第三十話 母の言葉
信長と景継が末森へ向かった時、土田御前はすでに信勝のもとへ通されていた。
清洲を出た二人の供は多くない。大勢の兵を連れていけば、それだけで末森側を刺激する可能性がある。信長もそれを理解していたのか、連れてきたのは十数人ほどだった。
道中、信長はほとんど口を開かなかった。
普段なら景継が何か言えば、からかうか、問い返すか、少なくとも何らかの反応を見せる。だが今日は前を向いたまま、黙々と馬を進めている。
景継には、それがかえって不気味だった。
「信長様」
「何だ」
「御母堂様が末森へ向かわれた理由に、心当たりはありませんか」
「ない」
「最近、お話は?」
「しておらん」
「信勝様とは?」
「知らん」
短い返答が続く。
景継はそれ以上聞かなかった。
信長と母の関係がどういうものなのか、詳しくは知らない。ただ、信勝の方が母から可愛がられているという話は何度か耳にしていた。
もし相手がそこを利用しようとしているのであれば、かなり厄介だった。
家臣が「信長はお前を殺そうとしている」と言うのと、母親が同じ言葉を言うのとでは重みが違う。
さらに、土田御前自身が誰かに騙されている可能性もある。
偽の書状を見せられたのか。誰かから嘘の情報を吹き込まれたのか。それとも、今回の件とはまったく関係なく、自分の意思で末森へ向かっただけなのか。
景継は頭の中でいくつもの可能性を並べた。
どれか一つに決めるには、まだ早い。
「景継」
今度は信長から声をかけられた。
「はい」
「母上が信勝に俺を討てと言っていたら、どうする」
景継はすぐには答えなかった。
「それを聞いてから考えます」
「またそれか」
「聞いてもいない言葉への答えを今決めても仕方ありません」
「では、母上が本当にそう言ったら?」
景継は少し考えた。
「なぜそう言われたのかを聞きます」
信長が小さく笑った。
「お前は本当に理由ばかり聞くな」
「理由によって意味が変わりますから」
景継は信長を見る。
「御母堂様ご自身が信長様を嫌って言われたのか、誰かに騙されたのか、それとも信勝様を守ろうとして言われたのか。同じ言葉でも、全部違います」
信長は返事をしなかった。
ただ、その後は先ほどより少しだけ馬の速度を落とした。
◇◇◇
末森城へ着くと、門前には信勝の家臣たちが集まっていた。
信長本人が突然現れたことで、明らかに緊張が走っている。以前なら、ここから一触即発になっていてもおかしくなかった。
しかし信長は誰にも構わず馬を降りた。
「信勝はどこだ」
門番が慌てて頭を下げる。
「広間にございます」
「母上もか」
「はい」
信長がそのまま中へ入ろうとすると、景継が後ろから声をかけた。
「信長様」
信長が振り返る。
「何だ」
「先に私が入ってもよろしいですか」
「なぜ」
「信長様が突然入ると、話す前に喧嘩になるかもしれません」
信長の眉が動いた。
「俺と誰が」
「全員です」
周囲にいた末森の家臣たちが微妙な表情をした。
信長はしばらく景継を見た後、鼻で笑った。
「行け」
「ありがとうございます」
「ただし、いつまでも待たせるな」
「分かっています」
景継は弥兵衛を伴い、先に広間へ向かった。
◇◇◇
部屋へ入ると、信勝と土田御前が向かい合って座っていた。
信勝の側には数人の家臣が控えている。皆、景継を見ると少し警戒した顔をした。
土田御前を間近に見るのは、景継にとって初めてだった。
年齢を重ねているが、品のある女性だった。信勝とどこか似た柔らかい顔立ちをしている。
景継は頭を下げた。
「林道景継にございます」
土田御前が景継を見る。
「あなたが景継ですか」
意外な言葉だった。
「私をご存じで?」
「信勝から聞いております。三郎のそばに、随分と変わった少年がいると」
景継は信勝を見る。
信勝が少し笑った。
「間違ってはおらぬだろう」
「否定はしません」
土田御前もわずかに笑った。
少なくとも、今この部屋に険悪な空気はない。
景継は少しだけ安心した。
