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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第二章 二度目の乱世

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第四十三話 四歳の記憶


翌朝、景継はいつもより早く身支度を整えた。


昨夜、弥兵衛から聞いた話が頭から離れなかった。


四歳の頃。


高熱を出した後、誰も教えていない言葉を口にするようになった。


そして、その頃に景継を訪ねてきた若い旅人がいたという。


名前は分からない。


何者なのかも分からない。


ただ、その男は父ではなく、幼い景継に用があって林道家を訪ねてきたらしい。


なぜ。


四歳の子供に。


景継が最も気になっているのは、そこだった。


先生は、自分に失われた記憶があることを知っていた。


しかし、その記憶の正体までは知らない。


そして幼い自分は、高熱を出した後、今では覚えていない何かを口にしていた。


もし。


その二つがつながっているのなら。


先生が自分の記憶について知っていた理由も、説明できるかもしれない。


だが、それはまだ仮定にすぎない。


旅人と先生が同じ人物だという証拠すらない。


景継は立ち上がった。


今は答えを決める時ではない。


まず、確かめる。


それだけだった。


◇◇◇


女中の名は、お藤といった。


今は屋敷の仕事から退き、清洲城下から少し離れた村で息子夫婦と暮らしている。


景継が幼い頃には、林道家の屋敷で炊事や掃除をしていたらしい。


「若様自ら来られるとは思いませんでした」


お藤は驚いた様子で頭を下げた。


年は六十を越えている。


背は少し丸くなっていたが、目はしっかりしていた。


景継は弥兵衛と共に家の中へ通された。


「突然すみません」


「何をおっしゃいます。若様には幼い頃、随分と振り回されましたから」


お藤が笑う。


景継は少し困った顔をした。


「私、そんな子供でした?」


「静かではございました。ただ、変わった子で」


「やっぱりですか」


弥兵衛が横で小さく笑った。


景継は一度咳払いをしてから、本題へ入った。


「四歳の頃のことを聞きたいんです」


お藤の表情が少し変わった。


「熱を出した時のことでございますか」


「覚えています?」


「よく覚えております」


「どんな様子でした?」


お藤はしばらく昔を思い出すように目を細めた。


「三日ほど、高い熱が続きました」


「三日?」


「はい。最初の日は普通の風邪と思っておりました。ところが夜になると熱が上がり、二日目にはほとんど目を開けられぬほどで」


景継は黙って聞いた。


自分には、その記憶がない。


「医者は?」


「呼びました。ですが、原因は分からぬと」


「命が危ないほどでしたか」


「その時は、皆そう思っておりました」


お藤の声が少しだけ重くなる。


「母君などは、一晩中若様の手を握っておられました」


景継は視線を落とした。


知らない。


そんなことがあったとは、今まで一度も聞いたことがなかった。


「その後、急に熱が下がった?」


「はい。四日目の朝でした」


お藤はそこで、少し不思議そうな顔をした。


「ただ……」


「何です?」


「目を覚まされた若様が、それまでと少し違って見えたのでございます」


景継の目が動く。


「違う?」


「子供でございましたから、うまく説明できませぬ。ただ、目が……」


お藤は景継の顔を見た。


「今の若様に近うなったように感じました」


景継は何も言えなかった。


四歳。


高熱。


そして目覚めた後の変化。


もし、あの時。


司馬懿としての記憶が一時的に表へ出ていたのだとしたら。


「何か話しましたか」


景継が尋ねる。


お藤はすぐには答えなかった。


「覚えている範囲で構いません」


「いくつか」


「教えてください」


お藤は少し考えた後、ゆっくり話し始めた。


「目を覚まされた時、最初に『ここはどこだ』と」


景継の胸が鳴った。


「普通の言葉ですよね」


「はい。ですから、その時は何も思いませんでした」


「他には?」


「父君のお名前を聞かれました」


「父の名前を?」


「はい」


景継は眉を寄せた。


四歳なら、父親の名前を知らないはずがない。


「それから、母君を見て『妻ではない』と」


弥兵衛が目を見開いた。


景継の顔も固まった。


「……本当に?」


「はい」


お藤は少し笑った。


「母君は、熱で混乱しているのだろうと」


景継は笑えなかった。


もし司馬懿としての感覚が突然戻ったのなら。


目の前にいる若い母親を見て。


そう言ったとしても不思議ではない。


「ほかには?」


お藤は目を閉じる。


「地名のようなものを、いくつか」


景継の身体が少し前へ出た。


「覚えていますか」


「はっきりとは」


「何でもいいです」


お藤はしばらく考えた。


「……らく、よう」


景継の呼吸が止まった。


弥兵衛も景継を見る。


お藤は続けた。


「そのような音だったと思います」


洛陽。


間違いない。


「他は?」


「ぎ」


魏。


景継は拳をわずかに握った。


お藤はさらに記憶を探す。


「それから……そうそう。もう一つ」


「何です?」


「こう……めい」


景継の目が変わった。


孔明。


弥兵衛には意味が分からないらしく、景継の反応だけを見ている。


「若様?」


景継はすぐには答えなかった。


四歳の自分。


高熱の後。


洛陽。


魏。


孔明。


偶然ではない。


司馬懿としての記憶は。


一度。


確かに戻っている。


◇◇◇


「その状態は、どれくらい続きました?」


