第三十六話 動き始めた記憶
月照寺での会談から数日が経った。
清洲と岩倉の間では三ヶ月の休戦が成立し、表向きの尾張には束の間の静けさが戻っていた。末森の信勝も目立った動きを見せておらず、少なくとも今すぐ信長と信賢が兵をぶつけるような状況ではない。
だが、景継にはむしろ静かすぎるように感じられた。
先生と呼ばれる人物の動きも、月照寺を最後に止まっている。偽書状も届かず、誰かが襲われることもない。京から来た商人たちの足取りについても調べさせていたが、有力な情報は一つも見つからなかった。
それなのに、景継自身の中では別のものが少しずつ動き始めていた。
月照寺から戻った頃から、眠っている時だけではなく、起きている最中にも見覚えのない景色が浮かぶようになっていた。
巨大な城壁。見たことのない形の鎧。風を受けて揺れる無数の旗。地平の向こうまで続いているように見える大軍。
どれも尾張ではない。
いや、日本ですらないのではないか。
そう思うことさえあった。
だが景継は、そのことを誰にも話していなかった。弥兵衛にも信長にも、自分の中で何が起きているのか説明することができなかったからだ。
◇◇◇
その日、景継は岩倉方面から集めた報告を整理していた。
休戦が成立したとはいえ、こちらの準備まで止める理由はない。むしろ三ヶ月という時間ができたからこそ、その間にどれだけ岩倉を弱らせられるかが重要になる。
岩倉方についている土豪のうち、どこまで切り崩せるのか。兵糧はどれほど確保できるのか。街道をどう押さえるのか。信賢が戦を決断した場合、実際にどれほどの兵が集まるのか。
景継は集められた報告を一つずつ確認し、紙へ数字を書き込みながら地図へ印をつけていた。
「若様」
弥兵衛の声がした。
景継は地図から目を離さない。
「はい」
「少し休まれては?」
「まだ大丈夫です」
「先ほどから一刻近く、ほとんど姿勢が変わっておりませぬぞ」
そこでようやく景継は顔を上げた。
「そんなに経ちました?」
「経っております」
「気づきませんでした」
「だから申し上げているのです」
弥兵衛は呆れたように息を吐いた。
「岩倉と戦う前に、若様が倒れては意味がございませぬ」
「それもそうですね」
景継は筆を置いた。
「少し休みます」
「最初からそうしてください」
弥兵衛に追い出されるようにして部屋を出ると、景継は庭へ向かった。
外の空気は涼しかった。季節は少しずつ進んでおり、吹き抜ける風にも以前とは違うものが混じり始めている。
景継は大きく息を吸い、空を見上げた。
その時だった。
目の前の景色が、一瞬にして変わった。
◇◇◇
広い平原だった。
数え切れないほどの兵が並んでいる。
遠くで風に揺れている旗には、景継が見たこともない文字が書かれていた。
読めない。
そう思った。
だが同時に、そこに書かれている意味を自分は知っているような気がした。
景継は高い場所から戦場全体を見下ろしていた。
いや。
違う。
自分ではない。
誰かの目を通して見ている。
隣に立つ男が何かを報告している。敵の左翼が前へ出たこと。中央の進みが遅れていること。そして味方の将が、今こそ攻めるべきだと進言していること。
すると、自分の口が勝手に動いた。
「まだだ」
景継の身体が強張った。
自分の声ではない。
もっと低い。
何十年も生きた男の声。
「今動けば、相手の望む場所で戦うことになる」
隣の男が何かを言い返した。
早く攻めなければ機を失う。
そのような意味だった。
だが、その声の主は動じない。
「待てばよい」
静かな声だった。
「人は勝てると思った時ほど前へ出る。前へ出れば陣は伸びる。陣が伸びれば、必ずどこかに隙が生まれる」
景継はその言葉を聞きながら、不思議な感覚に襲われた。
知っている。
この考え方を。
初めて聞いたはずなのに、昔から知っている。
何度も。
何度も。
こうして敵が崩れるのを待ってきた。
そんな感覚があった。
「急ぐ必要はない」
男の声が続いた。
「最後に立っている者が勝つ」
次の瞬間、景色が消えた。
◇◇◇
景継は庭に立ったまま、しばらく動けなかった。
目の前には、いつもの清洲城の庭がある。木も石も土も、何一つ変わっていない。
それなのに胸の鼓動だけが速かった。
「若様?」
後ろから弥兵衛の声がした。
