第三十八話 ニつの人生
景継は、書物に記された名前を見つめていた。
知らないはずの名前だった。
少なくとも、林道景継として生きてきた十三年間、一度も目にした覚えはない。
それなのに。
目を逸らすことができなかった。
胸の奥で、何かが激しく脈打っている。
夢で見た巨大な城壁。
数え切れないほどの兵。
病床にいた男。
羽扇を手にした宿敵。
都督。
太傅。
魏。
そして。
今、目の前にある三文字。
景継は震える指を、書物の上へ置いた。
『司馬懿』
文字を一つずつ確かめる。
司。
馬。
懿。
意味を理解するより先に、胸の奥から何かが込み上げてきた。
懐かしい。
そんな言葉では足りない。
この名前を知っている。
誰かから聞いたのではない。
書物で読んだのでもない。
もっと近い。
自分自身の名を見ているような――。
「若様?」
そばにいた弥兵衛が声をかけた。
景継は答えなかった。
答える余裕がなかった。
唇が、わずかに動く。
「しば……い」
その名を声にした。
瞬間。
景継の中で。
十三年間閉ざされていた扉が、開いた。
最初に見えたのは、大きな都だった。
広い道。
行き交う人々。
高い塀に囲まれた屋敷。
橋。
井戸。
見覚えのある大木。
以前、夢の中で見た場所。
だが今度は違う。
名前が分かる。
洛陽。
その名が何の迷いもなく浮かんだ。
ここを知っている。
歩いたことがある。
暮らしたことがある。
そして。
ここで何十年もの時を過ごした。
景色が変わる。
まだ若い男が書を読んでいる。
林道景継ではない。
身体も違う。
着ているものも違う。
だが。
自分だった。
誰かが呼ぶ。
「仲達」
男が顔を上げた。
景継の胸が激しく鳴る。
仲達。
聞き覚えがある。
いや。
聞き覚えどころではない。
何度も。
何百回も。
そう呼ばれてきた。
司馬懿。
字は――仲達。
「……私だ」
景継の口から、無意識に言葉が漏れた。
記憶が次々と押し寄せてきた。
一人の男がいる。
鋭い眼差し。
人を圧する声。
その場にいるだけで、周囲の空気が変わる。
以前、夢の中で病床にいた男。
だが今は若い。
力に満ちている。
男が自分を見る。
「司馬仲達」
知っている。
この声を。
この顔を。
この男が何を好み。
何を嫌い。
どれほど人を疑うのかも。
知っている。
名前が浮かぶ。
曹操。
字は孟徳。
曹孟徳。
自分が仕えた男。
恐れた男。
何度も疑われた男。
それでも、その才を認めずにはいられなかった男。
曹操が笑う。
その笑い方まで知っていた。
記憶の中の自分は、決して気を抜かない。
この男の前では、ほんのわずかな油断さえ命取りになる。
その感覚まで。
景継の中へ戻ってくる。
また景色が変わる。
曹操が消える。
曹丕。
曹叡。
主君が変わる。
時代が流れる。
自分より若い者たちが上に立ち。
自分より先に死んでいく。
それでも自分は生きている。
疑われても。
疎まれても。
耐える。
急がない。
必要のない時には動かない。
待つ。
ただ。
待つ。
そして、機が来れば動く。
その生き方を。
景継は知っていた。
次に見えたのは戦場だった。
遠くに、一人の男がいる。
羽扇を手にしていた。
今までの夢では、顔が見えなかった。
だが今度は見える。
細い顔。
静かな目。
その姿を見た瞬間、景継の中にいくつもの感情が蘇った。
警戒。
苛立ち。
疲労。
そして。
認めたくないほどの敬意。
「……孔明」
名前が出た。
諸葛亮。
字は孔明。
蜀。
北伐。
祁山。
次々に言葉が戻ってくる。
何度も攻めてきた。
何度もこちらを動かそうとした。
挑発された。
戦いを求める味方もいた。
それでも。
動かなかった。
戦えば相手の望む形になる。
ならば戦わない。
兵糧が尽きるまで。
相手が焦るまで。
こちらが有利になるまで。
待てばいい。
夢の中で何度も聞いた言葉。
『待て』
あれは。
誰かの言葉ではなかった。
自分の言葉だった。
さらに記憶が押し寄せる。
五丈原。
その地名が浮かんだ。
夜。
星。
蜀の陣。
そして。
届いた知らせ。
諸葛亮が死んだ。
それでも、すぐには信じない。
罠かもしれない。
死を偽り、こちらを誘い出そうとしているのかもしれない。
最後まで疑った。
最後まで慎重だった。
景継の中に、あの時の感覚まで戻ってくる。
孔明が死んだ。
宿敵が消えた。
喜ぶべきなのか。
安堵するべきなのか。
それさえ分からない。
ただ。
長く向かい合ってきた何かが、突然なくなった。
そんな奇妙な空虚さだけが残っていた。
「若様!」
弥兵衛の声が聞こえた。
遠い。
景継は机へ手をついた。
だが、記憶は止まらない。
今度は自分が老いている。
夢で見た皺だらけの手。
多くの者が頭を下げる。
「都督」
聞いたことがある。
「太傅」
これも。
すべて自分に向けられていた。
そして。
最後に。
高平陵。
その名が浮かんだ瞬間。
景継の胸の奥に、冷たいものが走った。
待った。
