第二十六話 先生からの招待
信長に「罠を作る」と告げた翌日、景継は朝から清洲の一室に籠もっていた。
机の上には尾張周辺の地図と、一枚の紙が置かれている。
「若様」
隣で弥兵衛が腕を組んだ。
「本当に、昨夜の屋敷の名を信長様へ言わなくてよかったのですか」
「今は、です」
「相手が織田家中の者なら、すぐ捕らえた方がよいのでは?」
「荷が入っただけです」
景継は筆を置いた。
昨夜、熱田から運ばれた荷は確かに織田家臣の屋敷へ入った。
だが、それだけでは屋敷の主が関わっている証拠にはならない。
家臣が勝手に受け取ったのかもしれない。商いの荷だった可能性もある。
それどころか。
「私たちを誘導している相手なら、あの屋敷へ荷を運ばせたこと自体が罠かもしれません」
「そこまで疑いますか」
「疑うだけです。決めつけません」
弥兵衛がため息をついた。
「では、今度は何を?」
景継は机の紙を見せた。
京へ向かう旅程だった。
出立は三日後。
供は四人。
美濃を避け、近江を経て京へ向かう。
「これを盗ませます」
「盗ませる?」
「正確には、見てもらいます」
「誰に」
景継は少し笑った。
「私を見ている人に」
偽の旅程は、自室の机へ置いた。
その日の午後、景継は弥兵衛を連れて城下へ出る。
部屋を空にするためだった。
「本当に見られますかな」
「見られなくても構いません」
「罠なのでは?」
「誰が、どこから私の情報を得ているのか。それを知るための罠でもあります」
紙がなくなれば、部屋へ入れる者が怪しい。
残ったまま内容だけ伝われば、誰かが見ている。
何も起こらなければ、別のところから情報を取っている。
夕刻。
二人は清洲へ戻った。
机の上には、旅程がそのまま置かれている。
「何もなかったようですな」
景継は答えず、紙を持ち上げた。
そして机を見る。
「見られています」
「なぜ分かるのです?」
「紙の下に髪を一本挟んでいました」
「髪?」
「なくなっています」
弥兵衛が景継を見る。
「若様」
「何です」
「たまに、本当に十三か疑いたくなります」
景継の表情が一瞬だけ止まった。
「……最近、よく言われます」
翌日も、その次の日も何も起こらなかった。
偽の旅程では、明日が出立の日になっている。
景継は普段通りに過ごした。
評定が終わったところで、信長が声をかけてくる。
「景継。明日だったな」
「何がです?」
「京へ行く日だ」
声が大きい。
近くにいた家臣たちが振り返った。
景継は信長を見る。
「わざとですね」
「ああ」
「協力してくださるのですか」
「俺も見たいからな。お前の罠に誰がかかるか」
景継は少し笑った。
この男も楽しんでいる。
以前は信長に振り回されてばかりだと思っていた。
それが最近では、二人で同じ何かを企むことが増えている。
不思議な変化だった。
その日の夕方。
景継が自室へ戻ると、机の上に一通の書状が置かれていた。
朝にはなかったものだ。
表には、
『林道景継殿』
とだけある。
差出人はない。
「若様」
「触らないでください」
景継は周囲を確認してから書状を取った。
封を開く。
文章は短かった。
『京へ向かわれる必要はございませぬ。お探しの者は、すでに尾張におります』
景継と弥兵衛が顔を見合わせた。
偽の旅程は、完全に見られていた。
さらに続きがある。
『明日、辰の刻。熱田の南、古渡へ。一人でお越しください』
最後には、名前の代わりに例の印。
円の中に三本の線。
「若様」
弥兵衛の声が低くなる。
「行きませぬよな」
「考えています」
「考える必要がございますか」
「あります」
「一人で来いと書いてあるのですぞ」
景継も危険なのは分かっている。
だが、これまで姿を見せなかった相手が初めてこちらへ手を伸ばしてきた。
「まず信長様へ話しましょう」
弥兵衛が安心した顔をする。
「それがよろしい」
「行くかどうかは、その後で」
「行かないと決めてから話してください」
書状を読んだ信長は、あっさり言った。
「行けばよい」
「よいのですか」
「お前が行きたい顔をしている」
「顔で決めないでください」
「違うのか」
景継は黙った。
行きたい。
危険でも知りたい。
「……行きたいです」
「なら行け。ただし、本当に一人では行かせぬ」
信長は地図を引き寄せた。
周囲には離れて人を置く。
