第四十七話 勝った後に見るもの
初陣から一夜が明けても、景継の耳には戦場の音が残っていた。
目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなかったわけではない。見慣れた天井があり、障子の向こうから朝の光が差し込み、屋敷の外からは普段と変わらない人々の声が聞こえている。
それなのに、景継には遠くでまだ鬨の声が響いているような気がした。
空気を切り裂きながら矢が飛んでくる音や、槍と槍が激しくぶつかり合う音、負傷した兵が掠れた声で水を求める姿まで、目を閉じれば昨日の出来事が次々と鮮明に蘇ってくる。
そして何より、首に矢を受けて倒れた男の顔だけは、どうしても頭から離れてくれなかった。
景継は寝床から身体を起こすと、自分の両手をしばらく見つめた。
もう震えてはいない。
それでも昨日、この手で手綱を握りながら兵を動かす命令を出し、その結果として何人もの人間が傷つき、命を落としたことははっきりと覚えている。
「夢ではないんですよね」
誰に聞かせるでもなく、景継は小さく呟いた。
司馬懿の記憶が戻ってから、過去と現在の境目が曖昧になることは何度もあった。
洛陽の景色が突然頭に浮かび、魏の軍旗が風になびく光景を思い出し、何百年も前に死んだ人間たちの声が、自分自身の記憶として蘇ってくる。
しかし、昨日の戦だけは違った。
あれは司馬懿から受け継いだ記憶ではなく、この時代に生きている林道景継自身が経験したものだった。
自分の目で戦場を見て、自分自身が恐怖を感じ、その中で何をするべきなのかを考えながら兵を動かした。
司馬懿の経験に助けられたことは間違いないが、昨日あの戦場に立っていたのは、他の誰でもない林道景継だった。
景継はしばらく両手を見つめた後、気持ちを切り替えるように息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
その時、廊下の向こうから弥兵衛の声が聞こえてきた。
「若様、起きておられますか」
「起きています」
「清洲より使者が参っております」
景継はその言葉を聞いた瞬間、少しだけ嫌な予感を覚えた。
昨日戦ったばかりだというのに、信長が朝から自分を呼ぶ理由など、一つしか思い浮かばない。
「また何かありました?」
襖が開き、弥兵衛が顔を出したが、その表情には景継が想像していたような緊張はなく、むしろどこか面白そうに笑っている。
「岩倉のことでございます」
「やっぱり。今度は何をしたんです?」
「何もしておりませぬ」
予想していなかった答えに、景継は眉を寄せた。
「何も?」
「はい。だからこそ、信長様がお呼びなのでしょう」
それだけでは意味が分からなかったが、ここで考えていても答えが出るわけではない。
景継は身支度を整えると、弥兵衛とともに清洲城へ向かった。
◇◇◇
清洲城へ入ると、昨日とはまるで違う空気が流れていた。
出陣前は城内の誰もが慌ただしく動き回り、武具を運ぶ者や馬を引く者が廊下の向こうまで行き交っていたが、今日はすでに普段の落ち着きを取り戻しつつある。
ただ、静かになったわけではなかった。
兵たちの表情は明るく、廊下ですれ違う者たちからも昨日の戦について話している声が聞こえてくる。
岩倉を退かせた。
勝家が敵を押し込んだ。
伏兵まで破ったらしい。
わずか一夜しか経っていないというのに、話はすでに少しずつ形を変え始めていた。
景継が伏兵を見つけたことまで知っている者もいれば、信長が最初から敵の策をすべて見抜いていたという話になっている者もいる。
中には、勝家が一人で百人もの敵を倒したという話まで広まっていた。
「百人はさすがに無理でしょう」
景継が呟くと、隣を歩いていた弥兵衛が小さく笑った。
「噂とはそういうものでございましょう」
「昨日までその噂を利用していた側なので、あまり文句も言えませんけどね」
景継は苦笑しながら評定の間へ向かった。
部屋へ入ると、信長、勝家、長秀、信盛がすでに揃っており、景継の姿を見た勝家が少しだけ顔をしかめた。
「来たか」
「何です、その顔」
「別に何でもない」
「昨日、追わせなかったことをまだ怒っています?」
「怒っておらん」