長い間。
ひたすら。
そして相手が油断した時。
一気に動いた。
兵を押さえ。
都を握り。
敵を追い詰めた。
自分は。
ただ耐えるだけの人間ではない。
勝てない時には待つ。
勝てる時まで待つ。
そして。
勝てる時が来れば。
迷わず奪う。
それもまた。
司馬懿だった。
景継は現実へ戻った。
荒い呼吸を繰り返している。
額には汗が浮かんでいた。
弥兵衛が肩を支えている。
「若様、大丈夫ですか」
景継は答えなかった。
書物を見る。
そこには、変わらず名前が記されている。
『司馬懿』
もう。
他人の名には見えなかった。
「……思い出しました」
弥兵衛の手が止まる。
「何を、でございます?」
景継は自分の手を見る。
十三歳の手だった。
父、景政。
母、志乃。
兄、景久。
弥兵衛。
信長。
この十三年間も。
間違いなく自分の人生だった。
だが。
それより遥か昔。
別の国で。
別の身体で。
もう一つの人生を生きていた。
「私です」
「……はい?」
景継は書物を指した。
「この男が」
弥兵衛が書物を見る。
「司馬……懿?」
「はい」
口にする。
今度は、はっきりと。
「私は、司馬懿でした」
弥兵衛が固まった。
景継は続ける。
「字は仲達」
その名を口にすると、胸の奥で何かが静かに収まった。
二つに分かれていたものが。
ようやく一つになったような感覚だった。
しばらく。
弥兵衛は何も言わなかった。
景継も急かさなかった。
当然だと思う。
突然、自分が仕えている十三歳の少年から、大昔の大陸の人間だったと言われたのだ。
簡単に理解できる話ではない。
やがて弥兵衛が、慎重に尋ねた。
「つまり……若様は」
「はい」
「その司馬懿という方の、生まれ変わりなのでございますか?」
景継は少し考えた。
「おそらく」
「おそらく?」
「自分でも、どう言えばいいのか分からないんです」
すべての記憶が戻ったわけではない。
思い出せないものも多い。
だが。
自分が司馬懿だった。
それだけは、もう疑いようがなかった。
「でも」
景継は続ける。
「林道景継であることも間違いありません」
景政と志乃の子として生まれた。
景久を兄として育った。
弥兵衛と過ごした。
信長と出会った。
笑った。
悩んだ。
怖いと思った。
それらは司馬懿の記憶ではない。
林道景継として生きた十三年間の記憶だ。
「二人いるわけではないんです」
景継は自分の胸へ手を置いた。
「どちらも私なんだと思います」
弥兵衛は難しい顔で考え込んだ。
やがて。
「若様」
「はい」
「一つだけ聞いてもよろしいですか」
「何でしょう」
「だから昔から、あれほど変だったのでございますか?」
景継は弥兵衛を見る。
「そこですか?」
「十三で信長様へ平然と意見し、敵の策を読み、雪斎様を相手に話をする子供など、普通ではございませぬ」
「私としては普通に生きてきたつもりですが」
「それが一番恐ろしゅうございます」
景継は少し笑った。
笑うと。
不思議なほど気持ちが楽になった。
「でも、今まで司馬懿の記憶はありませんでした」
「なら、なぜあのような考え方を?」
景継は少し考える。
答えは。
すぐに見つかった。
「記憶は消えていても、考え方までは消えていなかったのかもしれません」
人を見る。
疑う。
待つ。
敵が何を考えているのかを読む。
勝てない時には無理に戦わない。
相手が自分から崩れるまで待つ。
そして。
機が来れば動く。
これまで自分では、生まれつきそういう性格なのだと思っていた。
だが。
違ったのかもしれない。
司馬懿として生きた何十年もの経験。
その記憶だけが眠り。
積み重ねたものだけが、自分の奥に残っていた。
弥兵衛が頷く。
「なるほど」
「分かりました?」
「よく分かりませぬ」
景継は思わず笑った。
「私もです」
「では同じですな」
「そうですね」
ほんの少し前まで。
自分が何者なのか分からないことが怖かった。
今は。
答えが分かっても、全部を理解できたわけではない。
それでも。
一人ではなかった。
その日の夕方。
景継は信長のもとを訪れた。
話すべきか。
最後まで迷った。
だが。
以前、夢の話をした時。
信長は笑わなかった。
そして言った。
昔どこの誰だったとしても、今ここにいるのは林道景継だろう、と。
ならば。
話しておきたかった。
部屋へ入ると、信長は地図を見ていた。
顔を上げる。
景継を見る。
そして最初に言った。
「分かったか」
景継は足を止めた。
「何がです?」
「名前だ」
「……覚えていたのですね」
「俺に教えると言っただろう」
景継は信長の前へ座った。
少しだけ迷ってから答える。
「分かりました」
信長が地図から手を離した。
「誰だ」
「司馬懿」
「しば……い?」
「はい」
信長は知らないようだった。
「昔、大陸にいた武将です」
「強いのか」
景継は少し考えた。
何と答えるべきなのだろう。
武勇を誇った人間ではない。
戦えば負けたこともある。
失敗もした。
