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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第二章 二度目の乱世

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第四十一話 崩れ始める岩倉


岩倉から二つ目の知らせが届いたのは、それから三日後のことだった。


朝から細い雨が降っていた。


景継は屋敷の縁側に座り、庭へ落ちる雨粒を眺めていた。目の前には湯気の立つ茶が置かれているが、まだ一口も飲んでいない。


頭の中にあるのは岩倉のことだった。


三日前、織田信賢は前野家だけでなく、周辺の国人たちについても調べ始めた。


誰が清洲と通じているのか。


誰が裏切ろうとしているのか。


疑い始めた。


だが景継は、それ以上何もしなかった。


清洲から新たな使者も送っていない。


噂を増やしてもいない。


前野家にも連絡していなかった。


ただ待っている。


弥兵衛には、それが少し不思議だったらしい。


「若様」


「はい」


「本当に何もなさらぬので?」


景継は庭を見たまま答えた。


「何もしません」


「岩倉では、せっかく騒ぎが起き始めているのでございましょう?」


「だからですよ」


弥兵衛が首を傾げる。


景継はようやく茶へ手を伸ばした。


「火をつけた後に、薪を入れすぎるとどうなります?」


「火が大きくなるのでは?」


「普通ならそうです。でも、積み方を間違えれば消えることもあります」


一口飲む。


「今の岩倉も同じです」


疑いは生まれた。


ならば、あとは岩倉の人間たち自身に育ててもらえばいい。


清洲が露骨に動けば、信賢も気づく。


誰かが自分たちを仲違いさせようとしている、と。


そうなれば、今まで疑っていた家臣たちと手を結び直す可能性がある。


だから動かない。


「疑いというものは、面白いんです」


「面白い?」


「誰かに『あの者を疑え』と言われれば、逆に疑いたくなくなることがあります。でも、自分で一度疑い始めると――」


景継は庭へ落ちる雨を見つめた。


「今度は、何を見ても怪しく見える」


弥兵衛は少し黙った。


「怖いものでございますな」


「ええ」


景継は静かに頷いた。


一度目の人生で、何度も見てきた。


疑心。


猜疑。


権力を持つ者ほど、それに取り憑かれやすい。


失うものが大きいからだ。


家臣が自分を裏切るかもしれない。


味方が敵へ寝返るかもしれない。


自分の地位を奪われるかもしれない。


そして一度そう思えば、忠義すら疑い始める。


忠義を確かめようとして家臣を締めつける。


締めつけられた家臣は不満を持つ。


その不満を見て、主君はさらに疑う。


そうして最後には――


本当に裏切られる。


「信賢様がどこまで耐えられるかですね」


景継がそう呟いた時だった。


廊下を走る足音が聞こえた。


「若様!」


一人の家臣が現れ、膝をつく。


「清洲より使者にございます」


景継と弥兵衛が顔を見合わせた。


「通してください」


ほどなくして、一人の男が部屋へ入ってきた。


雨の中を急いできたのだろう。肩は濡れ、息も少し乱れている。


男は景継の前へ座ると、懐から書状を取り出した。


「信長様より、すぐに登城するようにとの仰せにございます」


景継は書状を受け取った。


「何かありましたか」


男は一瞬迷った。


そして答えた。


「岩倉方の家臣が、一人消えました」


景継の目が細くなった。


「消えた?」


「はい」


「死んだのではなく?」


「行方が分からぬとのことにございます」


景継は立ち上がった。


ようやく。


岩倉の中で、次の石が動いた。


◇◇◇


清洲城へ着いた頃には、雨はさらに強くなっていた。


景継が評定の間へ入ると、信長をはじめ、勝家、長秀、信盛が揃っている。


前回と違うのは、誰も笑っていないことだった。


中央の地図には、岩倉周辺の家々を示す駒が置かれている。


そのうち一つが、横へ倒されていた。


景継はそこへ座った。


「消えたのは?」


長秀が答えた。


「浅井政貞という男だ」


「浅井……」


「信賢の近習の一人だ。大身ではないが、岩倉内部の事情を知る立場にある」


景継は倒された駒を見た。


「最後に確認されたのは?」


「昨夜だ」


「家族は?」


「残っている」


「兵は?」


「連れていない」


景継の質問が続く。


「屋敷に争った跡は?」


「ない」


「金や武具は?」


長秀が少し驚いた顔をした。


「そこまで調べさせている。まだ返事はない」


景継は黙った。


家族を残している。


兵も連れていない。


突然逃げたのか。


それとも。


「殺された可能性は?」


勝家が言った。


「俺もそれを考えた」


「信賢様が?」


「分からん」


景継は地図を見つめた。


信賢が裏切りを疑い、秘密裏に処分した。


十分あり得る。


だが、それなら死体を隠す必要があるのか。


見せしめにした方が効果は大きい。


逆に。


浅井本人が逃げた可能性。


こちらもある。


では、どこへ?


