第二十八話 弟の選択
信勝が清洲へ姿を見せたのは、使いを出した翌日の昼過ぎだった。
今回は以前のように大勢の家臣を連れてはいない。供はわずか数人で、いずれも信勝自身が選んだ者らしい。末森で兵が集まった一件以来、信勝は自分の周囲にいる人間を見る目を少し変えたようだった。
景継が評定の間へ入ると、すでに信長と信勝は向かい合って座っていた。
少し前までなら、二人が同じ部屋にいるだけで家臣たちが緊張していた。今も完全に安心できる関係ではないが、少なくとも互いに刀へ手をかけるような空気ではなくなっている。
「来たか」
信長が景継を見る。
「はい」
「遅いぞ」
「呼ばれてすぐに来ました」
「俺より後だ」
「信長様の部屋なのですから当然でしょう」
信勝が小さく笑った。
「兄上」
「何だ」
「景継にその言い合いで勝つのは諦めた方がよいのではないか」
信長が信勝を見る。
「お前までこやつの味方をするのか」
「味方をしたわけではない。見たままを申しただけだ」
景継は二人を見ながら、少しだけ驚いていた。
本当に変わった。
以前なら、信勝がこんな冗談を信長へ言うことなど考えられなかった。
だが、だからといって兄弟の問題がすべて解決したわけではない。
むしろ今日の話次第では、再び関係が悪くなる可能性もある。
信長もそれを分かっているのだろう。
笑みを消すと、近くに置かれていた一通の書状を信勝へ差し出した。
「読め」
信勝が受け取る。
書状へ目を通していくうちに、その表情が少しずつ変わった。
読み終えても、すぐには口を開かなかった。
「岩倉が、儂の家臣へ?」
「そうらしい」
信長が答える。
「誰だ」
「まだ全員は分からん」
「分かっている者は?」
信長は何人かの名を挙げた。
景継には聞き覚えのある名前もあった。以前、信勝と信長の争いが激しくなりかけた時に、末森で信勝へ決起を促していた者たちだ。
信勝の顔が険しくなる。
「なぜ、もっと早く知らせなかった」
部屋の空気が少し変わった。
信長は表情を変えない。
「確かなことが分からなかったからだ」
「儂を疑っていたのではないか」
「疑っておらぬと言えば嘘になる」
信勝の目が鋭くなる。
景継は口を挟まなかった。
ここは二人で話した方がいい。
信長が続ける。
「だが、お前が岩倉と通じている証拠はない。だから呼んだ」
「もし証拠があったなら?」
「捕らえておる」
信勝が黙った。
相変わらず信長は言い方を選ばない。
景継は少し頭が痛くなった。
だが、信勝は怒鳴らなかった。
しばらく兄を見た後、書状を畳んだ。
「兄上らしい」
「何がだ」
「そこまで正直に言われると、怒る気が失せる」
信長が少し笑った。
「ならよい」
「よくはない」
信勝も苦笑する。
景継はそのやり取りを見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
最悪の始まり方にはならなかった。
◇◇◇
「それで、儂にどうしろというのだ」
信勝が聞いた。
「好きにしろ」
信長が即答する。
信勝が眉を寄せた。
「それでは呼んだ意味がないだろう」
「岩倉がお前の周りへ近づいている。それを知らせるために呼んだ。知った後にどうするかはお前が決めろ」
信勝はしばらく兄を見つめた後、景継へ視線を向けた。
「景継」
「はい」
「これは、お前の入れ知恵か」
景継は一瞬だけ信長を見る。
「半分ほどは」
「やはりな」
「なぜ分かったのです」
「兄上が儂に自由に選ばせるなど、以前なら考えられなかった」
「おい」
信長の声が低くなる。
信勝は気にしない。
「それに、景継は以前も同じことを言っていただろう。最後は自分で決めろ、と」
景継は少し困った。
どうやら信勝は、末森で話した内容を覚えているらしい。
「信勝様は、どうされるのですか」
景継が聞くと、信勝はすぐには答えなかった。
書状をもう一度開き、そこに書かれた家臣たちの名を見る。
「この者たちを呼ぶ」
「捕らえますか」
「いや」
信勝は首を横に振った。
「まず話を聞く」
景継の表情が少し緩んだ。
信長は面白そうに弟を見る。
「お前も景継に似てきたな」
「それは嫌だ」
景継が信勝を見る。
「なぜです」
「最近のお前を見ていると、考えることが増えて眠れなくなりそうだ」
信長が声を上げて笑う。
景継は少し不満だったが、反論はしなかった。
◇◇◇
信勝はその日のうちに末森へ戻った。
そして翌日、岩倉方と接触したことが確認されている家臣たちを、自らの前へ呼び出した。
景継も信勝から頼まれ、末森へ同行することになった。
「なぜ私も?」
道中で尋ねると、信勝は当然のように答えた。
「お前が最初に岩倉の意図を疑ったからだ」
「だからといって、信勝様の家臣を問い詰める場に私がいるのは」
「問い詰めるつもりはない」
