第二十三話 雪斎の試し
三河へ向かう道中、景継はほとんど口を開かなかった。
隣を進む弥兵衛も最初のうちは黙っていたが、半刻ほど経ったところでとうとう我慢できなくなったらしい。
「若様」
「はい」
「先ほどから難しい顔をされておりますな」
「いつも通りです」
「いつもより難しい顔です」
景継は前を向いたまま答えた。
「考えているだけです」
「雪斎様のことで?」
「はい」
太原雪斎。今川義元を支える僧であり、軍事、外交、政にも深く関わる人物だと聞いている。今川家が駿河だけでなく遠江、そして三河へ勢力を伸ばしていく中でも、重要な役割を果たしてきた男だ。
そんな人物が、なぜ十三歳の自分をわざわざ呼ぶのか。景継にはまだ、その理由が分からなかった。
「弥兵衛」
「はい」
「私が戻らなければ、どうします?」
弥兵衛は少し考えてから答えた。
「信長様へ報告します」
「助けに来ないのですか」
「一人で今川領内へ攻め込めと?」
「できませんか」
「できませぬ」
景継は少し笑った。
「正しい判断です」
「若様も、できれば正しい判断をしてください」
「努力します」
「それが一番不安です」
二人はそのまま馬を進めた。
◇◇◇
指定された場所は、三河の外れにある寺だった。
景継が想像していたよりも小さく、兵の姿もほとんど見えない。今川の重臣と会う場所とは思えないほど静かだった。
「ここですか」
「そのようですな」
二人が馬を降りると、一人の僧が出迎えた。以前、清洲の城下で景継へ声をかけてきた玄庵だった。
「よくお越しくださいました」
「本当に来ると思っていました?」
景継が聞く。
玄庵は少し笑った。
「半々でしょうか」
「来なければ?」
「それも一つの答えです」
景継の眉がわずかに動いた。
どうやら、ここへ来るかどうかまで見られていたらしい。
「雪斎様は?」
「中でお待ちです」
玄庵が先に歩き出し、景継と弥兵衛も続いた。だが寺の奥へ入るところで、玄庵が立ち止まった。
「申し訳ございません。景継殿お一人でお願いいたします」
弥兵衛の表情が険しくなる。
「それは認められぬ」
「弥兵衛」
景継が止めた。
「若様」
「大丈夫です」
「何を根拠に」
「私を殺すだけなら、ここまで呼ぶ必要はありません」
「それでも危険です」
「分かっています」
景継は少し考えてから続けた。
「もし半刻経っても戻らなければ、中へ入ってください」
「半刻も?」
「では四半刻」
「長い」
「面倒ですね」
「若様の命の話です」
玄庵が笑いを堪えている。
景継は玄庵を見る。
「何か?」
「良い御家臣をお持ちですな」
「私もそう思います」
弥兵衛が少しだけ照れたような顔をした。
◇◇◇
玄庵に案内された部屋には、一人の僧が座っていた。
景継が想像していた人物とは少し違う。もっと威圧感の強い男だと思っていたが、目の前にいる男は穏やかな顔をしており、静かに茶を飲んでいた。
ただし、目だけは違った。
景継が部屋へ入った瞬間から、こちらを見ている。顔だけではなく、歩き方、立ち止まる位置、視線の動きまで、すべてを見られているような感覚があった。
景継は男の前で頭を下げた。
「林道景継にございます」
「太原雪斎だ。まあ、座られよ」
景継は向かいへ座った。
雪斎は何も言わない。景継も話さなかった。
しばらく沈黙が続く。
自分から話すのを待っている。
景継はそう判断した。
ならば、こちらも待つ。
さらに時間が過ぎたところで、雪斎が先に笑った。
「十三とは思えぬな」
「よく言われます」
「普通なら、この沈黙に耐えられぬ」
「雪斎様が私を呼ばれたので」
「うむ」
「話したいことがあるのは、そちらでしょう」
雪斎の笑みが少し深くなった。
「なるほど」
景継は、最初の試しは終わったらしいと思った。
◇◇◇
雪斎が茶を勧めた。
景継が茶碗を見ると、雪斎が笑う。
