第二十七話 知らないはずの景色
先生と呼ばれる人物の使いに会ってから、三日が経った。
景継の生活は、それまでと大きく変わってはいなかった。朝になれば起き、弥兵衛と稽古をし、清洲へ出れば信長の話を聞く。必要があれば城下へ出て商人から情報を集め、夜になればその日に得たものを帳面へ書き残す。
傍から見れば、以前と何も変わらない毎日を送っているように見えただろう。
だが景継自身は、自分の中に小さな変化が生まれていることに気づいていた。
その原因は、机の上に置かれた帳面の新しい頁にある。
『私は誰なのか』
自分で書いたその一文を眺めながら、景継は小さく息を吐いた。
「馬鹿らしいな」
林道景継、十三歳。
父は林道景政、母は志乃、兄は景久。尾張の小さな土豪の家に生まれ、家族に囲まれて育ってきた。
幼い頃の記憶も残っている。
兄を追いかけて転び、膝を擦りむいたこと。父の刀を勝手に触ろうとして叱られたこと。母に隠れて弥兵衛と外へ出て、帰ってから二人揃って怒られたこと。
自分が林道景継であることを疑う理由など、本来ならどこにもない。
それなのに、あの男から言われた言葉が頭から離れなかった。
――お前が、自分自身を知った時だ。
単に自分を惑わせるための言葉ではないか。
こちらを混乱させ、考える必要のないことを考えさせる。それも策の一つだと思えば納得できる。
「材料もないのに考えても仕方がないか」
景継は帳面を閉じた。
分からないことを考えるのは嫌いではない。
だが、手掛かりが一つもない状態で答えを求め続けても、それは考えるというより想像するだけになる。
ならば、今は放っておけばいい。
相手が何かを知っているのであれば、いずれまた動く。
その時に考えればいい。
少なくとも、その時は本当にそうするつもりだった。
その日の午後、清洲へ出ていた景継は信長から呼び出された。
部屋へ入ると数人の家臣が集まり、中央には尾張の地図が広げられている。
景継が腰を下ろすと、信長は地図の北側を指した。
「岩倉だ。少し妙な動きをしておる」
尾張上四郡を支配する岩倉織田家。
信長が尾張をまとめようとする以上、いずれ避けて通れない相手だった。
家臣によれば、岩倉方の者と思われる人間が清洲へ出入りする商人たちに接触しているらしい。
聞いているのは兵数や有力家臣の配置だけではない。
最近では、信長と信勝の関係について細かく探っている者までいるという。
「それ自体は、それほど不自然ではないと思います」
景継が言うと、一人の家臣が眉を寄せた。
「不自然ではないと?」
「はい。岩倉から見れば、清洲がどれほどの兵を集められるのか、誰が信長様についているのかを調べるのは当然です。私が岩倉側でも同じことをします」
「ならば放っておけばよいというのか」
「いいえ。気になるのは兵の数ではありません」
景継は地図の末森を指した。
「信勝様との関係です」
兄弟の争いは一度収まっている。
それなのに、今になって岩倉がそこを詳しく調べている。
「もし岩倉が信勝様を利用しようと考えているのであれば、兄弟の間にどれほど溝が残っているのか知る必要があります。信勝様本人にその気がなくても、周囲に不満を持つ家臣がいれば、そこから揺さぶることもできます」
家臣の一人がすぐに口を開いた。
「ならば、やはり信勝様を警戒すべきではございませぬか。一度は殿に逆らおうとされた御方です。岩倉から誘いがあれば、再び――」
「まだ信勝様は何もしていません」
景継が静かに遮った。
「しかし、起きてからでは遅い」
「それは分かります。ただ、一度疑った相手をずっと疑っていると、何をしても怪しく見えてしまいます」
岩倉の者が信勝方の家臣と話した。
それだけで内通と決めれば、こちらが欲しい証拠だけを集めることになる。
「ではどうする」
信長が聞いた。
「今は信勝様ではなく、岩倉の動きを見ます。向こうが誰に接触し、何を伝えようとしているのか。それを確認してからでも遅くはないと思います」
「信勝が裏で動いていたら?」
「その時は、その時です」
信長が笑った。
「簡単に言うな」
「何も分からないうちから敵を増やすよりはいいでしょう。信勝様を疑い、監視し、遠ざければ、本当に岩倉の方へ行ってしまうかもしれません」
部屋が静かになる。
景継はまだ十三歳でしかない。
それでも最近では、彼が意見を述べ始めると途中で遮る者は少なくなっていた。
信長はしばらく地図を眺めた後、岩倉方面の動きをさらに探るよう命じた。
評定が終わり、家臣たちが出ていく。
