第四十七話 勝った後に見るもの
初陣から一夜が明けても、景継の耳には戦場の音が残っていた。
障子の向こうから朝日が差し込み、屋敷の外ではいつもと変わらぬ声がする。それなのに目を閉じれば、矢が空気を裂く音も、負傷兵が水を求める掠れた声も蘇った。とりわけ、首に矢を受けて倒れた男の顔が頭から離れない。
景継は寝床から起き上がり、両手を見つめた。もう震えてはいない。だが昨日、この手で手綱を握り、自分の命令で兵を動かした。あの五十人の中にも、傷ついた者がいるかもしれない。林の出口へ向かった兵の顔を、一人ずつ思い出せるわけではなかった。それがかえって恐ろしい。命令を出す時には人数も位置も分かっていたのに、戦が終わった後、誰が無事に帰ったのかさえ知らないのだ。
「夢ではないんですよね」
司馬懿の記憶が戻ってから、洛陽の街並みや魏の軍旗が突然浮かぶことはあった。しかし昨日の戦は、受け継いだ記憶ではない。恐怖に身体を震わせ、策を誤り、そこから立て直したのは、林道景継自身だった。
景継が息を吐いて立ち上がると、廊下から弥兵衛の声がした。
「若様、清洲より使者が参っております」
「また何かありました?」
襖から顔を出した弥兵衛は、意外にも笑っていた。
「岩倉のことでございます」
「やっぱり。今度は何をしたんです?」
「何もしておりませぬ。だからこそ、信長様がお呼びなのでしょう」
意味を測りかねたまま、景継は身支度を整え、弥兵衛と清洲城へ向かった。
城内は昨日の慌ただしさが嘘のように落ち着いていたが、廊下ですれ違う兵たちは明るい顔で戦の話をしている。勝家が敵を押し込んだ、伏兵を破った、信長は初めからすべて見抜いていた。中には勝家が一人で百人を討ち取ったという話まであった。
「百人はさすがに無理でしょう」
「噂とはそういうものでございましょう」
「今まで利用してきた側なので、文句も言えませんけどね」
景継が苦笑して評定の間へ入ると、信長、勝家、長秀、信盛が揃っていた。昨日、あれほど騒がしかった戦場に立っていた者たちが、今はいつものように座っている。その光景に景継はわずかな安堵を覚えたが、勝家と目が合った途端、そんな気持ちも吹き飛んだ。勝家が景継を見て顔をしかめる。
「来たか」
「昨日、追わせなかったことをまだ怒っています?」
「怒っておらん」
「そうは見えませんけど」
「うるさい」
信長が声を上げて笑った。
「朝から元気だな」
「昨日初陣を終えたばかりなんですから、今日はもう少し休ませてもらえると思っていました」
「昨日の働きを見た後では、そうもいかん」
信長は中央の地図へ一通の書状を置いた。
「前野からだ」
景継の表情が変わる。
「何と?」
「読め」
書状には、昨日の戦についてすでに知らせを受けたこと、そして岩倉から兵を求められても、その要求に応じるつもりはないことが記されていた。
最後まで読んだ景継は、静かに書状を置いた。
「決めましたか」
長秀が頷く。
「そのようだ」
前野家はこれまで清洲と岩倉の間で揺れていた。どちらへ完全につくこともせず、最後に生き残れる側を見定めようとしていたのだ。
その天秤が、昨日の戦で清洲へ大きく傾いた。
「他にもある」
長秀が三通の書状を差し出した。
岩倉への兵の提供を減らしたい。清洲との敵対を望んでいない。信長と直接話す機会が欲しい。
書き方は違っても、意味するところは同じだった。
岩倉から離れようとしている。
「昨日まで、ここまで露骨なことを言ってくる家はありませんでしたよね」
「戦の前までは、清洲と岩倉のどちらが勝つか見定めていた者が多かったからな」
信盛の言葉に、景継は並べられた書状を見つめた。
昨日、岩倉軍を全滅させたわけではない。岩倉城を落としたわけでもない。それでも、たった一度の勝利が戦場の外で別の意味を持ち始めている。
「だから戦は面白い」
満足そうな勝家に、景継が顔を向けた。
「何です?」
