第四十一話 崩れ始める岩倉
岩倉から次の知らせが届いたのは、それから三日後だった。
朝から細い雨が降り続き、林道家の庭では葉先から落ちる雫が小さな音を立てている。
景継は縁側に座り、弥兵衛が持ち帰った報告へ目を通していた。
「やはり、動きませんでしたか」
「はい。前野家への処罰も、周辺の国人への締めつけもないようでございます」
景継は書状を畳み、傍らへ置いた。
三日前、前野家は岩倉から求められた兵を大きく減らして出した。しかも、その前には清洲からの使者を受け入れている。
信賢が疑わないはずがない。
それでも何も起きていない。
少なくとも、表向きには。
「河村直綱でしょうね」
「月照寺にいた男でございますか」
「おそらく」
信賢の胸には、すでに疑いが生まれている。
前野は清洲と通じているのではないか。
他にも裏切る者がいるのではないか。
景継が狙ったのは、その疑念を周囲へ広げることだった。
だが河村直綱は、それを読んだ。
信賢が前野を処罰すれば、他の国人まで「次は自分か」と怯える。その不安こそ清洲が望んでいると気づき、主を止めたのだろう。
弥兵衛が腕を組んだ。
「では、こちらの策は失敗でございますか」
「半分は」
景継は庭へ目を向けた。
雨に濡れた木々が、風を受けて静かに揺れている。
「疑いそのものを消されたわけではありません。信賢様は前野家を疑っている。河村殿が表へ出させていないだけです」
「ならば、もう少し煽りますか?」
「それをすれば、こちらの狙いを教えることになります」
相手がこちらを読んだと分かった後で、同じ策を重ねるのは悪手だ。
清洲が前野へ何度も使者を送り、岩倉内部へ噂を流し続ければ、河村はそれを逆に利用するだろう。
清洲は我らを仲違いさせようとしている。
そう訴えられれば、信賢に不満を持つ者まで岩倉側へ戻りかねない。
「しばらく何もしません」
弥兵衛が苦笑する。
「若様は本当に待つのがお好きですな」
「好きなわけではありません」
景継もわずかに笑った。
「動かない方がいい時に、動かないだけです」
待つとは、何もしないことではない。
相手を見て、情報を集め、次に動くべき場所を探す。
一度目の人生でも、それは嫌というほど学んだ。
焦った者から隙を見せる。
こちらが動かずとも、敵が自ら崩れることさえある。
「河村殿はこちらが次に何をするか見ている。なら、先に岩倉に動いてもらいましょう」
「向こうから動きますか?」
「ずっと何も起きないほど、穏やかな状況ではありません」
信賢の疑念。
河村の抑制。
国人たちの不満。
どこから歪みが表へ出るかまでは読めない。
だが、何も起きないとは思えなかった。
その時、廊下の向こうから足音が近づいた。
家臣が姿を現し、その場に膝をつく。
「若様。清洲より使者にございます」
「何かありましたか」
「岩倉方の家臣が一人、行方をくらませたとのことにございます」
景継の手が止まった。
「誰です?」
「浅井政貞という者だそうです」
聞き覚えのない名だった。
「死んだのではなく?」
「今のところ、行方が分からぬとしか」
景継は立ち上がった。
予想していた形ではない。
だが確かに、岩倉で何かが動き始めていた。
清洲城へ着く頃には、雨脚がさらに強くなっていた。
評定の間には信長をはじめ、勝家、長秀、信盛が集まっている。
景継が座ると、長秀が説明を始めた。
「消えた浅井政貞は信賢の近習の一人だ。大身ではないが、岩倉内部の事情を知る立場にはある」
「家族は?」
「残っている」
「兵は連れていませんか」
「おらん」
「屋敷で争った跡は?」
「それもない」
景継は地図へ目を落とした。
家族を残し、兵も連れずに姿を消した。
自ら逃げたのか。
誰かに連れ去られたのか。
あるいは、すでに殺されているのか。
今ある情報だけでは何も決められない。
「信賢様が秘密裏に処分した可能性は?」
勝家が腕を組む。
「俺も考えた。だが、見せしめなら隠す必要もあるまい」
「そうですね」
公に処罰すれば、他の家臣への牽制になる。
ただし河村直綱が家中への動揺を恐れ、失踪として扱わせている可能性も捨てきれない。
勝家が景継を見る。
「で、お前はどう見る」
「今は何とも」
「珍しいな」
景継は勝家へ目を向けた。
「分からない時に答えを作る方が危険です」
一度目の人生でも、何度も見てきた。
敵はこう動くはずだ。
あの者は裏切らないはずだ。
