第二十七話 知らないはずの景色
先生と呼ばれる人物の弟子に会ってから、三日が経った。
景継の生活は、それまでと大きく変わってはいなかった。朝になれば起き、弥兵衛と稽古をし、清洲へ出れば信長の話を聞く。必要があれば城下へ出て商人から情報を集め、夜になればその日に得たものを帳面へ書き残す。傍から見れば、以前と何も変わらない毎日を送っているように見えただろう。
だが景継自身は、自分の中に小さな変化が生まれていることに気づいていた。
その原因は、机の上に置かれたあの新しい頁にある。
『私は誰なのか』
自分で書いたその一文を眺めながら、景継は小さく息を吐いた。
「馬鹿らしいな」
林道景継、十三歳。父は林道景政、母は志乃、兄は景久。尾張の小さな土豪の家に生まれ、幼い頃から家族に囲まれて育ってきた。
もちろん、生まれた瞬間からすべてを覚えているわけではない。それでも幼い頃の記憶ならいくつも残っている。兄を追いかけて転び、膝を擦りむいたこと。父の刀を勝手に触ろうとして叱られたこと。母に隠れて弥兵衛と外へ出て、帰ってから二人揃って怒られたことも覚えている。
自分が林道景継であることを疑う理由など、本来ならどこにもない。
それなのに、あの男から言われた言葉だけが、いつまでも頭の中から消えてくれなかった。
――お前が、自分が誰なのかを知った頃だ。
あれは単に自分を惑わせるための言葉だったのではないか。こちらを混乱させ、考える必要のないことを考えさせる。それも策の一つだと考えれば、むしろ納得できる。
「材料もないのに考えても仕方がないか」
景継は帳面を閉じた。
分からないことを考えるのは嫌いではない。だが、手掛かりが一つもない状態で答えを求め続けるのは、考えるというより想像するだけになってしまう。
ならば今は放っておけばいい。
相手が何かを知っているのであれば、いずれまた動く。その時に考えればいいのだ。
そう決めた景継は帳面を棚へ戻した。
少なくとも、その時は本当にそうするつもりだった。
◇◇◇
その日の午後、清洲へ出ていた景継は信長から呼び出された。
部屋へ入ると、信長だけではなく数人の家臣も集まっており、中央には尾張の地図が大きく広げられていた。何か動きがあったらしいと察した景継が腰を下ろすと、信長は挨拶もそこそこに地図の北側を指した。
「岩倉だ。少し妙な動きをしておる」
尾張上四郡を支配する岩倉織田家。信長が尾張をまとめようとする以上、いずれ避けて通ることのできない相手である。
景継が詳しい説明を求めると、信長の家臣が話し始めた。
岩倉方の者と思われる人間が、清洲へ出入りする商人たちに接触しているという。聞き出そうとしているのは、信長方の兵数や有力家臣の配置だけではない。最近では信長と信勝の関係について、かなり細かく尋ねている者までいるらしい。
「それ自体は、それほど不自然ではないと思います」
景継がそう言うと、一人の家臣が怪訝な顔をした。
「不自然ではないと?」
「はい。岩倉から見れば、清洲がどれほどの兵を集められるのか、誰が信長様についているのかを調べるのは当然です。私が岩倉側にいても同じことをします」
「ならば放っておけばよいというのか」
「いいえ。気になるのは、兵の数ではありません」
景継は地図の上へ手を伸ばし、末森の辺りを指した。
「信勝様との関係です。兄弟の争いは一度収まっています。それなのに今になって岩倉がそこを詳しく調べているのなら、単純に清洲の力を知りたいだけではないかもしれません」
信長は何も言わず、景継の話を聞いている。
「もし岩倉が信勝様を利用しようと考えているのであれば、兄弟の間にどれほどの溝が残っているのかを知る必要があります。信勝様本人がその気でなくても、周囲の家臣に不満を持つ者がいれば、そこから揺さぶることもできます」
その言葉を聞いた家臣の一人が、すぐに口を開いた。
「ならば、やはり信勝様を警戒すべきではございませぬか。一度は殿に逆らおうとされた御方です。岩倉から誘いがあれば、再び――」
「まだ信勝様は何もしていません」
景継が静かに遮った。
家臣の顔に不満が浮かぶ。
「しかし、起きてからでは遅いのだぞ」
「それは分かります。ただ、一度疑った相手をずっと疑い続けていると、何をしても怪しく見えてしまいます。岩倉の者が信勝様の家臣と話した。それだけで内通だと思うようになれば、こちらが欲しい証拠だけを集めることになります」
「ではどうする」
今度は信長が聞いた。
景継は少し考えてから答えた。
「今は信勝様ではなく、岩倉の動きを見ます。向こうが誰に接触し、何を伝えようとしているのか。それが分かってからでも遅くはないと思います」
