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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第二十四話 見えない主


清洲へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。


三河からの道中、景継はほとんど休まなかった。身体は疲れていたが、それ以上に頭の中が落ち着かなかった。


太原雪斎との会話、今川が尾張へ人を入れていること、信長と信勝の対立を探っていたこと。そして津々木蔵人は、少なくとも雪斎の命で動く者ではないという話。


どこまで信じるべきなのか。景継にはまだ判断できない。


「若様」


清洲城が見え始めたところで、弥兵衛が声をかけた。


「はい」


「今度こそ、少しお休みになられては?」


「信長様へ報告してからです」


「明日でもよろしいのでは」


「明日にすると、今夜ずっと考えることになります」


弥兵衛は少し呆れた顔をした。


「今夜も考えるでしょう」


景継は答えなかった。


おそらく、その通りだった。


◇◇◇


信長は、景継が戻ったと聞くとすぐに呼び出した。


部屋へ入ると、信長は地図を広げていた。景継が三河へ出る前にはなかったものだった。


「戻ったか」


「はい」


「遅い」


「三河ですので」


「雪斎はどうだった」


挨拶より先にそれだった。


景継は信長の前へ座った。


「怖い方でした」


「道三とどちらが」


「種類が違います」


「またそれか」


信長が笑った。


「道三様は、こちらが何を言うかを待つ方です。雪斎様は、こちらが自分から何かを言うように仕向ける方でした」


信長の笑みが少し深くなる。


「なるほど」


「楽しそうですね」


「お前が困る相手は面白い」


「私は玩具ではありません」


「知っておる」


景継は少し息を吐いた。


そして、雪斎との会話を最初から説明した。


今川が尾張の情報を集めていること。信勝方へ近づこうとした者もいること。ただし津々木については否定したこと。そして、清洲と末森へ偽情報を流した人物を今川側も探しているという話。


