第三十九話 昨日までとは違う朝
朝日は昨日までと何一つ変わらず、清洲の町を照らしていた。
城下では商人たちが店を開き、道には荷を積んだ馬が行き交っている。遠くから聞こえる鍛冶の音も、城内を慌ただしく歩く小者たちの声も、景継がこれまで何度となく見聞きしてきたものだった。
変わったのは世界ではない。
自分だった。
景継は縁側に座り、庭を眺めながら昨夜のことを考えていた。
司馬懿。
字は仲達。
その名を思い出してから一晩が経ったというのに、まだ自分のこととは思えない瞬間がある。書物に記されていた男と、今ここにいる十三歳の少年が同じ魂を持つと言われても、簡単に受け入れられるものではなかった。
しかし、疑うこともできなかった。
目を閉じれば洛陽の景色が浮かぶ。曹操の顔も、諸葛亮と対峙した戦場も、断片的ではあるが思い出すことができる。それらは書物を読んで知った知識とは明らかに違っていた。匂いがあり、音があり、その時に自分が何を考えていたのかまで分かる。
それ以上に景継を戸惑わせたのは、これまで自分だけのものだと思っていた考え方の中に、司馬懿の影があまりにも多く残っていたことだった。
人の言葉をそのまま信用しない。相手が何を言ったかではなく、なぜそれを言ったのかを考える。勝てると思ってもすぐには動かず、負ける可能性を先に探す。そして、敵が自ら崩れるなら、それまで待つ。
幼い頃から自然にやってきたことだった。
誰かに教えられた覚えはない。
だが今なら分かる。
自分は初めてやっていたのではない。
一度目の人生で、何十年も繰り返してきたのだ。
「若様」
後ろから声をかけられ、景継は振り返った。
弥兵衛が立っている。
「朝餉の用意ができております」
「分かりました」
景継は立ち上がったが、弥兵衛はその場から動かなかった。
「どうしました?」
「いえ……」
「何です」
弥兵衛は少し言いにくそうにしてから尋ねた。
「昨日の話は、今日になっても変わっておりませんか?」
景継は一瞬意味が分からなかったが、すぐに理解した。
「夢だったのではないかと?」
「できれば、その方が分かりやすかったのでございますが」
「残念ながら変わっていません」
「そうでございますか」
弥兵衛は難しい顔をした。
景継は少し笑った。
「そんなに警戒しなくても、急に大陸の言葉で話し始めたりはしませんよ」
「それならよいのですが」
「本当に心配していたのですか?」
「昨日まで十三歳だった若様が、実は大昔に一度老人になるまで生きていたと聞かされたのです。少しくらい心配させてください」
言われてみれば、その通りだった。
景継自身よりも、周囲の人間の方が困る話なのかもしれない。
「私は私ですよ」
景継はそう言った。
昨日、信長から言われた言葉でもあった。
今ここにいるのは林道景継だ。
司馬懿の記憶が戻ったからといって、十三年間の人生が消えるわけではない。
「ただ」
景継は庭へ視線を戻した。
「今までより少しだけ、使えるものが増えたのかもしれません」
弥兵衛が怪訝そうにする。
「使えるもの?」
「経験です」
景継は自分の手を見る。
十三歳の手だった。
だが、その頭の中には十三年では到底得られない経験が眠っている。
全部ではない。
記憶はまだ穴だらけだ。
それでも。
使えるものはある。
「前の人生で覚えたことを、この人生でも使えるなら、使わない理由はありません」
「何に使われるおつもりです?」
景継は少し考えた。
答えはすぐには出なかった。
「それを、これから決めます」
◇◇◇
朝餉を終えた景継は、自室へ戻ると机の上に二枚の紙を並べた。
一枚には尾張の地図。
もう一枚には、昨夜までに思い出したことを書き出している。
曹操。
曹丕。
曹叡。
諸葛亮。
洛陽。
五丈原。
