第四十三話 四歳の記憶
美濃の明智に縁がある。
十兵衛と呼ばれていた。
書物を好み、薬や香を扱う商人とも付き合いがあり、七、八年前には尾張へ来ている。そして、幼い景継と林道家の庭で長く話していた。
そこまで分かれば、追うべき相手はもう「姿の見えない先生」だけではなかった。
翌朝、景継は弥兵衛を連れて清洲へ向かった。
信長には、昨夜までに分かったことをすべて話した。
「美濃の明智か」
信長は腕を組み、景継が机へ置いた紙を眺める。
そこには『明智』『十兵衛』『先生』と三つの言葉が並んでいた。ただし、景継はまだそれらを線で結んでいない。
「同じ男だと思っておるのか」
「かなり疑っています」
「なら、なぜ線を引かん」
「まだ証拠がありませんから」
信長は呆れたような顔をした。
「面倒な奴だな」
「最近よく言われます」
「昔からだ」
景継は反論しかけたが、やめた。
「まず人を美濃へ出します。十兵衛という男が出入りしていた寺が分かっています。そこから追えば、もう少し何か出るでしょう」
「本人を見つけたら?」
「会います」
「何を聞く」
聞きたいことはいくらでもあった。
なぜ幼い自分に会ったのか。なぜ失われた記憶の存在を知っていたのか。津々木蔵人との関係は何なのか。
だが、最初に聞くことだけは決まっている。
「あなたが先生ですか、と」
信長が笑った。
「随分と普通だな」
「最初くらい普通でいいんです」
「斬りかかられたら?」
「弥兵衛が何とかします」
後ろに控えていた弥兵衛がすぐに反応した。
「若様。随分と簡単に私へ押しつけましたな」
「信頼していますから」
「便利な言葉でございます」
信長が声を上げて笑った。
景継も少し笑ったが、胸の奥にある落ち着かなさまでは消えなかった。
先生。
長く追い続けた相手に、ようやく手が届こうとしている。
調べは、景継が予想していたより早く進んだ。
美濃へ送った者が、明智庄に近い寺で古い話を聞き出したのである。
十兵衛と呼ばれる若い武士が、かつて何度も寺へ出入りしていた。書物を借り、僧たちと話し、時には京から来た商人とも会っていたという。
そして、その男が明智の一族に連なる者であることも確認できた。
さらに、名前まで分かった。
報告役の男が一枚の紙を景継の前へ置く。
『明智十兵衛光秀』
景継はしばらく、その文字を見つめた。
「光秀……」
隣で弥兵衛が呟く。
明智。
十兵衛。
光秀。
ずっと姿の見えなかった相手に、ようやく名前がついた。
「この人が先生だという証拠は?」
報告役が少し困った顔をする。
「そこまでは確認できておりませぬ」
「ですよね」
「まだ疑われるので?」
弥兵衛が呆れたように尋ねた。
「ここまで重なれば、ほとんど同じ人物だと思っています。でも、最後くらいは本人の口から聞きたい」
問題は光秀がどこにいるかだった。
だが、それについても手掛かりが出た。
寺の僧によれば、光秀は美濃と近江の間を行き来していた時期があり、最近になって尾張へ向かう可能性を口にしていたという。
「尾張へ?」
景継が聞き返すと、報告役が頷いた。
弥兵衛が小さく唸る。
「若様を待っているようにも聞こえますな」
「まさか」
そう答えながらも、景継は否定しきれなかった。
以前、先生の弟子を名乗った男は言った。
先生が正体を教えるのは、お前が自分自身を知った時だ、と。
あの言葉が単なる謎かけではなかったのなら、先生はいつか景継が自分を探し始めると考えていたことになる。
「……本当に趣味が悪いですね」
「まだ先生と決まっておりませぬぞ」
「そうでした」
景継は苦笑した。
その翌日。
熱田から知らせが届いた。
以前、先生につながる書物や薬を扱っていた商人のもとへ、一通の文が届いたという。
宛名はない。
ただ、封の端には見覚えのある印があった。
円の中に三本の線。
景継は文を開く。
『探し物が見つかったのであれば、古渡へ』
『以前と同じ寺で待つ』
わずか二行。
景継は読み終えると、静かに文を畳んだ。
「向こうから来ましたな」
「はい」
これで偶然とは考えにくい。
「行かれますか」
「もちろんです」
「では私も参ります」
景継が弥兵衛を見る。
「まだ何も言っていません」
「置いていこうと考えておられたでしょう」
「少しだけ」
「行きます」
「はい」
最近、弥兵衛に先を読まれることが増えている。
少し困る。
