第三十三話 消えた男
末森へ着いた頃には、すでに夜も深くなっていた。
それでも屋敷の中には多くの灯りが残り、普段なら休んでいるはずの家臣たちが廊下を行き交っている。
景継と弥兵衛が案内された広間には、信勝と柴田勝家、それに十人ほどの家臣が集まっていた。
空気は重い。
景継が入った瞬間、何人かの視線が向けられた。
その中には、明らかに好意的ではないものも混じっている。
「来たか」
信勝が言った。
「はい。証人が現れたと聞きました」
「ああ」
信勝の表情は険しい。
家臣の一人が口を開いた。
「街道近くに住む男だそうだ。殺された者が、清洲方と思われる武士と言い争っているところを見たという」
「いつです?」
「遺体が見つかる少し前だ」
景継は男を見る。
「なぜ清洲方だと?」
「織田木瓜をつけていたそうだ」
広間が静かになる。
遺体の手には、織田木瓜の布。
そして今度は、それを身につけた武士を見たという証人。
二つが重なれば、信じる者が出るのも無理はない。
別の家臣が景継を見る。
「ここまで揃っても、清洲の仕業ではないと申されるか」
「はい」
景継は即答した。
男の眉が動く。
「なぜ言い切れる」
「言い切ってはいません」
「今、違うと言ったではないか」
「清洲の仕業だと決めるには足りない、と言っています」
景継は家臣たちを見渡した。
「昨日までは布だけでした。今日は都合よく、それを補う証人が現れた。私はむしろ、昨日より疑っています」
「証拠が増えたのにか?」
「はい」
景継は頷いた。
「出来すぎています」
家臣たちが顔を見合わせる。
信勝が口を開いた。
「景継。その男に直接聞け」
「そのつもりです」
「隣の部屋で待たせている」
景継は立ち上がった。
だが、その時。
廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「信勝様!」
家臣が飛び込んでくる。
「何だ」
「先ほどの男が……」
景継の足が止まる。
「どうしました」
家臣が息を整える。
「おりませぬ」
「……いない?」
「厠へ行きたいと言うので、一人つけて出したのですが、その者を突き飛ばして裏手から逃げたようで」
広間がざわめいた。
景継はすぐに聞く。
「どれくらい前です?」
「ほんの少し前です」
「弥兵衛」
「はい」
「行きます」
信勝も立ち上がった。
「人を出す」
「多すぎると散ります。屋敷の出入口を固めてください。まだ遠くへは行っていないはずです」
「分かった」
景継と弥兵衛は、そのまま広間を飛び出した。
裏手へ回ると、証人についていた家臣が地面に座り込んでいた。
怪我は大したことがない。
「どちらへ?」
景継が聞く。
男はすぐに道を指した。
「北へ。塀を越えて逃げました」
景継は塀の外へ出た。
暗い。
だが月明かりはある。
地面には足跡が残っていた。
弥兵衛が追おうとする。
「待ってください」
景継が止めた。
「どうされました」
景継は足跡を見る。
確かに北へ向かっている。
だが数歩進んだところで、急に深くなっていた。
「走ったのでしょう」
「それなら、その前から深くなるはずです」
景継はしゃがみ込む。
塀を越えた直後は普通に歩いている。
途中から急に強く踏み込んでいる。
まるで。
「ここから走ったように見せた?」
弥兵衛が気づく。
景継は周囲を見る。
道の東側には畑。
西には低い藪。
景継は藪へ近づいた。
枝が一本、折れている。
「こちらです」
「北では?」
「北へ行ったと思わせたのでしょう」
二人は藪へ入った。
少し進むと、踏み倒された草が見つかる。
その先は西へ続いていた。
弥兵衛が苦笑する。
「逃げる方も色々考えますな」
「考えているのは、この人ではないかもしれません」
「教えられた?」
「おそらく」
証言をする。
疑われれば逃げる。
逃げる時には北へ向かったように見せる。
そこまで事前に決められていた可能性がある。
ならば。
どこへ逃げるかも決められている。
二人は西へ進んだ。
しばらくすると、小さな社が見えてくる。
人の気配があった。
弥兵衛が景継の前へ出る。
「若様は後ろへ」
「分かっています」