「一度勝てば、昨日まで迷っていた連中が勝手にこちらへ寄ってくる。これほど分かりやすいものはない」
「それは戦が面白い理由ではないでしょう」
「俺にとっては同じだ」
「全然違います」
信長が呆れたように笑った。
「お前たちは昨日からそればかりだな」
景継はもう一度、書状へ目を落とした。
前野を含めて四家。さらに森川、堀田と岩倉の内側からも人が抜け、周辺の国人まで少しずつ信賢から離れ始めている。
「信賢様は?」
長秀が別の報告書を差し出した。
「昨夜、軍を戻してすぐに評定を開いたらしい。かなり荒れたようだ」
景継は少し考えた。
「負けた責任を、誰かに求め始めましたか」
「そこまで分かるのか」
「今までの信賢様を見ていれば、そうなる可能性は高いかと」
伏兵はなぜ見破られたのか。自分の判断が間違っていたと考えられなければ、別の原因を探す。
誰かが情報を漏らしたのではないか。清洲に内通している者がいるのではないか。
「また何か仕掛けるか?」
信長に問われ、景継は首を横に振った。
「いえ。今は何もしなくていいと思います」
「何? せっかく崩れ始めたのだぞ」
勝家が口を挟む。
「だからです。今までは私たちが岩倉の人たちに互いを疑う理由を作ってきました。でも、これからは信賢様自身が作ってくれるかもしれません」
昨日の伏兵は清洲側に見破られた。
ならば信賢は、作戦を漏らした者がいると疑うかもしれない。敗戦の責任まで加われば、疑いはさらに広がる。
「今回の伏兵について、私たちは誰かから聞いたわけではありません。ですが信賢様はそれを知りません。誰かが漏らしたと思えば家臣を疑う。疑われた者は岩倉を離れたくなる。そうなれば、本当に離反する者が出てくるかもしれません」
「だから待つのか」
「はい。昨日あれだけ戦ったんです。一日くらい休みながら様子を見てもいいでしょう」
勝家が腕を組む。
「一日でよいのか」
「そこを気にするんですか?」
部屋に小さな笑いが起こった。
同じ頃、岩倉城では景継が想像したことが現実になり始めていた。
「なぜ伏兵が見破られた!」
信賢の怒声が響き、集められた家臣たちは誰一人として顔を上げようとしなかった。
正面の兵で清洲勢を引き込み、林の伏兵を側面からぶつける。策そのものは悪くなかったと、信賢は今でも考えている。
それなのに伏兵は出た直後から狙われ、林の出口を押さえられて分断された。
「誰が清洲へ知らせた!」
誰も答えない。
「伏兵のことを知っていた者は何人いる!」
一人の家臣が恐る恐る顔を上げた。
「軍議に出た者と、伏兵を率いた者たち……数十名ほどは知っていたかと」
信賢の顔が歪んだ。
「森川ではございませぬか」
誰かが口にする。
「森川が消えたのは作戦を決める前だ」
「では、堀田では」
「堀田も知らぬ」
別の家臣が小さく言った。
「ならば……今も城内に、清洲と通じている者がいるのでは」
部屋が静まり返った。
その場にいた家臣たちが、無意識に互いの顔を見る。
信賢は、その小さな動きを見逃さなかった。
「……やはりいるのか」
「信賢様?」
「この中に、清洲へ情報を流している者がいるのか!」
「そのようなことはございませぬ!」
「ならば、なぜ伏兵が見破られた!」
誰も答えられない。
本当は、景継が林に違和感を覚え、自分の判断で物見を送っただけだった。しかし岩倉側には、それを知る術がない。
答えの見えない疑いだけが、家臣たちの間へ静かに広がり始めていた。
その空気を危険だと見ていたのが、河村直綱だった。
家臣たちが下がった後も一人その場に残り、信賢へ向き直る。
「殿。一つ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「内通する者を探すこと自体は必要かもしれませぬ。ですが、証もないうちから家臣を疑うのはおやめください」
信賢の顔が険しくなった。
