第四十六話 初めての命令
「なら、やれ」
信長の言葉を聞いた瞬間、景継の胸が強く鳴った。
これまでにも、自分の考えで人を動かしたことはある。前野家を揺さぶり、岩倉の家臣たちに疑念を抱かせ、噂を利用して離反を促してきた。
だが、今までとは決定的に違う。
これから自分の命令で動くのは、目の前で槍を握り、弓を背負っている兵たちだ。数刻後には、その中の誰が生きているかさえ分からない。
景継は一度大きく息を吸い、右手に広がる林へ目を向けた。
伏兵はすでに外へ出始めている。しかし、まだ全軍ではない。林の出口は狭く、先頭が勢いよく飛び出す一方、後続はその背を追って木々の間を進んでいた。
敵はこちらが伏兵に気づいていないと思っている。
ならば、その思い込みを利用する。
「弓兵を二十、槍兵を三十、右へ回してください。ただし、伏兵へ真っすぐ向かわせないでください」
景継が告げると、信長の近くに控えていた家臣が一瞬動きを止めた。
その視線が何を意味するのか、景継にも分かった。
十三歳の少年。それも今日が初陣だ。その少年が突然、戦場で兵を動かせと命じているのだから、戸惑うのも無理はない。
自分には、まだ命令を聞かせるだけの重みがない。
そう思った時、信長が声を張り上げた。
「聞こえなかったか! 景継の言う通りに動け!」
「はっ!」
家臣は即座に馬を返し、右後方へ駆けていった。
ほどなくして、弓兵と槍兵が動き始める。
自分が言ったから、あの者たちは動いている。
その光景を見た途端、景継の胸へ言いようのない重さが落ちてきた。もし考えが間違っていれば、あの中の誰かが命を落とすかもしれない。
「次はどうする」
信長が尋ねた。
「待ちます」
「まだ待つのか」
「はい。敵がもう少し出てくるまで」
「出しすぎれば勝家が危ないぞ」
「分かっています」
景継は林を見つめたまま答えた。
声は落ち着いている。だが、手綱を握る指先は今も震え、心臓も速く打っていた。戦場が怖いという感覚は、少しも変わっていない。
それでも敵の動きを追い始めると、頭の中だけは不思議なほど静かになる。
敵は何を考えているのか。どこへ向かい、何を待っているのか。
そう考えるうちに、目の前の戦場が少しずつ一枚の盤面へ変わっていく。
「景継」
「はい」
「まだ怖いか」
景継は少し苦笑した。
「かなり怖いですよ」
「そうは見えん」
「見せていないだけです。手なんて、ずっと震えています」
信長は景継の手元を見て、わずかに笑った。
「なら上出来だ」
「何がです?」
「震えていても、頭まで震えておらん」
景継は返事をしなかったが、その言葉は少しだけ胸に残った。
その時、林から飛び出した伏兵の先頭が速度を上げた。
正面では勝家の隊が岩倉勢を押し込みながら前進している。伏兵はその横腹を狙い、一気に走り始めた。
景継の目が変わる。
「今です」
右へ回っていた清洲の兵が、景継の指示を受けてさらに進路を変えた。
弓兵二十、槍兵三十。決して大きな部隊ではないが、景継が狙っているのは、すでに林から飛び出した伏兵ではなかった。
「もっと右へ! 敵の先頭ではなく、林の出口を取ってください!」
命令が伝わり、兵たちが進路を変える。指揮を任された武将にはまだ戸惑いが見えたが、信長の命令を受けている以上、従わない理由はなかった。
「敵を叩かぬのか」
信長が尋ねる。
「まだです」
「目の前を走っておるぞ」
「今、先頭を叩けば、林の中に残っている兵が引っ込みます。それでは半分しか取れません」
信長の目が細くなった。
「できる限り出させるつもりか」
「はい」
景継は林から目を離さなかった。
伏兵の後続が次々と外へ出てくる。敵から見れば、清洲勢の一部が伏兵に気づいて右へ動き始めたようにも見えるだろう。
だが、すでに先頭は勝家の隊へ迫っている。今さら防ごうとしても遅いと考えているはずだ。
「右から来るぞ!」
前方で勝家の怒声が響いた。
勝家の隊の一部が右へ向きを変える。その瞬間を待っていたかのように、正面の岩倉勢が押し返してきた。
勝家は正面と右の二方向を同時に相手にしなければならなくなった。
「景継、これ以上待てば勝家が挟まれるぞ」
信長の声が低くなる。
「分かっています」
景継は唇を噛んだ。
あと少し。
ほんの少しだけ待てば、敵の後続をさらに引き出せる。
しかし、そのわずかな時間にも人は傷つき、命を落とす。頭の中では分かっていたはずのことを、景継は初めて身体で理解していた。
それでも待った。