景継は尋ねた。


「長くはございません」


「何日?」


「三日ほどでしょうか」


景継は驚いた。


「三日だけ?」


「はい。その後、少しずついつもの若様へ戻られました」


「忘れた?」


「おそらく」


お藤が頷く。


「一週間ほど経つ頃には、熱を出した時のことを聞いても何も覚えておられませんでした」


景継は黙った。


記憶が戻った。


そして。


消えた。


今、自分に起きていることと似た現象が。


十年近く前にも起きている。


「その頃に、旅人が来たんですね」


景継が聞いた。


お藤の顔が少し変わった。


「覚えておられたのですか」


「いいえ。弥兵衛から聞きました」


「ああ」


お藤は頷いた。


「来られました」


「どんな人でした?」


「若い男でございました」


「どれくらい?」


「二十を越えたほどでしょうか。三十まではいっていなかったと思います」


景継は黙ってその言葉を聞いた。


今から九年ほど前。


二十を越えたくらいの、若い男。


それだけでは何も分からない。


先生と同じ人物なのか。


まったく関係のない人物なのか。


今ある情報だけで決めることはできなかった。


「名前は?」


「名乗られたと思いますが……申し訳ございません」


「構いません」


景継は少し間を置いた。


「その男は、なぜ私に会いに来たんです?」


お藤は考えた。


「確か……若様について、妙な話を耳にしたと」


景継の表情が変わった。


「私の?」


「はい」


「どんな話です?」


「そこまでは」


お藤は首を振った。


「ただ、病から目を覚ました後の若様について、何か聞いたようなことを申しておりました」


景継と弥兵衛が顔を見合わせる。


「どこで聞いたかは?」


「申し訳ございません。覚えておりませぬ」


景継は黙った。


自分の異変が。


屋敷の外へ漏れていた。


「その男は、どこから来たと言っていました?」


「京」


景継の目が細くなる。


京。


だが、それも証拠にはならない。


景継は頭の中で、旅人と先生を無理につなげようとする考えを押し戻した。


似ているから同じ人物だと決める。


それは、自分が最も避けなければならない考え方だった。


「本人がそう言ったのですか」


「はい」


「父に会った?」


「最初は父君と話されておりました」


景継の眉が動く。


「何を?」


「若様についてでございます」


「父は会わせようとしたんですか」


「いいえ」


お藤は首を横に振った。


「最初は断っておられました」


「当然でしょうね」


どこの誰とも分からない男が。


噂を聞いたから四歳の息子に会わせろと言ってきた。


父が警戒するのは当然だった。


「では、どうして会えたんです?」


「若様でございます」


「私?」


「はい」


お藤は少し笑った。


「話を聞いていた若様が、会うと」


景継の表情が変わる。


「私から?」


「はい」


「どうして?」


「分かりませぬ」


お藤は首を振った。


「ただ、若様はその男が京から来たと聞くと、しばらく考えてから……」


お藤は少し言いにくそうにした。


「『通せ』と」


景継は言葉を失った。


四歳児が。


通せ。


弥兵衛が横を向いた。


肩が少し揺れている。


「弥兵衛」


「い、いえ」


「笑いました?」


「決して」


「笑いましたよね」


「四歳で『通せ』は少々……」


景継はため息をついた。


だが。


すぐに表情を戻した。


「会話を聞いていました?」


「最初だけ」


「何を話していたのか覚えていますか」


お藤の表情が曇る。


「全部は」


「覚えている部分だけで構いません」


お藤はゆっくり話し始めた。


「最初、男の方は普通のことを聞いておりました」


「普通のこと?」


「お名前や、お年など」


「それから?」


「若様が妙なことを話すと聞いた、と」


景継は黙って聞く。


「若様は何と?」


「覚えておりませぬ。ただ、男の方がしばらく若様を見ておられたことは覚えております」


「その後は?」


「大陸の話を」


景継の指先がわずかに動いた。


「最初から?」


「いいえ」


お藤は首を振った。


「若様と少し話した後でございます」


景継の目が細くなる。


つまり。


旅人は最初から前世の記憶を知っていたわけではない。


噂を聞いて確かめに来た。


そして。


景継との会話の中で。


何かがおかしいと気づいた。


それから大陸の話を出した。


そう考えれば自然だった。


「どんな話でした?」


「漢の終わり頃の話だったかと」


景継の胸がざわつく。


「私は?」


「普通に答えておられました」


景継は目を閉じた。


普通に。


四歳の子供が。


数百年前の異国の話を。


普通に答えた。


旅人からすれば。


異様だったはずだ。


「何を話したか覚えています?」


「難しくて、私にはほとんど」


お藤は少し困ったように笑う。


「ただ、一つだけ覚えております」


「何です?」


「男の方が、ある人物について聞かれました」


景継の胸がざわついた。


「誰を?」


「名前は覚えておりませぬ」


景継は少し肩を落とした。


だが、お藤は続ける。


「羽の扇を持った軍師だったような」


景継の目が鋭くなる。


孔明。


間違いない。


「私は何と?」


お藤はしばらく考えた。


そして。


「若様は笑われました」


「笑った?」


「はい」


お藤は、その時の景継の真似をするように少し目を細めた。


「『あの男は、死んでも面倒だ』と」


景継は何も言えなかった。


その言葉。


今の自分なら。


言う。


間違いなく。


だが。


旅人はどう思った?