景継はゆっくり振り返る。
「どうされました?」
「……少し、ぼんやりしていました」
弥兵衛が近づいてくる。
「顔色がよくありませぬ」
「大丈夫です」
「最近、その言葉が増えましたな」
景継は何も答えなかった。
弥兵衛はしばらく景継の顔を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
景継はもう一度庭を見る。
先ほどの景色。
あれは何だったのか。
夢ではない。
眠っていなかった。
そして何より気になるのは、あの男の考え方だった。
敵が動くまで待つ。
敵自身に陣を崩させる。
その考え方が、あまりにも自分に馴染んでいた。
◇◇◇
その日の夕方、景継は信長のもとへ呼ばれた。
信長の前には尾張北部の地図が広げられていた。
「岩倉の動きが変わった」
「何かありました?」
「信賢が兵を調べ始めておる」
景継の表情が変わる。
「休戦中ですよ」
「俺たちも同じようなことをしているだろう」
「それはそうですが」
「だから俺も怒ってはおらん」
信長は地図の北側を指した。
すぐに軍勢を集めるという話ではない。だが信賢は家臣たちに対し、どれほどの兵を出せるのか確認を始めているらしい。
休戦は和平ではない。
三ヶ月後。
その先にある戦いを、双方とも見始めている。
「景継」
「はい」
「前に言っていたな。戦う前に勝ち始める、と」
「はい」
「どこまでいける」
景継は地図を見ながら考えた。
「今のままなら、岩倉方の兵を二割ほど減らせると思います」
信長の眉が動く。
「二割?」
「全部を寝返らせる必要はありません。戦が始まっても動かない者、兵を出すのが遅れる者、半分しか出さない者。それを合わせれば二割ほどにはなるかと」
信長はしばらく地図を眺めた。
そして一言。
「足りぬ」
景継は思わず笑った。
「信長様ならそう言うと思いました」
「三割にしろ」
「簡単に言いますね」
「できぬか」
景継は地図へ視線を戻した。
二割から三割。
数字だけなら一割増えるだけだが、実際には簡単ではない。すでに動かしやすい者には声をかけている。残っているのは信賢への忠誠が強い者か、こちらを信用していない者たちだ。
正面から説得しても難しい。
なら。
景継の視線が、末森へ止まった。
「一つ、方法があります」
「何だ」
「信勝様に協力してもらいます」
信長の表情が少し変わった。
「どう使う」
「岩倉から見れば、信勝様はまだこちらから離れる可能性があると思われています」
「それを利用する?」
「はい。信勝様が岩倉へ近づいているように見せます」
信長はしばらく黙った。
「また喧嘩しているふりか」
「今度はもう少し大きく」
「信勝が怒るぞ」
「たぶん」
「お前が言え」
景継が信長を見る。
「信長様から言ってください」
「嫌だ」
「私も嫌です」
「お前の策だ」
「信長様が三割にしろと言ったのでしょう」
二人はしばらく見つめ合った。
結局。
景継が話すことになった。
◇◇◇
翌日、景継は末森城を訪れた。
信勝は景継の顔を見るなり、明らかに嫌そうな顔をした。
「また何か儂にさせるつもりだな」
景継は少し驚いた。
「なぜ分かったのです」
「最近、お前がその顔で来る時は大体そうだ」
「どんな顔です?」
「面倒なことを思いついた顔だ」
景継は否定できなかった。
「信長様との仲が悪くなったふりをしていただきたいのです」
信勝は無言になった。
やがて。
「またか」
「はい」
「前もやっただろう」
「今回は少し違います」
「何が違う」
景継は持ってきた地図を広げた。
「岩倉側から接触が来た場合、少しだけ話を聞いてください」
信勝の表情が変わった。
「岩倉と内通しろと?」
「そこまでは言っていません」
「同じようなものだろう」
「味方になる必要はありません。岩倉側に、信勝様を味方にできるかもしれないと思わせたいのです」
信勝は地図を見る。
「それで何が起きる」
「まず岩倉は、信勝様を味方につけるために動きます。清洲との戦いになれば末森の兵まで使えると思えば、今まで慎重だった者も強気になるでしょう」
「それでは岩倉を助けるだけではないか」
「最初はそう見えます」
景継は岩倉周辺にあるいくつかの印を指した。
