第二十五話 誘われる側から
京から来る荷に使われていたという印。
円の中に三本の線。
その小さな印を描いた紙を前に、景継は長い時間黙っていた。
清洲の一室には、景継と弥兵衛しかいない。外では家臣たちが行き交っているが、部屋の中は静かだった。
「若様」
弥兵衛が声をかける。
「はい」
「もう半刻ほど、その紙を見ておられます」
「見ています」
「何か変わりましたか」
「いいえ」
「では休まれては?」
景継は紙から目を離した。
「弥兵衛」
「はい」
「この印を、私たちが見つけることまで相手が考えていたとしたらどう思います?」
弥兵衛の表情が少し変わった。
「どういう意味です」
「津々木殿の部屋に、燃やし残しがあった」
「はい」
「本当に消したい書状なら、全部燃やすでしょう」
弥兵衛は黙った。
景継は紙を指で押さえる。
「しかも、文字はほとんど読めないのに印だけは残っていた。偶然かもしれません。でも、もし偶然でないなら」
「若様に見せるため?」
「はい」
景継は小さく息を吐いた。
自分は印を調べた。
商人へ聞いた。
京につながる可能性を知った。
そして今、京を疑い始めている。
まるで用意された道を歩いているようだった。
「若様」
弥兵衛が少し困った顔をする。
「そこまで疑えば、何も信じられなくなりますぞ」
「そうですね」
「では」
「だから困っています」
景継は苦笑した。
何でも疑えばいいわけではない。
だが、疑わなければ相手の思うままになる。
どこまで疑い、どこから信じるか。
それを決める方が、策そのものより難しいのかもしれなかった。
◇◇◇
その日の午後、景継は信長のもとへ向かった。
信長は庭にいた。
木の枝を一本手に持ち、地面へ何かを書いている。
景継が近づくと、信長は顔を上げた。
「何だ」
「相談があります」
「珍しいな」
「私も相談くらいします」
「いつも勝手に動いた後で報告するだろう」
景継は少し黙った。
「今回は先に来ました」
「成長したな」
「十三ですから」
「関係ない」
信長は枝を投げ捨てた。
「それで?」
景継は印のことを話した。
京から来る荷に使われていたという情報。
そして、その印自体がわざと残された可能性。
信長は黙って聞いていた。
「つまり」
話が終わると信長が言った。
「相手は、お前を京へ向かせたい」
「可能性があります」
「なら行かなければよい」
景継は首を横に振る。
「それでは相手が何をしたいのか分かりません」
「分からなくても困らん」
「私は困ります」
「知っている」
信長が笑った。
景継は少し眉を寄せる。
「そこで、逆に利用したいのです」
信長の目が変わった。
「何をする」
「相手に、私が印を京につながるものだと信じたと思わせます」
「実際に信じているだろう」
「半分だけです」
「面倒な奴だな」
「よく言われます」
信長が続きを促す。
景継は声を少し落とした。
「京へ行くつもりだという噂を流します」
信長の口元が上がった。
「お前は行かぬ?」
「まだ行きません」
「では誰を行かせる」
「誰も」
信長が少し笑う。
「なるほど」
景継は頷いた。
「相手が私を誘導しているなら、私が京へ向かうと知れば、次の動きをするかもしれません」
「見張るか」
「はい」
「誰を?」
景継は答えた。
「私を見張っている者を探します」
◇◇◇
翌日から、景継は意図的に城内で京について尋ね始めた。
京までどれほどかかるか。
道はどこを通るか。
途中の宿はどこが安全か。
誰なら京に詳しいか。
一見すれば、本当に旅の準備をしているように見える。
弥兵衛も最初は呆れていたが、途中から楽しみ始めていた。
「若様」
「何です」
「先ほどの家臣殿は、完全に信じておられましたぞ」
「何を?」
「若様が京へ行くと」
「そのために聞いています」
「しかし本当に行くと思われます」
「思ってもらわないと困ります」
二人は廊下を歩きながら話す。
景継は、あえて人の多いところで声を出していた。
噂は自分で流すより、聞いた人間が勝手に広げた方が自然だ。
自分が京へ行くらしい。
何かを調べているらしい。
印の出所を探しているらしい。
それだけ広がれば十分だった。
◇◇◇
三日後。
最初の変化が出た。
城下で、景継の行動を探っている男がいるという話が入った。
商人の一人が知らせてくれた。
「どんな男です」
「三十くらいですかな。旅人のような格好でした」
「何を聞いていました?」
「景継様がいつ京へ向かわれるのか、と」
景継と弥兵衛は顔を見合わせた。
「他には」
「供は何人か。どの道を通るか。そんなことを」
景継は礼を言い、店を出た。
「若様」
弥兵衛が小声で言う。
「釣れましたな」
「まだです」
「これでも?」
「本当に相手側の人間か分かりません」
「京へ行く日を聞いているのですよ」
「ただの噂好きかもしれません」
弥兵衛は呆れたように景継を見る。