「毒は入っておらぬ」
「聞いていません」
「顔に書いてある」
「では、いただきます」
景継は一口飲んだ。
普通の茶だった。
雪斎が茶碗を置く。
「景継殿。まず一つ聞きたい」
「何でしょう」
「なぜ信長殿なのだ」
景継は少し意外だった。
「どういう意味でしょう」
「お主なら分かるだろう」
雪斎は静かな口調のまま続けた。
「今の織田信長は、尾張すらまとめきれておらぬ。弟と争い、家臣にも敵がおる。美濃には斎藤がおり、東には我ら今川がおる。決して強い立場ではない」
「そうですね」
「それでも、お主はあの男のそばにいる」
「正式な家臣ではありません」
「それは聞いておる」
雪斎が少し笑った。
「斎藤道三からも誘われたそうだな」
景継の表情がわずかに変わる。
「そこまでご存じですか」
「情報は大事だからな」
「今川は怖いですね」
「褒め言葉として受け取ろう」
雪斎は景継を見た。
「道三を断った。今川から声をかけられても、今のところ動く様子はない。それでも信長殿には正式に仕えていない。なぜだ」
景継は答えに困った。
何度か自分でも考えたことがある。
信長が強いからではない。優れているからというだけでもない。自分を高く評価してくれているからというのも、理由の一つにすぎない。
一番近い答えを選ぶなら。
「面白いからです」
雪斎の眉が少し動いた。
「面白い?」
「はい」
「それだけか」
「今のところは」
雪斎はしばらく景継を見つめた。
「お主は、信長殿が大きくなると思っているのではないか」
景継は答えなかった。
思っている。
なぜか、初めて会った時からそう感じている。
「理由は?」
雪斎が聞く。
景継は少し考えた後、正直に答えた。
「分かりません」
「分からぬ?」
「はい」
「お主ほど考える者が、理由もなく人を見るか」
景継は自分の手へ視線を落とした。
「だから、私も困っています」
雪斎の目が少し細くなる。
「信長殿を見ると、誰かを思い出すのか」
景継の手が止まった。
顔を上げる。
「何を言っているのです」
「噂だ」
「どんな」
「お主は時々、信長殿を見る時に妙な顔をするそうだ。死人を見ているような顔だ、と」
景継は黙った。
それは、信長本人からも言われたことがある。
「誰から聞きました」
「それを答える必要はあるか」
「ありませんね」
景継は少しだけ警戒を強めた。
雪斎は、自分のことを思っていた以上に詳しく調べている。
「その誰かは、誰だ」
雪斎が聞く。
景継は首を横に振った。
「分かりません」
今度の答えは本当だった。
思い出せない。
いや、思い出すことを、自分のどこかが拒んでいるような感覚すらあった。
◇◇◇
雪斎はそれ以上、その話を追わなかった。
代わりに部屋の隅に置かれていた盤を、景継との間へ移動させた。その盤には尾張、三河、美濃、駿河、遠江を示す簡単な地図が描かれている。
「何でしょう」
「少し遊ぼう」
「嫌な予感がします」
「お主を試す」
「やはり」
雪斎は盤上へ石を置き始めた。
尾張側には少数。三河側には、その数倍の石を置く。
「こちらが織田。こちらが今川だ」
景継は数を見る。
圧倒的に違う。
「今川が尾張へ攻める。お主は織田方だ。どうする」
景継はすぐには答えなかった。
盤を見ながら尋ねる。
「目的は?」
「尾張を攻めることだ」
「それでは足りません」
雪斎の眉が動く。
「何が知りたい」
「今川軍は何を目的として尾張へ入りますか。清洲を落とすのか、信長様を討つのか、それとも尾張全体を取るのか」
「尾張を取るとしよう」
「兵糧は何日分です」
雪斎が少し笑う。
「十分ある」
「進軍路は?」
「三河から尾張へ」
「どこを通るのです」
「細かいな」
「分からなければ戦えません」
雪斎は楽しそうだった。
「では、大高方面から入るとしよう」
景継の目が少し変わる。