「ですが、信勝様まで岩倉につく可能性が出れば、今度は岩倉が強くなりすぎると考える者が出ます」
信勝の眉が動く。
「強くなりすぎる?」
「はい。岩倉が勝った後、信賢様の力が大きくなりすぎれば、小さな土豪たちは今までと同じ立場でいられるとは限りません。力を持ちすぎた者を恐れて、逆にこちらへ近づく者が出るはずです」
信勝はしばらく景継を見ていた。
「お前は、儂が岩倉へ行くと見せかけて、岩倉の味方を減らそうとしているのか」
「はい」
「儂を餌にして」
「言い方は悪いですが」
「合っているのだな」
「……はい」
信勝が大きく息を吐いた。
「兄上も知っているのか」
「はい」
「何と言った」
「信勝様が怒ると」
「そこは当たっている」
景継は少し笑った。
信勝はまだ不満そうだったが、しばらく地図を眺めた後、別のことを聞いた。
「一つ問題がある」
「何でしょう」
「儂が岩倉と話していることを知れば、兄上の家臣の中にも、本当に裏切ったと思う者が出るぞ」
「その可能性はあります」
「また兄上と儂が揉めることにならぬか」
「だから信長様と信勝様には、最初に知っておいていただきます」
「他の者には?」
「必要な者だけです」
信勝が顔を上げた。
「味方まで騙すのか」
「全員が知っていれば、噂に本気がなくなります」
信勝は呆れたように景継を見る。
「お前は段々と性格が悪くなっている気がする」
「最近、よく言われます」
信勝はとうとう笑った。
「よい。やってやる。ただし一つ条件がある」
「何でしょう」
「儂が本当に裏切ったと思って兄上が末森へ斬り込んできたら、お前が止めろ」
「分かりました」
「絶対だぞ」
「できるだけ」
「そこは必ずと言え!」
◇◇◇
策はすぐに動き始めた。
岩倉方から末森へ使者が来ても、以前のように完全には拒絶しない。信勝自身が会うことは避けたが、側近を通じて話だけは聞くようになった。
返事も慎重に選んだ。
信長への不満がまったくないとは言わない。
将来のことは分からない。
岩倉と敵対する必要もないと思っている。
決して味方になるとは言わない。
だが、完全に拒絶もしない。
それだけで十分だった。
数日後には、「信勝が再び信長から離れ始めている」という噂が流れ始めた。
さらに景継は、その噂をあえて否定しなかった。商人たちの間では、信長と信勝が評定の席で激しく言い争ったという話まで流れ始めた。
もちろん。
二人はその日、会ってすらいなかった。
◇◇◇
効果は思っていたより早く出た。
岩倉方についていた土豪の一人から、秘密の使者が清洲へやってきた。
「信勝様が岩倉へつかれるというのは、本当でしょうか」
使者に尋ねられ、景継はすぐには答えなかった。
「なぜ気になります?」
「もし信勝様まで岩倉につかれるなら、こちらも考え直さねばなりませぬ」
「何を?」
男は少し迷った後、声を落とした。
「清洲へつくことを」
景継は表情を変えなかった。
だが、内心では思った通りだと感じていた。
信勝が岩倉へつきそうだから、自分たちも岩倉へ行くのではない。
逆だった。
信勝まで岩倉へ入れば、信賢の力が強くなりすぎる。そうなった時、自分たちのような小さな土豪が今までと同じように領地を保てる保証はない。
だから、今のうちに清洲ともつながっておきたい。
人は必ずしも強い方へ行くわけではない。
強すぎる者を恐れ、反対側へ行くこともある。
「信勝様については、まだ何も決まっていません」
景継はそう答えた。
「ただ、あなた方がどちらにつくのかは、早めに決めた方がよいと思います」
「それは脅しですか」
「いいえ」
景継は相手を見る。
「岩倉が勝つと思うなら岩倉へ。清洲が勝つと思うなら清洲へ。最後まで迷うのも自由です」
「ではなぜ」
「ただし」
景継は言葉を続けた。
「最後まで迷った者が、一番よい条件を得られるとは限りません」
男は黙った。
それ以上、景継は何も言わなかった。
使者はしばらく考え込んだ後、帰っていった。
◇◇◇
その夜、景継は帳面へ一日の出来事を書いていた。
信勝を岩倉へ近づける。
それによって岩倉を強く見せる。
岩倉を強く見せることで、その力を恐れる者を逆に離れさせる。
自分で考えた策だった。
少なくとも、そのはずだった。
だが文字を書いている途中で、また妙な感覚がした。
敵を強く見せる。
