↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/258

第二十八話 弟の選択



信勝が清洲へ姿を見せたのは、使いを出した翌日の昼過ぎだった。


今回は以前のように大勢の家臣を連れてはいない。供はわずか数人で、いずれも信勝自身が選んだ者らしい。


末森で兵が集まった一件以来、信勝は自分の周囲にいる人間を見る目を少し変えたようだった。


景継が評定の間へ入ると、すでに信長と信勝が向かい合って座っている。


少し前までなら、二人が同じ部屋にいるだけで家臣たちは緊張していた。


今も完全に安心できる関係ではない。


それでも、以前のような張り詰めた空気はなくなっていた。


「来たか」


信長が景継を見る。


「はい」


「遅いぞ」


「呼ばれてすぐに来ました」


「俺より後だ」


「信長様の部屋なのですから当然でしょう」


信勝が小さく笑った。


「兄上」


「何だ」


「景継にその言い合いで勝つのは諦めた方がよいのではないか」


信長が弟を見る。


「お前までこやつの味方をするのか」


「味方をしたわけではない。見たままを申しただけだ」


景継は二人を見ながら、少しだけ驚いていた。


本当に変わった。


以前なら、信勝がこんな冗談を信長へ言うことなど考えられなかった。


だが、兄弟の問題がすべて解決したわけではない。


今日の話次第では、再び関係が悪くなる可能性もある。


信長もそれを分かっているのだろう。


笑みを消し、一通の書状を信勝へ差し出した。


「読め」


信勝が受け取る。


書状へ目を通すうちに、その表情が険しくなった。


「岩倉が、儂の家臣へ?」


「そうらしい」


「誰だ」


「まだ全員は分からん」


「分かっている者は?」


信長が何人かの名を挙げる。


景継にも聞き覚えがあった。


以前、信勝へ決起を促していた者たちだ。


「なぜ、もっと早く知らせなかった」


部屋の空気がわずかに変わる。


「確かなことが分からなかったからだ」


「儂を疑っていたのではないか」


「疑っておらぬと言えば嘘になる」


信勝の目が鋭くなる。


景継は口を挟まなかった。


ここは二人で話すべきだ。


「だが、お前が岩倉と通じている証拠はない。だから呼んだ」


「もし証拠があったなら?」


「捕らえておる」


信勝が黙る。


相変わらず、信長は言い方を選ばない。


景継は少し頭が痛くなった。


しかし信勝は怒鳴らなかった。


しばらく兄を見た後、書状を畳む。


「兄上らしい」


「何がだ」


「そこまで正直に言われると、怒る気が失せる」


「ならよい」


「よくはない」


信勝が苦笑した。


景継も少しだけ肩の力を抜いた。


「それで、儂にどうしろというのだ」


「好きにしろ」


信長が即答する。


「それでは呼んだ意味がないだろう」


「岩倉がお前の周りへ近づいている。それを知らせるために呼んだ。知った後にどうするかは、お前が決めろ」


信勝は兄を見つめた後、景継へ視線を向けた。


「景継」


「はい」


「これは、お前の入れ知恵か」


景継は一瞬だけ信長を見る。


「半分ほどは」


「やはりな」


「なぜ分かったのです」


「兄上が儂に自由に選ばせるなど、以前なら考えられなかった」


「おい」


信長の声が低くなる。


信勝は気にしない。


「それに、お前は以前も同じことを言っていただろう。最後は自分で決めろ、と」


どうやら末森で話したことを覚えているらしい。


「信勝様は、どうされるのですか」


信勝は書状に並ぶ家臣の名を見た。


しばらくして、口を開く。


「この者たちを呼ぶ」


「捕らえますか」


「いや」


信勝は首を横に振った。


「まず、話を聞く」


景継の表情が少し緩んだ。


信長が面白そうに弟を見る。


「お前も景継に似てきたな」


「それは嫌だ」


「なぜです」


「最近のお前を見ていると、考えることが増えて眠れなくなりそうだ」


信長が声を上げて笑う。


景継は少し不満だったが、反論はしなかった。


信勝はその日のうちに末森へ戻った。


翌日、岩倉方との接触が確認されている家臣たちを、自らの前へ呼び出すことになった。


景継も頼まれ、末森へ同行する。


「なぜ私も?」


道中で尋ねると、信勝は当然のように答えた。


「お前が最初に岩倉の意図を疑ったからだ」


「だからといって、信勝様の家臣を問い詰める場に私がいるのは」


「問い詰めるつもりはない」


信勝は前を向いたまま言う。


「話を聞く」


その答えに、景継は少し驚いた。


以前の信勝なら、周囲から「裏切り者を捕らえよ」と言われれば、その声に引っ張られていたかもしれない。


今は違う。


自分で考えようとしている。


「何だ」


信勝が景継を見る。


「いえ。少し変わられたと思いまして」


「儂が?」


「はい」


「良い方にか」


景継は少し考える。


「今のところは」


