第四十話 見えぬ者を追う
景継が目を覚ました時、外はまだ薄暗かった。
障子の向こうから差し込む光は弱く、屋敷の中にもほとんど人の気配がない。遠くから聞こえる足音だけが、朝が近づいていることを知らせていた。
景継は寝床の中で目を開いたまま、昨夜から頭を離れない疑問について考えていた。
司馬懿、字は仲達。
自分が何者だったのかという問いには、ようやく答えが出た。だが、その答えを得たことで、今度は別の疑問が以前よりもはっきりと浮かび上がっている。
先生のことだった。
「……なぜ知っていた」
景継は小さく呟きながら身体を起こした。
先生は、自分に失われた記憶があることを知っていた。しかし、景継が司馬懿であることまでは知らなかった。少なくとも、これまでに得た情報から考える限り、そう見える。
そこが分からない。
もし先生が前世の正体まで知っていたのであれば、まだ理解できる。何らかの理由で司馬懿という人物と林道景継を結びつけていた、と考えればいいからだ。
だが、先生はそこまでは知らなかった。
それなのに、幼い景継が何か普通ではない記憶を持っていたこと、そして後にその記憶を失ったことだけは知っている。
以前から引っかかっていた疑問ではあった。しかし昨日までは、自分自身が何を忘れているのかさえ分かっていなかったため、考えようにも材料がなかった。
今は違う。
失われていたものが何だったのか、その答えを景継自身が知っている。
ならば今度は、先生について調べる番だった。
ただし、名前も居場所も分からない人間を闇雲に探すつもりはない。
先生を直接追えないのであれば、自分と先生がどこでつながったのかを探せばいい。
景継は寝床から立ち上がった。
「先生が私を知った理由を探そう」
それならば、調べる場所は一つしかなかった。
自分自身の過去だった。
朝餉を終えると、景継は弥兵衛を自室へ呼んだ。
机の上には一枚の紙が置かれ、その中央には『先生』、少し離れた場所には『林道景継』と書かれている。
弥兵衛は紙を覗き込み、怪訝そうに眉を寄せた。
「始められるので?」
「はい。ただ、先生本人を探すのはやめます」
「もう諦められるので?」
「違います」
景継は二つの文字の間へ一本の線を引いた。
「ここを探します」
「先生と若様の間、でございますか」
「はい。先生は私のことを知っていました。なら、知ることになった理由があるはずです」
誰かから聞いたのかもしれない。あるいは自分の目で見たのかもしれないし、幼い景継本人から何かを聞いた可能性もある。
どれが正しいのかは、まだ分からない。
「私が幼い頃、誰と会ったのか調べてください。屋敷へ来た者や、父上や母上が会わせた者もです」
「どこまで遡ります?」
「できるだけ最初から」
弥兵衛の顔が少し曇った。
「生まれた頃から?」
「はい」
「大仕事でございますな」
「お願いします」
弥兵衛は小さくため息をついた。
「若様は簡単に言われます」
「私も調べますよ」
「何を?」
「自分の記憶をです。前の人生ではなく、林道景継として生きてきた方を」
これまでは前世の記憶ばかりを追っていた。だが、先生が接触したのは司馬懿ではなく林道景継なのだから、探すべきなのはこちらの人生にある。
「私が妙なことを言っていなかったか、急に様子が変わった時期がなかったか。それも調べたいです」
「全部でございますか」
「全部です」
弥兵衛がもう一度ため息をつく。
「先生を探した方が早いのではございませぬか」
「それで見つからなかったでしょう?」
「……そうでしたな」
「なら、違う道から行きます」
一つの道が塞がっているからといって、同じ場所へ何度もぶつかる必要はない。別の道を探し、そこから同じ場所を目指せばいい。
それもまた、一度目の人生で何度もやってきたことだった。
昼前になると、景継は清洲へ呼ばれた。
部屋には信長、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀が集まっており、中央には尾張の地図が広げられている。
景継が座ると、信長は一通の書状を差し出した。
「岩倉が動いた」
景継は書状を受け取り、内容へ目を通した。
前野家へ、信賢から兵を出すよう命令が届いたらしい。しかも、求められた兵の数は以前よりも多い。
「焦っていますね」