その強さを恐れさせる。
周囲を離れさせる。
どこかで似たようなことをしたことがある。
景継は筆を止めた。
「またか……」
最近は多い。
策を考えるたびに、初めて考えたとは思えない感覚が湧いてくる。
まるで。
自分の中に、もう一人。
何十年も戦と政治の中を生きた人間がいるような。
景継は目を閉じた。
すると。
再び景色が浮かんだ。
◇◇◇
今度は城の中だった。
広い部屋に何人もの男が集まっている。
誰一人として見たことがない。
それなのに。
景継には、彼らがどのような人間なのか分かるような気がした。
慎重な者。
短気な者。
野心を持つ者。
自分を嫌っている者。
そして。
信用してはならない者。
一人の男が言った。
「敵は勢いを増しております。このままでは周辺の者たちも、向こうへ流れるかと」
自分ではない声が答える。
「増しているように見えるだけだ」
別の男が聞く。
「では、恐れる必要はないと?」
「恐れる必要はない」
低い声だった。
「力を持てば、人は集まる。だが同時に、その力を恐れる者も増える」
部屋にいる者たちが黙る。
「強くなればなるほど、敵も増える。それを忘れた者から滅びる」
景継の身体が固まった。
今日。
自分が考えたことと同じだった。
いや。
逆なのかもしれない。
今日、自分が思いついたのではない。
この男が昔考えていたことを。
自分が思い出しただけなのではないか。
その瞬間。
部屋の奥から誰かが声をかけた。
男を呼んでいる。
名前。
景継は必死に聞こうとした。
だが音が歪んでいる。
最初の一音すら、はっきりとは聞き取れない。
もう少し。
あと少しで聞こえる。
そう思った瞬間。
景色が消えた。
◇◇◇
景継は机の前で目を開いた。
呼吸が少し乱れている。
目の前には帳面がある。
自分が書いた文字。
自分の手。
自分の部屋。
すべていつも通りだった。
だが。
もう誤魔化せない。
これは単なる夢ではない。
何かがある。
自分の中に。
自分が知らない何かが。
景継は筆を持った。
だが、何も書かなかった。
名前は聞こえなかった。
姿も見えない。
年齢も分からない。
ただ一つ分かるのは。
あの男の考え方が。
自分とあまりにも似ている。
景継はしばらく白い紙を見つめた後、筆を置いた。
怖くないと言えば嘘になる。
だが。
それ以上に。
知りたかった。
あの男は誰なのか。
そして。
なぜ自分は、その男の記憶を見ているのか。
◇◇◇
翌朝。
景継は昨夜のことを誰にも話さなかった。
岩倉についての報告を持って信長のもとへ向かうと、信長は景継を見るなり尋ねた。
「どうだ」
「一人、動きそうです」
「寝返るか」
「まだです。ただ、岩倉が強くなりすぎることを恐れています」
信長が笑った。
「信勝を使ったのが効いたか」
「はい」
「ならもっとやれ」
「信勝様が本気で怒りますよ」
「お前が説得しろ」
「毎回私ですか」
「お前の策だ」
景継は少し嫌そうな顔をしながら地図を広げた。
「このままなら、三割に近づけるかもしれません」
信長の目が変わる。
「本当か」
「まだ分かりません」
「またそれか」
「確実ではありませんので」
信長は地図を見る。
しばらくして、ふと景継へ尋ねた。
「楽しいか」
景継が顔を上げる。
「何がです?」
「これだ」
信長が地図を指した。
「戦も始まっていないのに敵の兵を減らし、人を動かし、相手がどう出るかを考えている」
景継はすぐには答えなかった。
楽しい。
その言葉が正しいのかは分からない。
だが地図を見て、人の動きを考え、敵が次に何をするのかを読む。その時間は不思議なくらい落ち着いた。
初めてやっているはずなのに。
ずっと昔から。
これをやってきたような気さえする。
「嫌いではありません」
景継が答える。
信長は笑った。
「やはりな」
「何です」
「お前は戦場へ出した方が面白そうだ」
景継の表情が少し変わった。
戦場。
その言葉を聞いた瞬間、昨日見た景色が蘇る。
大軍。
旗。
知らない人間たち。
そして。
自分ではない自分。
「どうした」
信長が聞く。
景継は少しだけ間を置いた。
「いつか」
「何だ」
「自分でも戦場へ出てみたいです」
信長が一瞬黙った。
それから、口元を上げる。
「なら近いうちに出してやる」
景継は冗談だと思った。
