第二十九話 偽りの書状
岩倉方と接触していた家臣たちを処罰しなかった信勝の判断は、末森の中で小さな波紋を広げていた。
裏切りを企てた者を甘やかしたと考える者もいれば、話を聞いただけで罰するべきではないと信勝を支持する者もいる。どちらにしても、以前の信勝なら周囲の意見に揺らされていたかもしれないが、今度は違った。
自分で決めた以上、その判断を簡単に変えようとはしなかった。
景継は清洲へ戻ってからも、末森の様子を探らせていた。
岩倉からの接触が止まるとは考えていない。最初の働きかけが失敗したのであれば、次は別の手を使ってくる可能性が高い。
問題は、その「次」が何なのかだった。
さらに景継の頭から離れないものがもう一つある。
岩倉にいた男が扱っていた書状に押されていた、円の中に三本の線。
もちろん、景継はそれをまだ知らない。
だが津々木の部屋から見つけた紙、熱田の商人が扱っていた荷、そして先生と呼ばれる人物につながる者たち。そのすべてに同じ印が関わっている。
もし岩倉でも同じ印が使われていると知れば、これまで別々に見えていた出来事は、一気につながることになる。
その事実が景継のもとへ届くのは、それから五日後のことだった。
◇◇◇
その日の朝、景継は清洲城の庭で弥兵衛と木刀を交えていた。
景継が打ち込むと、弥兵衛は難なく受け止める。そのまま力で押し返され、景継は二歩ほど後ろへ下がった。
「まだ力では勝てませんね」
「十三で私に勝たれては、こちらの立場がございませぬ」
「あと何年くらいです?」
「十年ほどお待ちいただければ」
「長いですね」
「その頃には私も歳を取っておりますので、ちょうどよろしいかと」
景継は木刀を構え直した。
頭で考えることなら、相手が大人でも勝負になる場合がある。だが身体の強さだけは、十三歳という年齢を誤魔化すことができない。
景継自身、それを悪いことだとは思っていなかった。
自分一人ですべてできる必要はない。できないことがあるなら、できる人間を使えばいい。
そこまで考えてから、景継は少し眉を寄せた。
「若様?」
「何でもありません」
最近、こういうことが増えている。
自分の考えなのに、なぜか昔から何度も同じことを考えてきたような感覚がある。
景継はそれ以上気にせず、もう一度弥兵衛へ打ち込もうとした。
その時、城内から一人の家臣が走ってきた。
「景継殿!」
二人が動きを止める。
「殿がお呼びです。すぐにお越しください」
景継と弥兵衛は顔を見合わせた。
「何かありました?」
「末森より急使が参っております」
その言葉だけで、景継の表情が変わった。
◇◇◇
広間には信長のほかに、柴田勝家、佐久間信盛、林秀貞らが集まっていた。
末森から来た使者は、信勝の側近の一人だった。
景継が入ると、信長が一通の書状を投げてよこした。
「読め」
景継は受け取り、その場で書状を開いた。
最初の数行を読んだところで、眉を寄せる。
もう一度最初から読み直した。
「これは、どこから?」
末森の使者が答えた。
「昨夜、信勝様のお部屋の前に置かれておりました」
「誰が持ってきたか分からない?」
「はい。門番にも確認いたしましたが、それらしい者を見た者がおりませぬ」
景継は書状へ視線を戻した。
そこに書かれている内容は単純だった。
信長が近いうちに信勝を捕らえるつもりでいる。
末森にいる信勝方の有力家臣を順番に清洲へ呼び、抵抗する者は討つ。そして最後には信勝自身も排除する予定だという。
さらに、その証拠として信長が家臣へ出したとされる命令まで書かれている。
かなり具体的だった。
「信勝様は何と?」
景継が尋ねる。
「最初は信じておられませんでした。しかし……」
使者が言いにくそうに口を閉じた。
「しかし?」
「書状に書かれていることの一部が、本当に起きております」
広間の空気が変わった。
信長が眉を寄せる。
「何が起きた」
「一昨日、末森の家臣一名が清洲より呼び出しを受けております」
佐久間信盛が口を開いた。
「誰だ」
名前を聞いた佐久間が少し考える。
