第四十四話 兵が動く
翌朝、景継が清洲城へ入ると、いつもとは違う空気が流れていた。
慌ただしい。だが、戦が始まった時の慌ただしさではない。廊下を行き交う者たちは声を潜め、誰かとすれ違うたびに一瞬だけ相手の顔を見る。
何かを知っているのか。何かを隠しているのか。互いに探り合っているようだった。
「弥兵衛」
「はい」
「何かありました?」
「森川殿のことでございます」
景継が足を止める。
「また?」
「はい」
「今度は何です」
弥兵衛が少し困った顔をした。
「清洲でも噂になっております」
景継の眉が動いた。
昨日、岩倉で森川定重が清洲へ逃げたという噂が広がっていることは聞いた。だが今度は清洲だった。
「どんな噂です?」
「森川殿だけではない、と」
「だけではない?」
「すでに岩倉から五人ほど、信長様へ内々に臣従を申し出ているそうです」
景継は黙った。
五人。実際に来たのは二人だ。森川定重と堀田重信。
「誰が言っているんです」
「分かりませぬ」
まただ。
景継は歩き始めた。
「他には?」
「信賢殿の側近の中にも、すでに清洲と通じている者がいるとか」
「それも?」
「出所は不明にございます」
景継は小さく息を吐いた。
一つなら偶然で済む。二つなら疑う。三つ続けば、誰かが動いている可能性が高い。
問題は、誰が、何のために、だった。
◇◇◇
評定の間には、すでに信長たちが集まっていた。
勝家、長秀、信盛。そして昨日、岩倉から逃げてきた堀田重信もいる。森川定重の姿はない。まだ表へ出さない方針だからだ。
景継が座ると、信長が口を開いた。
「聞いたか」
「五人の話ですか」
「ああ」
「嘘ですね」
景継は即答した。
勝家が腕を組む。
「分かっておる。実際には二人だ」
「問題は、なぜ五人になったのかです」
長秀が景継を見る。
「噂とは、そういうものではないのか」
「勝手に膨らんだ可能性もあります。一人が二人になり、二人が五人になる。珍しい話ではありません」
「なら放っておけばよい」
勝家が言った。
「岩倉が勝手に崩れるなら、こちらには都合がいい」
「そうですね」
景継が答えると、勝家が眉を上げた。
「珍しく素直だな」
「私だって素直ですよ」
「どの口が言う」
信長が笑った。
だが景継はすぐに真顔へ戻る。
「ただ、気になることがあります」
「何だ」
信長が尋ねる。
「岩倉だけではなく、清洲でも同時に噂が広がっていることです」
長秀の目が細くなる。
景継は続けた。
「岩倉では『森川殿が清洲へ逃げた』。清洲では『岩倉から五人が寝返った』。同じ出来事を使っているのに、両側で話の形が違う」
信盛が口を開く。
「誰かが意図していると?」
「その可能性があります」
勝家が低い声で言った。
「昨日言っていた先生か」
景継は少し間を置いた。
「分かりません」
「まだ言うか」
「証拠がありませんから」
「だが怪しいのだろう」
「怪しいです。だからこそ、先生だと決めない方がいい」
勝家が理解できないという顔をする。
景継は地図の上へ二つの石を置いた。一つは清洲。一つは岩倉。
「岩倉にいる者には、清洲へ逃げても受け入れられると思わせる。清洲にいる者には、岩倉はすでに崩れ始めていると思わせる」
さらに、その間へ三つ目の石を置いた。
「今はただ、噂を操っている者がいる。それだけ分かっていれば十分です」
信長が楽しそうに笑った。
「相手が誰でもよいと?」
「今は、です」
◇◇◇
「それで、どうする」
信長が聞いた。
景継は地図を見た。
相手は噂を流している。なら噂を止めるか。
違う。
こちらに有利なのだから、止める必要はない。だが、そのまま乗るのも危険だった。相手が何を狙っているのか分からない。
「一つ、試したいことがあります」
「何だ」
「噂を一つ、増やします」
勝家が眉を寄せる。
「こちらからか」
「はい」
「どんな噂だ」
景継は少し考えてから答えた。
「信長様は、岩倉から来た者をすぐには信用しない」
部屋が静かになる。
信長が笑った。
「俺の評判を落とすのか」
「少しだけ」
「面白い。続けろ」
景継は地図を指した。
「今広がっている噂は、清洲へ来れば受け入れてもらえるというものです。ですが『清洲へ逃げれば助かる』では簡単すぎます」