「兵数は?」
「織田の数倍」
「具体的には」
「二万」
景継は盤を見る。
二万。
対する織田は数千。
まともに正面から戦えば、まず勝てない。
「今川軍の総大将は?」
雪斎が答える。
「義元様自ら」
その瞬間だった。
景継の頭の中に、突然景色が浮かんだ。
激しい雨が降っている。
狭い道。
木々。
ぬかるんだ地面。
混乱する大軍。
そして少数の兵が、何か一つの場所へ向かって一気に駆けている。
景継は思わず額を押さえた。
「どうした」
雪斎が聞く。
「……何でもありません」
「顔色が悪いぞ」
「少し考えすぎただけです」
景継は息を整えた。
何だったのか。
知らない景色だった。
この国で見た覚えもない。
それなのに、妙な現実味があった。
「続けられるか」
「はい」
景継はもう一度盤を見る。
二万の軍勢。
数千の織田。
勝つ。
その考え方自体が間違っている。
二万を倒す必要はない。
「大軍とは戦いません」
雪斎の表情が少し変わった。
「なら、どうする」
景継は織田側の石を手に取った。
「義元様の位置を探します」
「見つけて?」
景継はその石を今川軍の中央へ置いた。
「討ちます」
部屋が静かになった。
雪斎はしばらく景継を見つめた。
「大軍を無視して?」
「はい」
「義元様の周りにも兵はいる」
「当然です」
「簡単に近づけぬ」
「はい」
「それでも?」
景継は盤上の石を見る。
「二万を倒すよりは簡単です」
雪斎は笑わなかった。
景継は続ける。
「今川軍が義元様を中心に動いているなら、義元様を失った時点で軍全体が止まる可能性があります。それに大軍ほど、全員が同じ状況を把握できません。前の兵が何をしているか後ろは分からず、後ろの混乱も前には伝わりにくい」
「混乱を作ると?」
「作れるなら」
「どうやって」
「地形、天候、偽の情報。その時に使えるものは何でも使います」
そこまで言って、景継は自分の言葉に違和感を覚えた。
あまりにも自然だった。
まるで以前にも何度も、大軍を相手に同じようなことを考えてきたかのように。
「誰に教わった」
雪斎が聞いた。
景継は顔を上げる。
「何をです」
「今の考え方だ」
景継は答えられなかった。
父ではない。
弥兵衛でもない。
信長でもない。
本で学んだ覚えもない。
それなのに知っている。
「分かりません」
雪斎は景継を見つめる。
「またか」
「本当に分からないのです」
今度は雪斎も笑わなかった。
◇◇◇
「なら次の問いだ」
雪斎は盤を片づけず、そのまま話を続けた。
「今川軍が尾張へ入った。お主は策を考え、信長殿へ進言した。だが信長殿は、お主の策を聞かなかった。どうする」
景継は少し考えた。
「理由を聞きます」
「聞いても、別の策を選んだ」
「従います」
雪斎の眉が動く。
「意外だな」
「何がです」
「お主なら、自分が正しいと思えば押し通すかと思った」
「私が間違っているかもしれません」
十一歳の時、母を危険にさらしたことを景継は忘れていない。
自分の読みを信じすぎた。
あの失敗以来、自分の考えを疑うことも覚えた。
「では、信長殿が明らかに間違っていると分かったら?」
「止めます」
「それでも聞かぬ」
「もう一度止めます」
「それでも聞かぬなら?」
景継は少し考えた。
「最後は好きにさせます」
「主が死ぬかもしれぬぞ」
「信長様の人生です」
雪斎は少し驚いたようだった。
景継は続ける。
「私は策を出せます。説得することもできます。でも、最後に何を選ぶかは信長様が決めることです」
「冷たいな」
「そうでしょうか」
「主を救おうとは思わぬか」
「思います」
景継は即答した。
「ですが、人は自分が選んだ結果まで他人に奪われたくないでしょう」
雪斎の表情が少し変わった。
その言葉を聞いて、何かを考えているようだった。
「景継殿」
「はい」
