第四十一話 崩れ始める岩倉
岩倉から二つ目の知らせが届いたのは、それから三日後のことだった。
朝から細い雨が降っていた。
景継は屋敷の縁側に座り、庭へ落ちる雨粒を眺めていた。目の前には湯気の立つ茶が置かれているが、まだ一口も飲んでいない。
頭の中にあるのは岩倉のことだった。
三日前、織田信賢は前野家だけでなく、周辺の国人たちについても調べ始めた。
誰が清洲と通じているのか。
誰が裏切ろうとしているのか。
疑い始めた。
だが景継は、それ以上何もしなかった。
清洲から新たな使者も送っていない。
噂を増やしてもいない。
前野家にも連絡していなかった。
ただ待っている。
弥兵衛には、それが少し不思議だったらしい。
「若様」
「はい」
「本当に何もなさらぬので?」
景継は庭を見たまま答えた。
「何もしません」
「岩倉では、せっかく騒ぎが起き始めているのでございましょう?」
「だからですよ」
弥兵衛が首を傾げる。
景継はようやく茶へ手を伸ばした。
「火をつけた後に、薪を入れすぎるとどうなります?」
「火が大きくなるのでは?」
「普通ならそうです。でも、積み方を間違えれば消えることもあります」
一口飲む。
「今の岩倉も同じです」
疑いは生まれた。
ならば、あとは岩倉の人間たち自身に育ててもらえばいい。
清洲が露骨に動けば、信賢も気づく。
誰かが自分たちを仲違いさせようとしている、と。
そうなれば、今まで疑っていた家臣たちと手を結び直す可能性がある。
だから動かない。
「疑いというものは、面白いんです」
「面白い?」
「誰かに『あの者を疑え』と言われれば、逆に疑いたくなくなることがあります。でも、自分で一度疑い始めると――」
景継は庭へ落ちる雨を見つめた。
「今度は、何を見ても怪しく見える」
弥兵衛は少し黙った。
「怖いものでございますな」
「ええ」
景継は静かに頷いた。
一度目の人生で、何度も見てきた。
疑心。
猜疑。
権力を持つ者ほど、それに取り憑かれやすい。
失うものが大きいからだ。
家臣が自分を裏切るかもしれない。
味方が敵へ寝返るかもしれない。
自分の地位を奪われるかもしれない。
そして一度そう思えば、忠義すら疑い始める。
忠義を確かめようとして家臣を締めつける。
締めつけられた家臣は不満を持つ。
その不満を見て、主君はさらに疑う。
そうして最後には――
本当に裏切られる。
「信賢様がどこまで耐えられるかですね」
景継がそう呟いた時だった。
廊下を走る足音が聞こえた。
「若様!」
一人の家臣が現れ、膝をつく。
「清洲より使者にございます」
景継と弥兵衛が顔を見合わせた。
「通してください」
ほどなくして、一人の男が部屋へ入ってきた。
雨の中を急いできたのだろう。肩は濡れ、息も少し乱れている。
男は景継の前へ座ると、懐から書状を取り出した。
「信長様より、すぐに登城するようにとの仰せにございます」
景継は書状を受け取った。
「何かありましたか」
男は一瞬迷った。
そして答えた。
「岩倉方の家臣が、一人消えました」
景継の目が細くなった。
「消えた?」
「はい」
「死んだのではなく?」
「行方が分からぬとのことにございます」
景継は立ち上がった。
ようやく。
岩倉の中で、次の石が動いた。
◇◇◇
清洲城へ着いた頃には、雨はさらに強くなっていた。
景継が評定の間へ入ると、信長をはじめ、勝家、長秀、信盛が揃っている。
前回と違うのは、誰も笑っていないことだった。
中央の地図には、岩倉周辺の家々を示す駒が置かれている。
そのうち一つが、横へ倒されていた。
景継はそこへ座った。
「消えたのは?」
長秀が答えた。
「浅井政貞という男だ」
「浅井……」
「信賢の近習の一人だ。大身ではないが、岩倉内部の事情を知る立場にある」
景継は倒された駒を見た。
「最後に確認されたのは?」
「昨夜だ」
「家族は?」
「残っている」
「兵は?」
「連れていない」
景継の質問が続く。
「屋敷に争った跡は?」
「ない」
「金や武具は?」
長秀が少し驚いた顔をした。
「そこまで調べさせている。まだ返事はない」
景継は黙った。
家族を残している。
兵も連れていない。
突然逃げたのか。
それとも。
「殺された可能性は?」
勝家が言った。
「俺もそれを考えた」
「信賢様が?」
「分からん」
景継は地図を見つめた。
信賢が裏切りを疑い、秘密裏に処分した。
十分あり得る。
だが、それなら死体を隠す必要があるのか。
見せしめにした方が効果は大きい。
逆に。
浅井本人が逃げた可能性。
こちらもある。
では、どこへ?