「何が悪い」
勝家が聞く。
「誰でも来ます」
「それでよいだろう」
「敵も来ます」
勝家の顔が変わった。
「信賢様が、こちらへ偽の離反者を送り込む可能性もある。それに、こちらへ来るつもりのない者まで、清洲と通じているふりを始めるかもしれません」
長秀が頷く。
「なら、条件をつけるのか」
「はい」
景継は堀田重信を見る。
「清洲は受け入れる。ただし、何かを持ってきた者だけ」
重信の表情が変わった。
「何か、とは」
「情報です。岩倉の兵の配置、兵糧、城内の様子。誰が信賢様を支持しているのか、誰が迷っているのか」
勝家が笑った。
「なるほど」
「ただ逃げてくるだけでは足りない。清洲へ来たければ、岩倉の一部を持ってこい」
信長の口元が上がった。
「悪い顔をするようになったな」
「信長様には言われたくありません」
「褒めておる」
「なお悪いです」
長秀が小さく笑った。
◇◇◇
その日のうちに、噂は流された。
もちろん、清洲が正式に発表したわけではない。
城下の商人、行商人、寺へ出入りする者、岩倉方面へ向かう人間の耳へ、少しずつ同じようで少し違う話が入っていく。
清洲へ逃げれば助かるらしい。
いや、誰でも受け入れるわけではない。
信長は岩倉の者を疑っている。
何か役に立つものを持ってこなければ信用されない。
森川は重要な情報を持ってきたから助けられた。
最後の一つは嘘だった。
森川定重は確かに岩倉内部の話をしている。だが、それを条件に受け入れたわけではない。
それでも、噂には少しだけ真実を混ぜた方がいい。
全部が嘘なら、簡単に壊れる。
◇◇◇
二日後。
岩倉城では、織田信賢が家臣の報告を聞いていた。
「清洲へ逃げる者は、情報を渡している?」
「そのような噂が」
信賢の顔が険しくなる。
「何の情報だ」
「兵の配置や、城内の様子など」
「誰が渡した!」
「分かりませぬ」
信賢が立ち上がった。
「森川か。堀田か。それとも、他にもいるのか!」
誰も答えられない。
だが信賢の中では、答えが勝手に作られ始めていた。
森川が何かを渡した。堀田も何かを渡した。なら、他の者もすでに。
「兵の配置を変える」
家臣たちが顔を上げる。
「今すぐだ」
「しかし」
「清洲に知られている可能性がある。兵糧蔵も移す」
「信賢様、それは」
「黙れ! 何が漏れているか分からぬのだぞ!」
家臣たちは頭を下げた。
だが、その中の何人かは別のことを考えていた。
また変えるのか。
昨日決まったことが今日変わる。そして明日には、また変わるのかもしれない。
信賢が敵を恐れるほど、岩倉城の中から秩序が消えていった。
◇◇◇
その報告は、翌日の夕方には景継のところへ届いた。
「兵の配置を変えた?」
「はい」
弥兵衛が答える。
「兵糧の一部も移したようでございます」
景継は地図を見る。
「どこへ?」
「そこまでは」
「構いません」
景継は少し笑った。
弥兵衛が首を傾げる。
「場所が分からなくてもよいので?」
「はい。動かしたことが大事だからです」
景継は石を一つ持ち上げ、別の場所へ置いた。
「兵を動かす。兵糧を動かす。命令を出す。そのたびに人が動きます」
弥兵衛が少し考えた。
「あ」
「そうです。人が動けば、話す者が増える」
兵糧を移すなら運ぶ者が必要になる。兵を配置し直すなら命令を伝える者が必要になる。守備位置が変われば、周辺の村にも影響が出る。
隠そうとして動かせば、むしろ知る者が増える。
「こちらは岩倉の情報を持っていない。だから信賢様に、自分で情報を作ってもらいます」
弥兵衛が景継を見る。
「若様」
「何です?」
「本当に十三でございますか」
景継は一瞬黙り、それから苦笑した。
「今それを言います?」
「最近、時々分からなくなります」
「私もです」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
◇◇◇
さらに二日後。
岩倉から一人の商人が清洲へやって来た。
名を宗吉という。
岩倉城へ兵糧を納めている男だった。信長の前へ通されるほどの身分ではないため、景継が直接話を聞くことになった。
