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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

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第三十五話 月照寺の会談


月照寺へ向かうことが決まったのは、その日のうちだった。


信長はすぐに使者へ返書を書かせ、会談を受けると伝えた。条件は向こうが提示した通り、双方とも少人数で臨み、武装した兵を大勢連れてこないこと。会談場所となる月照寺の周辺にも、互いの軍勢を近づけないことになった。


表向きは、尾張の二つの織田家が直接話し合うための場である。だが景継には、ただの会談とは思えなかった。


喜平次が死ぬ直前に握っていた紙片には、『……倉』『……月』『北……』と読める文字が残っていた。岩倉、月照寺、清洲から見れば北。偶然で説明することもできるが、三つの断片がここまで揃えば、何も関係がないと考える方が難しい。


「景継」


信長の声で、景継は地図から顔を上げた。


「はい」


「まだ見ておるのか」


「気になりますので」


「寺は逃げぬぞ」


「寺を見ているのではありません」


信長が隣へ座る。


景継の前には、月照寺周辺の簡単な地図が広げられていた。街道、林、小川、近くの村。そして少し離れた場所にある小さな丘まで、分かる範囲で記されている。


「罠だと思うか」


信長が聞いた。


「可能性はあります」


「俺を殺すための?」


「それなら、もっと簡単な方法があると思います」


「では何だ」


景継は少し考えた。


「誰かに、何かを見せたいのだと思います」


「誰に」


「私たちに」


信長の目が少し細くなる。


「先生とやらが?」


「先生かどうかも、まだ分かりません。ただ、喜平次がこの場所を知っていたとすれば、会談そのものが誰かに作られた可能性があります」


「信賢が操られていると?」


「操られているというより、自分でここを選んだと思わせたのかもしれません」


景継がそう言うと、信長はしばらく黙った。


「お前が最近やっていたことと同じだな」


その言葉に、景継の手が止まった。


岩倉周辺の土豪を動かす時、景継も命令はしていない。自分で考え、自分で選んだと思わせるように条件を作っていた。信長の言う通り、方法だけを見れば似ている。


「そうですね」


「嫌か」


「何がです」


「先生と同じことをしていると言われるのが」


景継は少し考えた後、首を横に振った。


「方法が同じでも、目的が同じとは限りません」


「ならよい」


信長は立ち上がった。


「明朝出る」


「はい」


「供は勝家とお前、それに数名でよい」


景継が少し驚いた。


「私も行くのですか」


信長が呆れたように見る。


「ここまで首を突っ込んでおいて、今さら何を言う」


景継は反論できなかった。


◇◇◇


翌朝、清洲を出たのは信長、柴田勝家、景継、弥兵衛、それに六名の家臣だった。


約束通り、兵と呼べるほどの人数ではない。ただし、本当に何も備えていないわけでもなかった。信長の命を受けた者たちが、かなり離れた場所で周辺の街道を見張っている。岩倉方に気づかれれば約束違反を疑われるため、月照寺へ近づくことはない。


