なぜ十三歳の自分をわざわざ呼ぶのか。景継にはまだ、その理由が分からなかった。


「弥兵衛」


「はい」


「私が戻らなければ、どうします?」


弥兵衛は少し考えてから答えた。


「信長様へ報告します」


「助けに来ないのですか」


「一人で今川領内へ攻め込めと?」


「できませんか」


「できませぬ」


景継は少し笑った。


「正しい判断です」


「若様も、できれば正しい判断をしてください」


「努力します」


「それが一番不安です」


二人はそのまま馬を進めた。


◇◇◇


指定された場所は、三河の外れにある寺だった。


景継が想像していたよりも小さく、兵の姿もほとんど見えない。今川の重臣と会う場所とは思えないほど静かだった。


「ここですか」


「そのようですな」


二人が馬を降りると、一人の僧が出迎えた。以前、清洲の城下で景継へ声をかけてきた玄庵だった。


「よくお越しくださいました」


「本当に来ると思っていました?」


景継が聞く。


玄庵は少し笑った。


「半々でしょうか」


「来なければ?」


「それも一つの答えです」


景継の眉がわずかに動いた。


どうやら、ここへ来るかどうかまで見られていたらしい。


「雪斎様は?」


「中でお待ちです」


玄庵が先に歩き出し、景継と弥兵衛も続いた。だが寺の奥へ入るところで、玄庵が立ち止まった。


「申し訳ございません。景継殿お一人でお願いいたします」


弥兵衛の表情が険しくなる。


「それは認められぬ」


「弥兵衛」


景継が止めた。


「若様」


「大丈夫です」


「何を根拠に」


「私を殺すだけなら、ここまで呼ぶ必要はありません」


「それでも危険です」


「分かっています」


景継は少し考えてから続けた。


「もし半刻経っても戻らなければ、中へ入ってください」


「半刻も?」


「では四半刻」


「長い」


「面倒ですね」


「若様の命の話です」


玄庵が笑いを堪えている。


景継は玄庵を見る。


「何か?」


「良い御家臣をお持ちですな」


「私もそう思います」


弥兵衛が少しだけ照れたような顔をした。


◇◇◇


玄庵に案内された部屋には、一人の僧が座っていた。


景継が想像していた人物とは少し違う。もっと威圧感の強い男だと思っていたが、目の前にいる男は穏やかな顔をしており、静かに茶を飲んでいた。


ただし、目だけは違った。


景継が部屋へ入った瞬間から、こちらを見ている。顔だけではなく、歩き方、立ち止まる位置、視線の動きまで、すべてを見られているような感覚があった。


景継は男の前で頭を下げた。


「林道景継にございます」


「太原雪斎だ。まあ、座られよ」


景継は向かいへ座った。


雪斎は何も言わない。景継も話さなかった。


しばらく沈黙が続く。


自分から話すのを待っている。


景継はそう判断した。


ならば、こちらも待つ。


さらに時間が過ぎたところで、雪斎が先に笑った。


「十三とは思えぬな」


「よく言われます」


「普通なら、この沈黙に耐えられぬ」


「雪斎様が私を呼ばれたので」


「うむ」


「話したいことがあるのは、そちらでしょう」


雪斎の笑みが少し深くなった。


「なるほど」


景継は、最初の試しは終わったらしいと思った。


◇◇◇


雪斎が茶を勧めた。


景継が茶碗を見ると、雪斎が笑う。


「毒は入っておらぬ」


「聞いていません」


「顔に書いてある」


「では、いただきます」


景継は一口飲んだ。


普通の茶だった。


雪斎が茶碗を置く。


「景継殿。まず一つ聞きたい」


「何でしょう」


「なぜ信長殿なのだ」


景継は少し意外だった。


「どういう意味でしょう」


「お主なら分かるだろう」


雪斎は静かな口調のまま続けた。


「今の織田信長は、尾張すらまとめきれておらぬ。弟と争い、家臣にも敵がおる。美濃には斎藤がおり、東には我ら今川がおる。決して強い立場ではない」


「そうですね」


「それでも、お主はあの男のそばにいる」


「正式な家臣ではありません」


「それは聞いておる」


雪斎が少し笑った。


「斎藤道三からも誘われたそうだな」


景継の表情がわずかに変わる。


「そこまでご存じですか」


「情報は大事だからな」


「今川は怖いですね」


「褒め言葉として受け取ろう」


雪斎は景継を見た。


「道三を断った。今川から声をかけられても、今のところ動く様子はない。それでも信長殿には正式に仕えていない。なぜだ」


景継は答えに困った。


何度か自分でも考えたことがある。


信長が強いからではない。優れているからというだけでもない。自分を高く評価してくれているからというのも、理由の一つにすぎない。