「お主は、誰かの下に立つことが嫌いなのではないか」
景継は答えられなかった。
その質問だけは、妙に胸に残った。
◇◇◇
雪斎はそこで話題を変えた。
「今度はこちらから、お主の問いに答えよう」
景継の表情が変わる。
「清洲と末森の件ですか」
「そうだ」
景継は姿勢を直した。
雪斎は茶を一口飲んでから話し始める。
「今川は尾張へ人を入れている。信長殿と信勝殿の対立についても調べていた。そして一部の者は、信勝方へ近づこうとしていた」
「やはり」
「隠すようなことでもない」
「では、津々木蔵人は?」
雪斎は首を横に振った。
「違う」
「本当ですか」
「少なくとも、儂の命で動く者ではない」
景継は雪斎を見る。
完全には信用できない。
だが、雪斎がここで明確に否定する理由も考えなければならない。
「では、清洲と末森に三百という偽りの兵数を流したのは?」
「我らではない」
「それを信じろと?」
「信じなくてよい」
意外な答えだった。
雪斎は穏やかな表情のまま続ける。
「疑え。今川も含めてな」
景継は少しだけ目を細めた。
「なぜ私に話すのです」
「理由は二つある」
「一つは?」
「我らも知りたい」
「誰がやったのかを?」
「そうだ」
「もう一つは?」
雪斎が笑った。
「お主なら、勝手に調べるだろう」
景継は黙った。
完全に読まれている。
「嫌です」
「何が」
「利用されるのは」
「なら調べぬか」
景継は答えられなかった。
無理だ。
ここまで知ってしまった以上、気にならないはずがない。
「ずるいですね」
「兵法では褒め言葉だ」
「僧の言葉とは思えません」
「よく言われる」
◇◇◇
景継は少し考えた後、もう一つ聞いた。
「今川も、その人物を探しているのですね」
「いる」
「なぜです」
「我らの名を勝手に使われては困る」
雪斎の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「それに、その者は今川と織田を戦わせようとしている可能性がある」
景継の表情が変わった。
「なぜそう思うのです」
「尾張の内部だけを乱したいなら、信長殿と信勝殿を戦わせればよい。だが、三河につながる銭まで残した」
景継の目が止まった。
城下で手に入れた銭。
雪斎は、そのことまで知っている。
「どこから知ったのです」
「今川にも耳はある」
景継は少し嫌な顔をした。
「本当に怖いですね」
「先ほども聞いた」
雪斎は続ける。
「わざと今川を疑わせようとしているのかもしれぬ」
「なら目的は」
「お主ならどう考える」
景継は盤上の地図を見る。
尾張、美濃、三河。その周囲にもいくつもの勢力がある。
信長と信勝を争わせる。
今川にも疑いを向ける。
尾張と今川の関係まで悪くする。
もし両者が戦えば、得をする者がいる。
「美濃?」
雪斎は答えない。
景継はすぐに首を横に振った。
「違うと思います」
「なぜ」
「道三様が今、信長様と今川を戦わせる必要がありません」
「では?」
景継はしばらく考えたが、最後には首を横に振った。
「まだ分かりません」
雪斎が笑う。
「それでよい」
「よいのですか」
「最初から答えが出る方が危険だ」
景継は、その言葉を覚えておこうと思った。
◇◇◇
長い話が終わり、景継は立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「そうか」
「信長様にも、今日のお話は伝えます」
「構わぬ」
景継は少し驚いた。
「よいのですか」
「隠す必要がない」
「全部を?」
「全部を信じるかどうかは、信長殿が決める」
景継は少し笑った。
「先ほど私が言ったことと似ていますね」
「何が」
「最後に決めるのは、その人だと」
雪斎も少し笑った。
景継は頭を下げ、戸へ向かった。
その背中に雪斎が声をかける。
「景継殿」
景継が振り返った。
