第三十五話 月照寺の会談
月照寺へ向かうことが決まったのは、その日のうちだった。
信長は織田信賢からの申し入れを受けると返書を送り、双方とも少人数で会談へ臨むことを了承した。
場所は清洲と岩倉のほぼ中間。
互いに大勢の兵を近づけず、供も最低限にする。
表向きは、尾張に並び立つ二つの織田家が争いを避けるための話し合いだった。
だが、景継はそう簡単なものではないと思っていた。
岩倉方につく者への接触。
兵糧となる米の買い集め。
美濃へ備えているという噂。
こちらが動き始めた直後に、信賢から会談を申し込んできた。
偶然とは考えにくい。
「向こうも気づいているんでしょうね」
出立前。
景継は月照寺周辺の地図を見ながら呟いた。
隣にいた弥兵衛が覗き込む。
「何にです?」
「こちらが岩倉を調べていることです」
「長谷川殿のことも?」
「おそらく」
岩倉方も何もしていないわけではない。
清洲が土豪へ手を伸ばしていると察すると、離れそうな者から人質を取って引き締めた。
兵糧についても、清洲より高い値で米を買い始めている。
敵もこちらを見ている。
ならば今回の会談は、戦を避けるためだけのものではない。
信賢は信長を見に来る。
そしておそらく。
「私も見られるでしょうね」
「若様を?」
「はい」
弥兵衛は少し考えてから頷いた。
「それだけ目立つことをされておりますからな」
「できれば目立ちたくないんですが」
「無理がございます」
景継は反論しようとしたが、やめた。
最近は自分でもそう思い始めていた。
翌朝。
清洲を出たのは信長、柴田勝家、景継、弥兵衛、それに六人の家臣だけだった。
約束通り、軍勢と呼べるほどの人数ではない。
ただし何も備えていないわけではなく、信長の命を受けた者たちが離れた街道を見張っている。
「景継」
馬上で信長が呼んだ。
「はい」
「何を考えておる」
「会談のことを」
「それは分かる」
信長は前を向いたまま聞く。
「信賢は何を言うと思う」
「信勝様のことでしょうね」
「またか」
「岩倉からすれば、信長様と信勝様が本当に争わなくなったのかは重要です」
「なら見せてやればよかったな」
「何をです?」
「信勝を連れてくればよかった」
景継は少し想像した。
信長。
信勝。
信賢。
同じ部屋。
「やめて正解だったと思います」
「なぜだ」
「話が進まない気がします」
勝家が前で小さく笑った。
月照寺は、大きな寺ではなかった。
周囲には林と畑が広がり、軍勢が近づけば目立つ。
中立の場所として選ぶには悪くない。
門前にはすでに数頭の馬がつながれていた。
岩倉方は先に到着している。
景継たちは馬を降り、僧の案内で寺へ入った。
会談の部屋には、織田信賢と数人の家臣が待っていた。
信長より年上で、座っているだけでも落ち着いた印象がある。
信長が入ってくると、信賢はわずかに口元を上げた。
「久しいな、三郎」
「そうか?」
「顔を合わせるのは久しぶりだろう」
「俺は覚えておらん」
信賢の家臣たちの顔が険しくなる。
景継は小さく息を吐いた。
始まってすぐこれである。
だが信賢は怒らなかった。
「相変わらずだな」
「お互い様だ」
信長が向かいへ座る。
勝家と景継も少し後ろへ控えた。
その時。
信賢の視線が景継へ向いた。
「そちらが林道景継か」
やはり。
景継は頭を下げる。
「はい」
「十三と聞いた」
「今年で十三です」
信賢は景継を上から下まで見る。
「本当に子供だな」
「よく言われます」
「長谷川重房に何を吹き込んだ」
いきなりだった。
景継は一瞬だけ黙る。
隣にいた勝家の表情がわずかに動いた。
「何のことでしょう」
「とぼけるな」
信賢は笑っている。
「長谷川はこれまで、こちらが声をかければ兵を集めた。それが突然、領内が落ち着かぬなどと言い始めた」
「本当に落ち着かないのかもしれません」
「では、なぜその少し前に清洲の者と会っている」
そこまで掴んでいる。
景継は信賢の後ろに控える家臣たちを見た。
その中に、一人だけ景継から視線を外さない男がいる。
四十前後。
痩せた顔。
他の者と違い、景継が何を答えるかをじっと観察していた。
おそらく。
岩倉側で情報を集めている者。
「信賢様」
景継が言った。
「はいとも、いいえとも申しません」
「ほう」
「今日ここへ来たのは、その話をするためではありませんので」
信賢が笑った。
「面白い小僧だ」
信長が横から口を挟む。
「小僧ではない。俺の家臣だ」
景継は信長を見る。
今それを言う必要があったのだろうか。
だが。
信賢はその言葉を聞き逃さなかった。
「なるほど」
