第三十三話 消えた男
林秀貞の屋敷が襲われた翌朝、景継は日の出より早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
むしろ身体は疲れていたため、横になってからはすぐに眠ったはずだった。それでも目が覚めた瞬間、頭の中では昨日までの出来事が勝手に動き始めていた。
林秀貞の屋敷へ入り込んでいた喜平次。
先生と呼ばれる人物につながる者たち。
そして昨夜、自分に選ばせた二つの道。
林秀貞を救うか。
相手を追うか。
景継は前者を選んだ。
その判断を間違えたとは思っていない。
ただ、気になることがあった。
「なぜ、私に選ばせたんだ……」
景継は布団から身体を起こした。
林秀貞を殺して信勝方の仕業に見せる。それが本来の目的だったのであれば、景継が屋敷へ到着した時点で殺してしまえばよかった。
それなのに、相手は殺さなかった。
さらに逃げる際には、自分たちを追えば林秀貞を殺すと条件まで出した。
まるで。
自分がどちらを選ぶのかを知りたかったように。
先生は自分を殺すつもりがない。
弟子を名乗った男もそう言っていた。
では、何を求めている。
景継が考えていると、部屋の外から声がした。
「若様、起きておられますか」
弥兵衛だった。
「起きています」
戸が開く。
弥兵衛は景継を見るなり、少し呆れた顔をした。
「また考えておられたのですか」
「顔に出ています?」
「最近は分かるようになりました」
「困りましたね」
「こちらは助かっております」
弥兵衛は朝食を置きながら、景継の前へ一枚の紙を差し出した。
「それと、先ほど信長様より使いが参りました」
「何かありました?」
「喜平次らしき男が、清洲を出たそうです」
景継の目が変わった。
「いつ?」
「昨夜です。林様の屋敷で騒ぎが起きる少し前には、すでに城下を離れていたようでございます」
景継は紙を開いた。
男の特徴。
服装。
向かった方角。
北西。
「京?」
「その可能性があるとのことです」
景継は紙を見ながら考えた。
清洲から北西へ進めば、美濃を避けながら近江方面へ抜ける道もある。その先には京がある。
また京だった。
「追いますか」
弥兵衛が尋ねる。
景継はすぐには答えなかった。
追いたい。
喜平次を捕らえることができれば、先生へ近づける可能性がある。
だが、あまりにも分かりやすい。
「信長様のところへ行きます」
「朝食は?」
「食べながら考えます」
弥兵衛は少し安心したようだった。
「成長されましたな」
「何の話ですか」
「以前なら食べずに飛び出しておられました」
景継は答えず、黙って箸を取った。
◇◇◇
清洲城へ着くと、信長はすでに起きていた。
部屋へ入った景継を見るなり、地図の上を指す。
「喜平次はこっちへ向かった」
「近江ですか」
「おそらくな」
信長の指は尾張から北西へ伸びている。
「追うか?」
景継は地図を見た。
「追います」
「昨日は追わなかったのにか」
「林様を人質に取られていませんから」
信長が少し笑う。
「何人いる」
「何がです?」
「連れていきたい者だ」
景継は少し考えた。
「弥兵衛。それと五人ほど」
「少ない」
「多いと気づかれます」
「十人」
「七人」
「八人」
景継は信長を見る。
「なぜ値段を決めるような話になっているのですか」
「俺にも分からん」
最終的に八人で決まった。
景継は部屋を出ようとしたが、信長が呼び止める。
「景継」
「はい」
「深追いするな」
意外な言葉だった。
景継は振り返る。
「信長様がそんなことを言うとは思いませんでした」
「昨日、お前が狙われる可能性があると話したばかりだろう」
「狙われてはいませんでした」
「今度は分からん」
信長の表情は笑っていない。
景継は少しだけ考えてから頷いた。
「分かりました」
「本当だろうな」
「できるだけ」
「信用できん」
「では、なぜ行かせるのです」
信長は少し笑った。
「止めても行くだろう」