景継も立ち上がろうとしたところで、信長に呼び止められた。
「景継。お前は残れ」
二人になると、信長は先ほどとは違う話を始めた。
「この前のことはどうした」
「この前とは?」
「先生とやらの使いに言われた話だ。自分が何者なのか、というやつだ」
「考えるのをやめました」
信長が眉を上げる。
「なぜだ」
「材料がありません。あの男が何を知っているのかも分からないのに、言葉だけを気にしていても仕方がないでしょう」
「お前らしくないな」
「そうですか?」
「分からぬことがあれば、分かるまで調べると思っていた」
景継は苦笑した。
「調べる方法がないのです。まさか尾張中の人に、私が誰なのか知りませんか、と聞くわけにもいかないでしょう」
「先生を探せばよい」
「それこそ相手の思うままです」
信長は少し笑った。
「面倒な奴だ」
「信長様には言われたくありません」
「俺は分かりやすいぞ」
「ご自分でそう思っているところが一番困ります」
信長が声を上げて笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「怖いのか」
「何がです?」
「自分でも知らぬ自分がいるかもしれないことがだ」
景継は答えようとして、言葉に詰まった。
先生の正体や津々木の行方については、危険があっても知りたいと思った。
それなのに、自分自身についてだけは「今は知らなくてもいい」と考えている。
それは、もしかすると。
「……少しは、怖いのかもしれません」
信長は笑わなかった。
「なら、今はそれでよい」
「先ほどは調べろと言ったではありませんか」
「気が変わった」
「早すぎませんか」
「俺だからな」
まったく理由になっていない。
だが景継は、それ以上聞かなかった。
その夜。
景継は妙な夢を見た。
見覚えのない広い道を、一人で歩いている。
道の両側には、尾張では見たこともない形の建物が並んでいた。
遠くには巨大な門が見える。
清洲ではない。
景継が知っている、どの町とも違う。
初めて見るはずの景色だった。
それなのに。
道が二つに分かれたところで、景継は迷うことなく右へ曲がった。
なぜ右なのかは分からない。
ただ、こちらだという確信だけがある。
次の角を左へ。
その先には橋がある。
そう思った。
角を曲がる。
本当に橋があった。
景継の足が止まる。
おかしい。
初めて見る場所のはずなのに、次に何があるのか分かる。
橋を渡れば大きな木。
その少し先には井戸。
高い塀に沿って進めば、大きな屋敷へ辿り着く。
確かめるように歩いた。
橋を渡る。
大きな木がある。
さらに進めば井戸があり、その先には高い塀が続いていた。
胸の鼓動が速くなる。
自分は、この場所を知っている。
一度や二度ではない。
何度もこの道を歩いたような感覚があった。
景継は歩く速度を上げる。
やがて、大きな屋敷が見えた。
門を見た瞬間。
胸の奥に、説明できない感情が込み上げた。
懐かしい。
初めて見るはずなのに。
門を入ればどこに庭があり、どこに部屋があるのかまで、ぼんやりと思い浮かぶ。
景継が門へ近づいた時。
背後から誰かに呼ばれた。
振り返る。
少し離れたところに男が立っている。
顔だけが、なぜか見えない。
男がもう一度、自分を呼んだ。
だが。
その名前は林道でもなければ、景継でもなかった。
「待ってください」
男へ近づこうとする。
足が動かない。
「今、私を何と呼びました?」
男が再び口を動かす。
あと少しで聞こえる。
そう思った瞬間。
景色が大きく揺れた。
景継は目を覚ました。
見慣れた天井。
外はまだ暗い。
夢だった。
そう考えれば、それで終わるはずだった。
だが景継は目を閉じ、夢で歩いた道を思い返した。
最初を右。
次を左。
橋を渡れば大きな木。
その先には井戸。
高い塀を進めば、あの屋敷。
すべて、はっきり覚えている。
それどころか。
夢では歩かなかった道まで、どこへつながっているのか分かるような気がした。
景継は布団から出て、机へ向かった。
帳面を開き、夢で見た町の道を描き始める。
一本。
また一本。
筆が止まらない。
夢で歩いていない場所まで、自然と道が浮かんでくる。
「どうして、こんなところまで……」
やがて、かなり広い範囲の地図が出来上がった。
その一角に、夢で見た屋敷がある。
景継は無意識に印をつけていた。
なぜ、ここが特別なのか。
分からない。
ただ、屋敷を見た時の懐かしさだけは、目覚めた今も胸に残っている。
景継は帳面を何頁か戻した。
『私は誰なのか』
