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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第三十四話 戦う前に奪う



翌朝、景継は信長の前に一枚の地図を広げた。


描かれているのは尾張北部。


中央には岩倉城があり、その周囲には村や館、街道が書き込まれている。さらに昨夜調べた国人や土豪の名が、いくつも加えられていた。


信長は地図を眺めた後、景継を見る。


「それで、どこから崩す」


昨日までなら、信長は「いつ攻める」と聞いていただろう。


景継は一人の名を指した。


「まず、この方です」


丹羽郡に小さな領地を持つ長谷川重房。


動かせる兵は多くても百五十ほど。大きな勢力ではない。


だが、その領地は岩倉城の南西にあり、清洲から岩倉へ向かう道にも近い。


「こいつを寝返らせるのか」


「いいえ」


「昨日はここから崩すと言ったではないか」


「崩すことと、味方にすることは同じではありません」


信長が眉を寄せる。


景継は岩倉城の周囲を指した。


「岩倉を攻める前に、三つ減らします」


「三つ?」


「味方。食。それから目」


信長の顔つきが変わった。


「順に話せ」


「まず味方です」


岩倉方についている国人や土豪のすべてが、織田信賢へ強い忠誠を持っているわけではない。


昔から岩倉方だから。


領地が近いから。


清洲方につけば報復されるから。


事情はそれぞれ違う。


「その者たちへ、こちらにつけとは言いません」


「では何と言う」


「戦になっても、動かないでほしいと」


信長が景継を見る。


「同じことではないか」


「言われる側にとっては違います」


最初から信長へ寝返れと言われれば、拒む者が多い。


だが、兵を出すのを数日遅らせるだけなら。


病人が出た。


兵が集まらなかった。


領内で揉め事が起きた。


言い訳はいくらでも作れる。


「最初から大きな裏切りを求める必要はありません」


景継は長谷川重房の名を指した。


「まず一度、小さくこちらの言うことを聞いてもらいます」


信長が少し笑った。


「悪いことを考えるな」


「戦うよりは平和でしょう」


「言い方だけはな」


景継は無視して次へ進んだ。


「二つ目は食です」


岩倉へ物資が入る道。


特に米。


戦が近づけば、岩倉方も兵糧を集め始める。


その前に。


「こちらが買います」


「全部か」


「できるだけ」


「金がかかるぞ」


「戦が始まってから集めるよりはいいでしょう。それに、こちらが買った分だけ岩倉は集めにくくなります」


熱田や津島の商人から少しずつ買う。


一度に大量には動かさない。


集めた米も一ヶ所へ置かず、いくつかの蔵へ分ける。


信長が腕を組む。


「面倒だな」


「燃やされたら困りますから」


「守ればよい」


「守る兵が必要になります」


「城へ入れろ」


「大量の米が清洲へ入れば、岩倉に気づかれます」


信長が景継を睨む。


「お前と話していると、何を言っても返ってくるな」


「考えてから来ましたので」


「腹が立つ」


「最後があります」


「勝手に進めるな」


そう言いながらも、信長は止めなかった。


「三つ目。目を減らします」


「間者を殺すのか」


「逆です」


景継は首を横に振った。


「見せます」


「何を」


「見せたいものを」


清洲が美濃への備えを強めている。


斎藤家を警戒し、そのために兵糧を集めている。


信長と信勝の仲が再び悪化している。


すべて嘘にする必要はない。


本当のことを混ぜた方が、信じられやすい。


信長が笑った。


「相手がやってきたことを、今度はこちらがやるのか」


「使うものは同じです」


「なら同じではないか」


「目的が違います」


景継は答えた。


「こちらは清洲と末森を殺し合わせたいわけではありません。岩倉に、こちらがどこを見ているのか分からなくしたいだけです」


信長はしばらく景継を見た。


やがて地図へ視線を落とす。


「やれ」


「はい」


「ただし」


信長が長谷川重房の名を指で叩く。


「一人で満足するな」


「全部は無理です」


「やる前から言うな」


「無理なものは無理です」


信長が不満そうな顔をした。


最初に動かしたのは柴田勝家だった。


景継が選んだ三人の土豪へ、別々の経路から使者を送る。


条件は単純だった。


今すぐ清洲へ味方する必要はない。


岩倉と清洲が戦になった時、最初の三日だけ兵を出さない。


それだけ。


三人のうち、一人はすぐに断った。


一人は返事を保留。


そして長谷川重房だけが、話を聞くと答えた。


