第三十八話 ニつの人生
前野家からの使者との会談は、景継が思っていたほど長くはかからなかった。
使者は最初こそ慎重に言葉を選んでいたが、結局のところ確認したいことは一つだけだった。もし前野家が岩倉方から離れ、清洲へ協力する道を選んだ場合、信長は現在の領地を認めるつもりがあるのか。それが分からなければ、家中を説得することができないらしい。
信長は使者の話を最後まで聞くと、迷うことなく答えた。
「働き次第だ」
使者の表情がわずかに曇った。
景継はすぐに口を挟んだ。
「信長様。その言い方では、せっかく来ていただいた使者殿が帰ってしまいます」
「何が悪い」
「前野家が今欲しいのは、こちらへ来た後にどうなるかという最低限の約束です。働き次第と言われても、岩倉を離れた直後に領地を取られる可能性があるなら、誰も動けないでしょう」
信長は不満そうに景継を見る。
「では、何と言えばよい」
「私に聞かないでください」
「お前が止めたのだろう」
景継は小さく息を吐いた。
「では、前野様が岩倉から離れ、清洲側へ明確に協力されるのであれば、現在の領地については可能な限り認める。その上で、今後の働きに応じて加増も考える。これでよろしいのではありませんか」
信長は少し考えた後、使者を見た。
「それでよい」
景継も使者へ向き直る。
「とのことです」
使者は一瞬、どちらが主なのか分からないという顔をしたが、それでも先ほどよりは明らかに安心していた。
その後も細かな話は続いたが、前野家はこの場で正式に寝返るとは言わなかった。ただし、岩倉から兵を求められてもすぐには応じず、今後も清洲との連絡を続けることだけは約束した。
使者が帰った後、信長は地図の上にある前野家の位置を指で叩いた。
「これで三割に近づいたな」
「まだです」
「近づいただろう」
「前野家はまだこちらについていません。兵を出さない可能性が高くなっただけです」
「そのうち来る」
信長は妙に自信満々だった。
景継は否定しなかった。実際、流れはこちらへ傾き始めている。それでも景継の意識は、会談が終わった直後から別の場所へ向かっていた。
今朝、自分が閉じた書物。
そこに記されていた、一人の男の名前。
あと少しで読めた。
いや、本当は文字そのものは見えていたはずだった。頭のどこかに形だけが残っている。
「景継」
信長の声で我に返った。
「はい」
「まただ」
「何がです?」
「最近のお前は、急に遠くを見る」
景継は少し苦笑した。
「考え事です」
「夢の男か」
景継の表情が変わる。
信長は覚えていた。
「……はい」
「なら戻って読め」
「何をです?」
「朝、何か調べていただろう」
景継は少し驚いた。
「なぜ分かるのです」
「俺が部屋へ入った時、慌てて書を閉じただろう。目の前でやっておいて隠せると思うな」
景継は少し気まずそうに視線を逸らした。
信長は地図へ目を戻しながら続ける。
「前野の話は終わった。今はもうお前の時間だ。気になるなら戻って確かめてこい」
その言葉に、景継は少しだけ救われたような気がした。
「では、戻ります」
「ああ」
景継は立ち上がった。
だが部屋を出る直前、もう一度呼び止められた。
「景継」
「はい」
「名前が分かったら教えろ」
景継は少し笑った。
「気になるのですか」
「かなり」
「分かりました」
今度こそ部屋を出た。
◇◇◇
自室へ戻ると、机の上には朝のまま書物が残されていた。
窓から入った風で、閉じたはずの頁が開いている。
景継は部屋へ入った瞬間、足を止めた。
その頁だった。
朝、自分が閉じた場所。
弥兵衛も後ろから入ってきたが、景継の様子に気づいて何も言わなかった。
景継はゆっくり机へ近づき、開かれた書物を見下ろした。
そこには大陸の昔の人物について、いくつもの名が並んでいる。
景継の視線は、その中の一つで止まった。
『司馬懿』
胸の奥で、強く鼓動が鳴った。
一度。
それだけで身体中が反応したような感覚があった。
景継は文字を見つめる。
知らない人間の名前。
そう思おうとした。
だが、できなかった。
指先がわずかに震え始める。
景継は、まるで確認するようにその名を声へ出した。
「しば……い」
その瞬間。
頭の中で、何かが一気に崩れた。
◇◇◇
最初に見えたのは、以前夢で歩いた巨大な都だった。