四歳の子供が。


まるでその人物を直接知っているかのように話した。


「その男は、何と?」


景継が尋ねる。


お藤は目を閉じて記憶を探した。


「しばらく、何も言わなかったと思います」


「それから?」


「若様に尋ねました」


「何を?」


お藤はゆっくり顔を上げた。


「『お前は、その男を知っているのか』と」


景継の背中に。


わずかな寒気が走った。


「私は?」


「若様は……」


お藤が首を傾げる。


「何か答えたと思うのですが、そこまでは覚えておりませぬ」


景継は小さく息を吐いた。


そこが。


一番知りたかった。


だが。


仕方がない。


九年も前の会話だ。


すべて覚えている方がおかしい。


「その後、男は?」


「帰られました」


「何か言い残しました?」


「一つだけ」


景継が顔を上げる。


「何です?」


「また来る、と」


部屋が静かになった。


「……また来る」


「はい」


「本当に?」


「それは覚えております」


景継は黙った。


「その男は、また来ました?」


お藤は少し考える。


「私が覚えている限りでは、来ておりませぬ」


景継は目を細めた。


また来る。


だが。


来なかった。


あるいは。


自分が知らないだけなのか。


◇◇◇


帰り道。


景継はほとんど話さなかった。


弥兵衛も、無理に声をかけなかった。


頭の中では、今聞いた話を何度も並べ直していた。


四歳。


高熱。


司馬懿の記憶が一時的に戻った。


洛陽。


魏。


孔明。


その噂が。


何らかの形で屋敷の外へ漏れた。


そして。


その噂を聞いた若い旅人が林道家へ来た。


最初から景継の秘密を知っていたわけではない。


確かめに来た。


そして。


四歳の景継と話した。


普通ではないと気づいた。


だから。


さらに試した。


そこまでは見えてきた。


だが。


旅人と先生が同じ人物だという証拠はない。


「若様」


弥兵衛がようやく声をかけた。


「はい」


「その旅人が先生なのでしょうか」


景継はすぐには答えなかった。


「分かりません」


「ですが」


「気になる点はあります」


景継は答えた。


「でも、それだけです」


弥兵衛が少し意外そうな顔をする。


「もっと食いつかれるかと思いました」


「私も食いつきたいですよ」


景継は苦笑した。


「だからこそ、気をつけています」


自分がそうであってほしいと思った答えほど。


疑わなければならない。


一度目の人生が。


それを景継に教えていた。


「ただ」


景継は前を見た。


「一つ、別の問題が出ました」


「何でございます?」


「噂です」


「噂?」


「私が高熱を出した後、妙なことを話した。それを旅人はどこかで聞いた」


弥兵衛の表情が変わった。


「つまり」


「誰かが屋敷の外で話した」


景継は頷いた。


誰なのか。


なぜ話したのか。


ただの世間話だったのか。


それとも。


別の理由があったのか。


「まず、そこを調べます」


「旅人ではなく?」


「旅人もです」


景継は答えた。


「でも、九年前の旅人を直接探すより、噂がどう広がったかを追う方が近いかもしれません」


「なるほど」


「その噂を聞いた場所が分かれば、旅人が当時どこにいたのかも分かるかもしれない」


弥兵衛が頷いた。


「では、調べてみます」


「お願いします」


一つ分かれば。


また一つ。


分からないことが増える。


景継は少し笑った。


「本当に面倒ですね」


「何がです?」


「自分の過去です」


◇◇◇


だが。


景継が屋敷へ戻る前に。


別の知らせが入った。


清洲から来た使者だった。


「景継様」


「何がありました」


「信長様より、すぐに登城するようにとの仰せにございます」


景継は弥兵衛を見る。


「岩倉ですか」


使者が頷いた。