昨日までは、材料がないから考えても仕方がないと思っていた。
だが今は。
一つだけ、材料ができてしまった。
自分が知らないはずなのに、知っている場所。
景継は地図とその言葉を交互に見つめた。
翌朝。
弥兵衛が部屋へ入ると、景継は帳面を開いたまま朝食を取っていた。
「若様。食事中くらい帳面を閉じてください」
「もう少しだけです」
「食べるか書くか、どちらかにしてください」
景継は仕方なく帳面を閉じた。
「寝不足ですか?」
「少し変な夢を見ました」
景継は昨夜の夢を話した。
知らない町。
なぜか知っていた道順。
懐かしい屋敷。
そして、別の名前で自分を呼んだ男。
聞き終えた弥兵衛は真剣な顔になった。
「若様。一度、寺へ参りませんか」
「行きません」
「まだ何も言っておりませぬ」
「お祓いでしょう」
「その通りです」
景継は思わず笑った。
「ただの夢ですよ」
「若様自身が、ただの夢だと思っておられないでしょう」
返事ができなかった。
景継は帳面を開き、昨夜描いた地図を見せる。
「夢で歩いたのは、この辺りだけです。でも起きてから描いているうちに、ここまで分かりました」
「以前、どこかで見た地図では?」
「覚えがありません」
弥兵衛は地図をしばらく眺めた後、帳面を返した。
「今すぐ答えを出す必要はないのではありませんか」
「そう思いますか」
「分からないものは、分かる時まで待てばよろしいでしょう」
そして、何気なく続けた。
「若様は待つのが得意ではありませんか」
その瞬間。
景継の胸の奥で何かが動いた。
誰かに、同じことを言われたような気がした。
いつ。
どこで。
誰に。
何一つ思い出せない。
それでも。
「待つのが得意」という言葉だけが、不思議なほど懐かしかった。
「若様?」
「……何でもありません」
そう答えても、胸に残った違和感は消えなかった。
それから数日後。
岩倉方面へ出していた者が清洲へ戻ってきた。
報告を受けた信長は、すぐ景継を呼び出した。
「当たったぞ」
信長が一通の書状を差し出す。
「岩倉ですか」
「ああ。お前が言っていた通り、あちらは信勝本人より、その周りを探っていた」
岩倉方が接触していたのは、信勝本人ではない。
末森にいる信勝方の家臣。
その中でも、信長に強い不満を持つ者たちだった。
「信勝様は、このことを?」
「まだ知らん」
「話した方がいいと思います」
「すぐにか?」
「はい。隠して後から信勝様が知れば、信長様が自分を疑っていたと思うでしょう。それでは岩倉が何もしなくても、また溝ができます」
信長は腕を組んだ。
「話せば、信勝が岩倉の誘いに乗るかもしれん」
「その可能性はあります」
「それでも話すのか」
景継は少し考えた。
「信勝様に選んでもらいます」
信長の目が細くなる。
「またそれか」
「人を縛って味方にしても、いずれ離れます。信長様を選ぶのか、岩倉を選ぶのか。それは最後には信勝様自身が決めることです」
信長はしばらく黙った後、家臣へ命じた。
「信勝を呼べ」
家臣が部屋を出ていく。
「もし信勝が俺を裏切ったらどうする」
「その時に考えます」
「先に考えておけ」
景継は少し笑った。
「では、まずなぜ裏切ったのかを調べます」
「裏切った後まで理由を調べるのか」
「理由が分からなければ、次も同じことが起こるでしょう」
信長は呆れたように笑った。
「お前は敵を殺すより、敵になった理由を知りたがるな」
景継は答えようとした。
だが、その瞬間。
胸の奥から妙な感覚が湧き上がった。
――違う。
自分は、そんなに甘い人間ではない。
理由を知ろうとするのは、相手を許すためではない。
二度と同じことを起こさせないため。
必要ならば。
その先は――。
景継は眉を寄せた。
今の考えは、何だったのだろう。
「景継?」
「すみません。少し考え事を」
「最近多いな」
「何がです?」
「急に黙ることだ」
「考えることが増えましたので」
信長はそれ以上追及しなかった。
景継も地図へ視線を戻す。
今は、この問題を考えればいい。
岩倉が何を企んでいるのか。
信勝はどう動くのか。
自分が誰なのかという問題は、まだ後でいい。
景継はそう考えていた。
ただ一つ。
景継自身もまだ知らないことがあった。
昨夜、夢から覚めた後に描いた地図。
そこに描かれていた道も、橋も、屋敷も。
景継の想像が生み出したものではない。
かつて確かに存在し。
景継ではない誰かが、何度も歩いた場所だった。
その「誰か」の名前を知るには。
まだ少しだけ、時間が必要だった。