「一つだけ忠告しておこう」
「何でしょう」
雪斎は盤上に残っていた今川側の石へ目を向ける。
「もし本当に義元様が大軍を率いて尾張へ入る日が来ても、今日の策は使うな」
景継は少し笑った。
「なぜです」
「義元様を死なせたくない」
景継も笑った。
「では、その時は別の策を考えます」
「そうしてくれ」
冗談のような会話だった。
だが景継の胸には、先ほど見えた景色が残り続けていた。
激しい雨。
混乱する大軍。
そして、その中心へ向かって駆ける少数の兵。
なぜ自分がそんな光景を思い浮かべたのかは、分からなかった。
◇◇◇
寺を出ると、弥兵衛がすぐに近づいてきた。
「ご無事でしたか」
「はい」
「長すぎます」
「話が多かったので」
「何を話されたのです」
「今川が尾張へ来たらどうするか、と」
弥兵衛の顔が引きつった。
「それはまた、縁起でもない話を」
「そうですね」
二人は馬へ向かった。
途中で景継が足を止める。
「弥兵衛」
「はい」
「一つ聞いても?」
「何でしょう」
景継は少し迷ってから聞いた。
「まだ起きていないことなのに、昔のことのように感じたことはありますか」
弥兵衛はしばらく景継を見つめた。
「ございません」
「ですよね」
「若様」
「はい」
「少し休まれた方がよいのでは?」
「私もそう思います」
景継はそれ以上話さなかった。
◇◇◇
景継が去った後、玄庵が雪斎の部屋へ入った。
「いかがでした」
雪斎は、盤上の石を見ていた。
織田の少数。
今川の大軍。
そして、その中央へ置かれた小さな石。
「面白い」
玄庵が笑う。
「信長殿や道三殿と同じことを仰いますな」
「だが、恐ろしい」
雪斎の声には笑いがなかった。
玄庵の表情が少し変わる。
「十三の少年が?」
「ああ」
雪斎は、先ほど景継が口にした策を思い返した。
二万の兵をどう倒すか。
そう聞かれれば、普通は二万を相手にする方法を考える。
籠城。
援軍。
地形。
伏兵。
だが景継は違った。
最初から二万の軍勢そのものを見ていない。
「普通の者なら、少ない兵で大軍にどう勝つかを考える」
「はい」
「あれは違った」
「何がでしょう」
「最初から、軍そのものを倒そうとしておらぬ」
雪斎は盤上の中央に置かれた石を指で転がした。
「大将を殺せば軍が止まる。だから大将だけを探す。あれは十三の童が、本を読んだだけで身につける考え方ではない」
玄庵は黙って聞いている。
「では、何だと?」
雪斎はすぐには答えなかった。
やがて静かな声で言った。
「何万という人間を、実際に動かしたことのある者の考え方だ」
玄庵の表情から笑みが消えた。
「まさか」
「分かっておる。あり得ぬ」
十三歳。
尾張の小土豪の次男。
それ以外の何者でもない。
そのはずだった。
それでも雪斎は、景継が座っていた場所からしばらく目を離せなかった。
◇◇◇
清洲へ戻る途中、景継は馬上で何度も同じ景色を思い出していた。
雨の中で混乱する大軍。
木々の間を抜け、一ヶ所へ向かって駆ける少数の兵。
自分はその中にはいない。
見たこともない。
それなのに、なぜか知っている気がする。
そしてもう一つ、頭の奥で微かな声が聞こえた。
――大軍を破る必要はない。頭を落とせば、身体は止まる。
景継は馬を止めた。
「若様?」
弥兵衛も馬を止める。
「どうされました」
景継はすぐには答えなかった。
今の言葉は、雪斎との会話で自分が考えたことと同じだった。
だが、自分が今考えたものではない。
もっと昔。
ずっと昔に。
誰かが言った。
いや、自分自身が口にしたことがある。
そんな感覚が残っていた。
「何でもありません」
景継は再び馬を進めた。
まだ思い出さなくていい。
なぜか、そう思った。
だが景継自身が望むかどうかに関係なく、閉じていた前世の記憶は少しずつ形を取り始めていた。




