第三十一話 最初の血
異変が起きたのは、翌日の夕刻だった。
清洲城へ戻っていた景継は、信長から頼まれた林秀貞の屋敷周辺の情報を整理していた。熱田から荷を運び込んだ者、夜間に寺へ向かった男、最近になって屋敷へ出入りするようになった人物。まだ線としてはつながらないものの、少しずつ人の動きは見え始めている。
弥兵衛が集めてきた話を書き留めながら、景継は何度も同じ箇所へ目を戻していた。
林秀貞本人が動いた形跡がない。
そこが気になる。
屋敷は使われている。
しかし主が知らない可能性も、まだ捨てきれない。
「若様」
向かいに座っていた弥兵衛が声をかける。
「はい」
「また同じところを読んでおられますぞ」
「気になるのです」
「林様ご本人が関わっているかどうかですか」
「はい。ここまで動くなら、本人と直接つながっている方が簡単です。それなのに、わざわざ最近出入りするようになった者を使っている」
弥兵衛は少し考える。
「林様へ知られたくない?」
「その可能性があります」
景継は紙を一枚めくった。
「逆に、林様へ疑いを向けたい可能性もあります」
「若様たちが屋敷を調べることまで見越して?」
「もし相手が、こちらの動きをかなり細かく見ているなら」
景継はそこで筆を止めた。
先生と呼ばれる人物。
あの者たちは、自分がどこまで考えるかを試しているようにも見える。
一度目は信勝。
次は今川。
そして今度は林秀貞。
自分が誰かを疑うたびに、別の場所へ道が伸びていく。
「また誘導されている?」
弥兵衛が聞く。
景継は少し驚いた。
「分かるようになりましたね」
「若様と一緒におりますので」
「それは悪い影響かもしれません」
「私もそう思います」
二人が少し笑った、その時だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
景継は反射的に顔を上げた。
足音は近づき、戸の前で止まる。
「景継殿!」
聞き覚えのある声だった。
「どうぞ」
戸が開く。
入ってきた家臣の顔を見た瞬間、景継は笑みを消した。
血の気が引いている。
何かあった。
「殿がお呼びです」
「何がありました」
男は一瞬ためらった。
そして低い声で答えた。
「人が、殺されました」
◇◇◇
広間へ入ると、空気が重かった。
信長は上座に座っている。
柴田勝家、佐久間信盛、林秀貞。
そして何人かの重臣。
景継は林秀貞がいることを確認した。
普段より険しい表情だが、怯えているようには見えない。
「来たか」
信長が景継を見る。
「はい」
「聞いたか」
「人が殺されたとだけ」
信長は近くにいた家臣へ視線を向けた。
「説明しろ」
家臣が頭を下げる。
「本日夕刻、清洲と末森の中ほどにございます街道脇にて、武士一名の遺体が発見されました」
景継の胸の奥が少し冷たくなる。
場所。
清洲と末森の間。
嫌な位置だった。
「誰です」
家臣が名前を答えた。
景継は知っている。
以前、信勝と話し合った際に末森から使者として清洲へ来た男だった。
信勝の家臣。
それほど身分が高いわけではない。
だが、兄弟の間を何度か往復していた者だ。
「死因は?」
「刃物で胸を一突きに」
「争った跡は?」
「ほとんどございません」
景継は少し考えた。
顔見知りか。
油断したところを刺された可能性がある。
「何か持っていましたか」
家臣の表情が少し硬くなった。
「それが」
信長が先を促す。
男は一枚の布を出した。
小さな布切れ。
血がついている。
そして。
そこには紋があった。
織田木瓜。
景継の目が細くなる。
「清洲方の者が落としたと?」
林秀貞が低い声で言った。
「そう見せたいのであろう」
景継は布を受け取った。
かなり分かりやすい。
分かりやすすぎる。
「遺体の近くに?」