勝家が頷いた。
「前野が清洲と通じていると疑ったのであろう」
「でしょうね」
信盛が地図を見ながら尋ねる。
「前野はどうすると思う」
景継は少し考えてから答えた。
「兵は出すでしょう」
勝家が眉を寄せる。
「こちらへ傾いているのにか」
「だからです。ここで一兵も出さなければ、自分から『清洲と通じています』と言うようなものです」
景継は地図上の前野家を指した。
「ただ、求められた兵をすべて出す必要はありません。領内の守りや農作業を理由にすれば、ある程度は減らせます」
長秀が口元を緩める。
「景継ならどうする?」
「私ならですか」
少し考えた後、景継は答えた。
「数だけはできるだけ合わせます。ただし、使いにくい兵を中心にします」
勝家が怪訝そうな顔をする。
「使いにくい兵?」
「練度の低い者を多く混ぜます。命令には従っているように見えますが、岩倉にとって使いやすい戦力にはなりません」
信長が声を上げて笑った。
「ひどい奴だな」
「裏切ってはいません」
「役にも立っておらんだろう」
「そこが大事なんです」
長秀も小さく笑ったが、勝家だけは納得していない様子だった。
「そのような真似をして、信賢に気づかれぬと思うか」
「気づくでしょう」
景継はあっさりと答えた。
「むしろ、少し気づいてもらった方がいいと思っています」
勝家の表情が変わった。
「何?」
景継は指を前野家から岩倉城へ動かした。
「今、信賢様には清洲ではなく、自分の味方を見てもらいたいんです」
部屋が静かになった。
前野は本当に従っているのか。ほかの家はどうなのか。あの者も清洲と話しているのではないか。
一度そんな疑いを持てば、視線は外ではなく内へ向く。
「今こちらから岩倉を攻めれば、向こうはまとまります。内部に不満を持つ者がいたとしても、清洲という共通の敵が現れれば、一時的には同じ方向を見るでしょう」
勝家が腕を組んだ。
「ならば、今は攻めぬと」
「はい。信賢様には、自分の周りを見てもらいます」
長秀の目が細くなる。
「味方を疑わせるのか」
「こちらから疑えと言うわけではありません。疑いたくなる材料だけを置きます」
景継は前野家の周囲にある三つの家を順番に指した。
「前野家一つだけなら、信賢様も前野だけを見れば済みます。でも、この辺りまで似た動きを始めれば、誰が本当に味方なのか分からなくなる」
信盛が身を乗り出した。
「この三家も引き込むのか」
「すぐには引き込みません。迷わせるだけで十分です」
「どうやって?」
「清洲へつけば領地を奪われないらしい。前野家も清洲と話をしている。岩倉は本当に勝てるのか。そういう事実や疑問が耳へ入るだけでいいんです」
勝家が尋ねる。
「噂を流すのか」
「嘘を作る必要はありません。前野家が清洲と話をしたことは事実です」
景継は地図を見ながら続けた。
「人は、分からない部分を自分で埋めます。こちらが十を語らなくても、一だけ本当のことを置けば、残りは向こうが勝手に考えてくれる」
信長がじっと景継を見ていた。
その視線に気づき、景継が顔を上げる。
「何です?」
「いや。昨日より嫌な奴になったと思ってな」
「褒めています?」
「かなり」
「なら、ありがとうございます」
勝家は呆れたように二人を見ていた。
長秀が地図を眺めながら尋ねる。
「だが、この三家が動かなければどうする?」
「その時は別の方法を考えます」
「どれほど待つ」
景継は少し考えた。
一瞬だけ、かつての戦場が頭をよぎった。
攻めろと訴える将たちを抑え、自分は陣を動かさなかった。味方は焦ったが、時間が経つほど苦しくなっていったのは敵だった。
「まず七日、見ます」
信長が頷く。
「よし」
勝家はまだ不満そうだった。
「七日あれば攻め込めるぞ」
「七日あれば、敵が勝手に弱くなるかもしれません」
「弱くならなければ?」
景継は勝家を見る。
「その時は勝家様の出番です」
勝家の口元がようやく緩んだ。
「最初からそう言え」
評定が終わると、景継も部屋を出ようとしたが、信長に呼び止められた。
「景継、少し残れ」
「はい」
勝家たちが去り、二人だけになる。
信長はしばらく地図を眺めてから口を開いた。
「記憶が戻って、何か変わったか」
景継は少し考えた。
「何でも分かるようにはなりませんでした」
「当たり前だ」
「少しくらい期待していたんですが」
