第四十五話 知っている戦場
清洲城の門が開いた。
重い門が左右へ開いていくと、その向こうにはすでに多くの兵が集まっており、槍を持つ者、弓を背負う者、馬を引く者、荷を運ぶ者が忙しく行き交い、怒鳴り声と馬のいななきが入り混じっていた。
やがて法螺貝の低く長い音が響き、それを合図に清洲の軍勢がゆっくりと動き始める。
景継は馬上から、その光景をじっと見ていた。
これまで何度も兵について考えてきた。
百、五百、千。
数字としてなら何度も口にし、地図の上では石を置いてそれを動かし、敵味方の兵数を比べながら策を考えてきた。
しかし今、目の前にいる兵たちは石ではなかった。
槍を担いで歩く一人一人に顔があり、疲れた顔、緊張した顔、笑っている顔、そのすべてが今から戦場へ向かおうとしている。
「どうした」
前を進んでいた信長が振り返った。
「随分と静かだな」
「そうですか?」
「普段なら、もう少し余計なことを言う」
「余計なことって何です」
「そういうところだ」
信長が笑い、景継も少しだけ笑ったが、すぐに前へ視線を戻した。
「怖いか」
突然、信長が聞いた。
景継はすぐには答えなかった。
怖い。
確かに、そう感じている。
だが同時に、この光景をどこか懐かしいとも感じていた。
兵が歩く音、武具が触れ合う音、馬の蹄が地面を叩く感触、戦を前に必要以上に大声で笑う兵、逆に一言も喋らなくなる兵。
そのすべてを知っている。
司馬懿として、何度も見てきた。
だから景継は少し迷った末、素直に答えた。
「怖いですね」
信長が意外そうな顔をする。
「認めるのか」
「怖くないと言ったところで、本当に怖くなくなるわけではありませんから」
「なるほどな」
信長は前へ向き直ると、少し間を置いて続けた。
「なら、その怖さを覚えておけ」
「何をです?」
「怖くなくなった時の方が、人は危うい」
それだけ言うと、信長は再び馬を進めた。
景継はその背中を見ながら、少しだけ意外に思った。
もっと、恐れるなと言われると思っていた。
だが信長は、怖さをなくせとは言わなかった。
景継は手綱を握り直し、その言葉を心の片隅へ残した。
◇◇◇
清洲を離れるにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
城下の家々が減り、その代わりに田畑が広がり始める。
田の間を縫う細い道を、清洲の軍勢が長い列となって進んでいた。
「若様」
隣を進んでいた弥兵衛が声をかけた。
「何です?」
「馬、大丈夫でございますか」
「今さら?」
「いえ、随分と慣れておられるように見えましたので」
景継は自分の手元を見た。
確かに、自分でも不思議なほど自然だった。
前を進む馬との距離を取り、道が狭くなれば速度を落とし、馬が物音に反応すればすぐに抑える。
この時代で馬に乗った経験はあるが、武具を身につけ、大勢の兵の中で軍列を組んで進むのは今日が初めてだった。
それなのに、考えるより先に身体が動いている。
「……妙ですね」
「何がでございます?」
「私にも分かりません」
弥兵衛が首を傾げる。
景継は前へ視線を戻した。
司馬懿の記憶が戻ってから、自分の中では少しずつ変化が起きていた。
昔の出来事を思い出せるだけではない。
経験そのものが、自分の感覚へ溶け込み始めている。
人を見る時も、軍を見る時も、道を見る時も、以前なら考えなければ気づかなかったことが、今は自然に目へ入る。
例えば軍列の中央付近で、一部だけ歩みが遅くなっている。
原因はおそらく荷駄だ。
車輪がぬかるみに取られている。
別の場所では兵の間隔が広がっているが、そこだけ道幅が狭い。
前方の騎馬がわずかに右へ寄ったのは、左側の足場が悪いからだろう。
景継は自分でも気づかないうちに、一人一人ではなく軍全体を流れとして見ていた。
「若様?」
「何です?」
「また難しい顔をしておられます」
「考えていただけです」
「何を?」
景継は少し迷った。
「どうして、こんなに知っているんだろうって」
弥兵衛は何も言わなかった。
景継もそれ以上は話さなかった。
◇◇◇