「手の中に握られていたそうです」
景継が顔を上げた。
「手の中?」
「はい」
景継は布を見る。
死ぬ直前。
自分を殺した相手から何かを掴み取った。
そう考えさせる置き方だ。
「末森には?」
信長が聞く。
「すでに知らせが届いております」
「誰が知らせた」
「現場を見つけた農民が、近くの者へ知らせたと」
景継はすぐに聞いた。
「その農民はどこにいます」
「今、こちらへ連れてきております」
信長が景継を見る。
「行くか」
「はい」
◇◇◇
遺体はまだ現場に残されていた。
信長本人は清洲を離れず、景継と弥兵衛、それに柴田勝家ら数人が現場へ向かった。
日が落ち始めている。
遺体の周囲には、すでに簡単な囲いが作られていた。
景継は馬を降りると、すぐには遺体へ近づかなかった。
まず周囲を見る。
街道。
草。
土。
人が歩いた跡。
馬の跡。
血の位置。
「何を見ておる」
勝家が聞く。
「どこで殺されたのかを」
「ここではないのか」
「まだ分かりません」
景継は地面へ視線を落とす。
血は確かにある。
だが。
思ったより少ない。
「弥兵衛」
「はい」
「胸を刺されて、ここで倒れたなら、もう少し血が出ませんか」
弥兵衛が遺体を見る。
「傷にもよりますが、可能性はございますな」
勝家が眉を寄せる。
「別の場所で殺されたと?」
景継はまだ答えない。
遺体へ近づく。
男は仰向けに倒れている。
胸に一ヶ所。
刃物の傷。
手には例の布。
景継はしゃがみ込んだ。
「布を握っていたのは右手ですね」
「そうだ」
「この方は右利きですか?」
誰も分からない。
「調べます」
景継は遺体を見る。
腰の刀。
鞘に入ったまま。
「刀を抜いていない」
勝家が言う。
「不意を突かれたのであろう」
「そうかもしれません」
景継は男の袖を見る。
少し汚れている。
草。
土。
それ以外に。
白っぽい粉。
指で触る。
「これは」
弥兵衛が近づく。
「何でしょう」
景継は匂いを嗅ごうとして止めた。
下手に触らない方がいい。
「何かの粉です」
街道にこんなものはない。
どこか別の場所にいた。
その可能性が高くなった。
「若様」
弥兵衛が小声で呼ぶ。
「こちらを」
遺体の草履。
片方の裏に、赤茶色の土がついている。
この辺りの土とは少し色が違う。
景継は周囲の地面と見比べた。
「やはり」
勝家が聞く。
「何が分かった」
「ここで殺されていない可能性があります」
「なぜ」
景継は順番に説明した。
血の量。
衣服についた粉。
草履の土。
そして刀を抜いていないこと。
「どこか別の場所で殺し、ここへ運んだ?」
勝家の声が低くなる。
「そう考えた方が自然です」
「何のために」
景継は織田木瓜の布を見る。
「ここで殺されたように見せるためでしょう」
清洲と末森の間。
そして手には織田の紋。
誰が見ても。
清洲方に殺されたと考える。
まさに自分が信勝へ言った通りだった。
偽の書状が通用しないなら。
本当に人を殺す。
景継は胸の奥に嫌な感覚を覚えた。
自分が予想した策が。
そのまま現実になっている。
◇◇◇
遺体を最初に見つけたという農民も現場へ連れてこられた。
四十ほどの男。
明らかに怯えている。
「責めるつもりはありません」
景継がそう言うと、少しだけ落ち着いた。
「見つけた時のことを、最初から教えてください」
男は話し始める。
畑仕事を終えて帰る途中。
街道脇に人が倒れているのを見つけた。
最初は酔っているのかと思った。
近づいたら血があり、慌てて村へ知らせに走った。
「倒れるところは見ていない?」
「見ておりませぬ」
「他に誰かいましたか」
「いえ」
「馬は?」
農民は少し考えた。
「見ておりませぬ」
景継は頷いた。
「遺体に触りました?」
男の顔が強張る。
「い、いえ」
「本当に?」
「はい」
