表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/85

第三十三話 消えた男


林秀貞の屋敷が襲われた翌朝、景継は日の出より早く目を覚ました。


眠れなかったわけではない。


むしろ身体は疲れていたため、横になってからはすぐに眠ったはずだった。それでも目が覚めた瞬間、頭の中では昨日までの出来事が勝手に動き始めていた。


林秀貞の屋敷へ入り込んでいた喜平次。


先生と呼ばれる人物につながる者たち。


そして昨夜、自分に選ばせた二つの道。


林秀貞を救うか。


相手を追うか。


景継は前者を選んだ。


その判断を間違えたとは思っていない。


ただ、気になることがあった。


「なぜ、私に選ばせたんだ……」


景継は布団から身体を起こした。


林秀貞を殺して信勝方の仕業に見せる。それが本来の目的だったのであれば、景継が屋敷へ到着した時点で殺してしまえばよかった。


それなのに、相手は殺さなかった。


さらに逃げる際には、自分たちを追えば林秀貞を殺すと条件まで出した。


まるで。


自分がどちらを選ぶのかを知りたかったように。


先生は自分を殺すつもりがない。


弟子を名乗った男もそう言っていた。


では、何を求めている。


景継が考えていると、部屋の外から声がした。


「若様、起きておられますか」


弥兵衛だった。


「起きています」


戸が開く。


弥兵衛は景継を見るなり、少し呆れた顔をした。


「また考えておられたのですか」


「顔に出ています?」


「最近は分かるようになりました」


「困りましたね」


「こちらは助かっております」


弥兵衛は朝食を置きながら、景継の前へ一枚の紙を差し出した。


「それと、先ほど信長様より使いが参りました」


「何かありました?」


「喜平次らしき男が、清洲を出たそうです」


景継の目が変わった。


「いつ?」


「昨夜です。林様の屋敷で騒ぎが起きる少し前には、すでに城下を離れていたようでございます」


景継は紙を開いた。


男の特徴。


服装。


向かった方角。


北西。


「京?」


「その可能性があるとのことです」


景継は紙を見ながら考えた。


清洲から北西へ進めば、美濃を避けながら近江方面へ抜ける道もある。その先には京がある。


また京だった。


「追いますか」


弥兵衛が尋ねる。


景継はすぐには答えなかった。


追いたい。


喜平次を捕らえることができれば、先生へ近づける可能性がある。


だが、あまりにも分かりやすい。


「信長様のところへ行きます」


「朝食は?」


「食べながら考えます」


弥兵衛は少し安心したようだった。


「成長されましたな」


「何の話ですか」


「以前なら食べずに飛び出しておられました」


景継は答えず、黙って箸を取った。


◇◇◇


清洲城へ着くと、信長はすでに起きていた。


部屋へ入った景継を見るなり、地図の上を指す。


「喜平次はこっちへ向かった」


「近江ですか」


「おそらくな」


信長の指は尾張から北西へ伸びている。


「追うか?」


景継は地図を見た。


「追います」


「昨日は追わなかったのにか」


「林様を人質に取られていませんから」


信長が少し笑う。


「何人いる」


「何がです?」


「連れていきたい者だ」


景継は少し考えた。


「弥兵衛。それと五人ほど」


「少ない」


「多いと気づかれます」


「十人」


「七人」


「八人」


景継は信長を見る。


「なぜ値段を決めるような話になっているのですか」


「俺にも分からん」


最終的に八人で決まった。


景継は部屋を出ようとしたが、信長が呼び止める。


「景継」


「はい」


「深追いするな」


意外な言葉だった。


景継は振り返る。


「信長様がそんなことを言うとは思いませんでした」


「昨日、お前が狙われる可能性があると話したばかりだろう」


「狙われてはいませんでした」


「今度は分からん」


信長の表情は笑っていない。


景継は少しだけ考えてから頷いた。


「分かりました」


「本当だろうな」


「できるだけ」


「信用できん」


「では、なぜ行かせるのです」


信長は少し笑った。


「止めても行くだろう」


景継も否定しなかった。


◇◇◇


喜平次を追う一行は、その日の午前中に清洲を出た。