景継は馬を進めながら、何度も周囲を確認していた。誰かにつけられているような気配はない。それでも、妙に視線を感じる。


「若様」


弥兵衛が横へ並ぶ。


「はい」


「それほど見ても、敵は木から生えてきませぬぞ」


「分かっています」


「では何を」


「誰かが見ている気がします」


弥兵衛も周囲を見たが、人影はない。畑で働く農民がいる程度だった。


「気のせいでは」


「そうかもしれません」


景継は前へ向き直った。


だが、その感覚は消えなかった。


月照寺で何かが起こる。それも信長と信賢だけを狙ったものではなく、自分まで含めて何かを試されるような気がしてならなかった。


◇◇◇


月照寺は、清洲と岩倉のほぼ中間に位置していた。


大きな寺ではない。周囲には林があり、少し離れた場所には畑が広がっている。軍を伏せるには向いているようにも見えるが、大勢が近づけばすぐに分かる地形でもあった。


門の前で馬を降りた景継は、まず地面を見た。


複数の馬の跡がある。岩倉側はすでに到着しているらしい。


寺の僧が出迎えた。


「織田三郎様でございますな」


「そうだ」


「信賢様がお待ちです」


信長はそのまま入ろうとしたが、景継が小声で止めた。


「信長様」


「何だ」


「少しだけ待っていただけますか」


信長は不満そうだったが、足を止めた。


景継は寺の周囲を見る。門、塀、裏手の林、井戸、本堂。特に不自然なものはない。


「何を探している」


勝家が聞く。


「分かりません」


「分からぬものを探すのか」


「はい」


勝家が苦笑する。


景継は門の脇に立つ僧を見る。


「今日、他に誰か来ましたか」


僧が少し考えた。


「信賢様方のほかには、特には」


「昨日は?」


「旅の僧が一人泊まられました」


景継の表情が変わる。


「今も?」


「朝には発たれました」


「名前は」


「存じませぬ」


「どちらから来たと?」


「京の方からと申しておりました」


また京だった。


景継は信長を見る。信長も聞いていた。


「追うか?」


「もういないなら、今はいいです」


「では入るぞ」


「はい」


景継も信長に続いた。


◇◇◇


会談の部屋には、織田信賢が待っていた。


年齢は信長より上で、服装も振る舞いも落ち着いている。その左右には数人の家臣が座っていた。


信長が入ってくると、信賢は立ち上がらずに迎えた。


「久しいな、三郎」


「そうか?」


「顔を合わせるのは久しぶりだろう」


「俺は覚えておらん」


信賢の家臣たちの表情が一斉に険しくなる。


景継は早くも頭が痛くなった。


信賢は怒らず、わずかに笑う。


「相変わらずだな」


「お互い様だ」


信長は向かいへ座った。


勝家と景継も少し後ろへ控える。


信賢の視線が景継へ向いた。


「そちらが噂の林道景継か」


景継は頭を下げる。


「はい」


「十三と聞いた」


「今年で十三です」


「本当に子供だな」


「よく言われます」


信賢が少し笑った。


「話だけ聞けば、もう少し化け物じみた者を想像していた」


「普通です」


信長が横から言う。


「それはない」


景継は信長を見る。


「今は黙っていてください」


信賢の家臣の一人が目を丸くした。主君に対して何という口を利くのかと思ったのだろう。


信長は気にせず笑っていた。


◇◇◇


会談が始まった。


最初の話題は境界だった。


清洲方と岩倉方の勢力が接する地域では、どちらに属するのか曖昧な村も多い。税を両方から求められる場所もあり、小さな争いが絶えない。


信賢は地図を出した。


「この辺りをこちらへ認めろ」


信長が見る。


「嫌だ」


即答だった。


「まだ理由も申しておらぬ」


「聞いても嫌だ」


「三郎」


「何だ」


信賢の家臣たちが再び険しい顔をする。


景継は黙っていた。


今はまだ口を出す必要はない。


信賢も信長の性格は理解しているらしく、怒るより先に別の話へ移った。


「では、信勝のことだ」


景継の目が少し細くなる。


やはり来た。


「弟がどうした」


「お前と信勝は、本当に和解したのか」


「お前に関係あるか」


「ある」