だが、嫌ではなかった。
古渡の寺は、以前と変わらない姿でそこにあった。
先生の弟子を名乗る男と初めて会った場所。
あの頃の景継は、自分が何者なのかさえ知らなかった。
今は違う。
林道景継としての人生。
そして、その前に生きていた人生。
二つが自分の中にあることを知っている。
寺の門をくぐったところで、弥兵衛が声をかけた。
「若様」
「はい」
「緊張しておられます?」
景継は少し考えた。
「……しています」
「安心いたしました」
「何にです?」
「若様にも十三歳らしいところが残っていたのだな、と」
景継は横目で弥兵衛を見る。
「帰ってもらってもいいんですよ」
「それは困ります」
わずかなやり取りで、肩の力が少し抜けた。
以前と同じ部屋へ案内される。
畳の上には茶が二つ置かれていた。
景継が座り、弥兵衛は少し離れた場所へ控える。
やがて、廊下から足音が聞こえた。
急いではいない。
一歩ずつ近づき、障子の前で止まる。
戸が開いた。
一人の男が入ってきた。
三十を少し越えたくらいだろうか。
派手な装いではなく、腰には刀を差しているものの、武辺者という印象も薄い。
穏やかな顔立ち。
ただ、景継を見る目だけが妙に鋭かった。
男は正面へ座った。
しばらく、二人とも何も言わない。
先に口を開いたのは男だった。
「随分と大きくなりましたね」
その声を聞いた瞬間。
景継の中で何かが弾けた。
木漏れ日。
林道家の庭。
小さな手。
目の前にしゃがむ若い男。
景継は四歳だった。
『それは、どこの国の話です?』
幼い景継が何かを答える。
何と言ったのかは聞こえない。
だが男の顔は見えた。
今より若い。
それでも間違いない。
『あなたは、それをどこで知ったのです?』
幼い景継は困ったような顔をしていた。
答えられない。
自分でも、なぜ知っているのか分からなかったからだ。
男が不思議そうに目を細める。
『面白いことを知っておられる』
そこで記憶は途切れた。
景継は目の前の男を見つめた。
同じ顔だった。
歳月を重ねている。
声も少し違う。
それでも、間違えるはずがなかった。
「……あなたでしたか」
男の表情がわずかに緩んだ。
「思い出しましたか」
「少しだけ」
もう答えは出ている。
それでも、自分の口で確かめたかった。
「あなたが、先生ですか」
男は景継を見つめ、静かに頷いた。
「ええ」
景継はゆっくり息を吐いた。
長かった。
姿すら見えなかった相手が、ようやく目の前にいる。
男は背筋を伸ばした。
「では、改めて名乗りましょう」
わずかな間を置く。
「明智十兵衛光秀」
そして穏やかに続けた。
「美濃、明智に縁ある者です」
景継はその名を胸の中で繰り返した。
明智。
十兵衛。
先生。
ようやく、すべてが一つにつながった。
「随分探しました」
「知っています」
景継の眉が動く。
「知っていたんですか」
「途中からは」
「なら、もっと早く出てきてください」
「今、出てきたでしょう」
「遅いです」
光秀が少し笑った。
「それくらいは許してください」
「許すかどうかは、これから聞いて決めます」
光秀の目がわずかに細くなる。
「以前より怖くなりましたね」
「誰かさんが妙な試し方ばかりするからです」
景継の声から笑みが消えた。
「津々木蔵人を動かしたのは、先生ですか」
部屋の空気が変わる。
弥兵衛も黙って二人を見ていた。
光秀は迷わなかった。
「違います」
「本当に?」
「ええ」
「では、なぜ津々木とつながっていたんです」
「つながっていた、という言葉がどこまでを指すかによります」
「言葉遊びはやめてください」
光秀が苦笑する。
「あの男は、元から自分の意思で動いていました。私が命じたわけではありません」
「信勝様と信長様を争わせようとしていたことは?」
「途中で知りました」
「止めなかった」
「止めませんでした」
景継の目が険しくなる。
「なぜです」
光秀はすぐには答えなかった。
やがて景継をまっすぐ見る。
「お前を見るためです」
景継は黙った。
「津々木が動いた時、お前がどうするのかを見たかった」
「人が死んでいたかもしれません」
「ええ」
「信長様と信勝様が、本当に戦になっていた可能性もある」
「ありました」
光秀は否定しなかった。
そのことが、かえって景継の胸へ重く落ちる。
「それでも?」
「止めませんでした。正しいことをしたとも思っていません」