「伏兵のことを知っていた者がいる。それが清洲へ漏れたと考えるのが、それほどおかしいか」
「おかしいとは申しておりませぬ。ただ、それだけが答えとは限りませぬ」
河村は静かに続けた。
「もし清洲が自ら伏兵を見抜いたのであれば、我らが互いを疑うことこそ、相手を利することになります」
「では、裏切り者がいるかもしれぬのに放っておけと?」
「そうではございませぬ。調べるのであれば、確かな証を得てからにすべきかと。疑いだけで味方を捕らえれば、何もしていない者まで次は自分かと思い始めます」
信賢は何も答えなかった。
その沈黙を見て、河村はわずかに表情を曇らせる。
「殿。今ここで家中が割れれば、清洲と戦う前に岩倉が崩れます」
「……もうよい」
信賢は低い声で言った。
「下がれ」
「殿」
「下がれと言っている」
河村はしばらく信賢を見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
部屋を出た河村は、閉じられた襖を一度だけ振り返った。
信賢を支えなければならない。
だが、その信賢自身が家臣を信じられなくなり始めている。
河村には、それが昨日の敗戦以上に危険なことに思えた。
その日の午後、景継は清洲城の一室で、昨日捕らえた岩倉兵と向き合っていた。
男は二十代半ばほどで、肩に深い傷を負っている。治療は受けているが顔色は悪く、景継を見る目にも強い警戒が残っていた。
「名前は?」
「答えなければ殺すか」
「殺しませんよ」
「信用できぬ」
「昨日殺さなかったのに、今日になって殺す意味があります?」
男は黙り込んだ。
景継は少し困ったように笑う。
「岩倉の秘密を聞こうとしているわけではありません。一つ、聞きたいことがあるんです」
「何だ」
「昨日、逃げ道が開いた時、どう思いました?」
男の目がわずかに動いた。
「林へ戻れる道ができた時です。それまでは、私たちが退路を塞いでいましたよね」
しばらくの沈黙の後、男が小さく答えた。
「……助かったと思った」
「その前は?」
今度は、さらに長い沈黙があった。
「死ぬと思った」
「だから戦ったんですか?」
男は景継を見る。
「他に何ができる。前には敵がおり、後ろへ戻れぬのなら、戦うしかないだろう」
景継は静かに頷いた。
昨日、自分が戦場で失敗しながら学んだことと同じだった。
人は死ぬしかないと思えば最後まで戦う。しかし生きる道が見えれば、その道を選びたくなる。
そして、それは戦場だけの話ではない。
「岩倉も同じか……」
「何?」
「いえ、少し考えていただけです」
岩倉に残る家臣たちも、他に生きる道がなければ信賢に従うしかない。どれほど不満があっても、岩倉を離れれば自分や家族が生きていけないと思っている限り、そこに留まる。
しかし、もし清洲へ来ても生きられると分かれば。
岩倉に残って最後まで戦う理由そのものを失わせることができるかもしれない。
「そういうことか」
景継の口元がわずかに上がった。
男が怪訝そうに見る。
「何を考えている」
「昨日、あなたたちから教えてもらったことです」
「我らが?」
「はい。戦場で教えてもらいました」
景継は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「待て。俺をどうする」
「傷が治ったら決めます」
「岩倉へ返すのか」
景継は少し考え、逆に尋ねた。
「帰りたいですか?」
男は答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
夕方、景継は再び信長のもとを訪れた。
「何だ」
「一つ思いつきました」
「休むのではなかったのか」
「そのつもりだったんですが、思いついたものは仕方ないでしょう」
信長が呆れたように笑う。
「それで、今度は何をする」
「岩倉の人たちに、逃げ道をもっとはっきり見せたいと思います」
「また離反を誘うのか」