「怒ってますね」
「うるさい」
二人のやり取りを聞いていた信長が、堪えきれないように笑った。
「朝から元気だな」
景継は自分の席へ腰を下ろしながら、少し呆れたように答えた。
「昨日初陣を終えたばかりなんですから、今日はもう少しゆっくりさせてもらえると思っていました」
「昨日の働きを見た後では、そうもいかん」
景継は返事に困った。
自分自身でさえ、昨日の戦場で見せた判断のどこまでが司馬懿の経験で、どこからが今の自分自身によるものなのか、まだ完全には整理できていない。
信長は笑いを収めると、中央に広げられた地図の上へ一通の書状を置いた。
「前野からだ」
その名前を聞いた瞬間、景継の表情が変わった。
「何と?」
「読め」
景継は書状を受け取り、ゆっくりと目を通した。
昨日の戦については、すでに前野家にも知らせが届いていた。
それだけではない。
前野家は岩倉側から兵を求められていたにもかかわらず、その要求に応じるつもりはないと書いている。
最後まで読み終えた景継は、書状を静かに置いた。
「決めましたか」
長秀が頷いた。
「そのようだ」
前野家はこれまで迷っていた。
岩倉から完全に離れるわけでもなく、かといって清洲へ完全につくわけでもなく、両方を見ながら最後に生き残れる側を探していた。
しかし昨日の戦で、その天秤が大きく清洲へ傾いた。
「他にもある」
信長がそう言うと、今度は長秀が三通の書状を景継の前へ置いた。
景継は一通ずつ手に取り、書かれている内容を確認していった。
岩倉への兵の提供を減らしたい。
清洲との敵対を望んでいない。
信長と直接話をする機会が欲しい。
書き方こそ違っているが、どの書状が意味していることも同じだった。
岩倉から離れようとしている。
「昨日まで、ここまで露骨なことを言ってくる家はありませんでしたよね」
景継が尋ねると、信盛が頷いた。
「戦の前までは、清洲と岩倉のどちらが勝つのか見定めている者が多かったからな」
「それが昨日の戦で、答えが出たと思い始めた」
「そういうことだ」
景継は目の前に並べられた書状を見つめた。
昨日の戦で敵を全滅させたわけでもなければ、岩倉城を奪ったわけでもない。
戦場だけを見れば、決定的な勝利と呼べるほどのものではなかった。
しかし、その戦場から少し離れた場所では、すでに昨日の勝利が別の形となって広がり始めている。
「だから戦って面白い」
勝家が満足そうに言った。
景継は思わず横を見る。
「何です?」
「一度勝てば、昨日まで迷っていた連中が勝手にこちらへ寄ってくる。これほど分かりやすいものはない」
「それは戦が面白い理由ではないでしょう」
「俺にとっては同じだ」
「全然違います」
また言い合いを始めた二人を見て、信長が呆れたように笑った。
「お前たちは昨日からそればかりだな」
◇◇◇
景継はもう一度、目の前に並んだ書状へ目を落とした。
三家。
前野を入れれば四家。
さらに森川、堀田と、岩倉の中から人が抜け、周囲にいる国人たちも少しずつ信賢から離れ始めている。
「信賢様は?」
景継が尋ねると、長秀が別の報告書を差し出した。
「昨日の夜、軍を戻した後ですぐに評定を開いたらしい」
「内容は?」
「詳しくは分からん。ただ、かなり荒れたようだ」
景継は報告書を見ながら少し考えた。
「負けた責任を、誰かに求め始めましたか」
長秀が景継を見る。
「そこまで分かるのか」
「分かるというより、今までの信賢様を見ていると、そう考える可能性が高いと思っただけです」
負けた理由を考える。
伏兵がなぜ見破られたのかを考える。
その時、自分の判断そのものが間違っていた可能性を考えられない人間は、別のところに原因を探し始める。
誰かが情報を漏らしたのではないか。
清洲に内通している者がいるのではないか。
あるいは、軍を率いた誰かが失敗したのではないか。
今頃、勝った清洲よりも負けた岩倉の方が、はるかに忙しいのかもしれない。
「また何か仕掛けるか?」
信長が尋ねる。
景継は少し考えてから、ゆっくり首を横に振った。
「いえ、今は何もしなくていいと思います」
勝家が意外そうな顔をした。
「何? せっかく崩れ始めたのだぞ」
