第二十四話 見えない主
清洲へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
三河からの道中、景継はほとんど休まなかった。身体は疲れていたが、それ以上に頭の中が落ち着かない。
太原雪斎との会話。
今川が尾張へ人を入れ、信長と信勝の対立を探っていたこと。そして津々木蔵人は、少なくとも雪斎の命で動いてはいないという話。
どこまで信じるべきなのか。
まだ判断できなかった。
信長は、景継が戻ったと聞くとすぐに呼び出した。
「雪斎はどうだった」
挨拶より先にそれだった。
「怖い方でした」
「道三とどちらが」
「種類が違います」
「またそれか」
信長が笑う。
「道三様は、こちらが何を言うかを待つ方です。雪斎様は、こちらから言うように仕向ける方でした」
「なるほど。お前が困る相手は面白い」
「私は玩具ではありません」
景継はそう返してから、雪斎との会話を説明した。
今川が尾張の情報を集めていること。信勝方へ近づこうとした者もいること。ただし津々木については否定したこと。そして清洲と末森へ偽情報を流した人物を、今川側も探しているらしいこと。
「信じるか」
「半分ほど」
「少ないな」
「今川の人間ですから」
「お前も随分と失礼になった」
「信長様の近くにおりますので」
信長が笑った。
景継は続ける。
「ただ、すべて嘘とも思いません。今川が全部やったのなら、私に会う必要がありませんから」
「疑いを逸らすためかもしれん」
「はい」
結局、まだ決め手はない。
信長は地図へ目を落とした。
「それで、雪斎は他に何を聞いた」
「今川が尾張へ攻めたらどうするか、と」
信長が顔を上げる。
「何と答えた」
「大軍とは戦わないと。義元様の位置を探して、そこだけを狙うと答えました」
信長は笑わなかった。
「雪斎は?」
「嫌な顔をしていました」
「だろうな」
その反応が気になり、景継は尋ねた。
「信長様も、同じことを考えたことがありますか」
「何の話だ」
「大軍と戦う時です。軍すべてを倒すのではなく、大将を狙う」
信長は地図の上に置かれた石を一つ摘まんだ。
「敵が十倍いるなら、十倍全部を殺す必要などない」
景継の胸がざわつく。
「では」
「頭を潰す」
信長が石を落とした。
小さな音が響いた瞬間、景継の頭の奥で別の声が蘇る。
――頭を落とせば、身体は止まる。
景継は信長を見た。
言葉は違う。
だが、考え方は同じだった。
「どうした」
「……何でもありません」
「またその顔か。誰を見ている」
「信長様です」
「嘘だな」
景継は答えなかった。
自分でも分からない。
だから、答えようがなかった。
翌日、景継は久しぶりに林道家へ戻った。
「景継!」
屋敷へ入るなり、兄の景久が声を上げた。
「三河まで行ったそうだな。何かもらったか?」
「茶を」
「それだけ?」
「はい」
「つまらんな」
景継は思わず笑った。
清洲では、誰もが言葉の裏を読み、相手の目的を探っているように感じる。
景久にはそれがない。
嬉しければ笑い、怒れば怒る。
その単純さが、今は少し心地よかった。
「最近、何か面倒なことに巻き込まれてるだろ」
不意に景久が言った。
「なぜです?」
「顔」
「兄上まで同じことを言うのですね」
景久は少し真面目な顔になった。
「俺はお前みたいに頭は回らん。でも何かあった時、一緒に殴るくらいならできる」
「殴る前提ですか」
「一番分かりやすいだろ」
「兄上らしいですね」
奥へ入ると、母の志乃は景継を見るなり食事を用意させた。
「痩せましたね」
「変わっていません」
「母には分かります」
反論しても無駄だと諦め、景継は箸を取った。
「清洲は楽しいですか」
不意に聞かれ、手が止まる。
「分かりません」
志乃が笑った。
「でも、以前よりよく笑うようになりました」
景継には自覚がなかった。
ただ、母がそう言うのなら、何かが変わっているのかもしれない。
夕方に戻った父・景政からは、別のことを言われた。
「最近、敵が増えているな」
「分かりますか」
「お前を知る者が増えた。知られれば味方も増える。同じだけ、敵も増える」
「はい」
「忘れるな」
景継が頷いた、その時だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「殿!」
弥兵衛が一通の書状を手に入ってくる。
「清洲から急使にございます」
「信長様から?」
「いいえ」
弥兵衛は答えた。
「信勝様です」
書状の内容は短かった。
末森で妙な動きがある。
津々木蔵人が、昨夜から姿を消した。
供はいない。
屋敷の者も何も聞いていないという。
景継は書状を見つめた。
津々木。
信長と信勝を争わせようとしていた可能性が高い男。
そして、その背後には別の人物がいるかもしれない。
信長と信勝の争いが止まり、景継が雪斎と会った直後に、その男が消えた。
偶然なのか。
それとも。
「消された?」
景政が聞いた。
「まだ分かりません」
逃がされたのか。
殺されたのか。
自ら姿を消したのか。
「清洲へ戻ります」
母は寂しそうな顔をしたが、止めなかった。
