表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第一章 失われた名

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/85

第三十八話 ニつの人生


前野家からの使者との会談は、景継が思っていたほど長くはかからなかった。


使者は最初こそ慎重に言葉を選んでいたが、結局のところ確認したいことは一つだけだった。もし前野家が岩倉方から離れ、清洲へ協力する道を選んだ場合、信長は現在の領地を認めるつもりがあるのか。それが分からなければ、家中を説得することができないらしい。


信長は使者の話を最後まで聞くと、迷うことなく答えた。


「働き次第だ」


使者の表情がわずかに曇った。


景継はすぐに口を挟んだ。


「信長様。その言い方では、せっかく来ていただいた使者殿が帰ってしまいます」


「何が悪い」


「前野家が今欲しいのは、こちらへ来た後にどうなるかという最低限の約束です。働き次第と言われても、岩倉を離れた直後に領地を取られる可能性があるなら、誰も動けないでしょう」


信長は不満そうに景継を見る。


「では、何と言えばよい」


「私に聞かないでください」


「お前が止めたのだろう」


景継は小さく息を吐いた。


「では、前野様が岩倉から離れ、清洲側へ明確に協力されるのであれば、現在の領地については可能な限り認める。その上で、今後の働きに応じて加増も考える。これでよろしいのではありませんか」


信長は少し考えた後、使者を見た。


「それでよい」


景継も使者へ向き直る。


「とのことです」


使者は一瞬、どちらが主なのか分からないという顔をしたが、それでも先ほどよりは明らかに安心していた。


その後も細かな話は続いたが、前野家はこの場で正式に寝返るとは言わなかった。ただし、岩倉から兵を求められてもすぐには応じず、今後も清洲との連絡を続けることだけは約束した。