信賢は笑みを消した。


「尾張が二つに割れるかどうかという話だ」


「割れぬ」


「随分自信があるな」


「俺が割らせぬ」


信賢は信長をしばらく見た。


「なら信勝を清洲へ置けばよい」


「嫌だ」


「なぜ」


「末森は信勝の城だ」


今度は信賢の方が少し驚いたようだった。


景継も同じだった。


信長なら監視のために清洲へ来いと言ってもおかしくないと思っていたが、違った。以前より信勝を認めている。


信賢がそれをどう受け取ったのかは分からない。


「なるほど」


それだけ言った。


◇◇◇


その後も話は続いた。


互いの領地、商人の通行、税、小競り合い。どれも重要ではあるが、決定的な話ではない。


景継には、少しずつ違和感が強くなっていた。


なぜ会談を申し入れたのか。


これだけなら使者の往復でも済む。


信賢自身が危険を冒してまで出てくる必要はない。


そして喜平次は、なぜここを知っていたのか。


「信賢様」


景継が初めて口を挟んだ。


信賢が見る。


「何だ」


「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「申せ」


「今回、この月照寺で会談することを決められたのは、いつですか」


部屋の空気が少し変わった。


信賢の家臣たちが景継を見る。


信賢は少し考えた。


「四日ほど前だ」


景継の胸の奥が動いた。


喜平次が死んだのは、それより前。


「誰がこの寺を?」


「何?」


「会談場所として月照寺を提案したのは、どなたですか」


信賢の表情が少し変わる。


「なぜそのようなことを聞く」


「少し気になることがあります」


信賢は横にいる家臣を見る。


その男が答えた。


「私ではございませぬ」


別の者も首を横に振る。


やがて、一人の若い家臣が口を開いた。


「私が」


景継はその男を見る。二十代後半ほどだ。


「なぜここを?」


「中間にあり、双方が兵を動かしにくい場所だからです」


「ご自身で考えたのですか」


男の眉が動く。


「何が言いたい」


景継は質問を変えた。


「月照寺を以前からご存じでした?」


「当然だ。岩倉からも遠くはない」


「会談に向いていると、以前から考えていた?」


「そこまでではない」


男の答えが少しずつ変わる。


景継は黙って待った。


信賢が男へ聞く。


「誰かに聞いたのか」


男は少し迷った。


そして答えた。


「数日前、京から来た商人と話した時に」


景継と信長が同時に反応した。


「何を話した」


信賢の声が低くなる。


男は困惑しながら答えた。


「尾張の争いについてです。無益な戦を避けたいなら、双方が直接話すべきだと」


「それで?」


「その者が、月照寺なら中間でちょうどよいのではないかと」


部屋が静まり返った。


景継は目を閉じそうになった。


やはり。


信賢が自分で選んだように見えて、最初の種は外から入っている。


「その商人はどこにいます」


景継が聞く。


男は首を横に振った。


「もう岩倉にはおらぬ」


「名前は?」


「宗兵衛と名乗っていた」


偽名かもしれない。


「どんな男です」


特徴を聞く。


三十代後半。


穏やかな話し方。


京の言葉。


商いは香と薬。


景継の胸が冷たくなる。


熱田、京、香、薬。


あの印につながる商人たちと同じだった。


信長が低い声で言った。


「景継」


「はい」


「同じ奴らか」


「可能性は高いと思います」


信賢が二人を見る。


「何の話だ」


景継は迷った。


どこまで話すべきか。


先生、津々木、偽書状、暗殺、林秀貞。今までのことを全部話せば、信賢も巻き込む。


いや。


すでに巻き込まれている。


景継は信長を見る。


信長が頷いた。


話せ。


そういう意味だと理解した。


◇◇◇


景継は、これまで起きたことを必要な範囲で説明した。


信長と信勝の争いを煽った偽情報。津々木の失踪。円の中に三本の線が入った印。熱田と京を行き来する商人。林秀貞の屋敷へ入り込んだ人物。そして喜平次が死ぬ直前に残した紙片に、「倉」「月」「北」と読める文字があったこと。


