第三十四話 戦う前に奪う
翌朝、景継は信長の前に一枚の地図を広げた。
描かれているのは尾張北部。
中央には岩倉城があり、その周囲にはいくつもの村や館、街道が記されている。景継はこの十日間で集めた情報を、地図の上へ書き加えていた。
信長は地図を一通り眺めた後、景継を見る。
「それで?」
「岩倉を攻める前に、三つやります」
「三つ?」
「はい」
景継は岩倉城の周囲を指した。
「味方を減らす。食を減らす。目を減らす」
信長の眉が動いた。
「順番に話せ」
「まず味方です」
景継は岩倉方についている国人や土豪の名をいくつか挙げた。
すべてが織田信賢へ強い忠誠を持っているわけではない。
長く岩倉方に属しているから。
領地が近いから。
清洲方につけば報復されると思っているから。
理由は様々だった。
「この者たちを、こちらへ引きます」
信長が鼻で笑う。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「ならどうする」
「こちらにつけとは言いません」
信長が景継を見る。
「では何と言う」
「戦が始まっても、動かないでほしいと」
信長の表情が変わった。
景継は続ける。
「最初から裏切れと言えば断られます。ですが、兵を出さず様子を見るだけなら受け入れる者はいるでしょう」
「岩倉からすれば同じ裏切りだ」
「だから表向きは裏切りません。兵を集めるのが遅れた。病人が出た。領内で問題が起きた。理由はいくらでも作れます」
信長が少し笑った。
「悪い顔をするようになったな」
「普通です」
「十三の子供はそのようなことを考えぬ」
「では信長様が考えたことにしてください」
「それはよい」
「よくありません」
信長が笑った。
景継は次の場所を指す。
「二つ目。食です」
岩倉城へ物資を運び込む道。
特に米。
戦が始まれば、岩倉方も当然兵糧を集める。
なら、その前に。
「こちらが買います」
「米を?」
「はい」
「全部か」
「できるだけ」
信長は少し考えた。
「高くなるぞ」
「戦になってから兵糧を集めるよりは安いです。それに、こちらが買った分だけ岩倉は集めにくくなります」
「商人が岩倉にも売れば同じだろう」
「だから先に話をします」
熱田。
津島。
尾張の商いに関わる者たち。
景継はこれまで先生を追う過程で、多くの商人の動きを調べていた。
その経験が別の形で使える。
「売るなと命じるのか」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「こちらへ売った方が得だと思わせます」
「どうやって」
「代金を早く払う。まとめて買う。運ぶ途中の安全を保証する。戦が終わった後の商いも認める」
信長はしばらく黙った。
「金がいるな」
「はい」
「俺の金だぞ」
「尾張を取るのでしょう?」
「お前は人の金だと思って簡単に言う」
「信長様の戦ですから」
「腹が立つな」
そう言いながらも、信長は否定しなかった。
「最後は?」
「目を減らします」
景継は岩倉から清洲方面へ伸びる道を指した。
「岩倉方は当然、こちらを探らせています」
「こちらも探っておる」
「はい。だから、こちらが何をしているのか分からなくします」
「どうする」
景継は少し考えた。
「嘘を流します」
信長が笑った。
「先生と同じではないか」
その言葉に、景継は一瞬だけ黙った。
確かにそうだ。
相手も情報を使った。
偽書状を使い、人を動かした。
景継が今からやろうとしていることも、根本はそれほど違わない。
だが。
「違います」
「何が」
「私は、味方同士を殺し合わせるためには使いません」
信長は少しだけ景継を見た。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
最初に動いたのは、柴田勝家だった。
景継が選んだ三人の土豪へ、秘密裏に使者を送る。
条件は単純だった。
今すぐ清洲へ味方しなくてもいい。
ただし岩倉と清洲が戦になった時、最初の三日は動かない。
それだけ。
見返りとして、信長が勝った場合は現在の領地を認める。
三人のうち一人はすぐに断った。
一人は返事を保留した。
そして一人。
丹羽郡に小さな領地を持つ男が、話を聞くと言ってきた。
景継は信長と相談し、その男と直接会うことになった。