信勝が嫌そうな顔をした。


「お前、その言い方はやめた方がよいぞ」


「父上にも言われました」


「なら直せ」


「努力します」


信勝は苦笑した。


少し離れて二人を見ていた弥兵衛も、声を出さず笑っていた。


末森城の広間には、五人の家臣が呼ばれていた。


全員が緊張している。


信勝が上座へ座り、景継は少し離れた場所へ控えた。


「お前たちが岩倉方の者と会ったことは分かっている」


五人のうち二人が、明らかに顔色を変えた。


「申し開きがあるなら聞く」


重い沈黙が続く。


やがて、一人の年配の家臣が頭を下げた。


「申し訳ございませぬ」


「何を謝る」


「岩倉より使いが参ったことを、信勝様へお伝えしませんでした」


「なぜだ」


「話を聞くくらいならば、問題はないと考えました」


「何を言われた」


男は少し迷った後、答えた。


「信勝様こそ、織田家を率いるにふさわしいと」


広間の空気が重くなる。


信勝は表情を変えない。


「それだけか」


「兄君に従う必要はない。岩倉と手を結べば、尾張の半分を信勝様のものとできる、と」


景継は黙って聞いていた。


やはり。


岩倉は信勝本人へ直接近づくのではなく、その周囲から空気を作ろうとしている。


以前の津々木のやり方と似ている。


その瞬間。


景継の頭に「先生」という言葉が浮かんだ。


だが、すぐに打ち消す。


似ている。


ただ、それだけだ。


主本人ではなく周囲から崩す策など、先生にしか思いつかないものではない。


一度疑い始めれば、すべてが同じ相手につながって見える。


それこそ危険だった。


「それで、お前はどう答えた」


信勝が尋ねる。


「考えておく、と」


「岩倉へつくつもりだったか」


「いえ!」


男が顔を上げた。


「ただ、信勝様が兄君の下で不当に扱われることになれば、その時は別の道もあるのではないかと」


別の家臣も口を開く。


「我らは信勝様を裏切るつもりではございませぬ。むしろ信勝様のために――」


「儂のため?」


信勝の声が低くなった。


「はい」


「儂は岩倉と組みたいと、一度でも言ったか」


男は答えられない。


「兄上と再び戦いたいと申したか」


誰も何も言わなかった。


信勝は家臣たちを見回す。


「以前もそうだった」


景継の表情が変わる。


「皆が儂のためと言った。儂こそ当主にふさわしい。兄上を倒すべきだ。今しかない。それを聞いているうちに、儂自身もそう思うようになった」


信勝は一度、景継を見た。


末森での会話を思い出しているのだろう。


「だが、あの時の儂は、自分が何をしたいのか分からなくなっていた」


広間は静まり返っている。


「今度は違う」


信勝が家臣たちへ向き直った。


「儂のために動くと言うなら、まず儂に聞け」


声を荒らげたわけではない。


それでも、誰も目を上げなかった。


「儂が望んでいないことを、勝手に儂のためと決めるな」


景継は信勝を見ていた。


この言葉を、自分から言えるようになった。


以前とは違う。


信勝は確かに変わり始めている。


だが同時に。


別の考えが景継の頭をよぎった。


信勝が成長すれば、信長にとって頼もしい味方になる。


もし再び敵へ回れば。


以前より、ずっと厄介な敵にもなる。


そこまで考えてから、景継は自分に少し嫌なものを感じた。


人の成長を見ても、敵になった場合を考える。


なぜか、その考え方が妙に自然だった。


五人の家臣について、信勝は処罰しなかった。


ただし、今後岩倉から使いが来れば必ず自分へ報告すること。


次に隠して接触した場合は、その時点で裏切りとみなす。


そう告げた。


家臣たちが退出すると、景継は尋ねた。


「よろしいのですか」


「何がだ」


「処罰しなくて」


「お前がそれを言うのか」


信勝が意外そうな顔をする。


「私は何でも許せとは言っていません」


「では、捕らえるべきだったと?」


「分かりません。信勝様が決めたことなら、それでよいと思います」


信勝は少し笑った。


「逃げたな」


「何からです」


「答えからだ」


景継は黙った。


最近、周囲の人間が自分への接し方を覚えてきている気がする。


「ただ、一つ気になることがあります」


「岩倉のやり方か」


「はい」


景継は津々木の時と似ていることを話した。


本人へ直接迫るのではなく、周囲へ働きかける。


皆が同じことを言い始めれば、やがて本人自身もそれが正しいと思い始める。


「偶然ではないと?」


「分かりません」


景継は少し考えてから続けた。


「先ほど、一瞬だけ先生のことが浮かびました」


「やはりか」


「ですが、今は結びつけない方がいいと思います」


「なぜだ」


「先生を疑っているからです」


信勝が怪訝な顔をする。


「疑っているから、疑わないのか?」


「はい。一度一人を疑い始めると、何でもその人がやったように見えてしまいます。それでは、違う相手が動いていた時に見落とします」