弥兵衛も、見えない距離から追うことになった。
「一人で来いと書いてありますが」
景継が言うと、弥兵衛は即答した。
「見つからなければ一人です」
「そういう意味ではないと思います」
「私はそう解釈します」
信長が笑った。
「決まりだな」
翌朝。
景継は一人で清洲を出た。
少なくとも、表向きは。
指定された辰の刻より少し早く古渡へ着き、馬を預けて歩く。
人通りは多い。
商人、旅人、僧、農民。
誰が相手側なのか分からない。
しばらくすると、小さな子供が近づいてきた。
「林道様?」
「そうですが」
子供が紙を差し出す。
「これ、渡せって」
紙には、
『南へ二町。橋を渡り、右へ』
とある。
「誰に頼まれました?」
「男の人」
それ以上は知らないらしい。
景継は銭を渡し、指示された場所へ向かった。
次は茶屋の女。
その次は荷を運ぶ男。
最後は僧。
すべて別人だった。
誰も、自分が何のために紙を渡しているのか知らないように見える。
景継は歩きながら小さく息を吐いた。
上手い。
案内役を追っても、本当の相手にはたどり着けない。
しかも何度も進路を変えることで、離れて追っている弥兵衛たちを引き離している。
相手は、景継が本当に一人で来るとは最初から思っていなかったのだ。
こちらを甘く見ていない。
そのことが少し嬉しく。
同時に、怖かった。
最後にたどり着いたのは、小さな寺だった。
人の気配はほとんどない。
景継は門の前で立ち止まる。
ここから先へ入れば、本当に一人になる。
少し考えた後。
門をくぐった。
境内に男が一人いた。
三十代ほどだろうか。
武士にも商人にも見えない。
男は景継を見ると、穏やかに頭を下げた。
「初めまして」
景継は距離を取ったまま尋ねる。
「あなたが先生ですか」
男が笑った。
「いいえ」
「では?」
「先生の使い、とでも申しましょうか」
「本人ではないのですね」
「残念そうですな」
「少し」
男が笑う。
「聞いていた通りだ」
景継の目が細くなった。
「先生は、私についてどれほど知っているのです」
「かなり」
景継は少し迷ってから尋ねた。
「私が幼い頃のことも?」
男の笑みが、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが景継は見逃さなかった。
「知っているのですね」
「なぜそう思う」
「否定しなかったので」
男は苦笑した。
「なるほど」
景継の胸に、別の疑問が生まれる。
この先生という人物は、最近になって自分を知ったのではない。
もっと前から。
「津々木蔵人殿は生きていますか」
男の表情から笑みが消えた。
「なぜ最初にそれを聞く」
「一番知りたいからです」
少しの沈黙。
「生きている」
「どこに?」
「それは言えぬ」
「先生とつながっている?」
男は答えなかった。
それだけで十分だった。
「では、もう一つ」
景継は男を見る。
「信長様と信勝様を争わせようとしたのも、先生ですか」
「違う」
予想より早い否定だった。
景継は眉を寄せる。
「ですが津々木殿とつながっている」
「つながっていることと、始めたことは同じではない」
「先生は津々木殿が何をしているか知っていた?」
今度は答えが少し遅れた。
「知っていた」
「止めなかったのですか」
「ああ」
景継の表情が険しくなる。
「なぜ」
男はしばらく景継を見た。
「見るためだ」
「何を?」
「お前をだ。林道景継」
景継は言葉を失った。
「先生は以前からお前を知っていた。だが、ある時を境に、お前は変わった」
「変わった?」
「それ以上は私の口から言うことではない」
景継の胸の奥がざわつく。
幼い頃。
失われた記憶。
時折、頭をよぎる知らない景色と言葉。
「津々木殿を使って、私を試したのですか」
「少し違う。津々木は自分の意思で動いた。先生はそれを見ていた」
「そして私がどうするかも?」
「ああ」
「趣味が悪いですね」
男が少し笑った。
「それは否定せぬ」
景継は笑わなかった。
「もし私が止められなければ、戦になっていたかもしれません」
「その通りだ」
「それでも?」
男の顔から笑みが消える。
「先生にも考えがある。だが、それを正しかったと私が言うつもりはない」
景継はその言葉を覚えておくことにした。
いつか本人に会った時。
必ず聞く。
「先生は何者です」