「だからです。今まで私たちは、岩倉の人たちに互いを疑う理由を外から作ってきました。でも、昨日からは少し状況が変わっています」
「何が変わった」
「これからは、信賢様自身が疑う理由を作ってくれるかもしれません」
景継は地図上の岩倉城へ指を置きながら、一つずつ説明していった。
昨日、信賢は林に伏兵を置いた。
その伏兵は清洲側に見破られ、出た直後に狙われた。
ならば、作戦を漏らした人間がいるのではないかと考える。
軍を出して負けて戻れば、今度はその責任を誰が負うのかという話になる。
さらに周辺の国人まで岩倉から離れ始めれば、誰が清洲と通じているのかを疑い始める。
「こちらから何かしなくても、信賢様は自分で犯人を探し始める可能性があります」
長秀が頷いた。
「だが、本当に情報を漏らした者がいるとは限らん」
「はい。今回の伏兵については、少なくとも私たちは誰かから聞いたわけではありません」
景継が伏兵を見つけられたのは、戦場で覚えた違和感から林へ物見を出したからだった。
内部から情報が漏れたわけではない。
しかし、その事実を信賢は知らない。
「誰かが漏らしたと思えば家臣を疑い、疑われた家臣は今まで以上に岩倉から離れたくなる。そうなれば、本当に離反する者まで出てくるかもしれません」
「だから、今は待つのか」
信盛が尋ねる。
「はい。昨日あれだけ戦ったんですから、一日くらい休みながら様子を見てもいいでしょう」
勝家が腕を組んだ。
「一日でよいのか」
「そこを気にするんですか?」
その返事に、部屋の中から小さな笑いが起こった。
◇◇◇
同じ頃、岩倉城では景継が想像していたことが、少しずつ現実になろうとしていた。
「なぜ伏兵が見破られた!」
信賢の怒声が部屋の外まで響き渡り、その場に集められた家臣たちは誰一人として顔を上げようとしなかった。
昨日、信賢は五百の兵を出し、正面に兵を置いたうえで林の中へ伏兵を隠した。
清洲勢を正面の部隊で引き込み、機を見て伏兵を側面からぶつける。
策そのものは悪くなかったと、少なくとも信賢自身は今でも考えている。
それなのに伏兵は出た直後から狙われ、林の出口を押さえられたことで軍は分断され、最後には撤退を余儀なくされた。
「誰が清洲へ知らせた」
誰も答えようとしない。
「伏兵のことを知っていた者は何人いる!」
一人の家臣が恐る恐る顔を上げた。
「軍議に出た者と、伏兵を率いた者たちにございますので、数十名ほどは知っていたかと……」
信賢の顔が歪んだ。
数十人もいるのであれば、その全員を疑うことなどできない。
しかし、一度「誰かが漏らした」と考えてしまえば、今度は誰も疑わずにいることもできなかった。
「森川ではございませぬか」
誰かが小さく口にした。
信賢がすぐに振り向く。
「森川?」
「清洲へ逃げたと噂されております」
「だが森川が消えたのは、作戦を決める前だ」
「では、堀田では」
「堀田も知らぬ」
別の家臣がそこへ口を挟んだ。
「ならば、今も城内にいる者の中に、清洲と通じている者がいるのでは……」
その一言を最後に、部屋の中が静まり返った。
誰も「この中に裏切り者がいる」と断言したわけではない。
それでも、その場にいた全員の頭には同じ考えが浮かんでいた。
今もこの城の中に、清洲と密かにつながっている人間がいるのではないか。
家臣たちは無意識のうちに互いの顔を見た。
ほんの一瞬のことだった。
しかし信賢は、その小さな動きを見逃さなかった。
「……やはりいるのか」
「信賢様?」
「この中に、清洲へ情報を流している者がいるのか」
「そのようなことはございませぬ!」
一人が慌てて否定する。
「ならば、なぜ伏兵が見破られた!」
信賢が怒鳴りつけても、答えられる者はいなかった。
本当の理由は、景継が戦場で林の様子に違和感を覚え、自分の判断で物見を送り込んだからにすぎない。
しかし岩倉にいる者たちは、その事実を誰一人として知らない。
答えが分からない以上、人は自分たちが理解できる別の答えを作ろうとする。
そして一度生まれた疑いは、これまで同じ主君に仕えてきた家臣たちの間へ、静かに広がり始めていた。
◇◇◇
その日の午後、景継は清洲城内の一室で、昨日捕らえた岩倉兵と向き合っていた。