景継、弥兵衛、そして信長から借りた八人。


相手が一人なのか、複数なのかは分からない。


分かっているのは、喜平次らしき男が北西へ向かったことだけだった。


途中の村や宿で聞き込みをしながら進む。


三十代。


中肉中背。


旅装。


一人。


それだけでは見つけるのは難しい。


だが幸い、喜平次はかなり急いでいたらしい。


「昨日、そのような男が馬を替えていった」


最初の宿で話が聞けた。


「どちらへ?」


景継が尋ねる。


宿の主人が道を指す。


「北へ向かわれました」


「一人でした?」


「はい」


「誰かと話していましたか」


「特には」


景継は礼を言い、再び馬へ乗った。


その後も二ヶ所で目撃情報が見つかった。


どうやら間違いなく、この道を通っている。


「本当に京へ向かっているようですな」


弥兵衛が言う。


「そうですね」


「嬉しくなさそうですが」


「簡単すぎるんです」


弥兵衛が景継を見る。


「何がです?」


「見つかりすぎています」


景継は馬を進めながら答えた。


逃げる人間が。


自分の姿を隠そうとしている人間が。


これほど簡単に目撃されるだろうか。


しかも喜平次は、林秀貞の屋敷へ数ヶ月入り込んでいた。


ただの間抜けとは思えない。


「わざと?」


「可能性はあります」


「では、追うのをやめますか」


景継は少し考えた。


「もう少しだけ」


弥兵衛が大きく息を吐く。


「その言葉は嫌な予感がいたします」


◇◇◇


昼を過ぎた頃、一行は小さな宿場へ着いた。


そこで新しい話が見つかった。


「その男なら、少し前に通ったぞ」


店の主人が答える。


「どれくらい前です?」


「一刻ほどだ」


近い。


景継たちは互いに顔を見合わせた。


「馬でしたか」


「ああ。かなり急いでおった」


「この先へ?」


「そうだ」


主人が指した先には二つの道がある。


一つは北。


もう一つは西へ向かう。


「どちらへ?」


「西だ」


景継は地図を思い出した。


西なら、さらに近江へ近づく。


一行はすぐに出発した。


距離は縮まっている。


一刻。


うまくいけば今日中に追いつける。


そのはずだった。


◇◇◇


異変に気づいたのは、弥兵衛だった。


「若様」


「何です?」


「馬の跡がございます」


道の脇。


草の中へ入っていく蹄の跡がある。


街道から外れている。


景継は馬を降りた。


「何頭?」


信長から借りた者の一人が地面を見る。


「一頭かと」


「いつ頃?」


「まだ新しいです」


景継は街道の先を見る。


喜平次かもしれない。


だが。


「罠かもしれません」


弥兵衛が言った。


「はい」


「どうします」


景継は少し考えた。


八人いる。


ここで全員が入る必要はない。


「四人残ってください。何かあればすぐに知らせて」


「若様は?」


「見ます」


弥兵衛が予想していたように頷いた。


景継、弥兵衛、そして四人が草の中へ入った。


しばらく進むと、小さな林がある。


馬の跡はその中へ続いていた。


さらに進む。


やがて馬が見えた。


木につながれている。


「誰もいませんね」


景継が近づく。


馬には荷が残っている。


逃げる途中で捨てたとは思えない。


「周囲を」


弥兵衛が家臣たちへ指示する。


景継は馬の近くを見る。


草が倒れている。


何かを引きずったような跡。


その先。


「若様」


弥兵衛の声が低くなった。


少し離れた木の根元に。


男が倒れていた。


◇◇◇


景継はゆっくり近づいた。


顔を見る。


林秀貞から聞いていた特徴と一致する。


「喜平次……」


返事はない。


弥兵衛が首元へ手を当てる。


しばらくして首を横に振った。


「死んでおります」


景継は黙った。


遅かった。


いや。


最初から。


「いつ頃です」


「正確には分かりませぬが、それほど時間は経っていないかと」


景継は遺体を見る。


首に細い傷がある。


刃物。


かなり鋭いもの。


争った跡はほとんどない。


「知っている相手に?」


弥兵衛が言う。


「かもしれません」


景継は周囲を見る。


馬。


荷。


喜平次。


それだけ。