しばらく進むと、先行していた騎馬が戻ってきた。
「申し上げます!」
信長が馬を止めると、後ろを進んでいた兵たちも次々と足を止めた。
「岩倉勢、およそ五百! 浮野の北側に陣を構えております!」
「五百のままか」
「はっ!」
「こちらに気づいているか」
「すでに物見を出しております。間もなく気づくかと!」
信長が笑った。
「なら隠す必要もない」
横から勝家が馬を進めてくる。
「殿」
「何だ」
「先陣は某に」
「好きにしろ」
「はっ!」
勝家の顔に、明らかな笑みが浮かんだ。
景継はその表情を見ながら、思わず口にする。
「……楽しそうですね」
勝家が振り向く。
「何か言ったか」
「いえ」
「言っただろう」
「戦が好きなんですね」
勝家が豪快に笑った。
「武士が戦を嫌ってどうする」
景継には、まだその感覚がよく分からなかった。
これから人が死ぬ。
自分も死ぬかもしれない。
それなのに勝家は、まるで待ち望んでいた時が来たように嬉しそうだった。
だが、その顔に景継は既視感を覚えた。
一度目の人生にもいた。
戦場へ立つと、普段とは少し顔が変わる者。
張郃。
あの男も、戦の前になるとほんの少し楽しそうな顔をしていた。
景継の脳裏に、馬上の武将と翻る魏の旗が一瞬だけ浮かぶ。
だがすぐに、その記憶を押し戻した。
ここは尾張だ。
魏ではない。
目の前にいるのは張郃ではなく、柴田勝家。
そして自分もまた、司馬懿ではなく林道景継だった。
◇◇◇
やがて、遠くに岩倉勢が見えた。
景継は思わず馬を止めそうになった。
五百。
数字だけなら、たった五百とも言える。
だが実際に見る五百人は、想像していたよりずっと多かった。
槍が並び、旗が風に揺れ、その下に人間がいる。
「これで……五百」
景継が呟く。
信長が横目で見る。
「少ないか?」
「逆です」
「多い?」
「はい」
信長が笑った。
「お前でも、そんなことを言うのだな」
「地図では五百人も、石を五つ置けば終わりますから」
景継は敵陣を見つめた。
「でも、本当に見ると全然違いますね」
あそこにいる一人一人に名前がある。
親がいる者もいれば、妻や子がいる者もいる。
今日の朝、家を出る時に誰かに見送られた者もいるだろう。
そして、そのうちの何人かは、もう帰ることができない。
そう考えた瞬間、景継の胸の奥が少し重くなった。
司馬懿だった頃、自分はいつからこういうことを考えなくなったのだろう。
一万、三万、十万。
兵数が増えるほど、人は数字になった。
死者三千。
損害五千。
いつしか、それだけで考えるようになっていた。
だが三千人が死ぬということは、三千の人生が終わるということだ。
そんな当たり前のことを、景継は十三歳になってもう一度知ろうとしていた。
◇◇◇
清洲勢も陣を整え始めた。
槍兵が前へ出て、その後ろに弓兵が並び、信長の周囲を馬廻りが固める。
景継は少し後方に置かれた。
初陣の十三歳なのだから、当然の扱いだった。
景継自身も異論はない。
むしろ少し離れた場所から見た方が、戦場全体を把握しやすい。
景継は敵を見る。
次に地形を見る。
右には小さな林。
左には田畑が広がり、その間を水路が走っている。
正面には岩倉勢。
その背後には、岩倉へ続く道がある。
景継の中で、自然に一枚の地図が出来上がっていった。
「……ん?」
景継の目が止まる。
何かがおかしい。
「若様?」
弥兵衛が聞く。
「何でもありません」
そう答えたものの、景継の目は敵から離れなかった。
岩倉勢は五百。
こちらが来たことには当然気づいている。
それなのに、動かない。
逃げるでもなく、攻めてくるでもなく、こちらが陣を整えるのを黙って見ている。
何のために。
こちらを待っていたのか。
いや、それならもっと有利な場所を選ぶはずだ。
「弥兵衛」
「はい」
「敵の後ろに道がありますね」
「ございます」
「岩倉へ続く?」
「おそらく」
逃げ道はある。
いつでも退却できる。
それなのに、岩倉勢はそこに残っている。
景継の中に、小さな違和感が残った。
◇◇◇
しばらくして、岩倉側から騎馬が一騎、前へ出てきた。
使者だった。
