第三十七話 忘れていた戦場
夜明け前、景継は静かに目を覚ました。
勢いよく身体を起こしたわけでも、恐ろしい夢を見て叫び声を上げたわけでもない。ただ目を開いたまま天井を見つめ、しばらく身体を動かすことができなかった。
また夢を見ていた。
いや、最近はそれを夢と呼んでいいのかさえ、景継には分からなくなっていた。
広大な平原に並ぶ、数え切れないほどの兵。尾張では見たことのない鎧を身につけた将たち。風を受けて揺れる無数の旗。そして、自分ではないはずの男の目を通して見ている戦場。
以前なら、目を覚ましてしばらくすれば夢の内容は少しずつ薄れていった。ところが今朝は違う。目を閉じれば、つい先ほどまで自分がそこに立っていたかのように、戦場の景色を鮮明に思い出すことができた。
景継は布団から出ると、まだ薄暗い部屋の中で机へ向かった。
紙を広げ、筆を取る。
何かを書くつもりだったわけではない。だが筆先が紙へ触れた瞬間、まるで自分の意思とは関係ないかのように手が動き始めた。
最初に一本の川を描いた。その向こう側に山を置き、平地には軍勢を示す印をいくつも書き込んでいく。さらに一部の兵を川沿いへ配置し、山と川の間には意図的に何も置かない場所を作った。
そこまで描いたところで、景継は我に返った。
「……何を描いているんだ」
紙の上には、明らかに戦場の布陣らしきものが出来上がっていた。
だが景継には、その土地に見覚えがない。尾張でもなければ、美濃でも三河でもない。これまで見た地図の中にも、同じ地形はなかったはずだった。
それなのに、景継にはこの場所でどう戦えばいいのかが分かっていた。
敵が山側から下りてくれば、平地では受けない。川へ近づかせてから側面を突けばいい。敵が川を渡ろうとするなら、渡りきるまで待ってから攻撃する。そして敵の退路だけは完全には塞がない。
追い詰めすぎれば、人は死に物狂いになる。
逃げ道を残せば、戦うより逃げることを選ぶ。
なぜ自分がそんなことを知っているのか、景継には説明できなかった。
「俺は……ここを知っているのか?」
もちろん、そんなはずはない。
景継として生きてきた十三年間、そのほとんどを尾張で過ごしている。知らない土地へ行った記憶などないし、これほど大規模な戦を経験したこともない。
それでも頭の奥では、別の答えが返ってくる。
知っている。
この地形も、この戦い方も。
そして、ここで何が起きるのかさえ。
景継は自分の考えを振り払うように筆を置いた。
その時、戸の向こうから声が聞こえた。
「若様、起きておられますか」
弥兵衛だった。
「起きています」
返事をすると戸が開き、弥兵衛が部屋へ入ってきた。景継の顔を見た後、すぐに机の上に置かれた紙へ視線を移す。
「これは何でございます?」
景継は一瞬迷った。
「……夢で見ました」
「夢?」
弥兵衛は紙を手に取ると、描かれている川や山、兵の配置を確認した。
「どこの土地です?」
「分かりません」
「分からない土地の地図を描かれたのですか?」
「地図なのかどうかも分かりません。ただ、夢の中で見たものを描いただけです」
弥兵衛の表情が変わった。
「若様」
「何です?」
「最近、何か隠しておられませんか」
景継の手が止まった。
責められているわけではない。弥兵衛が本気で心配していることくらい、景継にも分かっていた。
だからこそ、いつものように「何でもありません」と答えることができなかった。
「……自分でも、よく分からないんです」
「何がでございます?」
景継はしばらく迷った末、初めて自分に起きていることを話すことにした。
「最近、知らない場所を見ることがあります。最初は眠っている時だけだったんですが、昨日は起きている時にも見えました」
弥兵衛の表情がさらに険しくなった。
「医者を呼びましょう」
「待ってください。そういう話ではありません」
「私には十分そういう話に聞こえますが」
景継は思わず苦笑した。
「そこで私は、別の人間になっているんです」
「別の人間?」
