第四十話 見えぬ者を追う
景継が目を覚ました時、外はまだ薄暗かった。
障子の向こうから差し込む光は弱く、屋敷の中にもほとんど人の気配がない。
鳥の声すらまばらで、遠くから聞こえる足音だけが、朝が近づいていることを知らせていた。
景継は寝床の中で目を開いたまま、しばらく天井を見つめていた。
眠りが浅かった理由は分かっている。
司馬懿。字は仲達。
自分が何者だったのかを知ってから、まだ一日しか経っていない。
目を閉じれば、洛陽の街や曹操の顔、広大な戦場、遠くに見える蜀の陣、そして羽扇を持つ諸葛亮の姿が断片的に浮かぶ。
どれも夢ではない。
自分が実際に見て、考え、感じたものだった。
それだけでも頭が追いつかないというのに、昨夜から景継にはもう一つ、どうしても離れない疑問があった。
先生のことだった。
景継はゆっくり身体を起こすと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……なぜ知っていた」
先生は、自分に失われた記憶があることを知っていた。
しかし、景継が司馬懿であることまでは知らない。
少なくとも、これまで得た情報から考える限り、そう見える。
そこが分からなかった。
もし先生が景継の前世まで知っているのであれば、まだ理解できる。
何らかの理由で司馬懿という人物と景継を結びつけていた、と考えればいいからだ。
だが先生は、正体そのものは知らない。
それなのに、景継の中に何かが眠っていることだけは知っていた。
以前から引っかかっていた疑問ではあった。
しかし昨日までは、自分自身が何を忘れているのかさえ分かっていなかった。
何を失ったのか分からない者が、なぜ他人がそれを知っているのか考えても、答えなど出るはずがない。
今は違う。
失われていたものが何だったのか。
その答えを、景継自身が知っている。
ならば今度は、先生について調べる番だった。
◇◇◇
朝餉を終えると、景継は弥兵衛を自室へ呼んだ。
机の上には一枚の紙が置かれている。
弥兵衛はそれを見るなり、怪訝そうな顔をした。
「これは何でございます?」
「先生についてです」
その言葉を聞いた瞬間、弥兵衛の表情が少し変わった。
景継は筆を取ると、紙の中央へ『先生』と書いた。
「分からないことを、分からないままにしておくのをやめようと思います」
「調べるのでございますか」
「はい」
景継は、その下へ今分かっていることを書き出していった。
自分の記憶について何かを知っていること。
しかし、その記憶の正体までは知らないこと。
尾張だけではなく、美濃やその外の情勢にも通じている可能性があること。そして何らかの方法で、広い範囲から情報を集めているらしいこと。
だが、本名は分からない。
出自も、居場所も、誰に仕えているのかも分からない。
そもそも誰かに仕えている人物なのかどうかさえ、確信はなかった。
景継は筆を置いた。
「……ほとんど何も分かっていませんね」
「それで探せるのでございますか」
「だから考えているんです」
弥兵衛は紙を覗き込みながら、少し難しい顔をした。
「名前も居場所も分からぬ人間となると、簡単ではございませぬぞ」
「分かっています」
景継も腕を組んだ。
先生本人を直接探すのは難しい。
名前も分からず、尾張にいる保証すらない。
ならば、違う方向から探した方がいい。
しばらく考えた末、景継は顔を上げた。
「弥兵衛」
「はい」
「人を探すのはやめます」
弥兵衛が少し驚いた。
「もう諦められるので?」
「違います」
景継は紙に書いた『先生』の文字を指で軽く叩いた。
「先生本人を探そうとするから難しいんです。先生が、どうやって私のことを知ったのか。それを探します」
弥兵衛は黙った。
景継はそのまま続けた。
「先生は私の記憶について知っていた。でも、私が司馬懿だとは知らなかった。なら先生は、私の前世そのものを知っていたわけではないのかもしれません」
「では、なぜ記憶があると知っていたのでしょう」
「そこです」
景継は紙へ新しく線を引き、『先生』と『景継』の文字を結んだ。
「この間に、何かがあるはずです。先生が私について知ることになった理由が」
景継自身が覚えていない何かがあったのかもしれない。
誰かが先生へ話したのかもしれない。
あるいは自分が幼い頃、今では覚えていない何かを口にした可能性もある。
何も分からない。
だが、何の理由もなく先生が記憶の存在だけを知るというのは考えにくかった。
「まず、それを探します」
「どこから調べます?」
景継はすぐには答えなかった。
自分の過去。
幼い頃に誰と会ったのか。
