第四十二話 最初の一人
岩倉から来た武者は、日が完全に沈む前に信長の前へ通された。
名を森川定重という。
岩倉織田家に長く仕えてきた家の出で、決して大身ではないが、周辺の国人たちとのつながりは広い。本人も四十を少し越えたほどで、戦場の経験もあるらしい。
景継は信長の少し後ろに座りながら、その男を静かに見ていた。
定重は深く頭を下げている。
だが、その姿からは怯えよりも疲れの方が強く感じられた。
「顔を上げろ」
信長が言った。
定重がゆっくり顔を上げる。
「岩倉を捨ててきたそうだな」
「はっ」
「なぜだ」
信長は余計な前置きをしなかった。
定重も、それを予想していたのだろう。少しだけ呼吸を整えてから答えた。
「このまま信賢様のもとに残れば、家を守れぬと判断いたしました」
「俺なら守れると?」
「分かりませぬ」
部屋の空気が少し変わった。
勝家が定重を見る。
信長も一瞬黙った。
だが、定重は続けた。
「清洲へ参れば必ず家が残るなどとは思っておりませぬ。ただ、岩倉に残れば潰れる可能性が高い。そう考えました」
信長の口元がわずかに上がった。
「正直だな」
「偽っても仕方ございませぬ」
景継はそこで初めて、定重という男に少し興味を持った。
忠義を語わない。
信長の器に惚れたとも言わない。
自分の家を守るために来た。
それだけだ。
景継にはむしろ、その方が信用できた。
「岩倉では、何が起きているのです?」
景継が尋ねると、定重の視線がこちらへ向いた。
「あの方が林道景継殿か」
「はい」
「噂は聞いております」
「どんな噂でしょう」
「十三の子供が、清洲の評定を動かしていると」
景継は少し困った顔をした。
「少し大袈裟ですね」
信長が横から言う。
「大体合っておる」
「信長様」
定重が初めてわずかに笑った。
緊張が少しだけ解けたようだった。
景継はもう一度尋ねる。
「岩倉の中では、何が起きています?」
定重の表情が戻る。
「疑いでございます」
「やはり」
「信賢様は、誰が清洲と通じているのか調べておられます。前野殿だけではございませぬ。家臣同士にも互いを見張らせている」
勝家が眉を寄せた。
「そこまでか」
「はい。昨日まで酒を酌み交わしていた者が、翌朝には相手の動きを探っている。誰が何を言ったか、誰と会ったか、そのような話ばかりになっております」
景継は黙って聞いた。
思っていた以上に早い。
信賢の疑いは、すでに個人への警戒を越え始めている。
「浅井殿のことは?」
景継が聞いた。
定重の顔が少し曇った。
「消えたと聞いております」
「殺されたという話は?」
「ございます」
「本当ですか」
「分かりませぬ」
定重は首を横に振った。
「誰も確かめておりません。ただ、姿が見えなくなった。その前に何度も信賢様から呼び出されていた。それだけで皆が勝手に考え始めました」
やはり。
景継の予想通りだった。
真実は必要ない。
何が起きたか分からないからこそ、恐怖は広がる。
「定重殿は、何か疑われていたのですか」
「直接はまだ」
「では、なぜ今?」
定重はしばらく黙った。
その後、静かに答える。
「次は自分だと思ったからでございます」
「理由は?」
「ございませぬ」
景継は少し眉を上げた。
定重は自嘲するように笑う。
「理由がないから怖いのでございます」
部屋が静かになった。
景継はその言葉を聞きながら、一度目の人生のことを思い出していた。
罪があるから恐れるのではない。
何をしても疑われる時こそ、人は恐れる。
正しさでは自分を守れないからだ。
「一つ聞かせてください」
景継が言った。
「何でございましょう」
「定重殿が清洲へ来たことを、岩倉の者は知っていますか」
定重は首を横に振った。
「まだ知らぬはずです。家の者にも、別の理由を伝えて出ました」
景継は信長を見る。
「信長様」
「何だ」
「定重殿が来たことは、しばらく秘密にしましょう」
勝家がすぐ反応した。
「なぜだ。寝返った者が出たと広めれば、岩倉はもっと揺れるだろう」
「今広めれば、信賢様は逃げ道を塞ぎます」
「逃げ道?」
景継は定重を見る。
「岩倉の中には、定重殿と同じことを考えている者がいるはずです」
定重が静かに頷いた。
「おります」
信長が少し身を乗り出した。
「誰だ」
定重は答えなかった。
信長の眉が動く。
「言えぬか」
「今ここで名を出せば、その者たちを売ることになります」
勝家の顔が険しくなる。
だが景継は、むしろ定重を見直した。
自分だけ助かりに来たのに、残った者をすぐには売らない。
家を守ることを第一に考えているだけで、最低限の筋は通す男らしい。
「それでいいと思います」
景継が言った。
勝家が景継を見る。
「よいのか」
