第四十五話 知っている戦場
清洲城の門が開いた。
重い門が左右へ開くと、その向こうではすでに多くの兵が出陣の支度を整えていた。槍を担ぐ者、弓を背負う者、馬を引く者。荷駄の積み荷を確かめる声に馬のいななきが重なり、朝の城内は落ち着かない熱気に包まれている。
やがて法螺貝の低い音が響き、清洲の軍勢がゆっくりと動き始めた。
景継は馬上から、その光景を見つめていた。
これまで兵については何度も考えてきた。百、五百、千。地図の上に石を置き、敵味方の数を比べ、どう動かせば勝てるのかを考えることなら慣れている。
だが、目の前を歩いている者たちは石ではなかった。
緊張した顔で槍を握る若者がいる。隣の男と大声で笑っている者もいれば、黙ったまま前だけを見ている年嵩の兵もいた。彼らは皆、それぞれの思いを抱えて戦場へ向かおうとしている。
「どうした」
少し前を進んでいた信長が振り返った。
「随分と静かだな」
「そうですか?」
「普段なら、もう少し余計なことを言う」
「余計なこととは?」
「そういうところだ」
信長が笑う。景継も口元を緩めたが、すぐに前へ視線を戻した。
「怖いか」
不意に尋ねられ、景継は答えに迷った。
怖い。その感情は確かにある。
しかし同時に、この騒がしさをどこか懐かしいとも感じていた。兵の足音、馬の蹄、武具が触れ合う音。出陣を前に必要以上に大声で笑う者も、逆に口数がなくなる者も知っている。
司馬懿として、何度も見てきた光景だった。
それでも、記憶の中で戦場を知っていることと、十三歳の身体でそこへ向かうことは同じではない。
「怖いですね」
素直に答えると、信長が意外そうに景継を見た。
「認めるのか」
「怖くないと言えば、矢が避けてくれるわけでもありませんから」
「それもそうだな」
信長は前へ向き直り、少し間を置いて続けた。
「なら、その怖さを忘れるな。怖くなくなった時の方が、人は危うい」
それだけ言って、再び馬を進める。
景継は信長の背を見つめた。恐れるなと言われると思っていたが、信長は恐怖を捨てろとは言わなかった。
その言葉を胸の片隅へ残し、景継も手綱を握り直した。
清洲を離れるにつれ、家々が減って田畑が広がっていく。細い道を軍勢が長い列となって進み、時折、荷駄の車輪がぬかるみに取られて後方が詰まった。
「若様」
隣を進む弥兵衛が声をかけた。
「何です?」
「随分と馬に慣れておられますな」
景継は自分の手元を見る。
確かに、考えるより先に身体が動いていた。前の馬との間隔を取り、道幅が狭くなれば速度を落とす。馬が物音に反応して首を振れば、慌てず手綱を整える。
この時代でも馬には乗ってきたが、武具を身につけ、大軍の中で軍列を組んで進むのは初めてのはずだった。
それなのに、妙に馴染む。
馬だけではない。荷駄の遅れや兵の列が不自然に伸びている場所まで、意識せずとも目へ入ってくる。
司馬懿の記憶が戻ってから、昔の出来事を思い出すだけでなく、その経験まで自分の感覚へ溶け込んでいるようだった。
「何か気になりますか」
弥兵衛が景継の顔を覗く。
「いえ。ただ、どうしてこんなに知っているのかと思いまして」
景継は前を進む軍列へ視線を戻した。
弥兵衛は一瞬だけ景継を見たが、それ以上は聞かなかった。その気遣いが、今はありがたかった。
しばらくすると、先行していた騎馬が戻ってきた。
「申し上げます!」
信長が馬を止める。
「岩倉勢、およそ五百! 浮野の北側に陣を構えております!」
「五百のままか」
「はっ!」
「こちらには気づいておるか」
「すでに物見を出しております。間もなく気づくかと!」
信長の口元が上がった。
「なら、隠れる必要もないな」
そこへ勝家が馬を寄せる。
「殿。先陣は某に」
「好きにしろ」
「はっ!」
勝家の顔に、待ち望んでいた時を迎えたような笑みが浮かんだ。
「……楽しそうですね」
景継が呟くと、勝家が振り返った。
「何か言ったか」
「戦がお好きなんですね」
勝家が豪快に笑う。
「武士が戦を嫌ってどうする!」
景継には、その感覚がまだよく分からなかった。
これから人が死ぬ。自分も死ぬかもしれない。それなのに勝家は生き生きとしている。
ただ、その表情には覚えがあった。