「信勝が裏で動いていたらどうする」
「その時は、その時です」
信長が笑った。
「お前は簡単に言うな」
「何も分からないうちからこちらで敵を増やすよりはいいでしょう。信勝様を疑い、監視し、遠ざければ、本当に岩倉の方へ行ってしまうかもしれません」
部屋の中が静かになった。
景継はまだ十三歳でしかない。織田家の重臣たちから見れば、若造どころか子供と呼んでもおかしくない年齢である。それでも最近では、景継が意見を述べ始めると途中で遮る者が少なくなっていた。
信長はしばらく地図を眺めた後、家臣たちへ岩倉方面の動きをさらに探るよう命じた。
評定が終わり、家臣たちが次々と部屋から出ていく。景継も立ち上がろうとしたところで、信長から呼び止められた。
「景継。お前は残れ」
何かまだ話があるらしい。
景継は再び腰を下ろした。
◇◇◇
家臣たちがいなくなると、信長は先ほどまでとは違う話を始めた。
「この前のことはどうした」
「この前とは?」
「先生とやらの使いに言われた話だ。自分が何者なのか、というやつだ」
景継は少し驚いた。信長がそこまで気にしているとは思っていなかったからだ。
「考えるのをやめました」
「なぜだ」
「考えるための材料がありません。あの男が何を知っているのかも分からないのに、言葉だけを気にしていても仕方がないでしょう」
「お前らしくないな」
「そうですか?」
「お前なら分からぬことがあれば、分かるまで調べると思っていた」
景継は苦笑した。
「調べる方法がないのです。まさか尾張中の人間に、私が誰なのか知りませんか、と聞いて回るわけにもいかないでしょう」
「先生を探せばよい」
「それこそ相手の思うままです。こちらが気にして探し回れば、あの言葉が効いたと教えるようなものです」
信長はしばらく景継を見ていたが、やがて小さく笑った。
「面倒な奴だ」
「信長様には言われたくありません」
「俺は分かりやすいぞ」
「ご自分でそう思っているところが一番困ります」
信長は声を上げて笑った。
景継も少し笑ったが、信長はすぐに真顔へ戻った。
「怖いのか」
「何がです?」
「自分でも知らぬ自分がいるかもしれないことがだ」
景継は答えようとして、言葉に詰まった。
怖いのかと問われるまで、そんなふうに考えたことはなかった。
だが、先生の正体や津々木の行方については、危険があっても知りたいと思う。それなのに、自分自身についてだけは、どこかで「今は知らなくてもいい」と思っている。
それは、もしかすると。
「……少しは、怖いのかもしれません」
景継が正直に答えると、信長は意外にも笑わなかった。
「なら、今はそれでよい」
「先ほどは調べろと言ったではありませんか」
「気が変わった」
「早すぎませんか」
「俺だからな」
まったく理由になっていない。
景継は呆れながらも、それ以上は聞かなかった。
◇◇◇
その夜、景継は妙な夢を見た。
最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
見覚えのない広い道を、一人で歩いている。道の両側には尾張では見たこともない形の建物が並び、その間を大勢の人々が行き交っていた。
清洲ではない。
京へ行ったことのない景継には京との比較もできないが、少なくとも自分が知っているどの町とも違う。
遠くには巨大な門が見えた。
あまりに大きく、初めて見るはずの景色に景継は圧倒された。
ところが、不思議なことが起きた。
道が二つに分かれている場所へ来た時、景継は迷うことなく右へ曲がった。
なぜ右を選んだのか、自分でも分からない。ただ、こちらだという確信だけがあった。
少し進むと、今度は細い道が左へ延びている。景継はそこへ入る前から、その先に橋があるような気がした。
実際に角を曲がると、本当に橋があった。
景継は足を止めた。
おかしい。
初めて見る場所のはずなのに、次に何があるのか分かる。
橋を渡った先には大きな木があり、その少し向こうには井戸がある。そして高い塀に沿って進めば、大きな屋敷へ辿り着く。
そう思った。
確かめるように歩いてみる。
橋を渡ると、そこには大きな木があった。さらに進めば井戸があり、その先には高い塀が続いていた。
景継の胸の鼓動が速くなる。
自分はこの場所を知っている。
どうしてそう思うのかは分からない。だが、一度や二度訪れた程度ではない。何度もこの道を歩き、どこに何があるのか身体で覚えているような感覚だった。
景継は自然と歩く速度を上げた。
高い塀に沿って進んでいくと、やがて大きな屋敷が姿を現した。
その門を見た瞬間、景継の足が止まった。
胸の奥に、言葉では説明できない感情が込み上げてくる。
懐かしい。
