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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第二十六話 先生からの招待


信長に「罠を作る」と告げた翌日、景継は朝から清洲の一室に籠もっていた。


机の上には尾張周辺の地図と、何枚かの紙が置かれている。隣では弥兵衛が腕を組みながら、景継が何を書いているのかを眺めていた。


「若様」


「はい」


「昨日から気になっていたのですが、本当に屋敷の名を信長様へ言わなくてよかったのですか」


「今は、です」


「相手が織田家中の者なら、すぐに捕らえた方がよいのでは?」


「屋敷へ人が入っただけです」


景継は筆を置いた。


昨夜、熱田から運ばれた荷は確かに織田家臣の屋敷へ入った。しかし、それだけでは屋敷の主が敵だという証拠にはならない。


家臣が勝手に受け取った可能性もある。商いの荷だった可能性もある。さらに言えば、景継たちに見せるため、わざとその屋敷へ入った可能性さえあった。


「もし私たちを誘導している相手なら、織田家臣の屋敷へ荷を運ばせるくらいは考えるでしょう」


「では、昨夜見たものまで罠だと?」


「分かりません」


弥兵衛が天井を見上げた。


「その言葉を聞くと安心するようになってきました」


「なぜです?」


「若様が『分かった』と言われる時の方が、何か大きなことが起きますので」


景継は少しだけ不満そうな顔をした。


「今回は、相手に一つだけ嘘を信じてもらいます」


「どんな嘘です」


景継は机の上の紙を弥兵衛へ見せた。


そこには、京へ向かう予定が書かれていた。


出立は三日後。


供は弥兵衛を含めて四人。


清洲から北へ進み、美濃を避けて近江へ抜ける。


一見すれば旅程を書いたものにしか見えない。


「これを盗ませます」


弥兵衛が景継を見る。


「盗ませる?」


「はい」


「誰に」


「私を見張っている人に」


弥兵衛はしばらく紙を見た後、顔を上げた。


「若様」


「何です?」


「楽しんでおられませんか」


景継は少し考えた。


「少しだけ」


「やはり」


◇◇◇


景継が用意した偽の旅程は、わざと自室の机へ置かれた。


もちろん、ただ放置したわけではない。


景継の部屋へ出入りできる人間は限られている。その中で、旅程の存在を知っている者をさらに絞った。


弥兵衛。


信長。


景継自身。


そして、部屋の掃除をする下働きの者が二人。


景継はその日の午後、わざと城下へ出た。


弥兵衛も同行する。


部屋を空にするためだった。


「盗まれますかな」


城下を歩きながら弥兵衛が聞いた。


「盗まれなくても構いません」


「罠なのでは?」


「相手がどこから情報を取っているのかを調べる罠でもあります」


「なるほど」


「もし紙そのものがなくなれば、部屋へ入れる者の中に相手がいる。紙が残ったまま内容だけ伝われば、見た人間がいる。何も起こらなければ別のところから私の情報を取っている」