一番近い答えを選ぶなら。


「面白いからです」


雪斎の眉が少し動いた。


「面白い?」


「はい」


「それだけか」


「今のところは」


雪斎はしばらく景継を見つめた。


「お主は、信長殿が大きくなると思っているのではないか」


景継は答えなかった。


思っている。


なぜか、初めて会った時からそう感じている。


「理由は?」


雪斎が聞く。


景継は少し考えた後、正直に答えた。


「分かりません」


「分からぬ?」


「はい」


「お主ほど考える者が、理由もなく人を見るか」


景継は自分の手へ視線を落とした。


「だから、私も困っています」


雪斎の目が少し細くなる。


「信長殿を見ると、誰かを思い出すのか」


景継の手が止まった。


顔を上げる。


「何を言っているのです」


「噂だ」


「どんな」


「お主は時々、信長殿を見る時に妙な顔をするそうだ。死人を見ているような顔だ、と」


景継は黙った。


それは、信長本人からも言われたことがある。


「誰から聞きました」


「それを答える必要はあるか」


「ありませんね」


景継は少しだけ警戒を強めた。


雪斎は、自分のことを思っていた以上に詳しく調べている。


「その誰かは、誰だ」


雪斎が聞く。


景継は首を横に振った。


「分かりません」


今度の答えは本当だった。


思い出せない。


いや、思い出すことを、自分のどこかが拒んでいるような感覚すらあった。


◇◇◇


雪斎はそれ以上、その話を追わなかった。


代わりに部屋の隅に置かれていた盤を、景継との間へ移動させた。その盤には尾張、三河、美濃、駿河、遠江を示す簡単な地図が描かれている。


「何でしょう」


「少し遊ぼう」


「嫌な予感がします」


「お主を試す」


「やはり」


雪斎は盤上へ石を置き始めた。


尾張側には少数。三河側には、その数倍の石を置く。


「こちらが織田。こちらが今川だ」


景継は数を見る。


圧倒的に違う。


「今川が尾張へ攻める。お主は織田方だ。どうする」


景継はすぐには答えなかった。


盤を見ながら尋ねる。


「目的は?」


「尾張を攻めることだ」


「それでは足りません」


雪斎の眉が動く。


「何が知りたい」


「今川軍は何を目的として尾張へ入りますか。清洲を落とすのか、信長様を討つのか、それとも尾張全体を取るのか」


「尾張を取るとしよう」


「兵糧は何日分です」


雪斎が少し笑う。


「十分ある」


「進軍路は?」


「三河から尾張へ」


「どこを通るのです」


「細かいな」


「分からなければ戦えません」


雪斎は楽しそうだった。


「では、大高方面から入るとしよう」


景継の目が少し変わる。


「兵数は?」


「織田の数倍」


「具体的には」


「二万」


景継は盤を見る。


二万。


対する織田は数千。


まともに正面から戦えば、まず勝てない。


「今川軍の総大将は?」


雪斎が答える。


「義元様自ら」


その瞬間だった。


景継の頭の中に、突然景色が浮かんだ。


激しい雨が降っている。


狭い道。


木々。


ぬかるんだ地面。


混乱する大軍。


そして少数の兵が、何か一つの場所へ向かって一気に駆けている。


景継は思わず額を押さえた。


「どうした」


雪斎が聞く。


「……何でもありません」


「顔色が悪いぞ」


「少し考えすぎただけです」


景継は息を整えた。


何だったのか。


知らない景色だった。


この国で見た覚えもない。


それなのに、妙な現実味があった。


「続けられるか」


「はい」


景継はもう一度盤を見る。


二万の軍勢。


数千の織田。


勝つ。


その考え方自体が間違っている。


二万を倒す必要はない。


「大軍とは戦いません」


雪斎の表情が少し変わった。


「なら、どうする」


景継は織田側の石を手に取った。


「義元様の位置を探します」


「見つけて?」


景継はその石を今川軍の中央へ置いた。


「討ちます」


部屋が静かになった。


雪斎はしばらく景継を見つめた。


「大軍を無視して?」


「はい」


「義元様の周りにも兵はいる」


「当然です」


「簡単に近づけぬ」


「はい」


「それでも?」


景継は盤上の石を見る。


「二万を倒すよりは簡単です」


雪斎は笑わなかった。


景継は続ける。


「今川軍が義元様を中心に動いているなら、義元様を失った時点で軍全体が止まる可能性があります。それに大軍ほど、全員が同じ状況を把握できません。前の兵が何をしているか後ろは分からず、後ろの混乱も前には伝わりにくい」