「確かに呼んだ。だが、米の買い入れについて話をするためだ」
使者が続ける。
「書状には、その者が最初に清洲へ呼ばれると書かれております」
景継の目が細くなった。
偶然にしては出来すぎている。
「他には?」
「三日前、清洲方の者が末森近くまで来たとも」
柴田勝家が答えた。
「それは俺の者だ。岩倉の動きを探らせていた」
景継は書状を見た。
そこにも書かれている。
清洲方が末森周辺を探り始めている。
少しずつ包囲を狭め、信勝を逃げられなくするためだ、と。
事実に嘘を混ぜている。
完全な作り話より、ずっと厄介だった。
「信勝様は、この書状を信じたのですか」
「まだ信じてはおられませぬ」
使者は答えた。
「ですが、家臣の中には信じ始めている者がおります」
景継は小さく息を吐いた。
相手の目的が見えた。
信勝本人を動かす必要はない。
周囲を不安にさせればいい。
そしてその不安が十分に広がれば、前と同じことが起きる。
家臣たちが信勝へ迫る。
今動かなければ危険だ。
兄を信じてはいけない。
自分たちを守るためには戦うしかない。
そう言わせればいい。
「同じですね」
景継が呟いた。
信長が聞く。
「何がだ」
「前と同じです」
景継は書状を畳んだ。
「津々木殿の時と」
◇◇◇
信長は使者へ、その場で返書を書いた。
内容は短い。
信勝を捕らえる命令など出していない。疑うなら清洲へ来て直接聞け。
それだけだった。
「もう少し丁寧に書けませんか」
横から読んだ景継が言う。
「何が悪い」
「疑われている側の文章には見えません」
「俺は疑われても困らん」
「信勝様は困ります」
信長が少し嫌そうな顔をする。
景継は筆を借りた。
「少し書き加えても?」
「好きにしろ」
景継は信長の文章の下へ一文だけ加えた。
『末森の家臣を清洲へ呼ぶ際には、今後必ず信勝殿へ先に知らせる』
信長が読む。
「なぜ俺がそんなことをせねばならん」
「信勝様に隠して何かしていると思わせないためです」
「面倒だ」
「戦になるよりは簡単でしょう」
信長は不満そうだったが、消せとは言わなかった。
使者が書状を受け取り、末森へ戻っていく。
その姿が見えなくなってから、信長が景継へ聞いた。
「どう見る」
「偽物でしょう」
「すぐに決めるのか」
景継は少し笑った。
「信長様が信勝様を捕らえる計画を、本当に家臣へ書状で詳しく残しているのであれば別ですが」
柴田勝家が笑いを堪える。
信長が景継を睨んだ。
「俺でもそこまで馬鹿ではない」
「なら偽物です」
「誰が作った」
「岩倉が一番怪しいと思います」
「先生とやらではなく?」
景継は少し考えた。
「まだ、どちらとも決めません。ただ、この書状には岩倉が得をする内容が多すぎます」
信長と信勝が再び争えば、最も喜ぶのは岩倉だ。
だが、そこまで単純に考えていいのか。
景継は書状をもう一度広げた。
紙。
墨。
筆跡。
何かないか。
その時だった。
右下の隅に、小さな汚れのようなものがあることに気づいた。
「これは……」
景継が書状を灯りへ近づける。
汚れではない。
薄く押された印の一部だった。
ほとんど消えている。
だが景継には見覚えがあった。
円の一部。
その中に一本の線。
「信長様」
景継の声が変わった。
「何だ」
「以前見つけた紙を持ってきてもらえますか」
「津々木の部屋のか?」
「はい」
信長が家臣へ命じる。
しばらくして、保管されていた紙片が持ってこられた。
景継は二つを並べた。
津々木の部屋から出てきた紙。
そこに残る、円の中に三本の線。
そして今回の書状。
薄く残った形を合わせる。
同じだった。
部屋の空気が変わった。
「同じ印か」
信長が聞く。
「おそらく」
「おそらく?」
「全部が残っていないので断言はできません。ただ、かなり似ています」
佐久間信盛が紙を覗き込む。
「では、津々木と今回の書状は同じ者が?」
「少なくとも、つながっている可能性が高くなりました」
景継の胸の奥がざわつく。
先生。
あの人物が関わっている。
そう考えたくなる。
だが、そこで景継は自分を止めた。