「岩倉から来たそうですね」
「へ、へい」
宗吉は何度も頭を下げた。
「そんなに緊張しなくても」
「ですが、林道様は……」
「景継でいいですよ」
「それは無理でございます」
景継は諦めた。
「では、何を持ってきたんです?」
宗吉が周囲を見る。
「兵糧でございます」
「兵糧?」
「いえ、物ではなく、場所でございます」
景継の表情が変わる。
「移した先を知っている?」
「一つだけ」
「なぜ?」
「運びましたから」
景継と弥兵衛が顔を見合わせた。
思った通りだった。
信賢が情報漏れを恐れ、兵糧を動かした。その結果、それまで知らなかった商人が兵糧蔵の場所を知った。
そして、その情報を清洲へ持ってきた。
「なぜ教えるんです?」
景継が尋ねる。
宗吉は少し迷った。
「岩倉が負ければ、私どもも困ります」
「だから清洲へ?」
「商いを続けたいのでございます」
景継は少し笑った。
森川と似ている。
忠義ではない。生きるため、家を守るため、商いを守るため。
人は理由があれば動く。
「分かりました。その情報、買います」
宗吉が顔を上げる。
「買う?」
「はい」
「金をくださるので?」
「もちろん。ただし、一つ条件があります」
宗吉の顔が強張る。
「何でございましょう」
「岩倉へ戻ってください」
宗吉の顔色が変わった。
「わ、私を間者に?」
「違います。今まで通り商売してください」
「それだけ?」
「はい。ただ、岩倉で見たものを覚えておいてください」
宗吉は景継を見る。
「それは……間者では」
「こちらから何かを盗めとは言いません」
「ですが」
「見たものを教えてもらうだけです」
宗吉は困った顔をした。
「同じでございます」
景継は少し笑った。
「確かに」
◇◇◇
宗吉が帰った後、景継はすぐに信長へ報告した。
地図の上には、宗吉から聞いた兵糧蔵の位置が記されている。
「ここか」
勝家が指を置く。
「はい」
「焼くか?」
景継は首を横に振った。
「まだです」
「なぜだ」
「今焼けば、情報が漏れたことが分かります。また移されます」
景継は地図を見る。
「今は信賢様に、自分が移した場所は安全だと思ってもらいます」
「そして?」
信長が尋ねる。
景継は別の石を置いた。
「もっと集めてもらいます」
信長が笑った。
「兵糧を?」
「はい」
「一か所に?」
「できれば」
勝家が景継を見る。
「お前、俺より戦が好きではないか」
「違います」
景継は即答した。
「戦わないためにやっています」
「最後は焼くのだろう」
「必要なら」
「同じではないか」
「全然違います」
信長の笑い声が部屋に響いた。
その時だった。
廊下から激しい足音が聞こえた。
一つではない。
何人もの人間が走っている。
笑っていた信長の顔から、一瞬で表情が消えた。
襖が開く。
「申し上げます!」
使者が飛び込んできた。
肩で息をしている。泥だらけだった。
「何事だ」
信長が聞く。
「岩倉勢が動きました!」
部屋の空気が変わった。
勝家が立ち上がる。
「数は!」
「およそ五百!」
「どこへ向かっている」
「南へ! 浮野近くへ兵を進めております!」
景継の目が地図へ落ちた。
浮野。
岩倉と清洲の間。
「目的は?」
長秀が聞く。
「まだ分かりませぬ。ただ、岩倉方に従うか迷っていた周辺の国人へ兵を差し向けたとの話もございます!」
景継の表情が変わった。
なるほど。
信賢は耐えられなくなったのだ。
噂。離反。情報漏れ。誰を信じていいのか分からない。
だから力で押さえることにした。
「まずいですね」
景継が呟く。
勝家が見る。
「何がだ」
「信賢様は、裏切るかもしれない者を兵で押さえようとしている。成功すれば、岩倉は一度まとまります」
恐怖でも、兵でも、従わせることができれば、今まで作ってきた揺らぎが一時的に止まる可能性がある。
「なら」
信長が立ち上がった。
「止めればよい」
その声で、部屋の空気が完全に変わった。
勝家が笑う。
「ようやくか」
長秀も立ち上がる。
信盛がすぐに外へ向かう。
「兵を集めます」
「急げ。岩倉の兵が周辺を押さえる前に出る」
「はっ!」
次々と人が動き始める。
景継だけが、座ったまま地図を見ていた。