清洲側からも一人が向かい、両者は軍勢の間で何かを話した。
やがて清洲側の使者が戻る。
「申し上げます!」
「言え」
信長が答えた。
「岩倉方より、これ以上北へ進むなら敵対行為とみなす、と!」
一瞬、静かになった。
そして勝家が笑う。
「すでに敵だろうが!」
周囲から笑い声が起こり、信長も笑った。
だが景継だけは、笑えなかった。
先ほど感じた違和感が、さらに強くなっていた。
敵対行為とみなす。
妙な言葉だった。
すでに兵を出している。
清洲が来ることも予想していたはず。
それなのに、今さら警告する。
戦いたくないのか。
それなら兵を退けばいい。
「時間を……稼いでいる?」
景継が小さく呟く。
「はい?」
弥兵衛が聞く。
「何でもありません」
まだ分からない。
だが、何かがおかしい。
◇◇◇
やがて信長が手を上げた。
「押すぞ」
勝家が待っていたように槍を持つ。
「先陣、参ります!」
兵たちが動き始めた。
槍が揃い、足音が重なり、地面がわずかに震える。
景継はその光景を見つめた。
戦が始まる。
本当に始まる。
岩倉側も弓を構える。
距離が縮まる。
まだ撃たない。
清洲勢が進み、さらに距離が近づく。
景継の心臓が速くなる。
その時、風が吹いた。
岩倉側の旗が大きく揺れる。
景継の目が止まった。
旗。
兵。
列。
「……少ない」
「何がです?」
弥兵衛が聞く。
「奥です」
景継は目を細めた。
前列には確かに兵がいる。
だが奥行きが薄い。
五百という兵が、本当にあそこにすべて揃っているのか。
次第に疑わしく思えてきた。
「弥兵衛」
「はい」
「右の林へ物見を出してください」
「林?」
「はい」
「なぜです?」
景継はすぐには答えられなかった。
明確な理由はない。
ただ、嫌な感じがする。
「お願いします」
弥兵衛は景継の顔を見ると、それ以上は聞かず、一人の騎馬へ命じた。
物見が林へ向かって走っていく。
◇◇◇
その直後だった。
一本の矢が空を飛び、清洲側の前へ落ちた。
次に二本、三本。
そして一気に数が増える。
「盾!」
怒号が響き、清洲の兵たちが一斉に盾を上げた。
次の瞬間、矢の雨が降る。
景継の身体が反射的に縮こまった。
音が違う。
記憶の中で聞く矢の音と、目の前を飛んでいく矢の音はまるで違った。
鋭く、速く、そして怖い。
一本の矢が、一人の兵の首へ刺さった。
兵はその場では倒れず、両手で首を押さえながら何かを言おうとした。
だが声は出ない。
血が指の間から流れ、やがて膝をつき、そのまま地面へ倒れた。
景継は目を逸らせなかった。
「……死んだ」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
人が死ぬことくらい知っている。
司馬懿の記憶には、数え切れないほどの死がある。
だが、目の前の死は違った。
匂いがある。
血の匂い。
汗。
土。
そして音がある。
呻き声。
叫び声。
武器がぶつかる音。
馬の鳴き声。
何より、目の前で死んだ兵には顔があった。
「若様!」
弥兵衛が叫ぶ。
一本の矢が、景継の近くへ落ちた。
「下がって!」
弥兵衛が馬を寄せる。
景継は慌てて手綱を引いた。
手が震えていた。
「大丈夫ですか!」
「……はい」
嘘だった。
大丈夫ではない。
怖い。
逃げたい。
ほんの一瞬、本気でそう思った。
だが不思議なことに、頭だけは異様なほど冷静だった。
矢が飛んでくる方向。
距離。
風。
敵の位置。
味方の動き。
恐怖とは無関係に、情報が次々と入ってくる。
身体は十三歳。
だが頭の中には、戦場を何十年も生き抜いた男の経験がある。
その二つが、同じ自分の中に同時に存在していた。
◇◇◇
前方では、勝家の隊が敵へぶつかった。
「押せぇ!」
勝家の声が響く。
槍と槍がぶつかり、人が倒れ、清洲勢が少しずつ前へ出る。
岩倉勢は押されるように下がり始めた。
「勝っております!」
弥兵衛が言った。
だが景継は答えなかった。
敵の動きを見ていた。
確かに下がっている。
しかし。
「違う」
景継が呟く。
「何がでございます?」
「崩れていない」