「信長様も来られています」
その言葉を聞くと、土田御前の表情が変わった。
「三郎が?」
「はい。御母堂様がこちらへ来られたと聞きまして」
「そうですか」
信勝が景継を見る。
「兄上も来たのか」
「はい」
「兵は?」
「十数人ほどです」
信勝は小さく息を吐いた。
「なら、戦をしに来たわけではないらしいな」
「そのつもりなら十数人では少なすぎます」
景継はそう答えてから、本題へ入った。
「御母堂様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「今日、末森へ来られたのは、どなたかから何かを聞かれたためですか」
信勝の表情が少し変わる。
土田御前は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、景継の警戒が強くなった。
「なぜ、そのようなことを聞くのです」
「昨日、少し気になるものを見つけました」
景継は懐から、寺で見つけた紙を取り出した。
そこに書かれていた『次は母を使う』という一文を二人へ見せる。
信勝の顔から笑みが消えた。
「これは、どこで」
「清洲の家臣の屋敷から出てきた者を追った先です」
景継は正確には屋敷の使用人か関係者か分からないため、屋敷の主とは言わなかった。
土田御前も紙を見る。
その顔に、はっきりと驚きが浮かんだ。
景継は確信した。
何かある。
「御母堂様」
土田御前はしばらく迷っていたが、やがて懐から一通の書状を出した。
「今朝、これが届きました」
信勝が受け取る。
景継も横から内容を見る。
読み進めるにつれ、二人の表情が険しくなった。
そこには、信長が信勝を処分する決意を固めたと書かれていた。
理由は、岩倉との内通。
すでに清洲では信勝を捕らえる準備が進められており、信長自身が末森へ向かう可能性まであるという。
さらに最後には、こう書かれていた。
『母君より信勝様を説得され、今のうちに末森を離れさせるべし』
景継は書状を読み終えても、しばらく何も言わなかった。
相手の狙いがようやく見えてきた。
土田御前を使って信勝を逃がす。
そこへ信長が来る。
もし信勝が城を出た後なら、信長から逃げたように見える。
逆に信勝側から見れば、書状に書かれていた通り信長本人が末森へ現れたことになる。
どちらから見ても、相手への疑いが深まるように作られている。
「よくできていますね」
景継が呟いた。
信勝が顔を向ける。
「感心している場合か」
「感心はしていません。ただ、かなり考えられています」
景継は書状をもう一度読む。
「御母堂様は、これを信じられたのですか」
土田御前は少し困ったような顔をした。
「分かりませんでした」
「だから直接、信勝様へ?」
「はい。三郎が本当に信勝を捕らえようとしているのなら、せめてその前に話をしたかったのです」
「信勝様へ逃げろと?」
土田御前は答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
◇◇◇
「兄上を呼ぼう」
信勝が言った。
景継は土田御前を見る。
少し迷っているようだった。
「よろしいですか」
景継が尋ねると、土田御前はゆっくり頷いた。
「ここまで来ているのなら、話をしましょう」
景継は弥兵衛へ目を向けた。
「信長様を」
「はい」
弥兵衛が部屋を出ていった。
待っている間、信勝は書状を何度も読み返していた。
「景継」
「はい」
「これを書いた者は、兄上が今日ここへ来ることまで知っていたのか」
「いいえ」
「では、なぜ書けた」
「来るように仕向けたのだと思います」
信勝が眉を寄せる。
「どういうことだ」
「御母堂様が末森へ来たという情報を清洲へ流せば、信長様が動く可能性は高いでしょう。特に今は『次は母を使う』という紙をこちらが見つけた直後です」
「つまり」
信勝の表情が変わった。
「儂らだけではなく、兄上の動きまで利用された?」
景継は頷いた。
