↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/286

第三十六話 動き始めた記憶



月照寺での会談から数日が経った。


清洲と岩倉の間には三ヶ月の休戦が成立し、表向きの尾張には束の間の静けさが戻っていた。


境界での小競り合いも止まっている。


互いの家臣が勝手に相手方へ入ることもない。


だが、それは争いが終わったという意味ではなかった。


むしろ景継には、以前より相手の動きが見えにくくなったように感じられていた。


戦が止まれば、兵の動きは減る。


兵が動かなければ、何を考えているのかも分かりにくい。


そして何より。


岩倉側も、この三ヶ月をただ待つつもりはない。


月照寺で信賢が言った言葉が、景継の頭に残っていた。


――自分だけが盤を見ていると思うな。


その通りだった。


こちらが岩倉を削るなら、向こうも清洲を削ろうとする。


戦は止まっている。


だが、その前段階ではすでに互いに動いている。


そして景継自身の中でも、別の何かが動き始めていた。


眠っている時だけではない。


起きている時にも、突然、見覚えのない景色が浮かぶようになっていた。


巨大な城壁。


尾張では見たことのない鎧。


風を受けて揺れる無数の旗。


地平の向こうまで続いているように見える兵。


どれも知らない。


知らないはずなのに。


景継は時々、その景色を懐かしいと感じてしまう。


それが一番、気味が悪かった。


その日、景継は岩倉方面から集めた報告を整理していた。


長谷川重房。


岩倉方につく周辺の土豪。


街道。


米。


それぞれについて集めた情報を紙へ書き込み、地図の上へ置いていく。


休戦中だからこそ、できることがある。


三ヶ月後に戦となった時、岩倉がどれほどの兵を集められるのか。


その数を、今から減らしておく。


「若様」


弥兵衛の声がした。


「はい」


景継は地図から目を離さない。


「少し休まれては?」


「まだ大丈夫です」


「先ほどから、ほとんど動いておられませぬ」


「そんなに経ちました?」


「一刻ほど」


そこで景継は顔を上げた。


「もう?」


「もう、でございます」


弥兵衛は呆れたように息を吐く。


「岩倉と戦う前に、若様が倒れては意味がございませぬぞ」


「それは困りますね」


「困ると思うのでしたら休んでください」


「分かりました」


景継は筆を置いた。


素直に立ち上がると、弥兵衛が少し驚いた顔をする。


「何です?」


「いえ。今日は随分と素直でございますな」


「休めと言ったのは弥兵衛でしょう」


「言うことを聞かれると、それはそれで不安になります」


「どうすればいいんですか」


景継は苦笑しながら部屋を出た。


庭へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。


景継は大きく息を吸う。


頭の中に詰まっていた名前や数字が、少しずつ薄れていく。


その時だった。


庭が消えた。


目の前に広がっていたのは、平原だった。


数え切れないほどの兵。


土煙。


遠くで揺れる旗。


旗には見たことのない文字が書かれている。


読めない。


そう思った。


なのに。


意味だけは分かる。


景継は高い場所から戦場を見下ろしていた。


いや。


違う。


自分が見ているのではない。


誰かの目を通して見ている。


隣に立つ男が何かを訴えていた。


敵の一部が前へ出た。


今こそ攻めるべきだ。


機を逃す。


そんな内容だった。


すると、自分の口が動いた。


「まだだ」


景継の身体が強張る。


自分の声ではない。


もっと低い。


長い年月を生きた男の声。


「今動けば、相手の望む場所で戦うことになる」


隣の男が食い下がる。


それでも声の主は動かなかった。


「待てばよい」


静かな声だった。


「人は勝てると思った時ほど前へ出る。前へ出れば陣は伸びる。伸びれば、どこかに綻びが生まれる」


景継は息をするのも忘れていた。


知っている。


この考え方を。


初めて聞くはずなのに。


ずっと昔から知っている。


「急ぐ必要はない」


男の声が続く。


「最後に立っている者が勝つ」


次の瞬間。


景色が消えた。


「若様?」


景継は庭に立っていた。


後ろには弥兵衛がいる。


木も石も土も、いつも通りだった。


「どうされました?」


「……何でもありません」


弥兵衛が近づく。


「顔色がよくありませぬ」


「少し、ぼんやりしていただけです」


「最近、その言葉が増えておりますぞ」