高平陵。
それ以外にも名前や場所を書いてみたが、思い出せない部分は無理に埋めなかった。
景継はしばらく二枚の紙を見比べていた。
当然だが、何の関係もない。
魏の戦場と尾張の戦場。
時代も違う。
国も違う。
兵の装備も違う。
政治の仕組みも違う。
昨日までなら、記憶が戻れば何でも分かるようになるのではないかと、心のどこかで期待していたかもしれない。
しかし実際に思い出してみると、そんな都合のいいものではなかった。
司馬懿は戦国時代の日本を知らない。
尾張の地形を知らない。
織田家の事情を知らない。
鉄砲についての知識も、景継として見聞きした以上のものはない。
そして何より。
これから何が起きるのかを知らない。
「未来が分かるわけではない、か」
景継は小さく呟いた。
考えてみれば当然だった。
自分は未来から来たわけではない。
遥か昔から来たのだ。
むしろ、この時代については信長や勝家の方が詳しい。
それでも使えるものはある。
景継は尾張の地図へ目を戻した。
前野家。
岩倉。
清洲。
末森。
一つずつ見ていく。
そして考える。
もし、これが魏の戦場だったら。
そう考えた瞬間、景継は首を横に振った。
違う。
それでは駄目だ。
魏の戦い方を、そのまま尾張へ持ち込むことに意味はない。
考えるべきなのは戦い方ではなく、その前にあるものだ。
なぜ敵は動く。
なぜ味方は裏切る。
何を恐れれば人は動き、何を与えれば残る。
そこは時代が変わっても、大きくは変わらない。
景継は紙へ一つの言葉を書いた。
『人』
戦をするのも人。
国を治めるのも人。
裏切るのも人。
そして。
天下を取るのも人だ。
その時、景継の筆が止まった。
天下。
昨夜も考えた言葉だった。
司馬懿として生きた一度目の人生で、自分は皇帝にはならなかった。しかし自分が築いた力は息子たちへ受け継がれ、やがて司馬一族が天下を取ることにつながった。
では。
今度はどうする。
信長に仕え続けるのか。
この男を天下へ押し上げるのか。
それとも。
自分が。
そこまで考えたところで、景継は筆を置いた。
「まだ早い」
声に出して言った。
尾張すら統一されていない。
自分自身も十三歳にすぎない。
今から天下を語るなど、あまりにも遠すぎる。
だが。
その考えを捨てたわけではなかった。
ただ、今は答えを出さないことにした。
かつての自分なら。
そうしたはずだ。
答えが必要になるまで。
待つ。
景継は自分で考えてから、思わず苦笑した。
「結局、そこは変わらないのか」
◇◇◇
昼前。
信長から呼び出しが来た。
部屋へ入ると、信長のほかに勝家、佐久間信盛、丹羽長秀らが集まっていた。
中央には尾張の地図が広げられている。
景継は空いている場所へ座った。
「何かありましたか」
信長が前野家の領地を指した。
「昨日の使者が戻った後、岩倉から前野へ使者が入った」
景継は地図を見る。
「早いですね」
勝家が頷く。
「前野が清洲へ使者を送ったことを、信賢に知られた可能性がある」
「可能性ではないでしょう」
景継はすぐに答えた。
「おそらく知られています」
信盛が聞く。
「なぜそう思う」
「時期が早すぎます。昨日こちらへ使者を送り、その直後に岩倉から使者が来た。偶然とは考えにくい」
「では前野家の中に、信賢へ知らせた者がいると?」
景継は少し考えた。
「それも考えられます。ただ、こちら側から漏れた可能性もあります」
部屋の空気が変わった。
勝家が景継を見る。
「清洲に間者がいると言うのか」
「いない方がおかしいでしょう」
景継は淡々と答えた。
「こちらが岩倉へ人を入れているのです。向こうが同じことをしていないと考える理由はありません」
信長が笑った。
「その通りだ」
勝家は少し不満そうだったが、反論はしなかった。