会談は清洲でも岩倉でもない、小さな寺で行われた。


信長は来ていない。


景継と勝家、それに少数の供だけだった。


重房は景継を見るなり眉を寄せた。


「織田殿は来られぬのか」


「来ません」


景継が答える。


「儂は軽く見られておるのか」


「いいえ。信長様が来れば、話が大きくなります」


「どういう意味だ」


「今日は味方になっていただくために来たわけではありませんから」


重房の目が細くなる。


「ならば何だ」


「何もしないでください」


「……何?」


「岩倉と清洲が戦になった時、三日だけ兵を出さないでいただきたい」


重房の表情が変わった。


「信賢様を裏切れと?」


「四日目に岩倉が勝ちそうなら、兵を出せばよろしいでしょう」


隣にいた勝家が、わずかに景継を見る。


重房も黙った。


「清洲が負けてもよいと申すか」


「負けるつもりはありません」


「なら、なぜそのような言い方をする」


景継は重房を見る。


「重房様が守りたいものは、信賢様ではないでしょう」


空気が変わった。


重房の家臣が顔をしかめる。


「何だと」


「領地と家ではありませんか」


重房は否定しなかった。


景継は地図を広げる。


「岩倉が勝てば、今まで通り。清洲が勝った場合も、三日間動かなければ現在の領地は認めます」


「その約束を信じろと?」


「いいえ」


重房が怪訝な顔をする。


「信じていただく必要はありません」


「では、何を信じる」


「ご自身の損得を」


しばらく沈黙が続いた。


やがて重房が笑った。


「十三の子供が言うことではないな」


「最近よく言われます」


「怖くないのか。清洲が負ければ、お前の家も危ういぞ」


「怖いですよ」


景継は普通に答えた。


「だから、負けにくくするためにここへ来ました」


重房はしばらく景継を見た後、大きく笑った。


返事は、その場ではなかった。


三日後。


長谷川重房から密かに返書が届いた。


戦が始まっても、三日間は兵を動かさない。


最初の一人だった。


「百五十か」


信長が言った。


「実際に出せる兵は百前後だと思います」


「少ないな」


「十分です」


景継は地図の長谷川領へ印をつける。


敵の百人を倒そうとすれば、こちらにも死傷者が出る。


だが戦場へ来なければ、戦う必要すらない。


「次です」


返事を保留している者へ別の条件を出した。


今度は領地ではない。


岩倉方の別の土豪と、境界を巡って揉めている。


そこを利用する。


だが。


二日後。


届いた返事は拒絶だった。


景継は紙を読み直す。


「駄目でしたか」


弥兵衛が聞く。


「はい」


さらに報告が続いた。


最初から断っていた別の土豪が、岩倉へ人質を送ったという。


「人質?」


「岩倉方も動いておりますな」


弥兵衛が言う。


景継は地図を見る。


こちらが土豪へ接触していることに、気づき始めている。


岩倉側も忠誠を確かめ、離れそうな者を固め始めたのだ。


「全部は取れませんね」


「残念ですか」


「少し」


景継は長谷川重房の印を見る。


「でも、一人取れました」


「味方になったわけではございませんぞ」


「それでいいんです」


戦場へ百人来ない。


それだけで十分だった。


全部を奪う必要はない。


必要なだけ奪えばいい。


その考えが、なぜか妙に馴染んだ。


兵糧についても動き始めた。


熱田や津島の商人を通じ、少しずつ米を買う。


名義を分ける。


蔵も分ける。


さらに商人には、清洲へ売る利点を用意した。


代金を早く払う。


まとめて買う。


輸送中の安全を保証する。


戦が終わった後も商いを認める。


売るなと命じるのではない。


清洲へ売った方が得だと思わせる。


だが、ここでも岩倉は黙っていなかった。


「値を上げてきました」


商人から報告を受け、景継は眉を寄せた。


「岩倉が?」


「はい。清洲より高く買うと」


信長を見る。


「さらに上げますか」


信長が聞く。


景継は首を横に振った。


「やめましょう」


「なぜだ。金なら出すぞ」


「昨日は金がかかると文句を言っていたではありませんか」


「勝つためなら出す」


「競えば相手の思う通りです」


岩倉が高値で買うなら、買わせればいい。


それだけ余計に金を使わせられる。


「全部こちらで取る必要はありません」


景継は言った。


「岩倉に高く買わせるだけでも意味があります」


信長が笑った。


「米を取れなくても、金を使わせればよいか」


「はい」


一つの策が止められたからといって、失敗とは限らない。


相手が対抗するために何かを失えば、それも結果になる。


そして三つ目。


情報。