景継は答えなかった。


先ほどの光景が頭から離れない。


夢ではない。


眠っていなかった。


そして何より。


あの男の考え方が、自分とあまりにも似ている。


いや。


本当に似ているだけなのか。


自分があの男に似ているのではなく。


自分の考え方そのものが、あの男から来ているのだとしたら。


景継はそこまで考え、やめた。


まだ何も分からない。


その日の夕方。


景継は信長に呼ばれた。


部屋へ入ると、尾張北部の地図が広げられている。


「岩倉が動いた」


信長が言った。


「兵を?」


「いや。人をだ」


景継が座る。


「誰です?」


信長が一ヶ所を指した。


長谷川重房の領地に隣接する、小さな土豪。


景継も調べていた者だった。


「岩倉が領地の境を認めると約束したらしい」


「代わりに?」


「戦になれば、必ず兵を出せと」


景継は地図を見る。


さらに別の報告もあった。


岩倉側は、清洲から接触を受けた者を調べ始めている。


迷っている者には条件を出す。


領地。


金。


境界争いへの介入。


それでも信用できない者からは人質を取る。


月照寺で信賢が言った通りだった。


一人奪えば、一人奪い返す。


「河村直綱でしょうか」


景継が呟く。


「誰だ」


「月照寺にいた男です。岩倉側で情報を見ている方だと思います」


信長は面白そうに笑った。


「お前にも相手ができたな」


「嬉しくありません」


「そうか?」


「はい」


景継は答えたものの、地図を見る目には自然と力が入った。


相手も考えている。


こちらの策を見て、対抗している。


ならば同じことを続けても意味がない。


信長が聞く。


「前に言っていたな。岩倉の兵を二割ほど減らせると」


「はい」


「このままでいけるか」


景継は少し考えた。


「難しくなりました」


「なら三割にしろ」


景継が顔を上げる。


「話を聞いていました?」


「聞いていた」


「難しくなったと言ったんですが」


「だから三割だ」


「なぜ増えるんです?」


信長は当然のように答える。


「向こうも動くなら、それ以上に動けばよい」


景継はしばらく信長を見た。


「簡単に言いますね」


「できぬか」


景継は地図へ視線を戻した。


今まで通り、岩倉方の土豪へ一人ずつ声をかけても警戒される。


なら別の方法が必要になる。


岩倉そのものではなく。


岩倉を取り巻く者の判断を変える方法。


景継の視線が末森で止まった。


「一つ、あります」


「何だ」


「信勝様に協力してもらいます」


信長の口元が上がった。


「また怒るぞ」


「でしょうね」


「お前が話せ」


「信長様からお願いします」


「嫌だ」


「私も嫌です」


「お前の策だ」


「三割と言ったのは信長様です」


しばらく二人は見つめ合った。


結局。


景継が末森へ行くことになった。


翌日。


末森城で景継の顔を見るなり、信勝は眉を寄せた。


「また何か儂にさせるつもりだな」


景継は少し驚く。


「なぜ分かったのです?」


「最近、お前がその顔で来る時は大体そうだ」


「どんな顔です?」


「人を面倒事へ巻き込もうとしている顔だ」


景継は否定できなかった。


「信長様との仲が悪くなったように見せていただきたいのです」


信勝が無言になる。


「……またか」


「はい」


「この前もやっただろう」


「今回は少し違います」


「何が違う」


景継は地図を広げた。


「岩倉から接触が来た場合、少しだけ話を聞いてください」


信勝の顔つきが変わる。


「儂を岩倉へ売るつもりか」


「売りません」


「では何だ」


「岩倉側に、信勝様を味方にできるかもしれないと思わせます」


「同じようなものではないか」


「全然違います」


「お前にとってはな」


信勝は不満そうに地図を見る。


しばらくして、ふと顔を上げた。


「待て」


「はい」


「儂が岩倉へ傾けば、信賢は喜ぶだろう」


「そうでしょうね」


「なら岩倉方の者も、信賢がさらに強くなると思うのではないか?」


景継は黙った。


信勝が続ける。


「小さな領主からすれば、強すぎる主も困るのではないのか」


景継は信勝を見る。


以前なら。


信勝はここまで考えなかったかもしれない。


「……そこです」


「やはりか」


信勝が少し得意そうな顔をした。


「私が説明する前に気づかれましたね」


「いつまでもお前に教えられるだけだと思うな」


「思っていませんよ」


「今の間は何だ」


「何でもありません」


信勝が睨む。


景継は地図へ視線を戻した。