「似ていますが、少し違います。今度はこちらへ来た後のことまで見せるんです」
景継は地図上の岩倉周辺を指した。
「清洲へ降った家については、領地をすべて奪わないと約束してもらえませんか」
信長の目が変わる。
「全部残せというのか?」
「いいえ。何をしても許すという意味ではありません。ただ、清洲へ降れば家も領地もすべて失うと思わせないことが重要です」
岩倉に残れば、負けた時にすべてを失うかもしれない。しかし清洲へ降っても同じなら、今いる場所で戦うしかない。
「昨日、私が伏兵の退路を完全に塞いだ時と同じです。逃げる場所がないと思えば、相手は死ぬまで戦います」
「ならば、逃げる場所を作る」
「はい。清洲へ来ても家は残る。領地もある程度は認められ、命も取られない。それが分かれば、岩倉のために最後まで戦う理由を減らせます」
信長は地図を見つめた。
「甘いと思いますか?」
「いや。城を力ずくで取るより安い」
景継は少し笑った。
「そういう考え方、好きです」
「お前に言われたくない」
二人がわずかに笑った、その時だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「申し上げます!」
「入れ」
使者が息を切らしながら部屋へ入ってくる。
「岩倉より知らせにございます」
景継の表情が変わった。
「また誰かがこちらへ?」
「いえ。織田信賢殿が、城内の家臣二名を捕らえたとのことでございます」
部屋の空気が変わった。
「理由は」
「清洲への内通を疑われたとのこと」
景継はゆっくり目を閉じた。
予想していたことが、思っていたより早く始まった。
そして岩倉では、河村が恐れていたことが現実になっていた。
「二人だけですか」
「今のところは。ただ、それを受けて岩倉方の家臣数名が城を離れようとしているとの話もございます」
信長の口元がわずかに上がった。
しかし、景継は笑わなかった。
これまで清洲が外から作ってきた疑いに、昨日の敗北と伏兵を見破られた事実が加わり、今度は信賢自身が疑いを大きくしている。
「信長様」
「何だ」
「待つのは、そろそろ終わりかもしれません」
「どういう意味だ」
景継は地図の岩倉城を見つめた。
これまでは清洲が働きかけなければ動かなかった。周囲の国人を迷わせ、森川や堀田のような家臣を離反させ、信賢に味方を疑わせてきた。
だが、ここからは違う。
岩倉の内側だけで、崩れ始める可能性がある。
「城はまだあります。兵も残っていますし、信賢様も健在です。今すぐ岩倉がなくなるわけではありません」
景継は岩倉城の駒へ指を置いた。
「でも、中にいる人たちが『ここに残っても生き残れない』と思い始めたら、城壁が残っていても、その城を守ろうとする人間はいなくなります」
信長の目が細くなった。
「城が城でなくなる、か」
「はい。まだそこまで行ってはいません。でも、その入口には立ったと思います」
信長はしばらく岩倉城の駒を見つめた後、清洲側を示す駒を一つ手に取った。
そして、岩倉城のすぐ近くへ置く。
「景継」
「はい」
「次は待たんぞ」
景継も、その意味を理解して表情を引き締めた。
「分かっています。次に動く時は、昨日のような小競り合いでは済まないでしょうから」
初陣は終わった。
だが、景継が戦場で学んだことは、そこで終わるものではなかった。
敵を倒すことだけが戦ではない。一度の勝利によって周囲の国人が動き、敗れた側では疑いが生まれ、それまで主君に従っていた者たちが、自分の生き残る道を探し始める。
槍や矢が止まった後にも、勝敗は別の場所で広がり続ける。
そして今、その流れは岩倉城の内側にまで届こうとしていた。
景継は地図の上に並んだ二つの駒を見つめた。
清洲と岩倉。
長く尾張を二つに分けてきた最後の大きな壁を前に、これまで積み重ねてきた策のすべてが、ようやく一つの決着へ向かって動き始めていた。