答えを見つけた時ほど、その答えを疑え。
以前、自分で帳面に書いた言葉だ。
「まだ先生とは決めません」
信長が笑う。
「本当に慎重だな」
「一度決めると、それ以外が見えなくなりますから」
◇◇◇
その日の夕方。
景継は一人で書状を調べていた。
紙そのものは珍しくない。
墨も尾張で手に入るものだ。
筆跡は当然、信長のものではない。
問題は、内容だった。
末森の家臣が清洲へ呼ばれたこと。
清洲方の者が末森近くへ入ったこと。
どちらも一般の者が簡単に知れる情報ではない。
「清洲にもいる」
景継は呟いた。
今回の書状を書いた者、あるいは情報を渡した者が、清洲の中にいる。
以前、熱田から運ばれた荷が織田家臣の屋敷へ入ったことを思い出す。
あの時。
屋敷の主の名前を信長へ言わなかった。
まだ証拠が足りないと思ったからだ。
景継は立ち上がった。
「弥兵衛」
廊下にいた弥兵衛が入ってくる。
「はい」
「以前、熱田からの男が入った屋敷を覚えていますか」
「もちろん」
「今夜、もう一度見ます」
弥兵衛は嫌そうな顔をした。
「若様」
「何です」
「たまには夜に寝るという選択を」
「明日寝ます」
「昨日もそう申されました」
景継は聞こえないふりをした。
◇◇◇
日が沈んでから、景継と弥兵衛は問題の屋敷を見張った。
信長にかなり近い家臣の屋敷である。
家の主が本当に敵と通じているのなら、織田家にとって大きな問題になる。だからこそ、確かなものを見るまでは名前を出したくなかった。
二人は離れた場所から屋敷の裏口を見続けた。
一刻。
何もない。
さらに時間が過ぎる。
弥兵衛が小声で話しかける。
「今夜は何もないのでは」
「かもしれません」
「では帰りますか」
「もう少し」
「その『もう少し』は信用できませぬ」
景継が何か言おうとした時だった。
屋敷の裏口が開いた。
二人とも黙る。
一人の男が出てきた。
顔は分からない。
頭巾をかぶり、周囲を確認している。
その男は歩いて城下の外へ向かった。
景継と弥兵衛は距離を取って追う。
しばらく進むと、男は人気のない小さな寺へ入った。
景継たちは外で待つ。
半刻ほどして男が出てきた。
今度は手に何も持っていない。
「何か置いた?」
弥兵衛が囁く。
景継は頷いた。
男が十分離れるまで待ち、二人は寺へ入った。
境内は暗い。
誰もいない。
景継は男が入っていた建物を探す。
小さな堂。
中には仏像と、いくつかの古い道具しかない。
「何もございませんな」
弥兵衛が言った。
景継は周囲を見る。
男は確かにここへ来た。
何か目的があるはずだ。
床。
柱。
壁。
仏像。
景継は仏像の前で止まった。
供え物の器がある。
中には何も入っていない。
だが、器を持ち上げると、その下に紙が挟まれていた。
景継と弥兵衛が顔を見合わせる。
「開けますか」
「はい」
紙を取る。
小さく折り畳まれている。
景継は慎重に開いた。
書かれていたのは、わずか数行だった。
『一の書、末森へ届く。信勝、未だ動かず』
『二の書を用意せよ』
その下に、さらに一文ある。
『次は母を使う』
景継の手が止まった。
弥兵衛も横から文字を読んだ。
「若様……」
景継は何も言わない。
母。
志乃。
その名前は書かれていない。
だが景継には、別の記憶が蘇っていた。
十一歳の頃。
自分の判断が原因で。
母が攫われた。
あの日。
自分は初めて、自分の読みを信じすぎる怖さを知った。
「若様」
弥兵衛が景継を見る。
「林道へ戻りましょう」
景継はすぐには答えなかった。
頭の中で複数の可能性が動いている。
母とは誰の母なのか。
自分の母とは限らない。
信長の母。
信勝の母。
別の人物。
そもそも、こちらに拾わせるための偽書状かもしれない。
だが。
もし志乃だったら。
一度目は助かった。
二度目も同じとは限らない。
景継は紙を畳んだ。
「戻ります」
「清洲へ?」
「いいえ」
景継は弥兵衛を見る。
「林道家へ」
◇◇◇
二人が林道家へ到着したのは、夜もかなり深くなってからだった。
門番が驚いて出迎える。
「景継様?」