景久は、
「殴る時は呼べ」
とだけ言った。
「覚えておきます」
景継はそう答え、屋敷を出た。
翌朝。
景継は信勝、弥兵衛と共に末森にある津々木の部屋を調べていた。
荒らされた形跡はない。
衣服も、金も、武器も残っている。
突然逃げたようには見えなかった。
机。
棚。
寝具。
一つずつ確認していく。
やがて景継は、色の微妙に違う畳に気づいた。
「これを」
畳を上げると、その下に小さな空間があった。
ほとんど空だったが、一枚だけ紙の切れ端が残っている。
燃やされた書状の一部らしい。
景継が拾う。
わずかに文字が残っていた。
『――殿』
その前は焼け落ちている。
「これだけか」
信勝が聞く。
景継は紙を裏返した。
小さな印があった。
円の中に三本の線。
「信勝様。この印を知っていますか」
信勝は首を横に振る。
弥兵衛にも見覚えはなかった。
「清洲へ持ち帰ります」
信長も印を知らなかった。
「今川か?」
「分かりません」
「雪斎に聞くか」
「聞きません」
信長が意外そうに見る。
「なぜ」
「何でも聞けば、私が何を知っているのか今川にも全部分かります」
信長の口元が上がった。
「少し賢くなったな」
「以前からです」
「それはない」
景継は無視した。
「まず尾張で調べます」
「誰に聞く」
「商人です」
数日後。
景継は一人の古い商人から手がかりを得た。
印を描いた紙を見せた瞬間、商人の顔が変わった。
「これを、どこで?」
「知っていますか」
「見たことがあります」
「どこで?」
商人は周囲を確認してから声を落とした。
「京から来る品に」
景継の目が細くなる。
「何の品です」
「香や薬、それに珍しい書物などを運ぶ荷でございました」
「商人の印?」
「いえ。本人に聞いたところ、自分のものではないと」
「では誰の?」
「確か……都のお方から預かった荷だと」
京。
今川でも、美濃でも、三河でもない。
「その商人の名前は」
「もう死んでおります」
「他に知っている方は?」
「分かりませぬ」
景継は礼を言って店を出た。
「若様」
後ろを歩く弥兵衛が声をかける。
「今度は京ですか」
「まだ決めません」
景継は歩きながら考えた。
清洲と末森へ流された偽情報。
津々木。
今川。
そして、焼け残った書状にあった印。
一つずつ、自分で手掛かりを追ってきた。
そのはずだった。
だが。
手掛かりが途切れそうになるたびに、次の何かが見つかっている。
景継の足が止まった。
「弥兵衛」
「はい」
「もしかすると私たちは、最初から見当違いのものを追っているのかもしれません」
「見当違い?」
「今川でも、美濃でもない。尾張を奪いたいわけでもない」
「では、何が目的なので?」
「分かりません」
景継は首を横に振る。
自分は、自分の意思でここまで来たつもりだった。
津々木を疑った。
三河へ行った。
雪斎と会った。
印を商人へ見せた。
すべて自分で考え、選んだ。
それなのに。
「……誰かに、ここまで来るよう仕向けられている?」
弥兵衛の表情が変わる。
「若様を、ですか」
景継は答えなかった。
自分はまだ十三歳。
尾張の一武家の次男にすぎない。
そこまでして自分を導く理由など、思いつかない。
「考えすぎかもしれません」
景継は再び歩き始める。
「ただ――」
「ただ?」
「私たちが何かを追っているだけではないような気がします」
「どういうことです?」
景継は少し黙った。
「向こうも、こちらを見ている」
同じ夜。
尾張から遠く離れた薄暗い部屋で、一人の男が書状を読んでいた。
津々木が姿を消したこと。
そして林道景継が、残された印を見つけたこと。
男は書状を静かに畳んだ。
向かいに座る者が尋ねる。
「どうします」
「そのままでよい」
「ですが、印を見られました」
「構わぬ」
男はわずかに笑った。
「むしろ、見つけてもらわなければ困る」
「消さなくてよろしいので?」
「必要ない」
男は別の書状を手に取った。
織田。
今川。
斎藤。
いくつもの名前が並んでいる。
その中に、一人だけ異質な名があった。
林道景継。
まだ十三歳の少年。
男は、その名を指でなぞった。
「ここまで来たか」
「景継が、ですか」
「ああ。想像していたより早い」
「では、次は?」
男はすぐには答えなかった。
彼が景継を見ている理由は、斎藤道三と会ったことでも、織田家の内紛へ入り込んだことでもない。
もっと以前から。
まだ景継自身すら覚えていない何かを、この男だけは知っていた。
もっとも。
その正体までは、男にも分かっていない。
だからこそ、確かめたかった。
「何もする必要はない」
「しかし」
「自分で来る」
男は静かに言った。
「こちらが手を引けば、あの少年は余計に気になる」
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「もう少し、こちらへ近づいてもらおう」
景継はまだ知らない。
自分が謎を追っているつもりで、その先にいる何者かもまた、自分を見ていることを。
そしてその人物が。
景継自身さえ忘れている過去を、以前から知る者であることを。