荷を調べる。


着替え。


銭。


食料。


そして。


一通の書状。


「若様」


弥兵衛が警戒する。


景継は書状を開いた。


中には短い文章が書かれていた。


『これ以上、追う必要はない』


それだけだった。


景継はしばらく紙を見ていた。


「見られていた」


「我々が来ることを?」


「はい」


喜平次を逃がした。


わざと目撃させた。


自分たちに追わせた。


そして。


ここで道を切った。


景継は周囲を見渡す。


「まだ近くにいるかもしれません」


全員が刀へ手をかけた。


だが何も起こらない。


鳥の声。


風。


木々が揺れる音。


それだけだった。


「戻りますか」


弥兵衛が聞く。


景継は答えず、喜平次の遺体を見た。


先生へ近づく道が。


また消えた。


◇◇◇


その時。


景継は遺体の右手が不自然に握られていることに気づいた。


「待ってください」


しゃがみ込む。


指を開く。


中には小さな紙片があった。


先ほどの書状とは違う。


かなり強く握っていたらしく、血と汗で汚れている。


「殺される前に握った?」


弥兵衛が言う。


景継は紙を開く。


文字がある。


だが全部は読めない。


『……倉』


その下。


『……月』


そして最後に。


『北……』


それだけ。


景継は眉を寄せた。


「何でしょう」


弥兵衛が聞く。


「分かりません」


倉。


月。


北。


誰かの名前か。


場所か。


あるいはまったく別のものか。


「喜平次自身が書いたのでしょうか」


「それも分かりません」


景継は紙を懐へ入れた。


少なくとも。


先生側が用意した『追う必要はない』という書状とは別のものだ。


喜平次が最後に残した可能性がある。


なら。


完全に道が切れたわけではない。


◇◇◇


一行は喜平次の遺体を近くの村へ預け、清洲へ戻ることにした。


帰り道。


景継はほとんど話さなかった。


喜平次はなぜ殺された。


口封じ。


それが一番自然だ。


だが、それならなぜ逃がした。


林秀貞の屋敷から逃げた時点ですぐに殺せばいい。


わざわざ景継に追わせてから殺した。


つまり。


喜平次の死そのものも。


自分へ見せるため。


景継は馬上で目を閉じた。


「若様」


弥兵衛が声をかける。


「はい」


「また考えすぎておられます」


「そうかもしれません」


「先生とやらは、若様に何をさせたいのでしょうな」


景継は目を開けた。


それが分からない。


殺したいわけではない。


味方にしたいようにも見えない。


自分を利用したいのか。


試したいのか。


あるいは。


「何かを確認したいのかもしれません」


「確認?」


景継は自分でも、なぜその言葉が出たのか分からなかった。


「私が何者なのか」


弥兵衛の表情が変わる。


景継はすぐに首を横に振った。


「今のは忘れてください」


「無理でございます」


「ですよね」


少しだけ笑った。


だが景継の胸には、その言葉が残った。


私が何者なのか。


自分よりも。


先生の方が知っているのかもしれない。


◇◇◇


清洲へ戻った頃には、夜になっていた。


景継はすぐに信長へ報告した。


喜平次が殺されていたこと。


『これ以上、追う必要はない』という書状。


そして最後に握っていた紙片。


信長は紙を受け取り、灯りへ近づけた。


「倉。月。北」


「はい」


「意味は?」


「分かりません」


信長はしばらく考える。


「岩倉の倉ではないか」


景継も考えていた。


「可能性はあります」


「月は?」


「分かりません」


「北は岩倉が清洲の北だからでは?」


「それもあり得ます」


信長は景継を見る。


「なら岩倉だ」


「早いです」


「三つのうち二つが合う」


「一つは分かっていません」


「十分だろう」


「十分ではありません」


いつものやり取りだった。


信長は不満そうだったが、紙を景継へ返した。


「では、どうする」


景継は地図を広げた。


清洲。


末森。


岩倉。


これまで先生側は、信長と信勝を争わせようとしていた。


しかし。


昨夜から何かが変わっている。


林秀貞を殺す策も途中でやめた。


景継に選択をさせ。