「混乱を作ると?」


「作れるなら」


「どうやって」


「地形、天候、偽の情報。その時に使えるものは何でも使います」


そこまで言って、景継は自分の言葉に違和感を覚えた。


あまりにも自然だった。


まるで以前にも何度も、大軍を相手に同じようなことを考えてきたかのように。


「誰に教わった」


雪斎が聞いた。


景継は顔を上げる。


「何をです」


「今の考え方だ」


景継は答えられなかった。


父ではない。


弥兵衛でもない。


信長でもない。


本で学んだ覚えもない。


それなのに知っている。


「分かりません」


雪斎は景継を見つめる。


「またか」


「本当に分からないのです」


今度は雪斎も笑わなかった。


◇◇◇


「なら次の問いだ」


雪斎は盤を片づけず、そのまま話を続けた。


「今川軍が尾張へ入った。お主は策を考え、信長殿へ進言した。だが信長殿は、お主の策を聞かなかった。どうする」


景継は少し考えた。


「理由を聞きます」


「聞いても、別の策を選んだ」


「従います」


雪斎の眉が動く。


「意外だな」


「何がです」


「お主なら、自分が正しいと思えば押し通すかと思った」


「私が間違っているかもしれません」


十一歳の時、母を危険にさらしたことを景継は忘れていない。


自分の読みを信じすぎた。


あの失敗以来、自分の考えを疑うことも覚えた。


「では、信長殿が明らかに間違っていると分かったら?」


「止めます」


「それでも聞かぬ」


「もう一度止めます」


「それでも聞かぬなら?」


景継は少し考えた。


「最後は好きにさせます」


「主が死ぬかもしれぬぞ」


「信長様の人生です」


雪斎は少し驚いたようだった。


景継は続ける。


「私は策を出せます。説得することもできます。でも、最後に何を選ぶかは信長様が決めることです」


「冷たいな」


「そうでしょうか」


「主を救おうとは思わぬか」


「思います」


景継は即答した。


「ですが、人は自分が選んだ結果まで他人に奪われたくないでしょう」


雪斎の表情が少し変わった。


その言葉を聞いて、何かを考えているようだった。


「景継殿」


「はい」


「お主は、誰かの下に立つことが嫌いなのではないか」


景継は答えられなかった。


その質問だけは、妙に胸に残った。


◇◇◇


雪斎はそこで話題を変えた。


「今度はこちらから、お主の問いに答えよう」


景継の表情が変わる。


「清洲と末森の件ですか」


「そうだ」


景継は姿勢を直した。


雪斎は茶を一口飲んでから話し始める。


「今川は尾張へ人を入れている。信長殿と信勝殿の対立についても調べていた。そして一部の者は、信勝方へ近づこうとしていた」


「やはり」


「隠すようなことでもない」


「では、津々木蔵人は?」


雪斎は首を横に振った。


「違う」


「本当ですか」


「少なくとも、儂の命で動く者ではない」


景継は雪斎を見る。


完全には信用できない。


だが、雪斎がここで明確に否定する理由も考えなければならない。


「では、清洲と末森に三百という偽りの兵数を流したのは?」


「我らではない」


「それを信じろと?」


「信じなくてよい」


意外な答えだった。


雪斎は穏やかな表情のまま続ける。


「疑え。今川も含めてな」


景継は少しだけ目を細めた。


「なぜ私に話すのです」


「理由は二つある」


「一つは?」


「我らも知りたい」


「誰がやったのかを?」


「そうだ」


「もう一つは?」


雪斎が笑った。


「お主なら、勝手に調べるだろう」


景継は黙った。


完全に読まれている。


「嫌です」


「何が」


「利用されるのは」


「なら調べぬか」


景継は答えられなかった。


無理だ。


ここまで知ってしまった以上、気にならないはずがない。


「ずるいですね」


「兵法では褒め言葉だ」


「僧の言葉とは思えません」


「よく言われる」


◇◇◇


景継は少し考えた後、もう一つ聞いた。


「今川も、その人物を探しているのですね」


「いる」


「なぜです」


「我らの名を勝手に使われては困る」


雪斎の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「それに、その者は今川と織田を戦わせようとしている可能性がある」