「それを知るには、まだ早い」
「では、なぜ私を呼んだのです」
「確かめるためだ」
「何を?」
男は景継を見る。
「お前が、どこまで来ているのかを」
「何の話です」
「分からぬなら、それでよい」
景継は苛立った。
「皆、私に分からないことばかり言いますね」
「いずれ分かる」
「いつです」
男は少し考えた。
「お前が、自分自身を知った時だ」
景継の表情が止まる。
「私は林道景継です」
「そうだ」
「なら知っています」
「本当に?」
男の問いに、景継はすぐ答えられなかった。
男はそれ以上追及しない。
「先生から、もう一つだけ伝言がある」
「何です」
「東ばかりを見るな」
「東?」
「今川だ」
景継の目が細くなる。
「雪斎様と会ったことまで?」
「先生は知っている」
「では西を見ろと?」
「どちらかだけを見るな、ということだ」
美濃。
近江。
そして京。
景継は男を見る。
「先生は京にいる?」
男は答えず、立ち上がった。
「今日はここまでだ」
「待ってください」
「いずれ、また会う」
「先生には?」
男は数歩進んでから止まった。
「お前が、自分の中にあるものへ辿り着いた時」
振り返らずに続ける。
「その時は、先生も逃げぬ」
景継は追おうとした。
だが寺の門を出た時には、男の姿は人の流れに消えていた。
しばらくして、弥兵衛たちが駆け込んできた。
「若様!」
景継の姿を見るなり、弥兵衛は大きく息を吐いた。
「ご無事ですか」
「はい」
「どれだけ探したと思っておられるのです」
「すみません」
素直に謝ると、弥兵衛の勢いが少し弱くなった。
「何を言われたのです」
景継はすぐには答えなかった。
先生は以前から自分を知っていた。
ある時を境に変わったと言った。
そして。
――お前が、自分自身を知った時。
「弥兵衛」
「はい」
「私が私でないと言われたら、どう思います?」
弥兵衛は怪訝な顔をした。
「何を言われたのです」
「質問に答えてください」
しばらく考えた後、弥兵衛は言った。
「若様は若様でしょう」
「それだけ?」
「それ以外に何がございます」
単純な答えだった。
だが、景継は少しだけ安心した。
「そうですね」
「戻りますぞ」
「はい」
その夜。
景継は信長へ、寺での会話を報告した。
津々木が生きていること。
先生は津々木の動きを知っていたが、争いそのものを仕組んだわけではないということ。
そして、先生が以前から景継を知っているらしいこと。
「それだけか」
信長が聞いた。
景継は少し黙る。
「まだあるな」
「なぜ分かるのです」
「顔だ」
景継は諦めた。
「自分自身を知った時に、先生と会えると言われました」
信長の表情が変わった。
「自分自身?」
「はい」
「どういう意味だ」
「分かりません」
信長は景継をじっと見る。
「景継」
「はい」
「お前、本当に何者だ」
景継は答えられなかった。
十三歳。
林道景政の次男。
林道景継。
それ以外の何者でもない。
そのはずなのに。
最近は、自分自身が一番それを信じられなくなっていた。
同じ頃。
景継と会った男は、薄暗い部屋で一人の人物へ報告していた。
「会って参りました」
「どうだった」
「想像以上です」
暗がりから、わずかな笑い声がした。
「皆、同じことを言う」
「先生」
「何だ」
「なぜ、あの少年なのです」
しばらく沈黙が続いた。
「昔、会ったことがある」
「景継と?」
「ああ。まだ幼い頃にな」
先生と呼ばれた人物は、静かに続けた。
「あの頃の景継は、知るはずのないことを知っていた。見たこともないはずのものを、見てきたように話すこともあった」
「では、何者なのです」
「分からぬ」
答えは早かった。
「数年後に会った時、その記憶は消えていた。本人も覚えていなかった」
「だから、ずっと見ていた?」
「ああ」
男は少し黙った後、尋ねる。
「戻り始めていると?」
先生はすぐには答えなかった。
「まだ分からぬ」
机の上に置かれた報告書へ手を伸ばす。
そこには、林道景継の名がある。
「だから答えを与えるな」
「では、このまま?」
「あの少年なら、自分で探す」
先生は景継の名を見つめた。
「そして、もし本当に戻るのなら――」
言葉を止める。
「その時に聞けばよい」
「何をです?」
暗がりの中。
先生は静かに答えた。
「あの少年が、かつて誰だったのかを」