弥兵衛が少し感心したように頷いた。


「三通りに分かれるわけですな」


「もっとあるかもしれません」


「そこで増やさないでください」


景継は少し笑った。


夕刻まで城下を歩き、二人は清洲へ戻った。


景継は自室へ入る。


机を見る。


旅程は。


そのまま置かれていた。


位置も変わっていないように見える。


「何もなかったようですな」


弥兵衛が言った。


景継は答えず、紙を手に取った。


表を見る。


裏を見る。


そして、机の端を確認する。


「見られています」


「分かるのですか」


「紙の下に、髪を一本挟んでいました」


弥兵衛が目を丸くした。


「髪?」


「なくなっています」


「そんなことまで」


「紙を持ち上げれば落ちるようにしていました」


弥兵衛は景継を見た。


「若様」


「何です」


「たまに、本当に十三か疑いたくなります」


景継の表情が一瞬だけ止まった。


だが、すぐに笑った。


「雪斎様にも似たようなことを言われました」


◇◇◇


問題は、誰が見たのかだった。


景継はその場では誰も問い詰めなかった。


問い詰めれば相手へ警戒されたことが伝わる可能性がある。それよりも、偽の旅程がどこへ流れるかを確認したかった。


翌日。


何も起きなかった。


二日目も同じだった。


そして偽の旅程では、翌日が出立の日になっている。


景継は普段通りに過ごした。


朝は弥兵衛と稽古をし、その後は信長の評定に顔を出す。昼過ぎには城下へ出て、商人と話をした。


京へ行く準備をしているようには見せている。


だが、実際には何も準備していない。


「景継」


評定の後、信長に呼び止められた。


「はい」


「明日だったな」


「何がです?」


「京へ行く日だ」


景継は信長を見る。


「声が大きいです」


「わざとだ」


近くにいた家臣が何人かこちらを見る。


景継は少し笑った。


「協力してくださるのですね」


「俺も見てみたいからな」


「何を」


「お前の罠に、誰がかかるか」


景継は信長の顔を見る。


この男も楽しんでいる。


少し前まで、信長に振り回されていると思っていた。それが最近では、二人で同じ何かを企んでいることが増えている。


景継は、その変化をまだ深く考えていなかった。


◇◇◇


その日の夕方。


景継が自室へ戻ると、机の上に一通の書状が置かれていた。


景継の足が止まる。


朝にはなかった。


弥兵衛もすぐに気づいた。


「若様」


「触らないでください」


二人は書状を見る。


表には宛名だけ。


『林道景継殿』


差出人はない。


「いつの間に」


弥兵衛が廊下を見る。


景継は書状の周囲を確認した。


罠らしいものはない。


ようやく手に取る。


封を開く。


中には一枚の紙が入っていた。


文章は短かった。


『京へ向かわれる必要はございませぬ。お探しの者は、すでに尾張におります』


景継は何も言わなかった。


弥兵衛が横から読む。


「これは」


「見られていましたね」


「偽の旅程を?」


「はい」


景継は続きを読んだ。


『明日、辰の刻。熱田の南、古渡へ。一人でお越しください』


最後には名前の代わりに、あの印が描かれていた。


円の中に三本の線。


景継は紙を裏返した。


何もない。


「若様」


弥兵衛の声が低くなる。


「行きませぬよな」


景継は答えなかった。


「若様」


「考えています」


「考える必要がございますか」


「あります」


「一人で来いと書いてあるのですぞ」


「よくある書き方です」


「よくあっても危険なものは危険です」


弥兵衛は本気で怒っている。


景継は少し考えてから言った。


「信長様へ話しましょう」


弥兵衛の表情が少し緩んだ。


「それがよろしい」


「ただし」


「嫌な予感がします」


「行くかどうかは、その後で決めます」


「行かないと決めてください」


◇◇◇


書状を読んだ信長の第一声は、景継の予想とは違った。


「行けばよい」


弥兵衛が信長を見る。


景継も少し驚いた。


「よいのですか」


「ああ」


「罠かもしれません」


「お前が行きたい顔をしている」


「顔で決めないでください」


「違うのか」


景継は黙った。


行きたい。


知りたい。


これまで姿を見せなかった相手が、自分から会おうとしている。