「清洲には来ていないんですね」


「来ておらん」


信長が答えた。


景継は顔を上げる。


「美濃は?」


信長の目が動いた。


「なぜ美濃だ」


「逃げるなら、清洲だけが逃げ道ではありません」


岩倉の北には美濃がある。


そして美濃には、斎藤家がいる。


尾張の争いを利用したい者など、いくらでもいる。


信盛が腕を組んだ。


「斎藤が岩倉へ手を伸ばしていると?」


「まだ分かりません」


景継はすぐ否定した。


「可能性を一つずつ置いているだけです」


信長が笑った。


「前なら断言していたような気もするがな」


「記憶が戻ったからこそ、断言しなくなったのかもしれません」


「どういうことだ」


景継は少し考えた。


「人は、見たい答えを先に決めると失敗します」


一度目の人生でも。


敵がこう動くはずだ。


味方は裏切らないはずだ。


あの男はこう考えているはずだ。


そう決めつけた者から崩れていった。


司馬懿自身も、何度も読み違えている。


だからこそ知っている。


「分からないものは、分からないまま置いておいた方がいい時があります」


勝家が鼻を鳴らした。


「相変わらず面倒な考え方をする」


「勝家様は簡単すぎるんです」


「また言うか」


信長が手を上げた。


「それは後にしろ」


二人が黙る。


信長は地図を見た。


「景継。どうする」


景継は少し考えた。


そして答えた。


「浅井殿を探します」


「こちらで?」


「はい。ただし、岩倉には気づかれないように」


長秀が尋ねる。


「見つけてどうする」


「何もしません」


勝家が顔をしかめた。


「またそれか」


「見つけることが目的です。連れてくる必要はありません」


景継は倒された駒を起こした。


「浅井殿が自分から逃げたのか。誰かに消されたのか。それだけ分かれば、岩倉の中で何が起きているのか見えてきます」


「もし逃げたのなら?」


「行き先を見ます」


「清洲なら?」


「保護します」


「美濃なら?」


景継は少し黙った。


「その時は、岩倉だけを見ている場合ではなくなります」


部屋の空気が変わった。


尾張の内輪争いに美濃が入る。


そうなれば話は別だった。


信長が頷く。


「長秀」


「はっ」


「人を出せ」


「承知」


長秀が立ち上がろうとする。


その時。


景継が言った。


「もう一つあります」


全員が景継を見る。


「岩倉へ噂を流してください」


勝家が眉を寄せた。


「さっきまで何もするなと言っておったではないか」


「状況が変わりました」


景継は地図を見た。


「ただし、浅井殿についてではありません」


「では何を流す」


景継は少し考えた。


そして、静かに答えた。


「清洲は岩倉から寝返る者を受け入れる、と」


信盛の顔が変わった。


「それは……」


「はい」


景継は頷く。


「逃げ道を作ります」


◇◇◇


「逃げ道?」


勝家が聞き返した。


景継は岩倉城の駒を指で囲った。


「今の岩倉にいる者たちは不安になっています。信賢様から疑われている。誰が次に調べられるか分からない」


「だから清洲へ逃げてこいと?」


「直接言ってはいけません」


景継は首を振る。


「清洲へ来いと言えば勧誘です。信賢様もすぐに警戒します」


「では?」


「ただ、受け入れるという話だけを流します」


逃げろとは言わない。


裏切れとも言わない。


清洲へ来れば助かる。


その可能性だけを示す。


長秀が理解したように頷いた。


「自分で選ばせるのか」


「はい」


景継は答えた。


「人間は逃げ道がなければ、どれほど不満があっても今いる場所にしがみつきます。でも、逃げられると分かれば――」


その先は言わなかった。


信長が笑った。


「逃げたくなる」


「そういうことです」


勝家は腕を組んだまま考えている。


「だが、皆が逃げるとは限らんぞ」


「もちろんです」


景継は頷く。


「逃げなくてもいいんです」


「何?」


「逃げ道があると知るだけでいい」


信賢から疑われた時。


以前なら耐えるしかなかった。


だが今度は違う。


清洲へ行けば助かるかもしれない。


その考えが頭に浮かぶ。


そうなれば。


信賢へ向ける忠義の重さが、少しだけ変わる。


景継は地図上の岩倉を見つめた。