「若様は、いつになれば黒と言われるのです」
「証拠が出た時です」
「その頃には逃げられていますぞ」
「だから追います」
◇◇◇
男はその日の夕方、清洲の城下を出た。
景継自身は追わない。
顔を知られている可能性がある。
代わりに弥兵衛と、信長から借りた二人の者が距離を取って追跡した。
景継は清洲に残った。
待つ。
昔から得意なはずだった。
だが今回は、妙に落ち着かなかった。
日が沈む。
夜になる。
まだ戻らない。
景継は帳面を開いた。
過去に書いた言葉が並んでいる。
己を小さく見積もるな。
敵が自分をどう見るかを考えよ。
答えを見つけた時ほど、その答えを疑え。
景継は新しい頁を開いた。
だが、何も書かなかった。
まだ結果が出ていない。
失敗したかどうかも分からない。
その時、廊下から足音が聞こえた。
弥兵衛だった。
「若様」
景継はすぐに立ち上がる。
「どうでした」
「男は清洲を出た後、北へ向かいました」
「京方面?」
「最初は」
景継の目が変わる。
「最初は?」
「途中で道を変えました」
弥兵衛は地図を広げる。
「こちらです」
指した場所。
景継は少し眉を寄せた。
京へ向かう道ではない。
美濃でもない。
三河でもない。
「どこへ」
「熱田です」
景継は黙った。
熱田。
人と物が集まる場所。
商人も多い。
遠方から来る者もいる。
人に紛れるには都合がいい。
「誰かに会いましたか」
「はい」
「誰です」
「商人です」
景継は少しだけ肩の力を落とした。
「名前は」
弥兵衛が答えた。
その名前に、景継は聞き覚えがなかった。
「何を扱う商人です」
「表向きは薬と香」
景継の目が止まった。
京から来る荷。
香。
薬。
書物。
古い商人から聞いた話と同じだった。
「店は?」
「熱田にございます」
「明日行きます」
「やはり」
弥兵衛が苦笑する。
「少し休まれては?」
「戻ってから」
「それ、何度目です?」
景継は聞こえないふりをした。
◇◇◇
翌朝。
景継は信長へ報告した後、弥兵衛と熱田へ向かった。
問題の店は、想像していたより普通だった。
香。
薬。
紙。
珍しい器。
京や堺から運ばれてきたという品が並んでいる。
店の主人は五十ほどの男だった。
景継が入ると、丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
「少し見せてください」
「どうぞ」
景継は店内を歩いた。
何も不自然ではない。
だが、それが逆に気になる。
香の箱。
薬の包み。
紙。
一つずつ見る。
そして奥に置かれた木箱で足が止まった。
小さな印がある。
円の中に三本の線。
景継は表情を変えないようにした。
「これは?」
主人が見る。
「京から届いた品です」
「中は」
「書物にございます」
「見ても?」
「もちろん」
主人が木箱を開ける。
中には数冊の書物が入っていた。
景継は一冊を取る。
内容は普通だった。
兵法でもない。
政治でもない。
薬について書かれたもの。
「この印は、あなたの店のものですか」
景継が聞く。
主人は首を横に振った。
「違います」
「では誰の?」
「荷をまとめる方の印だと聞いております」
「京の?」
「はい」
「名前は分かりますか」
主人は少し考えた。
「直接お会いしたことはございません。ただ」
「ただ?」
「皆、その方を『先生』と呼びます」
景継の眉がわずかに動いた。
「先生?」
「はい」
「名前ではなく?」
「私も本名は存じませぬ」
景継は木箱を見る。
また、名前がない。
だが。
一つ進んだ。
印。
京。
荷。
そして先生。
◇◇◇
「その先生は、何をする方です」
景継が聞く。
主人は少し困った顔をした。
「詳しくは。ただ、書物や薬、珍しい品を集めて各地へ送る方だと」
「商人ですか」
「それが、商人とも違うようで」
「武士?」
「それも分かりませぬ」
景継は店の主人を見る。
嘘をついているようには見えない。
本当に知らない可能性が高い。
「この印がついた荷は、どこへ送られます」
「尾張だけではございません」
「他には?」
主人は指を折りながら答えた。
「美濃、三河、近江。それに駿河へ行くことも」
景継の目が鋭くなる。
織田。
斎藤。
今川。
前話の謎の男が持っていた書状に並んでいた勢力。
もちろん景継はそれを知らない。
だが。
印のついた荷が、複数の大名の領地へ入っている。
これは単なる商いなのか。
それとも。
「景継様」
主人が恐る恐る聞く。
「何か問題が?」
景継は首を横に振った。
「まだ分かりません」
また、その言葉。
だが今は。
少し違う意味があった。
分からないからこそ。
近づいている。
◇◇◇
店を出た後、景継はすぐには清洲へ戻らなかった。
少し離れた場所で、店を眺める。
「若様」
弥兵衛が聞く。
「どうされます」
「見張ります」
「店を?」
「はい」
「主人を捕らえないのですか」
「何の罪で?」