「信長様が来なければ、御母堂様が信勝様を逃がそうとする。来れば、書状の内容が本当だったように見える。どちらでも構わなかったのでしょう」
信勝は書状を見た。
「そこまで読むか」
「私なら、そうします」
言ってから、景継は少しだけ違和感を覚えた。
まただ。
自分なら。
そうする。
こういう策を考える時だけ、妙に迷いがない。
まるで同じようなことを何度もやってきたかのように。
だが今は、それを考えている場合ではなかった。
◇◇◇
しばらくして信長が入ってきた。
土田御前と目が合う。
二人ともすぐには話さなかった。
景継はその沈黙に、兄弟の間とはまた違う難しさを感じた。
先に口を開いたのは土田御前だった。
「久しぶりですね、三郎」
「はい」
信長の声は、普段より少しだけ硬い。
「母上こそ、突然末森へ何をしに」
土田御前は先ほどの書状を信長へ渡した。
信長が読む。
読み終えるまで、誰も口を挟まなかった。
やがて信長は書状を畳んだ。
「俺はこんな命令を出しておらん」
「分かっています」
土田御前の答えに、信長が少し驚いた。
「信じて来たのではないのですか」
「信じたから来たのではありません。分からなかったから来ました」
信長は何も言わない。
「信勝が危険なら守りたい。それだけです」
信長の表情がわずかに変わった。
土田御前は続けた。
「あなたも私の子です。ですが、あなたは昔から私が何か言っても聞こうとしなかった」
「母上が信勝の話ばかりするからでしょう」
「三郎」
部屋の空気が少し重くなった。
景継は困った。
偽書状の話をするはずが、別の問題が始まりそうだった。
信勝も同じことを思ったらしい。
「母上。今は昔の話をするために集まったのでは」
「分かっています」
土田御前は一度息を整えた。
「三郎。あなたは本当に信勝を討つつもりはないのですね」
信長は弟を見る。
信勝も兄を見る。
「今はない」
景継は目を閉じたくなった。
なぜ「ない」とだけ言えないのか。
当然、信勝も同じところに反応した。
「今は?」
「お前がまた俺を討とうとすれば話は別だ」
「兄上!」
「当たり前だろう」
「もう少し言い方があるだろう!」
「嘘をつけと?」
兄弟の声が大きくなる。
景継は大きく息を吐いた。
「お二人とも」
二人が景継を見る。
「何だ」
「何だ」
声まで重なった。
「相手の思う通りになっています」
信長と信勝が黙った。
「この書状を書いた者は、お二人が喧嘩することを望んでいます。それなのに、わざわざ目の前で喧嘩してどうするのです」
信勝が気まずそうに視線を逸らした。
信長は少し不満そうだった。
土田御前だけが、小さく笑った。
「本当に変わった少年ですね」
「よく言われます」
◇◇◇
景継は二通の偽書状を並べた。
一通目は信長が信勝を捕らえようとしているというもの。
二通目は土田御前へ届いたもの。
内容は似ているが、目的が少し違う。
「一通目では、末森の家臣たちを不安にさせた。ですが信勝様は動かなかった」
景継は二通目を指した。
「だから今度は御母堂様を使った。信勝様本人を説得させようとしたのだと思います」
土田御前が聞く。
「なぜ私なのです」
「信勝様が、御母堂様の言葉なら聞く可能性が高いと考えたのでしょう」
その言葉に、信長の表情がわずかに動いた。
景継は気づいたが、あえて触れなかった。
「さらに、御母堂様が末森へ動けば信長様も気にする。その情報を清洲へ流せば、信長様自身が末森へ来る可能性まである」
信勝が書状を見る。
「すべて、こちらの反応を読んでいる」
「はい」
「なら、次もあるのか」
「あると思います」
景継は即答した。
一の書。
二の書。
相手自身がそう呼んでいた。
二通目がこれなら、失敗した時の三通目まで用意している可能性は高い。
信長が聞く。
「次は何をする」
景継は少し考えた。
「私なら、もう書状は使いません」
三人が景継を見る。
「なぜだ」
「二度失敗しています。同じ手を三度使えば、こちらも警戒する」