「城というものは、石垣だけで立っているわけではありません」


誰も口を挟まない。


「中にいる人間が、ここに残ろうと思っているから城なんです」


景継は岩倉城の駒を指で軽く押した。


「なら、その気持ちをなくせばいい」


信長が笑った。


「やはり嫌な奴だ」


「褒め言葉として受け取ります」


「そうしろ」


◇◇◇


その日の夜。


岩倉城では、また一人の家臣が信賢の前へ呼び出されていた。


「前野と話したそうだな」


「は?」


男は顔を上げた。


「いつの話にございます?」


「とぼけるな」


信賢は冷たい目で男を見る。


「三日前だ」


「三日前……」


男は必死に記憶を辿った。


確かに前野家の者とは会っている。


だが、それは領地の境を流れる川についての話だった。


毎年行っている。


何も珍しいことではない。


「領地のことでございます」


「何を話した」


「水の取り決めを」


「それだけか」


「はっ」


「清洲の話は?」


「しておりませぬ」


「本当か」


男の顔に戸惑いが浮かんだ。


「何を疑っておられるのでございます?」


その言葉がまずかった。


信賢の目つきが変わる。


「余が間違っていると申すか」


「そのようなことは――」


「なら答えろ!」


信賢の怒声が響いた。


「前野は清洲と通じているのか!」


「存じませぬ!」


「浅井はどこへ行った!」


「それも存じませぬ!」


「皆、同じことを言う!」


男は言葉を失った。


信賢は立ち上がった。


「余を馬鹿にしているのか」


「決してそのような――」


「下がれ」


「信賢様」


「下がれ!」


男は頭を下げるしかなかった。


部屋を出る。


廊下へ出たところで、男は大きく息を吐いた。


手が震えていた。


何もしていない。


それなのに疑われている。


このままでは。


「お疲れでございます」


声をかけられた。


振り向くと、知り合いの家臣が立っていた。


「聞かれたか」


「何をだ」


男が聞き返す。


家臣は周囲を確認した。


そして小声で言った。


「清洲の話だ」


男の表情が固まる。


「清洲?」


「大きな声を出すな」


二人はさらに声を落とした。


「信長殿は、岩倉から来る者を拒まぬらしい」


男は何も言わなかった。


「誰から聞いた」


「分からん。だが城下では、すでに何人か知っている」


「罠ではないのか」


「それも分からん」


家臣はそこで話を切り上げた。


「ただ……覚えておいて損はない」


そう言って去っていく。


男は一人、廊下に残った。


清洲。


今までなら考えもしなかった。


自分は岩倉の人間だ。


信賢に仕える。


それが当たり前だった。


だが。


先ほどの信賢の顔が頭に浮かぶ。


何もしていない自分を疑った目。


浅井が消えた。


次は誰だ。


男は廊下の先を見た。


そして初めて。


岩倉城の外に、自分の居場所があるかもしれないと思った。


◇◇◇


二日後。


景継のもとへ、浅井政貞についての知らせが届いた。


弥兵衛が書状を持って部屋へ入ってくる。


「若様」


「見つかりましたか」


「はい」


景継は顔を上げた。


「どこです?」


弥兵衛は答えた。


「犬山の近くにございます」


景継の眉が動く。


「犬山?」


「はい。農家に身を隠しているところを見つけたとのことです」


「一人ですか」


「一人にございます」


「美濃へ向かっている様子は?」


「今のところはないと」


景継は少し考えた。


ならば。


斎藤家が動いている可能性は、ひとまず低くなった。


問題は。


「なぜ逃げたか分かりますか」


「そこまでは」


「話を聞けます?」


「捕らえますか」


景継は首を振った。


「駄目です」


「では?」


「こちらから一人だけ送ってください。清洲の人間だとは名乗らない」


「何を聞くので?」


「何も」


弥兵衛が困惑した。


「何も聞かぬので?」


「はい」


景継は少し笑った。


「金と食べ物を渡してください」


「それだけで?」


「それだけです」


弥兵衛には意味が分からないらしい。


景継は説明した。


「逃げている人間は警戒しています。突然知らない者が現れて、なぜ岩倉から逃げたと聞けば、口を閉ざすでしょう」