伏兵の後続が林から出てくる。先頭は勝家へ向かい、後続はそれを追う。出口付近には兵が集まり、林の中に残った者たちは前が詰まって思うように進めなくなっていた。
景継は、その形を見届けた。
「今です! 弓兵、林の出口へ!」
弦の音が重なった。
放たれた矢は勝家へ向かう伏兵ではなく、その後方にある林の出口へ降り注いだ。
最初の矢が、出口付近にいた岩倉兵へ突き刺さる。続く二射目で、外へ出ようとしていた兵が倒れ、その後ろから押していた者たちの足が止まった。
だが、さらに後方の兵には何が起きているのか分からない。前へ出ろという命令だけが伝わっているため、林の奥から押し寄せてくる。
出口付近が一気に混乱した。
「槍兵を前へ! 林の出口を横から押さえてください!」
清洲の槍兵が進む。
外へ出た岩倉兵も、そこでようやく異変に気づいた。
「右にも敵がいるぞ!」
「戻れ!」
「後ろが詰まっている!」
怒鳴り声が飛び交う。
だが、戻ろうにも後方には外へ出ようとする味方がいる。前には勝家の隊、横には清洲の槍兵。
林の外へ出た伏兵と、中に残った伏兵が切り離された。
信長が口元を上げた。
「やったな」
しかし景継は笑わなかった。
外へ出た伏兵の動きが、予想と違っていたからだ。
「……まずい」
「何だ」
「逃げられません」
信長が景継を見る。
「お前が塞いだのだろう」
「塞ぎすぎました」
「何?」
景継は勝家へ向かう伏兵を見つめた。
退路を失ったと気づいた兵たちは、止まるどころか、先ほどまでより激しく勝家の隊へ突っ込み始めていた。
戻れない。
ならば、目の前の敵を倒して進むしかない。
逃げ道を失った兵が、死ぬまで戦おうとしている。
「勝家様が危ない」
信長も前方を見た。
伏兵の勢いは明らかに増していた。正面の岩倉勢と挟み撃ちにされている勝家の隊は、少しずつ動きを制限されている。
「景継。どうする」
景継はすぐに答えられなかった。
自分が作った状況だ。
伏兵を分断するところまではうまくいった。だが、退路を塞げば敵の動きを止められるという考えには、大事なものが抜け落ちていた。
人間は盤上の石ではない。
追い詰められれば、予想とは違う動きをする。
「……間違えました」
景継が言った。
「何をだ」
「出口を全部塞ぐべきではありませんでした。逃げ道を少し残しておくべきだったんです」
信長の目が細くなる。
「逃がすのか。せっかく捕らえた敵を?」
「はい。このままでは、あの者たちは勝家様の隊へ死ぬまで突っ込みます。それなら、生きて逃げられる道を見せた方がいい」
逃げられない者は、死を覚悟して戦う。
だが、逃げられると分かれば、生きて帰りたいと思う者も出てくるはずだ。
「右の槍兵を少し下げてください。全部ではなく、一か所だけ道を開けます」
信長は景継を見つめた。
「本当にいいのだな」
「はい」
信長はすぐに使者を呼んだ。
「右の兵を半歩下げろ! 道を一本作れ!」
命令が伝わり、槍兵が少しだけ下がった。
完全な退路ではない。
それでも岩倉兵から見れば、林へ戻るための道が一本だけ開いた。
最初は誰も気づかなかった。
やがて一人の兵が、その隙間を見つけた。
「あそこが開いている!」
一人が走り、二人目が続く。
そして三人、四人。
死ぬしかないと思っていた者たちの目の前に、生きて帰れる道が現れた。
勝家へ向かっていた兵の一人が振り返り、林へ走り始める。それを見た別の兵も後に続いた。
「林へ戻れ!」
「退け!」
「道があるぞ!」
逃げようとする者が増えるにつれ、先ほどまで死に物狂いで戦っていた伏兵の勢いが弱まっていった。
景継はその変化を見逃さなかった。
「今です」
信長が手を上げる。
「押せ!」
清洲勢が一気に前へ出た。
正面でも勝家の隊が攻勢を強め、岩倉勢を押し返し始める。
「逃がすな! 追え!」
勝家の声が響いた。
景継の表情が変わる。
「待ってください!」
だが、ここからでは声が届かない。
勝家の兵が、逃げ始めた岩倉兵を追おうとしている。
景継は信長を見た。
「深追いはさせないでください」
「ああ」
信長も同じことを考えていたらしい。
すぐに使者を呼んだ。
「勝家へ伝えろ! 追うな、隊列を崩すな!」
使者が馬を走らせる。
景継はようやく息を吐いた。
勝てば追いたくなる。逃げる敵を見れば、さらに討ち取りたくなる。
だが、最も危険なのは勝ったと思った直後だ。
それもまた、一度目の人生で何度も見てきた光景だった。
正面にいた岩倉勢も、伏兵の失敗に気づいた。
清洲勢を横から挟み込むはずだった兵が逆に分断され、今は林へ逃げ戻ろうとしている。
正面の部隊だけで清洲勢を支えるのは難しい。