商人を通じ、清洲では美濃への備えを強めているという噂を流した。


斎藤家を警戒している。


そのために米を集めている。


同時に、信長と信勝の仲が再び悪化しているという話も流す。


「なぜ儂がまた兄上と不仲にならねばならん」


話を聞いた信勝は、本気で嫌そうだった。


「岩倉が信じやすいからです」


「別の話にしろ」


「では信長様に怯えて末森へ引き籠もっていることに」


「もっと嫌だ」


「難しいですね」


「お前が楽しんでおるだけではないのか」


「そんなことはありません」


最終的には信勝も了承した。


ただし「後で兄上に一言文句を言う」という条件つきだった。


岩倉城にも、少しずつ異変が伝わり始めていた。


「長谷川が兵を集めておらぬ?」


信賢が報告を聞く。


「はい。まだ戦ではないゆえ、と申しておりますが」


「他は」


「こちらへ人質を出した者もおります。ただ、返事を濁す者が増えております」


信賢の表情が険しくなる。


「清洲が動いておるな」


家臣の一人が頷いた。


「おそらく」


「信長か」


「いえ」


別の男が答えた。


「林道景継かと」


信賢の視線が向く。


「また、あの小僧か」


「末森への策を何度も止めたのも、あの者です」


信賢はしばらく黙った。


やがて地図を見る。


「米は?」


「こちらも買い集めております。ただ、以前より値が上がっております」


「清洲と競っているからか」


「はい」


信賢が舌打ちする。


その時、一人の家臣が口を開いた。


「殿。こちらも相手の家中を揺らしてはいかがでしょう」


「また信勝か」


「いえ」


男は首を横に振った。


「今は動かぬ方がよろしいかと」


信賢が眉を寄せる。


「なぜだ」


「こちらが動けば、またあの少年に読まれます」


部屋が静かになった。


「ならどうする」


「まず、清洲が何を狙っているのか確かめます」


「どうやって」


男は少し考えた。


「信長殿と会いましょう」


信賢の眉が上がった。


数日後。


清洲へ一人の使者が来た。


織田信賢からだった。


信長は書状を読み終えると、口元を上げる。


「会談だと」


勝家が眉を寄せた。


「罠ではありませぬか」


「面白い。行く」


「待ってください」


景継が言う。


信長が露骨に嫌そうな顔をする。


「またか」


「まだ何も調べていません」


「話をするだけだ」


「話をするために、なぜ今なのかを考えたいんです」


景継は書状を受け取った。


場所は清洲でも岩倉でもない。


双方の中間にある寺。


供は少数。


武装も最低限。


一見すれば、普通の会談の申し入れだった。


だが、時期が気になる。


こちらが長谷川を動かした。


米を買い始めた。


偽の情報を流した。


そして岩倉も対抗を始めた。


その直後。


「信賢様は、こちらが何をしているのか確かめたいのかもしれません」


「俺に聞くのか?」


「聞いても信長様は答えないでしょう」


「当たり前だ」


「だから、見るんです」


「何を」


「信長様を。それから、おそらく私も」


信長が景継を見る。


「お前も来ると思っていると?」


「これだけ岩倉の邪魔をすれば、そろそろ名前くらい知られていても不思議ではありません」


勝家が低く唸る。


「危険では」


「危険でしょうね」


景継は書状を見る。


だが、断れば何も分からない。


岩倉側がどこまでこちらを把握しているのか。


何を恐れているのか。


何を狙っているのか。


直接見られる機会でもある。


「行きましょう」


景継が言った。


信長が笑う。


「先ほど止めたではないか」


「行くなとは言っていません。調べてからと言ったんです」


「面倒な奴だな」


「よく言われます」


「誰にだ」


景継は少し考えた。


「最近は、信長様に」


信長が鼻で笑った。


景継はもう一度、地図へ目を落とす。


長谷川重房。


動かなくなった百の兵。


岩倉に高値で買わせている米。


清洲と岩倉の間を飛び交う情報。


まだ戦は始まっていない。


一人も兵はぶつかっていない。


それでも双方は、すでに相手から何かを奪い始めている。


兵。


米。


情報。


そして次は。


相手が何を考えているのか。


景継は会談の書状を折り畳んだ。


「信長様」


「何だ」


「向こうも、こちらを見に来ます」


「ああ」


信長は楽しそうに笑った。


「なら俺たちも見てやればよい」


景継は頷いた。


戦う前に奪えるものは、まだ残っている。


次に奪うのは。


互いの腹の内だった。

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