「しかし、退いております」
「退いているだけです」
敗走ではない。
少し戦う。
下がる。
また戦う。
そしてまた下がる。
隊列が完全には崩れていない。
勝家が追う。
岩倉勢はさらに下がる。
その動きを見た瞬間、景継の背筋に冷たいものが走った。
「誘っている……」
その時、馬の音が聞こえた。
先ほど林へ送った物見が戻ってきた。
「若様!」
「どうでした!」
「林の中に兵がおります!」
景継の顔が変わる。
「数は!」
「分かりませぬ! ですが旗を伏せ、こちらから見えぬよう隠れております!」
やはり。
景継は右の林を見る。
伏兵。
正面の岩倉勢は、清洲勢を引きつけている。
勝家がさらに前へ出ている。
「まずい」
「若様?」
「信長様は?」
「前へ進まれております!」
景継は前を見る。
信長の旗もかなり前へ進んでいる。
このまま勝家が追えば、林の横を通る。
そこへ伏兵が出る。
「使者を!」
弥兵衛が言う。
「間に合わない」
「では!」
景継は馬の手綱を握った。
「私が行きます」
「なりませぬ!」
弥兵衛が即座に否定した。
「前は戦場です!」
「分かっています!」
「若様は今日が初陣なのですぞ!」
「だから何です!」
思わず声が強くなった。
弥兵衛が黙る。
景継自身も、自分の声に驚いた。
怖い。
行きたくない。
それでも、伏兵がいることを知ってしまった。
それを知りながらここにいる方が、もっと怖かった。
「行きます」
景継はもう一度言った。
そして馬の腹を蹴った。
◇◇◇
馬が走る。
景継の横を兵が通り過ぎ、前からは負傷した兵が次々と戻ってくる。
肩から血を流す男。
腕を押さえる男。
仲間に担がれている男。
「水……」
誰かが小さく言った。
景継は振り向きそうになった。
だが止める。
今は前へ行かなければならない。
信長のところへ。
馬を走らせる間にも、頭は止まらなかった。
伏兵はいつ出る。
今か。
まだか。
敵は何を待っている。
勝家の隊がもっと前へ出ること。
清洲勢がさらに細長く伸びること。
そこまで考えた瞬間、景継は敵の狙いに気づいた。
「勝家様だけじゃない……」
伏兵の目的は、勝家の隊を倒すことだけではない。
前へ出た清洲勢と後方を分断すること。
横から伏兵を入れれば、軍は二つに割れる。
前の兵は戻れない。
後ろの兵は助けられない。
その形が頭の中で完成した瞬間、景継の脳裏に遠い戦場が浮かんだ。
似た形。
似た誘い。
誰との戦だったのかまでは思い出せない。
だが、対処の仕方は分かる。
◇◇◇
「信長様!」
景継が叫んだ。
少し前に、信長の旗が見える。
「信長様!」
もう一度声を上げると、信長が振り返った。
景継の姿を見た瞬間、顔をしかめる。
「何をしに来た!」
「止めてください!」
「何をだ!」
「勝家様を――」
言いかけて、景継は止まった。
違う。
今ここで勝家を退かせれば、敵はどう動く。
追う。
伏兵もそのまま出る。
清洲勢は後退しながら、正面と横から同時に攻められる。
それでは危険だ。
「いや……」
「何だ!」
信長が怒鳴る。
景継は戦場を見る。
考えろ。
敵は、自分たちが伏兵に気づいていることを知らない。
なら、まだこちらには一つ優位がある。
「林に兵がいます!」
景継が叫ぶ。
信長の目が変わった。
「何?」
「物見が確認しました!」
「数は!」
「分かりません!」
信長が右を見る。
林。
当然、外からは何も見えない。
「敵はわざと下がっています! 勝家様を林の前まで誘っている!」
信長はすぐには答えず、前の岩倉勢と勝家の動きを見た。
「証拠は」
信長が聞く。
景継は一瞬黙った。
伏兵がいることは確認した。
だが敵の意図まで証明するものはない。
「ありません」
「なら、勝家を退かせるか?」
景継は答えようとした。
その時、右の林から何十羽もの鳥が一斉に飛び立った。
景継の目が動く。
「来ます」
林の中で何かが動いた。
一本の旗。
さらに二本。
そして次の瞬間、鬨の声が響いた。
「オオオオオオオッ!」
林から兵が飛び出してくる。
数十人。
いや、その後ろにもまだいる。