自分の読みは正しいはずだ。
人は一度答えを決めると、そこに合うものばかりを拾い始める。
それは自分も同じだ。
だからこそ、答えがない時には無理に埋めない。
信長が地図を指で叩いた。
「なら、どうする」
「探します。ただ、見つけてもすぐには連れてこないでください」
長秀が眉を上げた。
「なぜだ」
「どこへ向かうのかを見たいんです」
清洲へ来るなら、岩倉から離反する意思がある。
美濃へ向かえば、斎藤家とのつながりも考えなければならない。
別の国人を頼るのであれば、その相手にも意味がある。
「浅井殿自身に、行き先を選んでもらいます。その方が、こちらから問い詰めるより多くのことが分かるかもしれません」
長秀が頷いた。
「人を出そう」
信盛が続けて尋ねる。
「前野への働きかけは?」
「止めたままでお願いします」
勝家が顔をしかめた。
「浅井まで消えたのだぞ。今こそ揺さぶればよいではないか」
「だからこそです」
景継は岩倉城を示す駒へ目を向けた。
「浅井殿がなぜ消えたのか、私たちにも分からない。なら、岩倉の者たちも同じです」
逃げたのか。
殺されたのか。
清洲へ寝返ったのか。
誰かと通じていたのか。
答えがない。
だからこそ、人は勝手に答えを作る。
「こちらから一つに決めてやる必要はありません」
長秀が小さく笑った。
「何もせぬことまで策にするか」
「銭も兵糧も使いませんから」
信長が吹き出した。
「そこか」
「大事でしょう?」
「嫌いではない」
勝家だけは納得していない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
同じ頃、岩倉城でも浅井政貞の失踪が問題になっていた。
「まだ見つからぬのか!」
信賢の怒声が響く。
家臣が深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「清洲へ行ったのではないか」
「その形跡は、今のところ」
「ならば前野か!」
答えられる者はいない。
その中で、河村直綱だけが黙っていた。
「直綱。お前はどう見る」
「まだ何とも申せませぬ」
「お前までそれか」
信賢の苛立ちが増す。
だが直綱は表情を変えなかった。
「分からぬものへ勝手に答えを与えれば、清洲の思う壺にございます」
「景継の仕業だと言うのか」
「それすら分かりませぬ」
直綱は静かに主を見る。
「今、一番避けるべきは、何が起きても林道景継の策だと思うことにございます」
信賢の目が細くなった。
「なぜだ」
「我らが勝手に怯え、勝手に家臣を疑ってくれるなら、あの少年は何もせずに済みます」
前野が兵を減らした。
浅井が消えた。
その二つにつながりがある証拠はない。
それを勝手につなげ、家臣を問い詰めれば、本当になかったつながりまで生まれかねない。
信賢はしばらく黙った後、不満を押し殺すように息を吐いた。
「……分かった」
「前野にも、今は何も言わぬ方がよろしいかと」
「それもか」
「二百の兵を出した。それで十分といたしましょう」
信賢の顔には不満が残っていた。
それでも、直綱の言葉には従った。
直綱は頭を下げながら考える。
林道景継。
月照寺で言葉を交わした時から、普通の十三歳ではないと思っていた。
厄介なのは、策を思いつくことではない。
策を読まれたと気づいた時、そこへ執着しないことだ。
ならば次に見るべきは、清洲が何をするかではない。
何をしなくなったのか。
「前野を見張れ」
直綱が家臣へ命じた。
「ただし悟られるな。それと、清洲から使者が来なくても安心するな」
「来なくても、ですか」
「ああ」
直綱は静かに頷いた。
「あの少年が何もしない時ほど、こちらが先に動かされる」
その日の夕方。
林道家へ戻った景継は、父・景政の部屋を訪ねた。
景政は書状を読んでいたが、息子を見ると手を止める。
「珍しいな。お前から儂のところへ来るとは」
「聞きたいことがあります」
「金ならないぞ」
「違います」
「ならよい」
景継は少し呆れながら父の前へ座った。
「私が五つか六つくらいの頃についてです」
景政の表情がわずかに変わった。
「随分昔だな」
「母上から聞きました。その頃の私は、大陸について妙な話をしていたそうですね」
「ああ」
あまりにも簡単に肯定され、景継は思わず父を見る。
「覚えているのですか」
「少しはな。お前は昔から変な子だった」