景継の表情が変わった。


「なぜそう思うのです」


「尾張の内部だけを乱したいなら、信長殿と信勝殿を戦わせればよい。だが、三河につながる銭まで残した」


景継の目が止まった。


城下で手に入れた銭。


雪斎は、そのことまで知っている。


「どこから知ったのです」


「今川にも耳はある」


景継は少し嫌な顔をした。


「本当に怖いですね」


「先ほども聞いた」


雪斎は続ける。


「わざと今川を疑わせようとしているのかもしれぬ」


「なら目的は」


「お主ならどう考える」


景継は盤上の地図を見る。


尾張、美濃、三河。その周囲にもいくつもの勢力がある。


信長と信勝を争わせる。


今川にも疑いを向ける。


尾張と今川の関係まで悪くする。


もし両者が戦えば、得をする者がいる。


「美濃?」


雪斎は答えない。


景継はすぐに首を横に振った。


「違うと思います」


「なぜ」


「道三様が今、信長様と今川を戦わせる必要がありません」


「では?」


景継はしばらく考えたが、最後には首を横に振った。


「まだ分かりません」


雪斎が笑う。


「それでよい」


「よいのですか」


「最初から答えが出る方が危険だ」


景継は、その言葉を覚えておこうと思った。


◇◇◇


長い話が終わり、景継は立ち上がった。


「そろそろ帰ります」


「そうか」


「信長様にも、今日のお話は伝えます」


「構わぬ」


景継は少し驚いた。


「よいのですか」


「隠す必要がない」


「全部を?」


「全部を信じるかどうかは、信長殿が決める」


景継は少し笑った。


「先ほど私が言ったことと似ていますね」


「何が」


「最後に決めるのは、その人だと」


雪斎も少し笑った。


景継は頭を下げ、戸へ向かった。


その背中に雪斎が声をかける。


「景継殿」


景継が振り返った。


「一つだけ忠告しておこう」


「何でしょう」


雪斎は盤上に残っていた今川側の石へ目を向ける。


「もし本当に義元様が大軍を率いて尾張へ入る日が来ても、今日の策は使うな」


景継は少し笑った。


「なぜです」


「義元様を死なせたくない」


景継も笑った。


「では、その時は別の策を考えます」


「そうしてくれ」


冗談のような会話だった。


だが景継の胸には、先ほど見えた景色が残り続けていた。


激しい雨。


混乱する大軍。


そして、その中心へ向かって駆ける少数の兵。


なぜ自分がそんな光景を思い浮かべたのかは、分からなかった。


◇◇◇


寺を出ると、弥兵衛がすぐに近づいてきた。


「ご無事でしたか」


「はい」


「長すぎます」


「話が多かったので」


「何を話されたのです」


「今川が尾張へ来たらどうするか、と」


弥兵衛の顔が引きつった。


「それはまた、縁起でもない話を」


「そうですね」


二人は馬へ向かった。


途中で景継が足を止める。


「弥兵衛」


「はい」


「一つ聞いても?」


「何でしょう」


景継は少し迷ってから聞いた。