だが。
最後まで生き残った。
「しぶとい人です」
「お前らしいな」
「自分で言うのも変ですが」
信長が笑った。
景継も少し笑う。
だが。
本題はそこではない。
「信長様」
「何だ」
「夢ではありませんでした」
信長の笑みが消えた。
景継は続ける。
「私自身の記憶でした」
信長は黙っている。
「私は昔、大陸で司馬懿という人間として生きていたようです。そこで一度人生を終えて、その後、林道景継として生まれた」
口にしてみても。
やはり奇妙な話だった。
「生まれ変わった、と考えるのが一番近いと思います」
信長は何も言わない。
景継は少しだけ緊張した。
やがて。
信長が口を開く。
「それで?」
「……それで?」
「司馬懿だったから、どうした」
景継は言葉を失った。
信長は当然のように続ける。
「お前は景継だろう」
景継の胸の奥で、何かが止まった。
「はい」
「なら終わりだ」
信長は再び地図へ目を落とした。
「それより岩倉だ」
あまりにも簡単だった。
景継にとっては。
自分の人生そのものが変わるほどの話だった。
それを信長は。
ほんの数言で終わらせた。
「信じるのですか」
景継が尋ねる。
信長は顔も上げない。
「お前がそんな嘘をついて何になる」
「普通は、もう少し疑うと思います」
そこで信長が顔を上げた。
「俺が普通に見えるか?」
景継は少し考えた。
「見えませんね」
「だろう」
思わず笑ってしまった。
信長も笑う。
景継はその時。
ようやく分かった。
司馬懿だった自分を捨てる必要はない。
林道景継をやめる必要もない。
どちらかを選ぶ話ではない。
司馬懿として生きた人生があり。
今。
林道景継として生きている。
ただ。
それだけなのだ。
その夜。
景継は一人で書物を読んでいた。
今度は。
自分自身について。
司馬懿。
曹操に仕え。
曹丕に仕え。
曹叡に仕え。
その後も魏に残った。
書物に記された出来事を読むたび。
断片的に記憶が戻ってくる。
だが。
記録と自分の記憶が、完全に同じとは限らない。
書かれなかったこと。
間違って伝わったこと。
自分にしか分からないこと。
それもあるのだろう。
頁を進める。
司馬師。
司馬昭。
見覚えのある名前。
胸が痛む。
さらに進む。
そして。
孫の代。
国の名が変わる。
晋。
景継の手が止まった。
自分は皇帝にはならなかった。
天下を取ったわけでもない。
だが。
自分が築いたものは。
自分が死んだ後。
天下へつながった。
長い間、景継は文字を見つめていた。
やがて。
一つの問いが浮かぶ。
では。
今度の人生では。
どうする。
また。
誰かに仕えるのか。
信長を天下へ押し上げるのか。
それとも――。
景継は書物を閉じた。
「……まだ早い」
尾張すら一つになっていない。
岩倉との戦いも終わっていない。
十三歳の自分が、天下の先を考えてどうする。
そう思う。
それでも。
一度生まれた問いは、完全には消えてくれなかった。
司馬懿としての人生は終わった。
だが。
林道景継の人生は。
まだ始まったばかりなのだから。
同じ夜。
先生のもとへ、短い報せが届いた。
林道景継が、大陸の古い書を集めていたこと。
その後、長く信長と二人で話していたこと。
それだけだった。
先生は報せを読み終えても、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……そうか」
静かに紙を置く。
そばにいた男が尋ねた。
「何か気になることでも?」
先生はすぐには答えなかった。
幼い頃。
一度だけ話した少年。
子供が知るはずのないことを知り。
まるで自分自身が見てきたかのように語っていた。
ところが。
後に調べた時には。
その記憶は失われていた。
先生はそれ以来。
林道景継という少年を見てきた。
答えを与えず。
時折、手掛かりだけを残し。
自分で辿り着くのを待っていた。
「戻ったのかもしれぬ」
「何がです?」
先生は答えなかった。
ただ。
少しだけ笑った。
もし本当に戻ったのなら。
次に動くのはこちらではない。
あの少年だ。
「しばらく何もするな」
「よろしいので?」
「ああ」
先生は窓の外へ目を向けた。
「今度は、向こうが来る」
その声には。
どこか確信があった。
ただし。
先生にもまだ分からない。
林道景継が。
かつて誰だったのか。
その答えへ辿り着いたのは。
今のところ。
景継本人だけだった。
司馬懿。
字は、仲達。
乱世を生き。
疑われ。
耐え。
待ち。
最後まで生き残った男。
そして今。
その男は。
尾張の十三歳の少年として。
もう一度。
乱世に立っている。
林道景継として。
今度の人生を。
これから生きていくために。
第一章・完
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きを楽しみにしていただけましたら、評価、ブックマークしていただけると嬉しいです。