「怪しいです」
「怪しいだけでは捕らえられません」
弥兵衛は納得していない顔をする。
景継は続けた。
「それに、あの主人は末端だと思います」
「なぜ」
「本当に先生という人物を知らない顔でした」
「顔で?」
「半分は」
「残りは?」
「勘です」
弥兵衛が目を丸くした。
「若様が勘を?」
「たまには使います」
「明日は雨ですな」
景継は無視した。
◇◇◇
その夜。
店へ一人の男が入った。
昼間に景継たちが追っていた旅人ではない。
別人だった。
景継は少し離れた建物の陰から見ていた。
男は店に入り、半刻ほどで出てくる。
手には小さな荷物。
弥兵衛が聞く。
「追いますか」
「はい」
今度は景継も行く。
人通りが少ない夜。
男との距離を十分に取る。
しばらく歩くと、男は熱田を離れた。
北へ。
途中で何度も後ろを見る。
慣れている。
間者か。
少なくとも普通の商人ではない。
景継たちは距離をさらに取った。
やがて男は、小さな社の近くで止まった。
そこには、もう一人いる。
二人が短く話す。
景継には内容までは聞こえない。
荷物を渡した。
受け取った男が去る。
「二手に分かれますか」
弥兵衛が聞く。
景継は首を横に振った。
「最初の男は捨てます」
「なぜ」
「荷物を持っている方です」
二人目を追う。
その男は馬に乗った。
景継たちも急いで馬へ戻る。
追跡は一刻以上続いた。
そして。
男が向かった方向を見て。
景継は眉を寄せた。
「まさか」
弥兵衛も気づいた。
「若様」
「はい」
「この道は」
「清洲です」
◇◇◇
男は清洲の城下へ入った。
深夜。
そして。
一軒の屋敷の裏口から中へ消えた。
景継は遠くから、その屋敷を見た。
知っている。
何度も前を通ったことがある。
「弥兵衛」
「はい」
「誰の屋敷か分かりますか」
弥兵衛の声が低くなった。
「分かります」
景継も知っていた。
織田家臣。
それも。
信長にかなり近い位置にいる男の屋敷だった。
景継はすぐには動かなかった。
ここで踏み込む。
それは簡単だ。
だが。
もし屋敷の主が本当に関わっているなら。
証拠を消される。
もし関わっていなければ。
大きな問題になる。
「戻ります」
景継が言った。
弥兵衛が驚く。
「今ですか」
「はい」
「信長様へ?」
「いいえ」
「では」
景継は屋敷を見る。
「今日は何もしません」
弥兵衛は黙った。
景継は続ける。
「相手は、私が京へ行くと思って動いた」
「はい」
「なら、こちらが見ていることにはまだ気づいていない可能性があります」
「それを利用する?」
「はい」
景継は少しだけ笑った。
今まで。
自分はずっと誘導される側だった。
印を見つけ。
京を疑い。
用意された道を歩いていた。
ならば今度は。
相手に。
こちらが用意した道を歩いてもらう。
◇◇◇
翌朝。
景継は信長の前に座っていた。
「見つけました」
信長が顔を上げる。
「何を」
「相手につながるかもしれない場所を」
「誰だ」
景継はすぐには答えなかった。
「まだ名前は言いません」
信長の眉が動く。
「俺にも?」
「はい」
「随分偉くなったな」
「違います」
景継は信長を見る。
「信長様が知れば、顔に出るかもしれません」
「俺が?」
「はい」
信長が少し笑う。
「俺を信用していないのか」
「信用しているからです」
信長の笑みが止まる。
景継は続けた。
「知らなければ、信長様はいつも通りにできます」
しばらく沈黙。
やがて。
信長が笑った。
「よい」
景継が少し驚く。
「聞かないのですか」
「ああ」
「気になりません?」
「気になる」
「では」
「だから待つ」
その言葉に、景継は少しだけ目を細めた。
以前。
自分が家臣になるまで待つと言った時と同じだった。
「何をするつもりだ」
信長が聞く。
景継は答える。
「罠を一つ作ります」
「誰のために」
「私たちを罠にかけた人のために」
信長の口元が上がった。
「面白い」
景継は少し嫌そうな顔をした。
「またですか」
「何が」
「面白いと言いました」
「面白いからな」
景継は小さく息を吐いた。
だが。
自分も少しだけ。
同じことを思っていた。
◇◇◇
同じ頃。
昨夜、荷物が運び込まれた屋敷では、一人の男が小さな紙を読んでいた。
『景継、京行きを準備』
それだけ。
男は紙を火へ投げる。
そして近くにいる者へ言った。
「予定通りだ」
「では京へ?」
「いや」
男は首を横に振った。
「林道景継は、京まで来ない」
「なぜです」
男は少し笑った。
「疑い始めている」
「こちらを?」
「まだそこまでは」
男は立ち上がった。
「だが、あの少年は思ったより早い」
「ではどうします」
男はしばらく考えた。
「一度」
静かに答える。
「こちらから会ってみるか」
景継はまだ知らなかった。
自分が仕掛けようとしている罠の向こうで。
相手もまた。
景継本人へ。
直接近づこうとしていることを。