◇◇◇
会談は清洲でも岩倉でもない、小さな寺で行われた。
相手は四十ほどの武士だった。
名を長谷川重房という。
大きな勢力ではない。
動かせる兵は多くても百五十ほど。
だが、場所が重要だった。
重房の領地は岩倉城の南西にあり、清洲から岩倉へ向かう道の一つに近い。
信長は来ていない。
景継と柴田勝家。
そして数人の供だけだった。
重房は景継を見るなり、不満そうな顔をした。
「織田殿は来られぬのか」
勝家が答えようとしたが、景継が先に口を開いた。
「来ません」
重房の眉が動く。
「儂を軽く見ておるのか」
「いいえ」
「ならばなぜだ」
景継は重房を見る。
「信長様が来れば、話が大きくなります」
「どういう意味だ」
「今日は味方になってほしいという話ではありませんから」
重房は少し黙った。
「では何だ」
「何もしないでください」
重房の顔に困惑が浮かぶ。
「何?」
「岩倉と清洲が戦になった時、三日だけ兵を出さないでいただきたい」
「それは信賢様を裏切れということではないか」
「違います」
「何が違う」
「四日目に岩倉が勝ちそうなら、兵を出せばいいでしょう」
勝家が横で景継を見る。
聞いていた話より、さらに露骨だった。
重房も目を細める。
「清洲が負けても構わぬと?」
「負けるつもりはありません」
「なら、なぜそのようなことを言う」
「重房様にとって大切なのは、どちらが正しいかではないでしょう」
部屋の空気が変わった。
重房の家臣が不快そうな顔をする。
だが景継は続けた。
「領地と家を守ることではありませんか」
重房は何も言わない。
景継は地図を出した。
「岩倉が勝てば、今まで通りです。清洲が勝った場合も、三日動かなければ領地はそのまま認めます」
「信用できると思うか」
「思わなくて構いません」
「何?」
「信じてほしいとは言っていません」
景継は淡々と答えた。
「どちらが重房様にとって危険が少ないか、それだけ考えてください」
重房は長い間、景継を見ていた。
「子供とは思えぬな」
また言われた。
景継は最近、その言葉に慣れ始めていた。
「よく言われます」
「林道家の嫡男だったな」
「はい」
「もし清洲が負ければ、お前の家も危ういぞ」
「その時は私も困ります」
重房が少し笑った。
「怖くないのか」
「怖いですよ」
景継は普通に答えた。
「だから、負けにくくするためにここへ来ました」
その言葉を聞いた重房は、初めて大きく笑った。
「面白い」
返事はその場ではもらえなかった。
だが三日後。
長谷川重房から秘密裏に返書が届いた。
戦が始まっても三日間、兵を動かさない。
最初の一人だった。
◇◇◇
「一人」
景継は地図に印をつけた。
弥兵衛が横から覗く。
「百五十ですか」
「実際に出せるのは百前後でしょう」
「それだけ?」
「十分です」
景継は別の場所を指した。
「百人を味方にするのと、敵の百人を動かなくするのは、同じくらい意味があります」
弥兵衛は少し考える。
「確かに」
「しかもこちらは、その百人と戦わなくていい」
景継は次の名前を見る。
返事を保留している土豪。
次はここ。
だが同じ方法は使わない。
人によって欲しいものが違う。
領地を守りたい者。
金が欲しい者。
岩倉に不満を持つ者。
信長を嫌っている者。
重要なのは、信長を好きにさせることではない。
こちらの方が得だと思わせること。
「人は」
景継が何気なく呟いた。
「忠義だけでは動きません」
弥兵衛が景継を見る。
「若様?」
景継自身も少し驚いた。
今の言葉。
誰かに教えられたわけではない。
それでも。
当たり前のように出てきた。
「何でもありません」
景継は地図へ戻った。
◇◇◇
兵糧についても動き始めた。
信長の名を使い、清洲周辺の商人から米を買い集める。
ただし、一気には買わない。
一度に大量の米を集めれば、岩倉方も異変に気づく。
いくつもの商人を使い、少しずつ。
名義も分ける。
集めた米も一ヶ所には置かない。
複数の蔵へ分散させた。
信長は最初、そのやり方を面倒がった。
「全部清洲へ運べばよいだろう」
「燃やされたら終わります」
「守ればよい」
「守る兵が必要になります」
「なら城へ入れろ」
「大量の米が城へ入れば、岩倉に気づかれます」
信長はしばらく景継を見た。
「面倒だな」
「戦は面倒なものです」