景継も否定しなかった。
◇◇◇
喜平次を追う一行は、その日の午前中に清洲を出た。
景継、弥兵衛、そして信長から借りた八人。
相手が一人なのか、複数なのかは分からない。
分かっているのは、喜平次らしき男が北西へ向かったことだけだった。
途中の村や宿で聞き込みをしながら進む。
三十代。
中肉中背。
旅装。
一人。
それだけでは見つけるのは難しい。
だが幸い、喜平次はかなり急いでいたらしい。
「昨日、そのような男が馬を替えていった」
最初の宿で話が聞けた。
「どちらへ?」
景継が尋ねる。
宿の主人が道を指す。
「北へ向かわれました」
「一人でした?」
「はい」
「誰かと話していましたか」
「特には」
景継は礼を言い、再び馬へ乗った。
その後も二ヶ所で目撃情報が見つかった。
どうやら間違いなく、この道を通っている。
「本当に京へ向かっているようですな」
弥兵衛が言う。
「そうですね」
「嬉しくなさそうですが」
「簡単すぎるんです」
弥兵衛が景継を見る。
「何がです?」
「見つかりすぎています」
景継は馬を進めながら答えた。
逃げる人間が。
自分の姿を隠そうとしている人間が。
これほど簡単に目撃されるだろうか。
しかも喜平次は、林秀貞の屋敷へ数ヶ月入り込んでいた。
ただの間抜けとは思えない。
「わざと?」
「可能性はあります」
「では、追うのをやめますか」
景継は少し考えた。
「もう少しだけ」
弥兵衛が大きく息を吐く。
「その言葉は嫌な予感がいたします」
◇◇◇
昼を過ぎた頃、一行は小さな宿場へ着いた。
そこで新しい話が見つかった。
「その男なら、少し前に通ったぞ」
店の主人が答える。
「どれくらい前です?」
「一刻ほどだ」
近い。
景継たちは互いに顔を見合わせた。
「馬でしたか」
「ああ。かなり急いでおった」
「この先へ?」
「そうだ」
主人が指した先には二つの道がある。
一つは北。
もう一つは西へ向かう。
「どちらへ?」
「西だ」
景継は地図を思い出した。
西なら、さらに近江へ近づく。
一行はすぐに出発した。
距離は縮まっている。
一刻。
うまくいけば今日中に追いつける。
そのはずだった。
◇◇◇
異変に気づいたのは、弥兵衛だった。
「若様」
「何です?」
「馬の跡がございます」
道の脇。
草の中へ入っていく蹄の跡がある。
街道から外れている。
景継は馬を降りた。
「何頭?」
信長から借りた者の一人が地面を見る。
「一頭かと」
「いつ頃?」
「まだ新しいです」
景継は街道の先を見る。
喜平次かもしれない。
だが。
「罠かもしれません」
弥兵衛が言った。
「はい」
「どうします」
景継は少し考えた。
八人いる。
ここで全員が入る必要はない。
「四人残ってください。何かあればすぐに知らせて」
「若様は?」
「見ます」
弥兵衛が予想していたように頷いた。
景継、弥兵衛、そして四人が草の中へ入った。
しばらく進むと、小さな林がある。
馬の跡はその中へ続いていた。
さらに進む。
やがて馬が見えた。
木につながれている。
「誰もいませんね」
景継が近づく。
馬には荷が残っている。
逃げる途中で捨てたとは思えない。
「周囲を」
弥兵衛が家臣たちへ指示する。
景継は馬の近くを見る。
草が倒れている。
何かを引きずったような跡。
その先。
「若様」
弥兵衛の声が低くなった。
少し離れた木の根元に。
男が倒れていた。
◇◇◇
景継はゆっくり近づいた。
顔を見る。
林秀貞から聞いていた特徴と一致する。
「喜平次……」
返事はない。
弥兵衛が首元へ手を当てる。
しばらくして首を横に振った。
「死んでおります」
景継は黙った。
遅かった。
いや。
最初から。
「いつ頃です」
「正確には分かりませぬが、それほど時間は経っていないかと」
景継は遺体を見る。
首に細い傷がある。
刃物。
かなり鋭いもの。
争った跡はほとんどない。
「知っている相手に?」
弥兵衛が言う。
「かもしれません」
景継は周囲を見る。