景継は地図を見ながら考える。
岩倉は前野家を疑っている。
前野家は岩倉を恐れている。
清洲は前野家を引き込みたい。
三者の思惑が重なっている。
以前の景継なら、ここからどうすれば前野家をこちらへ引き込めるかを考えていただろう。
だが今日は違った。
もっと先を見る。
前野家を寝返らせた後。
岩倉はどうする。
前野家だけなのか。
他にも同じように揺れている家があるのではないか。
一つが動けば。
次は。
景継の頭の中で、かつての記憶と現在の尾張が重なった。
敵の城を攻める必要はない。
敵の兵をすべて倒す必要もない。
敵が立っていられる場所を、一つずつ消していけばいい。
景継は地図を見たまま口を開いた。
「信長様」
「何だ」
「前野家を、すぐにはこちらへ寝返らせない方がいいかもしれません」
勝家が眉を寄せる。
「昨日と言っていることが違うではないか」
「昨日は前野家だけを見ていました」
景継は答えた。
「今日は岩倉全体を見ています」
信長の目が少し変わった。
「続けろ」
景継は前野家の周辺にある国人たちを順番に指していった。
「もし前野家だけが今すぐ清洲へ寝返れば、信賢様は残った者たちを締めつけます。人質を取るかもしれない。兵を城へ集めるかもしれない。そうなれば、次の家を動かすのが難しくなります」
長秀が頷いた。
「ならば前野を岩倉側に残しておくと?」
「表向きは」
勝家が景継を見る。
「何をさせる」
「何もしなくていいんです」
「何?」
「前野家には、岩倉に残ってもらいます。ただし、信賢様から兵を求められても理由をつけて遅らせる。周囲の家々には、清洲と話をしても領地を奪われないらしいという話だけを流してもらう」
信盛が少し身を乗り出した。
「他の国人も揺らすのか」
「はい」
景継は地図上の岩倉城を見た。
「一人だけ裏切れば、その者は裏切り者です。しかし十人が同時に迷えば、誰を罰すればいいのか分からなくなる」
部屋が静かになった。
景継は続けた。
「信賢様に疑わせるんです。前野だけではない。あいつも怪しい。こいつも怪しい。もしかすると重臣まで清洲とつながっているかもしれない、と」
勝家が腕を組む。
「疑わせてどうする」
「何もしません」
また同じ答え。
勝家が明らかに嫌そうな顔をした。
「また待つのか」
「はい」
景継は笑わなかった。
「疑い始めた人間は、自分で敵を作ります。こちらが何もしなくても、信賢様自身が味方を疑い始めれば、岩倉は内側から弱くなる」
信長は何も言わず景継を見ていた。
その視線に気づき、景継が尋ねる。
「何です?」
「昨日と違う」
「私がですか」
「ああ」
景継は少しだけ黙った。
「そうかもしれません」
正体を知ったから強くなったわけではない。
知識が突然増えたわけでもない。
ただ。
自分の中にあるものの使い方が分かり始めた。
それだけだった。
信長は地図へ視線を戻した。
「面白い。やれ」
勝家が驚く。
「殿、本当に?」
「景継の言う通りにしてみる」
「しかし、前野が裏切れば」
景継が答えた。
「その時は切り捨てればいいでしょう」
勝家が景継を見る。
以前なら、十三歳の少年が口にするには冷たすぎる言葉だったかもしれない。
だが景継は、何の感情もなく言ったわけではない。
信用する。
だが。
信用しすぎない。
それが人と関わる上で必要なことを。
一度目の人生で嫌というほど知っていた。
◇◇◇
評定が終わった後、信長は景継だけを残した。
「どうしました?」
信長はすぐには答えなかった。
しばらく景継の顔を見ている。
「昨日の話だ」
「司馬懿のことですか」
「ああ」
信長は少し考えてから聞いた。
「そいつは天下を取ったのか」
景継は一瞬、答えに迷った。
「いいえ」
「取っておらんのか」