「欲深いな」
景継は苦笑した。
「司馬懿は尾張を知りません。岩倉も知りませんし、信長様のことも知りませんでした。鉄砲についても、今の私が知っている以上のことは分かりません」
「なら役に立たんのか」
「いいえ。経験はあります」
「戦の?」
「それだけではありません」
景継は少し考えながら、自分の中へ戻ってきたものを一つずつ言葉にした。
「人を見ること。疑うこと。待つこと。仕えること。疑われること。味方だった者が敵になることも、敵だった者を利用することも経験しています。そういうものが、少しずつ戻ってきています」
一度目の人生で何十年もかけて得た経験を、今の自分は断片的ながら使うことができる。
「だから、以前より少し先まで考えられるようになった気がします」
「少し?」
「たぶん」
「お前の少しは信用できんな」
景継は苦笑した。
その時、先生のことが頭に浮かんだ。
「信長様。一つ聞いてもよろしいですか」
「何だ」
「私が幼かった頃について、何か妙な話を聞いたことはありませんか」
信長が眉を寄せる。
「妙な話?」
「誰か変わった人間と会っていたとか、普通の子供が知らないようなことを話していたとか」
「知らんな」
「そうですか」
「何を探している」
景継は少し迷った。
先生について話すことも考えたが、まだ何も分かっていない。名前も目的も、敵なのか味方なのかさえ確信できない以上、今の段階で信長まで大きく動かす必要はない。
「自分の過去です」
嘘ではなかった。
信長は少しだけ景継を見つめたが、それ以上は追及しなかった。
「分かったら教えろ」
「はい」
景継は頭を下げた。
屋敷へ戻ると、弥兵衛が待っていた。
その顔を見ただけで、景継には何か見つかったのだと分かった。
「若様」
「早かったですね」
「すべてを調べたわけではございませぬ。ただ、一つだけ気になる話がございました」
景継の表情が変わった。
「何です?」
「志乃様へ聞いてみました」
母の名を聞き、景継は黙って続きを待った。
「若様が五つか六つの頃だったそうです。その頃の若様は、時折妙なことを話されていたと」
「妙なこと?」
「大陸についてでございます」
景継は動かなかった。
「どんな話を?」
「志乃様も詳しくは覚えておられませぬ。ただ、聞いたこともない国や、人の名前らしきものを口にされることがあったそうです」
景継はゆっくりと息を吐いた。
司馬懿としての記憶は、完全に消えた状態で生まれたわけではなかった。
少なくとも五つか六つの頃には、その一部を口にしていた可能性がある。
「それから?」
弥兵衛は一度言葉を切った。
「同じ頃、一人の男が屋敷を訪ねてきたことがあるそうです」
景継の目が上がった。
「誰です?」
「それが分かりませぬ」
「父上の客では?」
「おそらくそうだろうと。ただ、志乃様も詳しくは覚えておられないようで」
覚えているのは、まだ若い男だったこと。武士のようにも見えたが供はほとんど連れておらず、景政と話した後、庭にいた幼い景継とも話していたこと。
景継は身を乗り出した。
「何を話したかは?」
「そこまでは聞いておられなかったそうです」
「その男が来たのは一度だけですか」
「今のところは、それも分かりませぬ。ただ――」
弥兵衛の声が少し低くなった。
「その頃を境に、若様は大陸について妙な話をほとんどされなくなったそうです」
景継は黙り込んだ。
男が先生だった証拠はない。
まして、その男が景継の記憶が失われたことに関係していると決めつける材料など、どこにもなかった。
ただ、一つだけ説明できることがある。
幼い景継が大陸について話しているところを先生が実際に見聞きしていたのなら、先生が前世の正体までは知らず、それでも「景継には何か普通ではない記憶があった」と知っている理由にはなる。
「……一つ、つながりましたね」
「はい」
景継は目を閉じた。
幼い頃の自分を思い出そうとする。
庭が見える。
木漏れ日の下に、小さな自分がいる。
そして、その前に誰かがいた。
昨夜までは、そこに人がいるような気がするだけだった。だが今は、ぼんやりとした人影が自分の前にしゃがんでいるのが分かる。
顔は見えない。
それでも。
声がした。
『それは、どこの国の話です?』
景継の呼吸が止まった。
幼い自分が何かを答えている。