珍しく素直に従うと、弥兵衛が一瞬振り返った。
「何です?」
「いえ。何でもございません」
「今、驚きましたね」
「静かに」
社の裏から物音がする。
弥兵衛が回り込んだ。
「動くな!」
短い叫び声。
景継も近づく。
男が地面へ押さえつけられていた。
四十前後。
武士には見えない。
広間で話を聞くはずだった証人だ。
「離せ!」
「逃げなければ離していたかもしれません」
景継が言うと、男の顔が強張った。
「なぜ逃げたのです」
「怖くなっただけだ!」
「何が?」
「清洲の武士を見たなどと話せば、殺されるかもしれん!」
「それなら、最初から末森へ来なければいいでしょう」
男が黙る。
景継はしゃがんだ。
「あなたは本当に見たのですか」
「見た」
「どこで?」
男は街道の名を答える。
「いつ?」
「日が沈む少し前だ」
「殺された方は、どちらへ向かっていました?」
「末森だ」
景継は男を見た。
「おかしいですね」
「何がだ」
「あなたは先ほど、末森の家臣には『清洲へ向かっていた』と話したそうですが」
男の表情が止まった。
景継は末森へ来る途中、使者から証言の内容を細かく聞いていた。
男は清洲方の武士と被害者が言い争っており、被害者は清洲へ向かっていたと話していた。
今は逆だ。
「間違えただけだ」
「人が殺された夜に見たことなのに?」
「暗かったから」
「向かっていた方向は暗くても変わりません」
男は答えない。
「もう一つ」
景継は続けた。
「織田木瓜を見たと言いましたね」
「ああ」
「どこについていました?」
「胸だ」
景継は少し首を傾げた。
「先ほど末森では、腰につけていたと話したそうですが」
また違う。
男の顔から血の気が引いていく。
弥兵衛が感心したように景継を見る。
「全部覚えておられたのですか」
「使者の方が細かく教えてくれましたので」
景継は男へ視線を戻した。
「あなたは見ていませんね」
男は黙った。
「誰に言われたのです」
返事はない。
「岩倉ですか」
その瞬間。
ほんのわずかだった。
男の目が動いた。
景継は見逃さなかった。
「……そうですか」
「何も言っていない!」
「はい。言ってはいません」
景継は立ち上がった。
「戻りましょう」
末森へ戻った頃には、家臣たちの苛立ちはさらに強くなっていた。
景継は捕らえた男を広間へ座らせる。
そして、証言が食い違っていることを順番に説明した。
被害者が向かっていた方向。
織田木瓜を見た位置。
逃走したこと。
北へ逃げたように偽装したこと。
「この方の証言を、清洲の仕業だとする証拠にはできません」
先ほど景継へ食ってかかった家臣も、今度は何も言わなかった。
信勝が男を見る。
「誰に命じられた」
男は俯いたまま答えない。
「言わぬか」
沈黙。
景継が信勝を見る。
「おそらく、この方はそれほど多くを知らされていません」
「なぜ分かる」
「昨日、私たちが捕らえた男も同じです」
景継は32話で捕らえた間者について説明した。
指示された場所へ走る。
捕まる。
だが、その先の目的は知らされていない。
「捕まることまで考えているから、必要なことしか教えていないのでしょう」
信勝の顔が険しくなる。
「厄介だな」
「はい」
末端を捕らえても、その先へ届かない。
一つ止めれば、次が来る。
偽書状。
母。
殺人。
偽証人。
そのたびに景継たちは後から動いている。
景継は広間の家臣たちを見た。
今日も、危うく疑いが広がるところだった。
止めることはできた。
だが。
また次が来れば。
「信勝様」
「何だ」
「清洲へ戻ります」
「もうか?」
「はい」
景継は立ち上がった。
「やることができました」
翌朝。
景継は清洲城で信長と向き合っていた。
昨夜のことを聞き終えた信長は、不機嫌そうに腕を組んでいる。
「また岩倉か」
「おそらく」
「なら攻めるぞ」
「まだです」
「またそれか」
信長が睨む。
景継は地図を広げた。
「これまで私たちは、ずっと相手が動いてから止めています」
偽書状が届けば調べる。
人が殺されれば現場を見る。
証人が現れれば嘘を崩す。
「止められています」
景継は言った。
「ですが、次も止められるとは限りません」
信長の表情が変わる。