兵が動いた。
今まで地図の上で考えてきた。
誰が動く。誰が疑う。誰が裏切る。誰が残る。
すべて石だった。
だが今、その石が人間になる。
◇◇◇
清洲城内に鐘が響いた。
兵が集められる。
武具が運ばれ、馬が引き出される。
さっきまで静かだった城が、一気に戦の顔へ変わった。
景継は廊下を歩いていた。
前から槍を抱えた若い兵が走ってくる。顔が強張っている。別の場所では年配の兵が笑い、その隣ではまだ少年に近い足軽が震える手で紐を結んでいた。
景継の足が少しだけ止まった。
知っている。
この空気を。
かつて何度も嗅いだ。
戦の前、人間はよく喋る者と黙る者に分かれる。笑う者、祈る者、武器を何度も確かめる者、家族のことを話す者。
そして、自分が死ぬとは思っていない者。
景継の中を一瞬だけ記憶が通った。
魏の軍旗。
無数の兵。
馬のいななき。
遠くから聞こえる太鼓。
だが、すぐに消えた。
景継は自分の手を見る。
小さい。
司馬懿の手ではない。
十三歳の、林道景継の手。
「若様」
弥兵衛の声で我に返る。
「大丈夫ですか」
「はい」
そう答えた。
だが胸の奥には、今までとは違う感覚があった。
怖い。
景継は、その感情に気づいた。
不思議だった。
戦を知らないわけではない。
司馬懿として、何度も経験している。何万という兵がぶつかる戦も、敗走も、包囲も、死も知っている。
なのに怖い。
景継はそこで理解した。
記憶が知っていることと、この身体が経験することは同じではない。
今日。
林道景継は、初めて戦場へ行く。
◇◇◇
「景継」
声がした。
振り返る。
信長が立っていた。
すでに戦支度を整えている。
その姿を見た瞬間、景継は分かった。
本当に行くのだ。
「信長様」
「何をしておる」
「考えていました」
「またか」
「悪いですか」
「今は悪い」
信長が景継の前まで来る。
「考えるのは馬上でやれ」
景継が信長を見る。
一瞬、意味が分からなかった。
「……馬上?」
「ああ。準備しろ」
景継は動かない。
「何のです?」
信長が眉を上げた。
「本気で聞いておるのか」
「念のため」
信長の口元が上がった。
そして、景継の肩を軽く叩く。
「来い」
「どこへです」
「決まっておる」
信長は振り返った。
その先では、清洲の兵たちが次々と城門へ集まっている。
槍。
弓。
馬。
旗。
今まで地図の上にしかなかったものが、すべて目の前にある。
信長はその光景を見ながら笑った。
「戦場だ」
景継の胸が鳴った。
「私も?」
「ああ」
「でも」
「景継」
信長が振り返る。
その目には、いつもの冗談めいた色がなかった。
「お前はこれまで、戦の前を見てきた」
噂。
離反。
兵糧。
人の心。
兵がぶつかる前に相手を崩す。
景継がやってきたことだ。
「だが、戦はそれだけでは終わらん」
景継は黙って聞く。
「自分の策の先で、人がどう死ぬか」
景継の表情が変わった。
「見てこい」
それは重い言葉だった。
策が成功した。
敵が混乱した。
城が落ちた。
勝った。
それだけではない。
その間に誰かが死ぬ。
自分が動かした一手で、死ぬ者がいる。
一度目の人生では知っていたはずのこと。
だが今の自分は、まだ一度もこの目で見ていない。
景継はゆっくり頷いた。
「分かりました」
信長が笑う。
「よし」
そして城門へ向かって歩き出す。
景継も、その後を追った。
数歩進んだところで、信長が言った。
「景継」
「はい」
信長は前を向いたまま続けた。
「今日がお前の初陣だ」
景継の足が一瞬だけ止まった。
遠くで出陣を知らせる法螺貝が鳴った。
その音を聞いた瞬間、景継の中で何かが揺れた。
司馬懿として数え切れないほど聞いた、戦の始まりを告げる音。
だが林道景継として聞くのは、初めてだった。
景継は顔を上げる。
城門の向こうには、まだ見たことのない戦場がある。
記憶の中では知っている。
だが、身体は知らない。
頭では分かっている。
だが、心は知らない。
司馬懿仲達の記憶を持つ少年、林道景継。
その二つが、初めて本物の戦場へ向かう。
景継は小さく息を吐いた。
そして信長の後を追い、城門をくぐった。