「清洲には来ていないんですね」
「来ておらん」
信長が答えた。
景継は顔を上げる。
「美濃は?」
信長の目が動いた。
「なぜ美濃だ」
「逃げるなら、清洲だけが逃げ道ではありません」
岩倉の北には美濃がある。
そして美濃には、斎藤家がいる。
尾張の争いを利用したい者など、いくらでもいる。
信盛が腕を組んだ。
「斎藤が岩倉へ手を伸ばしていると?」
「まだ分かりません」
景継はすぐ否定した。
「可能性を一つずつ置いているだけです」
信長が笑った。
「前なら断言していたような気もするがな」
「記憶が戻ったからこそ、断言しなくなったのかもしれません」
「どういうことだ」
景継は少し考えた。
「人は、見たい答えを先に決めると失敗します」
一度目の人生でも。
敵がこう動くはずだ。
味方は裏切らないはずだ。
あの男はこう考えているはずだ。
そう決めつけた者から崩れていった。
司馬懿自身も、何度も読み違えている。
だからこそ知っている。
「分からないものは、分からないまま置いておいた方がいい時があります」
勝家が鼻を鳴らした。
「相変わらず面倒な考え方をする」
「勝家様は簡単すぎるんです」
「また言うか」
信長が手を上げた。
「それは後にしろ」
二人が黙る。
信長は地図を見た。
「景継。どうする」
景継は少し考えた。
そして答えた。
「浅井殿を探します」
「こちらで?」
「はい。ただし、岩倉には気づかれないように」
長秀が尋ねる。
「見つけてどうする」
「何もしません」
勝家が顔をしかめた。
「またそれか」
「見つけることが目的です。連れてくる必要はありません」
景継は倒された駒を起こした。
「浅井殿が自分から逃げたのか。誰かに消されたのか。それだけ分かれば、岩倉の中で何が起きているのか見えてきます」
「もし逃げたのなら?」
「行き先を見ます」
「清洲なら?」
「保護します」
「美濃なら?」
景継は少し黙った。
「その時は、岩倉だけを見ている場合ではなくなります」
部屋の空気が変わった。
尾張の内輪争いに美濃が入る。
そうなれば話は別だった。
信長が頷く。
「長秀」
「はっ」
「人を出せ」
「承知」
長秀が立ち上がろうとする。
その時。
景継が言った。
「もう一つあります」
全員が景継を見る。
「岩倉へ噂を流してください」
勝家が眉を寄せた。
「さっきまで何もするなと言っておったではないか」
「状況が変わりました」
景継は地図を見た。
「ただし、浅井殿についてではありません」
「では何を流す」
景継は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「清洲は岩倉から寝返る者を受け入れる、と」
信盛の顔が変わった。
「それは……」
「はい」
景継は頷く。
「逃げ道を作ります」
◇◇◇
「逃げ道?」
勝家が聞き返した。
景継は岩倉城の駒を指で囲った。
「今の岩倉にいる者たちは不安になっています。信賢様から疑われている。誰が次に調べられるか分からない」
「だから清洲へ逃げてこいと?」
「直接言ってはいけません」
景継は首を振る。
「清洲へ来いと言えば勧誘です。信賢様もすぐに警戒します」
「では?」
「ただ、受け入れるという話だけを流します」
逃げろとは言わない。
裏切れとも言わない。
清洲へ来れば助かる。
その可能性だけを示す。
長秀が理解したように頷いた。
「自分で選ばせるのか」
「はい」
景継は答えた。
「人間は逃げ道がなければ、どれほど不満があっても今いる場所にしがみつきます。でも、逃げられると分かれば――」
その先は言わなかった。
信長が笑った。
「逃げたくなる」
「そういうことです」
勝家は腕を組んだまま考えている。
「だが、皆が逃げるとは限らんぞ」
「もちろんです」
景継は頷く。
「逃げなくてもいいんです」
「何?」
「逃げ道があると知るだけでいい」
信賢から疑われた時。
以前なら耐えるしかなかった。
だが今度は違う。
清洲へ行けば助かるかもしれない。
