第三十話 母の言葉
信長と景継が末森へ向かった時、土田御前はすでに信勝のもとへ通されていた。
二人が連れてきた供は十数人ほど。大勢の兵を伴えば、それだけで末森側を刺激する。信長もそれを分かっているのだろう。
道中、信長はほとんど口を開かなかった。
「信長様」
「何だ」
「御母堂様が末森へ向かわれた理由に、心当たりはありませんか」
「ない」
「最近、お話は?」
「しておらん」
短い返答だった。
景継はそれ以上聞かなかった。
信長と母の関係を詳しく知っているわけではない。ただ、信勝の方が母から可愛がられているという話は耳にしていた。
もし岩倉がそこを利用しようとしているなら厄介だった。
家臣が「信長はお前を殺そうとしている」と言うのと、母親が同じことを言うのとでは重みが違う。
「景継」
今度は信長から声をかけられた。
「母上が信勝に、俺を討てと言っていたらどうする」
「それを聞いてから考えます」
「またそれか」
「聞いてもいない言葉への答えを、今決めても仕方ありません」
信長が少し不満そうな顔をする。
「本当にそう言ったら?」
「なぜそう言われたのかを聞きます」
「お前は理由ばかり聞くな」
「理由によって意味が変わりますから」
景継は前を向いた。
「御母堂様ご自身の考えなのか、誰かに騙されたのか。それだけでも違います」
信長は何も答えなかった。
末森城へ着くと、信長本人の姿に家臣たちの間へ緊張が走った。
信長が馬を降りる。
「信勝はどこだ」
「広間にございます」
「母上もか」
「はい」
そのまま入ろうとする信長を、景継が止めた。
「先に私が入ってもよろしいですか」
「なぜ」
「信長様が突然入ると、話す前に喧嘩になるかもしれません」
「俺と誰が」
「全員です」
周囲の家臣たちが微妙な表情をする。
信長は鼻を鳴らした。
「行け」
広間には信勝と土田御前がいた。
景継が頭を下げる。
「林道景継にございます」
土田御前が景継を見る。
「あなたが景継ですか」
「私をご存じで?」
「信勝から聞いております。三郎のそばに、随分と変わった少年がいると」
景継は信勝を見る。
「間違ってはおらぬだろう」
「否定はしません」
土田御前がわずかに笑った。
少なくとも、今のところ険悪な空気はない。
「信長様も来られています」
「三郎が?」
「はい」
信勝が尋ねる。
「兵は?」
「十数人ほどです」
「なら、戦をしに来たわけではないらしいな」
「そのつもりなら少なすぎます」
景継は本題へ入った。
「御母堂様。今日こちらへ来られたのは、どなたかから何かを聞かれたためですか」
土田御前はすぐには答えなかった。
景継は懐から、寺で見つけた紙を取り出す。
『次は母を使う』
その一文を見た瞬間、土田御前の顔に驚きが浮かんだ。
「これは……」
「清洲から外へ情報を流していると思われる男を追った先で見つけました」
土田御前はしばらく迷った後、懐から一通の書状を取り出した。
「今朝、これが届きました」
信勝が受け取り、景継も横から読む。
そこには、信長が信勝を処分する決意を固めたと書かれていた。
理由は岩倉との内通。
清洲ではすでに信勝を捕らえる準備が進められ、信長自身が末森へ向かう可能性まであるという。
最後には、
『母君より信勝様を説得され、今のうちに末森を離れさせるべし』
とあった。
景継は書状を見つめた。
ようやく狙いが見えた。
土田御前に信勝を逃がさせる。
そこへ信長が来れば、信勝が兄から逃げたように見える。
逆に信勝側からすれば、書状に書かれた通り信長が末森へ現れたことになる。
どちらへ転んでも疑いが残る。
「御母堂様は、これを信じられたのですか」
「分かりませんでした」
「だから直接、信勝様へ?」
「はい。信勝が危険なら、せめてその前に話したかったのです」
信勝が書状を見つめる。
「兄上が今日来ることまで読んでいたのか」
「来る可能性は考えていたのでしょう」
「そこまで?」
「私なら、そうします」
口にしてから、景継はわずかな違和感を覚えた。
まただ。
こういう策を考える時だけ、妙に迷いがない。
まるで同じようなことを、以前にも何度も考えてきたように。
やがて信長が広間へ入った。
土田御前と目が合う。
先に口を開いたのは母だった。
「久しぶりですね、三郎」
「はい」
土田御前は偽書状を差し出した。
信長が読み終える。
「俺はこんな命令を出しておらん」
「分かっています」
信長が少し驚いた。
「信じて来たのではないのですか」
「信じたからではありません。分からなかったから来ました。信勝が危険なら守りたい。それだけです」
信長は黙った。
「三郎。本当に信勝を討つつもりはないのですね」
信長は弟を見る。
「今はない」
景継は思わず目を閉じたくなった。
「今は?」
当然、信勝が反応する。
「お前がまた俺を討とうとすれば話は別だ」
「兄上!」
「当たり前だろう」