景継は馬から降りると、すぐに尋ねた。
「母上は?」
「奥方様でございますか?」
「いますか」
門番が景継の様子に戸惑いながら頷く。
「はい。お休みになられているかと」
景継はようやく少しだけ息を吐いた。
間に合った。
いや。
まだ何も起きていないだけかもしれない。
屋敷へ入ると、騒ぎを聞いた景政が出てきた。
「景継。どうした」
「父上」
「何かあったのか」
景継は少し迷った。
心配させたくない。
だが、隠せば危険になる。
「母上を、しばらく一人で外へ出さないでください」
景政の顔が変わった。
「何があった」
「まだ分かりません。ただ、母を使うと書かれたものを見つけました」
「誰の母だ」
「分かりません」
景政はしばらく息子を見た。
そして、すぐに家臣を呼んだ。
「屋敷の警護を増やせ。志乃には明日から必ず供をつけろ」
景継が少し驚く。
「信じるのですか」
「お前が夜中に馬を飛ばして戻ってきた。それだけで十分だ」
景継は何も言えなかった。
父は昔からそうだった。
景継の考えをすべて理解するわけではない。
だが、息子が本気で危険だと言えば、まず動く。
「ありがとうございます」
「礼などよい」
景政は景継を見る。
「今度は一人で抱えるな」
その言葉が少し胸に刺さった。
◇◇◇
翌朝。
景継は清洲へ戻り、昨夜見つけた紙を信長へ見せた。
信長は読んだ後、表情を変えた。
「母を使う、か」
「誰の母なのかは分かりません」
「お前は自分の母だと思った」
「可能性を捨てられませんでした」
「それで夜中に戻ったのか」
「はい」
信長は少し考えた。
「俺の母という可能性もある」
景継が顔を上げる。
信長と信勝の母。
土田御前。
確かにあり得る。
もし母を利用して兄弟のどちらかへ偽の言葉を伝えさせれば。
あるいは母に危害を加え、それを相手の仕業に見せれば。
兄弟の関係は再び壊れる。
「信勝様にも知らせましょう」
「ああ」
今度は信長も反対しなかった。
景継は紙へ視線を戻した。
一の書。
二の書。
つまり今回、末森へ送られた偽書状は最初から一通で終わる予定ではなかった。
次がある。
相手はこちらの反応を見ながら、少しずつ手を変えている。
そして、その情報は清洲の中から流れている。
景継は信長を見る。
「信長様」
「何だ」
「以前、熱田から来た男が入った屋敷のことを覚えていますか」
「ああ。お前が名前を言わなかったやつだな」
景継は頷いた。
「そろそろ、話す時かもしれません」
信長の目が変わった。
「誰の屋敷だ」
景継は一度息を整えた。
ここから先は、疑いでは済まない。
名前を出せば、信長は必ず動く。
それでも昨夜、屋敷から出た男が連絡用の紙を置いた。
もう偶然だけでは説明しにくい。
景継は口を開いた。
「その屋敷は――」
その時。
廊下の向こうから激しい足音が聞こえた。
一人の家臣が部屋へ駆け込んでくる。
「殿!」
信長が顔を向ける。
「何だ」
「末森より急報にございます!」
景継の表情が変わる。
「何がありました」
家臣は息を整える間もなく答えた。
「信勝様の御母堂が」
その言葉を聞いた瞬間、景継は昨夜の紙を見た。
『次は母を使う』
家臣の報告が続く。
「土田御前様が、末森へ向かわれました」
信長の目が鋭くなる。
「何のためだ」
「分かりませぬ。ただ、信勝様へ直接お話があると」
景継の胸の奥に、嫌な感覚が広がった。
偶然なのか。
それとも。
すでに二の書は、動き始めているのか。
「信長様」
景継が立ち上がる。
「末森へ行きます」
信長も立ち上がった。
「俺も行く」
景継は驚いて信長を見る。
「よいのですか」
「俺の母でもある」
信長の表情から笑みは消えていた。
兄。
弟。
そして母。
誰かが次に何をしようとしているのか。
景継にはまだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
前回とは違う。
相手はもう、家臣たちを動かすだけでは満足していない。
織田家そのものの内側へ、直接手を伸ばし始めていた。