「まだ起きていないことなのに、昔のことのように感じたことはありますか」


弥兵衛はしばらく景継を見つめた。


「ございません」


「ですよね」


「若様」


「はい」


「少し休まれた方がよいのでは?」


「私もそう思います」


景継はそれ以上話さなかった。


◇◇◇


景継が去った後、玄庵が雪斎の部屋へ入った。


「いかがでした」


雪斎は、盤上の石を見ていた。


織田の少数。


今川の大軍。


そして、その中央へ置かれた小さな石。


「面白い」


玄庵が笑う。


「信長殿や道三殿と同じことを仰いますな」


「だが、恐ろしい」


雪斎の声には笑いがなかった。


玄庵の表情が少し変わる。


「十三の少年が?」


「ああ」


雪斎は、先ほど景継が口にした策を思い返した。


二万の兵をどう倒すか。


そう聞かれれば、普通は二万を相手にする方法を考える。


籠城。


援軍。


地形。


伏兵。


だが景継は違った。


最初から二万の軍勢そのものを見ていない。


「普通の者なら、少ない兵で大軍にどう勝つかを考える」


「はい」


「あれは違った」


「何がでしょう」


「最初から、軍そのものを倒そうとしておらぬ」


雪斎は盤上の中央に置かれた石を指で転がした。


「大将を殺せば軍が止まる。だから大将だけを探す。あれは十三の童が、本を読んだだけで身につける考え方ではない」


玄庵は黙って聞いている。


「では、何だと?」


雪斎はすぐには答えなかった。


やがて静かな声で言った。


「何万という人間を、実際に動かしたことのある者の考え方だ」


玄庵の表情から笑みが消えた。


「まさか」


「分かっておる。あり得ぬ」


十三歳。


尾張の小土豪の次男。


それ以外の何者でもない。


そのはずだった。


それでも雪斎は、景継が座っていた場所からしばらく目を離せなかった。


◇◇◇


清洲へ戻る途中、景継は馬上で何度も同じ景色を思い出していた。


雨の中で混乱する大軍。


木々の間を抜け、一ヶ所へ向かって駆ける少数の兵。


自分はその中にはいない。


見たこともない。


それなのに、なぜか知っている気がする。


そしてもう一つ、頭の奥で微かな声が聞こえた。


――大軍を破る必要はない。頭を落とせば、身体は止まる。


景継は馬を止めた。


「若様?」


弥兵衛も馬を止める。


「どうされました」


景継はすぐには答えなかった。


今の言葉は、雪斎との会話で自分が考えたことと同じだった。


だが、自分が今考えたものではない。


もっと昔。


ずっと昔に。


誰かが言った。


いや、自分自身が口にしたことがある。


そんな感覚が残っていた。


「何でもありません」


景継は再び馬を進めた。


まだ思い出さなくていい。


なぜか、そう思った。


だが景継自身が望むかどうかに関係なく、閉じていた前世の記憶は少しずつ形を取り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