広い道。
橋。
大きな木。
井戸。
高い塀。
そして、初めて見るはずなのに懐かしいと思った屋敷。
今度は分かる。
あの場所がどこなのか。
洛陽。
その名が、何の迷いもなく頭へ浮かんだ。
景継は驚く間もなく、次の景色へ飲み込まれた。
まだ若い自分がいる。
林道景継ではない。
身体も違う。
服も違う。
だが、自分だと分かる。
屋敷の中で書を読んでいる。
その時、外から誰かが声をかけた。
「仲達」
景継の胸が激しく鳴った。
今まで何度も聞き取れなかった呼び名。
今回は、はっきり聞こえた。
仲達。
そして、その呼び名に自分が自然に反応した。
◇◇◇
景色が変わった。
一人の男が目の前にいる。
鋭い目。
強い声。
その場にいる全員が、男の存在だけで緊張している。
以前、病床で見た男。
今度は若い。
身体には力があり、その眼差しには人を飲み込むような強さがあった。
男が自分を見る。
「司馬仲達」
また名前を呼ばれた。
胸の奥に眠っていたものが、さらに大きく揺れた。
そして今度は、相手の名前まで自然に浮かんだ。
曹操。
曹孟徳。
自分が仕えた男。
恐れた男。
何度も疑われながら、それでも離れることのできなかった男。
記憶の中の曹操が笑う。
景継はその笑い方を知っていた。
声も。
目も。
自分を見る時に見せる、わずかな疑いも。
全部知っている。
◇◇◇
次々と景色が変わっていく。
曹操の姿が消える。
別の主君。
さらに、その次の主君。
自分より若い者たちが次々に上へ立ち、そして自分より先に死んでいく。
自分だけが残る。
仕え続ける。
疑われても耐える。
機を待つ。
動くべき時が来るまで、決して急がない。
そして、また戦場。
雨。
遠くに一人の男がいる。
羽扇を持っている。
今度は顔まで見えた。
その姿を見た瞬間、名前が自然に浮かんだ。
諸葛亮。
孔明。
そこから記憶が雪崩のように押し寄せた。
蜀。
北伐。
祁山。
何度も攻めてくる敵。
戦いたがる味方。
挑発されても動かない自分。
侮辱されても耐える自分。
相手の兵糧が尽きるまで待つ。
疲れるまで待つ。
そして、五丈原。
その地名が浮かんだ瞬間、景継は現実の身体で机へ手をついた。
◇◇◇
「若様!」
弥兵衛の声が聞こえる。
だが遠い。
景継はまだ記憶の中にいた。
夜。
星。
遠くに見える敵陣。
使者が来る。
諸葛亮が死んだ。
その報告を受けても、すぐには信じない。
罠かもしれない。
死んだふりをして誘っている可能性もある。
最後まで疑う。
最後まで慎重に見る。
敵が退いても、すぐには追わない。
景色がまた変わる。
今度は宮中だった。
自分はさらに老いている。
手には深い皺が刻まれ、多くの者が自分へ頭を下げている。
都督。
太傅。
以前の夢で聞いた呼び名。
全部、自分に向けられていたものだった。
さらに別の記憶が続く。
兵を動かす。
政敵を追い詰める。
時が来るまで待つ。
相手が油断するまで耐える。
そして。
ついに動く。
高平陵。
その名が浮かんだ瞬間、景継の胸の奥に冷たい感覚が走った。
自分は、ただ待つだけの男ではなかった。
待ち続け。
相手が隙を見せた瞬間。
一気に奪う。
それもまた。
自分だった。
◇◇◇
景継は現実へ戻った。
呼吸が荒い。
机へ手をついたまま、しばらく動くことができなかった。
弥兵衛が肩を支えている。
「若様、大丈夫ですか!」
景継はすぐには答えられなかった。
目の前には書物がある。
そこに記されている名前。
司馬懿。
もう他人の名前には見えなかった。
胸の奥から、揺るぎようのない確信が湧いてくる。
これは自分だ。
林道景継として生まれる前。
遥か昔。
別の国。
別の時代。
そこで一度、生きていた。
「……思い出した」
景継が小さく呟いた。
弥兵衛が聞く。
「何をです?」
景継は答えようとしたが、すぐには声が出なかった。
今まであれほど知りたいと思っていたのに、いざ答えが出ると言葉にすることが怖かった。
自分は十三歳の林道景継だ。
父がいる。
母がいる。
兄がいる。
弥兵衛がいる。
信長がいる。
それは何一つ嘘ではない。
だが同時に、自分にはもう一つの人生があった。
何十年も戦い。
主君に仕え。
疑われ。
生き残り。
最後には自分の一族が天下へ至る道を作った男。