かつての人生にもいた。戦場へ立つと、普段とは違う顔を見せる武将。
張郃。
一瞬だけ、馬上の武将と翻る魏の旗が脳裏に浮かんだ。
景継は目を閉じ、その記憶を押し戻す。
ここは尾張だ。目の前にいるのは張郃ではなく柴田勝家。そして自分もまた、司馬懿ではなく林道景継だった。
やがて、遠くに岩倉勢の姿が見え始めた。
景継は息を呑んだ。
五百。
数字で聞けば、さほど多く感じない。だが実際に五百人の兵が槍を並べて立つ光景は、想像していたものとはまるで違った。
旗が風にはためき、その下を大勢の人間が埋めている。
「これで五百……」
「少ないか?」
横から信長が聞いた。
「逆です。地図なら石を五つ置けば終わりますから」
「お前でも、そんなことを言うのだな」
信長が笑ったが、景継は敵陣から目を離さなかった。
あそこにいる一人一人に名前がある。親がいる者もいれば、妻や子がいる者もいるだろう。そして今日、そのうちの何人かは帰らない。
司馬懿だった頃、自分はいつからそれを考えなくなったのだろう。
死者三千。損害五千。
いつしか、そんな数字だけで戦を見ることに慣れていた。
だが、三千人が死ぬということは、三千の人生が終わるということだ。
十三歳になった景継は、当たり前のはずのその重さを、もう一度感じていた。
清洲勢も陣を整え始めた。
槍兵が前へ出て、その後ろに弓兵が並ぶ。信長の周囲を馬廻りが固め、景継はやや後方へ置かれた。
初陣の十三歳なのだから当然だったし、景継にも異論はない。むしろ少し離れた方が、全体を見渡せる。
景継は敵陣から周囲の地形へ視線を移した。
右には小さな林。左には田畑が広がり、その間を細い水路が走っている。正面に岩倉勢がおり、その後ろには岩倉へ続く道があった。
見ているうちに、地形と兵の配置が頭の中で一枚の絵になっていく。
そこで、わずかな違和感を覚えた。
岩倉勢が動かない。
こちらが来たことには気づいているはずなのに、逃げるでもなく、仕掛けてくるでもなく、清洲勢が陣を整えるのを待っている。
「若様?」
弥兵衛が気づいた。
「何かおかしい」
「敵が?」
景継は右の林を見る。
こちらを待ち構えていたのなら、なぜあの場所なのか。もっと有利な地形を選べなかったのか。それとも、あの場所でなければならない理由があるのか。
答えを決めるには、まだ材料が足りなかった。
しばらくして、岩倉側から一騎の使者が進み出た。
清洲側からも一人が向かい、両軍の間で言葉を交わす。戻ってきた使者が馬上から声を上げた。
「岩倉方より! これ以上北へ進むなら、敵対行為とみなす、と!」
一瞬の沈黙。
次いで勝家が大声で笑った。
「すでに敵だろうが!」
周囲の兵からも笑いが起き、信長まで笑っていた。
だが景継は笑えなかった。
敵対行為とみなす。
今さら、なぜそんな警告をする。
本当に戦いたくないなら退けばいい。だが兵を並べたまま、わざわざ使者を出して時間を使った。
時間。
その言葉が頭に残る。
景継はもう一度、敵陣と右の林を見比べた。
やがて信長が手を上げた。
「押すぞ」
勝家が槍を掲げる。
「先陣、参る!」
兵が動いた。
槍が揃い、幾つもの足音が重なる。地面の震えが馬の脚を通して伝わってきた。
岩倉側でも弓が上がる。
距離が縮まり、景継の心臓が速くなった。
その時、風が吹いた。
岩倉側の旗が大きく揺れ、その奥に並ぶ兵の姿が見える。
景継は目を細めた。
前列には確かに兵がいる。だが、後ろの列が妙に薄い。
五百という兵が、本当にあそこにすべて揃っているのか。
「弥兵衛」
「はい」
「右の林へ物見を出してください」
「林ですか?」
「敵の奥行きが薄いんです。あの林に何もいないか、確かめたい」
弥兵衛は景継の顔を見ると、すぐ近くの騎馬へ命じた。
物見が林へ向かって走っていく。
その直後だった。
一本の矢が空を飛び、清洲勢の前へ突き刺さった。
続いて二本、三本。
次の瞬間、一気に数が増える。
「盾!」
怒号とともに前列の兵が盾を上げ、矢の雨を受け止めた。
景継は反射的に身体を縮めた。
記憶の中にある音とは違った。空気を裂く音が近い。一本一本が、人を殺すために飛んでくる。
すぐ前方で、一人の兵の首へ矢が刺さった。
男はすぐには倒れなかった。