馬。
荷。
喜平次。
それだけ。
荷を調べる。
着替え。
銭。
食料。
そして。
一通の書状。
「若様」
弥兵衛が警戒する。
景継は書状を開いた。
中には短い文章が書かれていた。
『これ以上、追う必要はない』
それだけだった。
景継はしばらく紙を見ていた。
「見られていた」
「我々が来ることを?」
「はい」
喜平次を逃がした。
わざと目撃させた。
自分たちに追わせた。
そして。
ここで道を切った。
景継は周囲を見渡す。
「まだ近くにいるかもしれません」
全員が刀へ手をかけた。
だが何も起こらない。
鳥の声。
風。
木々が揺れる音。
それだけだった。
「戻りますか」
弥兵衛が聞く。
景継は答えず、喜平次の遺体を見た。
先生へ近づく道が。
また消えた。
◇◇◇
その時。
景継は遺体の右手が不自然に握られていることに気づいた。
「待ってください」
しゃがみ込む。
指を開く。
中には小さな紙片があった。
先ほどの書状とは違う。
かなり強く握っていたらしく、血と汗で汚れている。
「殺される前に握った?」
弥兵衛が言う。
景継は紙を開く。
文字がある。
だが全部は読めない。
『……倉』
その下。
『……月』
そして最後に。
『北……』
それだけ。
景継は眉を寄せた。
「何でしょう」
弥兵衛が聞く。
「分かりません」
倉。
月。
北。
誰かの名前か。
場所か。
あるいはまったく別のものか。
「喜平次自身が書いたのでしょうか」
「それも分かりません」
景継は紙を懐へ入れた。
少なくとも。
先生側が用意した『追う必要はない』という書状とは別のものだ。
喜平次が最後に残した可能性がある。
なら。
完全に道が切れたわけではない。
◇◇◇
一行は喜平次の遺体を近くの村へ預け、清洲へ戻ることにした。
帰り道。
景継はほとんど話さなかった。
喜平次はなぜ殺された。
口封じ。
それが一番自然だ。
だが、それならなぜ逃がした。
林秀貞の屋敷から逃げた時点ですぐに殺せばいい。
わざわざ景継に追わせてから殺した。
つまり。
喜平次の死そのものも。
自分へ見せるため。
景継は馬上で目を閉じた。
「若様」
弥兵衛が声をかける。
「はい」
「また考えすぎておられます」
「そうかもしれません」
「先生とやらは、若様に何をさせたいのでしょうな」
景継は目を開けた。
それが分からない。
殺したいわけではない。
味方にしたいようにも見えない。
自分を利用したいのか。
試したいのか。
あるいは。
「何かを確認したいのかもしれません」
「確認?」
景継は自分でも、なぜその言葉が出たのか分からなかった。
「私が何者なのか」
弥兵衛の表情が変わる。
景継はすぐに首を横に振った。
「今のは忘れてください」
「無理でございます」
「ですよね」
少しだけ笑った。
だが景継の胸には、その言葉が残った。
私が何者なのか。
自分よりも。
先生の方が知っているのかもしれない。
◇◇◇
清洲へ戻った頃には、夜になっていた。
景継はすぐに信長へ報告した。
喜平次が殺されていたこと。
『これ以上、追う必要はない』という書状。
そして最後に握っていた紙片。
信長は紙を受け取り、灯りへ近づけた。
「倉。月。北」
「はい」
「意味は?」
「分かりません」
信長はしばらく考える。
「岩倉の倉ではないか」
景継も考えていた。
「可能性はあります」
「月は?」
「分かりません」
「北は岩倉が清洲の北だからでは?」
「それもあり得ます」
信長は景継を見る。
「なら岩倉だ」
「早いです」
「三つのうち二つが合う」
「一つは分かっていません」
「十分だろう」
「十分ではありません」
いつものやり取りだった。
信長は不満そうだったが、紙を景継へ返した。
「では、どうする」
景継は地図を広げた。
清洲。
末森。
岩倉。
これまで先生側は、信長と信勝を争わせようとしていた。
しかし。
昨夜から何かが変わっている。
林秀貞を殺す策も途中でやめた。
景継に選択をさせ。
