第三十二話 餌になる者
信長と信勝の視線が同時に自分へ向いた時、景継はようやく、自分が次の標的になる可能性を本気で考えた。
これまで相手が何をすれば兄弟を争わせられるかという視点で考えてきた。
偽の情報を流す。
母を利用する。
それでも駄目なら、実際に血を流す。
そこまでは読めた。
だが、自分自身が駒になる可能性については深く考えていなかった。
信長と信勝の間を何度も往復し、衝突しそうになるたびに間へ入ってきた。双方から一定の信用を得ている者となれば、今の尾張で景継ほど都合のよい標的は少ない。
「私を殺したように見せれば、どちらにも使えますね」
景継が呟くと、信勝が嫌そうな顔をした。
「自分が殺される話を、そのように冷静にするな」
「まだ殺されると決まったわけではありません」
「だからといって笑う必要もないだろう」
指摘され、景継は自分の口元へ触れた。
確かに少しだけ上がっている。
怖くないわけではない。死にたいわけでもない。
それでも、誰が狙われるか分からない状況より、自分を狙ってくれる方がやりやすい。
待つ場所を決められるからだ。
「景継」
信長が低い声で呼んだ。
「はい」
「何を考えておる」
「私を一人にします」
「却下だ」
答えたのは信勝だった。
「まだ最後まで話していません」
「聞かなくても分かる。お前を一人にして、狙ってきた者を捕らえるつもりだろう」
景継は少し驚いた。
「その通りです」
「お前と話していれば、その程度は分かるようになる」
「それは困りましたね」
「困るのはこちらだ」
信勝は本気で呆れているようだった。
信長はしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「やってみろ」
「兄上!」
「ただし、本当に一人にはせぬ。離れたところに俺の者を置く」
景継は少し考えた。
「近ければ気づかれます」
「分かっておる。それくらいは俺にも考えられる」
「それと弥兵衛は――」
「行きます」
最後まで言う前に、弥兵衛が答えた。
「まだ何も言っていません」
「置いていこうとされたのでしょう」
「……はい」
「却下でございます」
信勝が少し笑った。
「お前の周りには、お前の言うことを聞かぬ者ばかりだな」
景継は信長と弥兵衛を交互に見る。
「最近、そう思い始めました」
「自業自得だ」
信長が言った。
翌日から、景継は意図的に一人で城下を歩くようになった。
もちろん、本当に一人ではない。
かなり離れた場所から信長の者がついている。弥兵衛も町人に姿を変え、景継とは距離を取っていた。
一日目。
何も起きない。
二日目も同じだった。
景継は商人と話し、茶屋へ寄り、夕刻になると清洲へ戻る。
そして三日目。
城下の外れにある小さな茶屋で、景継は一人、団子を食べていた。
客は少ない。
景継は茶を飲みながら周囲を見る。
誰かが見ている気配はない。
三日も自分から隙を見せている。
それでも何も起きない。
「外しましたかね……」
小さく呟いた時だった。
「林道景継様でございますか」
顔を上げる。
六十を過ぎたほどの老人が立っていた。
武士には見えない。
「そうですが」
「こちらを預かっております」
老人が懐から小さな紙を取り出した。
景継は受け取る前に尋ねる。
「誰からです」
「存じませぬ。銭を渡され、林道様がお越しになれば渡すようにと」
「いつです?」
「今日の昼頃でございます」
「どのような方でしたか」
「三十ほどの男で……商人のように見えました」
景継は紙を受け取った。
老人が離れてから開く。
一文だけだった。
『今夜、清洲へ戻らぬ方がよい』
景継は黙って文字を見つめた。
しばらくして、町人姿の弥兵衛が近づいてくる。
「若様」
景継が紙を渡す。
弥兵衛の顔が険しくなった。
「戻りましょう」
「……そうですね」
景継は答えたものの、立ち上がらなかった。
もう一度、紙を見る。
清洲へ戻るな。
自分を殺したいのなら、そんな忠告をする必要はない。
ならば清洲で何か起こすつもりなのか。
そう考えれば、すぐに戻るべきだ。
だが。
景継の指が止まった。
「違う」
「何がです?」
「戻ってほしくないのではありません」
弥兵衛が眉を寄せる。
景継は紙を裏返した。
何もない。
「戻ると思っているんです」
「……若様が?」
「はい」
清洲へ戻るな。
そんなことを書かれれば、景継なら理由を考える。
そして清洲で何か起きると疑い、戻る。
もし相手がそこまで読んでいるとすれば。
「この紙そのものが餌です」
弥兵衛の顔から表情が消えた。
「では、どうします」
景継は少し考えた。
「戻ります」
「結局、戻るのですか」
「はい」
「読まれているのでしょう?」
「だからといって、清洲で何か起きる可能性を無視するわけにはいきません」
景継は立ち上がった。
「ただし、相手の望む通りには動きません」
清洲へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