「なら、どうする」
「こちらから動きます」
信長の口元が上がった。
「やっと攻める気になったか」
「城は攻めません」
笑みが消えた。
「何だと?」
景継は岩倉城の周囲を指した。
「岩倉方についている者を調べます」
「家臣を?」
「家臣だけではありません。周辺の土豪、国人、商人。岩倉とつながっている者すべてです」
「何をする」
「分けます」
景継は紙を三枚置いた。
「信賢様へ心から従っている者」
一枚目。
「仕方なく従っている者」
二枚目。
「条件次第でこちらへ来る者」
三枚目。
信長が紙を見る。
「寝返らせるのか」
「できる者は」
「できぬ者は?」
「孤立させます」
景継は地図へ視線を戻した。
岩倉城だけを見ていてはいけない。
城を支えている人間を見る。
兵を出す者。
米を運ぶ者。
道を守る者。
情報を渡す者。
その一つ一つを減らす。
「敵の兵を一人倒せば、敵が一人減ります」
信長が黙って聞いている。
「ですが敵の一人をこちらへ引き込めれば、敵が一人減って、こちらが一人増える」
景継の指が地図の上を動いた。
「差は二人です」
口にしてから、景継は少しだけ止まった。
まただ。
誰かに教えられたわけではない。
なのに、こう考えることが妙に自然だった。
「だから戦う前に減らします」
「岩倉の兵を?」
「岩倉の味方を、です」
信長が地図を見つめた。
やがて笑う。
「面白い」
「まだ何も始めていません」
「だから面白いのだ」
信長は岩倉城を指で叩いた。
「城を攻める前に、城を一人にするか」
「できる限りは」
「全部寝返らせろ」
「無理です」
「やる前から言うな」
「無理なものは無理です」
信長が笑った。
その夜。
景継は林道家で、岩倉周辺について集めた情報を広げていた。
弥兵衛も向かいに座っている。
名前。
領地。
兵。
血縁。
過去の争い。
岩倉との関係。
調べていくと、同じ岩倉方でも事情がまるで違うことが分かる。
信賢へ忠実な者。
清洲を嫌っている者。
ただ近いから従っている者。
以前の争いで岩倉に恩がある者。
逆に不満を抱えている者。
「同じ敵ではないんですね」
景継が呟く。
弥兵衛が顔を上げる。
「何がです?」
「岩倉方という一つの集まりに見えていました。でも、一人ずつ見れば違います」
景継は一つの名に印をつけた。
岩倉城そのものを攻めれば、この者たちすべてが敵になる。
だが戦になる前なら。
まだ選ばせることができる。
「若様」
「はい」
「楽しそうですな」
景継は顔を上げた。
「そう見えますか」
「はい」
否定しようとして、やめた。
確かに嫌ではない。
誰が動く。
誰が動かない。
誰と誰を離せばいい。
どこを押せば全体が崩れる。
考えているうちに、頭の中で人の動きが盤上の駒のようにつながっていく。
なぜか、よく知っている感覚だった。
景継は一人の名の横に丸をつけた。
弥兵衛が覗き込む。
「この方は?」
「岩倉方ですが、信賢様への忠誠が強いわけではありません。それに、隣の領主と揉めています」
「それが何か?」
「岩倉は、その相手の方を重く扱っている」
弥兵衛が少し考えた。
「不満がある?」
「おそらく」
「こちらへ来ますか」
「分かりません」
景継は筆を置いた。
「だから、聞いてみます」
弥兵衛が目を瞬く。
「直接?」
「まさか」
景継は少し笑った。
「こちらが誘ったと分からないようにします」
「……若様」
「何です?」
「先ほどから、ずいぶん悪い顔をしておりますぞ」
景継は自分の頬へ触れた。
「普通だと思いますが」
「いいえ」
弥兵衛は断言した。
景継はもう一度、地図を見る。
これまでは岩倉が仕掛け、こちらが受けていた。
次は違う。
岩倉が何かを仕掛ける前に、その手を一つずつ減らしていく。
城を攻めるのは最後でいい。
「明日、信長様に話します」
「岩倉を攻めると?」
「いいえ」
景継は丸をつけた名前を指した。
「戦う前に、勝ち始めます」
弥兵衛が地図を見る。
「この方から?」
「はい」
景継は筆を置いた。
「ここから崩します」
岩倉城には、まだ一本の矢も放たれていない。
だが景継の中ではすでに、戦は始まっていた。




