第三十九話 昨日までとは違う朝
朝日は、昨日までと何一つ変わらず尾張を照らしていた。
城下では商人が店を開き、荷を積んだ馬が道を行き交っている。遠くから聞こえる鍛冶の音も、屋敷の中を忙しそうに歩く者たちの声も、景継がこれまで何度となく見聞きしてきたものだった。
変わったのは世界ではない。
自分だった。
景継は縁側に座り、庭を眺めていた。
司馬懿。
字は仲達。
昨日、その名を思い出した。
一晩眠れば少しは落ち着くかと思ったが、そう簡単ではなかった。
目を閉じれば洛陽が見える。
曹操の顔が浮かぶ。
遠くには、羽扇を手にした諸葛亮がいる。
だが、すべてを思い出したわけではない。記憶にはまだ大きな穴があり、顔だけ浮かんで名前が出てこない者もいれば、地名だけ覚えていて何があったのか思い出せない場所もある。
それでも、自分が司馬懿だった。
そのことだけは、もう疑っていなかった。
「若様」
後ろから声がした。
振り返ると弥兵衛が立っている。
「朝餉の用意ができております」
「分かりました」
景継が立ち上がる。
しかし、弥兵衛はその場を動かなかった。
「どうしました?」
「いえ……」
「何です」
弥兵衛は少し迷ってから尋ねた。
「昨日のお話ですが」
「はい」
「今日になっても、変わっておりませぬか?」
景継は一瞬だけ黙り、それから笑った。
「夢だった方がよかったですか?」
「その方が、私としては分かりやすかったのでございますが」
「残念ながら変わっていません」
「そうでございますか」
弥兵衛が難しい顔をする。
「そんなに警戒しなくても、急に別人にはなりませんよ」
「それならよいのですが」
「本当に心配しているんですか?」
「昨日まで十三歳だと思っていた若様から、実は大昔に一度老人になるまで生きていたと言われたのです」
弥兵衛は真顔だった。
「少しくらい心配させてくださいませ」
景継は返す言葉を失った。
言われてみれば、その通りなのかもしれない。
自分以上に、周囲の方がどう受け止めればいいのか分からない話なのだろう。
「私は私ですよ」
景継は言った。
昨日、信長から言われた言葉でもある。
司馬懿だったからといって、林道景継として過ごした十三年間が消えるわけではない。
父も、母も、兄も、弥兵衛も。
今の自分にとっては大切な人間だ。
それは何も変わらない。
「ただ」
景継は自分の手を見る。
十三歳の少年の手。
その頭の中には、十三年では得られない経験が眠っている。
「使えるものが増えたのかもしれません」
「使えるもの?」
「経験です」
「前の人生の?」
「はい」
弥兵衛が少し嫌そうな顔をした。
「若様がこれ以上悪知恵を身につけられるのは、少々困りますな」
景継は弥兵衛を見る。
「悪知恵ではありません」
「では何でございます?」
「経験です」
「同じものでは?」
「違います」
弥兵衛は納得していない顔だった。
朝餉を終えると、景継は自室へ戻った。
机の上には二つのものが置かれている。
尾張の地図。
そして、司馬懿について記された書物。
景継はしばらく、その二つを見比べた。
魏と尾張では何もかもが違う。
時代も、国も、兵も、戦い方も。
司馬懿の記憶が戻ったからといって、戦国のすべてが分かるわけではない。むしろ、この時代について知らないことの方が多かった。
鉄砲。
尾張の土地。
織田家の内情。
周囲の大名。
それらは林道景継として学ばなければならない。
「そのまま使えるわけではないか」
景継は呟き、少し考えてから紙へ一文字だけ書いた。
『人』
戦い方は変わる。
武器も変わる。
国の仕組みも違う。
だが、人はどうだろう。
恐れる。
欲しがる。
疑う。
怒る。
裏切る。
信じる。
そして、生き残ろうとする。
そこまで大きく変わるものではない。
司馬懿の戦い方を、そのまま尾張へ持ってくる必要はない。
何十年も人を見て、その動きを読んできた経験。
それなら使える。
景継は地図へ目を落とした。
清洲。
末森。
岩倉。
そして、その周囲に散らばる国人や土豪。
同じ地図のはずなのに、昨日までとは少し違って見えた。
昼前。
景継は清洲へ呼ばれた。
部屋には信長、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀がいる。
景継が座ると、長秀が地図上のいくつかの場所を示した。
「先日の件だ。岩倉が出した条件について、ある程度分かってきた」
景継は地図へ目を落とした。
先日の評定で決めた通り、清洲は岩倉と条件を競わなかった。
こちらへ傾きかけた者が岩倉へ戻ることも止めず、信賢が誰に、どのような条件を出すのかを見ていた。
その結果が、ようやく集まり始めている。
信盛が書状を一枚、景継の前へ置いた。
「所領の安堵だけで済ませた者もいれば、加増まで持ち出した者もいる。中には使者を二度送られた者もいるようだ」
勝家が腕を組む。
「お前の言った通り、随分と差が出たな」
「はい」
景継は書状へ目を通しながら頷いた。
誰を失いたくないのか。
岩倉自身が、それを少しずつ見せ始めている。
以前なら、それを見つけた瞬間にどう奪うかを考えていたかもしれない。
だが今は、少し違った。
相手が守ろうとしているものが分かったからといって、正面から奪う必要はない。
なぜ、それを必要としているのか。
そこまで見なければ意味がない。
「このまま調べましょう」
景継が言うと、勝家が眉を上げた。
「まだ待つのか?」
「はい。ただ、条件だけではなく、その人たちを岩倉が必要としている理由も知りたいです」
長秀が景継を見る。
「兵だけではないと?」