屋敷へ誰が出入りしていたのか。
妙なことを口にしたことはなかったのか。
病にかかったり、急に様子が変わった時期がなかったか。
一つずつ拾っていくしかない。
「急いで答えを出す必要はありません。できるところから調べます」
弥兵衛が少し笑った。
「若様らしいですな」
「何がです?」
「結局、待たれる」
景継は一瞬黙った後、自分でも少し笑った。
「待つのと、何もしないのは違います」
それは一度目の人生でも同じだった。
待つ。
ただし、待っている間に準備する。
敵を見る。情報を集める。
そして相手が動いた時には、こちらの準備を終えておく。
それが、司馬懿という男だった。
◇◇◇
その日の昼前、景継は信長に呼ばれた。
部屋へ入ると、勝家、信盛、長秀がすでに集まっており、中央には尾張の地図が広げられていた。
景継が座ると、信長は一通の書状をその前へ差し出した。
「岩倉が動いた」
景継は書状を受け取り、内容を確認する。
岩倉方から前野家へ兵を出すよう求める使者が入った。
しかも、要求された兵の数は以前より多い。
景継は読み終えると、書状を畳んだ。
「焦っていますね」
勝家が頷く。
「前野が清洲と通じていると疑ったのであろう」
「でしょうね」
信盛が地図を見ながら口を開いた。
「問題は、前野がどうするかだ」
景継は少し考えた。
「兵は出すと思います」
勝家の眉が動く。
「昨日は岩倉から離れると言っておったではないか」
「完全に離れたわけではありません。ここで兵を全く出さなければ、岩倉へ『私は清洲につきました』と自分から知らせるようなものです」
景継は地図上の前野家を指した。
「ただし、求められた兵すべては出さないでしょう。領内の守りが必要だとか、病人が出たとか、農作業で人を集められないとか、理由をつけて減らすはずです」
長秀が少し笑った。
「景継ならどうする?」
「私ならですか」
景継は少し考えてから答えた。
「兵は出します。ただし、使いにくい兵を中心に出します」
勝家が眉を寄せる。
「使いにくい兵?」
「数だけは揃える。ただ、練度の低い者を中心にする。岩倉から見れば命令には従っている。でも、戦力としては期待できない」
信長が声を上げて笑った。
「ひどい奴だ」
「裏切ってはいません」
「役にも立っておらんだろう」
「そこが大事なんです」
長秀も小さく笑った。
だが景継は、すぐに地図へ視線を戻した。
前野家が兵を減らす。
岩倉はさらに疑う。
ここまでは想定通りだった。
問題は、その次だ。
「信長様」
「何だ」
「前野家へ、こちらからは何も言わないでください」
勝家が口を挟む。
「なぜだ」
「今は岩倉に疑わせる時間です。ここでこちらが前野家へ何度も使者を送れば、本当に清洲と通じている証拠を与えることになります」
「では、放っておくのか」
「はい」
勝家は露骨に嫌そうな顔をした。
「また待つのか」
「また待ちます」
「お前は待つのが好きだな」
「勝家様は攻めるのが好きすぎるんです」
「何だと」
信長が吹き出し、長秀も口元を押さえた。
勝家だけが不満そうに景継を見る。
「戦は攻めねば勝てぬ」
「そうでしょうか」
「何?」
「相手が自分から負けてくれるなら、攻めなくても勝てます」
部屋が静かになった。
景継は岩倉城を指した。
「今の岩倉はまだ強いです。兵もいる。城もある。周囲の家々も、表向きは従っています」
「ならば、なおさら攻めるべきではないか」
「逆です」
景継は首を振った。
「今攻めれば、岩倉側はまとまります」
外に明確な敵が現れれば、中で不満を持っていた者たちも一時的には同じ方向を見る。
清洲という共通の敵を見る。
それでは困る。
「だから今は攻めません。信賢様には、外ではなく内を見てもらいます」
長秀の目が細くなる。
「味方を疑わせるのか」
「はい」
前野は本当に味方なのか。
他の家も清洲とつながっているのではないか。
誰が裏切る。
誰を信用していいのか分からない。
一度そう思い始めれば、疑いは簡単には止まらない。
景継は地図上にある三つの家を指した。
「前野家一つなら、信賢様も前野だけを見ます。でも、この辺りまで同じような動きを始めれば話は変わります」
信盛が身を乗り出した。
「この三家も引き込むのか」
「すぐには引き込みません。迷わせます」
「どうやって?」
「清洲につけば領地を奪われないかもしれない。岩倉は本当に勝てるのか。前野家も迷っているらしい。そういう話が耳に入るだけでいいんです」
勝家が尋ねる。
「噂を流すのか」
「嘘を流す必要はありません。前野家が清洲と話をしたことは事実です」
「それだけで?」