「もう少し言い方があるでしょう」
「ない」
景継は反論を諦めた。
「その頃、屋敷へ若い男が来ませんでしたか。母上は、父上と話した後に庭で私とも話していたと言っていました」
景政はすぐには答えなかった。
遠い記憶を探るように目を細める。
「……いたな」
景継の背筋が伸びた。
「誰です?」
「待て。今思い出している」
しばらく沈黙が続く。
「名までは覚えておらん」
景継の肩から少し力が抜けた。
だが、景政は続けた。
「尾張の者ではなかった」
「どこの者です?」
「美濃だ」
その一言で、景継の中に散らばっていたものが動いた。
美濃。
先生について調べる中でも、何度か出てきた土地だった。
「何をしに?」
「旅の途中だったはずだ。人を介して紹介された。書や薬、それに各地の話に詳しい男でな。尾張のことを聞きたがっていた」
書。
薬。
以前、熱田の商人から聞いた話と重なる。
京から届く珍しい書物や薬。
それらを扱う人物を、商人たちは『先生』と呼んでいた。
偶然かもしれない。
まだ同じ人物だと決めるには早い。
「その男は、私と何を話していました?」
「そこまでは知らん。気づけば庭で二人で話していた」
「向こうから私に?」
「そうだったと思う。五つか六つの子供を相手に、随分長く話していたな」
「特徴は?」
「歳は二十を少し越えたくらいだったか。武士には見えたが、武辺者という感じではなかった。書生と言われても信じただろう」
景継は一つずつ頭へ刻み込む。
「名前は、本当に何も?」
「しつこいぞ」
「大事なんです」
景政は腕を組み、しばらく黙った。
やがて、眉を寄せる。
「名は……」
景継は息を止めるように父を見た。
「明智……」
胸の奥が大きく鳴った。
だが景政はすぐに首を振る。
「いや、待て。それが本人の名だったか、紹介した者の名だったかも曖昧だ」
景継は何も言わなかった。
ここで答えを決めてはいけない。
自分が探しているからこそ、都合のよい言葉へ飛びつく危険がある。
「ほかに覚えていることは?」
「話し方が妙に丁寧な男だった」
「丁寧?」
「儂にもそうだったが、お前にもだ。五つの子供へ話すようではなかった。まるで一人の大人を相手にするようにな」
その言葉に、記憶の奥で何かが揺れた。
庭。
幼い自分。
目の前にしゃがむ若い男。
顔はまだ見えない。
だが声だけが、少しずつ輪郭を持つ。
『それは、どこの国の話です?』
そして。
『あなたは、それをどこで知ったのです?』
景継は目を閉じた。
無理に追わない。
すると、ぼんやりとした景色の中で、幼い自分が何かを答えた。
若い男が驚いたように目を細める。
『面白いことを知っておられる』
そこで記憶は途切れた。
「どうした」
父の声で、景継は目を開けた。
「少し……思い出しました」
「その男を探しているのか」
景継は一瞬迷い、頷いた。
「おそらく」
「おそらく?」
「まだ、その人と私が探している人物が同じだという証拠がありません」
景政は呆れたように笑った。
「お前は昔から面倒な子だな」
「父上にだけは言われたくありません」
「なぜだ」
「何となくです」
今度は二人とも少し笑った。
だが景継の頭には、はっきりと二文字が残っていた。
明智。
二日後。
浅井政貞が見つかった。
犬山近くの小さな農家に、一人で身を隠していた。
美濃へ向かう様子も、清洲へ来る様子もないという。
「連れてきますか」
長秀に尋ねられ、景継は首を横へ振った。
「食べ物と少しの銭を渡してください」
「誰からだと?」
「言わなくて構いません」
「理由も聞かぬのか」
「今は」
逃げている人間は警戒している。
こちらから質問を浴びせれば、相手はこちらが何を知りたがっているのかを考え、その期待に合う答えを作るかもしれない。
「向こうから話すまで待ちます」
長秀が笑う。
「また待つのか」
「最近、そればかり言われます」
浅井が自分から口を開いたのは、さらに数日後だった。
理由は単純だった。
信賢に殺されると思った。
実際に命を狙われたわけではない。
清洲と通じてもいなければ、前野家と特別な関係があったわけでもない。
ただ、信賢から何度か呼び出されていた。
前野は何を考えている。
清洲と通じている者を知らないか。
誰か怪しい者はいないか。
その度に河村直綱が止め、強い追及には至らなかった。
それでも浅井は耐えられなかった。
今は河村が止めている。
では明日は?