「ならば、どうやって理由を?」


「向こうから話してもらいます」


「話しますか?」


「すぐには話さないでしょうね」


景継は頷いた。


「だから待ちます」


弥兵衛が苦笑した。


「またでございますか」


「またです」


景継も笑った。


◇◇◇


浅井政貞が口を開いたのは、それからさらに二日後だった。


最初の日。


食べ物と金を受け取った浅井は、何も話さなかった。


二日目。


同じ男が食べ物だけを持ってきた。


やはり何も聞かない。


三日目。


浅井の方から尋ねた。


――お前は誰だ。


男は答えなかった。


ただ。


――追っ手ではない。


それだけを伝えた。


そして四日目。


浅井が話した。


その報告を受けた景継は、清洲城へ向かった。


信長たちの前に座る。


「分かりました」


信長が身を乗り出す。


「何だ」


「浅井殿は、殺されると思って逃げたそうです」


勝家が眉を寄せた。


「信賢に?」


「はい」


景継は報告を続けた。


浅井は清洲と通じていなかった。


前野とも特別な関係はない。


だが信賢から、何度も呼び出されていた。


誰が清洲と通じている。


誰が裏切る。


前野は何を考えている。


知らないと答えても、信じてもらえなかった。


そしてある日。


同じように疑われていた別の家臣が、屋敷へ戻らなかった。


その瞬間。


浅井は思った。


次は自分だ、と。


「実際にその家臣が殺されたかは分かりません」


景継は言った。


「ただ、浅井殿はそう思った」


長秀が静かに息を吐く。


「十分だな」


「はい」


真実など関係ない。


信賢が本当に家臣を殺したかどうかではない。


家臣たちが。


殺されるかもしれないと思い始めた。


それが重要だった。


勝家が地図を見る。


「では、そろそろ攻めるか」


景継は首を振った。


「まだです」


「まだ待つのか!」


勝家が声を上げる。


景継は笑った。


「あと少しです」


「何を待つ」


景継は岩倉城の駒を見た。


「最初の一人です」


「浅井ではないのか」


「浅井殿は逃げただけです」


景継が待っているのは違う。


逃げる者ではない。


自分の意思で。


岩倉を捨て。


清洲を選ぶ者。


「一人来れば、二人目が来ます」


景継は静かに言った。


「二人来れば、岩倉に残っている者も考え始めます」


信長が聞いた。


「誰が最初に来ると思う」


景継は少し考えた。


「分かりません」


「珍しいな」


「でも」


景継は岩倉周辺の駒を見た。


「そう遠くはないと思います」


◇◇◇


その日の夕刻。


清洲城の門前へ、一騎の武者が現れた。


供は二人だけだった。


武者は馬から降りる。


門番たちが槍へ手をかけた。


「何者だ」


武者は答えなかった。


しばらく清洲城を見上げていた。


ここをくぐれば、もう戻れない。


自分が生まれ育った土地。


長年仕えてきた主。


すべてを捨てることになる。


それでも。


岩倉へ戻ったところで。


明日、自分が疑われない保証はない。


武者は目を閉じた。


そして。


決意した。


「岩倉より参った」


門番たちの顔が変わる。


「名を申せ」


武者は顔を上げた。


「信長様に、お取り次ぎ願いたい」


その声は震えていなかった。


「織田信賢様のもとを離れ、清洲へお仕えしたい」


門番が走り出す。


ほどなく。


その知らせは城内へ届いた。


評定の間にいた信長は、報告を聞いて笑った。


勝家は驚き。


長秀は静かに頷いた。


そして景継だけは。


目を閉じた。


来た。


最初の一人が。


まだ岩倉城は落ちていない。


兵もいる。


城壁もある。


信賢も健在だ。


それでも。


景継には分かっていた。


城が落ちる時。


最初に崩れるのは石垣ではない。


門でもない。


兵でもない。


人の心だ。


景継はゆっくり目を開いた。


「始まりましたね」


信長が笑う。


「何がだ」


景継は地図の岩倉城を見た。


「岩倉が落ちる戦です」


その戦では。


まだ一本の矢すら放たれていなかった。

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