危険なのは分かっている。


それでも、この機会を逃したくなかった。


「行きたいです」


「なら行け」


弥兵衛がすぐに口を挟んだ。


「殿!」


「ただし、本当に一人では行かせぬ」


信長が地図を引き寄せる。


「古渡のどこだ」


「場所は書かれていません。着けば向こうから接触するつもりでしょう」


「なら周囲へ人を置く」


景継は少し考えた。


「近すぎると気づかれます」


「分かっておる」


「それと、弥兵衛は」


「行きます」


弥兵衛が即答した。


「一人で来いと」


「見えないところにおります」


「見つかれば?」


「若様より先に逃げます」


景継は思わず笑った。


「以前も同じことを言いましたね」


「林道家の教えです」


信長が二人を見て、少し笑った。


「決まりだな」


◇◇◇


翌朝。


景継は一人で清洲を出た。


少なくとも、表向きは。


刀は持っている。


だが護衛はいない。


普段なら必ず近くにいる弥兵衛の姿も見えない。


景継は馬をゆっくり進めながら、周囲を確認した。


誰かにつけられている。


そう感じる瞬間は何度かあった。


だが、振り返らない。


相手に気づいたと思わせる必要はない。


古渡へ近づくにつれ、人通りが増えていく。


商人。


旅人。


僧。


農民。


誰が相手側の者なのか分からない。


指定された辰の刻より少し早く着いた。


景継は馬を預け、歩くことにした。


しばらくすると、一人の子供が近づいてきた。


十歳にもなっていない。


「林道様?」


景継は少し驚いた。


「そうですが」


子供が紙を差し出す。


「これ渡せって」


「誰に?」


子供は指を差した。


だが、その先には誰もいない。


「男の人」


「どんな?」


「知らない」


景継は銭を一枚渡した。


「ありがとう」


子供は嬉しそうに走っていった。


景継は紙を見る。


『南へ二町。橋を渡り、右へ』


案内。


相手は最初から、自分が来ることを見ている。


景継は言われた通り進んだ。


◇◇◇


二つ目の指示。


三つ目の指示。


そのたびに、違う人間から紙を渡された。


茶屋の女。


荷を運ぶ男。


最後は僧だった。


誰も、自分が何を運んでいるのか知らないように見える。


景継は歩きながら考えた。


上手い。


一人の案内役を尾行しても、本当の相手にはつながらない。


信長が周囲へ人を置いていても、自分がどこへ連れて行かれるかを先回りすることは難しい。


そして何より。


相手は、自分が護衛を隠している可能性まで考えている。


何度も方向を変えさせることで、尾行を少しずつ引き離している。


「なるほど」


景継は小さく呟いた。


相手はこちらを馬鹿にしているわけではない。


最初から。


十分に警戒している。


そのことが、少し嬉しかった。


同時に。


かなり怖かった。


◇◇◇


最後に辿り着いたのは、小さな寺だった。


三河で雪斎と会った時と似ている。


だが、今回は人の気配がほとんどない。


景継は門の前で立ち止まった。


帰るなら今。


そう思った。


弥兵衛たちは、おそらくかなり離されている。


ここから先へ入れば。


本当に一人になる。


景継は少しだけ考えた後、門をくぐった。


境内に一人の男がいる。


三十代半ばほど。


武士らしい装いでもなければ、商人にも見えない。


派手さのない着物。


腰に刀もない。


男は景継を見ると、穏やかに頭を下げた。


「初めまして」


景継は一定の距離を取って止まった。


「あなたが先生ですか」


男が少し笑う。


「いいえ」


「では?」


「先生の弟子、とでも申しましょうか」


景継は少し残念だった。


「本人ではないのですね」


「残念そうですな」


「少し」


「命を狙われているかもしれないというのに?」


「それとこれとは別です」


男は声を上げて笑った。


「なるほど。聞いていた通りだ」


また。


その言葉。


景継は少し眉を寄せた。


「先生は、私についてどれほど知っているのです」


「かなり」


「五歳の頃から?」


男の笑みが少しだけ変わった。


景継は気づいた。


「知っているのですね」


「なぜそう思う」


「否定しなかったので」


男は苦笑した。


「雪斎殿も苦労されたでしょうな」