「信勝様まで岩倉へつく可能性が出れば、信賢様の力は一気に大きく見えます」


「それを恐れる者が、清洲へ寄る」


「はい」


人は必ずしも強い方へつくわけではない。


強すぎる者を恐れ、その反対へ逃げることもある。


信勝は腕を組んだ。


「だが、一つ問題がある」


「何でしょう」


「岩倉も馬鹿ではない」


景継の目が少し細くなる。


「儂が急に態度を変えれば、お前の策だと疑うのではないか」


景継は少し笑った。


「その通りです」


「ならどうする」


「本当に少しだけ不満を持ってください」


「何?」


「信長様に」


「本当に喧嘩しろと?」


「そこまでは」


景継は考える。


「例えば、信長様から頼まれたことを一つ断る」


「それだけでよいのか」


「はい。岩倉が調べれば、本当に信勝様が信長様の命令を断った事実が出てきます」


信勝が呆れたように景継を見る。


「嘘の中へ本当を混ぜるのか」


「その方が信じやすいです」


「お前は段々と性格が悪くなっていないか」


「最近、よく言われます」


「誰にだ」


「色々な方に」


信勝は大きく息を吐いた。


「よい。やってやる」


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「兄上には、お前から説明しろ」


景継は少し黙った。


「……もう説明してあります」


「そうか」


信勝が笑う。


「なら儂だけ損ではないな」


「何の勝負ですか」


策は数日のうちに動き始めた。


信長が末森へ求めた兵糧運搬への協力を、信勝が一度だけ断る。


理由は末森側の都合。


それ自体は不自然ではない。


だが、岩倉へ流れる時には少し形を変える。


信勝が信長の命令を拒絶した。


兄弟の関係が再び悪くなっている。


さらに岩倉から末森へ接触があっても、以前のように完全には追い返さない。


話だけは聞く。


将来のことは分からない。


岩倉と争いたいわけでもない。


決して味方になるとは言わない。


だが、否定もしない。


噂はすぐに広がった。


ところが。


岩倉はすぐには動かなかった。


「反応がない?」


景継が聞き返す。


「はい」


報告に来た者が頷く。


「岩倉から末森への使者は増えておりませぬ」


予想と違う。


信勝を取り込める可能性があるなら、条件を持ってくると思っていた。


景継は地図を見る。


「河村直綱……」


こちらの狙いに気づいたのか。


あるいは。


わざと待っている?


同じ日の夕方。


別の報告が届いた。


今度は岩倉側の土豪からだった。


清洲へ近づこうとしていた者が、突然態度を変えたという。


理由は単純だった。


「信勝様が岩倉へつかれるなら、清洲に勝ち目はない、と」


景継の手が止まった。


弥兵衛が横から聞く。


「逆に使われましたか」


「……はい」


こちらは岩倉が強くなりすぎることを恐れさせるつもりだった。


だが岩倉側は逆に、


信勝まで岩倉へつく。


ならば岩倉が勝つ。


今のうちに岩倉へ残った方が安全だ。


そう思わせている。


「こちらの噂を、そのまま使われましたね」


景継は少し笑った。


弥兵衛が不思議そうに見る。


「楽しそうでございますな」


「そう見えます?」


「少し」


景継は地図を見る。


策を返された。


腹が立たないわけではない。


だが、それ以上に頭が動く。


なら次はどうする。


信勝が岩倉へ傾いているという噂を消すか。


さらに強めるか。


別の噂を重ねるか。


相手が何を信じているか。


何を信じたいのか。


そこを見なければならない。


その瞬間。


まただった。


広い部屋。


見知らぬ男たちが並んでいる。


誰一人、顔を知らない。


それなのに。


慎重な者。


短気な者。


野心を持つ者。


自分を嫌っている者。


信用してはならない者。


なぜか分かる。


一人の男が言った。


「敵は勢いを増しております。このままでは周辺の者も、向こうへ流れるかと」


あの声が答えた。


「増しているように見えるだけだ」


「では恐れる必要はないと?」


「恐れる必要はない」


低く、落ち着いた声。


「力を持てば、人は集まる。だが同時に、その力を恐れる者も増える」


景継の胸が強く鳴った。


今日。


自分が使おうとした考え方と同じだ。


「強くなればなるほど、敵も増える。それを忘れた者から滅びる」


景継は息を呑む。


これは。


今日、自分が考えたことではないのか。


違う。


もしかすると。


自分は思いついているのではない。


思い出している?