信勝は前を見ながら言う。
「話を聞く」
その答えに、景継は少し驚いた。
以前の信勝なら、周囲の家臣から「裏切り者を捕らえよ」と言われれば、その声に引っ張られていた可能性がある。
今は違う。
自分で考えようとしている。
「何だ」
信勝が景継を見る。
「いえ」
「何か言いたそうな顔だぞ」
「少し変わられたと思いまして」
信勝の眉が動く。
「儂が?」
「はい」
「良い方にか」
景継は少し考えた。
「今のところは」
信勝が嫌そうな顔をした。
「お前、その言い方はやめた方がよいぞ」
「父上にも言われました」
「なら直せ」
「努力します」
信勝は苦笑した。
少し離れて二人を見ていた弥兵衛は、何も言わず笑っていた。
◇◇◇
末森城の広間には、五人の家臣が呼ばれていた。
全員が緊張している。
自分たちが岩倉方の者と接触したことを知られているのだと、すでに察しているのだろう。
信勝が上座へ座る。
景継は少し離れた場所へ控えた。
「お前たちが岩倉方の者と会ったことは分かっている」
信勝がそう切り出すと、五人のうち二人が明らかに顔色を変えた。
「申し開きがあるなら聞く」
誰もすぐには話さない。
重い沈黙が続いた。
やがて、一人の年配の家臣が頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「何を謝る」
「岩倉より使いが参ったことを、信勝様へお伝えしませんでした」
「なぜだ」
男は少し迷った後、答えた。
「話を聞くくらいならば、問題はないと考えました」
「何を言われた」
「信勝様こそ、織田家を率いるにふさわしいと」
広間の空気が少し重くなる。
信勝は表情を変えない。
「それだけか」
「兄君に従う必要はない。岩倉と手を結べば、尾張の半分を信勝様のものとできる、と」
景継は黙って聞いていた。
想像していた通りだ。
岩倉は信勝自身へ直接近づくのではなく、まず周囲から空気を作ろうとしている。
以前の津々木と同じ。
景継はそこで、わずかな違和感を覚えた。
方法が似すぎている。
もちろん、誰でも考える策ではある。
主君本人が迷っているなら、周囲から説得する。
珍しい策ではない。
それでも、景継の頭には「先生」と呼ばれる人物の存在が浮かんだ。
まだつなげるには早い。
景継は自分にそう言い聞かせた。
◇◇◇
「それで、お前はどう答えた」
信勝が尋ねる。
年配の家臣は下を向いた。
「考えておく、と」
「岩倉へつくつもりだったか」
「いえ!」
男が顔を上げた。
「ただ、信勝様が兄君の下で不当に扱われることになれば、その時は別の道もあるのではないかと」
信勝は何も言わない。
別の家臣も口を開いた。
「我らは信勝様を裏切るつもりではございませぬ。むしろ信勝様のために」
「儂のため?」
信勝の声が少し低くなる。
「はい」
「儂は岩倉と組みたいと、一度でも言ったか」
男は答えられない。
「兄上と再び戦いたいと申したか」
誰も何も言わなかった。
信勝は家臣たちを見回した。
「以前もそうだった」
景継の表情が少し変わる。
信勝は続けた。
「皆が儂のためと言った。儂こそ当主にふさわしい、兄上を倒すべきだ、今しかない。それを聞いているうちに、儂自身もそう思うようになった」
広間の家臣たちは黙っている。
「だが、あの時」
信勝が一度、景継を見た。
「儂は、自分が何をしたいのか分からなくなっていた」
景継は末森での会話を思い出した。
周囲から逃げればいい。
そう自分が言った。
「今度は違う」
信勝は家臣たちへ向き直った。
「儂のために動くと言うなら、まず儂に聞け。儂が望んでいないことを、勝手に儂のためと決めるな」
誰も反論しなかった。
景継は少しだけ驚いていた。
この言葉を、自分から言えるようになったのか。
信勝は本当に変わり始めている。
だが同時に、景継の胸には小さな不安もあった。
信勝が成長すればするほど、信長にとって強力な味方になる。
しかし、もし再び敵へ回れば。
以前よりずっと厄介な敵にもなる。
景継はその考えが浮かんだ自分に、少し嫌なものを感じた。
人の成長まで、敵になった場合を考えて見てしまう。
だが、その考え方は妙に自然だった。
◇◇◇
五人の家臣について、信勝は処罰しなかった。
ただし今後、岩倉から使いが来た場合は必ず自分へ報告するよう命じた。そして、次に隠して接触した場合はその時点で裏切りとみなすと告げた。
家臣たちが退出すると、景継は信勝へ尋ねた。
「よろしいのですか」
「何がだ」
「処罰しなくて」
「お前がそれを言うのか」
信勝が意外そうな顔をする。
「私は、何でも許せとは言っていません」
「では捕らえるべきだったと?」
「分かりません。信勝様が決めたことなら、それでよいと思います」
信勝は少し笑った。
「逃げたな」