信賢は最初こそ疑っていた。


だが景継が紙片を出すと、表情が変わった。


「つまり、この会談を誰かが最初から仕組んだと?」


「会談そのものを仕組んだというより、会談したくなるように信賢様の周囲へ考えを入れたのだと思います」


若い家臣の顔が青くなる。


「私は操られたと?」


「そこまでは言いません」


「同じではないか!」


男が声を荒らげる。


景継は静かに首を横に振った。


「最後にここを選んだのは、あなたです。だからこそ厄介なのです」


男が黙る。


「命令されたなら、誰から言われたか覚えています。でも、自分で考えたと思えば疑いません」


信賢の顔から完全に笑みが消えた。


「それで、その者は何がしたい」


景継は答えられなかった。


そこが分からない。


以前なら、信長と信勝を争わせるためだと考えられた。


だが最近は違う。


林秀貞の暗殺は途中で止まった。


喜平次は殺された。


そして今、信長と信賢を会わせた。


「先生と呼ばれている人物は、最初と目的が変わった可能性があります」


「どう変わった」


「まだ分かりません」


信賢が呆れた顔をした。


「そこまで話して分からぬのか」


信長が横から笑う。


「こやつはいつもそうだ」


「信長様は黙っていてください」


◇◇◇


その時だった。


寺の外から鐘が鳴った。


一度、二度、三度。


普通ならそれほど不自然ではない。


だが景継は、僧から聞いた話を思い出した。


今は鐘を鳴らす時刻ではない。


「何です」


信賢も気づいたらしい。


勝家が立ち上がる。


「見て参ります」


「待ってください」


景継が止めた。


次の瞬間、外から人の叫び声が聞こえた。


「火だ!」


全員が立ち上がった。


戸を開ける。


境内の一角から煙が上がっている。裏手の小さな建物から火が出ており、僧たちが慌てて水を運び始めている。


「火付けか?」


信賢の家臣が叫ぶ。


景継は炎を見た。


それほど大きくない。


寺全体を焼くような火ではない。


「おかしい」


景継が呟く。


「何がだ」


信長が聞く。


「小さすぎます。本当に私たちを殺すなら、本堂へ火をつけた方がいい」


景継は周囲を見る。


僧、信長方、岩倉方。皆が火へ意識を向けている。


なら目的は。


注意を逸らすこと。


そう考えた瞬間、寺の門の方から馬の音が聞こえた。


一頭。


かなり速い。


「誰か出た!」


勝家が叫ぶ。


景継は走った。


門を出る。


遠くに馬が見える。乗っている者の姿は小さい。


追える。


そう思った。


だが、すぐに別のものが目に入った。


月照寺の門の外。


自分たちが馬をつないでいた場所に、一通の書状が置かれている。


宛名を見れば、誰に向けられたものかすぐに分かった。


『林道景継殿』


景継は馬を追うのをやめた。


書状を拾う。


信長たちも後から出てきた。


「またお前か」


信長が言った。


「私も嫌になってきました」


封を開く。


中には一枚の紙が入っていた。


『戦う前に敵を減らす。よい考えでございます』


景継の顔から表情が消えた。


自分が岩倉に対してやっていることを知っている。


さらに続きを読む。


『されど、相手も同じことを考えればどうなりましょう』


景継は紙を持つ手へ少し力を入れた。


『今日の会談は、先生からの贈り物にございます』


信長が横から覗き込む。


「贈り物?」


信賢も近づく。


景継は最後まで読んだ。


『敵を知るには、戦うより話した方が早い。これで清洲と岩倉は、互いを少し知ったことでしょう』


最後には、例の印が押されていた。


円の中に三本の線。


◇◇◇


誰もすぐには話さなかった。


最初に口を開いたのは信賢だった。


「ふざけておる」


声には怒りが滲んでいる。


「儂らを玩具にしているつもりか」


信長はむしろ少し笑っていた。


「面白いではないか」


「三郎!」


「怒っても仕方あるまい」


「お前は腹が立たぬのか」


「立つ」


信長の笑みが消えた。


「だから、いつか殺す」


景継は信長を見る。


冗談ではない。


信賢もそれを感じたらしく、何も言わなかった。


景継はもう一度書状を見る。


今日の会談は贈り物。


つまり先生は、信長と信賢を今すぐ戦わせようとしていない。


むしろ話させた。


なぜなのか。


景継は地図を思い浮かべる。


尾張。


清洲。


岩倉。


信勝。


先生は最初、兄弟を争わせようとした。


それが失敗した後、今度は清洲と岩倉を会わせた。


その時、景継の中に一つの可能性が浮かんだ。


「あの方は」


景継が小さく呟いた。


信長が見る。


「何だ」


景継はすぐには答えなかった。


あまりにも変な考えだった。


だが、もしそうなら。


「先生は、尾張を弱らせたいのではないかもしれません」


信賢が眉を寄せる。


「では何だ」


景継は信長と信賢を見る。


さらに、ここにはいない信勝の顔も思い浮かべた。


「逆なのかもしれません」


「何が逆だ」


「尾張を、一つにしたいのかもしれません」


部屋の空気が止まった。


信長が景継を見る。


信賢も同じだった。


「どういう意味だ」


信賢が聞く。


景継は説明しようとした。


だが、まだ証拠が足りない。


「今はまだ、考えただけです」


信賢が呆れたように息を吐いた。


信長だけは楽しそうだった。


「なら調べろ」


「簡単に言いますね」


「お前が言い出した」


「そうですが」


景継は書状を畳んだ。


◇◇◇


火はすぐに消えた。


被害は小さく、怪我人もいない。


火をつけた者も見つからなかった。


結局、会談はそのまま中断された。


だが、何も決まらなかったわけではない。


帰る直前。