部屋の奥から誰かが声を上げた。


あの男を呼んだ。


名前。


景継は必死に聞こうとする。


音が遠い。


二つの音だけが聞こえたような気がした。


もう一度。


あと少し。


だが。


景色が消えた。


景継は机の前にいた。


手には筆を持ったまま。


紙には何も書かれていない。


「若様?」


弥兵衛の声が遠く感じる。


「……はい」


「大丈夫ですか」


景継はすぐには答えなかった。


もう。


夢だったとは思えない。


自分の中に何かがある。


知らないはずの戦場。


知らないはずの人間。


知らないはずの考え方。


それなのに。


全部が、自分のもののように感じる。


「弥兵衛」


「はい」


景継は一度、話そうとした。


だが。


言葉が出なかった。


「……いえ。何でもありません」


弥兵衛は何か言いたそうだったが、聞かなかった。


翌朝。


景継は信長のもとへ向かった。


信勝を使った策が岩倉側に逆利用されたことも、隠さず報告する。


信長は話を聞き終えると笑った。


「負けたな」


「まだです」


景継はすぐに返した。


「ほう」


「一手返されただけです」


信長の笑みが大きくなる。


「なら次は?」


景継は地図を広げる。


「噂を止めます」


「信勝が岩倉へつくという話を?」


「はい」


「せっかく広げたのにか」


「だから止めるんです」


信長が眉を上げる。


景継は説明する。


急に噂が消えれば、岩倉側は考える。


なぜ止めた。


何かあったのか。


信勝との交渉に失敗したのか。


それとも最初から偽りだったのか。


「答えを与えません」


「迷わせるのか」


「はい」


「その間に?」


「別のところを動かします」


景継は岩倉の北西側を指した。


「こちらです」


信長が地図を見る。


「忙しい奴だな」


「三割にしろと言ったのは信長様でしょう」


「まだ覚えていたか」


「忘れません」


信長は笑った。


そして、ふと景継を見る。


「楽しいか」


景継が顔を上げる。


「何がです?」


「これだ」


信長が地図を指す。


「戦も始まっておらんのに、人を動かして、敵が何を考えるか読んで、策を返されればまた次を考える」


景継は答えに迷った。


楽しい。


そう言ってしまうと、何か違う気もする。


だが。


嫌いではない。


地図を見ていると落ち着く。


敵の動きを考えると、頭の中が澄んでいく。


まるで。


ずっと昔から、こうしてきたように。


「嫌いではありません」


「やはりな」


「何です?」


「お前は戦場へ出した方が面白そうだ」


景継の表情が変わる。


戦場。


その言葉を聞いた瞬間。


平原。


無数の旗。


大軍。


あの声。


すべてが一瞬だけ蘇った。


「いつか」


景継が呟く。


「何だ」


「私も戦場へ出てみたいです」


信長は一瞬だけ黙った。


そして口元を上げる。


「なら、近いうちに出してやる」


景継は冗談かと思った。


だが。


信長の目は笑っていなかった。


その夜。


景継は夢を見た。


薄暗い部屋だった。


目の前には一人の男がいる。


顔は見えない。


何かを焦った様子で話している。


敵が動く。


こちらも急ぐべきだ。


そう訴えている。


自分の口が動いた。


また。


あの低い声。


「急ぐ必要はない」


男が何か言い返す。


「時はこちらにある」


景継はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


知っている。


この場所を。


この相手を。


この言葉を。


全部。


知っている。


思い出せないだけだ。


「待ちましょう」


自分ではない自分が言った。


その時。


部屋の奥から、別の声がした。


自分を呼んだ。


二つの音。


名前なのか。


別の呼び方なのか。


分からない。


だが確かに。


自分を呼んでいる。


もう一度。


声が聞こえる。


景継は必死に耳を澄ませた。


あと少し。


あと少しで――。


景継は目を開けた。


暗い天井が見える。


身体を起こす。


胸の鼓動が速い。


今度こそ聞こえた。


そう思った。


だが。


思い出そうとした瞬間、音が指の間から零れるように消えていく。


「……誰なんだ」


小さく呟いた。


答える者はいない。


ただ。


もう遠くはなかった。


景継の中で眠っていたもう一つの人生は、少しずつ、確実に目を覚まし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。