「もう少し言い方があるだろう!」
景継が息を吐く。
「お二人とも」
兄弟が同時に景継を見る。
「相手の思う通りになっています」
二人が黙った。
「この書状を書いた者は、お二人が互いを疑うことを望んでいます。それなのに、目の前で喧嘩してどうするのです」
信勝が気まずそうに視線を逸らす。
土田御前だけが小さく笑った。
「本当に変わった少年ですね」
「よく言われます」
景継は二通の偽書状を並べた。
「一通目では末森の家臣を不安にさせようとした。しかし信勝様は動かなかった。そこで今度は御母堂様を使った」
信勝が聞く。
「なら、次もあるのか」
「あると思います」
「何をする」
景継は少し考えた。
「私なら、もう書状は使いません」
信長が眉を寄せる。
「なら何を使う」
偽の情報で人を動かす。
それが通じないのなら。
「事件です」
「事件?」
「本当に何かを起こします。例えば信勝様の家臣が、信長様の家臣に襲われる。あるいは逆です」
土田御前の表情が変わった。
「人が死ぬということですか」
「その可能性もあります」
部屋が静まり返った。
信長と信勝は、それぞれの家臣へ勝手な行動を控えるよう命じることにした。
特に相手方の領内へ入る場合には事前に知らせる。
土田御前も、しばらくは二人のどちらかへ知らせず単独で動かない。
まずは、疑う理由そのものを作らせない。
末森を出る時、信勝が景継を呼び止めた。
「本当に、次は人が死ぬと思うか」
「分かりません」
「お前ならどうする」
景継は一瞬迷った。
だが答えは自然に出た。
「私がどうしてもお二人を戦わせたいのであれば、そうします」
「誰を狙う」
「重要な人間である必要はありません」
「なぜだ」
「一人死ねば十分だからです」
信勝が黙る。
「大切なのは誰が死ぬかではなく、誰に殺されたように見えるかです。末森の者が清洲の者に殺されたと思えば、それだけで疑いは生まれます」
信勝はしばらく景継を見た。
「お前は、恐ろしいことを平然と考えるな」
景継は少し目を伏せた。
自分でもそう思う。
実際に誰かを殺したいわけではない。
だが敵ならどうするかと考えた瞬間、人が一人死ぬことを策の一部として扱えてしまった。
なぜなのか。
分からない。
「だから、先に止めます」
信勝は少しだけ笑った。
「頼んだぞ」
「できるだけ」
「そこは必ずと言え」
「できない約束はしません」
「本当にお前らしいな」
清洲へ戻ると、景継は信長へ提案した。
「岩倉へ情報を流していると思われる男ですが、もう少し泳がせたいと思います」
「捕らえぬのか」
「一人捕らえて終わるとは思えません。その先まで見たいです」
信長は少し考えた。
「分かった。ただし、次に何か起きる前に見つけろ」
「はい」
景継は頷いた。
だが、その時すでに。
岩倉では次の手が決まり始めていた。
夜。
岩倉方の屋敷で、二人の男が向かい合っていた。
机には清洲と末森、その周辺を記した地図が広げられている。
「二の書も失敗した」
「信長と信勝は?」
「争っていない」
「林道景継か」
「おそらく」
男はしばらく地図を眺めた後、口を開いた。
「三の策へ移る」
「書状は?」
「もう使わぬ」
「では?」
「今度は、本当に起こす」
男は清洲と末森の間へ指を置いた。
「人を一人、殺す」
向かいの男の顔が強張った。
「誰を?」
「重要な者である必要はない」
少し前、景継が信勝へ語ったものと、奇妙なほどよく似た言葉だった。
「必要なのは死体だ。そして、どちらかの仕業に見せる」
「そこまでやれば、後には引けませんぞ」
「引くつもりなどない」
男は一枚の紙を取り出した。
そこには標的となる人物の名が書かれている。
受け取った男が目を見開いた。
「この者を?」
「ああ」
「この者が死ねば、清洲も末森も黙ってはいない」
「だから選んだ」
男は紙を畳んだ。
「手を下す者は、岩倉につながらぬ者を使え」
「いつ?」
「近いうちに」
標的の名前は、そのまま闇の中へ隠れた。
同じ頃。
清洲では、景継が帳面を開いていた。
『一人死ねば十分』
『大切なのは、誰に殺されたように見えるか』
自分で書いた言葉なのに、妙な感覚がある。
十三歳の自分が初めて考えたことのはずだった。
それなのに。
以前にも、同じように人を動かし、敵同士を争わせる方法を考えたことがあるような気がする。
一瞬だけ。
大勢の兵。
高い城壁。
知らない男の横顔。
何かが脳裏をよぎり、すぐに消えた。
景継は目を閉じたが、それ以上は何も戻らない。
やがて帳面を閉じる。
「……今は、岩倉だ」
自分が何者なのか。
その答えは、まだ後でいい。
今は次に起きることを止めなければならない。
だが景継はまだ知らなかった。
自分が敵ならそうすると考えた、その策を。
岩倉もまた選んだことを。
偽りの言葉で人が動かぬのなら。
次は、本物の血を流す。
三の策は、すでに動き始めていた。