景継は男の目を見る。
嘘をついているようには見えない。
少なくとも今は。
「見つけた時、手にはその布がありましたか」
農民が困った顔をした。
「分かりませぬ」
「なぜ?」
「手までは見ておりませんでしたので」
当然だ。
死体を見つけて、細かく観察する農民の方が珍しい。
景継は礼を言い、男を下がらせた。
◇◇◇
現場を離れる頃には、完全に日が沈んでいた。
帰り道。
柴田勝家が景継の隣へ馬を寄せる。
「どう思う」
「罠です」
「清洲を疑わせるための?」
「おそらく」
景継は前を見た。
「問題は、信勝様がどう受け取るかです」
「信勝様なら、もう以前とは違うだろう」
「信勝様本人は」
勝家が景継を見る。
「家臣か」
「はい」
また同じだ。
信勝が疑わなくても。
周囲が疑う。
人が本当に死んだ。
今度は以前より説得力がある。
「末森へ行くか」
勝家が聞く。
景継は少し考えた。
「今夜行きます」
「また夜か」
「早い方がいいです」
勝家が苦笑した。
「お前といると、寝る暇がなさそうだな」
「弥兵衛にもよく言われます」
後ろを走っていた弥兵衛が声を上げる。
「本当にそう思います!」
景継は聞こえないふりをした。
◇◇◇
清洲へ戻ると、状況はさらに悪くなっていた。
末森から使者が来ている。
景継が広間へ入る。
信長は不機嫌そうだった。
「遅い」
「現場を見ていました」
「信勝が来る」
景継が顔を上げる。
「こちらへ?」
「ああ」
「兵は?」
「三十ほど」
少ない。
攻める数ではない。
だが普段の使者よりは多い。
「怒っていますか」
「知らん」
信長は明らかに少し苛立っている。
「現場はどうだった」
景継は調べたことを説明した。
別の場所で殺された可能性が高いこと。
手に握られていた布が、犯人を示すために意図的に置かれた可能性があること。
信長の表情が険しくなる。
「やはり、俺と信勝を争わせるためか」
「その可能性が一番高いと思います」
「先生か」
「まだ決めません」
信長が景継を見る。
「この状況でもか」
「だからこそです」
景継は少し声を落とした。
「相手が先生だと思わせたい可能性もあります」
信長は何か言おうとしたが、その時だった。
廊下の外から声が聞こえた。
「信勝様がお見えです」
◇◇◇
信勝は顔を強張らせていた。
だが、怒鳴り込んでくるようなことはしなかった。
信長の向かいへ座る。
景継も少し離れた場所へ座った。
「死んだ男は」
信長が聞く。
「儂の家臣だ」
「知っておる」
「以前、兄上との間を何度か往復させた」
「それも知っておる」
信勝は兄を見る。
「兄上が殺したとは思っていない」
景継は少しだけ安心した。
信長も表情を緩める。
だが信勝は続けた。
「儂は、だ」
信長の目が細くなる。
「家臣たちは違うか」
「一部はな」
やはり。
景継の予想通りだった。
「織田木瓜を握っていた」
信勝が言う。
「それを見て、兄上の仕業だと騒ぐ者がいる」
信長が舌打ちする。
「そんな分かりやすい証拠を俺が残すと思うか」
「儂もそう言った」
「なら終わりだ」
「終わらぬから来た」
信勝の声が少し強くなる。
「人が死んだのだぞ」
信長も黙った。
信勝は続ける。
「以前なら、偽書状だった。嘘だと分かれば終わった。だが今回は違う」
景継は二人の話を聞いていた。
信勝はかなり冷静だ。
怒ってはいる。
だが兄にではない。
この状況そのものに。
「景継」
信勝がこちらを見る。
「はい」
「現場を見たそうだな」
「はい」
「兄上の者が殺したと思うか」
景継は首を横に振った。
「今のところ、その可能性は低いと思います」
「理由は?」
景継は現場で見たことを説明した。
信勝は黙って聞く。
「つまり、別の場所で殺して運んだ」
「その可能性が高いです」
「その上で、織田の紋を握らせた?」
