第四十四話 兵が動く
明智光秀と別れた翌朝、景継が清洲城へ入ると、城内には昨日までとは違う空気が流れていた。
慌ただしいわけではない。むしろ皆、普段より声を潜めている。
森川定重が岩倉を離れ、その妻子まで無事に清洲へ入ったことは、すでに公になっていた。
当然、その話は岩倉にも届いている。
問題は、その後だった。
「弥兵衛」
「はい」
「何かありました?」
「岩倉から来た者が、もう一人おります」
景継が足を止めた。
「もう?」
「はい。昨日の夜に」
森川に続く二人目。
景継が狙っていた流れではある。それでも、思っていたより早い。
「信長様のところですか」
「すでに話を聞いておられます」
景継はそのまま評定の間へ向かった。
部屋には信長のほか、勝家、長秀、信盛が集まっていた。
その端に、見知らぬ男が座っている。
三十代半ばほどだろう。森川より若く、顔にはまだ緊張が残っていた。
「来たか」
信長が景継を見る。
「はい。その方が?」
「ああ。岩倉から来た」
男が景継へ頭を下げる。
「堀田重信にございます」
「林道景継です」
「存じております」
最近、この返事をされることが増えた。
少し複雑な気分になりながら、景継は座った。
「なぜ清洲へ?」
重信は少し迷った後、答えた。
「森川殿の話を聞きました」
やはり。
「森川殿が清洲へ来て、ご家族も無事だと?」
「はい」
「それで、自分も?」
重信は頷いた。
「岩倉に残るべきか迷っておりました。ですが、森川殿が家ごと受け入れられたと知り……」
そこで言葉を止める。
景継には十分だった。
一人目が二人目を動かした。
狙っていた通りではある。
だが、それだけで喜ぶわけにはいかない。
「岩倉では、森川殿の件をどう見ています?」
重信の顔が少し曇った。
「信賢様は怒っておられます」
「でしょうね」
「ですが、河村殿が抑えております」
景継の目が細くなる。
また河村直綱か。
「何と?」
「森川殿の妻子を取り返すような真似も、家臣を一斉に調べることも許されませんでした。ここで家中を締めつければ、かえって清洲へ人を追いやることになる、と」
勝家が舌打ちする。
「面倒な男だな」
「はい」
景継も素直に認めた。
河村直綱がいなければ、信賢はすでに家臣を疑い、締めつけを始めていたかもしれない。
そうなれば、森川に続く者はもっと出ただろう。
だが河村は、こちらの狙いを理解している。
「簡単には崩させてくれませんね」
信長が笑った。
「嬉しそうだな」
「そう見えます?」
「見える」
「困りましたね」
「何がだ」
「否定しにくいです」
勝家が呆れたように景継を見る。
「お前は敵に厄介な奴がいる方が楽しいのか」
「楽しいわけではありません。ただ、考えることが増えるだけです」
「それを楽しいと言うのではないか」
景継は答えなかった。
堀田重信から話を聞いた後、景継は岩倉周辺の地図を広げた。
河村が家臣の流出を止めようとしている。
なら、同じ方法で離反者を増やそうとしても効きにくい。
景継はしばらく地図を見ていたが、やがて一つの石を置いた。
「人を奪うのは、少し止めましょう」
勝家が眉を上げる。
「せっかく二人目が来たのにか」
「だからです」
「どういう意味だ」
「二人続いたことで、河村殿は次を警戒します。ここで三人目、四人目を無理に作ろうとすれば、こちらの狙いが分かりやすくなる」
長秀が頷く。
「なら次は?」
「情報を動かします」
信長が面白そうに身を乗り出した。
「何を流す」
「嘘ではありません」
景継は堀田重信から聞いた話を書き出した。
河村が信賢を抑えていること。
岩倉内部では清洲への離反を警戒していること。
森川の妻子が清洲へ移ったことで、家臣たちの間に動揺があること。
「これだけで十分です」
勝家が紙を見る。
「何も特別なことは書いておらんぞ」
「はい」
「これをどうする」
「少し形を変えます」
景継は筆を取った。
『岩倉では、清洲へ内通する者を探している』
勝家が眉を寄せる。
「実際には?」
「河村殿が止めています」
「なら嘘ではないか」
「信賢様が探したがっているのは本当です」
景継はさらに書く。
『兵の配置や兵糧の場所が、すでに清洲へ漏れていると疑われている』
長秀が景継を見る。
「それは完全に嘘だろう」
「今は」
「今は?」
景継は少し笑った。
「信賢様が信じて動けば、本当になります」
勝家が怪訝そうな顔をする。
信長だけが先に笑った。
「兵を動かさせるのか」
「はい」
情報が漏れていると思えば、兵の配置を変える。
兵糧が知られていると思えば、蔵を移す。
命令が変われば伝令が走り、荷を動かせば商人や人足が必要になる。
隠そうとして動くほど、知る人間は増える。
「信賢様自身に、こちらが欲しい情報を動かしてもらいます」
勝家が景継をじっと見る。
「やはり悪い顔をするようになったな」