「正確には、その人の目から物を見ているような感じです。その人が何を考えているのかも分かる。戦場を見れば敵がどう動くか分かるし、周囲にいる人間がどんな性格なのかまで分かることがあります」
弥兵衛は何も言わなくなった。
景継自身、口に出して説明してみると、ますます奇妙な話だと思った。
「その者は誰なのでございます?」
「それが分かりません」
景継は机の上の紙を見る。
「名前も分からない。顔も見えない。ただ、その人が考えていたことだけが、自分の考えみたいに分かるんです」
弥兵衛はしばらく黙っていた。
「信長様には?」
「まだ話していません」
「話された方がよいのではございませんか」
「自分でも分からないことを、どう説明すればいいのです」
「今、私に話したように説明すればよろしいかと」
景継は返す言葉がなかった。
弥兵衛の言う通りだった。
「……少し考えます」
「またそれですか」
「便利な言葉なので」
弥兵衛が呆れたように息を吐く。
「若様は本当に十三歳でございますか?」
冗談だったのだろう。
だが、その言葉を聞いた瞬間、景継の表情から笑みが消えた。
本当に十三歳なのか。
身体は十三歳だ。
林道景継として生まれてから十三年しか経っていない。
だが、頭の中にいるあの男はどうなのだろう。
皺のある手。
何万という兵。
長い年月を戦場と政治の中で過ごしたような思考。
もし、あれが自分なのだとしたら。
景継はそれ以上考えることができなかった。
◇◇◇
昼過ぎ、清洲へ岩倉方面から急ぎの報告が入った。
信長、柴田勝家、景継らが集められ、使者から報告を受けることになった。
「岩倉方の国人、前野家が兵を動かしております」
勝家の表情が険しくなる。
「休戦を破るつもりか」
「いえ。こちらへ向かっているわけではございませぬ。領内で兵を集め、いつでも動けるようにしている様子にございます」
信長は地図を見た後、景継へ視線を向けた。
「どう思う」
景継は前野家の位置を確認した。
清洲、岩倉、末森。そして前野家の領地。
少し考えれば答えは出た。
「こちらを攻めるためではないと思います」
勝家が聞く。
「なぜだ」
「怖がっているのだと思います」
「誰を?」
「信賢様です」
勝家が眉を寄せる。
景継は地図を指した。
「信勝様が岩倉へ近づいているという噂が広がっています。もしそれが本当なら、岩倉は一気に強くなる。前野家からすれば、清洲よりも自分たちのすぐ近くにいる信賢様の方が怖いはずです」
「だが、その噂は我らが流したものだろう」
「はい。ですが、前野家は本気にしている」
信長が楽しそうに笑った。
「自分たちで流した嘘に敵が怯えて兵を集めたか。面白いな」
勝家は腕を組んだ。
「ならば今が好機ではないか。こちらから使者を送り、寝返らせればよい」
景継は首を横に振った。
「今は何もしない方がいいと思います」
勝家が意外そうに見る。
「何?」
「こちらから使者を送れば、前野家は自分たちの動きを監視されていると考えます。信賢様に知られることを恐れて、逆に態度を硬化させる可能性があります」
「なら放っておくのか」
「はい。前野家が本当に信賢様を恐れているのなら、いずれ向こうから動きます。それまで待てばいい」
口にした瞬間、景継の中で何かが反応した。
待つ。
また、この言葉だった。
昨日の記憶の中でも、あの男は敵が動くまで待っていた。焦る部下を抑え、敵自身が陣形を崩すまで動かなかった。
自分も同じことをしている。
偶然なのか。
それとも。
「景継?」
信長の声で我に返った。
「すみません。少し考えていました」
「何をだ」
「前野家のことです」
信長は疑うような目を向けたが、それ以上は聞かなかった。
「では待つか」
「はい」
「お前は本当に待つのが好きだな」
信長は笑いながら言った。
その何気ない言葉が、景継の胸の奥へ深く刺さった。
自分は待つのが好きなのか。
それとも。
昔から、待つことで勝ってきたのか。
◇◇◇
評定が終わると、勝家たちは部屋から出ていった。
景継も立ち上がろうとしたが、信長に呼び止められた。