信勝がしばらく景継を見る。


「面倒な考え方だな」


「私もそう思います」


二人は少し笑った。


夕方。


清洲へ戻った景継から結果を聞き、信長は腕を組んだ。


「処罰せず、か」


「はい」


「甘いな」


「そう思いますか」


「以前の俺なら、全員追い出していた」


「今は?」


信長は少し考えた。


「分からん」


景継が思わず笑う。


「何がおかしい」


「信長様も言うのですね」


「何を」


「分からない、と」


信長が嫌そうな顔をした。


「お前の癖が移った」


「それは困りますね」


「お前が言うな」


二人は少し笑った。


景継は岩倉の使いが、信勝本人ではなく周囲から崩そうとしていたことも報告した。


「先生とやらは?」


信長が聞く。


「今のところ、関係がある証拠はありません」


「やり方は似ているのだろう」


「だからこそです」


「何がだ」


「似ているだけで同じ相手だと決めるのは危険です」


信長は地図へ目を落とした。


「なら、岩倉自身の策として見るか」


「はい。違う証拠が出るまでは」


「分かった」


信長があっさり答えたので、景継は少し意外だった。


「何だ」


「いえ。もっと反対されるかと」


「俺はお前ほど考えるのが好きではない」


「知っています」


「だが、考える奴の話を聞くくらいはできる」


信長はそう言って地図を畳んだ。


「だから、お前が見ておけ」


「何をです?」


「俺が間違えていないかをだ」


景継は一瞬、答えに詰まった。


「私が?」


「お前以外に誰がおる」


「家臣の方々が」


「俺が間違っていると思っても、正面から言う奴は少ない」


信長は景継を見る。


「お前は言う」


景継は何も答えなかった。


それが信頼なのか。


単に遠慮がないと思われているだけなのか。


おそらく、両方だった。


その夜。


景継は再び帳面を開いた。


夢で見た町の地図が残っている。


あれ以来、夢の続きを見ることはなかった。


景継はその次の頁へ、今日の出来事を書き始めた。


岩倉。


信勝。


家臣への誘い。


本人ではなく、周囲から動かす。


そこまで書いたところで、筆が止まった。


何かが引っかかる。


岩倉ではない。


先生でもない。


もっと別の何か。


周囲を動かし、本人に選ばせる。


相手自身が選んだと思わせながら、その前に選択肢を整えておく。


景継は、このやり方を知っているような気がした。


誰かから教わった覚えはない。


父でも、信長でも、先生でもない。


それなのに。


どうすれば人が動くのか。


どこへ道を作れば、相手がどちらを選ぶのか。


なぜか分かる。


景継は目を閉じた。


一瞬。


知らない男たちが頭を下げている姿が浮かんだ。


その向こうに、大きな建物がある。


だが、顔も場所もすぐに消えた。


残ったのは、妙な確信だけだった。


自分はかつて。


誰かに命令するのではなく。


その人物自身が選ぶように、周囲を動かしたことがある。


そんな気がする。


景継はゆっくり目を開けた。


そして帳面へ、一文を書いた。


『人は命じられた道より、自分で選んだと思った道を進む』


書き終えた後、自分でも少し驚いた。


なぜそんなことを知っているのか。


答えは分からない。


だが景継は、その一文を消さなかった。


同じ頃。


岩倉では、一人の男が報告を受けていた。


「五人とも戻ったか」


「はい。信勝様は誰も処罰されなかったとのこと」


「なるほど」


男は少し考える。


「こちらへ引き込めた者は?」


「今のところは」


「なら、同じやり方はやめろ」


「よろしいので?」


「信勝は以前とは違う。周りを煽れば勝手に動くと思っていたが、誰かに釘を刺されたらしい」


「林道景継でしょうか」


その名を聞き、男の表情がわずかに険しくなった。


「また、あの小僧か」


机の上には、清洲や末森について集められた書状が並んでいる。


男はその中から一通を取り上げた。


「ならば次は、信勝を動かすことだけを考えるな」


「と申しますと?」


「兄の方も見る」


男は清洲と末森の位置を交互に指した。


「どちらか一方を動かせぬなら、二人の間に何が残っているのかを探れ。信頼か、疑いか。それが分かれば、打つ手も変わる」


「承知いたしました」


使いの者が下がる。


一人になった男は、地図の上に置かれた駒を見た。


清洲。


末森。


そして、その間にもう一つ。


林道家。


男は景継の名が記された紙を取り上げる。


「十三の小僧が……」


小さく呟き、それを机へ戻した。


岩倉はまだ知らない。


自分たちが警戒し始めたその少年が、自分でも知らない別の人生の感覚を、少しずつ取り戻し始めていることを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。