光秀は言い訳をしなかった。
「今のお前が私を責めるなら、それは受けます」
景継はしばらく光秀を見た。
「……ずるいですね」
「何がです?」
「そこで素直に認められると、怒りにくい」
「怒って構いませんよ」
「後で考えます」
納得したわけではない。
だが、今はまだ聞くことがある。
「円の中に三本の線。あの印も先生ですか」
「そうです」
「津々木のところに残っていたものも?」
「ええ」
「なぜ残したんです」
「お前が気づくか見たかった」
景継は無言で光秀を見た。
「本当に趣味が悪いですね」
「昔も似たようなことを言われました」
「誰にです?」
「お前に」
その言葉で、記憶がまた揺れた。
庭で若い光秀から何度も質問され、幼い自分が顔をしかめている。
『もう、聞かないでください』
『なぜです?』
『あなた、しつこいです』
景継は額へ手をやった。
「……言っていますね」
「思い出しましたか」
「少し」
光秀が楽しそうに笑った。
景継は気を取り直す。
「いつから私を見ていたんです」
「最初に会った時からです」
「四歳の時から?」
「ええ」
「なぜ会いに来たんです」
「噂を聞いたからです。尾張の小さな家に、妙な子供がいる、と」
まだ幼いのに、誰から教わったのか分からない話をする。
聞いたことのない土地や人について語り、大人でも知らないようなことを口にする。
光秀は最初、誰かが景継へ知識を教え込んでいるのだと思ったという。
「実際に会って?」
「余計に分からなくなりました」
「そんなに変でした?」
「かなり」
「父上にも言われました」
「景政殿は正しい」
「先生まで言わないでください」
光秀は笑ったが、すぐに表情を戻した。
「知識を教え込まれただけの子供なら、答えられることには限界があります。しかし、お前は違った」
「何が?」
「知っているというより、思い出しているように見えました」
景継の表情が変わった。
「何かを尋ねるたび、遠いものを探すような顔をする。それなのに、自分がなぜ知っているのかは説明できない。私はそれが気になった」
そして、しばらく後。
光秀が再び景継について調べた時には、その知識そのものが失われていた。
「お前は忘れていました」
「以前話していたことを?」
「ほとんど。自分がそんな話をしたことすら覚えていなかった」
「それで、私に失われた記憶があると思った」
「そうです」
「その正体までは?」
「知りませんでした」
光秀は苦笑した。
「四歳の子供が、本人にも分からぬ記憶を持っている。そこから先をどう考えろというのです」
景継も、それには納得した。
先生は最初から答えを知っていたわけではない。
先生自身もまた、景継が何者なのか知りたかったのだ。
だから見続けた。
そして、景継自身が答えへ辿り着くのを待った。
「先生」
「何です?」
「私は、知りました」
光秀の目が変わった。
「何を?」
「自分が、なぜ知らないはずのことを知っていたのか」
それまでの余裕が、ほんの少しだけ消える。
「思い出したのですか」
「はい」
「失っていた記憶を?」
「全部ではありません。でも、自分が何者だったのかは」
光秀がわずかに身を乗り出した。
「では、お前は誰だったのです?」
景継は答えなかった。
代わりに、少しだけ口元を上げる。
「教えません」
「……何ですって?」
初めて、光秀の顔から余裕が消えた。
それを見て、景継は少し楽しくなった。
「先生はずっと、私に自分で答えを探させたでしょう」
「それとこれは別です」
「同じです」
「同じではありません」
「同じです」
光秀が黙った。
「私は先生が誰なのか、自分で探しました。印を追って、商人を探して、美濃まで人を出して、明智と十兵衛という名前を拾って、ようやくここまで来たんです」
「だから?」
「次は先生の番です」
「私の?」
「私が以前、誰だったのか。先生が自分で見つけてください」
光秀はしばらく何も言わなかった。
やがて深く息を吐く。
「仕返しですか」
「少しだけ」
「性格が悪くなりましたね」
「先生に言われたくありません」
後ろで弥兵衛が咳払いした。
笑いを堪えたようにも聞こえた。
「一つくらい手掛かりをくれてもよいのでは?」
「先生も私に答えを教えてくれなかったでしょう」
「印くらいは残しましたよ」
「あれは手掛かりというより挑発です」
「役には立ったでしょう」
景継は呆れながらも、少し笑った。