「なら何を使う」
景継は地図へ目を落とした。
偽の情報で人を動かす。
それが通じない。
なら次は。
偽ではなく。
本物を作る。
「事件です」
信勝の顔が変わった。
「事件?」
「はい。疑わせるための書状ではなく、本当に何かを起こす」
景継は信長と信勝を交互に見る。
「例えば、信勝様の家臣が信長様の家臣に襲われる。あるいは逆。それなら偽物かどうかを調べる必要がありません」
土田御前の顔から笑みが消えた。
「人が死ぬということですか」
景継はすぐには答えなかった。
「可能性はあります」
部屋が静かになった。
◇◇◇
それからしばらく、四人で今後について話し合った。
信長と信勝は、それぞれの家臣へ勝手な行動を控えるよう命じることになった。特に相手方の領内へ入る場合は事前に知らせ、余計な疑いが生まれないようにする。
土田御前についても、しばらくは信長か信勝のどちらかへ知らせずに単独で動かないことになった。
「私まで監視されるのですか」
少し不満そうに土田御前が言う。
景継は首を横に振った。
「監視ではありません。御母堂様の名前を勝手に使われることを防ぐためです」
「同じようなものでしょう」
「少し違います」
「あなたは言葉が上手ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
信長が横から言った。
「こやつは都合の悪い時だけそう言う」
「信長様には言われたくありません」
土田御前がまた笑った。
その笑顔を見て、景継は少しだけ安心した。
少なくとも今回は、相手の狙い通りにはならなかった。
母を使って兄弟の間を裂く。
その策は失敗した。
だが問題は、この次だ。
◇◇◇
末森を出る時、信勝が景継を呼び止めた。
「景継」
「はい」
信長は少し先で馬に乗って待っている。
信勝は周囲に聞こえない程度の声で尋ねた。
「本当に、次は人が死ぬと思うか」
景継は少し考えてから答えた。
「分かりません」
「お前ならどうする」
今日、何度目かの問いだった。
景継は一瞬だけ迷う。
だが、答えは自然に出てきた。
「私がどうしてもお二人を戦わせたいのであれば、そうします」
信勝の表情が険しくなる。
「誰を狙う」
「重要な人間である必要はありません」
「なぜだ」
「一人死ねば十分だからです」
信勝が黙った。
景継は続ける。
「大切なのは誰が死ぬかではなく、誰に殺されたように見えるかです。末森の者が清洲の者に殺されたと思えば、それだけで疑いは生まれます」
信勝はしばらく景継を見ていた。
「お前は、恐ろしいことを平然と考えるな」
その言葉に、景継は少しだけ目を伏せた。
自分でもそう思う。
人が死ぬ方法を考えることに、ほとんど抵抗がなかった。
実際に殺したいわけではない。
だが、敵ならどうするかと考えれば、頭の中では簡単に人を犠牲にできる。
なぜなのか。
「だから」
景継は信勝を見る。
「先に止めます」
信勝は少しだけ笑った。
「頼んだぞ」
景継はその言葉にすぐ返事をしなかった。
自分は正式な織田家臣でもない。
それなのに、信長だけでなく信勝からも頼られるようになっている。
いつの間にこうなったのだろう。
「できるだけ」
そう答えると、信勝は苦笑した。
「そこは必ずと言え」
「できない約束はしません」
「本当にお前らしいな」
◇◇◇
清洲へ戻った景継は、その日のうちに一人の家臣を信長のもとへ呼んでもらった。
以前、熱田から来た男が荷を持ち込んだ屋敷。
昨夜、その屋敷から出てきた者を追ったことで、偽書状の連絡に使われている寺を見つけた。
もう名前を伏せている段階ではない。
「誰だ」
信長が聞く。
景継は一度だけ息を整えた。
「林秀貞様の屋敷です」
信長の表情が止まった。
部屋の空気が変わる。
林秀貞。
織田家の重臣。
信長の父・信秀の代から仕え、家中でも大きな影響力を持つ人物だった。
さらに、かつて信勝を擁立しようとした側の中心人物の一人でもある。