「景継、残れ」
「はい」
二人だけになると、信長は先ほどまでとは違う顔で景継を見た。
「何かあったな」
「何がです?」
「先ほどだ。前野の話をしている途中、顔色が変わった」
「少し寝不足なだけです」
「嘘をつけ」
景継は黙った。
信長は人の感情など気にしないように見えて、妙なところでは鋭い。
景継はしばらく迷った。
だが今朝、弥兵衛へ話したことを思い出した。
「最近、夢を見るんです」
「夢?」
「知らない場所の夢です。そこにいる私は、私ではありません」
信長は笑わなかった。
景継は少し意外だった。
「続けろ」
「知らない男の目から戦場を見ています。その男が何を考えているのかも分かるんです。知らない土地なのに、どこへ兵を置けばいいのか分かる。周りにいる人間が何を考えているのかまで分かる時があります」
信長は黙って聞いていた。
「今朝は、夢で見た土地を紙に描きました。見たことのない場所なのに、そこでどう戦えばいいのかまで分かったんです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて信長が口を開く。
「面白いな」
景継は思わずため息をついた。
「やっぱりそう言いますか」
「何が悪い」
「もう少し驚いてください」
「驚いている」
「見えません」
信長は笑った。
「その男は強いのか」
「そこですか?」
「戦場にいるのだろう。なら強いか弱いかは重要だ」
景継は記憶を辿った。
何万もの兵。
周囲の将たち。
そして、誰もがあの男の判断を待っていた。
「……かなり偉い人だと思います」
「武将か」
「おそらく」
「なら聞けばよい」
景継は意味が分からず信長を見る。
「誰にです?」
「その男に決まっておる」
「夢の中の人ですよ」
「次に会ったら名前を聞け」
「聞けるなら、とっくに聞いています」
「お前なら何とかするだろう」
景継は本気で頭を抱えたくなった。
だが不思議なことに、信長へ話したことで胸の中にあった重いものが少しだけ軽くなった気がした。
信長は景継をしばらく見た後、先ほどまでより静かな声で言った。
「まあ、誰だろうと構わん」
「何がです?」
「その夢の男だ」
信長は景継を真っ直ぐ見た。
「昔どこの誰だったとしても、今ここにいるのは林道景継だろう」
景継は何も答えられなかった。
信長自身は深く考えて言ったわけではないのかもしれない。
だが、その言葉だけは長く胸に残った。
◇◇◇
その夜、景継はなかなか眠ることができなかった。
夢を見るのが怖かったわけではない。むしろ逆だった。
見たい。
もう一度、あの男の記憶を見たい。
自分との関係を知りたい。
あの男が誰なのか知りたい。
そして、なぜ自分の中にその記憶があるのかを知りたい。
やがて景継は眠りへ落ちた。
しばらくすると、また景色が変わった。
乾いた風が吹いている。
目の前には巨大な城壁がそびえていた。清洲城とは比べものにならない。城壁の上にも兵が並び、その向こうにはさらに大きな建物が見えている。
周囲には数千どころではない兵がいた。
景継は馬に乗っていた。
いや。
あの男が馬に乗っている。
自分の手を見る。
十三歳の手ではない。
皺が刻まれた、年老いた男の手だった。
鎧の形も日本のものとはまるで違う。
一人の将が馬を走らせて近づいてきた。
「敵軍、退き始めました。今なら追撃できます」
男はすぐに答えた。
「追うな」
「しかし、今なら大きく削れます」
「追うなと言った」
声は静かだった。
怒鳴っているわけではない。
それでも将はすぐに頭を下げた。
「逃げる敵ほど危険なものはない。退路を残してやれ。逃げられると思っている者は逃げる。逃げられぬと知った者は、こちらを殺すために振り返る」
「……承知しました」
将が去っていく。
景継は、その背中を見ながら奇妙な感覚を覚えた。
知っている。
あの将を知っている。
名前が出てこないだけだ。
顔も。
声も。
性格も。
昔から知っている。
そこで景色が変わった。
◇◇◇