初めて見る屋敷なのに、そう感じた。
門の形も、屋根の高さも、脇に立つ木も知っているような気がする。門を入ればどこに庭があり、どこに部屋があるのかまで、ぼんやりと思い浮かべることができた。
景継はゆっくり門へ近づいた。
手を伸ばせば触れられるところまで来た、その時だった。
背後から誰かに呼ばれた。
景継は振り返る。
少し離れた場所に人が立っている。
男だということは分かるが、なぜか顔だけがはっきり見えない。着ているものも見慣れないはずなのに、景継はそこに違和感を覚えなかった。
男がもう一度、何かを言った。
自分を呼んでいる。
景継にはそれが分かった。
だが、聞こえたのは自分の知っている名前ではなかった。
林道でもない。
景継でもない。
確かに別の名前で呼ばれた。
「待ってください」
景継は男へ近づこうとした。
だが、なぜか足が動かない。
「今、私を何と呼びました?」
男が再び口を動かす。
今度こそ聞き取ろうと、景継は必死に耳を澄ませた。
あと少しで聞こえる。
そう思った瞬間、景色が大きく揺れた。
◇◇◇
景継は目を覚ました。
目に入ったのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。
外はまだ暗い。朝まではしばらく時間がありそうだった。
景継は身体を起こし、額に手を当てた。
夢だった。
そう考えれば、それで終わる話のはずだった。
しかし、どうしても気になることがある。
景継は目を閉じ、先ほど歩いていた道を思い返した。
最初の分かれ道を右へ曲がり、次の角を左へ進む。その先に橋があり、橋を渡れば大きな木がある。そこから少し進めば井戸があり、高い塀に沿って歩いていけば、最後にあの屋敷へ辿り着く。
夢から覚めた今でも、はっきり覚えていた。
それどころか、夢の中では歩かなかった道まで「こちらへ進めば何がある」と分かるような気がする。
景継は布団から出ると、机の前へ座った。
帳面を開き、夢の中で見た町の道を描き始める。
最初は覚えている部分だけを残すつもりだった。
ところが、筆が止まらなかった。
一本の道を描くと、その先に何があるのか自然に浮かんでくる。そこから別の道が延び、さらに別の道へつながっていく。
景継は途中で筆を止めた。
自分が何をしているのか分からなくなった。
「どうして、こんなところまで……」
夢で歩いていない場所まで描いている。
それなのに、間違っているという感覚がない。
むしろ、ここにはこの道がある、と知っている。
景継は再び筆を動かした。
しばらくすると、かなり広い範囲の地図らしきものが出来上がった。
その中央から少し離れた場所に、夢で見た屋敷がある。
景継は無意識に、その場所へ印をつけていた。
印をつけてから、自分の行動に気づいた。
なぜここが特別なのか。
答えは分からない。
ただ、あの屋敷を見た瞬間に感じた懐かしさだけは、今も胸に残っていた。
景継は帳面を何頁か戻した。
そこには三日前に自分で書いた言葉がある。
『私は誰なのか』
昨日までは、材料がないから考えても仕方がないと思っていた。
だが今は、一つだけ材料ができてしまった。
自分が知らないはずなのに、知っている場所。
景継はしばらく地図とその言葉を交互に眺めていた。
そして初めて、自分の中にある疑問から目を逸らし続けることはできないのかもしれないと思った。
◇◇◇
翌朝、弥兵衛が部屋へ入ってくると、景継は帳面を開いたまま朝食を取っていた。
「若様、食事中くらい帳面を閉じてください」
「もう少しだけです」
「昨日も同じことを言われておりました。食べるか書くか、どちらかにしてください」
景継は仕方なく帳面を閉じた。
弥兵衛が向かいに座り、景継の顔を見た。
「寝不足ですか?」
「少し変な夢を見ました」
「また先生のことですか」
「違います。知らない町を歩いていました」
景継は昨夜見た夢について話した。
見たことのない町だったこと。なぜか道順を知っていたこと。知らない屋敷を懐かしいと感じたこと。そして、顔の見えない誰かから別の名前で呼ばれたこと。
話を聞き終えた弥兵衛は、すぐには何も言わなかった。
しばらく考えてから、真剣な顔で口を開く。
「若様、一度寺へ参りませんか」
「行きません」
「まだ何も言っておりませぬ」
「お祓いでしょう」
「その通りです」
景継は思わず笑った。
「ただの夢ですよ」
「若様自身が、ただの夢だと思っておられないでしょう」
その言葉に、景継は返事ができなかった。
弥兵衛は時々、妙なところで鋭い。
景継は少し迷った後、閉じていた帳面を再び開き、昨夜描いた地図を見せた。
「夢で歩いたのは、この辺りだけです」