喜平次を逃がし。
最後には殺した。
「岩倉を調べます」
信長が笑う。
「結局同じではないか」
「攻めるとは言っていません」
「俺は攻めてもよいぞ」
「まだ駄目です」
信長は地図上の岩倉へ指を置いた。
「いずれ戦う相手だ」
「それは分かっています」
「なら早い方がよい」
景継は信長を見る。
「勝てますか」
信長の表情が変わった。
「勝つ」
「聞き方を変えます。今戦うのと、半年後に戦うのと、どちらが楽に勝てますか」
信長が黙る。
景継は続ける。
「敵が戦わせようとしている時に、わざわざ戦う必要はありません」
「敵が望んでいるから戦わぬ?」
「違います」
景継は地図を見る。
「こちらが望む時に戦います」
その言葉を口にした瞬間。
また。
妙な感覚があった。
敵が選んだ場所で戦わない。
敵が選んだ時に戦わない。
戦う場所も。
時も。
できる限りこちらが決める。
それが当然だと。
自分の中の何かが知っている。
信長は景継を見て、少し笑った。
「なら決めろ」
「何をです」
「いつ岩倉と戦うか」
景継が驚く。
「私が?」
「お前が今は駄目だと言ったのだ。なら、いつならよいか考えろ」
「それは信長様が決めることでしょう」
「最後は俺が決める」
信長は地図を景継の前へ押した。
「だからお前は、俺が決められるだけのものを持ってこい」
景継は地図を見た。
兵。
地形。
岩倉方の家臣。
周辺の国人。
信勝との関係。
そして美濃。
考えることは多い。
だが。
嫌ではなかった。
「分かりました」
景継は答えた。
「調べます」
◇◇◇
それから十日ほど。
先生側から目立った動きはなくなった。
偽書状も届かない。
誰かが襲われることもない。
喜平次の紙片についても、新しい情報は見つからなかった。
代わりに景継は、岩倉について徹底的に調べ始めた。
兵の数。
城の位置。
食料。
周辺の道。
味方につく可能性のある土豪。
逆に、信長側から離れる可能性のある者。
そして。
岩倉織田家の内部。
調べれば調べるほど、一つのことが分かってきた。
岩倉は強い。
だが、一枚岩ではない。
「ここですね」
ある夜。
景継は地図の一点を指した。
弥兵衛が覗き込む。
「何がです?」
「崩すなら」
岩倉城そのものではない。
その周囲。
戦になる前に。
切り離せる者がいる。
味方にできる者がいる。
戦わずに減らせる兵がいる。
「若様」
弥兵衛が景継を見る。
「何です?」
「楽しそうですな」
景継は少し考えた。
確かに。
先生を追っている時とは違う。
相手の兵を調べ。
地形を見て。
誰を動かせば戦が変わるのかを考える。
その作業が。
なぜか、とても馴染む。
「そう見えますか」
「はい」
景継は地図へ視線を戻した。
「なら」
指を動かす。
岩倉城の周囲から。
一つずつ。
駒を取り除いていく。
「城を攻める前に、城を孤立させます」
弥兵衛が黙る。
景継はさらに地図を見る。
「正面から戦う必要はありません。周りから削ればいい。敵の味方を減らして、こちらの味方を増やす。それでも戦うというなら、最後に城を取る」
自分の口から出てくる言葉に迷いがなかった。
そして。
景継自身は気づいていなかった。
今、彼が考えている方法は。
幼い頃から信長のそばで覚えたものだけではない。
もっと昔。
もっと遠い場所で。
何度も敵を追い詰め。
何度も人を動かし。
最後には一つの国そのものを奪う流れを作った男が、得意としていた考え方だった。
だが。
その男の名を。
景継はまだ知らない。
景継は地図から顔を上げた。
「明日、信長様に話します」
「岩倉を攻めると?」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「戦う前に、勝ち始めます」
翌朝。
景継が持ってきた策を聞いた信長は、しばらく地図を見つめた後。
ゆっくり笑った。
尾張を一つにするための戦いが。
ようやく動き始めようとしていた。




