第二十九話 偽りの書状
岩倉方と接触していた家臣たちを処罰しなかった信勝の判断は、末森の中で小さな波紋を広げていた。
裏切りを企てた者を甘やかしたと考える者もいれば、話を聞いただけで罰するべきではないと信勝を支持する者もいる。
以前の信勝なら、周囲の声に揺らされていたかもしれない。
だが今度は違った。
自分で決めた以上、その判断を簡単に変えようとはしなかった。
景継は清洲へ戻ってからも、末森と岩倉の動きを探らせていた。
最初の働きかけが失敗した以上、岩倉が諦めるとは思えない。信勝の周囲から崩せないのであれば、次は別の手を使うはずだ。
問題は、その「次」が何なのか。
答えが届いたのは、それから五日後だった。
その日の朝、景継は清洲城の庭で弥兵衛と木刀を交えていた。
景継が踏み込む。
弥兵衛は難なく受け止め、そのまま力で押し返した。
景継は二歩ほど下がる。
「まだ力では勝てませんね」
「十三で私に勝たれては、こちらの立場がございませぬ」
「あと何年くらいです?」
「十年ほどお待ちいただければ」
「長いですね」
「その頃には私も歳を取っておりますので、ちょうどよろしいかと」
景継は木刀を構え直した。
頭を使うことなら、相手が大人でも勝負になる場合がある。
だが身体の強さだけは、十三歳という年齢を誤魔化せない。
それでいい。
自分一人ですべてできる必要などない。
できないことがあるなら、できる人間に任せればいい。
そこまで考えて、景継の動きが止まった。
「若様?」
「……何でもありません」
まただ。
最近、こういうことが増えている。
自分で考えたはずなのに、初めて思いついた気がしない。
まるで昔から何度もそうしてきたような、妙な馴染みがある。
景継がもう一度木刀を構えようとした時、城内から一人の家臣が走ってきた。
「景継殿!」
二人が振り返る。
「殿がお呼びです。すぐにお越しください」
「何かありました?」
「末森より急使が参っております」
景継と弥兵衛の表情が変わった。
広間には信長のほか、柴田勝家、佐久間信盛らが集まっていた。
末森から来た使者は、信勝の側近の一人だった。
景継が入るなり、信長が一通の書状を差し出す。
「読め」
景継は受け取り、その場で開いた。
数行読んだところで眉を寄せる。
そして、もう一度最初から読み直した。
「これは、どこから?」
末森の使者が答えた。
「昨夜、信勝様のお部屋の前に置かれておりました」
「持ってきた者は?」
「分かりませぬ。門番にも確認いたしましたが、それらしい者を見た者がおりません」
書かれている内容は単純だった。
信長は近いうちに信勝を捕らえるつもりでいる。
まず末森にいる有力家臣を一人ずつ清洲へ呼び、抵抗する者は討つ。最後には信勝自身も排除する予定だという。
その証拠として、信長が家臣へ出したとされる命令まで記されている。
かなり具体的だった。
「信勝様は何と?」
「最初は信じておられませんでした。しかし……」
使者が言葉を濁した。
「しかし?」
「書状に書かれていることの一部が、本当に起きております」
広間の空気が変わった。
信長が眉を寄せる。
「何が起きた」
「一昨日、末森の家臣一名が清洲より呼び出されております」
佐久間信盛が口を開いた。
「誰だ」
名前を聞き、少し考える。
「確かに呼んだ。だが米の買い入れについて話をするためだ」
使者が続けた。
「書状には、その者が最初に清洲へ呼ばれると書かれております」
景継の目が細くなる。
「他には?」
「三日前、清洲方の者が末森近くまで来たとも」
今度は柴田勝家が答えた。
「それは俺の者だ。岩倉の動きを探らせていた」
景継は書状へ目を落とした。
そこにも、
『清洲方はすでに末森周辺を探っている』
とある。
事実だ。
だが、その後には、
『信勝を逃がさぬため、少しずつ包囲を狭めている』
と続いている。
「上手いですね」
景継が呟いた。
「何がだ」
信長が聞く。
「全部が嘘ではありません」
末森の家臣が清洲へ呼ばれた。
清洲方の者が末森周辺へ入った。
そこまでは事実。
その理由だけを偽っている。
「事実を知っている者ほど、この書状を信じやすい」
完全な作り話なら否定するのは簡単だ。
だが知っている事実がいくつも混ざっていれば、知らない部分まで本当なのではないかと思い始める。
「信勝様は?」
「まだ信じてはおられませぬ」
使者が答えた。
「ですが、家臣の中には不安を口にする者も出ております」
景継は小さく息を吐いた。
相手の狙いが見えた。
信勝本人を説得する必要はない。
周囲を不安にさせればいい。