戦場でまだ息のあった男を助けるよう命じたことを、景継自身も忘れてはいなかった。
男は二十代半ばほどで、肩に深い傷を負っている。治療は受けているものの顔色はまだ悪く、景継を見る目にも強い警戒が残っていた。
「名前は?」
景継が尋ねると、男は警戒したまま答えた。
「答えなければ殺すか」
「殺しませんよ」
「信用できぬ」
「昨日殺さなかったのに、今日になって殺す意味があります?」
男は返す言葉が見つからなかったのか、そのまま黙り込んだ。
景継は少し困ったように笑った。
「別に岩倉の秘密を全部聞こうとしているわけではありません。ただ、一つ聞いてみたいことがあるんです」
「何を聞く」
景継は少し考えてから、昨日からずっと気になっていたことを口にした。
「昨日、逃げ道が開いた時、どう思いました?」
男の目がわずかに動いた。
「……何?」
「林へ戻れる道ができた時です。それまでは私たちが退路を塞いでいましたよね」
男はしばらく何も言わなかった。
景継も答えを急かさず、そのまま待った。
やがて男は、昨日の戦場を思い出すように目を伏せながら、小さな声で答えた。
「助かったと思った」
「その前は?」
今度は、先ほどよりも長い沈黙が続いた。
「……死ぬと思った」
景継は静かに頷いた。
「だから戦ったんですか?」
男が顔を上げ、景継を見る。
「他に何ができる。前へ行けば敵がおり、後ろへ戻る道もないのなら、戦うしかないだろう」
「逃げ道がなかったから」
「そうだ」
その答えを聞いた瞬間、昨日から景継の中にあった感覚が、ようやくはっきりとした言葉になった。
これは司馬懿の経験から導き出した答えではない。
昨日、林道景継自身が初めて戦場へ立ち、その場で失敗しながら学んだことだった。
人は死ぬしかないと思えば、最後まで戦おうとする。
だが、そこに生きる道が見えれば、その道を選びたくなる。
そして、それは戦場だけの話ではないのかもしれない。
「岩倉も同じか……」
景継が小さく呟くと、男が眉を寄せた。
「何?」
「いえ、少し考えていただけです」
岩倉に残っている家臣たちも、他に生きる道がなければ信賢に従うしかない。
どれだけ不満を持ち、どれだけ疑われようとも、岩倉を離れた先で自分や家族が生きていけないと思っている限り、そこへ留まる者は多いだろう。
しかし今は違う。
森川が岩倉を離れ、堀田も動き、周辺の国人まで清洲へ傾き始めている。
もし清洲へ来ても生きられると分かれば、岩倉に残って死ぬまで戦う理由そのものを失わせることができるかもしれない。
「そういうことか」
景継の口元がわずかに上がった。
男はその表情を不気味そうに見た。
「何を考えている」
「昨日、あなたたちから教えてもらったことです」
「我らが?」
「はい。戦場で教えてもらいました」
景継はそう言って立ち上がった。
「ありがとうございました」
「待て」
男に呼び止められ、景継は振り返った。
「俺をどうする」
「傷が治ったら決めます」
「岩倉へ返すのか」
景継は少し考えた後、逆に尋ねた。
「帰りたいですか?」
男は答えなかった。
しかし、その沈黙だけで景継には十分だった。
◇◇◇
夕方になると、景継は再び信長のところへ向かった。
部屋では信長が一人で書状を読んでおり、景継が入ってくると顔だけを上げた。
「何だ」
「一つ思いつきました」
「休むのではなかったのか」
「そのつもりだったんですが、思いついたものは仕方ないでしょう」
信長は呆れたように笑い、景継が地図の前へ座るのを見た。
「それで、今度は何をするつもりだ」
「岩倉の人たちに、逃げ道をもっとはっきり見せたいと思います」
信長が眉を上げた。
「また離反を誘うのか」
「似ていますが、少し違います。今度はこちらへ来た後のことまで、はっきり見せるんです」
景継は地図上にある岩倉周辺の国人たちを指した。
「清洲へ降った家については、領地をすべて奪わないと約束してもらえませんか」
信長の目が変わった。
「全部残せというのか?」
「いいえ。何をしても許すという意味でもありません。ただ、清洲へ降れば家も領地もすべて失うと思わせないことが重要です」
岩倉に残れば、負けた時にすべてを失うかもしれない。
しかし清洲へ降っても、信長にすべてを奪われるかもしれない。