視線が再び景継へ向く。
「噂以上に気に入られているらしいな」
景継は答えなかった。
会談は境界の話から始まった。
清洲方と岩倉方が接する地域には、どちらに属するのか曖昧な村もある。
双方から税を求められ、小さな争いが起きている場所もあった。
信賢が地図を広げる。
「この三村はこちらへ認めてもらう」
信長が見る。
「嫌だ」
「まだ理由を申しておらぬ」
「聞いても嫌だ」
「三郎」
「何だ」
信賢の家臣たちがまた険しい顔をする。
景継は黙っていた。
ここは信長と信賢の話だ。
しばらく境界について言い合った後、信賢が話題を変えた。
「では信勝のことだ」
景継の目が少し細くなる。
予想通りだった。
「弟がどうした」
「本当に和解したのか」
「した」
「随分簡単に言うな」
「事実だからな」
「以前は殺し合いかねぬところまでいっただろう」
信長の表情がわずかに変わる。
「以前は以前だ」
「なら信勝を清洲へ置けばよい」
「嫌だ」
信賢が眉を上げる。
「なぜだ」
「末森は信勝の城だ」
景継は信長を見る。
以前なら、監視するために信勝を近くへ置こうとしたかもしれない。
だが今は違う。
信勝が末森にいることそのものを認めている。
「お前は弟を信用するようになったのか」
信賢が聞く。
信長は少し考えた。
「全部は信用しておらん」
景継は思わず信長を見る。
「だが、あいつが何かあれば俺に言うくらいにはなった」
「それを信用というのではないか」
「知らん」
信賢が少し笑った。
「変わったな、三郎」
「お前に言われる筋合いはない」
それ以上、信勝の話は続かなかった。
その後も会談は続いた。
商人の通行。
境界での小競り合い。
互いの家臣が相手方へ勝手に入ること。
そして米。
「清洲では随分と米を集めているそうだな」
先ほど景継を見ていた男が、初めて口を開いた。
景継が見る。
「岩倉も集めていると聞いております」
「こちらは清洲が買うから買っている」
「では商人は喜んでいるでしょうね」
男の眉がわずかに動いた。
「美濃への備えだという話も聞いた」
「美濃を警戒していない織田家があるのですか?」
「質問に質問で返すか」
「答えられることなら答えます」
「では聞こう」
男は景継を見る。
「なぜ美濃への備えで、岩倉周辺の土豪にまで声をかける」
部屋が静かになった。
信長は何も言わない。
景継も少し黙った。
やはり、かなり調べられている。
「岩倉周辺だけではありません」
「ほう」
「尾張の中で、話を聞いてくださる方とは話します」
「何の話を?」
「色々です」
「便利な言葉だな」
「便利なので使っています」
男の口元が少しだけ上がった。
敵意というより。
面白がっている。
「名を聞いても?」
景継が尋ねる。
「河村直綱だ」
「覚えておきます」
「こちらは、もう覚えている」
景継の胸に小さな違和感が残った。
自分が思っていた以上に、岩倉側で名前が知られている。
隠れて動ける時間は、長くないのかもしれない。
会談が半ばを過ぎた頃。
信賢が突然言った。
「長谷川重房から手を引け」
景継ではなく、信長へ向けた言葉だった。
信長が笑う。
「断る」
「まだ何も言っておらぬ」
「聞いても断る」
「三郎」
信賢の声が少し低くなる。
「こちらの者へ手を出すなら、こちらも清洲方へ手を出すぞ」
信長の笑みが消えた。
「やってみろ」
部屋の空気が一気に張り詰めた。
勝家が僅かに姿勢を変える。
岩倉方の家臣たちも同じだった。
景継は信賢を見る。
何かがおかしい。
本当に脅しているのなら、もっと具体的な名を出してもいい。
だが信賢は出さない。
そして。
信賢の視線が一瞬だけ、自分へ向いた。
景継は気づいた。
「信賢様」
「何だ」
「私を試されました?」
信賢の眉が動く。
信長も景継を見る。
「何?」
「林道家へ手を出す、と言えば信長様がどう反応するか見たかったのでは?」
信賢は答えない。
それが答えだった。
信長が信賢を睨む。
「くだらんことをするな」
「よく分かった」
信賢は景継を見た。
「お前は思っていた以上に三郎の近くにいるらしい」
「それを知ってどうされるのです」
「敵の大事なものを知っておいて損はない」
信長の顔が再び険しくなる。
景継が先に言った。
「私を狙っても、あまり得はないと思います」
「なぜだ」
「信長様が怒ります」
一瞬。
誰も何も言わなかった。
勝家が顔を背ける。
信長が景継を見る。
「自分で言うか」
「今、確認できましたので」
信賢が声を上げて笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