「こちらが名前を聞く必要はありません」
「なぜだ」
「来たい者には、自分で来てもらいます」
景継は信長へ向き直った。
「定重殿が来たことを今すぐ広めれば、信賢様は門を閉ざし、家臣たちを城内へ集めるでしょう。人質を取るかもしれない」
長秀が頷く。
「そうなれば二人目が出にくくなる」
「はい」
景継は続けた。
「今はまだ、定重殿が消えただけに見せます」
信長が笑う。
「浅井に続いて二人目か」
「そうです」
「信賢はどう思う」
「さらに疑います」
景継は岩倉城のある方向を見るように、地図へ視線を落とした。
「浅井殿が消えた。今度は定重殿が消えた。でも、どこへ行ったか分からない」
「清洲だと疑うだろう」
「疑います。でも確信できない」
景継は少し笑った。
「その方がいいんです」
信長の口元も上がった。
「なるほど」
勝家だけが少し不満そうだった。
「お前たちは、相変わらず戦う前の話ばかりだな」
景継は勝家を見る。
「勝家様」
「何だ」
「もう戦は始まっていますよ」
勝家の表情が変わった。
「まだ兵はぶつかっておらん」
「兵がぶつかってから始まるものだけが戦ではありません」
景継は定重を見る。
「今日、岩倉は一人の家臣を失いました」
次に地図を見る。
「それをするために、こちらは一兵も失っていません」
勝家は黙った。
信長が面白そうに笑う。
「景継の勝ちだな」
「何の勝負ですか」
「知らん」
景継は小さく息を吐いた。
◇◇◇
森川定重には清洲城内の一室が与えられた。
ただし、しばらく表へは出さない。
信長へ正式に臣従したことも公表しない。
表向き、定重は依然として行方不明のままだ。
その日の夜。
景継は定重ともう一度話をした。
今度は信長も勝家もいない。
弥兵衛だけが近くに控えている。
「定重殿」
「何でしょう」
「岩倉に残してきた家族は?」
「妻と子が二人おります」
景継の表情が変わる。
「残してきたのですか」
「はい」
「危険では?」
「危険でございます」
定重は静かに答えた。
「ではなぜ」
「全員で出れば、すぐに気づかれます」
景継は黙った。
正しい。
だが冷静すぎる。
「助けたいですか」
定重が景継を見る。
「当然でございます」
「なら、こちらで方法を考えます」
定重が少し驚いた。
「よろしいので?」
「定重殿だけ清洲へ来ても、家族を人質に取られれば動けないでしょう」
「それは」
「それに」
景継は一度言葉を切った。
「こちらへ来た者の家族を助けられなければ、二人目は来ません」
定重の顔に、わずかな苦笑が浮かんだ。
「私を助けるためだけではないということですな」
「すみません」
「いえ。その方が安心いたしました」
「安心?」
「情だけで動く方より、理由がある方が信用できます」
景継は少し笑った。
似た者同士かもしれない。
「家族を出す方法を考えます。ただし、今すぐではありません」
「承知しております」
「焦らないのですね」
定重は少し考えた。
「焦って失敗すれば、家族が死にます」
その言葉に。
景継の中で、かつての記憶がわずかに動いた。
焦らない。
耐える。
機を待つ。
自分が何度もしてきたこと。
「定重殿」
「はい」
「あなたとは、意外と話が合うかもしれません」
「それは光栄にございます」
◇◇◇
翌朝。
岩倉城では、森川定重の姿が見えないことが問題になっていた。
「森川もいない?」
信賢の声が低くなる。
家臣が頭を下げる。
「昨夜より屋敷へ戻っておりませぬ」
「家族は?」
「残っております」
「兵は?」
「領内に」
信賢はしばらく何も言わなかった。
浅井。
森川。
二人。
偶然。
そう考えようとした。
だが、頭の中では別の言葉が浮かぶ。
清洲。
信長。
裏切り。
「探せ」
「はっ」
「清洲へ向かった者はいないか。街道を調べろ」
「承知いたしました」
家臣が立ち上がろうとする。
「待て」
信賢が呼び止める。
「森川と最近会った者は誰だ」
「それは……」
「全部調べろ」
「しかし、多くおります」
「だから全部だ!」
家臣が黙る。
信賢は苛立ったように机を叩いた。
「浅井も、森川も、突然消えるなどあり得ぬ。誰かが手引きしておる」
誰も答えない。
だが。
その場にいた家臣たちの中には。
別のことを考えている者もいた。
浅井。
森川。
もし。
本当に清洲へ行ったのなら。
生きているのか。
そして。
受け入れられたのか。
信賢が恐れているのとは違う疑問が、家臣たちの中で生まれ始めていた。
◇◇◇
その日の午後。
景継は信長と共に、清洲城の物見櫓へ上がっていた。
天気は昨日までの雨が嘘のように晴れている。
遠くには尾張の平野が広がっている。
「見えるか」
信長が北を指した。
「何がです?」
「岩倉だ」