両手で首を押さえ、何かを言おうと口を動かす。しかし声は出ず、指の間から血が流れ、やがて膝をついて地面へ崩れた。
景継は目を逸らせなかった。
つい先ほどまで歩いていた人間が、もう動かない。
血の匂い。汗と土の匂い。呻き声と叫び声。
司馬懿の記憶には、もっと多くの死がある。だが記憶の中の死には、今ほどの匂いも音もなかった。
「若様!」
弥兵衛の声と同時に、一本の矢が景継の近くへ突き刺さった。
「下がってください!」
馬を寄せられ、景継は慌てて手綱を引く。
そこで初めて気づいた。
手が震えている。
「若様、大丈夫ですか!」
「……はい」
答えたものの、大丈夫ではなかった。
怖い。逃げたい。死にたくない。
十三歳の林道景継は、はっきりそう思っている。
それなのに、頭の別の部分は妙なほど冷静だった。
矢の飛んでくる方向、敵との距離、風向き、味方の前進速度。恐怖とは関係なく、情報が次々と目へ入ってくる。
身体は震えているのに、戦場の見方だけは知っていた。
司馬懿仲達として積み重ねたものが、景継の中で働いている。
前方では、勝家の隊が岩倉勢へぶつかった。
「押せぇ!」
勝家の声が戦場を突き抜ける。
槍と槍がぶつかり、兵が倒れる。清洲勢が押し込み、岩倉勢が少しずつ下がり始めた。
「押しております!」
弥兵衛が声を上げる。
景継は答えなかった。
敵の動きがおかしい。
確かに下がっている。だが、崩れてはいない。
一度ぶつかっては少し退き、隊列を整えながら、また下がる。勝家が勢いに乗って追えば、その分だけ岩倉勢は距離を取った。
右の林へ近づくように。
景継の背筋に冷たいものが走った。
「誘っている……」
その時、後方から馬蹄の音が迫ってきた。
先ほど林へ向かった物見だった。
「若様!」
「どうでした!」
「兵がおります! 林の中に兵が隠れております!」
「数は?」
「分かりませぬ! 旗を伏せ、外から見えぬよう潜んでおります!」
景継は右の林を見る。
やはり。
正面の兵は、勝家を引き込むために退いている。
勝家の隊が林の横を通れば、伏兵が横腹へ襲いかかる。
だが、それだけだろうか。
景継は前方から後方まで続く清洲勢を見渡した。
勝家が前へ出るほど、軍列は伸びる。そこへ横から兵を入れれば、前と後ろが切り離される。
「まずい」
景継は手綱を握り直した。
「使者を出します!」
弥兵衛が言う。
景継は勝家と信長の位置を確かめた。二人とも、すでにかなり前へ進んでいる。
「間に合わない。私が行きます」
「なりませぬ!」
弥兵衛が即座に馬を寄せた。
「若様は今日が初陣です。ここから先は矢だけでは済みませぬ!」
「分かっています!」
「分かっておられぬから申しているのです!」
いつになく強い声だった。
景継は弥兵衛を見る。
その顔には怒りではなく、焦りがあった。
自分を心配している。それは分かるし、景継自身も行きたくなかった。
だが、伏兵がいることを知ってしまった。
それを知りながら何もしなければ、もっと多くの兵が死ぬかもしれない。
「行きます」
景継はもう一度言い、馬の腹を蹴った。
弥兵衛もすぐに後を追う。
前へ進むほど、戦場の匂いが濃くなった。
負傷した兵が戻ってくる。肩から血を流す者、腕を押さえて呻く者、仲間に担がれたまま動かない者。
「水……」
すれ違った兵が掠れた声を漏らした。
景継は振り返りそうになったが、前を見た。
今は信長のもとへ行かなければならない。
馬を走らせる間にも、頭は止まらなかった。
伏兵はいつ出るのか。敵は何を待っているのか。
勝家の隊がもっと前へ出ること。
清洲勢がさらに細長く伸びること。
そこまで考えた瞬間、敵の狙いがはっきりした。
伏兵で勝家を討つだけではない。
清洲勢を途中で断ち切り、前後を分けるつもりだ。
その形を理解した瞬間、遠い戦場の光景が脳裏をよぎった。
どこの戦だったのかは思い出せない。ただ、似た誘いを知っている。そして、似た罠を破る方法も。
「信長様!」
景継が叫んだ。
前方で信長が振り返り、景継の姿を見た瞬間、顔をしかめた。
「何をしに来た!」
「止めてください!」
「何をだ!」
「勝家様を……」
言いかけて、景継は口を閉じた。
違う。
今ここで勝家を退かせれば、敵はどう動く。