喜平次を逃がし。


最後には殺した。


「岩倉を調べます」


信長が笑う。


「結局同じではないか」


「攻めるとは言っていません」


「俺は攻めてもよいぞ」


「まだ駄目です」


信長は地図上の岩倉へ指を置いた。


「いずれ戦う相手だ」


「それは分かっています」


「なら早い方がよい」


景継は信長を見る。


「勝てますか」


信長の表情が変わった。


「勝つ」


「聞き方を変えます。今戦うのと、半年後に戦うのと、どちらが楽に勝てますか」


信長が黙る。


景継は続ける。


「敵が戦わせようとしている時に、わざわざ戦う必要はありません」


「敵が望んでいるから戦わぬ?」


「違います」


景継は地図を見る。


「こちらが望む時に戦います」


その言葉を口にした瞬間。


また。


妙な感覚があった。


敵が選んだ場所で戦わない。


敵が選んだ時に戦わない。


戦う場所も。


時も。


できる限りこちらが決める。


それが当然だと。


自分の中の何かが知っている。


信長は景継を見て、少し笑った。


「なら決めろ」


「何をです」


「いつ岩倉と戦うか」


景継が驚く。


「私が?」


「お前が今は駄目だと言ったのだ。なら、いつならよいか考えろ」


「それは信長様が決めることでしょう」


「最後は俺が決める」


信長は地図を景継の前へ押した。


「だからお前は、俺が決められるだけのものを持ってこい」


景継は地図を見た。


兵。


地形。


岩倉方の家臣。


周辺の国人。


信勝との関係。


そして美濃。


考えることは多い。


だが。


嫌ではなかった。


「分かりました」


景継は答えた。


「調べます」


◇◇◇


それから十日ほど。


先生側から目立った動きはなくなった。


偽書状も届かない。


誰かが襲われることもない。


喜平次の紙片についても、新しい情報は見つからなかった。


代わりに景継は、岩倉について徹底的に調べ始めた。


兵の数。


城の位置。


食料。


周辺の道。


味方につく可能性のある土豪。


逆に、信長側から離れる可能性のある者。


そして。


岩倉織田家の内部。


調べれば調べるほど、一つのことが分かってきた。


岩倉は強い。


だが、一枚岩ではない。


「ここですね」


ある夜。


景継は地図の一点を指した。


弥兵衛が覗き込む。


「何がです?」


「崩すなら」


岩倉城そのものではない。


その周囲。


戦になる前に。


切り離せる者がいる。


味方にできる者がいる。


戦わずに減らせる兵がいる。


「若様」


弥兵衛が景継を見る。


「何です?」


「楽しそうですな」


景継は少し考えた。


確かに。


先生を追っている時とは違う。


相手の兵を調べ。


地形を見て。


誰を動かせば戦が変わるのかを考える。


その作業が。


なぜか、とても馴染む。


「そう見えますか」


「はい」


景継は地図へ視線を戻した。


「なら」


指を動かす。


岩倉城の周囲から。


一つずつ。


駒を取り除いていく。


「城を攻める前に、城を孤立させます」


弥兵衛が黙る。


景継はさらに地図を見る。


「正面から戦う必要はありません。周りから削ればいい。敵の味方を減らして、こちらの味方を増やす。それでも戦うというなら、最後に城を取る」


自分の口から出てくる言葉に迷いがなかった。


そして。


景継自身は気づいていなかった。


今、彼が考えている方法は。


幼い頃から信長のそばで覚えたものだけではない。


もっと昔。


もっと遠い場所で。


何度も敵を追い詰め。


何度も人を動かし。


最後には一つの国そのものを奪う流れを作った男が、得意としていた考え方だった。


だが。


その男の名を。


景継はまだ知らない。


景継は地図から顔を上げた。


「明日、信長様に話します」


「岩倉を攻めると?」


「いいえ」


景継は首を横に振った。


「戦う前に、勝ち始めます」


翌朝。


景継が持ってきた策を聞いた信長は、しばらく地図を見つめた後。


ゆっくり笑った。


尾張を一つにするための戦いが。


ようやく動き始めようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