「兵なら数を見ればある程度分かります。わざわざ良い条件を出すのなら、土地や道にも理由があるかもしれません」
信長が口元を上げた。
「前より見るところが増えたな」
景継は少し考えた。
「そうかもしれません」
急に賢くなったわけではない。
新しい知識を手に入れたわけでもない。
ただ、これまで無意識に使っていた考え方が、どこから来たものなのか。
自分で理解できるようになった。
それだけだった。
評定が終わる。
勝家たちが部屋を出ていった後、信長が景継を呼び止めた。
「景継」
「はい」
「昨日の男」
景継はすぐに分かった。
「司馬懿ですか」
「ああ」
信長は少し考えてから尋ねる。
「天下を取ったのか」
「私自身は取っていません」
「では負けたのか」
景継は苦笑した。
「勝ち負けだけで考えるのですか」
「分かりやすい」
「そうでしょうけど」
景継は少し考えた。
「私自身は皇帝にはなりませんでした。ただ、私が築いたものを子や孫が受け継ぎ、最後には司馬一族が天下を取りました」
信長の目が変わる。
「孫が天下を取ったのか」
「はい」
「なら、お前が取ったようなものではないか」
「そう言っていいのかは分かりません」
信長は少し黙る。
そして、何でもないことのように尋ねた。
「なら、今度は?」
景継が顔を上げる。
「何がです?」
「今度の人生では、お前が取るのか」
景継は固まった。
天下を。
自分が。
昨日の夜、一度だけ考えた。
だが、すぐに止めた。
尾張すら一つになっていない。
自分は十三歳。
あまりにも遠い話だ。
「まだ考えていません」
景継は答えた。
「そうか」
「怒らないのですか」
「なぜだ」
「信長様に仕えている人間が、自分で天下を取るかもしれないという話ですよ」
「取ると言ったのか?」
「言っていません」
「なら、その時に考える」
景継は呆れた。
「本当に変な人ですね」
「お前に言われたくない」
信長が笑う。
景継も笑った。
だが、部屋を出た後も、その問いだけは胸に残った。
今度の人生では。
自分は何をするのか。
その日の夕方。
景継は屋敷へ戻ると、一人で書物を開いた。
司馬懿についてではない。
今度は、自分が幼い頃に書いた紙や、昔使っていたものを集めさせていた。
弥兵衛が不思議そうに尋ねる。
「今度は何を調べておられるので?」
「昔のことです」
「司馬懿だった頃の?」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「林道景継としての昔です」
弥兵衛が黙った。
景継には、一つ気になることがあった。
先生。
あの人物は、自分の失われた記憶について知っていた。
まだ司馬懿だと思い出す前。
先生につながる男は言った。
先生は、自分が幼い頃から景継を知っている。
そして、景継が昔、今とは違う何かを知っていたことも、後にそれを忘れたことも知っている。
あの時は、自分自身のことが分からなかったため、そこまで考える余裕がなかった。
だが、今は違う。
自分の正体は分かった。
だからこそ、別の疑問が生まれる。
「……なぜ知っている?」
景継が呟く。
弥兵衛が聞く。
「何をでございます?」
景継は顔を上げた。
「先生です」
弥兵衛の表情が変わる。
「以前の?」
「はい」
景継は机の上へ紙を置いた。
円。
その中に三本の線。
以前見つけた印を描く。
「先生は、私が幼い頃に妙なことを話していたと知っていました」
「そう聞きましたな」
「それだけなら、昔会ったことがあるのでしょう」
景継は続ける。
「でも、記憶がなくなったことまで知っている」
弥兵衛が黙る。
「一度会っただけの人間が、そこまで分かるでしょうか」
「……若様を、その後も見ていた?」
「そう考えるのが自然です」
景継は、以前の出来事を思い返す。
津々木蔵人。
焼かれた紙。
印。
熱田。
京から届く品。
そして、先生という呼び名。
あの時、自分は先生を追っていた。
だが、もしかすると逆だったのではないか。
最初から、先生の方が自分を見ていた。
「若様」
弥兵衛が慎重に尋ねる。
「探されますか」
景継はすぐには答えなかった。
以前、先生につながる男は言った。
『お前が、自分自身を知った時だ』
その時になれば。
先生も逃げない。
景継は自分の胸へ手を置いた。
自分自身を知った。
昨日、ようやく。
「はい」
景継は答えた。
「今度は、こちらから探します」
同じ頃。
別の場所では、一通の報せが読まれていた。
林道景継が、大陸の古い書物を集めた。
その後、信長と二人で長く話していた。
そして今日、以前とは少し違う様子を見せた。
先生は報せを読み終えると、しばらく黙っていた。
向かいの男が尋ねる。
「何か?」
先生は紙を置く。
「戻ったかもしれぬ」
「記憶が?」
先生は答えなかった。
幼い頃、一度だけ話した少年。
子供が知るはずのないことを知っていた。
まるで、自分がどこかで見てきたかのように。
だが、後に会った時、その記憶は消えていた。
だから見ていた。
何が戻るのか。
いつ戻るのか。
そして、あの少年が何者なのか。
「確かめますか」
男が聞く。
「いや」
先生は首を横に振った。
「こちらからは動くな」
「よろしいので?」
「ああ」
先生はわずかに笑った。
「もし本当に思い出したのなら」
少し間を置く。
「次は、あの少年が私を探す」
先生には、まだ分からない。
林道景継が、かつて誰だったのか。
だが景継の方は、ようやく一つの答えを手に入れた。
司馬懿。
字は仲達。
そして、自分の過去を知った少年が次に知ろうとしているのは、自分自身ではない。
幼い頃から、自分を見ていた人物。
先生。
今度は、景継が追う番だった。