「確かか」
信長の声が低くなる。
「屋敷へ荷が運び込まれたことは確かです。そして昨夜、屋敷から出た男が寺へ向かい、この紙を置きました」
景継は『次は母を使う』と書かれた紙を差し出した。
「ただし」
「何だ」
「林様本人が関わっている証拠はありません」
信長は景継を見る。
「屋敷の人間が動いておるのだぞ」
「だからこそです。林様本人なのか、家臣が勝手に動いているのか、それとも誰かが林様の屋敷を利用しているのか。そこを確認する必要があります」
信長はしばらく黙っていた。
以前の信長なら。
景継はそう考えた。
おそらく、すぐに林秀貞を呼びつけていただろう。
場合によっては、その場で捕らえようとしたかもしれない。
だが今回は違った。
「どう調べる」
信長が聞いた。
景継は少し驚いた。
「すぐには呼ばないのですか」
「お前が言ったのだろう。決めつけるなと」
景継の口元が少し上がった。
「成長されましたね」
信長の目が鋭くなる。
「誰に言っておる」
「失礼しました」
「まったくだ」
だが信長も、少しだけ笑っていた。
◇◇◇
二人は林秀貞本人には知らせず、屋敷へ出入りする人間を調べることにした。
特に熱田とのつながりがある者、夜間に屋敷を出る者、最近になって仕え始めた者を優先する。
景継が部屋を出ようとした時、信長が呼び止めた。
「景継」
「はい」
「もし秀貞が本当に裏切っていたら」
景継は振り返る。
「どうする」
少し前なら。
理由を聞く。
そう答えていたかもしれない。
だが今回は、少しだけ違った。
「理由は調べます」
「やはりそこからか」
「はい。ただし」
景継は信長を見る。
「理由が分かったからといって、許す必要はありません」
信長の目がわずかに変わった。
景継自身も、自分が自然にそう答えたことを不思議に感じていた。
裏切った理由を知る。
次に同じことを起こさせない。
そして必要であれば処分する。
その考え方が、妙に自分の中へ馴染んでいる。
信長は少し笑った。
「ようやく乱世らしくなってきたな」
「褒められている気がしません」
「褒めておる」
景継は小さく息を吐いて部屋を出た。
◇◇◇
その夜、林秀貞の屋敷では、一人の男が小さな荷を受け取っていた。
男は林秀貞ではない。
秀貞に長く仕えてきた家臣でもなかった。
数ヶ月前から屋敷へ出入りするようになった、書状や荷の取り次ぎをする男だった。
荷の中には一通の紙がある。
男はそれを開いた。
『二の書、失敗』
続いて次の行へ目を移す。
『三の策へ移れ』
男の表情が少し強張った。
その下には、具体的な指示が書かれていた。
今度は偽の書状ではない。
人を一人、殺す。
そして、その死体をある場所へ置く。
誰が見ても、末森側の仕業だと思う場所へ。
男は最後まで読み終えると、紙を火へ入れた。
燃えていく文字を見ながら、少しだけ息を吐く。
「本当にやるのか……」
背後から声がした。
男が振り返る。
いつの間にか、部屋の入口に別の男が立っている。
旅の商人のような姿。
以前、津々木蔵人と会っていた男だった。
「迷う必要はない」
「ですが、人を殺せば」
「今までも死ぬ可能性はあった」
「それとは違う」
男は低い声で反論した。
旅姿の男は表情を変えない。
「先生の命だ」
その一言で、部屋が静かになった。
「誰を殺す」
男が尋ねる。
旅姿の男は一枚の紙を差し出した。
そこには標的の名前が書かれていた。
男はそれを読み、顔色を変えた。
「この者を?」
「ああ」
「この者が死ねば、清洲も末森も黙ってはいない」
「だから選ばれた」
旅姿の男は静かに答えた。
「戦は、疑いだけでは始まらぬこともある」
そして、わずかに笑った。
「ならば、血を流せばよい」
同じ頃。
清洲にいる景継はまだ、その標的の名前を知らなかった。
ただ、末森を出る前に自分で口にした言葉だけが、妙に胸に残っていた。
次は、本当に何かを起こす。
その予感が正しいことを知るまで、あとわずかだった。