今度は大きな屋敷の中だった。
豪華ではあるが、部屋の空気は重い。
病床に一人の男が横たわっていた。
身体は弱っている。
だが目だけは異様に強かった。
病人とは思えないほどの圧があり、周囲にいる者たちは誰も気を抜いていない。
景継の身体が勝手に頭を下げた。
病床の男が何かを話す。
声は聞こえている。
だが言葉だけが霧の向こうにあるように理解できない。
それでも感情だけは分かった。
尊敬している。
恐れている。
警戒している。
そして。
この男のことを、自分は誰よりもよく知っている。
長い間仕えてきた。
何度も試された。
何度も疑われた。
それでも生き残った。
病床の男が、わずかに笑った。
その瞬間。
胸の奥から強い感情が湧いた。
この人を知っている。
名前を。
自分は知っている。
あと少し。
もう少しで。
思い出せる。
しかし、男の顔がはっきり見える直前に景色が崩れた。
◇◇◇
次に見えたのは夜の戦場だった。
遠くで炎が上がっている。
軍勢同士が向かい合っている。
その向こう側に、一人の男がいた。
手には羽で作られた扇のようなものを持っている。
顔は見えない。
だが、その姿を見た瞬間、今までとは比べものにならないほど強い感情が景継の中を駆け抜けた。
警戒。
苛立ち。
疲労。
そして。
認めたくはないほどの敬意。
自分は、この男を知っている。
一度や二度ではない。
何度も戦った。
何度も互いの策を読み合った。
相手が何を考えているのかを考え続けた。
そして向こうもまた、自分が何を考えているのかを読み続けていた。
羽扇を持つ男が何かを言った。
言葉は聞こえない。
だが、自分の口が笑った。
「また、あなたですか」
相手も何かを返す。
男はしばらく黙った後、静かに答えた。
「ならば今回も、待たせていただきましょう」
その言葉を聞いた瞬間、景継の胸が激しく鳴った。
待つ。
まただ。
この男との戦いでも、自分は待っていた。
何度も。
何度も。
攻めたい者を抑え。
挑発されても動かず。
敵が崩れる時を待ち続けた。
景継の中で、これまで見てきた記憶が少しずつつながり始める。
待つ戦い。
大軍。
巨大な城。
病床の男。
羽扇を持つ敵。
そして、自分。
景色が崩れ始めた。
このまま終わらせてはいけない。
そう思った瞬間、景継は夢の中で叫んだ。
「待ってください!」
景色が止まった。
景継自身が驚いた。
これまで自分は、ただ記憶を見ることしかできなかった。
だが今。
初めて自分の意思で声を出した。
「あなたは誰なんです!」
羽扇を持つ男へ聞いているのではない。
この身体の持ち主。
自分がずっと見ている男へ問いかけていた。
「私は……誰なんですか!」
返事はない。
だが。
どこか遠くから声が聞こえた。
誰かが自分を呼んでいる。
今まで何度も聞こうとして、聞き取れなかった声。
今回は以前より近かった。
「都督!」
景継は息を呑んだ。
都督。
意味は分からない。
少なくとも、尾張で使われる呼び方ではない。
別の場所から声が聞こえる。
「太傅!」
また知らない呼び方だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸が締めつけられるような感覚があった。
知っている。
その呼び方を。
自分は何度もそう呼ばれていた。
そして。
さらに遠くから、別の声が聞こえた。
今度は役職ではない。
明らかに。
自分を呼ぶための言葉だった。
名前。
ついに。
名前が聞こえる。
景継は必死に耳を澄ませた。
だが、その瞬間、雷鳴のような音が戦場に響いた。
世界が砕ける。
声が消える。
男たちも。
巨大な城も。
羽扇を持つ男も。
すべてが闇へ飲み込まれた。
◇◇◇
景継は目を覚ました。
全身に汗をかいていた。
外はまだ暗い。
景継はすぐに布団から出ると、机へ向かった。
忘れてはいけない。
今度こそ。
見たものを全部残しておく。
紙を広げ、夢の中で聞いた言葉を書く。
『都督』
続いて。
『太傅』
意味は分からない。