信賢が信長へ言った。


「三郎」


「何だ」


「儂はお前を信用しておらぬ」


「俺もだ」


「最後まで聞け」


信賢が睨む。


「だが、今日すぐ戦う必要はないと思った」


信長の表情が変わった。


景継も黙って聞く。


「境界の小競り合いを止める。互いの家臣が勝手に相手方へ入ることも禁じる」


「いつまでだ」


「三月」


信長は少し考えた。


「よい」


景継は二人を見る。


一時的。


たった三ヶ月。


それでも先生の言葉通りだった。


話したことで、互いを少し知った。


「ただし」


信賢が景継を見る。


「林道景継」


「はい」


「お前が儂の家臣を裏で引き抜いていることは知っているぞ」


景継の表情が止まった。


信長が横を向く。


肩が震えている。


笑っている。


「信長様」


「俺は何も言っておらん」


「顔に出ています」


信賢が景継を睨む。


「戦になれば覚えておけ」


景継は少し考えた。


「その時は、もう少し減らしておきます」


信賢の顔が引きつった。


勝家が咳払いで笑いを誤魔化す。


信長はとうとう声を上げて笑った。


「やはり面白い!」


「信長様!」


月照寺での会談は、最後だけ見れば、とても天下を争う者たちの話し合いには見えなかった。


◇◇◇


清洲へ戻る道中、景継は馬を進めながら先生からの書状を何度も読み返していた。


『今日の会談は、先生からの贈り物』


その言葉が引っかかる。


なぜ先生が尾張を一つにしたいのか。


もし本当にそうなら、その先に何があるのか。


「景継」


前を進んでいた信長が速度を落とし、隣へ並んだ。


「はい」


「先生とやらが尾張を一つにしたいという話」


「まだ仮です」


「もし本当なら?」


景継は少し考えた。


「その後に用があるのでしょう」


「尾張が一つになった後?」


「はい」


尾張が一つになる。


その時、信長の敵は尾張の外へ移る。


美濃。


三河。


今川。


さらにその先。


「天下か」


信長が突然言った。


景継が顔を向ける。


「何です?」


「尾張を一つにした後、その先を見る奴なら、天下くらい考えているかもしれん」


景継は信長を見る。


楽しそうだった。


「信長様も考えています?」


「何を」


「天下」


信長はすぐには答えなかった。


少し先の道を見る。


「まだだ」


意外だった。


「まだ?」


「ああ」


「考えていないのですか」


「まず尾張だ」


信長は笑った。


「尾張一つ取れぬ奴が、天下などと言えば笑われる」


景継は何も言わなかった。


それは信長らしくないようでいて、妙に信長らしい答えだった。


「だが」


信長が続ける。


「尾張を取った後は分からん」


景継は少し笑った。


「今のところ、ですか」


信長が景継を見る。


「お前にだけは言われたくない」


二人は少し笑った。


◇◇◇


その夜、景継は帳面へ月照寺の出来事を書き残していた。


信賢、京の商人、先生の書状、三ヶ月の休戦、そして先生が尾張を一つにしたい可能性。


最後まで書いたところで、景継は筆を置いた。


地図を見る。


清洲。


末森。


岩倉。


以前なら三つは別々だった。


今は少しずつ、一つの形へ近づいている。


景継は無意識に地図の三ヶ所を指でなぞった。


一つにする。


その言葉を見た瞬間、胸の奥にまた妙な感覚が生まれた。


国は最後には一つになる。


なぜか、そう思った。


戦い続け、分かれ続けても、最後には誰かが一つにする。


景継は自分の考えに眉を寄せた。


尾張の話をしているだけのはずなのに、なぜもっと大きな何かを考えていたような気がするのか。


だが、今はまだ考えない。


その答えが必要になる時は、もう少し先だ。


景継はそう考え、帳面を閉じた。


◇◇◇


同じ頃、京へ続く道の途中。


月照寺へ火をつけた男が、一人の人物と会っていた。


「書状は渡しました」


「景継は?」


「読みました」


「何と?」


「尾張を一つにするのが先生の目的ではないかと、考え始めたようです」


報告を聞いた人物が小さく笑う。


先生と呼ばれている男だった。


「早いな」


「お気づきになると思われていたのですか」


「いずれは」


「では、本当に尾張を一つにするおつもりで?」


先生は答えなかった。


代わりに別の質問をした。


「信長と信賢はどうだった」


「三月の間、争いを止めると」


先生が頷く。


「それでよい」


「しかし、それでは先生のお考えと反対ではございませんか。以前は信長と信勝を争わせようとなさった」


「以前はな」


男が眉を寄せる。


「何が変わったのでしょう」


先生は少し考えた後、静かに答えた。


「林道景継だ」


「景継?」


「あの少年がいなければ、信長と信勝は争っていた可能性が高い」


「はい」


「ならば別の道を見るだけだ」


先生は机の上の地図へ手を置いた。


尾張。


その東には三河。


さらに先には駿河。


「尾張が一つになれば、いずれここへぶつかる」


先生の指が東へ動く。


今川。


男の表情が変わった。


「先生は……」


先生が手を上げて止めた。


「まだ先の話だ」


そして、尾張の上に置かれた小さな駒を見る。


林道景継。


「それより、あの少年がどこまで思い出すか」


男が先生を見る。


「また、その話ですか」


「ああ」


「何を思い出すというのです」


先生は答えなかった。


ただ、景継を示す駒の隣に、もう一つ何も名前の書かれていない駒を置いた。


「もう少しだ」


それが何を意味するのか。


先生以外には、まだ誰にも分からなかった。

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