「お前は戦をしたことがないだろう」
景継は口を開きかけた。
その時。
一瞬。
頭の中に何かが浮かんだ。
大軍。
土煙。
遠くまで続く陣。
聞いたことのない叫び声。
そして。
城。
景継の動きが止まった。
「どうした」
信長が聞く。
景継は瞬きをした。
もう何も見えない。
「……何でもありません」
「本当か」
「はい」
景継は自分の手を見る。
何だった。
今の。
夢ではない。
起きている。
それなのに、ほんの一瞬だけ。
知らない戦場を見た。
「景継」
「大丈夫です」
景継は地図へ目を戻した。
だがその後しばらく、頭の中から土煙の景色が消えなかった。
◇◇◇
三つ目。
情報。
これは景継自身が考えた。
まず商人を通じて、清洲では美濃への備えを強めているという噂を流す。
信長が岩倉ではなく北の斎藤家を警戒している。
そのため兵糧を集めている。
兵の動きも美濃を意識したものだ。
すべてが嘘ではない。
実際、美濃は無視できない。
だからこそ信じられやすい。
さらに別の噂も流した。
信長と信勝の仲が再び悪くなっている。
末森が清洲から離れる可能性がある。
これも、岩倉が信じたい情報だった。
「信勝様が怒りませんか」
弥兵衛が聞く。
「先に話してあります」
「何と?」
「喧嘩していることにしてくださいと」
「よく了承されましたな」
「最初は怒られました」
景継は思い出す。
信勝は「なぜ儂がまた兄上と不仲にならねばならん」とかなり不満そうだった。
しかし最後には了承した。
そして。
噂は予想以上に早く広がった。
◇◇◇
岩倉城。
織田信賢の前には、いくつもの報告が集まっていた。
「清洲が米を集めている?」
「はい。ただ、美濃への備えではないかと」
「斎藤か」
信賢は考える。
別の家臣が口を開く。
「末森とも再び揉めているようにございます」
「信勝とか」
「以前ほどではございませぬが、信長との関係が悪くなっているとの話が」
信賢は少し笑った。
「ならば、もう一度押せるか」
信勝を動かす。
以前は失敗した。
だが兄弟の仲が再び悪化しているなら。
そこへ。
部屋の隅に座っていた男が口を開いた。
「急がぬ方がよろしいかと」
信賢が見る。
「なぜだ」
「情報が整いすぎております」
「何?」
男は岩倉の家臣ではない。
数日前に京から来たという商人の紹介で、城へ出入りするようになった者だった。
「米を集めている。美濃を警戒している。信勝と不仲になっている。どれも我らにとって都合がよすぎます」
信賢が眉を寄せる。
「罠だと言うのか」
「可能性はございます」
「ではどうする」
男は少し考えた。
「こちらから確かめればよろしいかと」
「どうやって」
「清洲の周囲には、こちらへ情報を売る者もおります」
男は静かに笑った。
「林道景継という少年が何をしているか、調べましょう」
◇◇◇
それから数日後。
景継は、自分を探っている者がいることに気づいた。
城下で話を聞いて回る男。
林道家のこと。
景継のこと。
最近誰と会ったのか。
どこへ行ったのか。
「岩倉でしょうか」
弥兵衛が聞く。
「たぶん」
「捕らえますか」
「いいえ」
景継は即答した。
「好きに調べさせます」
「よいのですか」
「見せたいものを見せます」
景継は少し考えた。
そして翌日から、わざと動きを変えた。
美濃方面から来た商人と会う。
斎藤家について話を聞く。
美濃へ続く街道を調べさせる。
岩倉を調べていた者の一部も、そちらへ回したように見せる。
もちろん、本当の岩倉調査は止めていない。
表で美濃。
裏で岩倉。
「これで信じますかね」
弥兵衛が聞く。
「信じなくてもいいです」
「では何のために」
「迷わせるためです」
景継は答えた。
「美濃なのか。岩倉なのか。信勝なのか。相手が迷えば、その分だけ動くのが遅くなります」
弥兵衛は景継を見た。
「若様は、敵が何も信じられなくなるまで嘘を重ねるおつもりで?」
景継は少し考えた。
「全部を嘘にはしません」
「なぜです」
「全部が嘘なら、いずれ何も信じなくなるでしょう」
景継は地図へ視線を落とす。
「本当のことを混ぜます。その方が迷います」
その言葉を聞いた弥兵衛は、何とも言えない顔をした。
「どうしました」
「いえ」
「何です?」
「先生とやらより、若様の方が恐ろしく思えてきました」
「失礼ですね」