「雪斎様をご存じで?」


「もちろん」


景継の警戒が一段上がった。


「今川の方ではない?」


「違います」


「斎藤?」


「違います」


「では京?」


男は答えなかった。


景継はそれ以上追及せず、別の質問をした。


「津々木蔵人殿は生きていますか」


男の表情から笑みが消えた。


「なぜ最初にそれを聞く」


「一番知りたいからです」


「自分の命より?」


「今、殺すつもりなら会話をしないでしょう」


男は景継をしばらく見た。


「生きている」


景継の目が少し変わった。


「どこに?」


「それは言えぬ」


「先生のところ?」


「答えられぬ」


少なくとも。


津々木は、この者たちとつながっている。


ほぼ確定した。


◇◇◇


「なぜ信長様と信勝様を戦わせようとしたのです」


景継が聞いた。


男はすぐには答えなかった。


「我らがやったと?」


「津々木殿があなた方とつながっているなら」


「それだけでは証拠にならぬ」


「はい」


景継は認めた。


「だから聞いています」


男が笑った。


「素直なのか、図太いのか」


「よく分かりません」


「なら答えよう」


男は近くの石へ腰を下ろした。


景継には座るよう勧めない。


景継も立ったまま聞く。


「戦わせようとはした」


景継の表情が変わる。


初めて明確に認めた。


「なぜ」


「見るためだ」


「何を?」


「信長という男を」


景継の眉が動いた。


男は続けた。


「弟が兵を挙げようとする。家臣の中にも裏切る者がいる。その時、織田信長はどうするのか」


「そのために戦を起こそうと?」


「戦にはならなかった」


「私が止めました」


「そうだ」


男の口元が少し上がった。


「だから、お前も見えた」


景継は黙った。


「最初は信長だけだった」


「何がです」


「先生が見ていた者だ」


風が境内を抜ける。


景継は相手の言葉を聞き逃さないようにした。


「だが途中から、林道景継という少年が出てきた。兄弟の間に入り、戦を止め、今川まで疑い、さらに自分が誘導されていることにも気づいた」


男は景継を見る。


「だから今は」


少しだけ間を置いた。


「信長より、お前の方が面白い」


景継は嫌そうな顔をした。


「その言葉は聞き飽きました」


男が笑った。


◇◇◇


「先生は何者です」


景継が聞く。


「それを知るには、まだ早い」


「では、なぜ私を呼んだのです」


「忠告だ」


「何の?」


男の表情が変わった。


「今川を見すぎるな」


景継は黙った。


「雪斎と会い、義元を知り、今川が尾張へ来る可能性を考え始めた」


「それが?」


「東ばかり見れば、西を見失う」


景継の目が少し細くなる。


西。


美濃。


さらにその先。


京。


「先生は京にいる?」


男は笑った。


答えない。


「私を京へ誘導したのは」


「誘導したのではない」


「では?」


「気づけるか試した」


景継は少し苛立った。


「言い方を変えただけでしょう」


「そうかもしれぬ」


男はまったく悪びれない。


「では最後に一つ、先生からの問いを預かっている」


「また問いですか」


「嫌か」


「最近、皆さん私を試しすぎです」


「それだけ試す価値があると思われている」


景継は答えなかった。


男は静かに問いかける。


「織田信長が尾張を統一した時、お前はどうする」


景継の表情が変わった。


「まだ統一していません」


「だから問うている」


「その時にならなければ」


「それでは答えにならぬ」


男は景継を見る。


「信長が尾張を取り、美濃へ進み、その先まで望んだ時」


少し声を落とす。


「お前は、あの男を天下へ押し上げるのか」


景継は何も言えなかった。


天下。


信長からも。


道三からも。


雪斎からも。


直接その言葉を、自分に向けて聞かれたことはなかった。


「なぜ私にそんなことを」


「答えよ」


景継は考えた。


信長が天下を。


自分がそれを支える。


想像する。


嫌ではない。


それに気づいた瞬間。


胸の奥に、妙な感覚が生まれた。


同時に。


古い記憶のようなものが、頭の奥をかすめた。


巨大な宮殿。


皇帝。


天下。


そして自分は。


誰かの横にいる。


だが。


その人物を。