だが確かに聞いた。
その二つの言葉を見ているだけで、頭の奥に何かが浮かびそうになる。
景継はさらに覚えているものを書いた。
巨大な城。
数万の兵。
病床の男。
羽扇を持つ男。
そして。
年老いた自分。
待つ戦い。
敵が動くまで耐える。
追い詰めすぎない。
人を読む。
時が来るまで動かない。
書き終えた景継は、紙を長い間見つめた。
今までは、誰かの記憶を見ているのだと思っていた。
だが。
違う。
あの男が考えていることを、自分はあまりにも自然に理解できる。
知らない人間の人生を覗いているだけなら、こんな感覚になるはずがない。
あの男が経験したことを、自分は知っている。
あの男が恐れたものを、自分も恐れている。
あの男が敵として見ていた人物に、自分まで警戒心を覚える。
そして何より。
夢の中で呼ばれていた言葉が。
自分に向けられていると分かる。
景継は自分の胸へ手を置いた。
「これは……私の記憶なのか?」
口にした瞬間。
身体の奥が震えた。
誰かの記憶ではない。
もしかすると。
本当に。
自分が経験したことなのかもしれない。
では。
自分は誰だった。
その問いだけが残った。
◇◇◇
翌朝、景継は弥兵衛に頼み、清洲にある書物をできる限り集めさせた。
「何を調べるのでございます?」
「大陸のことです」
「大陸?」
「古い戦について書かれたものがあれば、全部持ってきてください」
弥兵衛は首を傾げたが、昨日の話を聞いているため、それ以上は尋ねなかった。
しばらくして、いくつもの漢籍が運び込まれた。
景継は片っ端から読み始めた。
何を探しているのか、自分でも分からない。
都督。
太傅。
巨大な城。
大軍。
羽扇を持つ男。
それだけを手掛かりに文字を追う。
何冊目だったか。
景継の指が止まった。
一つの文字。
『魏』
その文字を見た瞬間。
胸が強く鳴った。
理由は分からない。
説明もできない。
だが。
知っている。
この国を。
自分は知っている。
景継は頁をめくった。
魏に仕えた者たちの名前が並んでいる。
一人。
また一人。
知らない。
だが、時折。
名前を見るだけで顔が浮かびそうになる者がいる。
さらに頁をめくる。
すると。
景継の指が止まった。
そこに記された一人の男の名を見た瞬間、頭の奥で何かが大きく動いた。
文字は見えている。
だが景継は、なぜかすぐに読むことができなかった。
胸の鼓動が速くなる。
この名を。
知っている。
間違いなく。
知っている。
あと少し。
この文字を声に出せば。
何かがつながる。
そう思った瞬間だった。
「景継! いるか!」
部屋の外から信長の声が響いた。
景継は反射的に書を閉じた。
戸が勢いよく開き、信長が入ってくる。
「岩倉が動いた」
景継の意識が現実へ引き戻された。
「何があったのです」
「前野から使者だ」
景継の表情が変わる。
「こちらにつくと?」
「そこまでは言っておらん。だが俺と直接話したいそうだ」
景継は閉じた書を見る。
ほんの少し前まで。
そこに答えがあった。
もう一度開けばいい。
それだけだった。
だが今は。
尾張が動いている。
景継は立ち上がった。
「行きましょう」
「ああ」
二人は部屋を出た。
机の上には、一冊の書だけが残された。
しばらくして窓から風が入り、閉じられていた頁がゆっくりと開いた。
一枚。
さらに一枚。
そして。
景継が閉じる直前まで読んでいた場所で、頁が止まった。
そこには一人の男について記されていた。
乱世を生き抜き、幾人もの主君に仕え、数多の戦場を潜り抜けた男。
時には耐え。
時には退き。
敵から臆病者と笑われようとも、勝機が来るまで待ち続けた。
そして最後には。
自らの一族が天下へ至るための礎を築いた男。
景継はまだ知らない。
夢の中で見てきた老将も。
病床の男を前に頭を下げていた男も。
羽扇を持つ宿敵と対峙していた男も。
すべて同じ人物だったことを。
そして。
その男の名を知った時。
十三年間眠り続けていた記憶が。
ついに一つにつながることを。