景継は地図の一部を指した。
「でも、起きてから描いているうちに、ここまで分かりました。夢では見ていないはずなのに、道がどう続いているのか知っている気がするんです」
弥兵衛の表情から笑いが消えた。
「以前、どこかで見た地図では?」
「覚えがありません。それに、こんな町を私は知りません」
「京ということは?」
「京の地図も詳しく知りませんから断言はできません。ただ、夢の中では少なくとも尾張ではないと思いました」
弥兵衛は地図をしばらく眺めていた。
当然ながら、何の町なのか分からない。
やがて帳面を景継へ返した。
「今すぐ答えを出す必要はないのではありませんか」
「そう思いますか」
「分からないものは、分かる時まで待てばよろしいでしょう。若様は待つのが得意ではありませんか」
その言葉を聞いた瞬間、景継の胸の奥で何かが動いた。
ほんの一瞬だった。
誰かに同じことを言われたような気がした。
いつ。
どこで。
誰に。
何一つ思い出せない。
それでも「待つのが得意」という言葉だけが、不思議なほど懐かしく聞こえた。
「若様?」
弥兵衛に呼ばれ、景継は我に返った。
「どうされました」
「いえ……何でもありません」
そう答えながらも、景継は自分の胸に残った違和感を消すことができなかった。
◇◇◇
それから数日後、岩倉方面へ出していた者が清洲へ戻ってきた。
報告を受けた信長は、すぐに景継を呼び出した。
「当たったぞ」
部屋へ入った景継に、信長が一通の書状を差し出した。
「岩倉ですか」
「ああ。お前が言っていた通り、あちらは信勝本人より、その周りを探っていた」
景継は書状を受け取り、内容に目を通した。
岩倉方の人間が接触していたのは、信勝本人ではなかった。末森にいる信勝方の家臣、その中でも信長に対して強い不満を持っていると思われる者たちへ、少しずつ接触していたらしい。
「信勝様は、このことを?」
「まだ知らん」
信長の答えを聞き、景継は書状から顔を上げた。
「話した方がいいと思います」
「すぐにか?」
「はい。隠しておいて後から信勝様が知れば、信長様が自分を疑っていたと思うでしょう。それでは岩倉が何もしなくても、兄弟の間にまた溝ができます」
信長は腕を組んだ。
「だが、話せば信勝が岩倉の誘いに乗るかもしれん」
「その可能性はあります」
「それでも話すのか」
景継は少し考えた。
「信勝様に選んでもらいます」
信長の目が少し細くなる。
「またそれか」
「人を縛って味方にしても、いずれ離れます。信勝様が信長様を選ぶのか、岩倉を選ぶのか。それは最後には信勝様自身が決めることです」
以前、雪斎と話した時にも似たことを言った。
人は最後には自分で選ぶ。
景継はそう考えている。
信長はしばらく黙っていたが、やがて近くに控えていた家臣へ命じた。
「信勝を呼べ」
家臣が少し驚く。
「よろしいのでございますか」
「構わん。岩倉が何をしているのか、全部話す」
家臣が部屋を出ていった。
信長は再び景継を見る。
「もし信勝が俺を裏切ったらどうする」
「その時に考えます」
「先に考えておけ」
景継は少し笑った。
「では、まずなぜ裏切ったのかを調べます」
「裏切った後まで理由を調べるのか」
「理由が分からなければ、次も同じことが起こるでしょう」
信長は呆れたように笑った。
「お前は敵を殺すより、敵になった理由を知りたがるな」
景継は答えようとした。
だが、その瞬間だった。
胸の奥から、妙な感覚が湧き上がった。
――違う。
自分は、そんなに甘い人間ではない。
理由を知ろうとするのは、相手を許すためではない。
二度と同じことを起こさせないため。
必要ならば。
その先は――。
そこまで考えたところで、景継は眉を寄せた。
今の考えは何だったのだろう。
「景継?」
信長に呼ばれ、景継は顔を上げた。
「すみません。少し考え事を」
「最近多いな」
「何がです?」
「急に黙ることだ」
景継は苦笑した。
「考えることが増えましたので」
信長はそれ以上追及せず、地図へ視線を戻した。
景継も岩倉と末森の位置を確認する。
今は、この問題を考えればいい。
岩倉が何を企んでいるのか。
信勝はどう動くのか。
そして、その背後に先生と呼ばれる者の影があるのか。
自分が誰なのかという問題は、まだ後でいい。
景継はそう考えていた。
ただ一つ、景継自身もまだ知らないことがあった。
昨夜、夢から覚めた後に描いたあの地図。
そこに描かれていた道も、橋も、屋敷も、景継の想像が生み出したものではない。
かつて確かに存在し、そして景継ではない誰かが何度も歩いた場所だった。
その「誰か」の名前を知るには、まだ少し時間が必要だった。