景継は静かに頷いた。
「人は、分からない部分を勝手に想像します」
そして、地図の上に置いた指をゆっくりと動かした。
「こちらが十を語る必要はありません。一だけ本当のことを置けば、残りの九は向こうが勝手に作ってくれる」
信長が景継をじっと見ていた。
その視線に気づき、景継が顔を向ける。
「何です?」
「いや。昨日より嫌な奴になったと思ってな」
「褒めています?」
「かなり」
「なら、ありがとうございます」
勝家は呆れたように二人を見た。
長秀はまだ地図を眺めている。
「しかし景継。この三家が動かなければ?」
「その時は別の方法を考えます」
「どれほど待つ?」
景継はすぐには答えなかった。
その瞬間、頭の奥を一つの記憶がかすめる。
かつての戦場。
攻めろと言う将たち。
動かない自分。
焦る味方。
だが、時間が経つほど苦しくなっていったのは敵だった。
景継は現実へ意識を戻した。
「七日」
「七日?」
「まず七日見ます」
信長が頷く。
「よし」
勝家はまだ不満そうだった。
「七日あれば攻め込めるぞ」
「七日あれば、敵が勝手に弱くなるかもしれません」
「弱くならなければ?」
景継は勝家を見る。
「その時は勝家様の出番です」
勝家がようやく少し笑った。
「最初からそう言え」
◇◇◇
評定が終わり、勝家たちが部屋を出ていった。
景継も立ち上がろうとしたが、信長に呼び止められた。
「景継、少し残れ」
「はい」
景継は座り直した。
二人きりになると、信長はしばらく地図を見ていた。
やがて口を開く。
「記憶が戻ってから、何か変わったか」
景継は少し考えた。
「全部が変わったわけではありません」
「全部?」
「昨日まで知らなかったことが、突然何でも分かるようになったわけではないということです」
景継は自分の頭を指した。
「司馬懿は尾張を知りません。岩倉も知りません。信長様のことも知りませんでした」
「当たり前だ」
「はい。だから最初は少し拍子抜けしました」
信長が笑う。
「何でも分かると思っていたのか」
「少しくらいは」
「欲深いな」
「否定しません」
景継も笑った。
だが、すぐ真顔に戻る。
「ただ、経験は残っています」
「戦のか」
「戦だけではありません」
景継は少し考えてから、言葉を続けた。
「人を見ること。疑うこと。待つこと。仕えること。疑われること。味方だった者が敵になること。敵だった者を利用すること。そういうものが、少しずつ戻っています」
一度目の人生で、何十年もかけて覚えたこと。
今の景継には、それが断片的にではあるが使える。
「だから、以前より少し先まで考えられるようになった気がします」
「少し?」
「たぶん」
「お前の少しは信用できん」
景継は苦笑した。
その時、先生のことが頭に浮かんだ。
信長なら、何か知っているだろうか。
「信長様」
「何だ」
「一つ聞いてもよろしいですか」
「ああ」
景継は少し言葉を選んだ。
「私について、昔何か妙な話を聞いたことはありませんか」
信長が眉を寄せる。
「妙な話?」
「私が幼かった頃のことです」
「知らんな」
「そうですか」
「何を探している」
景継は少し迷った。
先生について全部話すべきか。
だが、まだ何も分かっていない。
名前も目的も、敵なのか味方なのかさえ分からない。
ここで信長に話せば、大きく調べ始める可能性がある。
それは避けたかった。
「自分の過去です」
景継は答えた。
嘘ではない。
信長は少し景継を見たが、それ以上は追及しなかった。
「分かったら教えろ」
「はい」
景継は頭を下げた。
◇◇◇
屋敷へ戻ると、景継はすぐに弥兵衛を呼んだ。
「調べてほしいことがあります」
「先生についてですか」
「はい。ただし、先生を探す必要はありません」
「では?」
「私のことを調べてください」
弥兵衛が目を丸くした。
「若様を?」
「私が幼い頃です。誰と会ったのか、誰が屋敷へ来たのか、私が何か妙なことを言っていなかったか。病にかかったことはないか。急に様子が変わったことはないか」
弥兵衛の表情が少しずつ変わった。
「なるほど」
「先生が私について知っているなら、何か理由があるはずです。先生から探すのではなく、私から探します」
「しかし若様。幼い頃のこととなれば、かなり時間がかかります」
「構いません」
「何年ほど遡ります?」
景継は考えた。
今は十三歳。
いつから司馬懿としてのものが自分の中にあったのかは分からない。
ならば。
「できる限り最初からお願いします」
「最初から?」
「私が生まれた頃からです」
弥兵衛がため息をついた。
「これは大仕事になりそうですな」
「お願いします」