「伏兵!」
清洲側から叫び声が上がった。
勝家の隊は前へ出ている。
その横腹へ、伏兵が向かっていた。
信長の表情が変わった。
「景継」
「はい!」
「当たったな」
喜んでいる場合ではない。
景継はそう思ったが、口には出さなかった。
信長が続ける。
「どうする」
景継は一瞬、言葉を失った。
「私に聞くんですか」
「お前が見つけた」
「だからって」
「早くしろ」
戦場は待ってくれない。
伏兵が走っている。
勝家はまだ完全には気づいていない。
時間がない。
景継の頭が一気に切り替わった。
右の林。
出口は狭い。
敵は一度に全員出られない。
先頭の兵だけが先に出ており、後続はまだ林の中にいる。
正面の岩倉勢は勝家を誘うために少しずつ下がっている。
つまり今、敵の二つの部隊は離れている。
景継の目が細くなる。
「勝家様を退かせないでください」
信長が景継を見る。
「何?」
「今退けば、敵の思う通りです」
「ならどうする」
景継は林を指した。
「伏兵を出させます」
「もう出ている」
「全部です」
信長の目が細くなる。
景継は続けた。
「敵は、こちらが伏兵に気づいていないと思っています」
「そうだろうな」
「なら、気づいていないふりをします」
信長の口元がわずかに上がった。
「続けろ」
「勝家様には、そのまま正面を押してもらいます。そうすれば伏兵は、勝家様の横腹を狙ってさらに林から出てくる」
「危険だぞ」
「はい」
景継は答えた。
「だから、その前に別の兵を動かします」
「どこへ」
景継は林の出口を指した。
「ここです」
信長がその方向を見る。
「林から出てくる敵は、出口を抜けたところで横へ広がります。でも、全員が外へ出るまでには時間がかかる」
「そこを叩く?」
「違います」
景継は首を振った。
「先頭を少し出します」
「なぜ」
「後ろも出ようとするからです」
敵が勝てると思えば、次々と林の外へ出る。
前へ。
前へ。
その瞬間に出口を横から押さえる。
そうすれば前へ出た伏兵は林へ戻れず、林の中に残った兵は外へ出られない。
「分断するのか」
信長が言った。
景継は頷く。
「敵がこちらにやろうとしたことを、こちらが先にやります」
信長は、しばらく景継を見ていた。
景継の手はまだ震えている。
顔色も決して良くない。
それでも目だけは、戦場から離れていない。
「できるのか」
信長が聞いた。
景継は答えようとした。
できる。
そう言いかけた。
だが止めた。
司馬懿なら、できるかもしれない。
何度も戦場へ立ち、何度も兵を動かした。
だが林道景継は、今日が初めてだ。
だから景継は正直に答えた。
「分かりません」
信長が眉を上げる。
「分からん?」
「初めてなので」
一瞬、信長が黙った。
そして戦場の真ん中で笑った。
「そうだったな」
景継は少しだけむっとする。
「笑わないでください」
「すまん」
まったく悪びれていない。
「で?」
信長が聞く。
「分からんのなら、やめるか?」
景継は戦場を見た。
伏兵。
勝家。
清洲の兵。
岩倉の兵。
そして、地面に倒れている者たち。
先ほど矢を受けた兵の顔が、頭に浮かんだ。
怖い。
それでも。
「やります」
景継は答えた。
信長が笑みを消す。
「なぜだ」
景継は少し考えた。
「ここで何もしなかったら、もっと死ぬからです」
震えている手を強く握る。
信長は何も言わなかった。
ただ景継を見て、それからゆっくりと頷いた。
「なら、やれ」
その言葉を聞いた瞬間、景継の胸が強く鳴った。
本当の戦場で、初めて自分の判断によって兵が動く。
地図の石ではない。
人間が動く。
成功すれば、生きる者がいる。
失敗すれば、死ぬ者がいる。
その重さが、景継の肩へ乗った。
司馬懿仲達なら、何度も背負ってきた重さ。
だが林道景継にとっては、これが初めてだった。
景継はもう一度、戦場を見た。
恐怖は消えていない。
手もまだ震えている。
それでも頭の中では、すでに次の一手が形になっていた。
司馬懿仲達が知る戦場と、林道景継が初めて見る戦場。
その二つが今、初めて同じ場所で重なろうとしていた。