「二人目が参りました」


景継の表情が変わった。


◇◇◇


清洲城。


評定の間には、見知らぬ男が座っていた。


三十代半ば。


森川定重より若い。


だが。


その顔には明らかな緊張があった。


信長の前で頭を下げている。


景継が入ると、信長が手を上げた。


「来たか」


「はい」


景継は男を見る。


「この方は?」


信長が答える。


「岩倉から逃げてきた」


また。


一人。


景継は座った。


「お名前は?」


男が答える。


「堀田重信にございます」


「なぜ清洲へ?」


重信はすぐには答えなかった。


景継は急かさない。


やがて。


「森川殿が」


景継の目が細くなる。


「森川殿?」


「清洲におられるのでございましょう」


部屋の空気が変わった。


勝家が重信を見る。


「誰から聞いた」


重信は首を横に振る。


「分かりませぬ」


「どういう意味だ」


「岩倉で、噂になり始めております」


景継の表情が変わった。


秘密にしていたはずだった。


森川定重が清洲へ来たことは。


まだ。


広めていない。


「どんな噂です」


景継が聞く。


「森川殿は清洲へ逃げ、信長様に受け入れられたと」


「誰が最初に言った?」


「分かりませぬ」


重信は続けた。


「ただ、それを聞いて」


一度言葉を止める。


「私も来ました」


景継は黙った。


結果だけ見れば。


悪くない。


むしろ望んでいた流れだ。


一人が来れば。


二人目が来る。


その通りになった。


だが。


「おかしい」


景継が小さく呟いた。


信長が見る。


「何がだ」


「早すぎます」


森川が清洲へ来たことを知る者は少ない。


信長。


景継。


勝家。


長秀。


信盛。


弥兵衛。


そして森川本人。


他にも最低限の者は知っているが。


それでも。


岩倉へ噂が届くには早すぎる。


「こちらから漏れた?」


勝家の顔が険しくなる。


景継は考える。


その可能性もある。


だが。


誰かが意図して流した可能性もある。


「誰かが」


景継は言った。


「わざと流したのかもしれません」


信長が眉を寄せる。


「誰だ」


「分かりません」


景継は即答した。


ここで誰か一人に決めるのは早い。


岩倉を崩したい者など、他にもいる。


清洲内部から漏れただけかもしれない。


森川自身が、誰かに何かを残していた可能性もある。


ただ。


景継の頭には。


一人の男の姿が浮かんでいた。


必要な時だけ姿を現し。


答えではなく、問いだけを残して消える男。


先生。


だが。


今はまだ。


それも可能性の一つだった。


「心当たりがあるのか」


信長が聞いた。


景継は少し迷ってから答えた。


「一人だけ」


「誰だ」


「先生です」


「先生?」


「ただし、証拠はありません」


景継はすぐに付け加えた。


「先生だと決めて動けば、誰か別の者が仕掛けていた時に見誤ります」


信長はしばらく景継を見た。


やがて。


「なら、どうする」


「利用します」


景継は答えた。


「誰が流したか分からないなら、今は分からないままでいい。それより、この噂によって岩倉がどう動くかを見ます」


信長が笑う。


「犯人探しは後か」


「はい」


景継は地図を見る。


「今大事なのは岩倉です」


◇◇◇


その夜。


尾張のどこか。


薄暗い部屋の中で、一人の男が頭を下げていた。


「二人目が清洲へ入りました」


その先に座る人物は、静かに聞いている。


「景継は?」


「噂が広がるのが早すぎると気づいたようです」


「そうか」


「こちらを疑うでしょうか」


少しの沈黙。


「疑うだろう」


「では」


「それでいい」


男が顔を上げる。


先生は机の上に置かれた尾張の地図を見ていた。


「森川の件を流したのは我々です」


「そうだ」