正面の岩倉勢が追い、伏兵もそのまま飛び出してくる。後退する味方へ、正面と横から敵が押し寄せることになる。
それでは危険だ。
「何だ! はっきり言え!」
信長が怒鳴る。
景継は顔を上げた。
「右の林に伏兵がいます! 物見が確認しました!」
信長の表情が変わる。
「数は!」
「分かりません! ですが、敵は勝家様を林の前まで誘っています!」
信長は右の林を見た後、正面へ視線を戻した。
「証拠は」
景継は一瞬黙った。
伏兵がいることは確認した。だが、敵の狙いまでは推測にすぎない。
「意図を裏づける証拠は、まだありません」
「なら、勝家を退かせるか?」
景継は答えようとした。
その時、右の林から何十羽もの鳥が一斉に飛び立った。
直後、木々の間で旗が上がる。
一本、二本。さらに奥でも揺れた。
鬨の声が響いた。
「オオオオオオッ!」
林から兵が飛び出した。
「伏兵!」
清洲側の兵が叫ぶ。
勝家の隊へ向けて、次々と敵が走り出してくる。
信長が景継を見た。
「当たったな」
景継には、喜んでいる余裕などなかった。
「どうする」
信長が続ける。
景継は一瞬だけ言葉を失った。
「私に聞くんですか」
「お前が見つけた。早くしろ」
戦場は待ってくれない。
景継は右の林を見た。
出口は狭い。伏兵は一度に全軍を出せない。先頭はすでに林を出ているが、後続はまだ木々の中にいる。
そして正面の岩倉勢は、勝家を誘うために距離を取っていた。
敵の二つの部隊は今、離れている。
景継の中で、一つの形ができた。
「勝家様を退かせないでください」
「何?」
「今退けば、敵の思う通りです」
「ならどうする」
景継は林の出口を指した。
「伏兵を、さらに出させます」
「もう出ているぞ」
「残りもです。敵は、こちらが伏兵に気づいていたことを知りません」
信長の目が細くなる。
「続けろ」
「勝家様には、そのまま正面を押してもらいます。そうすれば伏兵は横腹を狙い、さらに林から出てくるはずです」
「危険だぞ」
「はい。だから、その前に別の兵を動かします」
景継は林の出口を指した。
「伏兵の先頭を少し出します。勝てると思えば、後ろも続こうとするでしょう。その時、林の出口を横から押さえるんです」
前へ出た兵は戻れず、林の中に残った兵も外へ出られなくなる。
信長がすぐに意図を理解した。
「分断するのか」
「敵がこちらへ仕掛けたことを、こちらが先にやります」
信長は戦場を見た後、景継へ視線を戻した。
「できるか」
景継の手は、まだ震えていた。
司馬懿なら、できると言ったかもしれない。数え切れないほど戦場に立ち、兵を動かしてきた男なら。
だが林道景継は、今日が初陣だ。
景継は自分の手を見た。
「分かりません」
信長の眉が上がる。
「分からん?」
「初めてなので」
一瞬の沈黙の後、信長が笑った。
「そうだったな」
「笑わないでください」
「すまん」
まったく悪びれていない。
だが、その笑いのおかげで景継の肩からわずかに力が抜けた。
「分からんのなら、やめるか?」
景継は戦場を見る。
倒れている兵がいる。負傷した者が運ばれていく。
少し前まで生きていた一人の兵が、矢を首に受けて死ぬところを見た。
怖い。
今も怖い。
自分の判断が間違えば、今度は一人では済まないかもしれない。
それでも景継は頷いた。
「やります」
「なぜだ」
「ここで何もしなければ、もっと死ぬからです」
信長の笑みが消えた。
景継を見つめた後、短く頷く。
「なら、やれ」
その言葉が、これまでとは違う重さで胸へ落ちた。
今から自分の判断で兵が動く。
地図の上の石ではない。
命令を受けた者には名前があり、家族があり、生きて帰りたいという思いがある。
成功すれば救える者がいる。失敗すれば、自分の判断で死ぬ者がいる。
司馬懿仲達なら、何度も背負った重さ。
林道景継にとっては、初めて背負う重さだった。
景継はもう一度、戦場を見渡した。
右の林。飛び出した伏兵。正面の岩倉勢。追う勝家。そして、動かせる清洲の兵。
恐怖は消えていない。
手もまだ震えている。
それでも頭の中では、すでに次の一手が形になっていた。
司馬懿仲達が知る戦場と、林道景継が初めて見る戦場。
その二つが今、初めて同じ場所で重なろうとしていた。