「最近そればかり言われます」
「事実だからだ」
信長が楽しそうに笑った。
噂は、その日のうちに流し始めた。
大げさに広める必要はない。
岩倉へ出入りする商人や行商人、寺社を行き来する者たちの間へ、少しずつ話を落としていく。
――清洲は、すでに岩倉城内の兵の配置を知っているらしい。
――兵糧蔵の場所まで漏れているという。
――岩倉の中に、信長へ情報を渡している者がいる。
どれも証拠はない。
だからこそ、確かめようとすれば動かなければならない。
二日後。
岩倉城で、その噂を聞いた信賢は案の定、怒りを露わにした。
「兵の配置まで漏れているだと?」
「そのような噂が出ております」
「誰が漏らした!」
家臣たちは答えられない。
信賢はすぐに兵の配置を変えようとしたが、その場で河村直綱が止めた。
「お待ちください」
「またか」
「今動けば、清洲へこちらの内情を教えることになります」
信賢が睨む。
「すでに知られているかもしれぬのだぞ」
「それを確かめるために、景継は我らが動くのを待っているのかもしれません」
その一言で、信賢が黙った。
河村は続ける。
「兵糧も動かしてはなりませぬ。今まで通りに」
「なら何もしないのか」
「調べます。ただし、表には出しません」
信賢は不満そうだった。
それでも、今度は河村の言葉に従った。
三日後。
報告を受けた景継は、地図の前で少し唸った。
「動きませんでしたか」
「はい」
弥兵衛が答える。
「兵も兵糧も、大きな動きはないとのことにございます」
「河村殿ですね」
「おそらく」
景継は地図を見たまま、少し笑った。
「読まれました」
「嬉しそうでございますな」
「嬉しくありません」
「そうは見えませぬ」
「弥兵衛まで」
それでも、景継は困ってはいなかった。
動かなかったということは、噂を警戒したということでもある。
河村は景継の狙いを読んだ。
なら次は、河村が止められないところから動かせばいい。
「兵を動かさないなら、人を動かします」
「また離反でございますか」
「いいえ」
景継は首を振った。
「商人です」
数日後。
岩倉城へ兵糧を納めている商人の一人が、清洲へやって来た。
名を宗吉という。
信長へ直接会わせるほどの者ではないため、景継が話を聞くことになった。
「岩倉から来たそうですね」
「へ、へい」
宗吉は何度も頭を下げる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「ですが、林道様は……」
「何です?」
宗吉は答えに困った。
景継は聞かないことにした。
「それで、何を持ってきたんです?」
宗吉は周囲を見回してから声を落とした。
「兵糧のことでございます」
景継の表情が変わる。
「続けてください」
「岩倉が、米を集め始めております」
「どこへ?」
「城内だけではございませぬ。浮野に近い村々へも」
景継は地図を引き寄せた。
「ここですか」
「はい。それから、この辺りにも」
宗吉が指した場所を、景継は一つずつ覚える。
兵糧を移したわけではない。
新たに集めている。
河村は噂に反応して既存の配置を動かすことは止めた。
だが、これから兵を使うための準備までは止めていない。
「いつからです?」
「三日ほど前から」
「量は?」
「普段よりかなり多うございます」
景継の目が細くなった。
「誰かに言われて来たんですか」
「いいえ」
宗吉は首を横に振った。
「商いを続けたいだけでございます」
岩倉が負ければ、取引先を失う。
清洲が勝つなら、今のうちに縁を作っておきたい。
忠義ではない。
自分の暮らしを守るため。
それで十分だった。
「分かりました。その情報は買います」
宗吉が驚いて顔を上げる。
「金を?」
「はい。ただし、今まで通り岩倉と商売してください」
「私を間者に?」
「違います。見たものを覚えておいてほしいだけです」
宗吉が困った顔をする。
「それは間者では?」
景継は少し考えた。
「……確かに」
横にいた弥兵衛が小さく笑った。
宗吉から聞いた話は、すぐに信長へ報告した。
浮野周辺に兵糧が集められている。
しかも量が増えている。
勝家が地図を睨む。
「戦支度か」
「可能性は高いと思います」
「なら先に焼くか?」
景継は首を横に振った。
「まだです」
「なぜだ」
「本当に戦のために集めているなら、兵も動きます。兵糧だけ焼けば、こちらが気づいていると教えることになる」
信長が景継を見る。
「待つか」
「はい」
その言葉を口にした瞬間、景継の胸の奥に懐かしい感覚があった。
急がない。
相手が動くまで待つ。
動けば、必ず何かを見せる。
一度目の人生で何度も繰り返したことだった。
だが今回は、長く待つ必要はなかった。
翌日の午後。
清洲城の廊下を、激しい足音が走った。
評定の間へ飛び込んできた使者は、泥にまみれ、肩で息をしている。