信長は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「信じるか」


話が終わると、信長が聞いた。


景継は少し考える。


「半分ほど」


「少ないな」


「今川の人間ですから」


「お前も随分と失礼になった」


「信長様の近くにおりますので」


信長が笑った。


「俺のせいか」


「多少は」


景継は続ける。


「ただ、雪斎様がすべて嘘を言っているとも思いません」


「なぜ」


「今川がすべてやったのなら、私に会う必要がありません」


「疑いを逸らすためかもしれん」


「はい。その可能性もあります」


「なら何も分からぬな」


「今は」


信長は地図へ目を落とした。


「それで、雪斎は他に何を聞いた」


景継は少し迷った。


「今川が尾張へ攻めたらどうするか、と」


信長が顔を上げる。


「何と答えた」


「大軍とは戦わないと」


「ほう」


「義元様の位置を探して、そこだけを狙うと答えました」


信長が黙った。


景継はその顔を見る。


笑うと思った。


だが、信長は笑わなかった。


「それだけか」


「はい」


「雪斎は?」


「嫌な顔をしていました」


「だろうな」


信長は地図へ視線を戻した。


景継は少し気になった。


「信長様」


「何だ」


「同じことを考えたことがありますか」


信長の手が一瞬止まった。


「何の話だ」


「大軍と戦う時です。軍を全部倒すのではなく、大将を狙う」


信長はすぐには答えなかった。


やがて地図の上に置かれていた石を一つ摘まむ。


「敵が十倍いるなら、十倍全部を殺す必要などない」


景継の胸が少しざわついた。


「では」


「頭を潰す」


信長は石を地図の上へ落とした。


その音を聞いた瞬間、景継の頭の奥で、あの声が蘇った。


――頭を落とせば、身体は止まる。


景継は信長を見る。


言葉は少し違う。


だが、考え方は同じだった。


「どうした」


「……何でもありません」


「またその顔か」


信長が目を細める。


「誰を見ている」


「信長様です」


「嘘だな」


景継は答えなかった。


自分でも分からない。


だから、答えようがなかった。


◇◇◇


翌日、景継は林道家へ戻った。


清洲で暮らすようになってからも、月に何度かは帰っている。だが三河まで行っていたこともあり、今回は少し間が空いていた。


屋敷へ入ると、最初に景久が出てきた。


「景継!」


兄は相変わらず声が大きい。


「兄上」


「三河まで行ったそうだな!」


「はい」


「今川のところへ?」


「正確には雪斎様です」


「同じようなもんだろ」


景久が弟の肩を叩く。


「何かもらったか?」


「茶を」


「それだけ?」


「はい」


「つまらんな」


景継は少し笑った。


兄は変わらない。


清洲にいると、誰もが何かを考えて話しているように感じる。言葉の裏を読み、相手の目的を探り、誰と誰がつながっているかを考える。


景久には、それがない。


嬉しければ笑う。


怒れば怒る。


嫌なら嫌だと言う。


景継にとって、その単純さは少し羨ましかった。


「母上は?」


「奥だ」


「父上は?」


「田を見に行ってる」


景継が屋敷の奥へ向かおうとすると、景久が後ろから声をかけた。


「景継」


「何です」


「最近、何か面倒なことに巻き込まれてるだろ」


景継の足が止まった。


「なぜです?」


「顔」


景継は振り返る。


「兄上まで同じことを言うのですね」


「誰かにも言われたのか」


「何人かに」


景久は弟を見る。


「困ってるなら言えよ」


「兄上に?」


「何だその言い方」


「いえ」


景久は少しだけ真面目な顔になった。


「俺はお前みたいに頭は回らん」


「そんなことは」


「回らん」


自分で断言した。


「でも、何かあった時に一緒に殴るくらいならできる」


景継は思わず笑った。


「殴る前提ですか」


「一番分かりやすいだろ」


「兄上らしいですね」


「褒めてるか?」


「かなり」


景久は満足そうに笑った。


◇◇◇


母・志乃は、景継の顔を見るなり食事を用意させた。


「痩せましたね」


「変わっていません」


「母には分かります」


以前にも似た会話をした気がする。


景継は諦めて食事を取った。


志乃は向かいに座り、息子を眺めている。


「何です?」


「顔を見ています」


「なぜ」


「久しぶりですから」


「そこまで久しぶりではありません」


「母親には久しぶりなのです」


景継は食事を続けた。


少しして、志乃が聞く。


「清洲は楽しいですか」


景継の箸が止まった。


「楽しい?」


「はい」


考えたことがなかった。


面白いとは思う。


信長を見ること。


評定を聞くこと。


商人から話を聞くこと。


何かを考え、それが正しかったか確かめること。


だが、それを楽しいと呼んでよいのか。


「分かりません」


志乃が笑った。


「あなたらしい答えですね」


「よく言われます」


「でも、以前よりよく笑うようになりました」


景継が顔を上げる。


「私が?」


「はい」


自覚はなかった。


「清洲へ行く前は、何かを考えている顔ばかりでした。今は、考えながら笑っています」


それは成長なのか。


悪化なのか。


景継には判断できなかった。


◇◇◇


夕方になり、父・景政が戻ってきた。


久しぶりに家族全員で食事を取った後、景政は景継を自室へ呼んだ。


「三河へ行ったそうだな」


「はい」


「今川へ仕官するのか」


景継は思わず父を見る。


「なぜそうなるのです」


「道三殿からも誘われたと聞いた」


「断りました」


「今川からも誘われるかもしれん」


「今のところ、そのつもりはありません」


景政が笑う。


「今のところ、か」


「信長様にも同じところを突っ込まれました」


「なら、あまり使わぬ方がよいな」


景継も少し笑った。


景政は息子を見る。


「景継」


「はい」


「最近、敵が増えているな」


景継の表情が少し変わる。


「分かりますか」


「当たり前だ」


父は続けた。


「お前自身が強くなったかどうかは知らん。だが、お前を知る者が増えた」


景継は黙る。


「知られれば味方も増える。同じだけ、敵も増える」


「はい」


「忘れるな」


景継は頭を下げた。


「覚えておきます」


その言葉を帳面に書こう。


そう思った時だった。


廊下の向こうから、弥兵衛の声がした。


「殿!」


普段の弥兵衛とは違う。


景政と景継が同時に顔を上げた。


「どうした」


弥兵衛が部屋へ入ってくる。


手には一通の書状があった。


「清洲から急使にございます」


景継の表情が変わる。


「信長様から?」


「いいえ」


「では?」


弥兵衛が答える。


「信勝様です」


◇◇◇


景継はすぐに書状を開いた。


内容は短かった。


末森で妙な動きがある。


津々木蔵人が姿を消した。