最後には。


「……分かりません」


景継は答えた。


男は少しだけ目を細めた。


「本当に?」


「はい」


「では、先生へそう伝えよう」


景継は相手を見る。


「先生に会えるのはいつです」


「お前が」


男は立ち上がった。


「自分が誰なのかを知った頃だ」


景継の表情が止まった。


「何を」


「今日はここまでだ」


男が歩き出す。


景継が声を上げた。


「待ってください!」


男は振り返らない。


「今のはどういう意味です!」


返事はなかった。


景継は追おうとした。


だが。


寺の門から外へ出た瞬間。


男の姿はすでになかった。


◇◇◇


少しして、弥兵衛たちが駆け込んできた。


「若様!」


弥兵衛は景継を見ると、明らかに安心した顔をした。


「ご無事ですか!」


「はい」


「どれだけ探したと思っておられるのです!」


「すみません」


「本当に心配したのですぞ!」


「それは……申し訳ありません」


景継が素直に謝ったので、弥兵衛の勢いが少し弱くなった。


「何があったのです」


景継はすぐには答えなかった。


先生の弟子。


津々木は生きている。


信長を試すため、兄弟を戦わせようとした。


そして最後の言葉。


――お前が自分が誰なのかを知った頃だ。


「弥兵衛」


「はい」


「私が私でないと言われたら、どう思います?」


弥兵衛はしばらく景継を見た。


「先ほどの者に何を言われたのです」


「質問に答えてください」


弥兵衛は少し考えた。


「若様は若様でしょう」


「それだけ?」


「それ以外に何がございます」


景継は黙った。


単純な答えだった。


だが、なぜか少し安心した。


「そうですね」


「清洲へ戻りますぞ」


「はい」


◇◇◇


その日の夜。


景継は信長へ、会話のほとんどを報告した。


津々木が生きていること。


相手が兄弟の争いを意図的に煽ったと認めたこと。


信長を見ていたこと。


そして、今は景継自身にも興味を持っていること。


ただ、一つだけ。


最後の言葉を話すべきか迷った。


「それだけか」


信長が聞く。


景継は少し黙る。


「まだあるな」


「なぜ分かるのです」


「顔だ」


最近、顔で何でも見抜かれている。


景継は諦めた。


「先生に会えるのは、自分が誰なのかを知った頃だと言われました」


信長の表情が変わった。


「自分が誰なのか?」


「はい」


「どういう意味だ」


「分かりません」


信長はしばらく景継を見た。


そして、低い声で聞いた。


「景継」


「はい」


「お前、本当に何者だ」


景継は答えられなかった。


十三歳。


林道景政の次男。


林道景継。


それ以外の何者でもない。


そのはずなのに。


最近。


自分自身が。


一番それを信じられなくなっていた。


◇◇◇


同じ頃。


尾張から離れた場所で、景継と会った男が一人の人物の前に座っていた。


部屋は暗く、相手の顔は見えない。


「会って参りました」


「どうだった」


「想像以上です」


「何が」


男は少し考えた。


「十三とは思えませぬ」


暗闇の向こうから、わずかな笑い声が聞こえた。


「皆、同じことを言う」


「先生」


「何だ」


「なぜ、あの少年なのです」


しばらく返事はなかった。


やがて、暗闇の中から声がする。


「儂もまだ分からぬ」


「では」


「ただ」


男は黙って待った。


「時折」


先生と呼ばれた人物は、静かに続けた。


「あの少年の噂を聞いていると、昔の書物に出てくる誰かと話しているような気分になる」


「誰です」


また沈黙があった。


だが、今度は答えなかった。


代わりに机の上へ、一冊の古びた書物が置かれた。


それは日本の書ではない。


海の向こう。


はるか昔。


魏、蜀、呉が争った時代について記されたものだった。


男が書物を見る。


「これは?」


「まだ早い」


先生は書物を閉じた。


「林道景継が自分で辿り着くまで、答えを与えるな」


そして最後に、静かに付け加えた。


「もし儂の考えが正しければ」


暗い部屋に声だけが響いた。


「信長のそばにいるあの少年は、この国の人間では説明できぬぞ」

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