「若様は?」
「私は別のことを調べます」
「何を?」
景継は自分の胸へ手を置いた。
「記憶です」
◇◇◇
その夜、景継は一人で机へ向かっていた。
司馬懿について書かれた書物を読むためではない。
目の前にあるのは、白い紙と筆だけだった。
景継は目を閉じ、自分の記憶を辿った。
洛陽。
曹操。
戦場。
そこまでは浮かぶ。
だが今知りたいのは、前世のことではない。
林道景継として生まれてからの記憶だった。
父の顔。
母の声。
兄。
屋敷。
庭。
弥兵衛。
幼い頃の景色を一つずつ拾っていく。
すると途中で、何かが引っかかった。
景継は目を開けた。
「……何だ?」
もう一度、目を閉じる。
庭。
幼い自分。
そして、誰かがいるような気がした。
話している。
だが、顔は見えない。
声も聞こえない。
そもそも本当にそんな記憶があるのかさえ曖昧だった。
無理に追おうとすると、記憶そのものが崩れていく。
景継は目を開いた。
「違うな」
ここで勝手に答えを作ってはいけない。
思い出せないなら、思い出せない。
それも一つの情報だ。
景継は紙へ書いた。
『幼少期――一部曖昧』
その文字をしばらく見つめる。
前世の記憶を失っていたことと、今の人生の幼少期が曖昧なこと。
関係があるのか。
ないのか。
まだ分からない。
「焦るな」
景継は自分へ言い聞かせた。
一度目の人生でも、答えを急いだ時ほど危なかった。
◇◇◇
同じ頃。
岩倉では、織田信賢が一通の書状を握り締めていた。
「これだけか」
目の前の使者が頭を下げる。
「はっ」
「余は五百を出せと言った」
「前野殿は、領内の守りも必要ゆえ、二百が限度と」
信賢の顔が険しくなった。
「二百?」
「はい」
「以前なら出しておったではないか」
使者は答えられない。
信賢は立ち上がった。
「清洲か」
誰も答えない。
「清洲と通じたか」
家臣の一人が慌てて口を開く。
「まだそうと決まったわけではございませぬ」
信賢が睨む。
「なら、なぜ兵を出さぬ」
「前野にも事情が」
「事情?」
信賢の声が低くなる。
「余の命より優先する事情があるというのか」
部屋の空気が重くなった。
誰も何も言えない。
しばらくして、別の家臣が恐る恐る口を開いた。
「前野だけではございません」
信賢の目が動いた。
「何?」
「ほかにも、兵を出すことを渋っている家があるとの話が」
沈黙が落ちた。
「どこだ」
「まだ確かな話では」
「どこだ!」
家臣は三つの家名を挙げた。
そのうちの一つは、景継が昼の評定で指した家だった。
信賢の表情が変わる。
「……調べろ」
「はっ」
「誰が清洲と通じているのか、全部だ」
「しかし」
「全員調べろ!」
家臣たちが一斉に頭を下げた。
その中で、一人だけ何も言わず床を見ている男がいた。
信賢はまだ気づいていない。
自分の視線が、清洲ではなく味方へ向き始めていることに。
◇◇◇
翌朝。
知らせを受けた景継は、地図の前に座っていた。
「一日ですか」
弥兵衛が聞く。
「何がでございます?」
「思ったより早い」
岩倉では前野家だけでなく、周辺の国人まで調べ始めたらしい。
まだ本格的に罰したわけではない。
ただの確認にすぎない。
だが、それで十分だった。
疑いの種は入った。
景継は地図上の岩倉城を見つめる。
昨日、自分は七日待つと言った。
だが、もしかすると七日も必要ないかもしれない。
「若様」
「はい」
「笑っておられますぞ」
景継は自分の口元へ触れた。
確かに、少し笑っていた。
「そんなに嬉しいのでございます?」
「嬉しいというより、不思議なんです」
初めてやった策ではないような感覚がある。
場所も時代も人間も違う。
それなのに、相手が疑い始め、味方を調べ、その結果さらに周囲が不安になる流れを、自分は知っている。
一度目の人生で、何度も見てきた。
「弥兵衛」
「はい」
「人は変わりませんね」
「何の話で?」
「何百年経っても、という話です」
弥兵衛は首を傾げた。
景継は再び地図へ目を戻した。
先生については、まだ何も分からない。
自分の幼少期についても、答えはない。
だが、それでいい。
一つずつ、見えないものを見える形にしていけばいい。
岩倉も、先生も同じだ。
姿が見えないのなら、無理に追いかける必要はない。
痕跡を探す。
動きを見る。
そして、相手が自分から姿を見せる瞬間まで待つ。
景継は静かに地図を見つめた。
司馬懿仲達として一度生きた男が、林道景継として初めて自分自身の過去を追い始めた。
その先にいる人物が、やがて信長の人生さえ大きく動かす男であることを。
この時の景継は、まだ知らなかった。