「申し上げます!」
信長が顔を上げた。
「何事だ」
「岩倉勢が動きました!」
勝家が立ち上がる。
「数は!」
「およそ五百!」
「どこへ向かっている」
「南へ! 浮野近くへ兵を進めております!」
景継の視線が地図へ落ちた。
やはり。
宗吉が見た兵糧は、このためだった。
「目的は?」
長秀が尋ねる。
「岩倉方に従うか迷っていた周辺の国人へ、兵を差し向けたとの話にございます!」
景継はすぐに意味を理解した。
信賢は、これ以上離反者を出す前に力で周辺を押さえるつもりなのだ。
河村直綱がどれほど慎重でも、岩倉が何もしないまま人を奪われ続けるわけにはいかない。
「まずいですね」
勝家が景継を見る。
「何がだ」
「成功すれば、一度岩倉がまとまります」
恐怖であれ、兵力であれ、従わせてしまえば離反の流れは止まる。
景継が作ってきた揺らぎも消える可能性がある。
信長が立ち上がった。
「なら、止めればよい」
その一言で部屋の空気が変わった。
勝家が笑う。
「ようやくか」
長秀も立ち上がり、信盛はすぐに廊下へ向かう。
「兵を集めます」
「急げ。岩倉が周辺を押さえる前に出る」
「はっ!」
次々と人が動き始める。
景継だけが、しばらく地図を見ていた。
兵が動いた。
今までは石だった。
誰が動く。
誰が疑う。
誰が裏切る。
誰が残る。
地図の上なら、いくらでも動かせた。
だが今、その石が人間になる。
清洲城内に鐘が響いた。
武具が運ばれ、馬が引き出され、さっきまで静かだった城が一気に戦の顔へ変わっていく。
景継が廊下へ出ると、槍を抱えた若い兵が目の前を走っていった。
顔が強張っている。
別の場所では年配の兵が笑い、その隣ではまだ少年に近い足軽が震える手で紐を結んでいた。
景継の足が止まる。
知っている。
この空気を。
戦の前、人間はよく喋る者と黙る者に分かれる。
笑う者。
祈る者。
武器を何度も確かめる者。
家族の話をする者。
一瞬、別の景色が重なった。
魏の軍旗。
無数の兵。
馬のいななき。
遠くから聞こえる太鼓。
何度も見た景色だった。
それなのに。
景継は自分の手を見た。
小さい。
司馬懿の手ではない。
十三歳の林道景継の手だ。
「若様」
弥兵衛の声で我に返る。
「大丈夫ですか」
「はい」
そう答えながら、景継は胸の奥にある感情に気づいた。
怖い。
戦を知らないわけではない。
司馬懿として、数え切れないほど経験した。
何万という兵がぶつかる戦も、敗走も、包囲も、死も知っている。
それでも怖かった。
そこでようやく分かる。
記憶が知っていることと、この身体が経験することは同じではない。
今日。
林道景継は、初めて戦場へ行く。
「景継」
声に振り返ると、信長が立っていた。
すでに戦支度を整えている。
「何をしておる」
「考えていました」
「またか」
「悪いですか」
「今は悪い」
信長は景継の前まで来た。
「考えるのは馬上でやれ」
景継が目を瞬く。
「……馬上?」
「ああ。準備しろ」
「何のです?」
信長の眉が上がった。
「本気で聞いておるのか」
「念のため」
信長は景継の肩を軽く叩いた。
「来い」
「どこへです」
「決まっておる」
信長の視線の先では、清洲の兵たちが次々と城門へ集まっていた。
槍。
弓。
馬。
旗。
今まで地図の上にしかなかったものが、すべて目の前にある。
「戦場だ」
景継の胸が鳴った。
「私も?」
「ああ」
信長の目から、いつもの冗談めいた色が消える。
「お前はこれまで、戦の前を見てきた」
噂を流し、人を動かし、兵糧を探り、敵の心を揺らす。
兵がぶつかる前に、できるだけ相手を弱らせる。
景継がやってきたことだ。
「だが、戦はそれだけでは終わらん」
信長は城門の向こうを見る。
「自分の策の先で、人がどう死ぬか」
景継の表情が変わった。
「見てこい」
重い言葉だった。
策が成功した。
敵が混乱した。
城が落ちた。
勝った。
それだけではない。
その途中で、人が死ぬ。
自分が動かした一手によって死ぬ者もいる。
司馬懿なら知っている。
だが林道景継は、まだ知らない。
景継はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「よし」
信長は城門へ向かって歩き出した。
景継もその後を追う。
数歩進んだところで、信長が前を向いたまま言った。
「景継」
「はい」
「今日がお前の初陣だ」
遠くで法螺貝が鳴った。
その音を聞いた瞬間、景継の中で何かが揺れる。
司馬懿として数え切れないほど聞いた、戦の始まりを告げる音。
だが、林道景継として聞くのは初めてだった。
記憶では知っている。
身体は知らない。
頭では分かっている。
心は知らない。
司馬懿仲達の記憶を持つ十三歳の少年は、小さく息を吐いた。
そして信長の後を追い、初めて戦場へ向かって城門をくぐった。