景継はもう一度読み直した。


「いつから?」


「昨夜からだそうです」


「供は?」


「おりませぬ」


「屋敷の者は?」


「何も聞いていないと」


景政が聞く。


「逃げたのか」


「分かりません」


景継は考える。


津々木。


信勝と信長を戦わせようとしていた可能性が高い男。


背後に別の人物がいるかもしれない。


その男が消えた。


なぜ今なのか。


信勝と信長の争いは止まった。


景継は雪斎と会った。


そして今川側も、今回の騒動を探っている。


もし津々木の背後にいる者が、それを知ったのなら。


「消された?」


景政が聞く。


景継は首を横に振った。


「まだ分かりません」


だが、可能性はある。


逃がされたのか。


殺されたのか。


あるいは、自分から姿を消したのか。


「清洲へ戻ります」


景継が立ち上がる。


志乃が部屋の外に立っていた。


どうやら話を聞いていたらしい。


「もう行くのですか」


「はい」


母は少し寂しそうな顔をしたが、止めなかった。


「気をつけて」


「はい」


景久も廊下の向こうから来た。


「また面倒事か?」


「おそらく」


「殴る時は呼べ」


「覚えておきます」


景継は少し笑った。


そして屋敷を出た。


◇◇◇


清洲へ着くと、信勝も来ていた。


以前なら考えにくいことだ。


だが津々木の失踪を受けて、自ら兄のもとへ来たらしい。


景継が部屋へ入ると、信長がすぐに聞いた。


「遅い」


「林道家にいました」


「知っておる」


「では言わないでください」


信勝が少し笑った。


「相変わらずだな」


景継は信勝へ頭を下げる。


「書状、読みました」


「ああ」


「津々木殿の部屋は?」


「そのままだ」


「調べても?」


信勝が少し迷った。


「何を探す」


「分かりません」


信長が笑う。


「それで探すのか」


「分からないから探します」


信勝も苦笑した。


「兄上が気に入るわけだ」


「それを言われると少し嫌です」


「俺も嫌だ」


信長が言った。


景継は二人を見る。


この兄弟は、以前より少しだけ話せるようになっている。


それは良いことだ。


少なくとも今は。


◇◇◇


翌朝、景継は信勝、弥兵衛と共に末森へ向かった。


津々木の屋敷は、城の一角にあった。


部屋は荒らされていない。


衣服も残っている。


金も。


武器も。


突然逃げたようには見えない。


景継は部屋の中をゆっくり見て回った。


「何かあるか」


信勝が聞く。


「まだ」


机。


棚。


寝具。


一見すると、何もない。


景継は床を見る。


一ヶ所だけ、畳の色が微妙に違っている。


「これを」


弥兵衛が近づく。


畳を上げると、その下に小さな空間があった。


中はほとんど空だった。


ただ、一枚だけ紙の切れ端が残っている。


景継が拾う。


燃やされた書状の一部らしい。


ほとんど読めない。


だが、端にわずかに文字が残っていた。


『――殿』


その前の部分は焼けている。


誰かの名前。


あるいは役職。


「これだけか」


信勝が聞く。


景継は紙を裏返した。


そして、裏側に小さな印があることに気づく。


円の中に三本の線。


見覚えはない。


「信勝様」


「何だ」


「この印を知っていますか」


信勝は見る。


首を横に振った。


「知らぬ」


弥兵衛も知らない。


景継は紙をしまった。


「清洲へ持ち帰ります」


◇◇◇


その日の午後、清洲へ戻ると、信長にもその紙を見せた。


信長も印には見覚えがないようだった。


「今川か?」


「分かりません」


「雪斎に聞くか」


景継は少し考えた。


「聞きません」


信長が意外そうに見る。


「なぜ」


「雪斎様に何でも聞けば、私が何を知っているか今川にも全部分かります」


信長の口元が上がる。


「少し賢くなったな」


「以前からです」


「それはない」


景継は無視した。


「まず尾張の中で調べます」


「誰に聞く」


「商人です」


信長が笑う。


「またか」


「武士より印には詳しいでしょう」


◇◇◇


数日後。


景継は一人の古い商人から、初めて手がかりを得た。


紙に描いた印を見せると、商人の顔が少し変わった。


「これを、どこで?」


「知っていますか」


「見たことがあります」


景継の目が変わる。


「どこで?」


商人は少し迷った。


そして周囲を確認してから、声を落とした。


「尾張ではございません」


「では?」


「京から来る品に」


景継は黙った。


京。


今川でもない。


美濃でもない。


三河でもない。


「何の品です」


「昔、一度だけ扱ったことがございます。香や薬、それに珍しい書物などを運ぶ商人の荷に、この印がありました」


「商人の印?」


「それが分かりませぬ。本人に聞いたところ、自分のものではないと言っておりました」


「誰のものだと?」


商人は少し考えた。


「確か、都のお方から預かった荷だと」


景継の胸の奥に、新しい違和感が生まれた。


都。


これまで考えていなかった場所。


尾張の兄弟を争わせる。


今川を疑わせる。


その裏に京があるのか。


「その商人の名前は」


「もう死んでおります」


「他に知っている方は?」


「分かりませぬ」


景継は礼を言い、店を出た。


弥兵衛が後ろからついてくる。


「若様」


「はい」


「今度は京ですか」


「まだ決めません」


「でしょうな」


景継は歩きながら考えた。


尾張。


三河。


美濃。


その外。


もっと遠くから誰かが見ている。


もしそうなら、目的は何だ。


尾張を取ることではない。


今川を倒すことでもない。


もっと別のもの。


景継は足を止めた。


「弥兵衛」


「はい」


「もしかすると私たちは、戦そのものを起こしたい人間を探しているのかもしれません」


「何のために?」


景継は答えられなかった。


だが、その問いこそ、今まで追っていたものよりずっと重要な気がした。


◇◇◇


同じ夜。


尾張から遠く離れた薄暗い部屋で、一人の男が書状を読んでいた。


そこには、津々木が姿を消したこと。そして林道景継が、残された印を見つけたことが記されている。


男は書状を静かに畳んだ。


向かいに座る者が聞く。


「どうします」


「そのままでよい」


「印を見られました」


「構わぬ」


男は笑った。


むしろ、見つけてもらわなければ困る。


そう言うと、別の書状を手に取った。


そこには織田、今川、斎藤といったいくつもの名前が並んでいる。その中には、まだ十三歳の少年の名もあった。


林道景継。


男はその名前を指でなぞった。


「もう少し、こちらへ近づいてもらおう」


景継はまだ知らない。


自分が謎を追っているつもりで、その実、誰かに決められた道を歩かされ始めていることを。

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