「はい」
信勝は大きく息を吐いた。
「やはりそうか」
信長が聞く。
「何がだ」
「出来すぎていると思った」
信勝は兄を見る。
「兄上なら、殺すならもっと堂々と殺す」
景継は思わず信長を見る。
信長が笑った。
「分かってきたではないか」
「褒めていない」
少しだけ空気が緩んだ。
だが問題は解決していない。
◇◇◇
「次はどうする」
信勝が景継へ聞いた。
景継は少し考える。
一人目。
相手は最初の血を流した。
ここで兄弟が争わなかった。
なら。
次。
「もう一人、狙われるかもしれません」
信勝の表情が変わった。
信長も笑みを消す。
「なぜだ」
「一人で足りなければ、二人」
景継は静かに答えた。
「それでも駄目なら、もっと重要な人を狙う」
部屋の空気が重くなる。
「誰だ」
信長が聞く。
「分かりません」
「考えろ」
景継は目を閉じる。
相手の目的。
信長と信勝を戦わせる。
なら誰を殺せば一番効果的か。
信長の重臣。
信勝の重臣。
互いに大切な人物。
あるいは。
家族。
景継の頭に、前の書状が浮かぶ。
『次は母を使う』
母は失敗した。
なら次は。
「信勝様」
「何だ」
「今回殺された方は、信勝様と信長様の間を往復していたのですね」
「ああ」
「つまり」
景継は少し考えた。
「次も、お二人の間をつなげる人間かもしれません」
信長の表情が変わる。
信勝も気づいた。
二人の間をつなげる者。
今。
最も頻繁に双方を行き来している人物。
信勝と信長。
両方から話を聞き。
両方に意見を言い。
今回の争いを何度も止めてきた者。
部屋の中が静かになった。
信長と信勝の視線が。
同時に。
景継へ向いた。
「……私ですか」
景継が言った。
信長はすぐに立ち上がった。
「今日から一人で動くな」
「待ってください」
「待たん」
信勝も頷いた。
「兄上に賛成だ」
景継が二人を見る。
「珍しいですね」
「そんなことを言っている場合か!」
信勝に怒られた。
景継は少し考える。
狙われる。
可能性はある。
むしろ。
もし自分が相手なら。
「それなら」
景継が言う。
「利用できます」
二人が嫌そうな顔をした。
信長が聞く。
「何を考えた」
景継の口元が少しだけ上がる。
「私を狙っているなら」
そこで一度だけ言葉を切った。
「狙わせればいい」
信勝が額へ手を当てた。
「お前はなぜ、自分の命が関わると急に楽しそうになる」
「楽しんでいません」
「顔が笑っておる」
景継は自分の頬へ手を当てた。
確かに。
少しだけ笑っていた。
◇◇◇
同じ夜。
清洲から少し離れた場所で、先生の弟子と呼ばれた男が報告を受けていた。
「一人目は失敗です」
「失敗?」
「信長と信勝は互いを疑いませんでした」
男は静かに頷く。
「そうか」
「次へ進みますか」
「いや」
男が少し考える。
「予定を変える」
「なぜです」
「林道景継が現場を見た」
報告役が黙る。
「おそらく、すでに殺害場所が違うことまで気づいている」
「なら、次は」
男は少し笑った。
「向こうも考えている頃だ」
「何を?」
「自分が狙われるかもしれない、と」
報告役の表情が変わる。
「景継を殺すのですか」
男は首を横に振った。
「先生から命が出ている。あの少年は殺すな」
「では?」
男は静かに答えた。
「殺すつもりだと思わせる」
「それで何を」
「見るのだ」
「何をでしょう」
男は遠くに見える清洲の方角へ目を向けた。
「林道景継が」
少しだけ笑う。
「自分の命を餌にして、何を仕掛けてくるのかを」
景継は相手を罠にかけようとしている。
そして相手もまた、景継が罠を仕掛けることを待っている。
互いに相手が動くことを前提に、次の手を考え始めていた。
最初に血が流れたことで、この争いはもう単なる謎解きではなくなっていた。