景継は目を凝らした。
当然、城そのものがはっきり見えるわけではない。
ただ。
あの先にある。
「いずれ取る」
信長が言った。
景継は横を見る。
信長は遠くを見ていた。
「ずいぶん自信がありますね」
「取れぬと思っておるのか」
「いいえ」
「なら同じだ」
景継は少し笑った。
「でも、信長様」
「何だ」
「岩倉を取った後はどうするんです?」
信長が景継を見る。
「前にも似たようなことを聞いたな」
「聞きました?」
「忘れたのか」
「最近、昔の記憶が増えすぎて」
「便利な言い訳だな」
景継は苦笑した。
信長は再び北を見た。
「尾張を一つにする」
「その後です」
「美濃だ」
迷いがなかった。
景継の目が少し細くなる。
「やはり」
「何がだ」
「前から美濃を見ていましたね」
「当然だ」
信長は簡単に答えた。
「尾張の北にあるからな」
「それだけですか」
「それで十分だ」
景継は少し考えた。
美濃。
斎藤。
以前から何度も関わってきた土地。
尾張を一つにすれば、次は必ずぶつかる。
その先は。
景継の中に一つの地図が浮かんだ。
尾張。
美濃。
さらに西。
京。
そして。
天下。
「景継」
信長に呼ばれ、我に返る。
「何です?」
「今、何を考えた」
景継は少し迷った。
「その先です」
「美濃の?」
「はい」
信長の口元が上がる。
「俺より先を見るな」
「信長様が遅いだけです」
「言うようになったな」
「前からです」
二人は少し笑った。
だが。
景継の胸の中には、別のこともあった。
京。
先生。
これまで先生につながる話には、何度も京が出てきた。
もし信長がいずれ西へ向かうなら。
その途中で。
先生との距離も縮まる可能性がある。
景継は遠くを見る。
今はまだ。
岩倉。
それだけだ。
だが。
自分の二度目の人生は。
確実に。
尾張の外へ向かい始めている。
◇◇◇
その夜。
弥兵衛が景継の部屋を訪れた。
「若様」
「どうしました?」
「頼まれていた件でございます」
景継の表情が変わる。
自分の幼少期について調べてもらっていた。
「何か分かりました?」
「少しだけ」
弥兵衛は一枚の紙を差し出した。
そこには、屋敷の古参の者たちから聞いた話がまとめられている。
景継は読み始めた。
大きな病気はない。
幼い頃から口数は少なかった。
書物を好んだ。
大人の話を聞いていることが多かった。
それほど驚く内容ではない。
だが。
途中で景継の手が止まった。
「これは?」
弥兵衛が頷いた。
「私も気になりました」
紙にはこうある。
――四歳頃。
景継が数日間だけ、高熱を出した。
その後。
しばらくの間。
誰も教えていない言葉を口にすることがあった。
景継の目が細くなる。
「どんな言葉です」
「そこまでは覚えておらぬそうです」
「誰が聞いたんです」
「昔から屋敷にいる女中でございます」
景継は紙を見つめた。
四歳。
高熱。
その後。
知らない言葉。
「他には?」
「一つございます」
「何です」
弥兵衛は少し言いにくそうにした。
「その頃、屋敷へ来た旅人がいたそうです」
景継の手が止まった。
「旅人?」
「はい」
「誰です」
「分かりませぬ」
「何のために?」
「父君を訪ねてきたわけではなかったようです」
景継の表情が変わる。
「では誰を?」
弥兵衛は景継を見る。
「若様です」
部屋の空気が変わった。
「私?」
「はい」
「四歳の私に?」
「その女中は、そう申しております」
景継は紙へ目を戻した。
「どんな人だったか覚えていますか」
「男だったこと。まだ若かったこと。それくらいだそうです」
「名前は?」
「聞いておらぬと」
景継は何も言わなくなった。
四歳。
高熱。
知らない言葉。
そして。
自分を訪ねてきた、名前の分からない若い男。
偶然かもしれない。
先生とは何の関係もない可能性もある。
だが。
先生は自分に失われた記憶があることを知っている。
そして。
先生自身も、自分の正体までは知らない。
もし。
あの時。
幼い景継が。
司馬懿としての何かを口にしていたとすれば。
その男が、それを聞いたとすれば。
「弥兵衛」
景継が静かに言った。
「その女中に会います」
「今からですか」
「明日で構いません」
景継は紙を机へ置いた。
急ぐ必要はない。
記憶を無理に作ってはいけない。
だが。
一本。
細い線が見え始めた。
岩倉では。
最初の一人が動いた。
そして。
景継の過去でも。
最初の一人が姿を現し始めた。
名も分からない。
顔も分からない。
四歳の景継を訪ねてきた若い男。
景継はその存在を考えながら、静かに目を細めた。
「先生……」
まだ。
そうだと決まったわけではない。
だからこそ。
確かめる必要があった。