会談は日が傾くまで続いた。
大きな合意はない。
境界問題も解決しなかった。
長谷川重房についても双方が譲らない。
それでも最後に、一つだけ決まった。
三ヶ月。
その間、清洲と岩倉は境界での小競り合いを止める。
互いの家臣が無断で相手方の領内へ入ることも禁じる。
商人への妨害もしない。
信賢が言った。
「三月だ」
信長は少し考えた後、頷いた。
「よい」
景継は二人を見る。
休戦。
だが和平ではない。
信賢も戦を諦めてはいない。
信長も同じ。
両者とも三ヶ月を欲しがっている。
信長は、その間に岩倉をさらに削れると考えている。
信賢は逆に、離れ始めた者を引き戻し、内部を固められると考えているはずだ。
同じ三ヶ月。
だが双方が、自分に有利だと思っている。
「景継」
信長が呼んだ。
「はい」
「何を考えておる」
「信賢様も、同じことを考えているんだろうなと」
信賢が景継を見る。
「何の話だ」
「この三ヶ月です」
景継は答えた。
「こちらは岩倉の力を減らしたい。岩倉は、それを止めたい」
信賢の目が細くなる。
「分かっていて休戦するのか」
「信賢様も同じでしょう?」
しばらく二人は見つめ合った。
先に笑ったのは信賢だった。
「本当に十三か?」
「今年で十三です」
「面倒な小僧だ」
「よく言われます」
今度は信長が笑った。
帰る直前。
信賢が景継を呼び止めた。
「林道景継」
「はい」
「一つ忠告しておく」
景継が振り返る。
「策を使えば、相手も策を使う」
「はい」
「一人奪えば、こちらも一人奪い返す」
信賢の表情から笑みが消える。
「自分だけが盤を見ていると思うな」
景継は少し黙った。
その言葉は重かった。
ここ数日。
自分は岩倉をどう崩すかばかり考えていた。
だが当然、相手にも考える者がいる。
長谷川重房の動きを掴んだ。
米の買い集めにも対抗した。
景継の名まで調べた。
「覚えておきます」
景継は頭を下げた。
「ただ」
「何だ」
「こちらも、奪い返されるつもりで動きます」
信賢の口元が少し上がった。
「やはり面倒だな」
それだけ言って、信賢は背を向けた。
清洲へ戻る道。
信長が馬を進めながら言った。
「三月だ」
「はい」
「どこまで減らせる」
「できるだけ」
「全部だ」
「無理です」
「またそれか」
「全部取ろうとすれば、こちらの狙いが全部見えます」
「では半分」
「急に現実的になりましたね」
「お前がうるさいからだ」
少し前を進んでいた勝家が笑う。
景継もわずかに笑った。
だが頭の中では、すでに別のことを考えていた。
長谷川重房だけでは足りない。
同じ方法を繰り返せば読まれる。
領地を守りたい者。
岩倉に不満がある者。
金を求める者。
信賢へ忠実な者。
一人ずつ違う。
なら。
一人ずつ、違う方法を使えばいい。
その考えが浮かんだ瞬間。
また妙な感覚があった。
大勢を一つの塊として見てはいけない。
敵の中にも違いがある。
欲がある。
恐れがある。
不満がある。
そこを見つければ、大きな勢力でも内側から動かせる。
なぜ自分がそんなことを当然のように考えられるのか。
景継には分からなかった。
ただ。
その考え方を、自分はずっと昔から知っているような気がした。
同じ頃。
岩倉へ戻った信賢は、河村直綱を前に座らせていた。
「三月も与えてよろしかったので?」
直綱が尋ねる。
「与えたのではない」
信賢は答えた。
「こちらも三月を買った」
「長谷川は?」
「戻せるなら戻せ。戻らぬなら、その周囲を固めろ」
「他の者は」
「迷っている者から先に押さえる。清洲に声をかけられる前にな」
直綱が頷いた。
「林道景継は?」
その名が出ると、信賢は少し黙った。
「十三だったな」
「はい」
「なら覚えておけ」
「何をでしょう」
信賢は月照寺での景継を思い出す。
子供の顔。
だがこちらの問いを受け流し、何を知っているのか逆に探ってきた。
そして何より。
すでに岩倉の周囲へ手を伸ばし始めている。
「あれは、放っておけばさらに面倒になる」
「消しますか」
信賢はすぐには答えなかった。
やがて首を横に振る。
「今はまだよい」
「では?」
「策を使うなら、策で返せ」
信賢は地図へ手を伸ばした。
清洲。
末森。
岩倉。
その間にある小さな領地。
「景継がこちらから人を奪うなら」
指が一つの場所で止まる。
「こちらも、清洲から奪う」
直綱の目が細くなった。
三ヶ月の休戦。
表向き、尾張北部から戦の気配は少し遠ざかった。
だが実際には違う。
清洲も岩倉も。
次の戦が始まる前から、すでに相手の力を奪い始めていた。