「私自身は」
「では負けたのか」
景継は少し笑った。
「信長様は勝ったか負けたかでしか考えないのですか」
「戦ならそうだろう」
「難しいですね」
景継は少し考えた。
「私は皇帝にはなりませんでした。ただ、私の一族は後に天下を取りました」
信長の目が変わった。
「お前の子が?」
「正確には孫です」
信長は少し黙った。
「では、ほとんど天下を取ったようなものではないか」
「そう言えるかもしれません」
信長は景継を見る。
「なら今度は?」
景継は意味が分からず聞き返した。
「何がです」
「今度の人生では、お前が取るのか」
景継の表情が止まった。
朝。
自分自身に問いかけたこと。
まさか、その日のうちに信長から同じことを聞かれるとは思わなかった。
「天下を?」
「ああ」
信長は笑っている。
冗談なのか。
本気なのか。
景継には判断できなかった。
「まだ考えていません」
「そうか」
「怒らないのですか」
「なぜだ」
「あなたに仕えている人間が、自分で天下を取るかもしれないと言っているんですよ」
「取るとは言っておらんだろう」
「今は」
信長の笑みが深くなった。
「なら、その時に考える」
景継は思わず笑った。
「本当に変な人ですね」
「お前に言われたくない」
二人はしばらく笑った。
だが。
景継は気づいていた。
今の会話を。
完全な冗談として流すことができなかった自分に。
◇◇◇
その日の夜。
景継は一人で自室にいた。
机の上には尾張の地図と、司馬懿について記された書物が並んでいる。
景継は二つを見比べた。
一度目の人生。
二度目の人生。
あの頃は。
生き残ることに必死だった。
曹操に疑われれば死ぬ。
政争に負ければ一族ごと消える。
戦で負ければ国が傾く。
だから待った。
耐えた。
そして最後には、自分の一族が生き残れるだけの力を残した。
では。
今回は。
何のために生きる。
景継はまだ答えを持っていなかった。
信長を天下へ押し上げるのか。
自分が天下を取るのか。
あるいは。
どちらでもない道があるのか。
それは今決める必要はない。
だが一つだけ。
昨日までとは違うことがある。
自分が何者だったのか。
もう分かっている。
そして。
何ができる人間なのかも。
少しずつ。
分かり始めている。
◇◇◇
その頃。
別の場所では、先生が一通の書状を読んでいた。
そこには前野家の動きと、清洲で開かれた評定について書かれている。
先生は何度か読み返した後、ある一文で手を止めた。
前野をすぐには寝返らせず、岩倉内部へ疑心を広げる。
報告にはそう記されていた。
先生の目が細くなる。
「……変わった」
向かいに座る男が尋ねる。
「景継が、ですか」
「いや」
先生は書状を机へ置いた。
「元に戻り始めたのかもしれぬ」
「記憶が?」
先生は答えなかった。
景継が何者なのか。
それはまだ分からない。
だが、以前の少年には妙なところがあった。
人を見る時。
敵を見る時。
そして。
待つ時。
子供とは思えないほど冷静だった。
その理由が。
失われていた記憶の中にあるのだとすれば。
「面白くなってきた」
先生が呟く。
男が聞く。
「何をなさいます?」
「何もしない」
「何も?」
先生はわずかに笑った。
「今動けば、こちらが気づいたと教えるようなものだ。あの少年が何を思い出したのか、まずは見ればよい」
先生は景継を示す駒を指先で転がした。
以前は。
自分が景継を見ていた。
だが。
これからは。
そうはいかないかもしれない。
先生はまだ知らない。
景継がすでに、自分について一つの疑問を抱き始めていることを。
――なぜ先生は、私の記憶が失われていることを知っていた?
景継がその答えを求めて動き始めた時。
二人の関係は。
これまでとは逆になる。