岩倉側の旗が動いた。
「敵が退きます!」
弥兵衛が声を上げる。
景継は、その動きをじっと見た。
先ほどまでとは明らかに違う。
秩序を保って少しずつ下がっていた時とは違い、今は後ろを振り返る兵が増え、指揮する者の声も揃っていなかった。
「今度は本当に退いています」
信長が尋ねる。
「追うか?」
景継はすぐには答えず、敵が退いていく先を見た。
追えば、さらに敵を削ることはできるだろう。場合によっては岩倉軍へ大きな損害を与えられるかもしれない。
しかし、ここから先は岩倉に近づく。敵の土地であり、地形も完全には把握していない。別の伏兵がいない保証もなかった。
何より、今日の目的を考える必要がある。
岩倉勢を全滅させるために出てきたわけではない。岩倉が周辺の国人たちを兵力で押さえ込み、再び内部をまとめることを防ぐための出陣だった。
その目的は、すでに達している。
「追う必要はありません」
「理由は」
「今日は城を取る戦ではありません。それに、岩倉勢が兵を出し、伏兵まで用意したのに、最後には清洲勢に押し返されて退いた。その事実だけで十分です」
信長が少し笑った。
「噂になるか」
「必ずなります」
実際の戦ほど強い噂はない。
岩倉は五百を動かした。伏兵まで用意した。それでも清洲を押し返せなかった。
その話は、明日には周囲の国人たちへ伝わるだろう。
岩倉は本当に勝てるのか。
清洲についた方がよいのではないか。
今まで景継が噂で作ってきた迷いに、今度は現実の戦が重なる。
「なら、ここまでだ」
信長が命じた。
清洲勢はそれ以上追わず、岩倉軍も北へ退いていった。
敵を全滅させたわけでも、城を取ったわけでもない。
それでも景継には、今日の戦が岩倉を大きく揺らすことが分かっていた。
戦が終わり、景継が馬から降りた時だった。
地面へ足をつけた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「若様!」
弥兵衛がすぐに近づく。
「大丈夫でございますか」
「……たぶん」
「たぶんでは困ります」
景継は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
改めて戦場を見る。
そこには、戦っている最中には見えていなかったものが残っていた。
倒れている兵。動かない者。呻いている者。
味方もいれば、敵もいる。
戦の最中は敵の位置や兵の流ればかり追っていた。終わった途端、それまで盤面の一部として見ていた者たちが、一人の人間へ戻っていくようだった。
少し離れたところでは、清洲兵が地面に座り込み、仲間に腕の傷を縛ってもらっていた。
そのさらに先には、岩倉兵が一人倒れている。
まだ息があった。
一人の清洲兵が槍を手に、その男へ近づいていく。
景継の足が止まった。
「待ってください」
兵が振り返る。
「景継様?」
「その人、まだ生きていますよね」
兵は倒れた岩倉兵を見た。
「敵でございます」
その一言に、景継は返す言葉を失った。
敵。
確かにそうだ。
少し前まで、こちらを殺そうとしていた。味方にも、この男たちによって傷つけられた者がいる。
一度目の人生なら、どうしただろう。
使える捕虜なら生かし、必要がなければ切り捨てたかもしれない。
景継は倒れた男を見つめ、少し考えてから口を開いた。
「連れていってください」
「捕らえるので?」
「はい」
「助けるのですか」
景継は一瞬迷ったが、最後には頷いた。
「生きているなら、まず生かしてください。その後どうするかは、それから決めればいい」
兵は不思議そうに景継を見たものの、やがて頭を下げた。
「はっ」
景継はその場を離れた。
しばらくして、勝家が戻ってきた。
鎧には血がついていたが、本人のものではないらしい。景継の姿を見つけると、大股で近づいてきた。
「景継!」
その声を聞いた瞬間、景継には何を言われるのか分かった。
「はい」
「なぜ追わせなかった!」
「逃げたからです」
「だから追うのだろうが!」
「その先に何があるか分からないでしょう!」
二人の声が大きくなる。
少し離れたところでは、信長が面白そうに見ていた。
「信長様、止めてください」
景継が振り向くと、信長は笑った。
「なぜだ。面白いぞ」
「面白がらないでください」
勝家は構わず続ける。
「あと少し追えば、もっと削れた! 次の戦も楽になった!」
「あと少し追って、伏兵がもう一ついたらどうするんですか」
「そんなものは……」
「ないと証明できますか?」
勝家が言葉を止めた。
景継はそこで少し声を落とした。