景継はもう一度、書物の名前を見る。
司馬懿。
その横に記された字。
仲達。
景継は低く呟いた。
「仲達……」
弥兵衛が聞き返す。
「何と?」
景継は顔を上げた。
「私の名前です」
弥兵衛の表情が固まる。
「景継様では?」
「今は」
景継は自分の言葉を一つずつ確かめるように続けた。
「今は、林道景継です。これは間違いありません」
そして、もう一度書物へ目を落とす。
「でも、その前に」
喉が乾く。
それでも今度は、はっきり口にした。
「司馬懿という男として、生きていました」
弥兵衛は何も言わない。
景継は続けた。
「字は、仲達」
その名を声にした瞬間、自分の中で別々だった二つの人生が、初めて一つの線につながった。
◇◇◇
部屋には長い沈黙が流れた。
弥兵衛は景継と書物を何度も見比べていた。
当然だった。
突然、自分の主君から「昔、大陸で別の人間として生きていた」と言われて、すぐに理解できる方がおかしい。
「若様」
弥兵衛が慎重に口を開いた。
「その司馬懿という方は、どれくらい昔の人なのでございます?」
景継は少し考えた。
記憶の中では分かっている部分もある。
だが今の日本と、どれほど時代が離れているのかまではすぐには整理できなかった。
「かなり昔です。この国の人ではありません」
「大陸の人?」
「はい」
弥兵衛はさらに黙った。
しばらくして、少し困ったように尋ねる。
「つまり若様は、その司馬懿という方の生まれ変わりだと?」
景継はその言葉を聞き、初めて自分の中で整理がついた。
生まれ変わり。
転生。
そう考えるのが一番自然だった。
「たぶん、そういうことだと思います」
「たぶん?」
「全部思い出したわけではありません。ただ、司馬懿だったということだけは、もう疑っていません」
景継は自分の胸へ手を置いた。
「記憶が全部戻ったわけではないんです。曹操様のことも、孔明のことも、いくつかの戦も思い出しました。でも、まだ霧の中にあるものがたくさんあります」
弥兵衛はしばらく景継を見ていた。
そして、ようやく口を開いた。
「若様」
「はい」
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「何です?」
「だから昔から、あれほど変だったのですか?」
景継は思わず弥兵衛を見る。
「そこですか?」
「十三で大人の武士を言い負かし、斎藤様と話し、雪斎様と話し、信長様へ平然と口答えする子供など、普通ではございませぬ」
景継は反論しようとした。
だが、うまく言葉が出なかった。
確かに。
そうなのかもしれない。
「でも私は、今まで司馬懿の人生を覚えていたわけではありません」
「では、なぜあれほど」
景継は少し考えた。
そして、ようやく一つの答えに辿り着く。
「記憶は眠っていた。でも、考え方は残っていたのかもしれません」
人を見る癖。
疑うこと。
待つこと。
敵の動きを読むこと。
簡単に信用しないこと。
必要な時まで動かないこと。
そして、何より。
生き残ること。
それらは、林道景継として学んだものだけではなかったのかもしれない。
「司馬懿という男が何十年もかけて身につけたものだけが、最初から私の中に残っていた。だから私は、理由が分からないまま同じ考え方をしていたのかもしれません」
弥兵衛は少しだけ納得したような顔をした。
「なるほど」
「本当に分かりました?」
「半分ほど」
「私も同じです」
二人は少しだけ笑った。
◇◇◇
景継は、その日のうちに信長へ話すか迷った。
この話を聞いても、信じてもらえるとは限らない。
弥兵衛は何も言わなかった。
「若様が決めることでございます」
それだけだった。
景継はしばらく考えた末、夕方になると信長のもとへ向かった。
部屋に入ると、信長は一人で地図を見ていた。
景継の顔を見るなり尋ねる。
「分かったか」
「何がです?」
「名前だ」
景継は少し驚いた。
「覚えていたのですね」
「俺に教えると言っただろう」
景継は信長の前へ座った。
どう説明するべきか。
昔。
大陸。
別の人生。
生まれ変わり。
普通なら信じられない話だ。
だが信じるかどうかは、もう景継自身にもどうでもよくなり始めていた。
「分かりました」
信長の目が変わる。
「誰だ」
「司馬懿」
信長は黙った。
当然、その名前を知らない。