「清洲を助けるおつもりで?」


先生は首を横に振った。


「違う」


「では、なぜ」


先生の指が地図の上を動く。


岩倉。


清洲。


そして。


景継のいる場所。


「見たいのだ」


「何を?」


「あの少年が」


先生の指が止まった。


「自分の策に、他人が手を加えたと気づいた時」


先生の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「どうするのかを」


報告役の男は黙った。


しばらくして、尋ねる。


「それほどまでに、景継殿が気になりますか」


先生はすぐには答えなかった。


やがて。


「昔」


静かに口を開く。


「奇妙な噂を聞いたことがある」


「噂?」


「ああ」


先生は地図を見たまま続ける。


「高熱から目を覚ました幼い子供が、誰にも教えられていないはずの異国の言葉を口にするとな」


報告役の男の眉が動く。


「それが……」


「景継だった」


部屋が静かになる。


「では、その時から景継殿の正体を?」


先生は初めて報告役の男を見る。


「正体?」


少しだけ笑った。


「そんなものは知らん」


「ですが」


「だから確かめに行った」


先生の目がわずかに細くなる。


「最初は、誰かに妙な教育でも受けているのだと思った」


林道家の裏に。


誰かいるのかもしれない。


あるいは。


大人たちが子供を利用して、何かを企んでいるのかもしれない。


だから。


自分の目で確かめた。


「実際に会って、どうだったのでございます?」


報告役の男が尋ねる。


先生は答えなかった。


しばらく。


九年前のことを思い出しているようだった。


やがて。


「分からなくなった」


「分からなく?」


「あれは、教えられた知識ではなかった」


「なぜそう思われるので?」


先生の目が細くなる。


「知識だけなら、覚えさせることはできる」


だが。


あの幼い子供の話し方は違った。


まるで。


知っているのではなく。


覚えているようだった。


「それで景継殿には、失われた何かがあると?」


「そう考えた」


「それが何なのかは?」


先生は首を横に振った。


「知らん」


その答えに迷いはなかった。


「昔も分からなかった。そして今も分からん」


先生は地図上の景継の駒へ指を置いた。


「だから見ている」


「景継殿自身が答えを出すまで?」


先生は答えなかった。


だが。


否定もしなかった。


先生は知っているのではない。


先生もまた。


探している。


景継という少年の中に眠っていたものが。


一体何だったのかを。


◇◇◇


同じ頃。


清洲。


景継は一人で地図を見つめていた。


自分は岩倉を崩そうとしている。


そして。


誰かが、その流れを後ろから押した。


先生なのか。


別の誰かなのか。


まだ分からない。


だが。


誰であっても。


やることは変わらない。


「なら」


景継は地図の上へ、一つ新しい印を置いた。


「利用します」


相手が岩倉を崩したいのなら。


崩してもらえばいい。


ただし。


相手の思い通りには動かない。


誰かが盤上へ置いた駒を。


こちらが使う。


一度目の人生で。


何度もやってきたことだった。


景継は静かに地図を見た。


岩倉。


信長。


信賢。


そして。


姿の見えない誰か。


敵なのか。


味方なのか。


それすら、まだ分からない。


だからこそ。


決めつけない。


見る。


考える。


待つ。


そして。


相手が次の一手を打った時。


その手ごと利用する。


景継は静かに笑った。


「次は、こちらの番です」


岩倉を巡る戦いは。


一本の矢も放たれぬまま。


さらに深い場所へと入り始めていた。

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