次に信賢が怒った時も、止めてくれるのか。
「直綱は正しいことをしている。それでも浅井は逃げたのか」
信盛が呟く。
「はい」
景継は地図上の岩倉を見た。
そこで、一つの答えが見えた。
河村直綱は信賢を止められる。
だが、家臣の胸に生まれた恐怖までは消せない。
「信長様。一つ、話を流してもよろしいですか」
「何をだ」
「岩倉を離れた者を、清洲は拒まないと」
勝家が景継を見る。
「寝返りを誘うのか」
「誘いません。来いとも言わない」
景継は首を振った。
「ただ、来ても追い返されない。それだけです」
長秀が先に気づいた。
「逃げ道を作るのか」
「はい」
逃げ道がなければ、人は今いる場所へしがみつく。
不満があっても、外へ出ればすべてを失うなら耐える。
だが、外にも生きる場所があると知れば。
疑われた時。
不満を抱いた時。
主へ見切りをつけた時。
清洲という選択肢が頭へ浮かぶ。
信長が口元を上げた。
「直綱が信賢を抑えてもか」
「だからこそです」
景継は岩倉城の駒を見る。
「河村殿は信賢様を止められます。でも、家臣一人一人の心まで縛ることはできません」
「やれ」
「はい」
数日後。
清洲城の門前に、一騎の武者が現れた。
供は二人だけ。
男は馬を降りると、しばらく城門を見上げていた。
ここをくぐれば、もう以前と同じ場所には戻れない。
長年仕えた主を捨てることになる。
河村直綱が家中を立て直そうとしていることも知っていた。
岩倉はまだ崩れていない。
だからこそ迷った。
だが、清洲へ来ても拒まれないという話を聞いてしまった。
門番が槍へ手をかける。
「何者だ」
男はようやく顔を上げ、自らの名を告げた。
そして、深く頭を下げる。
「織田信賢様のもとを離れ、信長様へお仕えしたい」
知らせはすぐに信長のもとへ届いた。
「来たぞ」
信長が景継を見る。
「はい」
まだ一人。
この一人で岩倉が崩れるわけではない。
河村直綱も必ず手を打ってくる。
だが意味は大きかった。
浅井政貞は恐怖から逃げただけだった。
今度の男は、自ら清洲を選んだ。
岩倉に残る以外の道が、本当に存在すると証明されたのだ。
「始まりましたね」
「何がだ」
「岩倉が落ちるまでの戦です」
信長が笑う。
「まだ一本も矢を射っておらんぞ」
「だからいいんです」
城が落ちる時、最初に崩れるのは石垣とは限らない。
そこを守る人間が、この城と運命を共にしたくないと思い始めれば、どれほど堅い城でも以前と同じ強さではいられない。
ただし、景継には分かっていた。
河村直綱は、この一人を放置しない。
ここから先は、さらに難しくなる。
その夜。
林道家へ戻った景継は、机の上に二枚の紙を並べていた。
一枚には岩倉周辺の家々。
もう一枚には、父から聞いた七、八年前の出来事。
景継の視線は、自然と後者へ向かった。
『美濃』
『書、薬』
『各地の話に詳しい』
そして、少し離れたところに。
『明智……?』
まだ確定した情報ではない。
父自身、本人の名だったかどうか覚えていない。
それでも景継は、その二文字から目を離せなかった。
「明智……」
口にした瞬間、記憶の奥で何かが揺れる。
だが、まだ姿までは見えない。
景継は別の紙を引き寄せ、これまで『先生』について集めた情報を書き出した。
京から運ばれていた書物。
薬。
香。
美濃、三河、近江、駿河へ伸びるつながり。
そして皆が、その人物を『先生』と呼んでいたこと。
父が会った若い男と同じ人物だという証拠はない。
だが、偶然として片づけるには、重なるものが増えている。
景継は紙の下へ一つだけ書き加えた。
『美濃の明智を調べる』
筆を置く。
これまで、先生には名前すらなかった。
追いかけようにも、どこを探せばいいのかさえ分からなかった。
だが今は違う。
七、八年前。
美濃から尾張へ来た若い男。
書や薬に通じ、各地の情勢を知り、五つか六つの子供だった景継を一人の人間として扱った人物。
そして、その男は幼い景継の口から、誰にも教わっていないはずの大陸の話を聞いている。
もし、その人物こそ先生なら。
先生がなぜ、自分に失われた記憶があると知っていたのか。
その疑問にも答えが見えてくる。
景継は紙を折り畳み、灯火へ手を伸ばした。
焦る必要はない。
答えを急げば、また自分に都合のいいものだけを拾う。
岩倉も。
先生も。
相手が動くのを見てからでも遅くはない。
灯火を消す直前、景継はもう一度だけ紙へ目を落とした。
『明智』
まだ、それが誰を指すのかは分からない。
それでも。
これまで姿さえ見えなかった先生に、初めて名前らしきものが生まれた。
七、八年前に始まっていた縁が、ようやく現在へつながろうとしていた。