すぐに答えられては面白くない。
それに何より、まだ自分の前世をすべて光秀へ明かすつもりはなかった。
今はまだ、自分の胸の内に置いておきたい。
「では、私からも一つ」
景継は光秀を見た。
「先生は、私の敵ですか」
光秀が黙る。
先ほどまでとは違う沈黙だった。
やがて、静かに答える。
「今は違います」
「今は?」
「未来まで約束するほど、私は立派な人間ではありません」
景継は思わず笑った。
「それなら信用できます」
「普通は逆では?」
「ずっと味方だと言われる方が怖いです」
光秀も笑った。
「やはり、変わっていますね」
「先生もですよ」
二人の間にあった張りつめた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
寺を出る頃には、日が傾き始めていた。
景継と弥兵衛は並んで清洲への道を歩く。
しばらくして、弥兵衛が口を開いた。
「見つかりましたな」
「はい」
「先生」
景継は少しだけ歩みを緩めた。
「明智光秀」
その名を声にすると、不思議な感覚があった。
津々木。
円の中に三本の線。
熱田の商人。
京から届いた書物や薬。
弟子を名乗った男。
そして、四歳の自分。
別々だったものが、ようやく一人の人物へつながった。
ただし、光秀はすべてを操っていた黒幕ではない。
津々木には津々木の思惑があり、岩倉には岩倉の事情がある。
光秀はその外側から景継を見ていた。
時には手を加え、時には何もせずに。
その方が、景継にはむしろ厄介に思えた。
「怒っておられますか」
弥兵衛が尋ねる。
「怒っています」
「やはり」
景継は少しだけ振り返った。
寺は木々の向こうへ隠れかけている。
「でも、会えてよかったです」
それは本心だった。
長く抱えていた疑問のいくつかに、ようやく答えが出た。
「若様」
「何です?」
「あの方なら、本当に若様の昔の名へ辿り着けると思われますか」
景継は前を向く。
「どうでしょうね」
「教えた方が早かったのでは?」
「それでは先生だけ得をするでしょう」
弥兵衛が呆れたように笑った。
「若様も、先生殿のことを言えなくなってきましたな」
景継は返事をしなかった。
否定できなかったからだ。
その頃。
古渡の寺では、光秀が一人で座っていた。
景継が使った茶碗には、まだ少し茶が残っている。
四歳の少年。
誰から教わったのか分からないことを口にし、自分でも理由を説明できなかった。
やがて、そのすべてを忘れた。
そして九年後。
自分が何者だったのかを知ったと言った。
光秀は立ち上がり、荷の中から古い紙束を取り出した。
九年前。
林道家から戻った後、幼い景継が口にした言葉を書き残していた。
当時の自分には意味の分からなかった言葉。
土地の名らしきもの。
人の名らしきもの。
出来事らしきもの。
何一つつながらなかったから、そのまま残してある。
だが今は違う。
景継自身が、そこに答えがあると教えた。
ならば探せばいい。
「先生」
廊下の向こうから弟子の男が顔を出した。
「景継殿は、どうでした?」
光秀は紙を眺めたまま答える。
「思っていたより、面倒な少年になっていました」
「先生が長く見ていたからでは?」
「私のせいにしないでください」
光秀は古い紙束を弟子へ差し出した。
「調べたいことがあります」
「これは?」
「九年前に書いたものです」
「何を調べれば?」
「ここに書かれている言葉が、何を意味するのか」
弟子は紙へ目を落とした。
「誰から聞いたものです?」
光秀はわずかに笑った。
「四歳の子供から」
弟子が怪訝そうな顔をする。
だが光秀は、それ以上説明しなかった。
今度は自分の番だ。
景継が自分の正体へ辿り着いたように。
自分もまた、林道景継という少年の奥にいる、もう一人の人間を探す。
答えはまだ遠い。
だが、初めて道は見えた。
清洲へ向かう街道で、景継もまた光秀のことを考えていた。
先生を探す時間は終わった。
だが、明智光秀という男との関係は今日から始まる。
味方なのか。
敵なのか。
それとも、いつかその両方になるのか。
今はまだ決める必要はない。
景継は少しだけ笑った。
先生はいつか、自分の一度目の名へ辿り着けるのだろうか。
もし、その日が来たなら。
今度こそ、自分の口から答えよう。
そう決めて、景継は弥兵衛とともに清洲への道を歩いていった。