「何からです」
「答えからだ」
景継は黙った。
最近、周囲の人間が少しずつ自分への接し方を覚えてきている気がする。
「ただ」
景継は五人が出ていった方を見る。
「一つ気になることがあります」
「何だ」
「岩倉のやり方です」
景継は、かつて津々木が信勝の周囲を動かした時のことを説明した。
主本人へ強く迫るのではなく、周りの人間へ働きかける。皆が同じことを言い始めれば、やがて本人もそれが正しいと思うようになる。
「偶然ではないと?」
信勝が聞く。
「分かりません。ただ、似ています」
「また先生か」
信勝もすでに、その存在については聞いている。
「可能性はあります」
「奴は岩倉にまで手を伸ばしていると?」
「それも分かりません」
景継は少し考えた。
「むしろ、今は先生だと思わない方がいいかもしれません」
「なぜ」
「一度何かを疑い始めると、全部がそれにつながって見えるからです」
信勝が苦笑した。
「先ほど家臣たちにも似た話をしていたな」
「自分にも言い聞かせています」
◇◇◇
その日の夕方、景継は清洲へ戻った。
信長は結果を聞くと、しばらく何も言わなかった。
「処罰せず、か」
「はい」
「甘いな」
「そう思いますか」
「以前の俺なら全員追い出していた」
「今は?」
信長は少し考えた。
「分からん」
景継が笑った。
信長が眉を寄せる。
「何がおかしい」
「信長様も言うのですね」
「何を」
「分からない、と」
信長は少し嫌そうな顔をした。
「お前の癖が移った」
「それは困りますね」
「お前が言うな」
二人は少し笑った。
その後、景継は岩倉の使いについて話した。
相手は信勝本人ではなく、周囲から崩そうとしていること。そして、そのやり方が以前の津々木の件と似ていること。
信長は地図を見ながら聞いていた。
「先生とやらか」
「まだ決めません」
「なら岩倉自身の考えか」
「それもあります」
「どちらだ」
「今は、どちらも」
信長は呆れたように景継を見る。
「お前と話していると、答えが増えていくな」
「減らすのは最後でいいと思います」
「俺は先に減らしたい」
「だから時々間違えるのでは?」
信長の目が細くなる。
景継は少しだけ身構えた。
だが、信長は怒らなかった。
むしろ笑った。
「なら、お前が間違えぬよう見ておけ」
景継は一瞬答えに詰まった。
「私が?」
「お前以外に誰がおる」
「家臣の方々が」
「俺が間違っていると思っても、正面から言う奴は少ない」
信長は景継を見る。
「お前は言う」
景継は何も言わなかった。
それは信頼なのだろうか。
それとも、単に遠慮がないと思われているだけなのか。
おそらく両方だった。
◇◇◇
その夜、景継は再び帳面を開いた。
夢で見た町の地図が残っている。
昨夜以来、夢の続きを見ることはなかった。
景継は地図を眺めた後、その次の頁へ今日の出来事を書き始めた。
岩倉。
信勝。
家臣への誘い。
周囲から本人を動かす。
そこまで書いたところで、筆が止まった。
何か引っかかる。
岩倉がやっていることではない。
もっと別のもの。
周囲を動かし、本人に選ばせる。
相手自身が選んだと思わせながら、実際には選択肢を作っている。
自分は、この方法を知っている気がした。
先生から教わったわけではない。
信長からでも、父からでもない。
景継は筆を置き、目を閉じた。
何も思い出せない。
それでも、妙な確信だけがある。
自分はかつて。
誰かの周囲から人を動かし。
その人物自身に決断させたことがある。
そんな気がする。
景継は目を開けた。
帳面へ新しい一文を書いた。
『人は命じられた道より、自分で選んだと思った道を進む』
書き終えた瞬間、自分でも少し驚いた。
なぜそんなことを知っているのか。
答えは分からない。
だが景継は、その一文を消さなかった。
◇◇◇
同じ頃。
岩倉。
一人の男が、信勝方への働きかけが失敗したという報告を受けていた。
「五人とも戻ったか」
「はい。信勝様は処罰されなかったとのこと」
「なるほど」
男は少し考えた。
「誰かが入れ知恵したな」
「林道景継かと」
その名を聞いた男の表情が変わった。
「また、あの小僧か」
「いかがいたします」
「今まで通りでは駄目だ」
男は立ち上がり、部屋の奥にある箱を開いた。
中には何通かの書状がある。
その一つを手に取り、しばらく眺めた。
「信勝を兄から離すだけでは足りぬ」
「では?」
「兄弟二人ともが、互いを疑わざるを得ないものを用意する」
男が書状を閉じる。
そして、そこに押された印が一瞬だけ見えた。
円の中に、三本の線。
男はまだ知らなかった。
その印を林道景継がすでに知っていることを。
そして景継もまた、岩倉の動きと先生を結びつけないよう自分自身を戒めながら、少しずつ同じ場所へ近づき始めていることを。