使者が帰った後、信長は地図の上にある前野家の位置を指で叩いた。


「これで三割に近づいたな」


「まだです」


「近づいただろう」


「前野家はまだこちらについていません。兵を出さない可能性が高くなっただけです」


「そのうち来る」


信長は妙に自信満々だった。


景継は否定しなかった。実際、流れはこちらへ傾き始めている。それでも景継の意識は、会談が終わった直後から別の場所へ向かっていた。


今朝、自分が閉じた書物。


そこに記されていた、一人の男の名前。


あと少しで読めた。


いや、本当は文字そのものは見えていたはずだった。頭のどこかに形だけが残っている。


「景継」


信長の声で我に返った。


「はい」


「まただ」


「何がです?」


「最近のお前は、急に遠くを見る」


景継は少し苦笑した。


「考え事です」


「夢の男か」


景継の表情が変わる。


信長は覚えていた。


「……はい」


「なら戻って読め」


「何をです?」


「朝、何か調べていただろう」


景継は少し驚いた。


「なぜ分かるのです」


「俺が部屋へ入った時、慌てて書を閉じただろう。目の前でやっておいて隠せると思うな」


景継は少し気まずそうに視線を逸らした。


信長は地図へ目を戻しながら続ける。


「前野の話は終わった。今はもうお前の時間だ。気になるなら戻って確かめてこい」


その言葉に、景継は少しだけ救われたような気がした。


「では、戻ります」


「ああ」


景継は立ち上がった。


だが部屋を出る直前、もう一度呼び止められた。


「景継」


「はい」


「名前が分かったら教えろ」


景継は少し笑った。


「気になるのですか」


「かなり」


「分かりました」


今度こそ部屋を出た。


◇◇◇


自室へ戻ると、机の上には朝のまま書物が残されていた。


窓から入った風で、閉じたはずの頁が開いている。


景継は部屋へ入った瞬間、足を止めた。


その頁だった。


朝、自分が閉じた場所。


弥兵衛も後ろから入ってきたが、景継の様子に気づいて何も言わなかった。


景継はゆっくり机へ近づき、開かれた書物を見下ろした。


そこには大陸の昔の人物について、いくつもの名が並んでいる。


景継の視線は、その中の一つで止まった。


『司馬懿』


胸の奥で、強く鼓動が鳴った。


一度。


それだけで身体中が反応したような感覚があった。


景継は文字を見つめる。


知らない人間の名前。


そう思おうとした。


だが、できなかった。


指先がわずかに震え始める。


景継は、まるで確認するようにその名を声へ出した。


「しば……い」


その瞬間。


頭の中で、何かが一気に崩れた。


◇◇◇


最初に見えたのは、以前夢で歩いた巨大な都だった。


広い道。


橋。


大きな木。


井戸。


高い塀。


そして、初めて見るはずなのに懐かしいと思った屋敷。


今度は分かる。


あの場所がどこなのか。


洛陽。


その名が、何の迷いもなく頭へ浮かんだ。


景継は驚く間もなく、次の景色へ飲み込まれた。


まだ若い自分がいる。


林道景継ではない。


身体も違う。


服も違う。


だが、自分だと分かる。


屋敷の中で書を読んでいる。


その時、外から誰かが声をかけた。


「仲達」


景継の胸が激しく鳴った。


今まで何度も聞き取れなかった呼び名。


今回は、はっきり聞こえた。


仲達。


そして、その呼び名に自分が自然に反応した。


◇◇◇


景色が変わった。


一人の男が目の前にいる。


鋭い目。


強い声。


その場にいる全員が、男の存在だけで緊張している。


以前、病床で見た男。


今度は若い。


身体には力があり、その眼差しには人を飲み込むような強さがあった。


男が自分を見る。


「司馬仲達」


また名前を呼ばれた。


胸の奥に眠っていたものが、さらに大きく揺れた。


そして今度は、相手の名前まで自然に浮かんだ。


曹操。


曹孟徳。


自分が仕えた男。


恐れた男。


何度も疑われながら、それでも離れることのできなかった男。


記憶の中の曹操が笑う。


景継はその笑い方を知っていた。


声も。


目も。


自分を見る時に見せる、わずかな疑いも。


全部知っている。


◇◇◇


次々と景色が変わっていく。


曹操の姿が消える。


別の主君。


さらに、その次の主君。


自分より若い者たちが次々に上へ立ち、そして自分より先に死んでいく。


自分だけが残る。


仕え続ける。


疑われても耐える。


機を待つ。


動くべき時が来るまで、決して急がない。


そして、また戦場。


雨。


遠くに一人の男がいる。


羽扇を持っている。


今度は顔まで見えた。


その姿を見た瞬間、名前が自然に浮かんだ。


諸葛亮。


孔明。


そこから記憶が雪崩のように押し寄せた。


蜀。


北伐。


祁山。


何度も攻めてくる敵。


戦いたがる味方。


挑発されても動かない自分。


侮辱されても耐える自分。


相手の兵糧が尽きるまで待つ。


疲れるまで待つ。


そして、五丈原。


その地名が浮かんだ瞬間、景継は現実の身体で机へ手をついた。


◇◇◇


「若様!」


弥兵衛の声が聞こえる。


だが遠い。


景継はまだ記憶の中にいた。


夜。


星。


遠くに見える敵陣。


使者が来る。


諸葛亮が死んだ。


その報告を受けても、すぐには信じない。


罠かもしれない。


死んだふりをして誘っている可能性もある。


最後まで疑う。


最後まで慎重に見る。