だが。
信長の目は笑っていなかった。
◇◇◇
同じ頃。
岩倉では、信賢のもとへ新しい報告が届いていた。
「信勝がこちらへ傾いている?」
「はい。ただ、まだ明確な返事はございませぬ」
信賢は少し考える。
「なら押せ」
「どこまで条件を出しますか」
「必要なら領地を増やす。信勝をこちらへ引き込めるなら安いものだ」
家臣が頭を下げる。
そのやり取りを、部屋の端にいた一人の男が静かに聞いていた。
京から来たという男だった。
以前、月照寺の会談へつながる話を持ち込んだ宗兵衛とは別人である。
信賢が部屋を出た後。
男は岩倉の家臣へ声をかけた。
「うまくいっておりますな」
「何がだ」
「信勝様のことでございます」
「まだこちらへ来ると決まったわけではない」
「決まらなくてもよろしいのです」
家臣が眉を寄せる。
「何?」
男はそれ以上答えなかった。
ただ懐から小さな紙を取り出す。
そこには。
円の中に三本の線。
あの印が押されていた。
◇◇◇
その日の夜。
先生は報告を受けていた。
「景継が信勝を使い、岩倉を揺らし始めました」
「そうか」
「一部の国人が、逆に清洲へ近づき始めております」
先生は静かに頷いた。
「よい」
報告役の男が少し不思議そうな顔をする。
「止めないのですか」
「なぜ止める」
「このままでは信長が有利になります」
先生は答えず、机の上に広げられた尾張の地図を見た。
清洲。
末森。
岩倉。
三つの勢力は、少しずつ形を変え始めている。
「信長が勝つことが問題なのではない」
先生は静かに言った。
「では、何が問題なのでしょう」
「私が見たいのは結果ではない」
先生の視線が、一つの駒へ向いた。
林道景継。
「そこへ至るまでに、この少年が何をするかだ」
報告役の男は黙った。
先生は景継の駒を指先で転がした。
「先生は以前から、あの少年を随分と気にしておられますな」
「ああ」
「なぜです?」
先生の手が止まった。
しばらく沈黙が続いた。
「昔」
先生が口を開く。
「一度だけ、あの少年と話したことがある」
男が驚く。
「景継殿と?」
「今のあれは覚えておらぬだろう」
「いつのことでございます」
「ずっと幼い頃だ」
先生はそれ以上詳しく話そうとしなかった。
だが男は気になったらしい。
「その時、何があったのでしょう」
先生は少しだけ目を細めた。
「子供が知っているはずのないことを、あれは知っていた」
「知っているはずのないこと?」
「そうだ」
「誰かから聞いたのでは」
「私も最初はそう思った」
先生は景継の駒を見る。
「だが違った。知識だけではない。あれはまるで、自分が見てきたことのように話していた」
男の表情から笑みが消えた。
「何を話していたのです」
先生は答えなかった。
それを今ここで語るつもりはないらしい。
「その後、もう一度あの少年について調べた」
先生は続ける。
「すると何も覚えていなかった」
「忘れた?」
「そうだ」
「幼い頃のことでございます。珍しくもないのでは」
「普通ならな」
先生は小さく笑った。
「だから私は知りたい」
「何を?」
先生は景継の駒から指を離した。
「あの時の記憶は、本当に消えたのか。それとも、ただ眠っているだけなのか」
男はしばらく黙っていた。
やがて。
「では先生は、景継殿が何者なのかご存じなのですか」
先生の視線が男へ向いた。
そして。
静かに首を横に振った。
「知らぬ」
「では、なぜそこまで」
「知らぬからだ」
先生は再び景継の駒を見る。
「私も知りたいのだよ」
あの少年が。
何者なのか。
◇◇◇
清洲では。
景継が眠りについていた。
その夜。
夢を見た。
今度は戦場ではなかった。
薄暗い部屋。
目の前に一人の男が立っている。
顔は見えない。
何かを話している。
景継は耳を澄ませた。
「急ぐ必要はございませぬ」
自分の口が動く。
また。
あの低い声。
「時はこちらにあります」
男が何かを尋ねた。
自分は答える。
「待ちましょう」
その瞬間。
景継の胸の奥に。
強い感覚が走った。
この言葉。
この場所。
この相手。
全部。
知っている。
思い出せないだけだ。
もう少し。
あと少し。
何かが。
すぐそこまで来ている。
だが。
その夜も。
男の名前だけは。
最後まで聞こえなかった。