どちらを選んでも同じように危険だと思っている限り、人は今いる場所に残ることを選びやすい。
「昨日、私が伏兵の退路を完全に塞いだ時と同じです。逃げる場所がないと思わせれば、相手は死ぬまで戦おうとします」
信長が景継を見る。
「ならば、逃げる場所を作る」
「はい。清洲へ来ても家は残る。領地についても一定程度は認められる。命も取られない。それが分かれば、岩倉のために最後まで戦わなければならない理由を一つ減らせます」
信長はしばらく黙ったまま地図を見つめていた。
景継はその表情を見ながら尋ねた。
「甘いと思いますか?」
信長は首を横に振った。
「いや。城を力ずくで取るより安い」
景継はその答えを聞いて少し笑った。
「そういう考え方、好きです」
「お前に言われたくない」
二人がわずかに笑った、その時だった。
廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえ、続いて声が響いた。
「申し上げます!」
信長と景継が同時に顔を向ける。
「入れ」
襖が開き、使者が部屋へ入ってきた。
かなり急いできたのだろう。息を切らし、額には汗が浮かんでいる。
「岩倉より知らせにございます」
景継の表情が変わった。
「また誰かがこちらへ?」
使者は首を横に振った。
「いえ、違います。織田信賢殿が、城内の家臣二名を捕らえたとのことでございます」
その報告を聞いた瞬間、先ほどまでの穏やかな空気が消えた。
信長がすぐに尋ねる。
「理由は」
「清洲への内通を疑われたとのこと」
景継はゆっくり目を閉じた。
予想していたことが、思っていたより早く始まった。
「二人だけですか」
「今のところは。ただ、それを受けて岩倉方の家臣数名が城を離れようとしているとの話もございます」
信長の口元がわずかに上がった。
しかし景継は笑わなかった。
これまで自分たちが外から作ってきた疑いに、昨日の敗北と伏兵を見破られた事実が加わり、今度は信賢自身がその疑いをさらに大きくしようとしている。
「信長様」
「何だ」
「待つのは、そろそろ終わりかもしれません」
信長が景継を見る。
「どういう意味だ」
景継は地図の上に置かれた岩倉城の駒を見つめながら、これまでの流れを頭の中で整理した。
清洲はこれまで、岩倉を外側から少しずつ削ってきた。
周囲の国人を迷わせ、森川や堀田のような家臣を離反させ、信賢自身にも味方を疑わせてきた。
しかし、ここから先は違う。
これまでは清洲側が働きかけなければ動かなかったものが、これからは岩倉の内側だけで動き始める可能性がある。
「城はまだありますし、兵も残っています。信賢様も健在ですから、今すぐ岩倉がなくなるわけではありません」
景継はそこで一度言葉を止め、岩倉城の駒へ指を置いた。
「でも、中にいる人たちが『ここに残っても生き残れない』と思い始めたら、城壁が残っていても、その城を守ろうとする人間はいなくなります」
信長の目が細くなった。
「城が城でなくなる、か」
「はい。まだそこまで行ってはいませんが、その入口には立ったと思います」
信長はしばらく岩倉城の駒を見つめていたが、やがてゆっくり立ち上がると、清洲側を示す一つの駒を手に取った。
そして、その駒を岩倉城のすぐ近くへ置いた。
「景継」
「はい」
「次は待たんぞ」
景継はその言葉の意味を理解すると、少しだけ表情を引き締めた。
「分かっています。次に動く時は、昨日のような小競り合いでは済まないでしょうから」
初陣は終わった。
しかし、景継が昨日の戦場で学んだことは、そこで終わるものではなかった。
敵を倒すことだけが戦ではない。
一度の勝利によって周囲の国人が動き、敗れた側では疑いが生まれ、それまで主君に従っていた人間たちが自分の生き残る道を探し始める。
戦場で振るわれた槍や放たれた矢が止まった後にも、勝敗は別の場所で広がり続けている。
そして今、その流れは岩倉城の内側にまで届こうとしていた。
景継は地図の上に並んだ二つの駒を見つめた。
清洲と岩倉。
長く尾張を二つに分けてきた最後の大きな壁を前に、これまで積み重ねてきた策のすべてが、ようやく一つの決着へ向かって動き始めていた。