敵が退いても、すぐには追わない。


景色がまた変わる。


今度は宮中だった。


自分はさらに老いている。


手には深い皺が刻まれ、多くの者が自分へ頭を下げている。


都督。


太傅。


以前の夢で聞いた呼び名。


全部、自分に向けられていたものだった。


さらに別の記憶が続く。


兵を動かす。


政敵を追い詰める。


時が来るまで待つ。


相手が油断するまで耐える。


そして。


ついに動く。


高平陵。


その名が浮かんだ瞬間、景継の胸の奥に冷たい感覚が走った。


自分は、ただ待つだけの男ではなかった。


待ち続け。


相手が隙を見せた瞬間。


一気に奪う。


それもまた。


自分だった。


◇◇◇


景継は現実へ戻った。


呼吸が荒い。


机へ手をついたまま、しばらく動くことができなかった。


弥兵衛が肩を支えている。


「若様、大丈夫ですか!」


景継はすぐには答えられなかった。


目の前には書物がある。


そこに記されている名前。


司馬懿。


もう他人の名前には見えなかった。


胸の奥から、揺るぎようのない確信が湧いてくる。


これは自分だ。


林道景継として生まれる前。


遥か昔。


別の国。


別の時代。


そこで一度、生きていた。


「……思い出した」


景継が小さく呟いた。


弥兵衛が聞く。


「何をです?」


景継は答えようとしたが、すぐには声が出なかった。


今まであれほど知りたいと思っていたのに、いざ答えが出ると言葉にすることが怖かった。


自分は十三歳の林道景継だ。


父がいる。


母がいる。


兄がいる。


弥兵衛がいる。


信長がいる。


それは何一つ嘘ではない。


だが同時に、自分にはもう一つの人生があった。


何十年も戦い。


主君に仕え。


疑われ。


生き残り。


最後には自分の一族が天下へ至る道を作った男。


景継はもう一度、書物の名前を見る。


司馬懿。


その横に記された字。


仲達。


景継は低く呟いた。


「仲達……」


弥兵衛が聞き返す。


「何と?」


景継は顔を上げた。


「私の名前です」


弥兵衛の表情が固まる。


「景継様では?」


「今は」


景継は自分の言葉を一つずつ確かめるように続けた。


「今は、林道景継です。これは間違いありません」


そして、もう一度書物へ目を落とす。


「でも、その前に」


喉が乾く。


それでも今度は、はっきり口にした。


「司馬懿という男として、生きていました」


弥兵衛は何も言わない。


景継は続けた。


「字は、仲達」


その名を声にした瞬間、自分の中で別々だった二つの人生が、初めて一つの線につながった。


◇◇◇


部屋には長い沈黙が流れた。


弥兵衛は景継と書物を何度も見比べていた。


当然だった。


突然、自分の主君から「昔、大陸で別の人間として生きていた」と言われて、すぐに理解できる方がおかしい。


「若様」


弥兵衛が慎重に口を開いた。


「その司馬懿という方は、どれくらい昔の人なのでございます?」


景継は少し考えた。


記憶の中では分かっている部分もある。


だが今の日本と、どれほど時代が離れているのかまではすぐには整理できなかった。


「かなり昔です。この国の人ではありません」


「大陸の人?」


「はい」


弥兵衛はさらに黙った。


しばらくして、少し困ったように尋ねる。


「つまり若様は、その司馬懿という方の生まれ変わりだと?」


景継はその言葉を聞き、初めて自分の中で整理がついた。


生まれ変わり。


転生。


そう考えるのが一番自然だった。


「たぶん、そういうことだと思います」


「たぶん?」


「全部思い出したわけではありません。ただ、司馬懿だったということだけは、もう疑っていません」


景継は自分の胸へ手を置いた。


「記憶が全部戻ったわけではないんです。曹操様のことも、孔明のことも、いくつかの戦も思い出しました。でも、まだ霧の中にあるものがたくさんあります」


弥兵衛はしばらく景継を見ていた。


そして、ようやく口を開いた。


「若様」


「はい」


「一つだけ、よろしいでしょうか」


「何です?」


「だから昔から、あれほど変だったのですか?」


景継は思わず弥兵衛を見る。


「そこですか?」


「十三で大人の武士を言い負かし、斎藤様と話し、雪斎様と話し、信長様へ平然と口答えする子供など、普通ではございませぬ」


景継は反論しようとした。


だが、うまく言葉が出なかった。


確かに。


そうなのかもしれない。


「でも私は、今まで司馬懿の人生を覚えていたわけではありません」


「では、なぜあれほど」


景継は少し考えた。


そして、ようやく一つの答えに辿り着く。


「記憶は眠っていた。でも、考え方は残っていたのかもしれません」


人を見る癖。


疑うこと。


待つこと。


敵の動きを読むこと。


簡単に信用しないこと。


必要な時まで動かないこと。


そして、何より。


生き残ること。


それらは、林道景継として学んだものだけではなかったのかもしれない。


「司馬懿という男が何十年もかけて身につけたものだけが、最初から私の中に残っていた。だから私は、理由が分からないまま同じ考え方をしていたのかもしれません」


弥兵衛は少しだけ納得したような顔をした。


「なるほど」


「本当に分かりました?」


「半分ほど」


「私も同じです」


二人は少しだけ笑った。


◇◇◇


景継は、その日のうちに信長へ話すか迷った。


この話を聞いても、信じてもらえるとは限らない。