しかし、その言葉までは聞き取れない。
続いて、男が尋ねた。
『あなたは、それをどこで知ったのです?』
そこで記憶が途切れた。
景継は目を開ける。
「若様?」
「……思い出しました」
弥兵衛の顔が変わった。
「男のことを?」
「少しだけです」
「顔は?」
景継は首を横に振った。
「まだ分かりません。ただ、話したことはあります」
証拠はない。
だから、まだ先生だとは決めつけない。
それでも、これまで何もなかった場所に初めて足跡が現れた。
「弥兵衛。その男について、もう少し調べてください」
「承知しました」
「私も父上に聞きます」
景継は立ち上がった。
今まで先生は、どこにいるのかさえ分からない相手だった。
だが今。
初めて、その影を掴んだ気がした。
同じ頃、岩倉では信賢が報告を受けていた。
「前野が二百しか出さぬ?」
「はっ」
「余は五百と言ったはずだ」
「領内の守りを空けることはできぬ、と」
信賢の顔が険しくなる。
そのそばには、月照寺で景継と話した河村直綱が座っていた。
「清洲と通じておるな」
信賢が吐き捨てる。
直綱はすぐには頷かなかった。
「その可能性はございます」
「ならば捕らえるか」
「それはお勧めいたしませぬ」
信賢が直綱を見る。
「なぜだ」
「証拠がございませぬ」
「兵を出さぬことが証拠だ」
「二百は出しております」
信賢が黙った。
直綱は地図上の前野家を見ながら続けた。
「ここで前野を罰すれば、周囲の者はどう思いましょう。次は自分かもしれぬと考えます。そうなれば、清洲へ傾いていなかった者まで清洲を見るようになるかもしれませぬ」
「では放っておけと?」
「いいえ。調べます。ただし、表立って締めつけるべきではございません」
前野だけではない。
その周辺にいる国人たちが、清洲と接触していないかも調べる。
ただし、疑っていることを相手に悟らせない。
信賢が目を細めた。
「景継か」
「おそらく」
直綱は静かに答えた。
「景継が狙っているのは、こちらの疑心でしょう。前野を疑わせ、その疑いを周囲へ広げたいのかと」
「分かっているなら止めろ」
「そのつもりにございます」
直綱は信賢を見る。
「だからこそ、焦ってはなりませぬ。相手が待つなら、こちらも待てばよいのです」
信賢は不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
翌朝。
景継のもとへ岩倉から新しい報せが届いた。
前野家への処罰はない。周辺の国人に対しても、表立った締めつけは行われていないらしい。
報告を読み終えた景継は、小さく息を吐いた。
「読まれましたね」
弥兵衛が尋ねる。
「何をでございます?」
「こちらの狙いです」
景継の頭に、月照寺で会った河村直綱の顔が浮かんだ。
信賢だけを相手にするのであれば、もう少し早く疑いが広がると思っていた。しかし岩倉には、それを止めようとする者がいる。
「七日は必要そうですか」
「もっとかかるかもしれません」
「残念で?」
「いいえ」
景継は地図を見ながら、わずかに口元を緩めた。
むしろ、少し面白い。
相手もこちらの策を考え、その狙いを読み、対抗してくる。それならば、さらにその先を考えればいい。
岩倉については、それでいい。
だが今の景継には、もう一人追うべき相手がいた。
机の端には、弥兵衛が聞き取った話がまとめられている。
五、六歳の頃。
大陸について話していた自分。
屋敷を訪れた若い男。
庭で交わした会話。
そして、その後に薄れていった記憶。
まだ、それぞれが一本の線でつながったわけではない。
それでも景継は、ようやく先生へ続くかもしれない最初の足跡を見つけた。
姿は見えない。
名前も分からない。
ならば、今はそれでいい。
次に調べることは決まっている。
景継は紙の端へ筆を走らせた。
『父上に聞く』
書き終えると、しばらくその文字を見つめる。
十三歳になった自分が先生と接触するよりも、ずっと前。
まだ幼かった林道景継の前に、一人の男が立っていた。
その男が本当に先生だったのか。
そして、なぜ幼い自分へ興味を持ったのか。
答えはまだ見えない。
だが、追うべき道は見え始めた。
景継は紙から顔を上げた。
急ぐ必要はない。
一つずつ確かめればいい。
見えない相手を追う戦いは、ようやく最初の一歩を踏み出した。