景継は少し笑った。
◇◇◇
そして。
最初の結果が出た。
返事を保留していた土豪が、清洲側との話し合いに応じた。
さらに別の一人も、戦になった場合は兵を半分しか出さないと秘密裏に約束した。
岩倉方の兵が。
まだ戦も始まっていないのに。
少しずつ減っていく。
信長は地図の印を見て、楽しそうに笑った。
「面白いな」
「何がです?」
「まだ一度も戦っておらんのに、勝っている気がする」
「それでいいんです」
景継は答えた。
「戦ってから勝つより、戦う前に勝っている方が楽です」
信長は景継を見る。
「なら全部寝返らせろ」
「無理です」
「なぜだ」
「信長様が嫌われていますから」
一瞬。
部屋が静かになった。
近くにいた勝家が顔を背ける。
笑いを堪えている。
信長が景継を睨んだ。
「お前」
「事実です」
「誰に嫌われている」
「かなり」
「名前を言え」
「嫌です」
勝家がついに吹き出した。
「勝家!」
「申し訳ございませぬ!」
景継も少し笑った。
その時だった。
廊下から家臣が入ってきた。
「殿」
「何だ」
「岩倉より動きがございます」
信長の表情が変わった。
「兵か」
「いいえ」
家臣は一通の書状を差し出した。
「織田信賢様より、使者が参っております」
信長が受け取る。
書状を開く。
景継も横から読む。
内容は予想外だった。
信賢は信長へ会談を申し入れている。
場所は清洲でも岩倉でもない。
双方の中間。
兵を連れず。
互いに少人数で。
「会談?」
勝家が眉を寄せる。
「罠ではありませぬか」
信長は笑った。
「面白い。行く」
「待ってください」
景継が止める。
「何だ」
「まだ何も調べていません」
「会談だぞ」
「だからです」
景継は書状を受け取った。
読み直す。
普通の申し入れに見える。
だが。
一つだけ気になる。
「この場所」
景継が指す。
会談場所として指定されている寺。
どこかで見た。
「どうした」
信長が聞く。
景継は記憶を探った。
そして思い出す。
以前。
喜平次が死ぬ前に握っていた紙片。
『……倉』
『……月』
『北……』
月。
寺の名。
月照寺。
岩倉城から見れば。
南。
清洲から見れば。
北。
景継の表情が変わった。
「信長様」
「何だ」
景継は懐から、喜平次が最後に握っていた紙片を取り出した。
二つを並べる。
倉。
月。
北。
岩倉。
月照寺。
清洲から北。
偶然かもしれない。
だが。
「この会談」
景継は信長を見る。
「喜平次は、死ぬ前から知っていた可能性があります」
部屋の空気が変わった。
信長の笑みが消える。
「つまり?」
景継は書状を見た。
岩倉から届いた会談の申し入れ。
それを。
先生側の人間だった喜平次が、数日前に示していた。
だとすれば。
「信賢様が会談を決める前から」
景継は静かに言った。
「誰かが、この会談が起きることを知っていたことになります」
勝家が低い声で聞く。
「そんなことができるのか」
景継は答えられなかった。
普通なら。
できない。
未来でも知らない限り。
その瞬間。
景継の頭の奥に。
また一つ。
知らない景色が浮かんだ。
巨大な城壁。
見たことのない旗。
大勢の兵。
そして。
誰かの声。
――急ぐな。
――待てば、敵の方から動く。
景継は額を押さえた。
「景継?」
信長の声が聞こえる。
景色はすぐに消えた。
「……大丈夫です」
「またか」
「はい」
景継は顔を上げた。
自分でも分からない。
だが。
胸の奥に。
妙な確信だけが残っていた。
敵の方から動く。
今回も。
信賢が自分で会談を思いついたとは限らない。
誰かに。
そうするよう仕向けられたのなら。
未来を知る必要などない。
「信長様」
「何だ」
「会談へ行きましょう」
今度は景継から言った。
信長が少し驚く。
「先ほど止めただろう」
「気が変わりました」
「なぜ」
景継は月照寺の名を指でなぞった。
「ここへ行けば」
少しだけ間を置く。
「先生が何をしようとしているのか、一つ分かるかもしれません」
信長の口元が上がった。
「なら決まりだ」
景継は書状を見つめた。
岩倉との戦いを避けるための会談なのか。
戦いを始めるための会談なのか。
それとも。
そのどちらでもないのか。
戦う前から始まっていた尾張の争いは、月照寺という一つの場所へ集まり始めていた。