「昔、大陸にいた武将です」
「強いのか」
「……かなり」
信長の口元が上がる。
「やはりな」
景継が眉を寄せる。
「何がです」
「お前が弱い奴の夢を見るとは思わなかった」
景継は苦笑した。
「夢ではありませんでした」
信長の笑みが少し消える。
「どういう意味だ」
景継は一度息を整えた。
「私自身の記憶でした」
今度は、信長もすぐには何も言わなかった。
景継は続ける。
「うまく説明できません。ただ、私は一度、別の人生を生きています。大陸で司馬懿という男として生きて、その人生を終えた後、今度は林道景継として生まれた。そう考えるのが、一番自然だと思います」
部屋が静まり返った。
信長は馬鹿にするでもなく、笑うでもなく、ただ景継を見ていた。
長い沈黙の後。
「それで?」
景継が少し驚く。
「それで、とは?」
「司馬何とかだったから、どうした」
「どうしたと言われても」
「お前は景継だろう」
景継は何も言えなかった。
昨日。
信長が言った言葉と同じだった。
昔どこの誰だったとしても、今ここにいるのは林道景継だ。
「はい」
「なら終わりだ」
信長は地図を引き寄せる。
「それより岩倉だ」
景継はしばらく信長を見ていた。
自分にとっては、人生そのものがひっくり返るほどの事実だった。
それを信長は、あまりにも簡単に受け入れた。
「信じるのですか」
景継が尋ねる。
信長は地図を見たまま答えた。
「お前がそんな嘘をつく理由がない」
「普通は、もう少し疑うと思います」
「俺は普通ではない」
景継は思わず笑った。
「それは知っています」
信長も笑った。
その瞬間。
景継の胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった。
◇◇◇
その夜。
一人になった景継は、再び書物を開いていた。
司馬懿。
自分自身について書かれている。
すべてが本当かどうかは分からない。伝わっている記録と、自分自身の記憶が違う可能性もある。
それでも読み進める。
曹操に仕えた。
曹丕に仕えた。
曹叡に仕えた。
さらに時代が進む。
自分が生きた後。
司馬一族。
司馬師。
司馬昭。
そして、その先。
孫の代。
国が変わる。
景継はそこで手を止めた。
自分は皇帝にはならなかった。
天下を取ったわけではない。
だが、自分が築いた力は最後には天下へつながっていた。
その事実を知った瞬間。
一つの考えが浮かんだ。
では。
この人生ではどうする。
また誰かに仕えるのか。
信長を天下へ押し上げるのか。
それとも。
景継はそこで思考を止めた。
まだ早い。
尾張すら一つになっていない。
今考えるべきことではない。
だが、一度浮かんだ問いは完全には消えなかった。
◇◇◇
同じ夜。
先生は報告を受けていた。
「景継に変化がございました」
先生の表情が少し変わる。
「何があった」
「本日、急に大陸の古い書物を集めさせたそうです。さらに、その後は信長と長く二人で話していたとのこと」
「内容は?」
「分かりませぬ」
先生はしばらく黙っていた。
景継。
大陸の書物。
失われた記憶。
その三つを頭の中でつなげているようだった。
「……何か戻ったか」
報告役の男が聞く。
「何がでしょう」
先生は答えなかった。
机の上に置かれた景継の駒へ視線を向ける。
「確かめますか」
「まだ直接は聞かぬ」
「なぜです」
「もし本当に思い出したのなら、今度はあちらから私を探し始める可能性がある」
先生は景継の駒を手に取った。
幼い頃に一度会った少年。
子供が知っているはずのないことを、自分が見てきたことのように話していた少年。
そして数年後。
その記憶だけを失っていた少年。
先生は小さく息を吐いた。
「それに」
「何でしょう」
「私もまだ知らぬ」
男が首を傾げる。
先生は静かに続けた。
「あの少年が、いったい誰だったのかを」
先生は景継に失われた記憶があることを知っている。
だが、その記憶の主が誰なのかまでは知らない。
その答えへ、今ようやく景継本人だけが辿り着いた。
林道景継。
そして、その前の人生。
司馬懿。
字は、仲達。
二つの人生はこの日、初めて一つにつながった。
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