兄上を信じてはいけない。
今動かなければ自分たちが討たれる。
戦うしかない。
家臣たちがそう言い始めれば、信勝も無視できなくなる。
「前より、少しやり方を変えてきましたね」
「前?」
「岩倉が信勝様の家臣へ直接近づいた時です。あれが駄目だったので、今度は信勝様の周囲全体へ疑いを広げようとしている」
信長の顔から笑みが消えた。
信長はその場で返書を書いた。
『信勝を捕らえる命令など出していない。疑うなら清洲へ来て直接聞け』
それだけだった。
横から読んだ景継が顔をしかめる。
「もう少し丁寧に書けませんか」
「何が悪い」
「疑われている側が書く文章には見えません」
「俺は疑われても困らん」
「信勝様が困ります」
信長が嫌そうな顔をする。
景継は筆を借りた。
「一文だけ加えても?」
「好きにしろ」
景継は下へ書き足した。
『末森の家臣を清洲へ呼ぶ際には、今後必ず信勝殿へ先に知らせる』
信長が読む。
「なぜ俺がそこまでせねばならん」
「信勝様に隠して何かしていると思わせないためです」
「面倒だ」
「戦になるよりは簡単でしょう」
信長は不満そうだったが、消せとは言わなかった。
使者が返書を受け取り、末森へ戻っていく。
その姿が見えなくなってから、信長が尋ねた。
「どう見る」
「偽物でしょう」
「すぐに決めるのか」
景継は少し笑った。
「信長様が信勝様を捕らえる計画を、わざわざ詳しく書状へ残しているのであれば別ですが」
勝家が笑いを堪える。
信長は景継を睨んだ。
「俺でもそこまで馬鹿ではない」
「なら、偽物です」
「誰が作った」
「岩倉が最も怪しいと思います」
「先生とやらは?」
景継は書状を裏返した。
以前なら、その可能性をもっと強く考えたかもしれない。
だが今は違う。
書状には、円の中に三本の線はない。
先生につながるものは何一つない。
「今のところ、先生と結びつける材料はありません」
「やり方は似ているのだろう」
「似ていることと、同じ相手であることは別です」
景継は書状を机へ置いた。
「今は岩倉を追います」
「分かった」
信長はそれ以上、先生について聞かなかった。
その日の午後。
景継は一人で偽書状を調べていた。
紙そのものは珍しくない。
墨も尾張で手に入る。
筆跡は当然、信長のものではない。
気になるのは内容だった。
末森の家臣が清洲へ呼ばれたこと。
勝家の者が末森近くへ入ったこと。
岩倉が外から見ているだけで、ここまで正確に知れるだろうか。
景継は二つの出来事を帳面へ書いた。
その横に、
『清洲』
と記す。
「中にいる」
呟いた。
岩倉へ情報を渡している者が、清洲の中にいる。
ならば。
偽書状そのものを追う必要はない。
情報の流れを追えばいい。
景継はすぐ信長へ相談した。
清洲から外へ出る者のうち、末森や岩倉方面へ頻繁に向かう者。
家臣だけではない。
商人。
下働き。
荷運び。
使い。
何人かを絞り、目立たないよう見張る。
三日目。
一人の男が引っかかった。
城下で雑用を請け負っている男だった。
武士ではない。
だが、米の買い入れに関する話が行われた日に清洲へ出入りし、その翌日には岩倉方面へ向かっていたことが分かった。
さらに勝家の者が末森方面へ出た日にも、城下にいた。
偶然かもしれない。
だから捕らえない。
景継は弥兵衛とともに、その男を追った。
日が沈んでから、男は城下を出た。
向かったのは岩倉ではない。
清洲から少し離れた小さな寺だった。
「寺ばかりですね」
景継が小声で言う。
「怪しい者は寺が好きなのですか」
「若様も先日、寺へ呼ばれておられましたな」
「……そうでした」
弥兵衛が少し笑った。
二人は男が寺へ入るのを離れた場所から見ていた。
半刻ほどして、男が出てくる。
入った時には小さな包みを持っていた。
今はない。
「置いてきましたな」
弥兵衛が囁く。
景継は頷いた。
すぐには動かない。
男が十分遠ざかるまで待つ。
それから寺へ入った。
小さな堂の中を探す。
床。
柱。
壁。
供え物。
景継は仏像の前に置かれた器を見た。
わずかに位置がずれている。
持ち上げる。
下に、小さく折られた紙があった。
「ありましたね」
弥兵衛が顔を寄せる。
景継は紙を開いた。
書かれていたのは、わずか数行。
『一の書、末森へ届く』
『信勝、未だ動かず』
『二の書を用意せよ』
そこまで読んで、景継の目が止まった。
最後に、もう一文。
『次は母を使う』
「母……」
弥兵衛の声が低くなる。
景継は紙を見つめた。
誰の母だ。
信長か。
信勝か。
それとも。