その考えが頭に浮かぶ。
そうなれば。
信賢へ向ける忠義の重さが、少しだけ変わる。
景継は地図上の岩倉を見つめた。
「城というものは、石垣だけで立っているわけではありません」
誰も口を挟まない。
「中にいる人間が、ここに残ろうと思っているから城なんです」
景継は岩倉城の駒を指で軽く押した。
「なら、その気持ちをなくせばいい」
信長が笑った。
「やはり嫌な奴だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「そうしろ」
◇◇◇
その日の夜。
岩倉城では、また一人の家臣が信賢の前へ呼び出されていた。
「前野と話したそうだな」
「は?」
男は顔を上げた。
「いつの話にございます?」
「とぼけるな」
信賢は冷たい目で男を見る。
「三日前だ」
「三日前……」
男は必死に記憶を辿った。
確かに前野家の者とは会っている。
だが、それは領地の境を流れる川についての話だった。
毎年行っている。
何も珍しいことではない。
「領地のことでございます」
「何を話した」
「水の取り決めを」
「それだけか」
「はっ」
「清洲の話は?」
「しておりませぬ」
「本当か」
男の顔に戸惑いが浮かんだ。
「何を疑っておられるのでございます?」
その言葉がまずかった。
信賢の目つきが変わる。
「余が間違っていると申すか」
「そのようなことは――」
「なら答えろ!」
信賢の怒声が響いた。
「前野は清洲と通じているのか!」
「存じませぬ!」
「浅井はどこへ行った!」
「それも存じませぬ!」
「皆、同じことを言う!」
男は言葉を失った。
信賢は立ち上がった。
「余を馬鹿にしているのか」
「決してそのような――」
「下がれ」
「信賢様」
「下がれ!」
男は頭を下げるしかなかった。
部屋を出る。
廊下へ出たところで、男は大きく息を吐いた。
手が震えていた。
何もしていない。
それなのに疑われている。
このままでは。
「お疲れでございます」
声をかけられた。
振り向くと、知り合いの家臣が立っていた。
「聞かれたか」
「何をだ」
男が聞き返す。
家臣は周囲を確認した。
そして小声で言った。
「清洲の話だ」
男の表情が固まる。
「清洲?」
「大きな声を出すな」
二人はさらに声を落とした。
「信長殿は、岩倉から来る者を拒まぬらしい」
男は何も言わなかった。
「誰から聞いた」
「分からん。だが城下では、すでに何人か知っている」
「罠ではないのか」
「それも分からん」
家臣はそこで話を切り上げた。
「ただ……覚えておいて損はない」
そう言って去っていく。
男は一人、廊下に残った。
清洲。
今までなら考えもしなかった。
自分は岩倉の人間だ。
信賢に仕える。
それが当たり前だった。
だが。
先ほどの信賢の顔が頭に浮かぶ。
何もしていない自分を疑った目。
浅井が消えた。
次は誰だ。
男は廊下の先を見た。
そして初めて。
岩倉城の外に、自分の居場所があるかもしれないと思った。
◇◇◇
二日後。
景継のもとへ、浅井政貞についての知らせが届いた。
弥兵衛が書状を持って部屋へ入ってくる。
「若様」
「見つかりましたか」
「はい」
景継は顔を上げた。
「どこです?」
弥兵衛は答えた。
「犬山の近くにございます」
景継の眉が動く。
「犬山?」
「はい。農家に身を隠しているところを見つけたとのことです」
「一人ですか」
「一人にございます」
「美濃へ向かっている様子は?」
「今のところはないと」
景継は少し考えた。
ならば。
斎藤家が動いている可能性は、ひとまず低くなった。
問題は。
「なぜ逃げたか分かりますか」
「そこまでは」
「話を聞けます?」
「捕らえますか」
景継は首を振った。
「駄目です」
「では?」
「こちらから一人だけ送ってください。清洲の人間だとは名乗らない」
「何を聞くので?」
「何も」
弥兵衛が困惑した。
「何も聞かぬので?」
「はい」
景継は少し笑った。
「金と食べ物を渡してください」
「それだけで?」
「それだけです」