表面上、城下に変化はない。
騒ぎも起きていない。
景継は城へ直行せず、少し離れた通りで足を止めた。
「弥兵衛」
「はい」
「以前追った男を見張っている者は?」
「まだついております」
「場所を」
ほどなくして報告が届いた。
男は城下の南側にいる。
普段なら夕刻には仕事を終える頃だが、今日はまだ動いているらしい。
景継の目が細くなった。
「行きます」
「やはり?」
「この日に限って動くのなら、見ないわけにはいきません」
二人は距離を取って男を探した。
やがて、通りの先に見覚えのある背中を見つける。
清洲から外へ情報を流していると疑っていた男だ。
男は周囲を確認すると、細い道へ入った。
景継たちも追う。
男は早足になった。
「気づかれましたか」
弥兵衛が囁く。
「かもしれません」
路地を曲がる。
男の姿が一瞬消える。
さらに追うと、城下の外へ続く道を走っている姿が見えた。
「逃げていますな」
「追います」
「若様」
弥兵衛の声が少し強くなる。
「罠かもしれませぬ」
「分かっています」
「ならば」
「だから二人で行きます」
「そういう問題では――」
「一人ではありません」
景継がそう言うと、弥兵衛は何とも言えない顔をした。
「そういうところだけ言葉を使うのは卑怯ですぞ」
「急ぎましょう」
男は清洲から離れ、林の中へ入った。
その頃には日がかなり落ちていた。
景継たちとの距離は少しずつ縮まっている。
やがて男が足を止めた。
行き止まりだった。
前には小さな崖。
左右には木々。
男が振り返る。
弥兵衛はすでに刀へ手をかけていた。
「逃げないのですか」
景継が聞く。
男は荒い息を整えながら、笑った。
「ここまで来れば十分だ」
その言葉に、景継の表情が変わった。
「十分?」
「お前を清洲から離せた」
景継はすぐに周囲を見る。
誰もいない。
襲撃ではない。
最初から、この男自身が。
「あなたが餌だったのですか」
男が笑う。
「気づくのが遅かったな」
弥兵衛が男を取り押さえる。
男はほとんど抵抗しなかった。
それが何よりの証拠だった。
景継は奥歯を噛んだ。
自分を餌にしたつもりだった。
だが相手もまた、自分たちの間者を餌として差し出した。
「清洲で何をするつもりです」
男は答えない。
「末森ですか」
それでも反応はない。
景継は男の顔を見た。
何も知らない可能性もある。
捕まる前提で使われた者に、本当の目的まで教える必要はない。
「弥兵衛」
「はい」
「戻ります」
景継は踵を返した。
だが、清洲へ戻る途中で使者と出会った。
信長の家臣だった。
景継の姿を見つけるなり、馬を止める。
「景継殿!」
「何がありました」
男は息を切らしていた。
「末森から急報です」
景継の表情が変わる。
「何が?」
「昨夜殺された者の件で、新しい証人が現れました」
「証人?」
「はい」
景継の胸に嫌な予感が広がる。
「何を見たと?」
使者は一度息を整えた。
「清洲方の武士が、あの男と言い争っているところを見たと」
景継は黙った。
「信勝様の家臣たちの間で、騒ぎになっております」
やられた。
殺人。
織田木瓜。
そして今度は証人。
偽の証拠だけでは足りないと見て、相手は証言まで加えてきた。
「その証人は今どこです」
「末森に」
景継は振り返った。
捕らえた男を見る。
男は笑っていた。
「これが目的でしたか」
「何の話だ」
「知らなくても構いません」
景継は弥兵衛を見る。
「この人を清洲へ」
「若様は?」
「末森へ行きます」
弥兵衛が即座に首を横に振った。
「私も行きます」
「この人は」
「信長様の者へ引き渡します」
景継は一瞬迷ったが、頷いた。
今度は一人で動くつもりはない。
それを見た弥兵衛が、少しだけ満足そうな顔をした。
同じ頃。
岩倉では報告が届いていた。
「景継が男を捕らえました」
「そうか」
男は驚かなかった。
「予定通りです」
「こちらの者を一人失いましたが」
「構わぬ」
「何も話さぬとは限りません」
「何も知らぬ」
報告役が黙る。
最初から、捕まることまで含めて選ばれた男だった。
「証人は?」
「末森へ入りました」
「信じられますか」
「信じる必要はない」
男は静かに答えた。
「疑う者が増えれば、それでいい」
「しかし信勝本人は」
「信勝を動かす必要もない」
男の指が、末森の周囲をなぞる。
「家臣が疑い、清洲を敵と見始めれば、いずれ信勝も無視できなくなる」
報告役が頷く。
「では次は?」
男はすぐには答えなかった。
清洲。
末森。
そして、その間に置かれた小さな駒。
林道景継。
「あの少年は、すぐ末森へ向かう」
「追いますか」
「必要ない」
男は薄く笑った。
「今度はこちらから動く必要はない」
「では?」
「待つ」
景継は自分を餌にした。
岩倉は間者を餌にした。
そして双方が、一つずつ相手の餌へ食いついた。
だが、まだ終わっていない。
捕らえた者が獲物なのか。
追った者が獲物なのか。
それを決めるのは、この先だった。