十一歳の頃の記憶が、不意に蘇った。
自分の判断が原因で、母の志乃が攫われた。
あの日。
自分の読みを信じすぎた結果、家族を危険へ巻き込んだ。
景継は紙を握る指へ力を込めた。
「若様」
弥兵衛が景継を見る。
「林道へ戻りましょう」
景継はすぐには答えなかった。
母とは誰の母なのか。
志乃とは限らない。
むしろ今回の目的が信長と信勝の関係を壊すことなら、二人の母を指している可能性の方が高い。
それでも。
もし違ったら。
一度目は助かった。
二度目も同じとは限らない。
「戻ります」
「清洲へ?」
「いいえ」
景継は立ち上がった。
「林道家へ」
二人が林道家へ着いたのは、夜もかなり深くなってからだった。
門番が驚いて駆け寄ってくる。
「景継様?」
景継は馬から降りるなり尋ねた。
「母上は?」
「奥方様でございますか?」
「いますか」
門番が戸惑いながら頷いた。
「はい。もうお休みになられているかと」
景継はようやく息を吐いた。
無事だ。
だが、何も起きていないだけかもしれない。
騒ぎを聞いた景政が屋敷から出てきた。
「景継。どうした」
「父上」
「何かあったのか」
景継は少し迷った。
心配させたくない。
だが、隠せば危険になる。
「母上を、しばらく一人で外へ出さないでください」
景政の顔が変わった。
「何があった」
「『次は母を使う』と書かれたものを見つけました」
「誰の母だ」
「分かりません」
「お前は志乃かもしれぬと思った」
景継は頷いた。
景政はそれ以上聞かず、近くの家臣を呼んだ。
「屋敷の警護を増やせ。明日から志乃が外へ出る時は必ず供をつけろ」
景継が少し驚く。
「信じるのですか」
「お前が夜中に馬を飛ばして戻ってきた。それだけで十分だ」
景継は何も言えなかった。
父は昔からそうだった。
景継の考えをすべて理解するわけではない。
それでも、息子が本気で危険だと言えば、まず動く。
「ありがとうございます」
「礼などよい」
景政は景継を見た。
「今度は一人で抱えるな」
その言葉が胸に残った。
翌朝。
景継は清洲へ戻り、寺で見つけた紙を信長へ見せた。
信長は黙って最後まで読む。
「母を使う、か」
「はい」
「お前は林道へ戻ったのだな」
「可能性を捨てられませんでした」
信長は少し考えた。
「だが、今回の狙いが俺と信勝なら」
景継も同じことを考えていた。
「土田御前様」
「ああ。俺と信勝の母だ」
もし母を利用して、兄弟のどちらかへ偽の言葉を伝えさせれば。
あるいは母の名を使った書状を作れば。
信長と信勝の間に、再び疑いを生むことができる。
「信勝様にも知らせましょう」
「ああ」
今度は信長も迷わなかった。
景継は紙へ視線を戻す。
一の書。
二の書。
今回の偽書状は、最初から一通で終わる予定ではなかった。
相手はこちらの反応を見ながら、次の手を変えている。
そして。
「清洲の中から情報が漏れています」
「例の男か」
「おそらく。ただ、あの男一人とは限りません」
景継は一度言葉を切った。
「岩倉は、外から信勝様を揺さぶっているだけではありません。清洲の中にも目を置いている」
信長の表情が険しくなる。
「探せ」
「はい」
「今度は俺の家中だ。遠慮はいらん」
景継は頷いた。
その時だった。
廊下の向こうから激しい足音が聞こえた。
一人の家臣が部屋へ駆け込んでくる。
「殿!」
「何だ」
「末森より急報にございます!」
景継の表情が変わる。
「何がありました」
家臣は息を整える間もなく答えた。
「信勝様の御母堂が――」
景継は机の紙へ目を落とした。
『次は母を使う』
「土田御前様が、末森へ向かわれました」
信長の目が鋭くなる。
「何のためだ」
「分かりませぬ。ただ、信勝様へ直接お話があると」
景継の胸の奥に嫌な感覚が広がった。
偶然なのか。
それとも。
すでに二の書は動き始めているのか。
「信長様」
景継が立ち上がる。
「末森へ行きます」
信長も立ち上がった。
「俺も行く」
「よいのですか」
「俺の母でもある」
信長の表情から笑みは消えていた。
兄。
弟。
そして母。
岩倉が次に何を仕掛けようとしているのか、まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
最初は信勝の家臣へ言葉を投げるだけだった。
次は偽りの書状。
そして今度は、母。
相手は少しずつ、織田家の内側へ手を伸ばしている。
景継は机の上に残された紙を一度だけ見た。
先生につながる印はない。
今、追うべき相手を間違えてはいけない。
「行きましょう」
二人は末森へ向かった。