弥兵衛には意味が分からないらしい。
景継は説明した。
「逃げている人間は警戒しています。突然知らない者が現れて、なぜ岩倉から逃げたと聞けば、口を閉ざすでしょう」
「ならば、どうやって理由を?」
「向こうから話してもらいます」
「話しますか?」
「すぐには話さないでしょうね」
景継は頷いた。
「だから待ちます」
弥兵衛が苦笑した。
「またでございますか」
「またです」
景継も笑った。
◇◇◇
浅井政貞が口を開いたのは、それからさらに二日後だった。
最初の日。
食べ物と金を受け取った浅井は、何も話さなかった。
二日目。
同じ男が食べ物だけを持ってきた。
やはり何も聞かない。
三日目。
浅井の方から尋ねた。
――お前は誰だ。
男は答えなかった。
ただ。
――追っ手ではない。
それだけを伝えた。
そして四日目。
浅井が話した。
その報告を受けた景継は、清洲城へ向かった。
信長たちの前に座る。
「分かりました」
信長が身を乗り出す。
「何だ」
「浅井殿は、殺されると思って逃げたそうです」
勝家が眉を寄せた。
「信賢に?」
「はい」
景継は報告を続けた。
浅井は清洲と通じていなかった。
前野とも特別な関係はない。
だが信賢から、何度も呼び出されていた。
誰が清洲と通じている。
誰が裏切る。
前野は何を考えている。
知らないと答えても、信じてもらえなかった。
そしてある日。
同じように疑われていた別の家臣が、屋敷へ戻らなかった。
その瞬間。
浅井は思った。
次は自分だ、と。
「実際にその家臣が殺されたかは分かりません」
景継は言った。
「ただ、浅井殿はそう思った」
長秀が静かに息を吐く。
「十分だな」
「はい」
真実など関係ない。
信賢が本当に家臣を殺したかどうかではない。
家臣たちが。
殺されるかもしれないと思い始めた。
それが重要だった。
勝家が地図を見る。
「では、そろそろ攻めるか」
景継は首を振った。
「まだです」
「まだ待つのか!」
勝家が声を上げる。
景継は笑った。
「あと少しです」
「何を待つ」
景継は岩倉城の駒を見た。
「最初の一人です」
「浅井ではないのか」
「浅井殿は逃げただけです」
景継が待っているのは違う。
逃げる者ではない。
自分の意思で。
岩倉を捨て。
清洲を選ぶ者。
「一人来れば、二人目が来ます」
景継は静かに言った。
「二人来れば、岩倉に残っている者も考え始めます」
信長が聞いた。
「誰が最初に来ると思う」
景継は少し考えた。
「分かりません」
「珍しいな」
「でも」
景継は岩倉周辺の駒を見た。
「そう遠くはないと思います」
◇◇◇
その日の夕刻。
清洲城の門前へ、一騎の武者が現れた。
供は二人だけだった。
武者は馬から降りる。
門番たちが槍へ手をかけた。
「何者だ」
武者は答えなかった。
しばらく清洲城を見上げていた。
ここをくぐれば、もう戻れない。
自分が生まれ育った土地。
長年仕えてきた主。
すべてを捨てることになる。
それでも。
岩倉へ戻ったところで。
明日、自分が疑われない保証はない。
武者は目を閉じた。
そして。
決意した。
「岩倉より参った」
門番たちの顔が変わる。
「名を申せ」
武者は顔を上げた。
「信長様に、お取り次ぎ願いたい」
その声は震えていなかった。
「織田信賢様のもとを離れ、清洲へお仕えしたい」
門番が走り出す。
ほどなく。
その知らせは城内へ届いた。
評定の間にいた信長は、報告を聞いて笑った。
勝家は驚き。
長秀は静かに頷いた。
そして景継だけは。
目を閉じた。
来た。
最初の一人が。
まだ岩倉城は落ちていない。
兵もいる。
城壁もある。
信賢も健在だ。
それでも。
景継には分かっていた。
城が落ちる時。
最初に崩れるのは石垣ではない。
門でもない。
兵でもない。
人の心だ。
景継はゆっくり目を開いた。
「始まりましたね」
信長が笑う。
「何がだ」
景継は地図の岩倉城を見た。
「岩倉が落ちる戦です」
その戦では。
まだ一本の矢すら放たれていなかった。