弥兵衛は何も言わなかった。


「若様が決めることでございます」


それだけだった。


景継はしばらく考えた末、夕方になると信長のもとへ向かった。


部屋に入ると、信長は一人で地図を見ていた。


景継の顔を見るなり尋ねる。


「分かったか」


「何がです?」


「名前だ」


景継は少し驚いた。


「覚えていたのですね」


「俺に教えると言っただろう」


景継は信長の前へ座った。


どう説明するべきか。


昔。


大陸。


別の人生。


生まれ変わり。


普通なら信じられない話だ。


だが信じるかどうかは、もう景継自身にもどうでもよくなり始めていた。


「分かりました」


信長の目が変わる。


「誰だ」


「司馬懿」


信長は黙った。


当然、その名前を知らない。


「昔、大陸にいた武将です」


「強いのか」


「……かなり」


信長の口元が上がる。


「やはりな」


景継が眉を寄せる。


「何がです」


「お前が弱い奴の夢を見るとは思わなかった」


景継は苦笑した。


「夢ではありませんでした」


信長の笑みが少し消える。


「どういう意味だ」


景継は一度息を整えた。


「私自身の記憶でした」


今度は、信長もすぐには何も言わなかった。


景継は続ける。


「うまく説明できません。ただ、私は一度、別の人生を生きています。大陸で司馬懿という男として生きて、その人生を終えた後、今度は林道景継として生まれた。そう考えるのが、一番自然だと思います」


部屋が静まり返った。


信長は馬鹿にするでもなく、笑うでもなく、ただ景継を見ていた。


長い沈黙の後。


「それで?」


景継が少し驚く。


「それで、とは?」


「司馬何とかだったから、どうした」


「どうしたと言われても」


「お前は景継だろう」


景継は何も言えなかった。


昨日。


信長が言った言葉と同じだった。


昔どこの誰だったとしても、今ここにいるのは林道景継だ。


「はい」


「なら終わりだ」


信長は地図を引き寄せる。


「それより岩倉だ」


景継はしばらく信長を見ていた。


自分にとっては、人生そのものがひっくり返るほどの事実だった。


それを信長は、あまりにも簡単に受け入れた。


「信じるのですか」


景継が尋ねる。


信長は地図を見たまま答えた。


「お前がそんな嘘をつく理由がない」


「普通は、もう少し疑うと思います」


「俺は普通ではない」


景継は思わず笑った。


「それは知っています」


信長も笑った。


その瞬間。


景継の胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった。


◇◇◇


その夜。


一人になった景継は、再び書物を開いていた。


司馬懿。


自分自身について書かれている。


すべてが本当かどうかは分からない。伝わっている記録と、自分自身の記憶が違う可能性もある。


それでも読み進める。


曹操に仕えた。


曹丕に仕えた。


曹叡に仕えた。


さらに時代が進む。


自分が生きた後。


司馬一族。


司馬師。


司馬昭。


そして、その先。


孫の代。


国が変わる。


景継はそこで手を止めた。


自分は皇帝にはならなかった。


天下を取ったわけではない。


だが、自分が築いた力は最後には天下へつながっていた。


その事実を知った瞬間。


一つの考えが浮かんだ。


では。


この人生ではどうする。


また誰かに仕えるのか。


信長を天下へ押し上げるのか。


それとも。


景継はそこで思考を止めた。


まだ早い。


尾張すら一つになっていない。


今考えるべきことではない。


だが、一度浮かんだ問いは完全には消えなかった。


◇◇◇


同じ夜。


先生は報告を受けていた。


「景継に変化がございました」


先生の表情が少し変わる。


「何があった」


「本日、急に大陸の古い書物を集めさせたそうです。さらに、その後は信長と長く二人で話していたとのこと」


「内容は?」


「分かりませぬ」


先生はしばらく黙っていた。


景継。


大陸の書物。


失われた記憶。


その三つを頭の中でつなげているようだった。


「……何か戻ったか」


報告役の男が聞く。


「何がでしょう」


先生は答えなかった。


机の上に置かれた景継の駒へ視線を向ける。


「確かめますか」


「まだ直接は聞かぬ」


「なぜです」


「もし本当に思い出したのなら、今度はあちらから私を探し始める可能性がある」


先生は景継の駒を手に取った。


幼い頃に一度会った少年。


子供が知っているはずのないことを、自分が見てきたことのように話していた少年。


そして数年後。


その記憶だけを失っていた少年。


先生は小さく息を吐いた。


「それに」


「何でしょう」


「私もまだ知らぬ」


男が首を傾げる。


先生は静かに続けた。


「あの少年が、いったい誰だったのかを」


先生は景継に失われた記憶があることを知っている。


だが、その記憶の主が誰なのかまでは知らない。


その答えへ、今ようやく景継本人だけが辿り着いた。


林道景継。


そして、その前の人生。


司馬懿。


字は、仲達。


二つの人生はこの日、初めて一つにつながった。







ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

続きを楽しみにしていただけましたら

ブックマークしていただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