「今日の目的は、岩倉勢を全滅させることではありません。岩倉が周辺の家を兵で押さえ込むのを止めることでした」
勝家が黙って景継を見る。
「それは止めました。岩倉は兵を出し、それでも清洲を押し返せずに退いた。それだけで十分です」
景継は戦場へ視線を向けた。
地面に倒れている兵たちが見える。
「それに、今日はもう十分死にました」
勝家の表情がわずかに変わった。
「これ以上死なせてまで、今日ここで取らなければならないものはありません」
勝家はしばらく景継を見つめていたが、やがて鼻を鳴らした。
「甘いな」
景継は少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
「戦場で甘さは死につながるぞ」
「覚えておきます」
勝家はそれ以上何も言わず、背を向けて歩いていった。
夕方。
清洲へ戻る準備が進む中、信長が一人で景継のところへやって来た。
「どうだった」
「何がです?」
「初陣だ」
景継はすぐには答えなかった。
夕陽が戦場を赤く染めている。
「思っていたのと違いました」
「何が」
「全部です」
信長が笑った。
「随分と雑な答えだな」
景継も少しだけ笑う。
「地図の上では、もっと簡単なんです。兵を動かす、敵を誘う、伏兵を止める、追う、退く。言葉にすれば、それだけです」
景継は戦場へ視線を向けた。
「でも、本当に兵を動かすと、その一つ一つの間に人がいる」
自分の命令で五十人が右へ走った。
その五十人が敵と戦い、誰かが傷ついた。もしかすると、まだ知らないところで死んだ者もいるかもしれない。
「重いですね」
景継は自分の手を見た。
もう震えはかなり収まっていた。
「嫌になったか」
信長が尋ねる。
景継は少し考えた。
「嫌です」
信長が意外そうな顔をする。
「随分とはっきり言うな」
「人が死ぬところなんて、好きになれる気がしません」
「なら、戦から離れるか」
景継は戦場を見た。
自分はこれからも信長のそばにいる。尾張が終われば、美濃。その先にも戦はあるだろう。
そして自分自身、天下という言葉を一度は考えてしまった。
戦から完全に離れて生きる道を選ぶつもりはなかった。
「いいえ」
景継は答えた。
「嫌だからこそ、知らないままでいる方が怖いです」
信長は少しだけ目を細めた。
「そうか」
それだけ言うと、先に歩いていった。
景継はその背中を見送り、もう一度戦場を振り返った。
その夜、清洲へ戻った景継は、なかなか眠ることができなかった。
目を閉じると、昼間に見た兵たちの顔が浮かんでくる。
首に矢を受けた男。水を求めていた兵。林の出口へ向かって走った清洲兵。そして逃げ道を見つけた瞬間、必死で林へ戻ろうとした岩倉兵。
自分が命令した結果、あの者たちは動いた。
もし林へ物見を出していなかったら。伏兵に気づくのがもう少し遅かったら。出口を完全に塞いだままにしていたら。
どれほど死者が増えていたのか、景継には分からない。
それ以上に怖かったのは、今日、自分の策が一度失敗しかけたことだった。
伏兵を分断する。そこまでは正しかった。
だが、退路をすべて塞いだことで、敵を死兵に変えてしまった。
頭の中で考えているだけなら、気づかなかったかもしれない。
人は駒ではない。
追い詰められれば、予想とは違う動きをする。
「これが……経験か」
景継は暗い天井を見ながら呟いた。
司馬懿には長い経験がある。何十年も人を見て、軍を見て、戦を生き抜いた。だから今日も、その経験に助けられた。
だが同時に、林道景継として初めて知ったこともある。
一度目の人生の自分は、こうした重さをいつの間にか忘れていたのかもしれない。
人を一人ではなく兵数として見る。死を一つではなく損害として数える。
それができなければ、大軍を率いることなどできなかったのかもしれない。
だが、同じになる必要はない。
二度目の人生なのだから、同じことを繰り返す必要もない。
司馬懿の経験を使う。
けれど、司馬懿と同じ人間になる必要はない。
景継はゆっくりと目を閉じた。
人を動かすなら、その先で何が起きるのかまで見なければならない。策を成功させるだけでは足りず、勝つだけでも足りない。
その勝利のために何を失ったのかまで見て、初めて自分の策だったと言える。
それが正しいのかどうかは、まだ分からない。
それでも初陣を終えた林道景継は、昨日までの自分とは少しだけ違っていた。
司馬懿仲達の経験を借りながら、その経験に飲み込まれるのではなく、二度目の人生で自分なりの戦い方を探し始めていた。




